ブログ目次

あちこちエントリが散らばって読みにくいので、ここを目次的なページにしたい。

朝鮮半島関連
1.併合以前の朝鮮半島
「漢字・ハングル混じり文の考案は福沢諭吉」説の真偽韓国併合以前のハングル使用「叩頭」とは頭を地にたたきつけることだ、という嘘併合前から朝鮮半島では米を食べていた倉山満とかいう”憲政史家”について併合前・後の朝鮮半島の人口について併合前朝鮮に染料は無く衣服は白だけだった、という嘘併合前朝鮮で女性や奴婢に名前が無かったという嘘中国大陸と人糞(途中)
2.併合経緯
日本は朝鮮を侵略していないというウソ 1894年 朝鮮王宮を武力占拠日本は朝鮮を侵略していないというウソ 1905年 伊藤博文が韓国皇帝を脅迫し、第二次日韓協約=保護国化を強要乙未事変(朝鮮王妃閔妃殺害事件)内田定槌証言韓国併合時の全権委任状・条約案は日本の自演倉知鉄吉「併合という言葉は俺が考えた」の真偽併合前、韓国の反日世論「伊藤博文は韓国併合に反対だった」というウソ「韓国側から併合を願い出た」というウソ(1)池田信夫氏「一進会の合邦運動に百万人署名」の真偽福沢諭吉の朝鮮・中国蔑視第3回韓国併合再検討国際会議のおかしさ
3.「植民地」かどうか
植民地に関する著名人ら発言一覧日韓併合は植民地支配ではない、という嘘(1)日韓併合は植民地支配ではない、という嘘(2)日韓併合は植民地支配ではない、という嘘(3)日韓併合は植民地支配ではない、という嘘(4)欧米植民地の様々な呼称
4.植民地支配の実態
敗戦前、内地・朝鮮の食糧配分方針「内地第一主義」植民地朝鮮における日本語強制、朝鮮語授業廃止植民地朝鮮で米を作らせ内地で食う、朝鮮人には雑穀を食わせる、という政策植民地朝鮮の農政の実態(途中)植民地朝鮮の実情を記した当時の資料(1)植民地朝鮮の実情を記した当時の資料(2)植民地朝鮮の実情を記した当時の資料(3)「朝鮮は資源が無く植民地にする価値が無かった」説の真偽「植民地朝鮮の警察は8割朝鮮人」の真偽植民地朝鮮の同化政策(途中)池田信夫氏「朝鮮人徴用者は終戦時245人」の間違い朝鮮半島での労務動員はただの「徴用」、というウソ日本の朝鮮蔑視・差別に言及した戦前資料戦時下植民地朝鮮の実情を記した報告書全文公文書や当局者ら発言に見る朝鮮人労務者「強制」植民地朝鮮での「志願兵」「女子挺身隊」以外の公的募集・動員池田信夫氏らに読んでほしい創氏改名・志願兵強制についての帝国議会質疑
5.欧米植民地との比較
欧米植民地の教育制度欧米植民地の人口第二次大戦、英領インド軍の現地人将校(途中)英領インド出身の英国国会議員

従軍慰安婦
1.戦前売春文化
戦前日本の誘拐多発戦前日本人の海外売春(1)戦前日本人の海外売春(2)戦前日本人の海外売春(3)従軍慰安婦資料集(4)戦前公娼制の実態戦前の内地・朝鮮の公娼関連統計【慰安婦】娼妓契約に加え前借金契約も無効とした戦前の判決例
2.軍の主体的関与と性奴隷実態
3.「従軍」について
4.「挺身隊」について
5.河野談話
6.その他

戦前日本
1.日中戦争
2.太平洋戦争
3.戦犯、東京裁判
4.旧日本軍関連
5.右翼思想
6.その他

日の丸君が代

9条、憲法
手榴弾は弾薬で武器ではない、というウソ
 
時事

1.経済
2.2011年震災
3.その他
アベノマスクのおかげで使い捨てマスクが出回るようになったという嘘旭日旗が問題視されたのは2011年だ、という嘘旭日旗とは何か、その使用例ライダイハン の真相、日本との類似皇族にくだけた言葉使いをした戦後の例【安倍】「国難突破」戦前の用例「歴史戦」「人口戦」という産経語(?)と戦前の類似【北朝鮮】ロケットかミサイルか 海外報道の表現例北朝鮮拉致をめぐる興味深い2002年記事では援助交際率は何%なのか「韓国の反日が日本の嫌韓を生む」説の真偽【東シナ海ガス田】中国に甘かったのは誰か【村山談話】和田政宗議員と藤岡信勝氏のための「疑うべくもない」用例「猿に王女の名前をもらうのは失礼」説の真偽萱野稔人という”哲学者”について【辺野古 菅発言】「粛々と」の意味変遷【都構想の嘘】「都制と首都は無関係」というウソ【プロ野球ファウル訴訟】自民党・萩生田光一議員発言について「曽野綾子は強制隔離など言ってない」という擁護論の当否【イスラム国湯川・後藤氏事件】池内恵・東大准教授の外務省擁護について朝日新聞が御嶽山を御岳山と誤表記誤報した、という誤解朝日が「特許が無条件に会社のものとなる」と誤報した、という誤解【火山災害デマ】民主党政権の仕分けで御嶽山観測予算没収したというデマ自虐とは何か 世界一分かりやすい定義愛国心・右翼・左翼とは 世界一分かりやすい定義

敗戦前の石原莞爾の主張

資料には「石原中将」としか書いてないが、「中将」「日蓮宗」「余等現職なきもの」から石原莞爾と考えられる
「極秘」印
石原中将閣下訪問記 昭和二〇・七・六 宝田中佐

問 日蓮宗御題目の真意承度
答 宇宙の真理を総合表現せるものなれば即答し難し

問 立正安国論の主意を承度
答 心正しからざれば国保ち難き主意なり
方今我国の状態は誰が悪い彼が悪いと言ふ事はなけれど人心の紊れあること古今未曾有なり此儘にては到底我国が救はるべしとは思ひ得ず
軍に対し官に対し既に民心は離れあり又軍に必勝の信念なきことは自ら民間に知れ亘れり
米英流の考へ方及組織を一擲して凡ゆる面の単純化を強行せざる限り我国を救ふ道なし
現在の状態を以てするなら降伏は一応常識的考へ方ならん若し前記の大英断を前提とせば勝利の見込なしとせず

問 閣下の本土決戦論承度
(※答)大都市を徹底的に空虚ならしむべし例へば東京都民四百万を秋田、山形、新潟県等(割当人員を具体的に説明せられたるも忘失)の農家に強制的に割当し無害貨車にて輸送の上到着翌日より農耕に従事せしむべし東京都には政府のみ残留し各機関毎に某区域の家屋を広く占領し徹底的に分散すると共に必要に応じては居住区域を変換すべし
軍需産業を単純化すべし
飛行機は単純なる特攻機に徹底すべし該機は木製機にして到る処の村落にて家庭工業式に生産を分担せしむべし主要部分は洞窟内にて生産すべし突撃時の速度は八百粁以上とし敵上陸を予想する各地に備ふる為と一艦十機命中を目標とする為厖大なる数量を必要とす
乗員は恋人を失ひたる女性たるべし此等の人々を特攻員として送るは慈悲なり
対戦車砲を無数に造るべし
沖縄地上戦に於て我軍を最も悩したるものは敵戦車と思はる萱場製作所に於て無反動軽量の対戦車砲を研究しありしが如何なりしか
平時的輸送機関は使用不能なるべきを以て狭隘なる地上より垂直に上昇し重量物の運搬並に連絡に当るべき龍巻飛行機(龍巻が家屋を捲上ぐる原理によるもの「蓋しヘリコプター類似のものならんか」)を実現すべし
自動操縦ロケット弾の研究を促進し敵機を撃墜すべし
液体空気爆薬の実用に関し研究を促進すべし
民間の発明研究を重視すべし軍技術関係者が之が援助に於て欠くるところあるは遺憾なり
本土決戦の様相次の如し
本土決戦迄に大都市は勿論中小都市に至る迄壊滅すべし交通線は寸断せらるべし地上の工場は機能を喪失すべし
決戦は先づ特攻機に依りて開かるべし此際徹底的に敵艦船を覆滅すべし陣地は対戦車的考慮を絶対に必要とす敵の最初の上陸点は我軍の集結に不便なる如き地方例へば四国とか九州南端等なるべく斯かる地区より空軍の傘を張り自信を得るに至らば九十九里浜等に大規模の上陸を試ることあるべし
海岸に於ける作戦の状況に依りては一●複廓陣地に後退することもあるべし
此陣地は中部山岳地方を予想す此陣地は歩兵を主とせる日本最精鋭の軍隊(閣下は東北兵を精鋭なりと考へあらるゝが如し)にて守備せしむべし
我国は外国と異り兵器数に依りて兵数を左右せらる烏合の衆を此陣地帯内に入るべからず百害ありて一利なし一般国民に役にも立たず竹槍手榴弾を支給することは慎むべし独逸が急に破れたる原因斯にありと思はる情報に依りて精査すべし有象無象に兵器を持たす時は勝手な行動を取るに至り統制に服せざるものなり戦況に応じ機を失せず少数の政府機関と共に御遷幸の事を奏上し奉るべし之が為予め飛弾〔ママ〕地方等に皇居を準備しあること必要なり
余等現職なきものは地方民衆と共に一応降伏するも面従腹背手段を尽して複廓陣地の皇軍に呼応すべし

