ブログ目次

あちこちエントリが散らばって読みにくいので、ここを目次的なページにしたい。

朝鮮半島関連
1.併合以前の朝鮮半島
「漢字・ハングル混じり文の考案は福沢諭吉」説の真偽韓国併合以前のハングル使用「叩頭」とは頭を地にたたきつけることだ、という嘘併合前から朝鮮半島では米を食べていた倉山満とかいう”憲政史家”について併合前・後の朝鮮半島の人口について併合前朝鮮に染料は無く衣服は白だけだった、という嘘併合前朝鮮で女性や奴婢に名前が無かったという嘘
2.併合経緯
日本は朝鮮を侵略していないというウソ 1894年 朝鮮王宮を武力占拠日本は朝鮮を侵略していないというウソ 1905年 伊藤博文が韓国皇帝を脅迫し、第二次日韓協約=保護国化を強要乙未事変(朝鮮王妃閔妃殺害事件)内田定槌証言韓国併合時の全権委任状・条約案は日本の自演倉知鉄吉「併合という言葉は俺が考えた」の真偽併合前、韓国の反日世論「伊藤博文は韓国併合に反対だった」というウソ「韓国側から併合を願い出た」というウソ(1)池田信夫氏「一進会の合邦運動に百万人署名」の真偽福沢諭吉の朝鮮・中国蔑視第3回韓国併合再検討国際会議のおかしさ
3.「植民地」かどうか
植民地に関する著名人ら発言一覧日韓併合は植民地支配ではない、という嘘(1)日韓併合は植民地支配ではない、という嘘(2)日韓併合は植民地支配ではない、という嘘(3)日韓併合は植民地支配ではない、という嘘(4)欧米植民地の様々な呼称
4.植民地支配の実態
敗戦前、内地・朝鮮の食糧配分方針「内地第一主義」植民地朝鮮における日本語強制、朝鮮語授業廃止植民地朝鮮で米を作らせ内地で食う、朝鮮人には雑穀を食わせる、という政策植民地朝鮮の農政の実態(途中)植民地朝鮮の実情を記した当時の資料(1)植民地朝鮮の実情を記した当時の資料(2)植民地朝鮮の実情を記した当時の資料(3)「朝鮮は資源が無く植民地にする価値が無かった」説の真偽「植民地朝鮮の警察は8割朝鮮人」の真偽植民地朝鮮の同化政策(途中)池田信夫氏「朝鮮人徴用者は終戦時245人」の間違い朝鮮半島での労務動員はただの「徴用」、というウソ日本の朝鮮蔑視・差別に言及した戦前資料戦時下植民地朝鮮の実情を記した報告書全文公文書や当局者ら発言に見る朝鮮人労務者「強制」植民地朝鮮での「志願兵」「女子挺身隊」以外の公的募集・動員池田信夫氏らに読んでほしい創氏改名・志願兵強制についての帝国議会質疑
5.欧米植民地との比較
欧米植民地の教育制度欧米植民地の人口第二次大戦、英領インド軍の現地人将校(途中)英領インド出身の英国国会議員

従軍慰安婦
1.戦前売春文化
戦前日本の誘拐多発戦前日本人の海外売春(1)戦前日本人の海外売春(2)戦前日本人の海外売春(3)従軍慰安婦資料集(4)戦前公娼制の実態戦前の内地・朝鮮の公娼関連統計【慰安婦】娼妓契約に加え前借金契約も無効とした戦前の判決例
2.軍の主体的関与と性奴隷実態
3.「従軍」について
4.「挺身隊」について
5.河野談話
6.その他

