2015年08月

「韓国の反日が日本の嫌韓を生む」説の真偽

まず武藤氏発言

韓国の反日が日本の嫌韓を生み、それが韓国の反日を促進する
NEWS ポストセブン 8月25日(火)7時6分配信

なぜ、韓国はいつまでも「反日」を止められないのか。ソウルの日本大使館前に慰安婦像が設置された際の駐韓大使で、著書『日韓対立の真相』(悟空出版刊)において外交戦の舞台裏を赤裸々に明かした武藤正敏氏が、外交官としての体験を基に「反日の構造」を解き明かす。
* * *
  慰安婦、竹島、世界遺産登録反対……韓国の度重なる「反日」的な外交により、日本では嫌韓を通り越して「韓国はもう放っておけ」という空気が蔓延している。韓国の反日が日本の嫌韓を生み、それがまた韓国の反日を促進するという負の相乗効果で日韓の対立が続いているのだ。 ・・・
※SAPIO2015年9月号
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150825-00000002-pseven-kr

しかし過去エントリ日本の朝鮮蔑視に言及した戦前資料を見れば、日本の嫌韓が先である可能性が高い。ある種の日本人は最初から嫌韓だったようだ。
 

敗戦時の文書焼却・隠蔽

まず焼却例を一つ
帳簿(証憑書)焼却(棄却)処理報告書
昭和二十一年二月三日 第百十師団砲兵隊長
第百十師団長殿
左記の通り焼却せしに付現認証相添へ報告及候也

左記
書類名称 出納期間 数量 摘要
兵器受払配当簿 昭和一九、二〇年の分 一冊 保存年限「十年」
第三類兵器受払簿 昭和一九、二〇年の分 一冊 保存年限「五年」
演習用弾薬受払簿 昭和一九、二〇年の分 一冊 
兵器諸証票綴 昭和一九、二〇年の分 一九冊 補給、返納、受入、払出とす、
兵器細目名称表 三冊
発来翰綴 昭和一九、二〇年の分 一冊
諸規定綴 一冊
兵器に関する書計画綴 昭和一九、二〇年の分 一冊
工塲〔ママ〕記録 昭和一九、二〇年の分 一冊
兵器刷〔ママ〕式に関する書類 昭和一九、二〇年の分 一冊
兵器(弾薬)受授簿 昭和一九、二〇年の分 五冊
弾薬受授簿 昭和一九、二〇年の分 三冊
右証明す
昭和二十一年弐月拾日

焼却書類現認証
一、焼却書類名称並数量
書類名称 出納期間 数量 摘要
兵器受払配当簿 昭和一九、二〇年の分 一冊 保存年限「十年」
第三類兵器受払簿 昭和一九、二〇年の分 一冊 保存年限「五年」
兵器諸証票綴 昭和一九、二〇年の分 四冊 補給、返納、受入、払出各「一」
兵器細目名称表 三冊
発来翰綴 昭和一九、二〇年の分 一冊
諸規定綴 一冊
兵器に関する書計画綴 昭和一九、二〇年の分 一冊
工場記録 昭和一九、二〇年の分 一冊
演習用弾薬受払簿 昭和一九、二〇年の分 一冊 保存年限「十年」
兵器刷〔ママ〕式に関する書類 昭和一九、二〇年の分 一冊
兵器(弾薬)受授簿 昭和一九、二〇年の分 五冊

二、焼却年月日、昭和二十年八月十八日
三、場所 河南省洛陽県洛陽西宮
四、立会者 陸軍中尉 イワブチ忠正
五、焼却事由 昭和二十年八月十五日詔書を拝し事態の急変を知る、時に周囲の状況は悪化し且急速なる後方機動等を予期せらるゝ折、上司より重要書類の処分を命ぜられたるを以て綿密なる検査を実施すると共に立会者陸軍中尉岩淵忠正監視の下に焼却せり
右事実と相違なきことを証明す。
昭和二十一年二月二日
第百十師団砲兵隊長 佐賀勝郎

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「昭和21.2 兵器関係書類焼却報告書綴 第110師団」
焼却については、たとえば以下のような通達があったようだ。これ以外にも下の方の資料には8月15日時点での通達などの話が出ている。

「昭和20.8.18 帝国陸軍復員要領(軍令陸甲第116号) 陸軍大臣」

用済後焼却
陸機密第三六九号
帝国陸軍復員要領細則規定の件達  
                  関係陸軍部隊
帝国陸軍復員要領細則左の通定む 
昭和二十年八月十八日 
                陸軍大臣 稔彦王

帝国陸軍復員要領細則
第十八条 
復員部隊の保管し又は貸与を受けある機秘密書類は其の要度に応じ復員完結迄に逐次之を処理するものとす
第十九条
戦時名簿、考科表等は死没者にして留守業務処理の終了せざるものを除き焼却するものとし兵籍、文官名簿は悉皆之を本籍地連隊区司令部に於て確実に保管し置くものとす之が為現に部隊に保管しある兵籍、文官名簿は速に之を本籍地連隊区司令部に送付するものとす。
功績名簿は死没者及生存者中殊勲功績を有するものは焼却することなく速に従来通り進達し其の他に在りては焼却するものとす。 

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焼却1焼却2焼却3

第十九条はよいとして、第十八条で機秘密書類の「処理」が意味するものは何だろうか。ちなみに次のような文書がある。
「秘」印
陸密第二七〇六号 昭和拾九年七月八日
不要陸軍秘密書類の返納に関する件陸軍一般へ通牒
昭和十九年六月三十日 陸軍省副官 菅井斌磨

陸軍部内に於て調製し部内に配布せる陸軍秘密書類の返納に関しては陸軍秘密書類取扱規則第二十四条の規定に拘はらず自今左記要領(暗号書にありては別に参謀総長の定むるところに拠る)
に拠り取扱ふことに定められたるに付依命通牒す。
追って本規定は時局柄送達途中の保安、送達機関の緩和、事務簡捷等の為真に止むを得ざる措置にして之が実施に方りては慎重確実を期すると共に一面資源愛護の為成るべく焼却することなく、碾砕機等により再生利用せられ度。又取扱規則第二十四条第一項但書に関する規定は従前通に付為念申添ふ。

左記
一、改正又は廃止の為不用と為りたる書類にして調製者に於て特に回収を必要とするもの以外は調製者より当該書類の配布先部隊の所管長官(軍司令官、師団長及之に準ずるもの並に之と同等以上の権を有する長官を謂ふ以下同じ)に対し所要の通報を為し通報を受けたる長官は之を回収の上将校監視の下に焼却処分を為すものとす。但調製者の要求ありたる場合に限り当該しょるうの表紙及特に指定する内容の某一葉を調製者に返納するものとす。何れの場合に於ても取扱規則様式第五の返納(焼却)目録(焼却監視将校の職官氏名を付記するものとす)二通を添付するものとす。
二、改正又は廃止にあらざる書類にして保管者に於て不用と認むるも任意に処分し得ざるものは所管長官に報告し所管長官は調製者と協議の上第一号に依り措置するものとす
三、隔地の隷下保管者に配布の書類にして之が返納の為輸送途中の保安確実を期し難き場合は所管長官に於て当該沿革部隊の最寄所管長官に対し所要の協議を為し保管部隊長をして該書類を提出せしめ其の処分を委託することを得。此の場合委託を受けたる所管長官は第一号に拠り措置す。但調製者の要求に依り表紙を残置せるものに在りては表紙の適宜の位置に左記の通証明し内容の指定某一葉と共に之を保管部隊長に交付するものとす。
(左記略)
四、所管長官は前号の如く処分を委託する部隊なく保管部隊に於て第一号の措置を為さしむる必要ある場合は陸軍大臣(暗号書にありては参謀総長の定むる所に拠る)の認可を受け措置するものとす。
五、本規定は朝鮮内部隊相互、台湾内部隊相互及内地(千島、小笠原、南西諸島を除く)部隊相互間には適用せざるものとす。

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陸密綴昭和19年
手続きを踏めば機密書類を焼却してよいという指示が既に昭和19年の段階で出ていたわけである。そしてその後さらに、以下の二つの通達が出ている。一〇三八号通達では上記第二七〇六号第五項の適用地域制限を撤廃し、四七二一号ではさらに一歩すすみ、もう事前の認可無しに焼却してよい、事後報告で可としている。

「秘」印 昭和廿年四月六日
陸密第一〇三八号 内地(北海道、沖縄、台湾を除き朝鮮を含む)(甲)
陸軍秘密書類の返納焼却に関する件陸軍一般へ通牒
昭和二十年三月二十三日 陸軍省副官 美山要蔵 参謀本部総務課長 柴田芳三

首題の件に関し昭和十九年六月三十日陸密第二七〇六号(不用陸軍秘密書類の返納に関する件)並に昭和十九年十一月四日陸密第四七二一号(陸軍秘密書類の処理に関する件)本文末尾の適用地域制限に関する件は自今撤廃し内外地を問はず適用する如く定められたるに付依命通牒す。
追て陸密第四七二一号通牒は関係部隊に限り配布しあるに付参考の為其の写を添付す

「秘」印
陸密第四七二一号 「写」印
陸軍秘密書類の処理に関する件通牒
昭和十九年十一月四日 陸軍省副官 菅井斌磨 参謀本部総務課長 柴田芳三

戦況の逼迫に伴ひ機密書類の為機動等を拘束せらるる部隊ある由なるも陸軍秘密書類の処理に就ては陸軍秘密書類取扱規則に拠るの外特に戦況の推移を予察し昭和十九年六月三十日付陸密第二七〇六号(暗号書にありては昭和十八年九月二十七日付大本営陸軍部参密第七十二号書第六〇〇)通牒の趣旨を活用事前に処理せられ度。真に已むを得ざる場合に於ては陸密第二七〇六号第二号調製者との協議及同第四号(参密第七十二号第六〇〇第四号)陸軍大臣(参謀総長)の認可は之を俟たず処理することを得。但し此の場合は第一号、第三号所定の外其顛末を付記報告せられ度。前項の処理報告は電報を以て代ふることを得。尚陸密第二七〇六号は同号第五号の規定に拘らず第五方面軍及第十方面軍作戦地域全般に適用する如く定められたるに依命通牒す。

通牒先 関東軍、支那派遣軍、南方軍、第十方面軍、香港占領地総督部、第五方面軍、第百九師団
参照
「大本営陸軍部参密第七十二号第六〇〇は「昭和二〇年三月二十二日付大本営陸軍部参密第二号第一六一」に改正せらる。

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陸密綴昭和20年
これで陸機密第三六九号通達の機秘密書類「処理」の意味は大体想像がつくのではないか。
次の2資料は、これら通達に基づくかどうかは知らないが終戦前の焼却例と思われるものである。
序言
本戦史資料は連合軍総司令部よりの指示事項に準拠し第二十八軍司令部に於て残存者の記憶を総合整理せるものなり。
第二十八軍は一九四五年五月以降蘭貢西北方地区に於て完全なる包囲下に陥り之を突破して新任務に就くに方り作戦に関係ある地図及個人の日誌等をも含む公私文書の一切を焼却せり。加之作戦当初よりの幕僚にして現存せるもの僅少なるを以て収集せる資料に遺漏或は過誤なきを保し難し。
一九四六年十一月三日
緬甸国「マンダレー」旧王城内に於て
第二十八軍司令部

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第三十七軍残務整理状況 昭和二一、六、二六 第三十七軍

一、残務整理の現況と業務進捗に就て
当軍に於て実施すべき整理部隊は四十個部隊なり。其の中タラカン島守備に任ぜし独立歩兵第四五五大隊ラブアン島守備に任じありたる歩兵第三七一大体ブルネイ邀撃戦斗に於ける独立歩兵第三六六大隊の全滅に近き部隊を初めとし其の他邀撃作戦及転進作戦等に依り人事書類其の他復員の為調製すべき関係書類等焼却せし部隊其の大部にして現に生死不明者一二六一名を数ふる現況を以て整理に相当の困難を予想せられあり。

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「外地各軍残務整理者会同綴 第1号 昭和21.6」

以下その他の焼却資料
「軍事極秘」印
スマトラ憲作命第二六号
第二十五軍憲兵隊命令 二〇、八、二一 ブキチンギ

経理関係細部指示
一 現金出納簿を除く一切の書類を焼却

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メダン憲兵分隊命令綴 昭和20.8.14~20.9.12

書類焼却証明書
一、焼却書類名称並に数量
左記
区分 戦用
名称 出納期間 部数 摘要
獣医資材器械簿 自昭和十九年十二月一日 至昭和二十年八月十八日

獣医資材薬物消耗品受払簿 同右 一
装蹄剔毛器械簿 同右 一
装蹄剔毛器械受払簿 同右 一
獣医資材証憑綴 同右 一

二、焼却年月日 昭和二十年八月十八日
三、場所 中華民国河南省洛陽県西宮
四、立会人 陸軍少尉片岡重俊 陸軍少尉徳重政信
五、焼却の理由 昭和二十年八月十五日停戦の詔書を拝し事態の急変を知り諸情況を考察すると共に師団の電話指示並将校会報に於て示達さるゝに及び前記立会人監視の下に焼却せり

右事実と相違なきことを証明す
昭和二十年十月一日
第百十師団工兵隊長 陸軍大尉池上文男

昭和廿年十二月拾五
右証明す
第百十師団長 木村経広

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「昭和20.8.15 書類焼却証明書 第110師団工兵隊」

昭和二十年六月策定
支那派遣軍対米作戦計画大綱
昭和二十一年五月七日再調製
支那派遣軍総司令部


一、昭和二十年八月十五日終戦と共に関係資料一切を焼却せしを以て原計画と相違しある点あるべし

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次官宛 発信者 支那派遣軍総参謀長(南京)
総参一電第一一六号

中国側より左記訓令に接(?)せるも当方に於ては終戦直後(?)全部焼却し資料皆無に付東京に資料あらば送付相煩はし度返

左記
直ちに中華民国二十六年七月七日より三十四年八月十日に至る間の中日歴次の会戦に関する日本軍の作戦計画の原案を整理し当部宛提出すべし(終)

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焼却書類現認証
一、焼却書類名称並数量
名称 出納期間 数量 摘要
兵器諸証票綴 昭和一八、一九、二〇年度分 一二冊 補給証票返納証票受入証票払出証票
二、焼却年月日 昭和二十年八月二十四日
三、場所 河南省伊陽県一二〇三高地
四、立会者(責任者) 陸軍准尉渡邊守
五、焼却の事由 昭和二十年八月十五日詔書を拝し事態の急変を知れり。時に周囲の状況は悪化し且急速なる後方機動等を予期せらる折上司より重要書類の処分を命ぜられたるを以て綿密なる検査を実施すると共に立会者陸軍准尉渡邊守監視の下に消却せり。
右事実と相違なきことを証明す。
昭和二十年八月二十八日 
歩兵第百三十九連隊 第一中隊長 陸軍少尉 葮川健太郎

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一九四六年四月二十四日付
G―二 参謀副長発終連宛
「東南『アジヤ』地区の情報に関する件」回答
一九四六年七月三十一日 
第一復員局

一九四六年四月二十四日付G―二参謀副長発終連宛「東南『アジヤ』地区の情報に関する件」参考資料を終戦時焼却せる為皆無にして多少なりとも関係せる主任者に連絡し今日迄努力して蒐集せる所別冊の如く其の内容断片的にして時に回答●●●るものある等貴方の十分なる満足を得られざるべしと思料するも事情右の如くなるに付諒承相成度

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日本高射砲威力情報に関する回答提出の件
昭和二十一年●月二日 史実部 安田中佐
渉外課完倉少佐殿