問 沖縄奪回の可能性に就て閣下の御意見承知致度
答 奪回の見込みなからん 見込ある位ならば敵に渡さざりし筈なり唯沖縄の地上軍が逆襲以後急に弱りたる状況あるを遺憾としあり又空挺隊の派遣が此逆襲と同時に行はれざりしを遺憾とす

付記
閣下の一語一語は深い御思索の結果による御新年の迸りであることは言外の御態度で察することが出来ました 而して自分の如き若輩が予告もなしに面会を御願して厚かましくも国家の大事に関する御高見を伺ひ得たるは寧ろ私以外に対する閣下憂国の赤誠の披瀝であると信じ御話をありのまゝ御伝へする次第であります
https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/C15120121500

江華島事件 測量か水の補給か

1875年江華島事件で日本の軍艦「雲揚」が何のためにそこに行ったのかだが、測量、水の補給の2説がある。以下資料を時系列に並べたが、水の補給という主張は10月8日の井上良馨艦長帰京以降で、それまでは測量だった。
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朝鮮興化島釜山を離るゝこと陸地直径九十里京城の河口にある離島なりへ二十日到着端舟を卸し測量せし所へ彼より大砲小銃を暴発したり何故砲発せしか上陸尋問せんとすれども彼砲発励しき故不得已当艦より大砲小銃を発し上陸彼の大砲三十八其外小銃品々持帰る城は焼失手負水夫二人。一人は療治不叶電信にては委細申出難し故に米国郵船より帰京の上申出度に付大至急御指令可被下候
九月二十八日午前十一時廿五分 長崎 雲揚艦長 井上海軍少佐
河村海軍大輔殿

https://www.digital.archives.go.jp/file/3038837.html(2画像目)
https://www.digital.archives.go.jp/file/3034775.html(1画像目)
※両者で細かい表記の違いあり
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上の文書に後から付けられた付箋
本文測量せしとあるは今般井上少佐帰京事実上陳の書に探水と有之に付測量の文字は全く電信暗号の誤解に候事
https://www.digital.archives.go.jp/file/3038837.html(1画像目)
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長崎県令宮川房之から太政大臣三条実美宛の電文

九月廿八日午後七時二十五分
我雲揚艦朝鮮かいかのみやこへ、とをるりをる、がわ、去廿日バッテイラにて測量の折、彼れ台場より砲発遂に戦となり翌廿一日未明本船を進め陸戦となり台場を乗取り砦人家を焚払ひ彼れ敗走離散因て海軍少佐井上彼地引揚今日入港す釜山にて森山未だ知らざる故押切り漁船にて報知せり春日艦修覆出来今日試乗あり右上申
https://www.digital.archives.go.jp/file/629030.html(3~5画像目)
https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/C08052367300(1・2画像目)
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長崎県令宮川房之から寺島宗則外務卿大久保利通内務卿宛の電文

九月廿八日午後十一時
雲揚艦、朝鮮海測量中彼れより発砲戦となりたる次第委細政府へ言上せり。就いては対馬人民七十四名退韓するあり。若し彼の国より暴挙も計り難く、速かに引上げたく蒸気船雇入れを許し有度(※適宜漢字表記に改めた)
https://www.digital.archives.go.jp/file/629273.html(1・2画像目)

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同月(※9月)二十日、天気晴。午前第八時三十分同所抜錨、第十時永宗城の上に鷹島(海図カットル島)を北西に望み錨を投ず。而後測量及諸事検捜且当国官吏え面会万事尋問をなさんと、海兵四名、水夫拾人に小銃をもたらし、井上少佐、星山中機関士、立見少尉、角田少尉、八州少主計、高田政久、神宮寺少尉補、午後一時四十分端艇を乗出し江華島に向け進む
同島より海上一里程の前に一小島あり。此島南東の端に白壁の砲台あり(是を第二砲台と記す)。四時七分此前面に到りしなれ共兵備更になく、人家僅かに七八軒あるを見認たり。
同時二十二分江華島の南端第三砲台の前に至れば、航路狭少にして岩礁等散布し、又海岸の少し小高き平坦の地に白壁の砲台あり。陣営の如きもの其中にあり(水軍防営ならんか)。夫より一段低く南の海岸に一の強台場あり。此所は勇敢の兵を以て之を防御するときは実に有到要害の地位と見認たり。
此所へ上陸せんと思へ共日も未だ高く依て今少し奥に進み帰路上陸に決し、同三十分右営門及砲台の前を已に経過せんとするとき、端艇を目的とし彼れ営門及砲台より突然大小砲を乱射すること陸続雨を注ぐが如し。暫く挙動を見合と雖も進退終に此に究り、故に不得止我より亦其日用意の小銃を以て之に応じ、暫くは打合に及びしなれども、何分彼は多人数にして且砲台より大小砲を乱射す。我は唯小銃十四五挺のみなり。仍て之れと競撃すれ共益なし。故に一先帰艦の上本艦を以て之に応ずるに不如と、同時五十七分発砲を止む。然れども彼尚砲台に兵を配置し発砲すること一層過烈なり。第五時に至って漸く止む。第九時、一同無事にして本艦に帰る。
同月廿一日、天気晴。午前第四時惣員起揃、蒸気罐に点火す。第八時檣上に御国旗を掲げ而後分隊整列、抑本日戦争を起す所由は一同承知の通り昨日我端舟出測の時第三砲台より一応の尋問もなく乱りに発砲し大に困却す。此儘捨置くときは御国辱に相成、且軍艦の職務を欠可きなり。因て本日彼の砲台に向け其罪を攻んとす。一同職務を奉じ、国威を落さゞるやう勉励し、且海陸共戦争中惣て粛静にして万事号令に従ひ不都合なきやう致すべく旨、数ヶ条の軍法を申渡し、終て戦争用意を為し、第八時三十分抜錨、徐に進み、砲員其位置に整列す。(以下略)

※「出測」の用例
海軍省報告(年報) 自 明治十四年七月 至 全十五年六月
仝五月廿三日 嚮に全国海岸測量の命を得目下陸州石の巻寒風沢辺の海岸出測の一行をして該岸成測の後(98頁)
海軍省報告(年報) 明治十九年
風浪益々烈しくして急に成功の望なきを以て其岸測山画を全ふし只錘測すべき区域五分の三を残して中止せり而して其未成の錘測は明年出測の途次将に之を追測せんとす(251頁)

朝鮮理事日表

同ニ十九日晴(※9月29日) 
午前八時平戸午前八時平戸海峡を経て午後六時長崎に入港上陸して石灰町本山某の家に宿し直に電線を以て着崎のことを本省に告んとす時に本県大属上村直則来り昨日雲揚艦朝鮮より帰り来り其話に本月二十日本艦測量の為め京幾道江華島に沿ひ漢江に入り脚艇を下して河流を泝るに彼れ妄挙我日旗を砲射せり故に即時艦中に令して暫らく答砲して本艦に帰る翌二十一日本艦の三檣に日章を掲げ我大日本船たるを表し砲台の下に進め昨日妄挙の情を問はんとす然るに彼れ又砲撃すること初めの如し故に我之れに応ずと雖も河流湍急にして(以下略)
https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/B03030133200(30~32画像目)
文書名 _B03030133200.b10003.1-0026.00000344_ページ_1 - コピー
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東京日日新聞9月30日
日本の軍艦なる雲揚艦は、朝鮮の某港に投錨し、去る廿一日その端舟を卸して海岸の測量をして居たる処に、朝鮮の台場より突然と発砲したるに付き、雲揚艦よりも答砲を発し、兵を率ゐて上陸し、右の台場を乗取り、陣営ならびに人家を焼払ひ、其旨を森山繁君に知らせ置き、直に長崎まで引上げたるよし。一昨廿八日の夜七時ごろ電信にて長崎より政府へ報知ありし趣を、昨日より市中にて専ぱら風説あり。

十月十日 露国駐箚榎本公使より寺島外務卿宛
江華島事件の報知了承の旨並に右に関し意見上申の件

以公信致拝啓候然は九月三十日午後六時東京発線の秘号電信翼日(十月一日)午後七時当公使館え相届き御差図通り即刻我諸公使館え電達いたし候御申越の電文は通例の通途中一二の転訛を免れず候得共左の意味に了解致候
(朱書)
「当月廿日我軍艦朝鮮ミヤコ近辺の海岸測量の時彼より発砲せり故を以て翼朝其趣意を糺さん為め船を進めたり再び発砲遂に交戦に及び我兵上陸台場を破毀し引上げ帰れり」(以下略)