戦前日本
1.日中戦争
2.太平洋戦争
3.戦犯、東京裁判
4.旧日本軍関連
5.右翼思想
6.その他

日の丸君が代

9条、憲法
 
時事

1.経済
2.2011年震災
3.その他
アベノマスクのおかげで使い捨てマスクが出回るようになったという嘘旭日旗が問題視されたのは2011年だ、という嘘旭日旗とは何か、その使用例ライダイハン の真相、日本との類似皇族にくだけた言葉使いをした戦後の例【安倍】「国難突破」戦前の用例「歴史戦」「人口戦」という産経語(?)と戦前の類似【北朝鮮】ロケットかミサイルか 海外報道の表現例北朝鮮拉致をめぐる興味深い2002年記事では援助交際率は何%なのか「韓国の反日が日本の嫌韓を生む」説の真偽手榴弾は弾薬で武器ではない、というウソ【東シナ海ガス田】中国に甘かったのは誰か【村山談話】和田政宗議員と藤岡信勝氏のための「疑うべくもない」用例「猿に王女の名前をもらうのは失礼」説の真偽萱野稔人という”哲学者”について【辺野古 菅発言】「粛々と」の意味変遷【都構想の嘘】「都制と首都は無関係」というウソ【プロ野球ファウル訴訟】自民党・萩生田光一議員発言について「曽野綾子は強制隔離など言ってない」という擁護論の当否【イスラム国湯川・後藤氏事件】池内恵・東大准教授の外務省擁護について朝日新聞が御嶽山を御岳山と誤表記誤報した、という誤解朝日が「特許が無条件に会社のものとなる」と誤報した、という誤解【火山災害デマ】民主党政権の仕分けで御嶽山観測予算没収したというデマ自虐とは何か 世界一分かりやすい定義愛国心・右翼・左翼とは 世界一分かりやすい定義

併合前朝鮮で女性や奴婢に名前が無かったという嘘

朝鮮総督府の研究調査では、名前どころか姓も結構持っていたと述べている。
朝鮮総督府中枢院「朝鮮の姓名氏族に関する研究調査」1934年

第二目 庶民以下の姓の有無の比例(27頁~)
再説す古代に於て庶民に姓ありしや否の問題に付ては。此地の人士中に於て、悉く姓有りしと説く者多く、また之と反対に内地の学者中に全部姓無かりしと説ける者あり。両説何れも当らずとすべく。是を高麗以来の石文典籍文書等に就て詮索するに、其姓有し者と無かりし者との割合の大体は以下に記すが如し。

(1)高麗時代の石文文書の所載
一、聡敏(鉄匠令)。香淵。奐規(以上二鉄匠)。公萓。貞順。宣乂。義謙。豆休(以上在家弟子)。祖ニ十二年建京畿砥平大鏡大師塔碑文。
二、仍乙希(石匠)。同光宗二十年建京畿驪州高達寺元宗大師塔碑文。
三、仍乙依(石匠)。富烏(鉄匠)。同光宗時代建忠清延豊覚淵寺通一大師塔碑文。
四、廉長。順行。宣金。徳貞。其豆。昕京。位剛。偘平(以上庶民の人名と推定せらるゝ者)。顕宗元年建慶尚醴醴泉開心寺石塔碑文。
五、光顕(郡百姓)。作隣(兵士)。会文(鉄匠)。信貞(染匠)。居等達(鍮匠)。稟柔。応律。肯礼(以上三副戸長)。式長(楽人)。徳積(奴)。嵩嵓。式莫(?)(以上二隊正)。新達、男。吉奉、男。志興、郎。
右姓無き者にして庶民階級と思料せらるゝ者。

李元敏(仁勇校尉)。柳瓊(戸長)。金甫(摂戸長)。成允(戸正)。
右姓ある者にして士人階級と思料せらるゝ者。

 戒人。助高。●明。阿召。廉富、女。用徳、女。金、富多支。金、漢多支。右女名階級不明なれど、姓無き者は庶民階級。姓有る者は士人級なるべし
高麗顕宗ニ十二年、慶尚、漆谷郡若木浄●寺石塔造形形止記(総督府博物館蔵)。
以上大体に於て庶民に姓無き者を多かりしを知る。