復連報第八六〇号に係る首題の件別冊の通提出致すべきに付二月五日迄に米海軍技術部に送付相煩し度し 尚関係資料焼却せられたる為細部の回答不能なる旨申添へられ度し

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「連合国軍調査関係綴(高射関係資料)昭和20年」

終連報甲第一三六号 昭二一、三、七 渉外課
日本に於ける米国映画一覧表の件
GHQ発終連報宛
三、日本に於ける全米国映画の完全なる新一覧表を出来る限り速かに提出され度
本件に関して日本政府の全機関、各省或は部局及び全映画配給機(以下判読不能)


文書所在地等の件報告
昭和二十一年四月七日 旧教育総監部残務整理部長
文書課長殿
昭和二十年十二月三十日一復第一七〇号に依る未報告の分左記の通報告す
左記
機甲本部 終戦時全部焼却せり

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レファレンスコードC15010067000(2・3枚目)
連合軍司令部の質問に対する回答文書綴(教育) 16/26 昭20.8.15~21.6.10

沖縄作戦に関する質疑に関する件回答
昭和二十年十二月二十二日
第一復員省


資料の大部焼却の為大本営主任幕僚の記憶断片的記録及作戦参加者の陳述を基礎とせり。史実不備又は若干の差異等なきを保せず。

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レファレンスコードC15010011900(2枚目)


状況報告
南方軍復員部
昭和二十一年六月二十四日

一、残務整理の現況
(一)一般状況
A 各部隊の状況
(イ)復員留守業務規定は未だ南方各部隊には到達しておらず従って各地区に依り若干の差あるも概ね陸亜普第一四三五号留守業務規程及南方軍復員規程等に拠り業務を進めて居る。然しながら左の理由により意の如く業務進捗して居らぬ実情である。
1、各種の関係上終戦後所有しありたる必要書類も乗船前焼却したこと
2、戦況及終戦の混乱時に大部の書類を焼却せること
3、自活のため全努力を傾注するを要すること
4、充分なる事務機関の存在を許可せられざること
5、消耗品の欠乏
6、労務に従事しある兵力相当大にして部隊長必ずしも部下を掌握指揮して居らぬこと
7、内地の真相が正しく伝はらず留守業務の重要性に関する認識十分ならざること
8、軍隊区分部隊多きこと

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レファレンスコードC15011031200(2枚目)
「外地各軍残務整理者会同綴 第1号 昭和21.6」

昭和二十年八月二十八日
                    第五八七設営隊長
大阪警備府司令長官殿

軍需品の処理の件報告
首題の件別冊の通有之候
(別冊添)
(終)

内務長主管
品名   称呼  数量   引渡先
上陸札  個   八〇〇  焼却

航海長主管
品名   称呼  数量   引渡先  理由
手旗甲  組   八五        焼却

主計長主管 艦営需品の部
品名          数量
海事諸例則       一  焼却処分
海軍会計法規類集   一  焼却処分
艦営需品燃料取扱例規 一  焼却処分
●●制規        一  焼却処分

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レファレンスコードC08011467000(3・39枚目)
軍需品処理目録 大阪警備府 (①-引渡目録-543)

昭和二十一年四月一日
仝年四月三十日
衛生史編纂資料
漢口 
第六方面軍軍医部

第百五十八兵站病院衛生関係書類検査所見
入院患者名簿に就て
一、終戦前の入院患者名簿を焼却しあるは不可なり


第百八十三兵站病院衛生関係書類検査所見
入院患者名簿同いろは名簿に就て
一、一部焼却(失)せられあるは不可なり


第百八十二兵站病院復員衛生関係書類検査所見
入院患者名簿に就て
1、沙洋鎮開設間及湘潭、板塘舗開設間のものの焼失)しあるは不可なり


第百四十兵站病院復員衛生関係書類検査所見
一 入院患者名簿に就て
編成以来開設せし病院患者療養所等の本簿を一切焼却せしは不可なり。四月十五日第百五十八兵站病院より引継後の本簿は概ね正確に調製しあるも左記の点訂正加除し置くを要す


病院の事務処理に関する件 昭二一、二、二八 統集団軍医部
一、現在患者を明瞭ならしむるを要す
理由、
(二)第六方面軍管内の病院部隊にして直接作戦に参加せしものは転進間書類の整備を行ふ能はず、又不慮の災害にて書類の亡失焼失せるもの亦多々あり、其の上終戦に際しては重要書類を焼却せる部隊あり 之が為再調査を〔ママ〕再発行を要すべき入院患者恩典関係書類の多々あるは予想に難からざるも復員を整斉たらしむる為に速かに此の方面の機構(例へば事務関係人員の増強)を完備するを要す。

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レファレンスコード
C08011467000(1枚目)
C13120605300(1・5枚目)
C13120605600(1枚目)
C13120605800(1枚目)
C13120606000(1・2枚目)
大東亜戦争陸軍衛生史編纂資料 昭和21.4

簿表及証憑書類処分保証書 独立歩兵第五十三大隊

簿表名称 冊数
受払簿 六

同上証憑書名 冊数 
証憑書類 九
費薬日計表綴 三
処方箋綴 六

同上記帖期間 
自昭和十八年七月十日 至昭和二十年八月十四日

取扱主任者官氏名
陸軍軍医大尉明石靖●
 
右戦用品の出納確実なる事を保証す、
尚終戦時部隊点検の上確実に出納整理せられたるを確認したる後昭和二十年八月十四日命により(桜副電第265号)之を焼却せしめたる事を証明す
昭和二十年八月十五日
独立歩兵第五十三大隊長 陸軍大尉 衛藤勇

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レファレンスコードC15010386500
「昭和20.8~9 軍需品処理調書」

海上挺進基地第三大隊戦斗概要
渡嘉敷島
昭和二十二年三月二十五日
第三十二軍残務整理部

記述者
海上挺進基地第三大隊整備中隊長
陸軍大尉 木林明


一、記述者は終始渡嘉敷島に在りし為本島転出せる部隊の状況は詳細知らず。
二、記録は全部焼却せる為月日其の他誤あるも計られず

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レファレンスコードC11110211100(2枚目)
第32軍第11船舶団 船舶部隊史実資料(1)

昭和二十二年五月起稿
第三十三特別根拠地隊戦闘情況(自昭和十九年八月五日至昭和二十年八月三十一日
第三十三特別根拠地隊参謀 海軍大佐 志柿謙吉

一、終戦後既に二ヶ年を経過し剰へ敗戦の苦闘と疫癘に悩まされたるを以て記憶朦朧として定かならざる所あり
加之作戦記録等重要資料は或は戦禍を蒙り或は終戦時焼却せるを以て頼るべきものもなし・・・

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レファレンスコード C08030731900(2枚目)

病院歴史
第百八十二兵站病院

病院歴史
昭和十九年湘桂作戦後広西省柳洲に病院を開設し昭和二十年五月三十日病院を閉鎖軍命に依り六月十七日柳洲出発漢口に向ひ反転途中八月十七日湖南省長沙県長沙市に於て停戦に依り地区警備司令官の命に依り隊属貨物宰領隊長は自隊隊属貨物中書類全部を焼却せり依て同書類に梱包しありたる病院歴史同衛星録並に其の他准拠すべき書類全部を同様焼失せるを以て全般に亘り不明事項多く各自の記憶を辿り概略を記述せんとす

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レファレンスコードC13120576900
病院歴史 昭和19~20.5

昭和十三、六、一六~二〇、八、一五
第百四師団戦史資料
104D司令部

戦史資料調査報告
昭和二十一年四月十七日
第百四師団司令部

註 
本戦史資料調査報告は終戦に伴ひ資料を焼却せる為歴戦者の記憶を辿りつつ輸送船内に於て作製せるものにして殊に旧年次に属する作戦に関しては詳細正確を期し難き点多く又数的資料無きを遺憾とす。

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レファレンスコードC13031773700(3枚目)
第104師団戦戦史資料 昭和13年6月16日~20年8月15日

鎮西兵站第三一号
軍需品、軍需工業等の処理に関する件達
昭和二十年八月十八日 鎮西集団軍司令官
軍需品、軍需工業等の処理に関し別紙の通定む

鎮西兵站第三〇号
部隊装備及集積軍需品処理改正に関する件通牒
昭和二十年八月三十日 鎮西集団参謀長
    殿
鎮西兵站第二十一号別冊の如く中改正せられたるに付依命通牒す。

一 経理関係書類の処理
2 経理関係簿表書類の焼却は出納官吏物品会計官吏、戦用品保管者等●して責任免責に必要以外のものとし且つ軍機秘密漏洩防止と併せ酌量し各級経理部長等に於て定むるものとす。既に焼却済のものに対しては免責上必要の範囲に調製し置くものとす。

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レファレンスコード
C15010820300
C15010820400
C15010821400(1枚目)
軍需品.軍需工業の処理に関する書類綴 2分冊の1 昭和20.8

戦史資料調書
昭和二十一年一月十五日調製
花蓮港陸軍病院

凡例
一、本冊は昭和二十一年一月四日台参復第一号に基き調製せる戦史資料なり。
二、昭和二十年八月九日蘇連の日本に対する宣戦の布告を知り当院の命運旦夕に迫りたるを覚悟し一切の環境を整理し全員玉砕一歩前の準備を完整し患者及之に要する最少限度の衛生材料糧秣、被服等を至短時間内に中央山脈に輸送する如く準備す、数日後終戦となり上司の命に依り大部分の書類を焼却。依而当院に拠るべき一切の書類を有せず。終戦迄の諸報告は総て上司に提出済に付戦史資料は第十方面軍及陸軍省の書類に拠らざるべからざるも復員に伴ひ命に依り記憶を辿り調製せるに付大綱に誤りなきも細部に至りては確度乙程度とす。

アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコードC11110397400(2枚目)
台湾方面関係部隊戦史資料 昭和19年~20年8月

自八月一日 至九月十五日
鈴鹿海軍航空隊戦史資料
書類焼却のため本資料を以て戦時日誌その他に代ふ

アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコードC13120536500(2枚目)
海軍一般史料>⑤航空部隊>戦闘詳報・戦時日誌>戦史資料 鈴鹿海軍航空隊 昭和20年8月1日~20年9月15日
https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/listPhoto?NO=2&DB_ID=G0000101EXTERNAL&ID=%24_ID&LANG=default&image_num=3&IS_STYLE=default&TYPE=PDF&DL_TYPE=pdf&REFCODE=C13120536600&CN=1

・・・幸運にも残った資料が、東京裁判の検察官によって証拠として採用されている。鹿児島地区憲兵隊にあった数冊のファイルもその一つであった。それによると東京からはこんな命令が伝達されていた。
 「書類処理に関する件通牒」(憲兵隊司令部本部長発各憲兵隊司令部宛8月14日付け)
 「敵手に渡り害あるもの、例えば外事防諜思想治安等の関係文書、国力判断可能の諸書類、並びに秘密歴史(二、二六号)などは必ず成る可く速やかに焼却することを要す。又暗号書、憲兵隊職員の兵籍職員表、未処理の経理及び庶務関係書類等は用済み迄残置せられ度。特に将来に亘り保存を可とするもの(例えば左翼要注意人物連名簿等)は巧妙に他に移しおくを一案とす」(東京大学社会科学研究所所蔵『極東国際軍事裁判記録』「検察側証拠書類」第41巻、P.D2594A号:読み易くするため、筆者が現代かな使いに改めた。)
 また、有罪を示す証拠をすべて破棄することに失敗した機関もあったようである。8月20日付けの新指令「秘密書類焼却に関する件通牒」には、「思わざる失態を演じたる事例多きに鑑み、之等に対する調査を綿密にすると共に、且つ焼却後に於ける庁舎内外に亘り厳密なる内務検査を実施し、秘密書類にして焼却を要するものは一片の残紙もなき様、特にその徹底を期せられ度、通牒す」(出典前掲)と述べている。たいそうな念の入れようであるが、その失態とはどんなことであったのだろうか。ブラックマンは、東京裁判『速記録』第148号から引用し次のように説明している。「この指令によると、書類がタンスの奥に張り付いていたり、机を安定させるために机の脚下に書類をはさんでいたり、書類が棚の奥に落ちていたり」というのである。また「政府や軍の上層部に対しても、家宅捜査して有罪を示す書簡や日記を捜すようにという指示があった。」としている。続けて、日本軍の各地現地司令官への機密電報(出典:『速記録』第148号、8頁、昭和20年8月20日付、東京俘虜収容所長発台湾軍参謀長宛)では、「俘虜及軍の抑留者を虐待し、或は甚だしく俘虜より悪感情を懐かれある職員は、此の際、速やかに他に転属、或は、行衛を一斉に晦(くらま)す如く処理することを可とす」「又、敵に任するを不利とする書類も、秘密書類同様、用済の後は必ず廃棄のこと」と述べている。(26頁)
http://heiwa.yomitan.jp/DAT/LIB/WEB/4/1048_vol5-2online.pdf

私は敗戦と同時に、第六方面軍渉外弁事処武昌班に配属を命ぜられ、岳州から帰ってきた逵中尉とともに即日赴任した。留守中兵站司令部では軍の命令によって陣中日誌その他命令綴など焼却してしまったので、慰安関係の参考綴やスクラップブック、調査資料集なども、その時焼却されてしまった。
(山田清吉「武漢兵站」288頁)

  こうしたなかで迎えた終戦だった。一部にはホッとした者もあったろう。しかし彼らに比べ多少でも情報の入手にめぐまれていた私たち憲兵でさえ、このうろたえようだったのだから、情報にとぼしい兵隊たちは寝耳に水のことで大変なショックであった。
  やがて重要書類が庭へ持ち出されて焼却された。この数カ月にわたる郴県分隊の記録はあとかたもなく灰となり、あとに残ったのはただいい知れぬむなしさだけであった。書類を焼いた煙が天空へ消えたとき、ようやく敗戦の実感がわいてきた。それとともにたとえようもないくやしさがこみあげるのを覚えた。
(井上源吉「戦地憲兵 中国派遣憲兵の10年間」276頁)

大急ぎで本部に出頭し、ここで初めて終戦を知り、天皇陛下の勅語のことも聞いた。本部は重要書類の焼却その他の整理で大混雑、私は高級主計に面会し、今後の処置を受ける。・・・私は南京に一泊し、翌朝滁県に帰隊する。現地人は生気を取り戻したのか何となく元気がよい。彼等の読んでいる中国の新聞を見ると、日本の敗戦が克明に大書されている。帰隊と共に、私達も身辺の整理と書類の焼却をする。日本軍が連合軍に無条件降伏したという情報が徹底されるまでには、総軍の所在地であっても三日ぐらいかかった。
(森利「モリトシの兵隊物語-一兵士の哀歓-」380頁」

吉田裕「現代歴史学と戦争責任」青木書店1997年
V敗戦前後における公文書の焼却と隠匿

○・・・鈴木貫太郎内閣の蔵相であった広瀬豊作が、「私もご承知のとおり終戦直後、資料は焼いてしまえという方針に従って焼きました。これはわれわれが閣議で決めたことですから、われわれの共同責任のわけです(3)」と回想しているし、元陸軍法務中将の大山文雄が、法務省の調査に対して、「書類の湮滅は政府の命令に基いてなされた(4)」と回答しているのも、・・・(127・128頁)

○この閣議決定〔ポツダム宣言の受諾〕が行われた頃、陸軍中央官衙の位置する市ヶ谷台上においては機密書類の焼却が開始されていた。終戦の聖断直後、参謀本部総務課長及び陸軍省高級副官から全陸軍部隊に対し、機密書類焼却の依命通牒が発せられ、市ヶ谷台上における焚書の黒煙は八月十四日午後から十六日まで続いた(5)。(128頁)

○一九四五年八月十八日、武蔵野警察署長は、東京連隊区司令官よりの通牒に基づき、管下各町村長に、「召集、徴兵、点呼関係書類ハ一切速ニ焼却ス」ることを文書をもって指示している(7)。(129頁)