八年九月三十日 地方官へ御達
先般我雲揚艦朝鮮国東南海岸回艦の末猶又猶又西海岸より支那牛荘辺へ向け航海の次九月廿日同国江華島辺通行の処不図彼れより砲発に及び候に付上陸し其所由可及尋問の処彼れ砲発益励しき故不得止同艦よりも発砲し次日遂に上陸台場を乗取り兵器を分取り我水夫二名手負有之長崎港まで回艦の趣電報有之候此旨為心得相達候事
https://www.digital.archives.go.jp/file/629275.html(1画像目)
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理事官外務少丞森山茂
一 朝鮮国と我測量船と相砲撃したる趣に付我在韓の人民鎮静保護の為長崎表より引き返し再渡可致旨電信を以て指令に及び更に心得方申遣候事
一 若し彼我官民を退去せしむべしと言はゞ其主意彼政府より発したる旨を記載したる書面を取り之を上申して可待指令妄りに退去せしむ可らざる事
一 若し彼我官民に迫り疎暴の挙動あらんとする勢状を見ば春日艦長と協議し人民損害なき様可取計事
一 何れの模様に出るとも現場の巨細を遺さず詳かに上報可致事
右指令候事
明治八年十月一日 外務卿寺島宗則印
https://dl.ndl.go.jp/pid/1450191/1/72

郵便報知新聞10月2日
社説
○我儕が常に国家の為めに憂慮する朝鮮の事件は、今や我儕の心胆をして寒からしむるの形勢に変遷し来れり。我儕は去月廿九日に於て朝鮮云々の巷説を聞き得たり、然れども我儕は其謬伝あらんことを恐れ敢て之を世に公にせず、其事実を精究するに及んで尋常の巷説に非ずして疑ふべからざるの実説なるを聴き得たり。故に我儕は其事実と意見とを陳べ、世間に向って陳叙することあらんとす。
 聞く、長崎より発したる電報は、廿八日夜七時、我政府に達したりと。我儕は其電報の確然たるを知り得たり。然れども瑣末の事に至っては、或は誤謬を免れざるあらん。故に我儕は今、我儕の聞ひて以て確実とする所の者を挙げんに、我雲揚艦は朝鮮の京城に接近せる江華近海に投錨して、去る廿一日小舟を以て江華湾を測量せしに、海岸の砲台より発砲したるにより、雲揚艦は之に応じて戦を開き、兵を率ひて上陸し、其砲台を乗り取り、大小砲併せて七十挺余を分捕りせり。我水夫の即死せるもの一人あり。曾て我政府の命を奉じて朝鮮に使せる森山茂君は、去る廿九日を以て長崎に着せりと聞く。森山君の長崎に帰りしは雲揚艦より報知ありしに非ず。向きに已引上の議論起りて遂に決議し、帰国したるに、偶然此兵端を開くに会へりと。
 或は曰く、朝鮮近海を測量することは我政府より朝鮮政府に通暢したるに非ず、且江華湾へ舟を入るるは朝鮮政府より兼て断りありしに、我測量船の漫に湾中に入込みしを以て、曲我に在りとして此挙動に及びたるなりと。
 巷説によれば、日本政府は海軍に令して軍艦の修復を急にし、更らに陸軍に命ずるに検閲使をして速に其事を了らしむべきを以てせりと。
 我儕は征韓の一事に付て弁論数回に及びたれば、世人も此事に就て、我儕の持説は了知たるべし。然れども今事已に此に迫るときは我儕更らに平生の持論を弘張せざるを得ず。怯と呼び惰と呼ぶも人評に任せ、我儕は国家の為めに敢て怯惰の醜名を避けざるなり。我日本政府が兵を朝鮮に用ゆるを以て、策の得たる者とせざるは、我儕の万々保証する所なり。仮令海陸軍をして戒厳せしむるも、故らに兵を用ひんと欲するに非るや明なり。必ずや軍備を整斉して已むことを得ず、戦を布告するの需要に応ぜんと欲するならんか。且夫政府社会の際に立って国用の究乏を熟知せるものは、仮令兵を用ゆるの名義、期望両ながら我に在るも、軽々事を挙るの良作に非るを知らざるものあらんや。故に我儕は我日本政府の決して戦に出でざるを知るなり。然れども我儕は我政府の主旨に悖りて、戦を主張するものあるを恐るゝ也。今此輩の我国の社会中に一党派をなすを憂へて、為めに一言なきを能はざるなり。

江華島事件に関し報知の件
八年十月三日付にて達す
別啓 各公使へ別啓案
九月廿日我雲揚艦朝鮮国都近海江華と申辺へ航行小艇を下し測量致候処同国砲台より砲発致候に付其所以相糺しの為相迫候処砲弾頻に飛来り候ゆへ其日は引揚げ翌廿一日に至り懸合の為再び進艦致候折柄又候砲発致候より無拠砲門を開き答発致し終に上陸砲台焼払大小砲三十六挺分捕り長崎迄引取候趣同処より電信の報知有之此段不取敢去る九月三十日付暗号電を以て申進義に有之候右に付本艦々長井上某は事実報告の為至急上京下命相成候に付不日着京可致其上にて詳細の義相分可申且森山少丞義は草梁館在住の我人民の保護丈の指令致置春日艦も非常の節の為同所に趣き申候尤猶委曲次便可申進候へども先右の件々申進置候也
十月 外務卿寺島宗則

郵便報知新聞10月5日
〔使府県へ〕先般我雲揚艦、朝鮮国東南海岸回艦の末、猶又西海岸より支那牛荘辺へ向け航海の次、九月廿日同国江華島辺通行の処、不図彼れより砲発に及び候に付、我水夫二名手負有之、長崎港まで回艦の趣電報有之候。此旨為心得、相達候事。
明治八年十月三日 太政大臣三条実美

10月8日付雲揚艦長井上良馨の報告書

朝鮮航海の節我雲揚艦彼より暴挙の始末帰京の上委細上陳可仕旨先般長崎港迄の電令を奉じ昨七日米脚船コスタリカ号より帰京に付事実上陳する如左
下官儀

先般対州海湾を測量せし後朝鮮東南西海岸より支那牛荘辺まで航路研究の命を奉じ出艦す而後東南海岸航海既に終り西海岸より牛荘に到んとする途上艦中の蓄水を胸算するに牛荘着港の日まで艦裏に給与し難き故に艦を港湾に寄せ良水を蓄積せんと欲すと雖も当艦は不俟言我艦船未曾航の海路にして良港の有無海底の深浅審ならず故に既刊の海図を展観研究するに特り江花島の辺京畿道サリー河口のみ概略の深浅を記載するの便を得針路を同方位に転じ九月十九日贅月尾島島名に沿ひ投錨す翌日同処抜錨江花島に向ひ航行し鷹島を北西に望んで暫時投錨す固より此近海は未航未開の地なるが故に士官をして探水或は請水せしむるも心自不安親く端艇に乗り江花の島南を航し河上に泝り第三砲台の近傍に至る航路狭少岩礁最多し河岸を嘱目すれば則一小丘に陣営の如きあり又一層の低地に一砲台あり此辺に上陸良水を請求せんとし、右営門及砲台前を航過せんとするや突然彼より我端艇を目的とし銃砲を交射する事尤激烈吾速に艇の挙動を制し彼が弾路を避んとす然れども本艇の泝水するや流潮の河流を圧するの力に乗ずるを以て回艇せんとするや逆潮に阻られ又上陸して其所為を尋訪せんとするや弾丸雨注航路を不得進退殆窮り危険愈迫る於此志を一艇防御一身保護に決し水夫に命じ小銃を彼砲台に発射せしめ備来るの号火を発し危窮を我艦に報じ徐々に退航す(中略)
明治八年十月八日 雲揚艦長海軍少佐井上良馨

朝野新聞10月9日
朝鮮戦争の景況少しく詳なる報を左に記す。去る火曜日の暁に、日本軍艦雲揚号は、朝鮮より帰着せり。我輩が長崎新聞に因て知り得たる所は、去月二十日彼国海岸を測量するの際、朝鮮の砲台より雲揚艦に向て砲撃せしに依り、同艦直ちに之に応じ、双方より放射すること凡そ三十分時にして休む。翌日海兵を上陸せしめて一の砲台を襲撃したれども彼れより砲撃すること殊に烈しく近寄ること能はず、其翌日(即ち廿二日)海兵再び上陸して右の砲台を攻撃せしが、此度は難なく之を乗っ取り、砲台中の陣営並に其近傍の家屋を放火したり。戦闘終って後、其地を検せしに、朝鮮人三十人の死体あり、而して其他は多く海中に飛び入り溺死したり。虜となしたる者十人、大砲三十六門、旋条銃十挺及び其外の諸物を分捕りせり。日本人は死者一人有り、又他の一人は重傷を蒙れり、右はライジングサン即ち長崎横文新聞に載す所なり。