(2)太祖より宣祖迄の歴代実録の記載
一、常民には、忘金、浪得里卜、石乙徳、加都知等等の如き姓無き者稀に出づ。
二、奴婢には、実仇知、毎邑同、水山、小古末、莫同(以上奴)。英生、仇●、燕脂(以上婢)等の姓無き者甚多く。稀に鄭龍、朴於乙伊、李亡吾、安莫同、丁●同(奴)等如き者出で。婢には姓ある者奴よりも著しく鮮なく
三、奴婢よりも猶下層に位せし白丁には、李牛知与、朴吾乙末、毛乙乎里、於乙非等の如く、姓ある者と姓なき者出で、総体に奴よりは姓ある者多し

(3)東国輿地勝覧の記載
本書は前項実録よりも猶、庶民の記載甚だ鮮き古典なるが。其中に旌表せられたる庶民の孝子節婦中姓有る者もあれど。また、有今、千年、多勿、植培(以上孝子)四月、内隠伊、玉今、玉只(以上孝女節婦)等の姓無き者出づ。

(4)万暦年間安州、亀城鎮管編伍冊(兵籍台帳)の記載
庶民には姓有る者多く。中に点々往論石、守於夫松、凍天己等の姓無き者も出づ。奴には岩回、仏同、小斤同、黄伊等の如く姓無き者多く。間々洪亡龍、金叱同の如き姓ある者も出づ。

(5)宣祖三年慶尚道山陰県籍帳、及同十八年同道蔚山府籍帳の記載
常民には口口(厳の略字)献、仇多音沙里、福岡、汗卜等の姓無き者あり。一般に姓ある者多し。奴には姓無き者多く、間々朴貴年、金斤等の姓有る者あり。海尺には姓無し。

(6)粛宗以降の蔚山、大丘の籍帳、英祖以後の尚州の籍帳の記載
大抵前項と同じきも、漸次姓無き者の数を逓減して。李太王元年の籍帳には姓無き者無し。

以上により其大体を卜することを得べく。割合に一般庶民以下に姓の普及したるを看る。されど隆煕二年〔明治四十一年〕民籍法施行の際、姓の無かりし者も相当の数に上り。其当時姓を作りし者ありしは、該事務を管掌せし編者の実験したる所なり。猶其証左として具体的に二、三の実例を挙示すれば。忠南青陽郡内某農民の呉、朱、宋の姓は其時に作りしもの。平北慈城郡内の姜、梁、玄も亦同一のものなり。また全北鎮安郡内には其当時姓無き者に対し。警察より姓を命ずる際本人の希望により其出身地の門閥に擬し。全州生れの者は李、慶州方面生れの者は崔金等の姓を作りし事例あり。(以上三は各其管轄警察署の調査による)猶精査せば此類各地にも多かりしを推定す。
茲に一言付記すべきは。右の姓無かりし者の中には。昔は姓有りしも是を忘失したりと申出し者もありし一事なり。亦以て庶民が姓と云ふものに無関心にして、之を役立てるに意義なかりし一面ありしを知る。
(6)庶民に姓ありし者の拠典
高麗朝(高麗史)
△崔老 開城坊民 顕宗
△孫順興 求礼県民 成宗
△車達 雲梯県民 同上
△鄭康俊 延日県民 同上
△崔幸 軍卒 睿宗
白善淵 官奴 毅宗
△金提 鞋工 元宗
康允紹 家奴 同上
李貞 賤隷 忠烈王
△金英甫 金箔工 忠宣王
斐佺 婢の子 忠宣王
△孫埼 商人 忠粛王

李朝前期(李朝各代実録日記)
△金夫介 永興県民 太祖
△李夫介 盗 同上
金小斤 官婢 太宗
△金奴介 寧越の民 同上
△呉今音山 光州の民 世宗
申乭伊奴 奴 同上
朴於乙伊 大君の奴 端宗
△金所乙 司直 世祖
黄伊叱介 奴 同上
△金石●乃 常民 同上
△羅芿叱同 常民 同上
李石他乃 白丁 成宗
朴吾乙末 白丁 同上
金花同生 私婢 明宗
△尹介米致 常民 宣祖
林巨叱正 白丁盗 同上
洪亡龍 奴 同上
△宋於叱同 常民 同上
康仇智金 白丁 同上
姜叱山 白丁 同上
△金文林介 常民 光海君
△鄭介叱 逆賊 仁祖