○衆議院の場合、直ちにこれを拒否したとはいえ、八月十七日に陸軍省軍務局からすべての秘密会の速記録を焼却するよう要請があったし(8)、新聞社の場合でも、「軍部から戦争に関する記録写真をすべて焼却すべしという圧力が新聞社に加えられた。連合軍捕りょが連行されていたり、B29が高射砲弾を受けて墜落していたりする写真が主として処分対象となったが、軍部としては何かの写真によって軍の幹部に禍いが及ぶのを恐れたのだろう(9)」と指摘されている。(129頁)

○内務省については、敗戦当時、官房文書課事務官であった大山正が、「内務省の文書を全部焼くようにという命令が出まして、後になってどういう人にどういう迷惑がかかるか分からないから、選択なしに全部燃やせということで、内務省の裏庭で、三日三晩、炎々と夜空を焦がして燃やしました(12)」と回想している。(129頁)

○四四年七月に情報局次長を退任した村田五郎は、「政府は、われわれのような以前官吏を勤めたものに対しても、各自がその在官当時から所持していた重要書類はそれを全部焼却してくれという電話をかけて来るのでした。(中略)そんなわけで、私も当時自分が所持していた重要書類はそれを一つも残さず焼却をしたような次第です(13)」としている。(129・130頁)

○外務省の場合は、四五年八月七日決裁の「外務省文書処理方針及臨時外務省文書委員会ノ設置二関スル件」に基づき、「極秘記録」の非常焼却」が開始されている(14)。・・・臼井勝美・吉村道男・細谷千博の座談会「外交史料館の二十年と将来(15)によれば、焼却の優先順位は、「中国関係」、「ソ連関係」、「枢軸関係」の順であったという。(130頁)

○大蔵省に関しては、関連文献に乏しいが、「大蔵当局も米軍進駐直前大量の機密文書をみずから焼却している(16)」とされている。(130頁)

○「軍学協同」の先端を切った東京帝国大学航空研究所の場合でも、八月十五日以降、重要書類の焼却や機材の破壊が始まっている。富塚清は、これについて、「連中は処刑されるのがこわくて、証拠物件を消すことに汲々としているのだそうな(17)」と辛辣な批判を加えているが、・・・(130頁)

○・・・戦後、防衛庁防衛研修所戦史室に勤務した元陸軍少佐の森松俊夫が、戦史室への旧軍関係文書の受け入れに関連して次のような事実を指摘している。

  特筆されることは、戦争指導関係書類たとえば『大本営政府連絡会議議事録』『重要国策決定綴』『御前会議議事録』など、極めて重要な史料が入手されたことである。これは次のような経緯があった。
  終戦時、軍務課庶務将校中根吾一少尉が高級課員山田成利大佐の許可を得て、都下青梅沿線の自宅に搬出し、ドラム缶につめて地下に隠匿した。ついで原四郎中佐が保管を継承して都下某所に隠匿し、米軍の発見を免れるため表紙を改装した。服部卓四郎大佐は、占領時代の終了を待って本格的な戦争史の編纂を意図し、堀場一雄、原四郎、橋本正勝の3氏が分割保管するよう処置した。
  これらの書類は、記述の『大東亜戦争全史』の史料となり日の目を見たが、その後は服部氏の主宰する「史実研究所」で保管され、昭和35年に一括して戦史室に移管され、全面的に活用された(18)。

  国家の公的な記録を、もはや一私人にすぎない旧軍人グループが占領終了後も長期にわたって。いわば「私物化」してきた訳である。

  また、天皇の陸軍に対する最高統帥命令である「大陸命」およびこれに基づいて参謀総長が発する指示=「大陸指」に関しても同様の隠匿が行われた。これについて、現在、防衛庁防衛研究所戦史部が保管している「大陸命」「大陸指」の原本に付せられた「経歴票」には、次のように記されている。

  昭和二十年八月十四日大東亜戦争終戦に方り陸軍一般に保管書類焼却の指令が出されたが、第二課〔参謀本部作戦課〕においては本大陸命(指)綴のみは焼却せず、庶務将校椎名典義中尉が都内某所に隠匿し、第一復員省(局)史実調査部(資料整理部)編成に伴い、占領米軍の公私に亘る一般資料追求の監視を避けて部長宮崎周一中将が自宅に保管した。〔中略〕昭和二十一年十二月宮崎中将退職に伴い後任部長服部卓四郎大佐が保管を継承し、同大佐は占領時代終了を待って正統戦争史の本格的編纂にあたるためこれを自宅に保管した。同大佐の「大東亜戦争全史」の著述にあたりてはこれが利用された。

  ここでも、「大陸命、大陸指」綴が戦史室に移管されたのは一九六〇年のことだった。

  さらに、海軍に関しても事態はほぼ同様である。「大陸命」に相当する海軍の統帥命令は「大海令」だが、これについては富岡定俊(敗戦時の軍令部作戦部長)が「終戦に際し、大海令の原本を軍令部第一部長として保管しており、焼くように命令があった。これは天皇の戦争責任、戦犯問題を恐れたからであった。(中略)私もこれを焼こうと考えたが、戦死者の遺族が困るだろうと思って焼かずに隠した。戦争に赴いたのはすべて天皇の命令であるという証拠がないと遺族は迷うであろう(19)」と回想している。

  この「大海令」は、第二復員大臣官房史実調査部でひそかに保管されていたが、その後の状況は次のとおりである。

  〔東京裁判の〕開廷を前に、連合軍側による証拠書類の押収が厳しさをまし、当然のように史実調査部へも捜査の目はむけられた。かねてよりこのことのあるのを予想し、とくに天皇の戦争責任にたいする証拠書類となるおそれのある「大海令」を、富岡〔定俊〕部長は部下の十川潔氏(元海上自衛隊幕僚長・死去)に命じ、いずこかへ隠させた。そして、連合軍の追及にたいし、富岡部長は「書類は焼却した」とつっぱねた。〔中略〕
  一方、富岡部長の密命によって「大海令」を秘匿した十川氏は、その場所をだれにも知らせず、自分の身に万一のことがおきたときは開封するようにと、一通の封筒を富岡氏にわたした(20)。

  この「大海令」が史実調査部の事実上の後身である財団法人・史料調査会の手で、復刻という形で航海されたのは、実に一九七八年のことだった(21)。


○敗戦時、内務省地方局の事務官であった奥野誠亮は、内務省中央の焼却命令を伝達するために、原文兵衛・小林与三次・三輪良雄とともに各地方庁をまわっているが、その狙いを、「〔八月〕十五日以後は、いつ米軍が上陸してくるかもしれないので、その際にそういう文書をみられてもまづ〔ママ〕いから、一部は文書に記載しておくがその他は口頭連絡にしようということで、〔中略〕地域を分担して出かけたのです(28)」と説明している。(136頁)

○四七年一月九日の東京裁判の法廷に提出された第一復員局文書課長・美山要蔵の「証明書」(法廷証二〇〇〇番)にも、「本官は茲に昭和二十年八月十四日陸軍大臣の命令に依り高級副官の名を以て全陸軍部隊に対し『各部隊の保有する機密書類は速やかに焼却』すべき旨を指令されたことを証明する。右は在京部隊に対しては電話に依り其の他に対しては電報を以て伝達された此の電報及原稿は共に焼却された(29)」とあり、・・・(136頁)


(3)大蔵省大臣官房調査企画課編『聞書戦時財政金融史』大蔵財務協会、一九七八年、一四〇~一四一ページ。
(4)北博昭『東京裁判 大山文雄関係資料』富士出版、一九八七年、二〇一ページ。
(5)服部卓四郎「大東亜戦争全史〔復刻版〕原書房、一九六五年、九五八ページ。なお、最近、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内で、焼却処分に付されたものの焼け残りの形で土中に埋められていた機密文書類が大量に発見されている(『産経新聞』一九九六年七月一三日付)。
(7)東村山町役場「動員に関する発来翰 自昭和一六年四月至昭和二十年九月」(東村山市史編さん室所蔵)。ただし、地域によっては、焼却命令が電話によって伝達された事例もある(黒田俊雄編『村と戦争―兵事係の証言』桂書房、一九八八年、九〇~九一ページ)。後述するように、電話による伝達は、焼却を命じた証拠書類を残さないための措置だろう。
(8)大木操『大木日記』朝日新聞社、一九六九年、三四〇ページ。同『激動の衆議院秘話』第一法規出版、一九八〇年、三九五~三九六ページ。なお、最近になって、この秘密会の記録がようやく公開された。衆議院事務局編『帝国議会衆議院秘密会議事速記録集』全二巻(衆栄会、一九九六年)がそれである。
(9)日本新聞協会『新聞カメラマンの証言』日本新聞協会、一九八六年、一四ページ。
(12)大霞会編『続 内務省外史』地方財務協会、一九八七年、三〇七~三〇八ページ。
(13)内政史研究会『村田五郎氏談話速記録5」一九八二年、一五一~一五二ページ。
(14)外務省百年史編纂委員会編『外務省の百年(下)』原書房、一九六九年、一二九五~一二九七ページ。
(15)『外交史料館報』五号(一九九二年)所収。
(16)昭和大蔵省外史刊行会編『昭和大蔵省外史(下)』財経詳報社、一九六八年、二一ページ。
(17)富塚清『ある科学者の戦中日記』中公新書、一九七六年、一八〇ページ
(18)原四郎追悼録編纂刊行委員会『原四郎追悼録』非売品、一九九三年、二四ページ。
(19)史料調査会編『太平洋戦争と富岡定俊』軍事研究社、一九七一年、三二八ページ。
(20)『丸』特別調査班「さまよえる〝戦史のルーツ〟数奇の戦後史」(『丸』一九七八年六月号)。
(21)史料調査会編『大海令』(毎日新聞社、一九七八年)がそれである。
(28)自治大学校資料編集室作成『山崎内務大臣時代を語る座談会』一九六〇年、三ページ。
(29)「極東国際軍事裁判速記録」第一四八号、四ページ。
(138~141頁)

広瀬貞三「佐渡鉱山と朝鮮人労働者(1939~1945)」

(終戦後)朝鮮人を抱えた企業の反応は早かった。45名の朝鮮人がいた中央電気田口工場では、8月17日に臨時役員会を招集し、①軍事占領されたとき、軍部との関係を隠匿するため軍部との往復文書は全部焼却する、➁「半島応徴士」の取扱いは田口在住の朝鮮人「青山仙太郎」に依頼するなどの実施を決定した。(80)

[補註]
(80)中央電気工業株式会社「四十年史」編纂委員会編『中央電気工業四十年史』(同社、1975年)68頁。

軍の焼却命令メモ発見 徴兵日誌にはさまれ 鳥取
2007年07月06日08時41分

  敗戦の際、旧日本軍が全国の自治体に出した徴兵関係書類の焼却命令を記録したメモが、鳥取市の鳥取県立公文書館で確認された。燃やされなかった同県日野郡二部村(にぶそん)(現・西伯郡伯耆(ほうき)町)の「兵事動員ニ関スル日誌」の1945(昭和20)年8月15日の項にはさまっていた。研究者によると、軍の焼却命令を伝える文書が残っているのは極めて珍しく、軍部による指示の具体的内容を知る貴重な資料という。
  メモは、はがき大の紙にインクの手書きで、「連隊区司令部ヨリノ通知」として、「現在入営並(ならび)ニ応召者ノ名簿丈(だ)ケヲ残シ其他(そのた)ノ兵事関係書類ヲ全部至急焼去スル事」などと書かれていた。末尾に赤字で「二部駐在所津島巡査」とあり、当時、村の駐在所に勤務していた津島亀吉巡査(故人)が軍部からの命令を書き取り、村役場に渡したものとみられる。
  敗戦によって不要になった召集令状の回収・焼却なども指示されており、その内容は日誌にも転記されていた。日誌の翌16日午前の項には、「関係一切ノ焼去ヲ実施ス」との記述があり、命令通り焼却が行われたとみられる。
  防衛省防衛研究所戦史部の柴田武彦・主任研究官によると、敗戦時の軍内部の焼却命令は、痕跡を残さないよう、ひそかに出され、命令を伝える文書自体が焼却の対象だったという。軍から自治体に対する命令も同様の扱いだったとみられる。
  メモがはさまっていた日誌は、37年7月22日から45年11月24日まで、村民の出征先や戦死場所など、召集にかかわる出来事を564丁(丁は表裏2面のとじこみ)にわたって記録している。柴田氏は「村は日誌を残すべき名簿類に含むと判断したのではないか」と推測。その日誌にはさまっていたことで、メモが偶然、残ったとみる。
  二部村の人口は当時、2千数百人。約400人が出征し、48人が戦死した。日誌には、37年10、11月、記録上、最初の戦死者2人が出た時、知事が弔問に訪れ、約800人が参列する村葬が行われたことや、敗戦直前の45年6月13日、「未(いま)ダ兵籍編入ノ年令ニ至ラザル者」に令状が届くなど、動員システムに混乱があったことなどが書かれている。
  焼却命令のメモだけでなく、当時の召集の実態を記録した資料の発見もまれで、県立公文書館の伊藤康・総括専門員は「召集令状が役場に届いてから本人に通知されるまでの過程が分刻みで書かれるなど、村が戦争に巻き込まれていく様子が目に浮かぶようだ」と話している。
  旧二部村は合併により、溝口町を経て05年から伯耆町となった。溝口町当時の00年10月の鳥取県西部地震で役場の庁舎が被害を受け、過去の公文書の散逸を懸念した片山善博知事(当時)が公文書館での保管を指示。資料を整理中、偶然メモが見つかったという。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/OSK200707050134.html

敗戦直後、機密書類の焼却指示 宮内省、日時と場所指定
2013年8月23日19時2分
写真:旧宮内省が機密書類の焼却を指示した1945年8月18日付文書。22日までに焼くよう指示している

  【佐藤純】敗戦直後、当時の宮内省が機密書類の焼却を省内に指示した文書が、宮内庁の宮内公文書館に残っていた。朝日新聞記者が閲覧して見つけ、承諾を得て撮影した。陸海軍が戦争犯罪の追及を恐れて機密書類を焼いたことは知られているが、政府機関の中枢が焼却を指示した公文書が見つかるのは極めて珍しい。
  1945年8月18日付の「機密書類ノ焼却ノ件」と題する文書で、宮内省の大臣官房から省内の各部局長あてに出された。「侍従職昭和二十年重要雑録」という簿冊にとじられていた。
  各部局が保管する文書類や、陸海軍などから同省に送られてきた文書類のうち、「機密ニ属シ破棄相当ト認ムベキモノ」を「原簿ト共ニ之ノ際全部焼却スルコト」と指示し、8月18~22日の午前9時~午後3時に「宮城内三重櫓(やぐら)下(自動車課前蓮池寄石垣下)」で焼くよう指定している。
http://megalodon.jp/2013-0823-1919-40/www.asahi.com/national/update/0823/TKY201308230081.html

終戦前後における參謀本部と地理学者との交流、および陸地測量部から地理調査所への改組について(渡辺正氏資料をもとに)
金窪敏知(元国土地理院)