郵便報知新聞10月9日「朝鮮江華島事件
先日より待ち受けたる井上少佐君は愈々一昨日七日帰朝して朝鮮一条の詳細を復命せられた由なるが委しきことは未だ新聞屋は聞き出さざれ共、巷説の儘を挙ぐれば大略左の如しといふ。
九月二十日雲揚艦は江華湾に入り一の台場の前に投錨して端舟を浮べ測量の為め二番三番の台場の方に上り(一の台場より三の台場迄の距離大凡三里許と云ふ)三の台場の前に至りし折柄朝鮮人は直に発砲せしが我端舟は固より小銃の備へも乏しく之を如何ともす可らざるに依り直ちに引返して本艦に達したり(以下略)

明治八年十月九日於本省寺島外務卿英公使ハークス応接記
朝鮮暴発一件
一雲揚艦船将井上氏御着の趣朝鮮戦争の詳説承度候
一我雲揚艦牛荘辺へ通航の砌九月廿日朝鮮江華島之近傍に碇泊し飲料の水を得んが為端船を卸し海峡に入る第一砲台周囲凡我二里程周囲城壁を築き四門を開けり城兵凡五百余名城中家屋は皆兵営の様子なりの前を過ぎ第二第三砲台の前に至る(以下略)

朝野新聞10月12日
長崎より新報書簡の写
○九月二十日朝十時、朝鮮京畿道サリイ河にて、日本軍艦雲揚艦測量哨船に、第三砲台より大小銃乱発、哨船より小銃を以て応砲、其後本艦より大砲を発し半時間攻戦。
 同廿一日晴、第二砲台をやき、徐徐として第三砲台に進み、砲撃数十分時間、砲台堅固且潮流急にして船の運転不自由に付き休戦。
 ニ十二日朝、払暁第一砲台江華島に進み、攻撃上陸兵三十名を西東両門に進め戦ふ。東門の戦に即死一人、重傷一人あれ共、遂に之を破り乱入す。西門外に火を放ち進撃、本船より大砲実弾を敵城の上に放ち援勢す。永宗城落城、朝鮮兵即死三十余名、生捕十一名、其外海中に落ち死する者無数。分捕大砲三十六門、小銃、鎗、旗、刀、楽器類、城楼の額、太鼓等、許多なり。
 ニ十八日長崎へ帰着せり、森山は一昨日帰崎再び春日艦にて釜山海に昨日出帆せり。

東京日日新聞10月14日
(前略)全体この度の事は、元より不意に起りたる騒動にて、決して我より戦争を起したる訳には非ざるよし、其元はと云へば、航海の途中、薪水食料を求めんが為め上陸せんとしたる隣国の船へ無法に鉄砲を打ちかけるとは、余まり訳の分らぬ韓兵さんだから、高麗の戒しめに成る様にとて、此方からも、手返しをした事と見えます。マアマア上出来上出来、まだ小雑小雑した咄しがありますが、明日申上ませう。

郵便報知新聞10月14日「江華島事件後報

朝鮮の事を井上君が帰りまして委しく話したを書き留めたを人から得ましたゆゑ今一度出します。
我雲揚艦は嘗て政府の命を奉じ針路考案の為め朝鮮国近海を航行し長崎まで帰り来りしが、猶支那国牛荘辺へ向け、去月十二日長崎を発し同二十日、朝鮮国の前方にある江華島の近傍に碇泊し、飲料の清水を求むる為め、小舟を放して海峡に漕入りしが、此地には砲台の設けありて、第一の砲台周囲大凡我二里許の小島にて闔島の四方に壁を築き四門を開き守兵凡そ五百余名、壁内の家屋は皆な兵営ならざるは無し。第二の砲台は第三に接近し此二砲台は第一砲台を距る遥遠なり。而して、第二砲台は守兵あらざると見え更に人影を見ず。第三は巨大の砲台にして墻壁を築き、壁に砲門を設け、其備る処の大砲は凡そ三十二斤の真鍮砲なり。我小舟は第一の砲台の前面を過ぎ第二第三の砲台に近づく時、頻りに韓兵の城内を出入するものありしが、突然小銃の一声を聞くと雖も更に意とせずして、益々其島岸に近づきたりしが、復び一声の発すると斉しく、各砲門を開き、我小舟に向って大小砲を乱発し、岸に近づかしめず。(以下略)

11月4日付、外務少丞森山茂が作成した、事件に関する外交用文案

…乃ち試に大使間議旨趣案を草する左の如し
…我軍艦の清国に航する者路を貴国の近海に取り会ま水に乏しきを以て之を其海岸に求むるの際一言以て来意を問はず忽然炮撃我国旗を汚辱し我人民を殺傷す実に是九月二十日の事に係る(以下略)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1450191/1/73

明治八年十二月九日寺島外務卿米国公使ビンハム氏との対話

先般我国軍艦彼地方へ寄せ水を乞受けたる所もあるに江華島にて彼より暴発したる故兼て彼へ示し置きたる旗章を三本迄引揚たれども之に不構連発せし故無拠我軍艦より之に対へたるなり

同日寺島外務卿魯国公使ストロウヱと同上の事件に付対話
我船支那海へ航する途水に乏しく之れを得ん為韓地に近づく処一語を交へず砲撃を受如斯にては…(155頁)



外国人の見た昔の日本(途中)


ゴンチャロフ「日本旅行記」

腰に二本の刀を差す権利は、凡ての者には与へられてゐない。これは上層階級と士官のみに与へられた名誉である。兵卒は(刀を)一本だけ差し、平民階級は全く差してゐない。それに平民は裸体で歩いてゐるから、冬にでもならなければ差すところも無いわけである。(11頁)

此の地(長崎)では、下層民の集まりを見ると大抵第一に眼につくのは裸体だが(109頁)

私は終日望遠鏡で家屋や村落を眺めた。茅屋や、壊れた台に載せたつまらぬ砲台も残らず見物した。茅屋の内部も見た。窓は無くて出入口だけである。裸かの男や女を見たー女も腰から上は裸かである。彼女等は青い簡単な腰巻をつけてゐるのみである。(122-123頁)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1215954

ペルリ提督日本遠征記

一般の人民は、官憲よりは更に一層和親に傾いて居たが、亜米利加人と自由に交通しなかったのは、唯厳罰に逢ふが怖しい許であったらしい。実際の所、彼等は役人から監視せられ、役人は又同僚より監視せられて居たので、殆ど琉球に於けると異ならなかったのである。(222頁)

下田の戸数は略一千戸、住民は七千位で…町内には男女混浴の共同浴場があって、男も女も赤裸々の裸体を何とも思はず、互に入乱れて混浴して居るのを見ると、此の町の住民の道徳心に疑を挟まざるを得ない。…下等社会の日本人は、他の東洋国民に比ぶれば、道徳が遥に優れて居るにも係らず、確に淫蕩な人民である。以上の混浴は別としても、猥褻な捕画(振り仮名「さしゑ」を添へた坊間の文学書類の中に、或階級の人民の趣味と実行とが淫逸にして唯に嫌悪すべきのみならず、全く腐敗し、廃頽した証拠
が歴々と認められる。(271-272頁)
https://dl.ndl.go.jp/pid/992335

グスターフ・シュピース「シュピースのプロシャー日本遠征記」

代価に関する折合は、殆んど出来なかった。…最初には、旗・刀・具足等を購入することは、不可能であった。それ故余り法外な、高すぎる値段が、秘かに与へられた。それから最後に、此の家で是等のものが多量に、最初の代価の三分の一で、私達に提供されたといふことを、私は記憶して居る。(282頁)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1875446

「イタリア使節の幕末見聞記」 (講談社学術文庫)

数多くの巡礼が、この山(※富士山)の麓に出かけて仏道の勤行を行う。…浮浪者のような女たちが山中を歩き回っていて、盲目的な信仰と淫乱とを事とする惨めな生活をしている。(47頁)

日本の商人たちは、実質よりも三割、あるいは五割もの掛け値をつけ、値切られると、半時間前よりもずっと安い値で売り払って平然としている。(120頁)

銭湯は伝染病の原因になっている。日本人は衣類をあまり洗濯しないから、なおさらである。公衆衛生ははなはだ不完全である。(137頁)

僧侶たちは、祈りと苦行と隠遁とによって、宗教のこの聖なる炎を保ち続けている。…彼らの一部の者は洞穴の中に住み、あらゆる快楽を断ち切っているが、肉欲だけは例外である。(142頁)

横浜には日本式の劇場が二、三ある。もっとも、劇場と呼ぶのは大げさで、実は小屋である。…父親も母親も、大きくなった娘も幼い息子も、一緒に面白そうに見入っていた。どんなに下品な、卑猥な場面でも、恥ずかしがる様子はまるでなかった。(144-146頁)