本節の終りに特記すべきは。新羅以来の貴姓とせし金、朴。続いては権、李、崔、鄭等の名門閥族の姓を。高麗朝以来ー或は羅末以来?ー庶民賤人に於て呼称することを認容せし一事にして。是を内地の昔と比較するに。王朝より室町覇府に至るまでの時代に於て。其各代の貴姓たる藤原、源、平、北条、足利等を血統の関係無き者が名乗ることは。容易に認容されざりしこととの風習の差異なり。

日本に於て姓氏の紊れたるは、応仁以後のことにして。『史籍集覧 南海治乱記』に……秀吉公天下を制するに至りて国々の古制も咸く廃りて新法行はる。人物部類上中下の分ある事も此時より廃れり。上代には其の尸(?)を偽り、其祖を易ふる者には罪あり。奴婢功あって其主人より名字を許さるゝ事あり。又凡民の俊秀なる者、佗人の姓を乞ふ事あり。私に名字を作る事は不成もの也。近隣の人之を糺明する故也。王制の衰ふる故に、凡人にて作り名字を為す。秀吉自から木下藤吉郎と云ひ、羽柴筑前守と云ふが如し。是を手本として作り名字をなし。又它姓を奪ひて己が氏とすれども、世之を咎むる人無し。王化の衰ふること、浅ましき事なり云々。……とあるが如し。

朝鮮に於ては、金海金氏、慶州李氏と謂ふ如く。庶民賎民が両班の氏称を名乗ることは許認されざりしも(第二編第七巻参照)。単に金、李、崔、朴と云ふ如く両班との同姓を名乗ることは毫も支障無く認容されたり。彼是此の風習の差異は蓋姓の本質と姓の歴史的差異に由るものなるべし。

※1877年(明治10年)の文書
朝鮮国人梁道汝外三拾二名 鹿児島県下漂到一件
朝鮮人拾三人 同国人四人 山口県漂到
並在釜山浦管理官へ送付

朝鮮国慶尚道
黄明孫
鄭文奎
(中略)
婦人
韓令月
崔蓮伊
黄玉梅
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/B12081764900
(15画像目)
E8LhUjjVIAAwVON


※1879年(明治12)の文書
朝鮮人金君河外拾九名鹿児島県下中の島へ漂到の件

朝鮮国全羅道海南県梨津浦居民
金君河
高成厚
韓致黙
(中略)
婦人
崔少史

https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/B12081766500
(4画像目)
朝鮮女性名







併合前・後の朝鮮半島の人口について

要するに
・併合以前の人口減少は税逃れのため家族を過少申告していた説
・併合後の急激増加は従来調査から漏れていた分が正確に計上され始めたため
矢津昌永「韓国地理」1904年

人口の増殖率は詳ならざれども、種々の調査によれば近来は増加せざるのみならず漸次減退の傾向あるが如し、斯く人口上不詳の結果あるものは其原因二種あり(一)は生活の程度の低きこと即ち懶怠より生ずる貧困及び不潔より来る病疾疫病の流行(二)は政治の不良、即ち収税法の不完全にして官吏の賄賂を貪るより家々相合して戸数税を免かれんとする結果によると云ふ。(44頁)
https://dl.ndl.go.jp/pid/766846/1/27

京城帝国大学法学会論集第九冊「朝鮮社会法制史研究」岩波書店、1937年

四方博「李朝人口に関する一研究」(257頁~)
殊に此間男丁の数に於ける連年の減少は、それが財務軍役の重要対象たると相俟って、一層疑惑を惹くものがあると言ひ得よう。しかしながら、此の点に関する臆測を確定に導く為めには、将来更に同種戸籍の包括的な研究に俟つの外はない。(280頁)