Ⅴ 終戦に伴う書類(地図を含む)の焼却について
 ポツダム宣言の受諾、そして終戦に伴い、昭和20年8月15日付で「陸軍秘密書類其ノ他重要ト認ムル書類(原簿共)」の焼却命令が参謀総長名で発せられました(渡辺氏資料6)。ここでいう「其ノ他重要ト認ムル書類」には地図、兵要地誌を含んでおります。続いて8月19日付で「作戦用地図処理要領」の通牒が発せられ、細部にわたる指示が行われました(渡辺氏資料8)。指示の内容はおおむね次のようです。
(1)參謀本部においては、内邦地形図のうち軍事極秘である2万、1 万、5千分1図、および滿洲、「ソ」領、関東州の10万、5万、2万5千、5千分1の軍事極秘以上の地図ならびに各地域の兵要地誌図は焼却する。また、内邦地形図のうち軍事極秘(戦地に在りては極秘)および軍事秘密(戦地に在りては極秘)である5万、2万5千分1図は一部残置し焼却する。
(2)部隊、官衙、学校においては、參謀本部に準じるほか、三角点成果表および2万分1以上の実測図(築城・射撃のための測図を含む)は焼却する。
(3)陸地測量部においては、原図、初刷、三角点成果表は成るべく保管する。原版はそのまま残置するが、ただし軍事極秘である2万、1万、5 千分1のものは焼却または破壊する。印刷機、資材等は残置する。ただし一部のレンズは保管する。資材のうち所要のものは職員に貸与支給する。
(4)民間印刷会社においては、印刷した5万分1地形図および20万分1 帝国図は印刷会社に貸与する。用紙、薬品、亜鉛版等は陸測主任者と経理上の協議(例えば印刷費を該資材によって現品払いをするような)の上印刷会社に交付する。

  原図原版等処理区分表によれば、樺太、朝鮮、台湾、滿洲、シベリヤ、支那、南方に関する原図、原版は焼却、初刷(印刷図の第1号)は秘匿、また、地図(印刷図)はシベリヤ、支那、南方に関するものを焼却、となっています
  以上のような指示に従って、直接作戦に関係する軍事極秘の大縮尺図等は焼却されましたが、指示対象外の地図類はこの限りでありませんでした。ただし、最初の8月15日付の命令に従って焼却されてしまったものもかなりあったと思われます。
http://www.let.osaka-u.ac.jp/geography/gaihouzu/newsletter2/pdf/n2_s3_1.pdf

■重要書類の焼却命令
  日本政府と軍はポツダム宣言の受諾を決定した後、ただちに、関係省庁や軍のすべての機関に対して、重要書類の焼却を通達していました。陸軍では8月15日付で参謀総長名の「陸軍秘密書類焼却ニ関スル件」が通達され、陸地測量部においては玉音放送終了後、疎開先の波田国民学校や梓国民学校の校庭に防空壕用に掘った穴の中で地図類を次々を燃やしていきました。

■突然の焼却作業変更命令
  地図類が燃やされていくのを目の当たりにした渡邊参謀は、「日本の復興のため将来必要となる地図まで焼却することはない」と考え、「陸地測量部処理要綱案の具申とともに、「地図の保存」を進言しまSKた。8月19日、焼却の命令変更となる「情勢の転変に伴ふ作戦用地図処理要綱の件通牒」が出され、残すものは残すということになりました。本土決戦用の地図(マルタ作業地図)など優先的に燃やされたためほとんど残らなかったものもありますが、陸地測量部にあった少なくない測量成果や地図類といった貴重な資料が失われることは避けられました。

これのことか
昭和弐拾年●●拾五日
宛名 第二総軍司令官其他へ
件名 陸軍秘密書類焼却に関する件

アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコードC15010958100(4枚目)
「陸密(電)陸機密(電)番号簿 昭和20年」

ロシア(ソ連)の参戦も耳にしましたが、この頃、終戦の前日、1年生は金剛山の麓の小学校やお寺に疎開し、私は教室が4つしかない小さな小学校で一晩を過ごしました。翌日、重大放送があるというので急ぎ帰校し、全校の職員・生徒が正装してラジオの前に整列しました。雲の上の人、と思っていた初めて耳にする天皇の声──雑音が多く、殆ど聞きとれませんでしたが、「敵は残虐なる爆弾を使用し……」とか「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び……」あたりだけは耳に残りました。放送のあと校長閣下は「こういう時局であるから各自は戦意を高揚し、一層奮励努力するように」というような短いスピーチをされましたから、校長も放送内容を聞きとれなかったのだと思います。しかし3時間くらい経って、どうも戦争は終わったらしいという噂が生徒の間に流れました。そしてその晩から書類の焼却が始まり、それは延々と何十時間も続きました
http://www.geocities.jp/shougen60/shougen-list/m-S6-rensai5.html

『市史研究よこはま』創刊号
   横浜市史編集室/編集・発行
   1987年3月
http://www.city.yokohama.lg.jp/somu/org/gyosei/sisi/city-history

■「座談会・終戦前後の混乱期を顧みる」
年月日 昭和59年6月22日
場所 横浜開港資料館
出席者
船引守一 元横浜市助役
大下寿一 元横浜市助役
彦由亀一 元横浜市教育長
菊谷勇夫 元横浜市助役
(司会)西池伸弥 横浜開港資料館副館長

終戦を迎える
◎市役所を老松の仮庁舎へ
◎地下足袋持って農協もうで
◎終戦の前夜に終戦を知る
◎終戦への対応を協議
公文書焼却は手当たり次第
◎終戦後、職員は自然復帰
◎倉庫開放は応急措置
http://www.city.yokohama.lg.jp/somu/org/gyosei/sisi/city-history/cityhistory1.html

質問(Question)兵事関係の書類の焼却命令が戦後、陸軍それから海軍と、全国の1万521市町村の兵事係にくだったが、埼玉県はどのような対応をしたのか。また、この焼却命令に関する詳しい資料があれば、あわせて紹介してほしい。

回答(Answer)
●埼玉県の対応について
・『文書館紀要第8号』埼玉県立文書館/編集 埼玉県立文書館 1995
p92~99
①昭和19年3月に県の行政文書が供出・廃棄されたことを示す庶務部の資料
②終戦直後における勤労動員関係文書の焼却の様子を記す県職員の手記
③酒類販売会社から役場あてに出された、戦時中の軍関係資料の廃棄依頼文書が紹介されている。
●焼却命令に関する記述があった資料(いずれも記述は部分的)
・『望郷姫路広畑俘虜収容所通譯日記』柳谷郁子/著 鳥影社 2011.12
p151敗戦の際、軍部が全国の自治体に出した徴兵関係書類ほかの焼却命令を記録したメモが鳥取県立公文書館で確認されたとの記述あり。
・『「地圖」が語る日本の歴史』菊地正浩/著暁印書館2007.4
p25「日本政府と陸・海軍はポツダム宣言受諾決定直後、直ちに、各関係省庁、軍部全ての機関に対して、重要書類の焼却を通達していった。~」とある。p33焼却を命じる通達本文の掲載あり。
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000104736

アジア太平洋戦争期における陸軍工員の人事記録――工員名簿,工員手帳,共済組合員原票,留守名簿の制度的概略と戦後の残存状況
近藤 貴明

アジア太平洋戦争において,国民皆兵制度を導入していた日本の陸軍は,国民の大量動員を計画・実施したが,このことは同時に,陸軍に膨大な量の人事記録を作成・保管する事務的作業を求める結果となった。陸軍の人事記録の代表的なものとして,陸軍軍人の戸籍に相当する陸軍兵籍や 動員部隊が作成した戦時名簿などが挙げられるが,終戦あるいは火災などによる焼失が原因で,これらの人事記録の全国的な保管率は約70パーセントであるといわれている(1)。

(1)群馬県県民生活部世話課編『群馬県復員援護史』群馬県,1974年,757頁,富山県厚生部社会福祉課編『富山県終戦処理史』富山県,1975年,776頁。終戦時,軍の命令により陸軍兵籍の大半を焼却した県としては,大分県,宮崎県,戦後の庁舎火災により陸軍兵籍を焼失した県としては,秋田県,宮城県,島根県の例がある。島根県健康福祉部高齢者福祉課「こんにちは島根県です」『恩給』第210号,1996年5月,26頁,宮崎県福祉生活部高齢者・援護課「こんにちは宮崎県です」『恩給』第219号,1997年11月,26頁,大分県福祉保健部高齢者福祉課「こんにちは大分県です」『恩給』第236号,2000年9月,27頁,宮城県保健福祉部社会福祉課「こんにちは宮城県です」『恩給』第245号,2002年3月,24頁,秋田県健康福祉部福祉政策課「こんにちは秋田県です」『恩給』第257号,2004年3月,22頁。
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/638/638-03.pdf

その受領書は終戦時ゴム林の中にて、横浜正金銀行支店長立会いの下、軍票(日本軍が発行した占領地用通貨)其の他軍関係の重要書類とともに焼却処分にした。戦後の賠償発生を恐れて、軍に関係したものはすべて焼却したのだ。この時に、自分の軍隊手帳や写真なども一緒に焼却してしまった。
http://www.toshima.ne.jp/~torasima/senso13.html

Q:井形さんは特高警察官として終戦の8月15日を迎えますよね、何をしてたんですか。特高課にあるね、書類はね、全部焼けと。

Q:特高の書類を。
うん、これがね。

Q:上司から。
いやこれはね、日本全国の役所いうもんはね、戦争に関係あるものは全部焼けいうような、東京の内務省警保局からみな出た、役所に関係あるね、戦争に関係あるものはどこの役所もみな焼いた。みな持ち出して。

Q:井形さんは特高に関する資料を。
とにかく特高課の部屋にある全部書類、全部戦争に関係あるいうて、もう全部焼けっちゅう。

Q:処分している時の映像と言うか、記憶は今でもはっきり覚えていますか。
覚えていますよ。あの、手配書がね、手配書いうのは文書にしてあるのと、書いてある文書を写真に撮ったものを指名手配しているわけ、こういうものを投書したり、相手方に送ったりしたから、これを書いたね、本人を逮捕せよと言う指名手配書の代わりに写真に撮ったものを。

Q:反戦だとか、天皇制批判だとかの、投書や手紙の写真を。
そうそう、写真みな。

Q:目にしたんですね、それを見た時はどんな気持ちだったんですか
いやせやからね、指名手配である、写真に撮ったものをね、そういうもんがあるということを聞いてたけどやね、実物を見たんは初めてですよ。だからそれを見た時と言うのは、あのこんなこと何年か前に外勤巡査の時も報告しとったなあと、ね、陰ながら東条の批判したっていうのは、こと聞いてても、実物は知らんわけですわ。こんなもんでね、殺された人間もあるんだと思ったらね、これはもう大事にせないかんと。

Q:それを目にした時、井形さんはどうしようと思ったんですか。
残さないかん。

Q:残さなければいけない。
後世に残さないかんしやな、ひょっとしたら持ち帰ることによって分かって発覚したらね、もちろんね、いわゆる免職になりますわな、くび。

Q:上司の命令に背いて。焼けと言われたものですよね。
そうですよ、上司の命令に反してる、上司の命令に反しもしてるし、文書なんかをね、警察の関係の書類を持ち出す言うのは犯罪ですわな、そりゃ怖いですよ。

Q:それでも持ち帰ったのは。
こういうね、命をかけてやっていることに、やっぱり僕はね、後世に残さなかったら日本にレジスタンスがなかったんじゃないかなと、いうことになるんじゃないかなと、思ったですからね。

Q:それをどうやって、どのくらい持ち帰ったんですか。
かなりありましたよ。件数にしたら300~500点くらいあったと思う、公然と持ち帰られんからね、それは。

Q:隠れてこっそりと。
うん。
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001160003_00000

軍関係文書の焼却指示書が現存

  終戦直後に国が警察を通じて市町村に軍事関係の文書の焼却を命じた文書が、福山市の福山城博物館に現存している。広島県瀬戸村(現福山市)が保管していた1945年8月30日付の公文書。このほか同県有磨(ありま)村(同)が翌46年、連合国軍総司令部(GHQ)の求めに応じて作成した廃棄公文書のリストも残っている。国が軍事機密を含む戦時中の記録を消し去ろうとしたことを裏付ける資料として専門家も注目している。
http://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=178389&comment_sub_id=0&category_id=112
 
犬山高校のあゆみ終戦直後の犬山高校のこと

学徒動員、勤労奉仕ばかりで、ほとんど勉強どころか、学生生活を送ることのできなかった犬山高女生も終戦を迎え、少しずつ学校に戻ってきました。何人かは学校に戻ることもなく、行方もわかりませんが、昭和20年8月20日、各所に動員されていた生徒、勤労奉仕に出かけていた生徒、上級生も下級生も、さつまいも畑と化した運動場のある学校に集まり、 講堂で、中村二郎校長の話を聞きました。戦後の犬山高女の始まりです。

この戦後すぐの混乱について、加藤由治先生はこう記しています。

県から次々に指令が来る。動員中止、工場より引き上げ、休業に入る、動員関係書類の焼却処分、女学校は閉鎖できる手配をせよ、とか、ヒステリックな電話連絡がある。熱湯で手を洗うが如く成すべき方法がない。軍事関係の記事はすべて抹消すべしとて、図書室備品の書籍を墨で真黒に消したり、疑われ易い書類の一切は中庭で焼却を二日も三日もした。多分九月二十日と記憶しているが、残暑きびしい日、附設課程専攻科の卒業式があった。物資不足の時とて、画用紙に卒業証書を謄写印刷して授与されたはず。夢多かるべき青春時代も戦争によって踏みにじられ、前途灰色の社会へ巣立ったのである。巣立ちゆく者に幸あれと祈りつつも惜別の情も複雑きわまるものがあった。更に希望者は半か年不如意ながら学窓に在って翌二十一年三月卒業した。一学級九十名以上にもなったが、だんだん縁故をたよって安息の地へと離れていき減少していった。昭和二十一年四月高女最終入学式となる。混乱不安の裡にも復興の兆となる。
http://www.inuyama-h.aichi-c.ed.jp/ayumi/index96.htm

-役場の兵事資料を持ち帰った兵事係-西邑仁平さん(明治37年生まれ 長浜市)

西邑さんは、大正11年18歳で役場に入り、昭和5年から終戦まで兵事係を勤め、軍司令部から届く召集令状(赤紙)の伝達や戦死公報の通達のほか、入隊先への慰問や銃後活動の事務なども行っていました。
昭和20年8月15日、終戦と同時に、大本営から、兵事に関ずる重要書類は虎姫警察署へ持参せよとの命令が下り、その他の書類についても焼却せよとの命令が下りました。その命を受けて、西邑さんは「お国のためにと、戦争に行かれた方の苦労や功績が無駄になってしまう」と思い、資料の大半を、夜中たった一人でリヤカーに積んで持ち帰りました。
「燃やしてしもたら、終いになる。隠しちゃれ、思うたんや。こういう事があったということをね。後の者のために残しておこうと思たんや。進駐軍に知れたらアカンと思て、誰にも言わなんだ。嫁にも内緒やった。そらぁ、怖かったけど、今、思うとね、残しておいて、良かったんや。」 西邑さんが保管していた資料は、動員日誌や徴兵検査の書類など約九百点にも上ります。
http://www.pref.shiga.lg.jp/heiwa/tenji/jyugo_taiken8.html

江田島本校の終戦処理では,重要資料を如何にして守るかが問題になって,何度も教官会議が開かれた。その結果,大講堂2階と教育参考館に展示してあった御下賜品,戦死した先輩が残した遺品,軍の機密に属する文書などは大部分焼却処分することとなり,生徒たちは3日問にわたって練兵場で焼却作業を行ったが,燃えあがる炎を囲んで両眼から涙を流しながら軍歌を合唱し続けた。東郷元帥の遺影その他の貴重品は宮島の厳島神社や大三島の大山祗神社に奉納して,国外に持ち去られることを防ぎ,赤煉瓦造りの門柱に嵌めてあった青銅製の「海軍兵学校」の門標は江田島本浦の八幡神社に預けた。
http://www.naniwa-navy.com/kaihei-haisen-haikou1.html

一方、府立総合資料館(京都市左京区)には、終戦前後に処分された府の行政文書リストが残る。徴集名簿、支那事変功績調書綴、思想要注意人名簿。廃棄文書は9千点を超える。失われなければ国家総動員体制下の京都の姿に迫れただろう。
http://kyoto-np.co.jp/info/special/postwar70/index.html