日本社会の最下層を見てみよう。そのためには、横浜のもっともきれいな街に出かけて行く必要がある。ここには、日本政府の官費で作られた大きく広い建物が何棟か並んでいる。この一郭は周囲に堀を回らし、町の他の区域からは隔離されている。ここがヤンキロー(岩亀楼のこと)であり、幼時に売られてきた何百人もの娘たちがいて、税関で取り上げることのできなかった金の一部を、ここで絞りとって政府に献上しているのである。他の国で宝くじやタバコが専売となっているように、日本では色道と売春が国税機関の専売となっている。これら薄幸の女たちは三つの階級に分けられている。第一の女たちは歌をうたうことを業とし、個人の家の宴席などにも一日幾らで雇われる。第二は踊り子、第三は娼婦である。(148-149頁)

どこの寺の近くにも茶屋がある。これは信者や旅人を休ませる旅館でもある。しかし、こういう店には、おいしくて栄養のある料理はなく、魚とまずい野菜ぐらいしかない。(182頁)

正規僧の大半は放埓は生活をしており、僧院内に、彼らの宗旨を奉じる尼僧を置いている。これらの尼僧のうち、禁欲節制の誓いを立てる者は少ない。また、ある者たちは、自分の属する寺院に処女性を売り渡し、寺の財源となっている。(228頁)

未婚の娘が、貧しい父親の手で、妾、娼婦、踊り子、歌い女として一定期間、稼ぎに出されることがある。…人数の多い家族や庶民の家庭では、愛らしい娘を年貢役人の手にゆだねることもある。この種の役人たちは、売春の目的で娘たちに躾をする。(236-7頁)

庶民の間では、羞恥心は弱い。たとえば、公衆浴場では男女が全裸のままで混浴するし、人生の種々相をありのままに演じてみせる劇場は堕落を教える学校である。そこでは、もっともみだらな場面がありのままの形で演じられたりする。しかし、この点に関して、当局はある程度まで良俗を保護しようとして、女性が役者になることを禁止した。(236-7頁)

「シュリーマン旅行記 清国・日本」1864年 講談社学術文庫

(横浜に)上陸するや、人足が二人やってきて…彼らの身体、とりわけ手足はほとんど「かさぶた」で覆われており、ひどい疥癬に罹っている…埠頭に人足は多いが、みな皮膚病を患っていた。(78頁)

日本には他のどの国よりも皮膚病が多い。疥癬を病んでいない下僕を見付けるのに苦労するほどだ。(87-88頁)

公衆浴場は大きな部屋で…老若男女が、いっしょに湯をつかっている。…私の時計の鎖についている大きな、奇妙な形の紅珊瑚の飾りを間近に見ようと、彼らが浴場を飛び出してきた。…彼らは衣服を身につけていないことに何の羞じらいも感じていない。(88頁)

江戸の遊郭はきわめて数が多く…吉原には十万人以上の遊女がいる。しかしどんな遊女でも外に出るには通行証が必要で、通行証を手に入れるためには、相当なお金を用意しなければならない。(91-92頁)

日本人は、家の中でも路上でも、ほとんど裸で暮らす習慣を持っていて、誰ひとりそれがデリカシーに欠ける行為だとは考えない。(137頁)

日本語で大芝居と呼ばれる大劇場へ出掛けた。…このあと軽喜劇がいくつか上演されたが、もし日本人が淫らなシーンに気分を損ねるような観客であったならば、幕が降りるまでとても耐えられなかっただろう。…淫らな場面を、あらゆる年齢層の女たちが楽しむような民衆の生活のなかに…(142-145頁)

ペリー司令官の秘書として、一八五四年〔一八五三年の誤り〕に日本を訪れ、一八五九年以来、江戸に駐在している総領事のポートマン氏は、この首都の人口を、ニ百五十万は超えないだろうと考えている。
ポートマン氏によれば人口の配分はおよそ次のとおりである。
将軍家に属する役人、使用人、家来 ニニ五、〇〇〇人
諸大名とその家来 六〇〇、〇〇〇人
僧侶、医師 二二五、〇〇〇人
商人、職人、漁師、百姓及び船乗り 一一〇〇、〇〇〇人
巡礼者及び旅行者 ニ〇〇、〇〇〇人
娼妓 一〇〇、〇〇〇人
その他クリスチャンなど 五〇、〇〇〇人
総数 ニ五〇〇、〇〇〇人
上記は日本人の数のみであり…
(157‐158頁)

公然であろうと隠密裡であろうとを問わず忌まわしい諜報機構が存在し、しかもそれが大君の政府を支えている。実際、密告は、この政府のもっとも強力な武器である、政府の役人はどこへ行くにも決して一人ではなく、いつも「オメツケ」(直訳すれば「見る目」、すなわちスパイ)と一緒である。…こうした諜報機関が…人々の間に不信感を植えつけ、真実と正直さの発言を不可能にしている。日本人の間で嘘が単なる悪い習慣以上のものになったのも当然である。日本では「嘘」は一つの制度であり、(168頁)

グリフィス「明治日本体験記」(初版は1876年)

日本で最も立派な家は娼婦のものである。政府認可の女郎屋は数エーカーの土地にわたってあるが、そこは首都で最も美しい場所である。(49頁)

外国貿易の開港に先だって、日本人は外国人のために二つの場所―税関と女郎屋を作った。(52頁)

日本ではなるほど集団が腹の立つほどゆっくり動く。十人の武士の旅というと、やたらと眠り、煙草はふかす、茶は飲む。ぶらぶら時を過ごすのが関の山である。役人はもう少し茶をくれ、もう一服煙草をすわせろ、あぐらをかいてもう一休みさせろと叫ぶ。最初、それは見るに耐えない、気が狂っているように思えてこわかった。しかし日本では時は金でなく、二束三文の値打もないことがわかった。(117頁)

今こそ実際に福井を見ることになったのだ。…人びとの貧乏なのと、アメリカの町のきちんとした家並みに比べて、賤しい家々やごちゃごちゃした町の景色に驚いた。…家は木造で、人びとは貧しく、道は泥だらけで、富の証拠を表わすようなものはほとんどなく、すばらしい店など一軒もなかった。(127頁)

暑い時の日本の町では…働く人はよくふんどし一枚になっている。女性は上半身裸になる。身体にすっかり丸味がついたばかりの若い娘でさえ、上半身裸でよく座っている。無作法とも何とも思ってないようだ。(235頁)

日本の大都市の遊女屋には今日どこにでも、いやいやながら上辺だけ立派だがみじめな生活をしていかねばならない娘が何百人といる。(270頁)

「日本には純潔な女はいない」と信じている外国人は少なくない。それは無知な盲信者や無感覚な道楽者が一様に口にするにふさわしい中傷である。(270頁)

吉原はヨーロッパの作家が書く吉原とは全く違って、実は、悲惨、堕落、悪徳の別名にすぎない。そこでは自殺、病気、早過ぎる老齢、自暴自棄、挫折のため数千の犠牲者の生命が無駄になる。((271頁)

天皇が神の子孫であるという教えは、昔は非常に役に立ってきたが、その働きは終った…日本はこのような作り話を止めれば文明の尊敬を受けることになるだろう。(284頁)

新聞の設立はまた…ありとあらゆる道徳の堕落、醜態、犯罪、腐敗が悪臭を放っているという事実を暴露した。普通の日本の新聞の欄(振り仮名「コラム」)にざっと目を通せば、恐怖と猥褻の話が必ず出ている。(286-287頁)

低地の湿原地帯で起る神経痛、悪寒、発熱、またカタルや下痢が、目立つほどではないが多い。神経病は多くない。らい病、象皮病は知られている。また脚気は日本特有である。(289頁)

イザベラ・バード「日本奥地紀行」

公使館の玄関で心優しい人びとの見送りを受けた私たち…よい道ではなく、両側の水路はあいていが汚れていやな臭いがした。書いておかねばならないだろうか?-家々はみすぼらしく粗末で、むさくるしく、しばしば醜悪でさえあった。悪臭は鼻を突き、人びとは何らかの仕事をしてはいるものの、醜く、みすぼらしく、貧しげだった。(1巻121-122頁)

路傍の茶屋では、この版画[挿絵]に描かれているように、軒下に黒ずんだ床几が三つ四つあって、裸の人足(振り仮名「クーリー」)がほとんどいつも思い思いの姿勢で席をふさぎ休んでいる。(1巻125頁)

正午に利根川に着いた。…船頭も旅人も田畑で働く人も裸同然の姿だったが、裕福そうな百姓だけは、大きさも形も傘のような竹製の帽子[菅笠]をかぶり、大きな袖のついた〈着物〉を紐で結びもせずに田畑で働いていた。(1巻134頁)

〈疥癬〉、しらくも、たむし、目ばちその他、気持ちの悪い発疹のような病がはやっているのは、厭わしく見るに忍びない。しかも、この集落の住民の優に三割には疱瘡のひどい痕がある。衣類を身につけていないので住民の身体のことを調べることができる。(1巻184頁)