全体的に女子人口の多数なることについては、普通、役賦を免れんが為めの漏籍によると云はれて居る。蓋しその事実は否定し難く、歴朝屡々これを教し、大臣亦屡々これを啓して居る。(285頁)

京城日報(※朝鮮総督府機関紙)1914年記事
朝鮮と食料 (一〜[六]) : 三十年後の予想

(1909~13年で)朝鮮人数の年々異常に増加せしは民籍調査の際脱漏を発見せしもの多に依る
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100280772
(神戸大学新聞記事文庫)

併合前朝鮮に染料は無く衣服は白だけだった、という嘘


シャルル・ダレ「朝鮮事情」1874年

朝鮮人は、中国に倣って六十の干支によって年を数え…生まれた年の干支は、この周期が完全に一巡した後に現われる。この年を還甲〔甲(振り仮名:もと)に還る意=還暦〕とよび、朝鮮人は一生でもっとも盛大な祝宴で祝う。…雪のように真っ白い服と、空のように青いチマとが用意され、この新しい絹の服が、六十歳の老人の身を飾ることになる。(284頁)

女性は、男のズボンよりももっと狭いものの上に、木綿あるいは絹の上着〔저고리(振り仮名:チョゴリ)〕を着るが、その色は年齢によって異なっている。若い女性や花嫁は淡紅色か黄色であり、三十以下の婦人は紫色、さらに年長の婦人は白色である。婦人たちは、衣服の代わりに青い大きな布地を身にまとい、それを紐で腕の下で結んでいる。(305頁)

染崎延房「朝鮮事情 下」1874年

男子の衣裳は総て白衣なれど婦女童幼は色々の●物又は縞(振り仮名:ジマ)をも用ゆる事ありと云ふ(16頁)
https://dl.ndl.go.jp/pid/773797/1/16

陸軍参謀局「朝鮮近況紀聞」1876年

物産は綿布最多く苧布粉紬各色の染紬之に亜ぐ(37‐8頁)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3454684/1/22

鈴木信仁「朝鮮紀聞」1885年

笠 堂上は錆色 堂下は黒(145頁)
常帯 堂上紅又紫 堂下藍(150頁)
裳 但女少き者は紅裳老女は藍裳(154頁)
冠帯
染色は紅色、草緑(振り仮名:モヨギ)藍色、紫芝、醤(振り仮名:トビ)色、茶色、此外数多あれども専ら用うる染色は此等とす
https://dl.ndl.go.jp/pid/766885/1/93

足立銈二郎 (如囚居士)「朝鮮雑記」1894年
常服には総て白色を用ふ…小児は紅青、紫、青等の衣服を着す
https://dl.ndl.go.jp/pid/766895/1/67

朝鮮総督府「朝鮮の習俗」1925年初版、1937年改訂13版

衣服に就いても両班は淡青色のものを使用するが、常民以下は色物の上衣を付けてはならぬとかいふの類であります。(2頁)

朝鮮通信使は、鎖国政策を取っていた徳川幕府が、ほぼ唯一の例外として朝鮮王朝から招いていた外交使節です。…原色の衣装を着て、竜を描いた大きな旗を掲げ、楽隊の派手な演奏に合わせて各地を練り歩きました。
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/263318/

岡田 浩樹「白と原色のレトリック―韓民族の伝統としてのチマ・チョゴリ―」

李氏朝鮮王朝は白色の衣服の維持に費やされる労力を不経済と考え,白衣禁止令をいくどとなく発令している…ところが,人々は…あくまでも白に近づけようとし,禁令がゆるむと結局白衣を着用した.(290頁)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/senshoshi1960/38/6/38_6_284/_article/-char/ja/

「植民地」に関する著名人ら発言一覧

これは2020年9月2日作成なので、そろそろ更新する必要があるかもしれない。
植民地否定発言20200902_ページ_1
植民地否定発言20200902_ページ_2
植民地否定発言20200902_ページ_3
植民地否定発言20200902_ページ_4

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