残された戦時機密資料(平成24年1月)

暮れも押し迫った12月17日、大町市文化会館で一本のドキュメンタリー映画の上映会が行われました。映画の名は「大本営最後の指令〜残された戦時機密資料が語るもの〜」。題名が示すように、太平洋戦争の終戦直後に出された一通の指令文書が発端となっています。昭和20年8月18日に大本営から全国に出された命令は、全国の市町村役場で行われていた徴兵事務などすべての戦時中の軍事に関する書類をいっさい処分せよというものでした。ですからこうした文書類は今どこにも残っているはずはないのですが、平成20年4月、現在大町市となっている旧社村の旧家の土蔵から兵事資料が発見されたのです。戦時中ずっと社村役場で兵事係として事務に当たっていた大日向正門さんは、終戦直後、こうした秘密書類一式を廃棄せずに自宅に持ち帰り、蔵の奥に固く仕舞い置いたのです。平成18年に91歳で世を去った正門さんの一周忌が終わったあと、家族が蔵に入って奥の箪笥を開けたところ、大量の資料が出てきたのです。・・・
正門さんが、終戦時に、軍の命令に背いてまで、記録を残そうとした気持は、今となってはわかりませんが、指令書の文言には、まるで「逃げ」を打つかのように、「特ニ保存アルモノハ所轄官庁ニ打合ノ上隠匿スル等適宜ノ措置(特に必要なものであれば管轄の役所と打合せて隠匿するなど適宜処理)」をしてもよい旨の記載があり、きっとこの部分を広く解釈して資料を焼却処分しないで残したのではないかと思われます。
http://www.city.omachi.nagano.jp/00001000/00001100/00001110/00001871.html

1945年(昭和20年)8月15日、日本は連合国に対して無条件降伏した。私のいた航空隊でも、正午に重大放送があるとのことで、隊で整列させられ、「玉音放送」を聞いた。しかし、陸軍のなかの反乱軍が妨害電波を発していたために、途切れ途切れでよく聞こえなかった。終戦、日本は負けたと知ると、言い知れぬ脱力感に襲われ、これからどうなるか考えようにも、まったく予想ができなかった。やがて海軍省などから慰撫書が届き、海軍軍人は悉く武装解除、日本海軍は解体することとなった。軍艦旗は降下奉焼され、連日書類は焼却された。終戦の翌日、三重空では香良洲浜で予備学生(森崎湊少尉候補生)が割腹自殺したという。ただ、東京で終戦直前に近衛師団、横浜警備隊などの反乱軍が、森近衛師団長を殺害し、首相官邸などを襲撃したようなことは首都圏以外では起こらなかったし、終戦直後もさほど大きな混乱はなかったと思う。
http://www.shimousa.net/techou/techou_kaigunkouku.html

八月一五日、総督府の臨時雇いであった長田かな子は、ソ連軍が京城にやってくるのは時間の問題と思った。「どうやったら痛くなく死ねるだろうと重苦しい思いが、頭を離れなかった」。部屋でボーっとしていると、職員が来て、「燃やして燃やして」とセッカチにいう。気がつくと、庁舎の各階の窓からポンポンと書類を投げおろし、油をかけて焼却していた(長田、一一六)。※引用ここまで

参考文献
長田かな子「四五年八月十五日」『季刊三千里』一九八二年秋号。

(高崎宗司「植民地朝鮮の日本人」岩波新書p197)

  昭和十八年十二月、東京の海軍経理学校に入学、 改めて特修兵として養成された。この経理学校は昭和十九年五月に卒業、今度は上海特別陸戦隊へ赴任となった。
  上海特別陸戦隊は約三千人の部隊で、蘇州派遣隊など多くの派遣隊も所属し、中には航空隊もあった。仕事は各部隊の要請、請求によって、軍需部へ請求する業務であり、毎日カバンを持って軍需部へ通う日々であった。
  昭和二十年八月十五日の終戦の放送は、全員が中央広場に整列して聞き、それからは毎日書類の焼却を行った。(384頁)島田・中国
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_383_1.pdf

  隊長が演壇に立って「これから断腸の思いで皆に伝える、我が日本帝国は無条件降伏した旨連絡が入った。このことはデマではない、恐れ多くも天皇陛下が玉音放送され、その録音が流さて来たから間違いない、皆も残念だろうが気を沈めて今後の指示に従うよう。以上」と悔やし涙を浮かべながら隊長室へ戻られました。
  このことを聞いた隊員全員は、ただ呆然としてその場に座り込みました。無言の座り込みが十五分ぐらいたったころ週番士官が出て来て「これから内務班に行って兵器を除く私物(日の丸、千人針の胴巻、写真、手帳、メモ等一切)を持参するよう」との命令があり、早速、私物を持参し整列しますと、再度週番士官が出て来て「これから証拠隠滅を理由に持ってきた全私物を焼却処分するから協力せよ。中には日本国の武運長久、諸君の無事帰還などを願っての国旗、胴巻、お守り等あるだろうが、上部からの命令であるから従うように」と士官自ら自分の私物に油を掛け、マッチで火を点け、これに習い次々と全員投げ込み焼却しました。 
  しかし私は軍隊手帳だけは焼かずに隠し持って復員、現在も大事に保管しております。(166・167頁)斎藤・中国
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_161_1.pdf

二十日過ぎに軍命令が出て、我々は飛行作業を行う飛行機のプロペラをすべての飛行機からはずすことになった。これで本当に戦争は終わったのだと自分に言い聞かせたのであった。二、三日は飛行場に行って飛行機のプロペラはずしの手伝いをしたり、燃料を飛行機から抜いたりしていた。 ・・・昼間の作業が終わり兵舎に戻ると、上から我々の所持品で飛行日誌、考課表、写真などを兵舎の裏で焼くようにとの指示が出て、皆が次々に燃える火に書類を投じた。私は飛行日誌の一部を破いてアルバムとともに衣嚢の底に隠しておいた。(131頁)安藤・千歳基地
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_125_1.pdf

  自動車で品物受領に行く。何だか今日は住民が変だ品物が値上りしている。不思議に思っていると病院より迎えに来て直ぐ帰れという。病院に帰ったら前の外科病院で「わっ」泣き叫ぶ声が高い。日本は戦争に負けたとのこと、明日は手足のなくなったダルマ病人は皆殺し、兵隊は去勢し、日本魂を何とかするとか、何だか分からないデマで大騒ぎとなり、重要書類等は全部焼き払う始末である。南方軍の元気な者は最後の一兵まで戦うのだと言う。(341・342頁)安藤・カンボジア?
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_332_1.pdf

  八月十五日の終戦は、誰からともなく聞き、二十日ごろに知りました。八月二十五日、復員の指令が出て、十月四日に武装解除となりましたが、その前に機密書類等は焼却処分したり、三八式歩兵銃の菊の御紋などはヤスリで消してから提出しました。(199頁)吉田・中国
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_195_1.pdf

九月に入って中国軍が進駐して来ました。武装解除と言うことでしたので、機密書類や軍隊手帳等を焼いたり、三八式歩兵銃の菊の御紋章をヤスリで潰したりしてから武装解除となりました。(194頁)日沼・中国
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_192_1.pdf

  ジャングルの生活も馴れて来たころ住民の様子がおかしい。後で聞いたのだがニューデリーからの放送で日本に原爆が投下されたこと、沖縄が米軍に占領されたことなどを知ったのだった。
  八月十二日、連隊本部から帰還命令があった。急遽ハノイへ帰還する。八月十四日、命令により連隊本部の書類の焼却作業をする。何か非常時になったような緊張感が周囲から感じられる。翌八月十五日、全員連隊本部の広場に集合、数百人の将兵が整列して待つこと三十分、ラジオから天皇陛下の終戦の勅令の放送が聞こえて来たが六千キロも離れているためか聞こえ難かった。日本は連合軍に無条件降伏をしたと聞かされた時、どうしても信じられず夢を見ているように茫然として何もする気がしなかった。(175・176頁)紺谷・ベトナム
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_166_1.pdf

艇は野母崎港に入り、上陸後、再び男女群島で八月十五日午前まで戦闘配置についた。十二時、重要な放送があると言われたが、雑音にて全然聞き取れなかった。
  しかし、通信の方から「日本が負けた」とのこととて、とても残念でたまらなかった。司令部より、直ぐ帰るようにとの信号を受信。佐世保港に帰る。直ちに兵器・弾薬を海に捨て機密書類を焼くようにとの命令があった。私達は、赤本数十冊、極秘書類数冊を焼き捨てた。これで赤本ともお別れだと思い、感無量であった。(522頁)榊田・内地
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/14onketsu/O_14_504_1.pdf

昭和二十年八月下旬。書類は全部焼却処分せよと命令あり。重要書類、個人の手紙、写真等、大きな穴を掘り、各人次々と焼却。チョンガー(独身者)は父母の、妻帯者は妻や子供の写真、手紙を郵便貯金通牒も、皆灰にした。敗戦である。(444頁)横井・ラバウル

 終戦と同時に病院の自動車壕や庭で、書類その他、兵隊は写真をはじめ手帳に至るまで一切、占領後の対処のため焼きました。そのため、戦後、兵籍を証明する資料がなく苦労した人々もいたことは事実でありました。(523頁)高橋・内地

 終戦となって戦後処理のために、岐阜県加納町の司令部の例の二重金庫の中にあった極秘文書を焼却するために、払暁から日没後まで、八月の炎天下で瀧のごとき汗を流しながら作業しました。結局自宅に帰ったのは九月の末でした。友達がお前は「糞真面目だ」と笑っていました。(487頁)向山・内地

 十七日部隊全員集合して、終戦の聖旨が伝達さる。各種の公用文書は師団命令により焼却する。中国軍の徴発兵器など全部池や川に投棄す。(4頁)清嶋・中国
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_001_1.pdf

私は軍隊在職中は司令部勤務であり、また除隊後は現地での買い付け業務等をやっておりましたので、軍に関する写真や、その他の資料も種々持っておりました。しかし蒋介石軍や八路軍等の持物検査の際にすべて焼却処分をしてしまいましたので、当時の事情に関する資料は有りません。(576頁)今井・中国

昭和二十年八月十五日に天皇陛下の玉音放送があると言うので、兵隊だけが紀ノ川の堤防の上に集結して天皇陛下の放送を聞き、早速作業は中止して、勤労奉仕団の人達には帰ってもらいました。
 兵隊は隊に帰り、星のついている物や帽子の紋章、軍隊手帳などの焼却をしました。(197頁)佐々木・内地

 次第にポツダム派の人々は小さくなり、逃げ腰となり、九州のものはほとんど、この地を守るのだと工事を始め、重要書類の焼却、今でも米軍と刺し違える態勢ができた。(516頁)中島・内地

 今まで不眠不休で暗号の解読に頑張って来たが、日本の無条件降伏を聞いて気力喪失、全くやる気が無くなってしまった。・・・私たちは日本の負担が少しでも軽くなるようにと、持っていた軍票を全部焼却した。(p40)
 暗号班全員が小高い台地で「暗号書」「乱数表」「極秘書類」を大量に焼却していた夕暮れ、衛兵小隊が「暗号班何をやっとる。師団長以下全員引き揚げるぞ」と言って来た。しかし極秘の書類や暗号書を半分焼却のままで放って帰るわけにも行かず、結局暗号班のみ残留することになった。(41頁)加藤・中国

突然、防空壕掘りの中止を命ぜられ兵舎に帰りますと、上官が書類を燃やしており、「何事ですか」と尋ねますと「戦争は終わった負けたよ」と教えられ、へなへなと座り込みました。その日こそ忘れ得ない八月十五日でした。(426頁)佐藤・シンガポール

 九月一日、艦長より電報が来ました。電文には「キトウセヨ・セカ」潜水艦に帰れと潜水艦艦長からの電報です。一夜だけの帰宅でしたが、すぐ 帰艦しました。残務整理をせよとのことでしたが、約半数は復帰しませんでした。またわずか一夜の間に、軍需物資が多量に紛失していました。残務整理として潜水艦隊勤務者の戦時国債及び乗勤手当の金銭帳簿、航海日誌、機関日誌等の処置や処理について、上級職の指示にて処分しました。また艦内外の主要個所や攻撃用兵器等も総べて隠密 裡に処理しました。(600・601頁)池野・内地
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_596_1.pdf

この空爆により司令本部の機能が遂行出来なくなり、後方に撤退することになりました。そして制空権を握られているので、スコールの激しい時機を選んで機密書類を急ぎ処分し、五時間後に波止場に集合せよとの命令があるという慌ただしい撤退行動でした。(622頁)永木・ニューギニア
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_617_1.pdf

武装解除の命令が来て、全員で軍隊手帳や部隊の作業日報、会計簿等秘密書類を焼却したり、小銃の菊の御紋章をヤスリで削り取ったりして準備した。(100頁)舟山・朝鮮咸興
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_094_1.pdf

 一方的防戦の続く中、八月十五日終戦の詔勅下る。我々に対し海軍航空隊より徹底抗戦の呼び掛けがあったが、特に我が中隊は、短略的な感情論に組せず、斉藤中隊長の下に団結し、師団命令を尊重する方針を取った。旬日を経ず米軍より師団所有の全機を飛行場に並べ、一週間以内に全機のペラも外せとの命令が来た。
 急遽重要書類(私物を含め)を焼却する。次いで第一線の空中勤務者は、早急に解任、帰郷さすべしの令下る。我々は九月一日付にて解任、除隊なる。小生は九月十五日、宇都宮から東京経由で帰神しました。(482頁)柏井・内地
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_472_1.pdf

終戦前夜からシベリアに向かうまで
 八月十四日の朝が来ました。定刻時間に「オキロヨオキロミナオキロー」の起床ラッパに起こされて、平常どおり補充兵を引率して車庫に着き、もう後はない、明日にも敵はここ近くまで攻めています。せめて小銃の撃ち方をと教え、その日も暮れました。
 夕方の点呼のとき「いよいよ明日、迎撃のため出陣することになった。貴様たち基幹要員は夕食後、将校が携帯する(奉天(瀋陽)及び四平街周辺拡大地図)の作成にかかれ。それが終わり次第身辺の整理をせよ。遺書など書いた者は、班長室に届けよ」と通達されたのです。
 「とうとう来たな」「明日は十万両の棺桶で、ハイさよならか」「俺が戦死したら、彼女が泣くだろうなあ」「まあ、しょうがないぞ。あしたはロ助の戦車を木っ端みじんにしたろうじゃないか」お互い勝手なことを言いながら、地図の作成を終わったのは夜中の十二時を過ぎておりました。
 いろいろ教育を受けた帳面・好きな歌や絵のノート・操典などを燃やして、残った物は寄せ書きされた日章旗と千人針。ここが戦場になると果たして遺書を書いても国には届かないと思ったが、先程までガヤガヤしていた室内も静かになり、みんな真剣な顔をして便せんに向かっている。よし自分もと、便せんを広げました。(80頁)河村・満州
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/14onketsu/O_14_072_1.pdf

 福岡中尉の言葉や師団司令部の模様で敗戦であるという真実性を知ることができた。早速に、機密漏洩維持〔ママ〕のためと、復員に支障があってはと思い、丸秘重要書類その他を焼却するのに二日もかかってしまった。(48頁)竹内・中国
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_038_1.pdf
 
 (1945年)十一月、すべての日本文を焼却せよと厳命が通達されました。捕虜か? 行先は? など流言が乱れ飛び、その焦燥感に戸惑う思いでした。(117・118頁)坂・パラオ
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_114_1.pdf