五〇銭という言い値があまりに法外だと思って店を出ると、後から女将がちょこちょこと追いかけてきて、二〇銭でいいですと言ったことがいくつかの店であった。(1巻187頁)

その(※散髪の)間、日本人の不細工な顔には、ひたすら堪え忍ぶ得も言えぬ醜い表情が浮かんでいる。(1巻188頁)

私たちは小百という、水田の広がる河谷の縁辺に位置する山あいの農村で馬を下りた。…衣類と呼べるようなものもろくに身につけていない子供たちは突っ立って何時間も私を見つめていたし(1巻193頁)

段丘上にあるこの小さな村(小佐越)は非常に貧しく、家はみすぼらしかった。子供たちは非常に汚い上にひどい皮膚病で苦しみ…この地域ではたくさんの蚕が飼われており、だだっ広い部屋では、男たちは裸のままで、女たちも腰から上は何も身につけず、せっせと桑の葉を絵だからむしりとっていた。(1巻194-196頁)

私たちは二、三の小さな村を通り過ぎたが、…どの納屋でも人々が何も身につけない格好で、いろんな仕事をしていた。(1巻199頁)

藤原には四六軒の農家と一軒の〈宿屋〉がある。…道の両側には家が並び、その前にはだいぶ腐った堆肥が積み上げられ、女たちは裸足の足でそれを崩しては踏み潰してどろどろにしていた。仕事の時にはみな上着を着、股引をはいているが、家の中では短い下穿[腰巻]一つである。私は、ちゃんとした家の母親ともあろうものがこの衣類[腰巻]だけの恰好で不作法とも思わず道を横切り他の家を訪ねるのを何人か見た。幼い子供たちはお守りだけを首から下げた裸姿だった。身体にも衣類にも家にも害虫がうようよいた。…(通訳の)伊藤が言うには、日本にこんなところがあるなんて思いもしませんでしたし、この地のことやこの地の女が着ているものについて話したって横浜の人には信じてもらえません、とのことだった。「こんな場所を外国人に見られて恥ずかしいです」とも言った。(1巻200-201頁)

横川では、茶屋のおびただしい蚤を避けるため、道端で昼食をとった。(1巻210頁)

川島という戸数五七戸のみじめな村に着いた。…米もなければ醤油もなかった。…私が食べられるものは黒豆と胡瓜の煮物だけだった。…宿の主の小さな息子がひどい咳で苦しんでいたが、持参のクロロダインを二、三滴与えると咳はすっかりおさまった。…ほとんどの村人が、口々にささやき裸足の足をひきづりながら私の部屋の外に集まり…私は目の前の痛々しい光景に当惑した。皮膚病やしらくも、輪癬に罹った裸の子供を抱き抱えた父親や母親、ほとんど目の見えなくなった母の手をひく娘たち、ひどい腫物が外から見える男たち、蠅がたかって目をしばたたかせたり眼炎に罹ってほとんど目の閉じた子供たちからなる村人が、押し合いへしあいしていたのである。病気の人もそうでない人も、すべてがまさしく「汚らしい服装」をしていた。嘆かわしいほどに不潔で、虫がたかっていた。…人々が私に語ったところでは週に一回風呂に入るという。…ここの人々は肌着を着ないし、上着はめったに洗わずに夜昼なく同じものを着ている。それを限界まで着続けるのである。(1巻211‐214頁)

農村では汚物は通常玄関脇の地面に掘った大きな穴[肥壺]に溜め、そこから蓋のない桶[肥桶]に入れて農地まで運ぶのである。(1巻215頁)

(農民は)だれも彼もがすごい速さで飲み込むようにして食べる。(1巻216頁)

「国教制廃止」[廃仏毀釈]の様相が紛れもなく認められる。…鼻がかけ、首にピンクの幅の細い布を巻き付けた仏像が、苔や地衣類に覆われてあちこちに立っている。また草花や雑草の中に倒れている仏像も至る所にある。一日旅する間にこのような仏像を何百体も道の傍らに見るのである。(1巻222頁)

坂下に着いた時には[夕方]六時になっていた。人口五〇〇〇を数えるこの商業町は水田地帯の真っ只中にあって、みすぼらしく汚らしくじめじめし、衰退しつつあるようだった。そのうえ、真っ黒の泥だらけのどぶの強烈な悪臭が満ちていた。…坂下ではマラリアが流行っていた。(1巻226-227頁)

(幼児の喉にひっかかった魚の骨を取り除いてやったところ)夜になる前に、七人の足のただれた人が「診察」を求めてきた。そのただれはすべて表在性の炎症かそれに類するものだった。事実、彼らの言うには、そのただれは蟻に刺された痕をひっきりなしに掻いたためにできたものだった。(1巻232頁)

宿の女将と伊藤は、歳をとった時に子供がまだ小さかったり、自分の身体が弱くて働けなくなると、主人がよく自殺に走るのですと教えてくれた。自殺はきわめてありふれたことのようである。若い男女が結婚を望んでいるのに両親がそれを認めてくれないと、身体を縛って入水自殺することがよくある。(1巻232頁)

宝沢[宝坂]や栄山に着いた時、この地方の集落の汚らしさはここに極まれりと感じられた。…堆肥の山からは液体が井戸に流れ込み、男の子供たちはすっ裸だった。たいていの男は〈マロ〉[褌]以外ほとんど身につけていなかった。女たちも上半身は裸で、腰から下に身につけているもの[腰巻]も非常に汚く、…大人たちには虫に刺された炎症が、子供たちには皮膚病が全身に広がっていた。(1巻236頁)

下男が私の夕食のための米をといだり、女が夕食をこしらえたが、この仕事をする前に男は着ているものを脱ぎ[褌一つになったし]、女は〈着物〉を諸肌に脱いだ。こうすることがちゃんとした女性の習わしになっているのである。(1巻239頁)

日本人は本当に子供好きではあるが、ヨーロッパ人の子供があまり日本人と一緒にいるのは好ましいことではない。日本人は[ヨーロッパ人野子供の]道徳を台無しにするし、嘘をつくことを教えたりするためである。(2巻43頁)

今の日本には[英国にあるような]「純文学協会」がとても必要である。いちばん需要があるのが反道徳的な事柄をこれ以上詰め込めないほどに詰め込んだ本[好色本]であり、これがすべての階級の人々の道徳を堕落させているからである。ある本屋の主人が私に語ってくれたところによると、在庫している大量の書物の八割は、たいていが下品な挿絵の入った小説[浮世草子]で、「官許を得た書物」は二割にすぎない。(2巻48-49頁)

ありていに言ってよければ、金銭欲のために日本人はきわめて恥知らずな詐欺行為をする。外国製の食品とか飲み物と称して売られているものの半分は、中身が東京その他で作られた、身体に有害な粗悪品であり、バス、マーテル、ギネス、クロス・アンド・ブラックウェルといったたいへん信用のある会社のラベルを貼った、口の大きさのさまざまな瓶に入れて売られている。(2巻56頁)

野菜はただ一つ[竹の子]を除いてどれもこれもきわめてまずいが、その多様なことといったら際限がない。(2巻60頁)

干した大根は染み込みやすく、漬け込まれている三カ月の間にかなりの寮の漬け汁を吸収する。そうすると猛烈な悪臭のあるもの(※沢庵)になり、人がそれを食べている最中には[私は]家の中にとどまっていられなくなる。スカンクの臭いを別としてこんなにひどい臭いを私は知らない!(2巻61頁)

それほど豊かでない日本人の食事は貧弱で、栄養にも乏しく、見かけも味もひどい。…普通の日本人の食事の主なものは、都市部ではご飯と魚、沢庵であるが、内地では米か黍と、大豆、〈沢庵〉となる。…前述しな贅沢な食べ物を私は北方の旅では見かけなかった。猟獣や猟鳥の肉は一度も見かけなかったし、鶏肉にも鮮魚にもめったにお目にかからなかった。(2巻68頁)

(新潟から北上する途中)私は石の上に腰を下ろし、一時間以上の間、此の地の人々について思いを巡らしていた。しらくもや〈疥癬〉にかかった子供や目のただれた子供が大勢いた。女性は全員が背中に赤ん坊を背負っていたし、子供も赤ん坊を背負える年頃の子は全員がたどたどしい足取りで同じようにしていた。木綿のもんぺの他に何か着ている女性はだれ一人いなかった。(2巻77頁)

川[松川]を渡船で渡り津久茂に至った時…このように開化した状況にあって褐色の肌をした二人ないし四人の男が荷車を引っ張っているのは、見ていて奇妙だった。特に多かったのは夫婦二人の組合わせだったが、男は[褌の他には]何も身につけず、女も上半身は裸だった。(2巻92頁)

上院内と下院内という二つの村で〈脚気〉と呼ばれ、日本人がたいへん恐れている病気がはやっており、この七カ月間に約一五〇〇人の住民のうち一〇〇人を死に至らせている。そして地元の医師は、久保田の医学校[秋田医学校]から派遣された二人の医師の応援を仰いでいる。(2巻118頁)