 突如、ソ連が参戦。 
 訓練も中止となり、終戦を迎えました。それからは、毎日、何箱、何十箱の書類の焼却に従事しました。重要書類かどうかの区別も分かりません。毎日、天を焦がす煙を見て暮らしました。(341頁)板倉・満州https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_339_1.pdf

そして転属五日後、師団司令部において終戦の詔勅のラジオ放送を聞くことになる。司令部の将校、職員は割と平静に見え、司令部の二階からたくさんの書類を地上に下ろし、かねて掘られた穴で、それを焚く炎と煙がずっと上がった。(146頁)上津原・朝鮮京城https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_137_1.pdf 

司令部から帰って来た某主計大尉は真赤な顔をしてやや震え声で口を開いた。
 「たった今、司令部から通知があり、第四砲台が敵艦三十数隻を沖合に発見したとのこと。同時に、『千早二号作戦』が発動された。諸君はただちに所定の行動に移り、まず書類を焼却せよ。諸君の武運長久を祈る」と。・・・急いで昼食を済まし、今までは二時間の昼寝時間があったがそれどころではなく、急いで書類焼却作業に加わった。庁舎の東側は広い空き地になっている。ここは今までは課業整列や国旗掲揚宣誓をやり、侍従武官の御差遣をお迎えしたなつかしい広場であるが、そこに長さ三メートル幅二メートル深さ一メートル程度の穴を掘るのである。赤道直下の午後三時といえばじっとしている犬でも汗が吹き出してくる。この炎天下の労働となれば灼熱の太陽の直射で頭がくらくらする。
 穴掘作業は全員の協力により一時間ほどで完了し、そこへ書類を投げ込み焼却するのだが、紙というものは束にして燃やすとなかなか燃えない。手早くばらして数枚ずつ投げ込むが延々として終わらない。燃えている紙から発生する上昇気流で投げ込んだ紙はひらひらと舞い上がる。燃えている紙の量が多ければ多いほど後の作業は困難となる。太陽熱と同時に吹き上げる焼却熱も加わり作業員は大変であった。灼熱地獄とはこのことかと思った。しかもこの焼却作業は日没前に終了しなければならない。日が暮れて炎が残っていると沖合いの敵艦から艦砲射撃を受けることは必至である。
 軍務部から供用貸与の「軍機」「軍極秘」の図書も人事関係の書類を除き大半が処分された。私が担当していた経費や給与の諸帳簿も燃やされた。
 私は昭和十七年以来の「私本 戦時日誌」を丹念につけ、自分なりに爆撃による被害状況を記入し、それに日々の生活状況から勤務の状態、楽しい余暇のことなどそれこそ細大もらさず書き留めていた。また内地から持参した日本歴史の文献や趣味の文藝書物などが数多くあったが、これも致し方なく始末したが、特に「私本 戦時日誌」は良い記録文学の資料であったのに返すがえすも残念である。(210・211頁)矢野・ボルネオhttps://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_203_1.pdf

  初空襲以後の主な空襲は、九月三十日、B24七十二機、十月三日、B24数機、十月十日、B24百七機、P38十一機、B47十六機、十四日、B24九十八機などであった。昭和十九年に入ると燃料廠を狙って連日連夜の定期便で、私はその様子を詳細に私本戦時日誌として書いていた。それも引揚げの際の持ち物検査で、書類は絶対持ち帰り厳禁で、違反者は戦犯にすると脅かされ、尊いその資料も焼いてしまった。今にして思えば残念であった。(151頁)矢野・ボルネオ

 昭和二十年六月十五日、「今日の空襲はびっくりしたな、いつもと様子が違ったからな」と語り合いながら同僚数人と庁舎へ入った。ところが庁舎内では異様な空気がみなぎり、皆がY主計大尉を囲んでいる。大尉は「たった今、司令部から通報があり、第四砲台が敵艦三十数隻を沖合に発見した。同時に『千早二号作戦』が発動された」と語った。
 さらに「諸君は直ちに所定の行動に移る。まず書類を今日中に焼却する。諸君の武運を祈る」と。これは大変なことになった。私にも初めての敵上陸作戦対策だ。
 海岸にある小高い防空壕に登り、双眼鏡で眺めると赤道方向に動いているのが良く見える。敵艦が眼前に出現したのである。そのうちに、遥か東方の飛行場辺りにドカンドカンと艦砲射撃が始まった。それこそ腹にずしんずしんと響く、生まれて初めての体験で、身の縮む思いであった。
 私は防空壕を下り、昼食もそこそこ、庁舎前に横一メートル縦二メートル深さ約七〇センチの穴を全員で掘った。こうして書類焼却の準備を終えたが、それからが大変だ。炎天の赤道直下である。帳簿はばらして投げ込むが思うようには燃えない。私は私物の内地より持参した書類も放り込んだ。私本「戦時日誌」も燃やした。(p217・218)矢野・ボルネオ

 戦機熟したと察した私ら等は、公文書の処分と共に、私物の整理、特に書物の片付けをしなくてはならなくなった。前述の『私本戦時日記』も残念ながら焼却せざるを得なくなった。(107頁)矢野・ボルネオ
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_101_1.pdf
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/09onketsu/O_09_043_1.pdf

・・・断片的に「耐え難きを耐え」「忍び難きを忍び」「以て万世の為に」等と聞いた言葉を皆で合わせると戦争は終わったらしいと想像できた。・・・しばらくして咸興刑務所が解放されたと連絡があり、直ちに留置人を解放すると共に、急いで重要書類と私物を焼却するように命ぜられた。留置人は四、五人いたと思うが、衣類など与えて釈放すると喜んで帰っていった。書類や私物は学校の運動場にあった壕の中で火をつけた。軍隊手帳、写真、思い出の品等、過去を消すことにためらいながら燃え続けるその火を見守っていた。(399頁)田上・朝鮮
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_394_1.pdf

 終戦になってからは書類の焼却が大変でした。何しろ明治十年の西南の役の復員書類などが有りました。今あれば貴重な資料でしょうが……。それから現地人宣撫用の映画フィルムが山のようにありました。
 第十三部隊(輜重隊)から軍用トラックが五輌、三日間で矢田川堤防に運び焼却処分しましたが、前記のフィルムを炎の中に投げ込んだものだからものすごい火炎になり、トラックが焼失寸前の大騒ぎになる一幕もありました。(594・595頁)冨田・愛知
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_590_1.pdf

 八月十五日正午、作業を終わり昼食のため旅館に戻ると、皆が「戦争は終わったぞ」と騒いでいた。「勝ったのか、負けたのか」と聞いたら「負けたらしい」と言い、今まで苦しい訓練に耐えてきたのは何だったのか、大勢の人が戦死したのは何だったのかと思うと悔しくて悔しくて仕方無かった。
 八月二十日頃、いろいろな書類を焼いて舞鶴軍港に帰って来た。(116頁)杉浦・兵庫
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_113_1.pdf

 その後の、「洛陽攻撃功績調査」にて、西村少尉と小生は殊勲甲、兵である小生に「勲八等白色桐葉章、功六級金鵄勲章」授与の知らせがあり、その書類もありましたが、終戦後、駐留地許昌で、戦友から「その書類が見付かると帰還出来なくなる」と言われ、中国軍の私物検査前に焼却してしまいました。今となっては、その殊勲甲の証明も消えてしまったわけです。(153頁)大和・中国https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_149_1.pdf

・・・八月十五日終戦となり、天皇陛下の放送を聞き、残念無念でした。部隊は今までとは変わり、教育した朝鮮の兵隊は全部即刻解除。日本の警察官も日本へ帰っていきました。
 我々は百円と靴下三足をもらい、軍隊手帳を焼き、十月二十八日、米軍の上陸用の船に乗り、佐世保に着いて海兵団の兵舎に泊まり復員しました。(158頁)林・朝鮮https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_156_1.pdf

 丘に上がって射撃班が発砲したら、二、三発で敵は蜘蛛の子を散らすが如く退散しました。この時の自分の働きは殊勲甲だと師団長感状を頂戴しました。この師団長感状は、自分の宝と思っていたのに、終戦時の武装解除の時に消〔ママ〕却せぬと罪が重くなって戦争犯罪者で監獄に行くぞと言われて、残念ながら燃やしました。(179頁)和田・中国福州
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_173_1.pdf

 昭和二十年八月七日、ソ連軍が国境突破、満州になだれ込んで来た時、兵器本廠と僅か道路一本隔てた関東軍司令部は猫一匹おりませんでした。直ちに重要書類を焼却しましたが部厚い書類綴りはなかなか燃えず、焦る気持ちを静めるのが精いっぱいです。(230頁)大場・満州
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_228_1.pdf

・・・八月十五日午後、サイゴンよりブインに到着、停車場司令部の第十中隊の山岸少尉殿より「本日はポツダム宣言を受諾、天皇陛下の玉音放送があった」と知らされ、半信半疑で連隊本部へ汽車で急行しました。
 八月十六日、タンホアの歩兵第八十三連隊本部に到着、第三機関銃中隊付を命ぜられました。連隊本部の営庭で重要書類、典範令等を焼却処分しました。(335頁)邑本・ベトナム
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_332_1.pdf

我々搭乗員は飛行服のまま整列し、あの沈痛な敗戦の玉音をラジオを通して聞いたのである。昭和二十年八月十五日であった。・・・翌十六日には身の回りを整理、そして航空記録、その他飛行兵である証拠品、写真等は一切焼却するよう分隊長から通達があった。(446頁)長沼・小松基地
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_434_1.pdf

 八月二十日の朝になり「戦争は負けた」と聞いたのですが、信じられませんでした。そして、上官から、早く自分の持ち物を用意して家に帰るように言われ、準備に大わらわで、さらに書物は全部燃やし、毛布や服等は要るものと不要な物を区分するようにとのことでした。私等は持って帰れる物は食物、パン、煙草、水筒、飯盒程度のもので、お金は全然持っていませんでした。(367頁)松島・内地
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_358_1.pdf

翌十九日夕刻、俘虜輸送列車(有蓋貨物車)到着、全員に乗車命令が出る。前日午後から夜にかけて作戦書類一切を焼却。その火の中に命の次に大事な軍隊手帳、五年間の写真、手紙等、それに階級章など燃える物全てを灰にして証拠を消した。(461頁)三好・咸興(朝鮮)
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_460_1.pdf

 昭和二十年八月十五日、終戦の玉音放送をシンガポール(昭南島)のカトン連隊本部で聞いたが、混信が多くほとんど聞き取れなかった。ひそかにカルカッタ放送を受信した者から聞いたので敗戦は了解できた。直ちに終戦の事務処理に移り、暗号書、機密・秘密書類等と共に不用品等を焼却した。(52頁)

検問所では、連合軍の戦犯リストと各人の照合を行い、「白」=戦犯の疑いなし、「灰色」=戦犯の疑いあり、「黒色」=戦犯の疑い濃厚、の三組のテントに区分され、私物を含む携行品などを持っていると検査が厳しく、他の隊員に迷惑が掛かるので焼却または廃棄するよう指示があった。そのため開戦以来の大切なメモや写真、現地購入の私物など一切を焼却したり、穴を掘って埋めたりした。今にして思えば、当時の記録や写真など
はさして煩わしくもなかったようで、持ち帰らなかったことが非常に残念である。(53頁)森・シンガポール・クルアン
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/09onketsu/O_09_050_1.pdf

 しばらく(朝鮮の)郡山の学校に宿泊していたが、九月十八日論山に移動、十月初めに武装解除、武器は米軍に提出、重要書類は全部焼却処分し、軍隊手帳、階級章、写真まですべて処分して、十月八日釜山に向けて出発した。(154頁)河合・朝鮮
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/09onketsu/O_09_147_1.pdf

この戦闘の後、私は師団司令部勤務となり、終戦時には命令に基づいて書類等の焼却もしました。(200頁)伊東・仏印
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/09onketsu/O_09_195_1.pdf

これからの武装解除を予想し、部隊の重要書類は隊長自ら焼却した。(28頁)照井・フィリピン
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/08onketsu/O_08_017_1.pdf

我々の部隊は兵器廠関係だった。その当時は一兵卒だったが最初のころは日誌を書いていた。その貴重な記録は終戦後、命令により焼却したが、今思えば残念な気がする。(146頁)

転進作戦命令が発令されると、兵器廠はすぐさま書類を一部焼却する。(147頁)木村・ビルマ
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/08onketsu/O_08_145_1.pdf

米軍の上陸前に機密兵器は海中へ、焼ける物は一切焼却、全員丸腰、階級章も取り上下なし、軍刀も兵器も一切浜辺に並べた。あの無念さは今もはっきり目に焼き付いている。(238頁)荒木・トラック島
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/08onketsu/O_08_349_1.pdf

 八月十四日、重要書類の焼却が命ぜられ、女学校の校庭は書類を焼く炎と煙に覆われ、日の丸の鉢巻きを占めた少女たちがモンペ姿もかいがいしく忙しく動き回っていた。十五日、ラジオから流れる天皇の声は妨害電波のためかほとんど聞き取れず、時々かん高い声が聞えるが全く意味が分からなかった。「対ソ戦激励のお言葉だ」との声が多かった。(282・283頁)椎原・満州
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/08onketsu/O_08_280_1.pdf

 部隊の三個中隊くらいは蒲郡へ集結、九月二日天皇陛下の御真影の前で、部隊長が「終戦の詔書」を読んで、軍関係の書類全部を焼却しました(軍歴はその後に復元)。(354頁)鈴木・内地
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/08onketsu/O_08_349_1.pdf

やがて第七飛行場大隊に転属し、終戦は八王子付近であったと思います。
 人事係准尉が、山と積まれた書類や軍隊手帳をすべて焼けと命ずる。私は責任者となって相当の時間をかけて焼却しましたが、これで日本陸軍の最後かと思うと万感胸に迫るものがありました。しかし、私自身の最後の物として軍刀と軍隊手帳は焼かないで保管しました。それがこの軍隊手帳です。軍刀は故郷愛媛のミカン山で焼きましたが、錆びて今はどこに埋めたか…。(433頁)和田・内地
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/08onketsu/O_08_427_1.pdf

後々の事を考慮して、軍の重要な機密書類は一切焼却し、各人の軍隊手帳も焼却を命ぜられました。次に各人の身辺整理も終わり、最後の陣地の清掃までやったのでした。(168頁)志村・フィリピン
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/07onketsu/O_07_161_1.pdf

 昭和二十年六、七月ころ、上海から南京へ移動の命令が出て集結し、終戦は南京で聞きました。そこで待機中、書類という書類(人事、功績簿関係)は全部焼かされました。私は書記をしていたので、東京の陸軍省軍務局へ出す書類を作成し送付していました。一部は隊に残しておいたのだがそれも全部焼いたのです。しかし、自分の戦時名簿だけは記念というか記録として密かに持って帰りました。(402頁)渡邊  https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_397_1.pdf

 転出した戦闘部隊の後を追うように我が自動車大隊にも五月転進命令が下りました。移動先は下士官以下には極秘でありましたが、内地防衛だとだれ言うとなく皆喜んでいました。兵隊の中には現役で入営し、延長勤務で五年目を迎えた五年兵もいました。
 「戦闘に直接関係ない物は全部焼却せよ」との命で、大量の書類を焼却しましたが、私も勉強のために持っていた数学・物理・電気などの本も公文書と共に焼却しました。(430頁)飯野
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_420_1.pdf

 連隊本部では連隊旗の奉焼がなされた。私たちは軍に関する一切の書類(軍隊手帳・典範令集・通信関係書類等)を広場で焼却した。進駐軍が上陸してきたら兵器類を渡さなければならないので、それまでに小銃に刻印されている菊の紋章を、ヤスリで削りとる作業に着手した。なかなか削れないので、結局ペケの字を入れることで勘弁してもらうことになった。
 菊の紋章の付いたまま、かっての敵軍に兵器を手交することは、天皇陛下に対し申し訳ない、と云うことであった。(171・172頁)大森
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/05onketsu/O_05_162_1.pdf

十一月十八日待望の第二次復員船「高栄丸」が到着、乗船検査に備えてメモ類は焼却しましたが、軍隊手帳だけは持ち帰ろうと思い靴下の中に隠して検査をパスして乗船したので、現在でも戦友間で「高橋の軍隊手帳」としていろいろな証明用として利用されています。(193・194頁)高橋https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/05onketsu/O_05_188_1.pdf

八・一五 終戦命令。・・・早速、英軍司令部より命令が来た。「すべての物を破壊すべからず。違反した者、部隊は戦犯に処す」。中隊も兵も不用なもの、問題になりそうなものは焼いた。中にはなにもかも焼く兵もあった。(247頁)羽田野https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/05onketsu/O_05_251_1.pdf

 八月十三日、錦州へ着き部隊集結。十四日、ソ連軍と対戦するため、錦州を出発。夜行軍にて遼陽に到着は十六日でした。同時に重要書類の焼却の作業を命ぜられ不安でした。終戦を知らされたのは翌十七日で、以後昼夜兼行で書類を焼却しました。(251頁)楠https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/05onketsu/O_05_251_1.pdf

我が軍は白旗をかかげて英軍を迎えた。兵器を整理し、員数を点検し英軍に渡した。秘密書類や個人の軍隊手帳、写真などは、終戦時の指示に従って皆焼いてしまった。(262頁)勝https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/05onketsu/O_05_258_1.pdf

 終戦の時、部隊は作業に出払っていて、私は小林の或る小学校の宿舎にいた。・・・最終的には第六航空軍から指令が出て「航空関係は捕虜か金抜きになるから、兵器を何処かへ隠し、階級章や書類も全部焼却せよ」と。軍の秘密兵器防疫給水器(水を素焼きの筒中に圧力を加えて入れ浄化するもの)の処分を命ぜられ、古井戸を見つけてその中に捨てた。(265・266頁)西岡

 昭和二十年八月十四日早朝、豪洲軍の艦艇がアンボン島の入口に糧食受領のため入港したことに端を発し、隊内は大騒ぎとなり、奥地への転進準備、あるいは重要書類の焼却処分等で大童となりました。(347頁)千坂
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/05onketsu/O_05_345_1.pdf

 私は筆不精だが書くことが好きで、今以て六〇冊の日記がある。中でも戦中、大陸での行動を日記的に書いたものは復員の際の私物検査で持ち帰ることが出来ず、涙をのんで焼却のやむをえないこととなったが、今考えると持ってこられたかとも考え、本当に残念でならない。(42頁)滝田https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/04onketsu/O_04_031_1.pdf

 クルアンの英印軍の検問場で十一月二十四日に検査を受けた。検査に先立って写真、手紙、日記類、貴重品などを持っていると戦犯の疑いを掛けられ全員が迷惑するから、全部焼却するようにと言われ全部焼き捨てた。タイ国で仕入れた象牙の印材や鼈甲等も穴を掘って埋めた。(248・249頁)森
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/04onketsu/O_04_237_1.pdf

 ようやく遷江地区を突破し、独立混成第二十二旅団に収容され、柳州には六月二十一日に入り、北上し終戦を知りました。囲りが房だけの歩兵第六連隊の軍旗を涙で奉焼し、人事功績の記録も全部武昌で焼却してしまった。反転してからの武昌までの徒歩は随分辛く空しいものでした。(299頁)赤木
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/04onketsu/O_04_484_1.pdf

貨物を揚陸して、八月十五日私達は乗船しました。十二時に天皇陛下の玉音放送があるというので、隊長が上陸し「日本は無条件降伏した」のお言葉を聴かれ、これを私達に発表されました。・・・船中で秘密書類を全部焼却しました。海上で敵の軍艦や潜水艦に拿捕され捕虜になっても決して抵抗してはならないと、強く隊長から注意を受け、北海道に向けて一路進行しました。(490頁)加藤https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/04onketsu/O_04_484_1.pdf

 降伏の命令を持った本多伍長にあった。ビラは本当だったのだ。内心ほっとした。・・・五カ月前、山に入る準備をしたところで、汚れた体を洗い、服を洗い、髪を切り、日の丸、書類も焼き、手榴弾を捨てた。(13・14頁)松井https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_091_1.pdf

 その後、敗戦の通知が来た。私は残念で涙が出て仕方がなかった。切腹しようと考えたが本部より書類を焼いてすぐ帰れと連絡してきた。私は涙をかみしめて本部へ帰った。(96頁)小川
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_091_1.pdf

連日しつように来襲した米軍機も姿を見せず、八月十七日我々は南昌地区日本軍の第一線、西山万寿宮に到着した。
 我々が日本軍の兵舎の脇を通過していくと、兵隊が典範令やその他の書類を焼いている。なにごとだと聞くと戦争は終ったのだという。(166・167頁)小林
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_161_1.pdf

 八月十七日将兵一同は涙のうちに栄光に輝く軍旗を、江西省豊城県丁家の地で奉焼。一切の書類等も同時に焼却しました。師団命令で全部焼きました。・・・しかし、終戦直後軍命令で書類を焼いたため、いろいろな復員事務が長引いてしまいました。(379・380頁)沢田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_377_1.pdf

 私は終戦を済州島で迎えたので軍隊手牒〔ママ〕を今でも持っている。ほとんどの兵隊は軍隊手牒を終戦時に焼くか、捨てるか、あるいは外国軍に没収された。だから現在になって銀杯、書状等の申請が始まった時、自分の兵籍が不明で困っている者が多い。(418頁)大場
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_418_1.pdf

 八月、いよいよ最後の時が来た。黒瀬連隊長は飛行機も来てくれない、八月六日の連隊命令には「八月六日午前五時を期して、余は連隊旗を自ら捧持して玉砕する。各隊は戦時名簿、馬匹名簿すべて焼却せよ」とある。えらいこっちゃ、全員悲痛な気持ちでその命令を聞いた。(299頁)萩原
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/01onketsu/O_01_296_1.pdf

 しばらく同じことを繰り返しているある日のこと、満鉄駅員全員で金庫より重要書類を取り出し焼却しているではありませんか。びっくりして社員、駅長に聞いてもさっぱり要領を得ません。種々プッシュした結果、重要書類を焼却後は汽車を南下させ、後の車両は停止せよとの軍の命令だったそうです。当時、満鉄は軍の指揮下にあり、民間人を早目に南下させたと感じました。これが八月の初めごろでした。(93頁)岸川

これより兵営内では、軍旗や軍隊手帳、その他菊の御紋章等、残らず焼き捨て、武装解除への道を進まねばなりませんでした。(33頁)守谷・中国
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/01onketsu/O_01_028_1.pdf

 本部との電話線は、戦闘前に切断されているので、夜陰に乗じて、部隊長に報告のため決死の伝令が二度行った。その返事は「馬頭嶺(約二十キロ後方)へ移動せよ」というものであったらしい。
 およそ午前二時頃だったと思うが、ハッキリしないが重要書類は屋内で焼却「弾薬は持てるだけ持て」「負傷も歩ける者は歩け」といわれた。「被服は外出用を着用してよし」「食糧品は便所へ捨てろ」と言われた。(376頁)猪熊

一瞬耳を疑いました。不可侵条約も締結しておりソ連が参戦するとは思いもよらぬことでした。直ちに重要書類を焼却、戦闘態勢に入りました。(180頁)黄地

また隊長に「お前ちは飛行機乗りだと分かると片手片足を切られるぞ。証拠品をすべて焼け」と言われ、写真や航空日誌など全て焼き捨てた。こうして彼の戦争は幕を閉じたのである。(19頁)
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/25985/1/kakyo3_1.pdf

 八月十五日の終戦も知らずにいた。数日後、米軍機により通信筒が投下された。内容は各島は降伏したとの終戦の知らせであった。だが将兵はデマと思って信用しなかった。その後、今度は友軍機が投下した。それを拾って読むと、ミズリー号艦上で、日米首脳が正式調印をして終戦となったむねの通信であった。これによってわかり、何月何日島の南端の海岸に白布の十字のしるしをおいて待つようにとあった。
 其の日がさた。生存者全員、大隊長とともに整列、眼前に銃や軍刀、書類、写真、軍隊手帳等携行品を一斉提出し山積みされ、またたくまに焼失されました
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_115_1.pdf

戻られた課長は開口一番「戦争だ!!ソ連軍が国境の各方面から侵攻し我が軍と激戦中だ。あの空襲はソ連機で宮廷近くに二発の爆弾を落したんだ。今から帰って対策を考究する」と緊張の面持ちで話された。私は最近の異常な程のソ連軍の極東集結振りや関東軍の現状等の情報を知る機会があり、ソ連の参戦は必至と確信していたので特に驚きもしなかったが、然(しか)し予想よりは二月程早い結果となった。
 二人は官舎に帰り直ちに館員を集めた。公使より非常事態の説明があり、先ず重要文書の焼却開始と来るべき空襲に対処出来るよう細かい指示がなされた。私は一まず帰宅し仮眠の後で平常通り出勤して早速十八年度以前の文書より焼却するよう手配すると共に、
http://www.pref.mie.lg.jp/FUKUSHI/heiwa/17458018282.htm

【南京大虐殺】奥宮正武氏(元空将)の証言

奥宮正武氏「私の見た南京事件 日本人としていかに考えるべきか」PHP研究所 1997年9月4日第1版第1刷発行の「第一章 私の支那事変参戦記」より
二 大校場飛行場へ一番のり
(中略)
  十七日の南京入城式後も城内の掃討や戦場の跡片付けが行なわれている様子であった。が、それも一段落したとのことであった。
  そこで、三並少将は、第一二、第一三の両航空隊に対し、逐次、南京城外にある大校場飛行場へ進出するように命じた。南京城内の南東部に故宮飛行場があったが、狭くて作戦用には使用できそうになかったからであった。
  十二月二十四日の午後、私は、九六式艦爆六機を率いて上海発、陸海軍の飛行機隊の先頭を切って、大校場飛行場に進出した。当時、飛行場には人影はなかった。地上員の到着が遅れていたからであった。そこで、上空からよく確かめたのちに着陸した。
  飛行場内の建物の多くは、概観したところでは、それまでのわが海軍航空部隊の反復爆撃によって、ひどく破壊されているようであった。
  それはそうとして、私は、上海に着任以来、常に、南京攻撃で散華した多くの戦友たちのことを考えていた。そこで、南京進出後なるべく速やかに、戦死者の遺体、遺品および彼らの搭乗機の消息を知ろうと決心した。彼らの中には熟知の先輩、同僚、それにその部下の下士官兵たちがいたからであった。
  そこで、着陸後、直ちに、十人の部下を飛行機の警戒のために残しておいて、私は、部下の一人を伴って、飛行場内を徒歩で見て回った。
  最初に発見したのは、針金で後ろ手に縛られたままで死亡していた一人の戦闘機搭乗員の痛ましい姿であった。次に発見したのは、艦爆の搭乗員らしい二人の遺体で、墜落当時そのままのようであった。

  註 われわれの進出までに陸軍部隊が遺棄死体の埋葬、滑走路の補修、爆撃落下地点の穴埋めなどをしたとのことである。が、人手が足りなかったか、飛行場の構造をよく知らなかったかのいずれかであったであろう、前記の状態であった。なお当時はわが海軍には、滑走路という言葉はなかった。

  飛行場内での一応の調査が終ったので、飛行機のところに戻った。その頃、地上員の先頭が到着した。が、宿泊の準備はもとより食事さえもつくってもらえなかったので、携行した乾パンと水筒の水で夕食を済ませた。
  その夜は、被爆のために窓ガラスが毀れた飛行場の指揮所らしい小さな建物の中で寝ることとした。幸いにも付近に麦藁の束がいくつかあったので、それをほぐして、大部分をコンクリートの床に敷き、残りを飛行服の上にかけて、飛行靴のままで寝た。が、寒さも手伝って、なかなか寝つかれなかった。同夜、おびただしい数の野犬が遠く、近くで、鳴き続けていたことが、戦場らしい雰囲気を漂わせていた。
  翌一二月二十五日から、上司の許可をえて、約一週間をかけて、南京城内はもとより、城外のかなり広い地域を、亡き戦友の消息を求めて、駆けめぐることとした。
  私は、濃紺の海軍の第一種軍装に戦闘帽を被り、昭和七年の第一次上海事変の時から使っていた長い日本刀を帯び、褐色の革袋に入れた拳銃をベルトで肩にかけ、腰の回りに縛りつけた姿をしていた。そして、黒色の乗用車に通訳と警戒兵を各一名、それに運転兵の三人を伴っていた。
  一連の捜索の結果、発見できた遺体は二十数柱であった。正確な数字が分からなかったのは、遺骨となっていた死体の数を判別し難かったからであった。
  ところで、昭和十二年十二月中に、私のように、南京とその近郊を広範囲に、一人で、かなり詳細に、見て回った陸軍の将校が果してどれだけいたであろうか。多くの将校は、部隊の構成や任務上、その行動の範囲が限られていたはずであったからである。なお数多くいた参謀たちも、現地を見ることには積極的ではなかった、と伝えられていた。