人口一万人の町横手は、木綿の取引は盛んだが、見栄えが悪くいやな臭いがし、惨めで汚くじめじめとし陰気である。最上の〈宿屋〉でさえひどいものである。そして、私が例の質の悪い馬に乗って通り過ぎると、住民は私を見ようと風呂から飛び出してきた。男も女も素裸だった。宿の主人はとても丁重だったが、竹の梯子を上ったところにある私の部屋は暗くて汚く、しかも腹立たしいほどの蚤と蚊だった。(2巻123頁)

神宮寺に着いた私は疲れ切り…蚊が飛び回り、蚤が畳の上を跳びはねていた。まるで蚋だった。玉子もなく、あるのはご飯と胡瓜だけだった。日曜日の朝五時に、外[前]側の〈障子〉の格子に三つの顔が押しつけられているのを見たが、夕方前には指で突いて穴だらけになり、どの穴からも黒い目が覗いていた。…部屋はうす暗く、悪臭がただよい堪え難かった。(2巻133頁)

ベッドに入り眠りについた。…九時ごろに、多くの人間がひそひそ話す声や、足をすって歩くような音が聞こえ、しばらくの間続いた。それで眼をこらすと、約四〇人(伊藤によると一〇〇人)もの男や女・子供がじっと私を見つめているのが目に入った。…彼らは廊下側の〈障子〉を音もなく三枚も外していたのである!私は大声を張り上げて伊藤を呼び…これまで戸外での群衆とその好奇心についてはすべて辛抱強く耐えてきたし、微笑みさえもしてきた。だが、このような侵入は堪え難かった。(2巻134頁)

(祭りで)犬がいろんな格好をしたり踊ったりするのも見たが、痛めつけられて演技していることが露骨に認められた。それでその犬を買い取ろうとしたが、そのひどい飼い主は五〇円以下では売らないと言った。(2巻173頁)

どの村も貧しく、ほとんどの家は板張りで、板の端に打ち付けてある釘の打ち付け方もぞんざいであり、側面を藁で縛るその縛り方もぞんざいだった。窓はまったくなく、煙は隙間という隙間から出ていた。(2巻188頁)

彼らは川口という眺めのすばらしい所にある古い村に泊まるのがよいだんべと言ってくれたが、あたり一面が緑のかびだらけで湿っぽかったし、緑色や黒い色をした溝から猛烈に立ち上ってくる悪臭はそばを通るのさえ耐え難いほどだった。それで私は馬に乗って大館まで行かざるをえなかった。(2巻188-189頁)

日本の下層階級[平民]の、少なくとも男性の間では、小声で話すことが「とてもよいこと」だとは見なされておらず、あらん限りの大声で話す。その上、たいていの言葉と音節は母音で終わりはするのだが、その会話はまるで[英国の]農家の家でのガチョウの耳障りな鳴き声のようである。私がいる隣の部屋は大雨で足止めされた旅人であふれているのだが、彼らは宿の主人を交え、四時間にわたって声を限りに話していた。…私は「ある事情通」から、日本人の会話は教育を受けた人々の間で交わされるものであっても、この上なくたわいもないものであると聞いたことがあった[が、そのとおりだった]。政治や社会的なことを話題にするのはご法度だし、宗教やこれに類する話題は一切出ず、芸術への関心はなくなってしまっており、文学[をめぐる話題]も一切でない。また、教養ある女性が影響力を強めるということもない。また昔からの慣習からか周囲への不信感のためか、論じるに値する問題について自分の意見を表明してわが身を危うくすることをだれもが恐れている。そのため話題は堕落し、品のある外国人がまったく共鳴できないようなばか話や猥談になってしまうのである。(2巻198頁)

途中通ったいくつかの農村の人々は非常に原始的な家に住んでいた。まるで[木の]枠組みに手で土を塗りつけたような土壁の露出する家だった。その壁は内側にやや傾き、草葺きの屋根は粗末であり…家の中は素裸の子供でいっぱいだった。そして夕方再び通りかかった時には、男女の別なく諸肌になった大人たちが家の外に座り込み、その傍らにはお守りだけを身につけた素裸の子供たちと数匹の大きな黄色い犬がいた。(2巻236-237頁)

黒石から青森まではわずか二二・五マイル[三六キロ]の旅だったが…家数の少ない農村の様子はどんどんひどいものになっていった。…壁といっても、たくさんの樹皮と藁束を藁縄で柱に結びつけただけという家もある。…住民は非常に汚い身なりをしていたが(2巻243頁)

エセル・ハワード「明治日本見聞録 英国家庭教師婦人の回想」講談社学術文庫

私は一九〇〇(明治三十三)年十二月三十一日に、どちらかといえば中途半端な状態で日本へ出発した。…大勢の子供たちがお寺の境内で赤ん坊を背負って遊んでいたが、…この最初の日には、赤ん坊や子供たちは全くかわいらしいと思えなかった。彼らは手や顔に吹き出物があり、これは後で知ったことだが、米以外の栄養物の不足が原因とのことである。(23-25頁)

私が上陸すると、その中の一人が進み出て…われわれは握手を交わし、彼は英語で私に話しかけたが、私にはほとんど一言も理解できなかった。この最初の出来事と、その後の数カ月間の経験に照らし、私にわかったことは、日本人のしゃべる英語はきわめて聞き取りがたいということであった。たとえば、RもLも全部同じに発音されてしまうのである。(26頁)

コマ(駒)という名前のその女中は、英語が話せるからとの理由で私のために選ばれたにもかかわらず、私には彼女の話しかけてきた最初の一言すら理解できず、さらに私の話しかけに対してぽかんとした彼女の表情から、全く言葉が通じないことがわかった。(30頁)

私には最初、(島津家の)子供たちがひどく内股に歩くのが不可解だった。その時はよく知らなかったのだが、日本の貴族社会での古くさい行儀作法では、内股のほうが行儀よいとされていたのである。最初のうちは、子供たちにこの癖をやめさせようとする努力で、他の仕事よりも何にも増して疲れ果ててしまった。(41頁)

(島津家の)子供たちは、お付きの人々の生活になんら関心をもっていないことに私は気づいた。彼らがどんなに一所懸命に働いても、疲れるということは思ってもみなかったようだ。お礼の言葉すら一度も言わなかった。さらに、貧乏人や病人に恵むという本能的な優しさも全然見せなかった。(51頁)

(島津邸の)屋敷内では時間の観念が全く欠けているので、私の最初の仕事は食堂用のベルを取りつけることだった。(61頁)

(島津家の)子供たちが食事どきに食べ物を飲み込むありさまは全くすさまじいもので、特に朝食のときがひどかった。これは、食事を早く済ます日本人の習慣からきていることは疑いの余地がなく(62頁)

(島津家の)食事そのものはホテル風のフルコースで、フランス人のコックが料理したかのようだった。しかし、私の教え子のような小さい子供たちには、それらはあまりにも重すぎるので、私はすぐに食事の内容を変えて、もっと軽い簡単な食べ物を彼らに与えるべきだと思った。これは、思いのほか実行に移すのが難しい問題だった。…その結果、料理番たちの役得は少なくなり、屋敷内のある方面での不満が増大した。このことがあってまもなく、私は最初の匿名の手紙を受け取ったが、それは一人で出歩いては危ない、特に茂みや生け垣の傍らを通るときは気をつけろ、という警告であった。手紙の紙も文章も、書かれた英語も、まことにお粗末なものだったので、私は多分、料理番から来たものだろうと思い、たいして重きも置かずに誰にも話さなかった。ただ女中の駒だけには、彼女の目の前で手紙を破り棄てて、こんなことは馬鹿げたことだといってやった。(63頁)

散歩を始めた頃のある日、日本の漬物を積んだ荷車のそばを通ったことがある。その臭いたるや、私がたおれそうになったくらいだった。それらは大体において、大根や蕪のような野菜であったが、塩と糠味噌につけてあった。島津家の人たちはこの漬物が好きらしく、その臭いは全然気にならないようだった。彼等の誕生日の食事に、何か好きなものを選ぶようにいうと、きまって漬物を大盛りに添えた日本食だった。(94-95頁)

国民新聞 1922年10月4日~11月15日 ※大正11年
外人の眼に映じた日本農村の将来 (一〜三十四・完)

著者のスコット氏は福島県から新潟県へ山越で、沿道を熱心に視察・・・七月半のことであったから山中とは言い条、暑さは変らない、婦人は彼女の腰部から膝にかけて、赤い色若しくはその他の色の附いた木綿切れを纏うのみである・・・また十歳前後の男の子は素裸であったが、同年位の女の子の中にも素裸のものが多かった

山形県へ入って・・・見渡した処、裸にされた山が多い、これは本県に取っては不幸なる洪水と密接の関係のあることを知った・・・河の中で婦人運送婦の或ものが素裸になってと埃とを□い落しているさまは一寸西洋諸国では見られぬ図だ

巌手県に入って・・・此地方の農民は粟、稗、麦等を常食としている、

山口県に来て、農会の依頼により、三ヶ所許りで演説した…私が第一に気のついたのは、何れの集会も乱雑無秩序で、定刻に聴衆の集った例が無かった、定刻前後からぽつりぽつりとやって、来て、満員となるのは開会後二三時間の後のことである。

静岡県の農村を隈なく歩いて仔細に観察の眼を・・・貧乏な百姓は自分の娘がもう五つになると、八つの年に達するのを俟って奉公に出す契約を結び、この契約の実行を予想して現金を雇主から受取るのである、つまり一種の奴隷制度である、また或る小さい町は山間僻遠の地から盗み出されて来た小さい男の子供を売買するので名うてとなっている、その子供は三十円で売買されるのである
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100383836

日本人の盲目者の数は実に驚くべきものであるが、その主な原因は淋病から来ているものである、出産当時に於ての嬰児に対する不十分な注意から来ているものが多い、自分の宿を借りた眼科医の取扱っている、患者の約四分一は、稲田で腰を屈めて作業中に、稲の茎の尖で傷けられたものであると聞いた

千葉という所は久しい間、嬰児殺しで名うての所であって、極東に於けるこの嬰児殺しの制度では、男児よりも女児の方が多く犠牲に供せられることになっている

日本の田舎の見世物小屋では、年老った牡羊が獅子だと言って見せられている、
(神戸大学新聞記事文庫)
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100383837

キャサリン・サンソム「LIVING IN TOKYO 東京に暮す 1928-1936」岩波文庫

日本人は大根というラディッシュをずっと大きくしたような野菜が大好きです。大根にはビタミン類が豊富ですし、少量をご飯と一緒に食べると美味しいのですが、たくあんは大根特有の臭いとぬかみその臭いがあいまって、ひどく臭く気分が悪くなるほどです。混み合った市電やバスの中でその臭いをかぐと私はたまらなくなって降りてしまいます。(32頁)

日本に来て間もないイギリス人の女性が、大勢を招く茶会でどの紅茶を使ったらよいかと日本人の給仕長に尋ねたところ、「リプトン(Ripton)」がよいでしょうといわれてショックを受けたということです。日本人はLの発音ができないので、英語の単語を変な風に発音して使っていますが…「リプトン」は外国のお茶の総称にもなっています。(39頁)

骨董品以外のほとんどの商品には定価がついています。しかも旅行者には不利なことに旅行者用と居住者用の二つの値段がついています。私たちは居住者なので得をしている方です。(53-54頁)

日本人は、必要があろうがなかろうが、他人を押し除けて我れ先に電車に乗り込もうとします。…駅にいると、集団の中の日本人がいかに単純で野蛮であるかがよくわかります。…彼らは列に並んで自分の番を待つということをしないので、切符売場や改札口では勝手に割り込んできます。・・・やっとのことで改札口を通りぬけると、次は人を押して進乗客の群れに混じって電車に乗り込みます。押してくるのは誰でしょうか。最も質が悪いのは、優しそうな顔をした年配の女性で…背中に赤ん坊をおぶった若い母親のこともあります。なんと、男性のことだってあるのです。男性に押されるということは西洋人の女性には考えられないことです。(102-103頁)

日本を楽しむには嗅覚がよくない方がいいようです。芳香はほとんどなく、逆に悪嗅が非常に多いからです。…日本の狭い家には、町でさえも、下水設備がありません。家の周りには肥料を必要とする畑が広がっています。従って糞尿が使われるということになります。事実、私が旅館の小綺麗な部屋に入った途端、私の敏感な鼻が外を見るよう警告しました。目に入ったのがあまりに野蛮で非常識なものだったので、私たちは笑うのが精一杯で、せわしく働いているお百姓たちが日暮れとともに作業を止めることを祈るだけでした。…ほんのニ十五メートルほど離れた所に大きな肥溜めがあり、四、五人の男たちが順々に桶一杯分汲み取っては、肩に担いだ棒にぶら下げて畑に運んでいたのです。(229-231頁)

中国大陸と人糞(途中)



呉郷居士「北支那雑記」1894年

◎糞山(ふんざん)
支那人の人糞を使用する必ず先す一たび之を乾燥し而る後肥料に供するを常例とす故に北京市中と雖も多少の空地あれば則ち人糞を聚めて之を乾燥す堆積山の如く悪臭鼻を衝き汚穢不潔言ふ可からず名けて糞山と云ふ
https://dl.ndl.go.jp/pid/766946/1/8

原田藤一郎「亜細亜大陸旅行日誌并清韓露三国評論」1894年

清国の内地は随分不潔の土地多かりしが北京コソ真に不潔の集点にて・・・外人若し大街の(則ち大通り我銀座の如き場所)左右に人糞堆く高く悪水路傍に泥濫するを見ば(40頁)
https://dl.ndl.go.jp/pid/993747/1/38

宮内猪三郎「清国事情探検録 : 一名・清国風土記 改正2版」1895年

圊厠(※トイレのこと)及び肥料
都会の地には、各処に圊厠の大なる者を設け置き、昼間は近街の民人及び路人も共に此に到る、夜間は蓋ある桶を舎内の一隅に置き圊厠に換へ、掃除者あり日々清洗し来るを常とし毎戸圊厠を設けず、村落は都会に比すれば頗る無法度とす、支那圊厠斯の如しと雖も、猶人糞を平地に塗布し天日に乾かし、厚さ五寸又は一尺なる者とし、犂鋤にて一尺又は一尺五寸四方に裁断し肥料とす、故に各地甚だ汚穢なるに至らざるなし
https://dl.ndl.go.jp/pid/767017/1/25

国学院同窓会「国学 (8) (9)」1895年

午後二時半、小嘴といふ村につきぬ。大連湾を去る十二里(日本里程)なり。(55頁)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1539419/1/30

五月一日正午より風紀衛兵を交代し、午後石川●(馬偏に「比」)といふ所に遊ぶ。此処は山嘴村より二里半ばかり北なるやゝ賑しき処なり。されど其の不潔なる事更にかはりなし。にぎはしさにつれて人糞と馬糞とは益多く、臭気紛々として巷に満ち、足踏み入れむ方もなし。一騎当千の剛の者もさすがこの糞には後を見せ、処の様はよくもさぐらず、ほうほうの体にて逃げ帰りぬ。(48頁)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1539420/1/27

アーサー・エチ・スミス 著 [他]「支那人気質」1896年

(北京では)雨期に至れば、道路は全く泥濘となり、その深さ車輪を没す。而してこの泥濘は彼の人糞、犬矢〔ママ〕、塵芥等幾多汚穢なる水分より混化せられたるものなれば、臭気途に満ち、悪気市を掩ふて、殆んど行歩に堪えざらしむ。・・・(以上諸項『日清戦争実記』に拠る)(343頁)
https://dl.ndl.go.jp/pid/766968/1/184

城南処士 (伊東連之助) 記 [他]「征清奇談従軍見聞録」1896年

昨年来跋渉せし地方の民家、概ね厠の設けなきを以て、妙齢の処女も家の外囲に出て、其の用を便ず、然るに其後豚の食料となるを以て、人糞肥料は至て少く、(108頁)
https://dl.ndl.go.jp/pid/773687/1/66

田口卯吉 (鼎軒) 著「楽天録 2版」1901年(明治34)

○北清風俗(三十三年十月)
天津にありける日、余と坪谷氏とは或人の招を受けて北門外義和成と云へる料理店に赴きけり、義和成は天津第一の料理店の由なれども、薄暗き小路の奥にて人糞をや践みもせん、屎澤にや落ちもせんと、恐る恐るたどりて、漸くの思ひにて着きたり、

藤戸計太 編「楊子江 : 支那富源」1902年

上海県城は一名を滬城と称し、…路上敷くに石を以てするも凸凹甚しくして歩行に便ならず、加之雨水常に残留して池をなし、人糞●々丘をなし、放尿滴々川をなすを以て、動もすれば足を失することあり、芬々の臭気鼻頭を衝き、外人をして堪えざらしむ(20頁)
https://dl.ndl.go.jp/pid/767166/1/36

陸軍経理の現状一斑(下)⦅八月十一日講演⦆※1907年(明治40)
近衛師団経理部長陸軍一等主計正 隈徳三君

薪は支那でも万里の長城付近及び其北方蒙古の地に這入ると沿道殆ど薪が無い、私は寒中に北京から張家口を経て万里の長城に沿うて帰化城まで行きましたが、張家口帰化城を除けば住民は勿論旅店までも皆馬糞が燃料である、それで屋上には人糞まぜりの馬糞が一面に乾されてある、物を焚くにも、部屋を暖めるにも悉く馬糞である、斯う云ふ所へ行ったならば折れ箸一本でも粗末には棄てられぬ
https://dl.ndl.go.jp/pid/898202/1/240


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