三 二度見た虐殺の現場
1 第一日目
  戦死した飛行機搭乗員たちの遺体捜索の第一日目は十二月二十五日、第二日目は十二月二十七日であった。
  第一日目は主として南京市内の東部と北東部、それに城外の東部を巡回することにした。朝食後、飛行場から出て、西北進して、飛行場に最も近い光華門に向かった。そこは第九師団(金沢)の脇坂部隊(のちに第三六連隊長脇坂次郎大佐の率いる部隊と判明)が南京一番乗りをしたと伝えられていたところであった。私自身もその城門とその内側の陣地を攻撃したことがあったので印象の深いところであった。
  そこで、城門の内部を詳細に見て回ったところ、二層にも三層にもなっている複雑な構造の内部のところどころに計四名の中国兵の死体が放置されたままであった。第一次の上海事変のさいに多くの中国兵の死体を見たことがあったが、今回の事変では初めてであったので、改めて戦闘のきびしさを感じた次第であった。同市の陥落から十二日もたっていたにもかかわらず、なおこのような有様であったので、いまだにわが陸軍部隊の手が回りかねているところがあることを知った。
  光華門から城内に入ると、すぐ近くの左側に私が爆撃したことのある故宮飛行場があった。が、その付近には人影はなかった。間もなく南京市内を南北に分ける広い道路に出た。そこで、右折して、しばらく東に進んだところに中山門があった。そこは、第一六師団が一番乗りを目指して激戦を反復していたところで、私の艦爆隊も一回そこを爆撃したことがあった。この門までの道路は、見通しのよいところが多かった。が、日本機に関する手掛りはなかった。
  中山門から城外に出て、その付近を広く捜索したが、日本機の姿はなかった。が、壮大で格式の高い中山陵があったので、中国の偉人孫文の霊に敬意を表した次第であった。
  その後、再び、中山門から城内に入り、城内の東部を捜索しようとしたが、そこにはかつての中国政府や軍の施設があったらしく陸軍部隊が使用していたので捜索は思うにまかせなかった。そこで、車の通れる道をなるべく多く、あちらこちらと走り回っているうちに、市内を南北に走る広い道路に出た。そして、その道路を北に走っているうちに、玄武門が右の方に見えた。
  そこで、その付近を捜索したのち、玄武門外に出た。そこには広大な玄武湖があった。ところが、そこで、目もあてられないような惨状を目撃した。湖岸やそこに近い湖上に、数え切れないほどの数の中国人の死体が投棄されていたからであった。どうしてこのようなことになったか、と尋ねようとしたが、付近には人影がなかった。が、このことは、それまでの南京で異常な事態が発生したことを示唆していた(註 十三日、一部の部隊がここで敗残兵を処刑したとの記録があるが、私の見たところではそれだけではないようであった)。
  玄武門から再び城内に入り、近くにあった広い道路を北進しながら、付近を調査することにした。その後、西進したり、南進したり、また西進したりしているうちに、市の中心部と下関を結ぶ中山北路に出た。そこで、その道路を北西進しているうちに挹江門についた。そして、そこから三たび城外に出て、下関とその付近を捜索することにした。
  下関は、南京と揚子江の対岸にある浦口とともに、交通の要衝であった。浦口は、私が上海着任直後に、最初に、爆撃したところでもあった。下関にはかなり大規模な停車場と開源碼頭(波止場)があった。そこで、その付近を見回っているうちに、陸軍部隊が多数の中国人を文字通り虐殺している現場を見た。
  碼頭の最も下流の部分は、揚子江にそって平坦な岸壁があり、やや広い敷地を挟んで倉庫群があった。そして、その倉庫群の中に、約三十名の中国人を乗せた無蓋のトラックが次々と消えていた。不思議に思ったので、何が起こっているかを確かめようと、警戒中の陸軍の哨兵にことわって、構内に入った。私が海軍の軍服を着た将校であったこと、海軍の車から降りてきたこと、軍刀や拳銃で身を固めていたためであろう、私の動きを阻止する者はいなかった。また付近には報道関係者などの姿はなかった。
  構内の広場に入って見ると、両手を後ろ手に縛られた中国人十数名が、江岸の縁にそって数メートル毎に引き出されて、軍刀や銃剣で惨殺されたのち、揚子江上に投棄されていた。
  岸辺に近いところは、かなり深く、目に見えるほどの速さの流れがあったので、ほとんどの死体は下流の方向に流れ去っていた。が、一部の死にきれない者がもがいているうちに、江岸から少し離れたところにある浅瀬に流れついていたので、その付近は血の川となっていた。そして、死にきれないものは銃撃によって、止めが刺されていた。
  この一連の処刑は、流れ作業のように、極めて手順よく行われていた。大声で指示する人々もいなかった。そのことから見て、明らかに陸軍の上級者の指示によるものであると推察せざるをえなかった。したがって、部外者である私が口を出す余地はないと感じた次第であった。
  そこで、私は、付近にいた一人の若い陸軍士官に、尋ねた。
 「なぜこのようなことをするのか」
   答えて曰く、
 「数日前の夜、一人の勇敢な中国人が、わが陸軍の小隊長級の若い士官十名か十一名かは分かりませんが寝ている寝室に侵入して、全員を刺殺したそうです、そこで、かれらの戦友や部下たちが、報復のために、その宿舎の付近の住民を処刑しているとのことです」
  彼の説明が正しかったか否かは私には分からなかった。あるいは、そう説明するように教えられていたのか知れなかった。
  その日、私は、しばらく一連の処刑を見たほか、合計十台のトラックが倉庫地帯に入るのを確認したのち、現場から退去した。そして、その後は、主として、市内の東部を捜索しながら飛行場へ帰った。
  人間とは不思議な性格を持っているようである。最初に下関で処刑を見た時には、私は甚だしい衝撃を受けた。ところが、しばらくその場にいると、次第に異常さを感じなくなった。処刑をしている将兵たちの中にも同様に感じていた者がいたかも知れない。その場の雰囲気は、平時には考えられないほど特異なものであった。
  また、現場にいた将兵の中には、上海から南京に至るまでの間に、自らの上官、同僚、部下などを失ったための憤りにも似た特異な感情を持っていた人々がいたことであろう。
  ところが、そのような異常な感情は軍人や男たちばかりにあるのではなかった。昭和七年の上海事変が一段落したのち戦跡を見て回ったさい、私は、その場に居合わせた上海在住の日本人の若い女性たちが、放置されていた中国兵の死体を指差しながら、私がそれまで想像だにしていなかったような言葉を使って、平然としていたからであった。
  二十六日には、隊務のために、基地を離れることができなかった。

2 第二日目
  十二月二十七日、この日は市内の西部を重点的に見回る予定であった。が、前々日の光景があまりにも鮮明に記憶に残っていたので、念のために、まず、再び下関に行くことにした。
  下関の処刑場に近づくと、この日もまた、城内の方から、中国人を乗せた無蓋のトラックが、続々とやってきて、倉庫地帯に消えていた。
  再び、警戒中の哨兵にことわって、門を入ったところ、前々日と同じような処刑が行なわれていた。そこで、ある種の疑問が生じた。
  それは、
 「多数の中国人を、大した混乱もなく、どうして、ここまで連れてくることができるか」
 ということであった。
  そこで、処刑場の入口付近にいた一人の下士官に、その理由を尋ねた。ところが、彼は、何のためらいもなく、
 「城内で、戦場の跡片付けをさせている中国人に、〝腹のすいた者は手を上げよ〟と言って、手を上げたものを食事の場所に連れていくかのようにして、トラックに乗せているとのことです」
 と説明してくれた。
  そこで、更に、
 「日本刀や銃剣で処刑しているのはなぜか」
 と質問したところ、 
 「上官から、弾薬を節約するために、そうするように命じられているからです」
 との答が返ってきた。
  このような処刑が、南京占領から二週間近くを経た後の二十五日と二十七日に手際よく行なわれていた。もっとも、二十六日と二十五日前と二十七日後にどのような処刑が行なわれていたかは分からなかったが(註 第三〇旅団長佐々木到一少将の手記によれば、十二月二十四日までに約一万五千人以上、十二月二十四日から翌年一月五日頃までに数千人の処刑をしたとのことである)、二日間のことから察して、それが戦場にありがちな、一時的な、興奮状態での対敵行動であるとは私には思われなかった。この日もまた、一連の処刑が、ある種の統制のとれた行動であるように感じた。
  私は、この二日間に下関で見た合計約二十台分の、言いかえれば、少なくとも合計五百人以上の中国人の処刑だけでも、大虐殺であった、と信じている。もっとも、どれだけの被害者があれば大虐殺であるかについては、人それぞれに見解の相違があるかも知れないが。
  それらに加えて、玄武湖の湖上や湖岸で見た大量の死体のこととも考え合わせて、正確な数字は分からなかったが、莫大な数の中国人の犠牲者があったのではないか、と考えざるをえなかった。
  そうだとすれば、それは、明らかに、国際法上の大問題ではないかと思われた。が、当時の私には、そのことを突っ込んで検討する時間的な余裕がなかった。その後間もなく、私自身が作戦飛行に従事せねばならなかったからであった。
  下関での第二日目の処刑場を確認したのち、本来の遺体捜索活動に移った。そして、下関付近を見回ってから、再び挹江門から城内に入り、主として、市内の北西部と中心部にある難民区を調査した。
  城内では、幹線道路の両側を、なしうる限り、約一千メートルの間隔をおいて支線に入って、日本機の消息を聞いて回った。難民区には大勢の中国人がいて、車から見た限りでは、平時の中国の他の都市とあまり変わらないようであった。そこでは、一軒の民家に日本機一機が墜落して、家族全員が死亡したとの気の毒な話を聞いた。が、機体は片付けられていたし、搭乗員の遺体は他に持ち去られていた。
  その後、市の南部にある中華門を出て、雨花台方面を調査したところ、計九名の遺体を発見することができた。二人は九六式艦爆の搭乗員で、七人は九六式陸攻の搭乗員であった。いずれも土葬で、立派な木製の棺に納められていた。私はそのような手厚い取り扱いをしてくれた紅卍会の人々に感謝せずにはいられなかった。
  この日、多くの中国人と接触したが、城内でも、城外でも、多くの人々が積極的に、私の質問に答えてくれた。また、雨花台方面の道路で出会った農民たちは、笑顔さえ浮かべ、頭を下げて、われわれに挨拶をしていた。それは、わが国の地方の農村にもよくある光景と同じであった。(26~41頁)

  私は、南京戦直後に、現地で見た虐殺の一部とその後の研究から、総合的に、次のように考えるのが適当であると信じている。
  南京で大虐殺があったことを認める。が、日本軍による中国人の被害者の数は二十万、あるいは三十万ではなくて、四万前後と推定する。中国人の処刑を論じるさいには、一九〇七年のヘーグ条約よりも一九二九年のジュネーブ条約を重視する。(69・70頁)

巻末の著者略歴より
奥宮正武(おくみや まさたけ)
1909年( 明治42)高知県生まれ。元海軍中佐、大本営海軍参謀。1930年海軍兵学校卒。1932年上海事変に参加。1933年飛行学生教程修了。1937―38年日華事変。1942―44年アリューシャン・ミッドウェイ作戦、南太平洋海戦、ガダルカナル・ソロモン方面作戦、マリアナ沖海戦等に参加、第2次世界大戦後、復員省史実調査部部員。退職後も戦史の研究に従事。1954年航空自衛隊入隊、統合幕僚会議事務局、防衛研修所で国際問題を担当。その後、学校長、部隊長等を歴任、退職時空将。
1964―69年松下電器に勤務。1970―83年国際PHP研究所顧問、1984年からPHP研究所参与。過去10数年間にわたって世界の平和および安全について研究のため35カ国を訪問。現在、同所研究顧問。
〈主な著書〉『ミッドウェー』『機動部隊』『零戦』(共著、朝日ソノラマ。それらは米・英・仏・独・スペイン・ポルトガル・ロシア語等に翻訳されている)、『太平洋戦争と十人の提督』『さらば海軍航空隊』『ラバウル海軍航空隊』『大艦巨砲主義の盛衰』(朝日ソノラマ)、『太平洋戦史の読み方』(東洋経済新報社)、『真実の太平洋戦争』『日本海軍が敗れた日(上)(下)』『真珠湾までの五十年』『平和とは何か』(PHP研究所)ほか 

大和沈没後の公文書が記す「戦訓」

戦時日誌や戦闘詳報の類は、こういう戦果を挙げましたと(誇張気味に)書くものが多いと思うが、戦艦大和沈没後のそれは一味違っている。「第八、戦訓」の「一、用兵一般」は誰が書いたか知らないがよほど頭に来たようだ。

以下
アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコード C08030103200
「昭和20年2月1日~昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)」より

軍機
二水戦機密特第二九号
昭和二十年四月十日

天一号作戦 海上特攻隊〔1YB主力(大和2sd)〕戦闘詳報
自昭和二十年四月六日
至昭和二十年四月八日  沖縄島突入作戦

第二水雷戦隊司令部
(第二艦隊司令部) 

目次
第一、形勢(出撃迄の作戦経過の概要)
第二、作戦計画
第三、戦闘経過
第四 令達報告等
第五、戦果及被害
第六、我が兵力の現状
第七、功績
第八、戦訓 
(目次終)

(第一~第五は省略)

第六 我が兵力の現状
冬月 四月二十日以後 全力発揮可能
涼月 五月五日以降保安碇泊可能 徹底修理には約三ケ月を要す
雪風 四月十五日以後全力発揮可能
初霜 全力発揮可能

第七 功績 
予定作戦を実施するに至らざりしも全軍結束海上特攻隊として敵艦上機群の攻撃を吸収邀撃其の十九機以上を撃墜数十機を撃破せる外間接的に味方航空特攻を推進して其の戦果を拡大せしむる等全般作戦に寄与せり。

第八 戦訓
一、用兵一般
(イ)制空権を有せざる艦隊の脆弱なるは既に「マレー」沖開戦以来幾度かの戦闘に於て実証せられたる処なり。故に此れが使用に当りては特に 左の点に考慮するを要す。
(一)完全なる制空権を確保し得ざる場合と雖も突入迄強力なる直衛機を付し勢力の保存を期す。
(二)極力天象を利用す。
(三)航空作戦乃至輸送作戦の牽制に使用す。
之を要するに作戦は飽く迄冷静にして打算的なるを要す。徒に特攻隊の美名を冠して強引なる突入戦を行ふは失ふ処大にして得る処甚だ少し

(ロ)作戦準備(整備と訓練)と作戦方針は合致せしむるを要す。
GFの水上艦艇の使用方針と中央の艦艇整備方針並に配員合致せざりし為今次突入作戦に於ては整備不十分なりしのみならず訓練も殆ど実施することなく出撃するの已むなきに至れり
即ち水雷戦隊の工事は緩急順序第五位と定められあり工事進捗せず配員も訓練を積みたる者は交代し駆逐艦砲術長にして射撃を実施せざる者数名ありし情況なり
艦隊としては低速力にて対雷撃及爆撃回避運動を実施せる外三回の戦務図演を実施せるに過ぎず。

(ハ)突入作戦等極度の機密を要する作戦に於ては予め計画準備を完成し電報一本にて即応し得る対勢にあるを要す。
天一号作戦に於ては突入戦は実施せられざる方針なる処突然之が実施を下令せられたる為燃料搭載出撃準備警戒要領等に関し電報量を激増し我が企図を察知せられたりと認めらるる点多し。
特攻部隊の使用に当りては如何に九死一生の作戦にありても目的完遂の道程に於ては最も合理的にして且自主的なる如く細密なる計画の下に極力成算ある作戦を実施する要あり。思ひ付的作戦或は政略的作戦に堕し貴重なる作戦部隊を犬死せしめざること特に肝要なり。 
作戦実施に当りては協同作(「動」?の字挿入)戦(二重線で消す?)上適当なる規制あるは当然なるべきも各部隊の実情を考へ其の達成すべき目的を明示し実施に当りては敵情並に天象地象等の状況に応じ相当採〔ママ〕量の余地あらしむる要あり。
今次会場特高部隊の作戦目的が航空攻撃を容易ならしむるものなるや航空部隊の士気昂揚の為なるや或は三十二軍の総攻撃に策応する為なるや明確ならざりし点ありし為行動決定上判断に迷ひたり。
 
(ヘ)(カタカナ「ニ」を二重線で消す)
将来水上部隊を特攻部隊として使用するに於ては予めその使用方針を明示し計画準備を進め訓練し置くを要す。

(ト) (カタカナ「ホ」を二重線で消す)
航空部隊と水上部隊及要地防備部隊とは更に緊密なる連絡を採る必要あり。
(一)大隅海峡西方海面に於て味方輸送部隊(大島より帰還中)を敵部隊と誤りたることあり。
(二)喜界島より敵艦上機百機以上北上すとの情報艦隊に入手遅れたり。

二、敵の戦法
(イ)今回の敵機は明らかに艦隊を目標として雷爆併用特に雷撃機を多数使用せり。先づ急降下爆撃を以て我対空火器を制圧したる後雷撃機同時に来襲せり。
(ロ)艦上機群は先づ艦隊確認後視界外に去り包囲対勢を整へ機を見て同時に殺到せり。
(ハ)ロケット弾を併用せり 冬月に二弾命中せり(盲弾)。 
(ニ)我が射弾を受くれば照準不良となるもの多し。
(ホ)敵機の防弾並に消火装置は更に完全となるものゝ如し。
(ヘ)雷撃機運動は巧妙にして雷撃の技倆は従前に比し進歩せるものと認む。
(ト)雷撃射点は三〇〇〇米乃至一〇〇〇米なり。雷速は三〇節付近と推定す。

三、砲術
(イ)二水戦各艦は環型照準器に換装後間もなく照準訓練不足の儘に出撃せり。対勢観測等は真に至難なることに属するを以て常住坐臥訓練に精進して哨煙弾雨の中に於ても尚照準を誤らざる域に達するを要す。
(ロ)二十五粍機銃の弾丸の威力は少きが如し。信管改造か四十粍機銃等に換装するを要す。今次戦斗に於て明に命中弾を確認せるも撃墜し得ざること多かりき。
(ハ)防空陣は輪型陣を以て理想とす。一回の対空戦中心■■中心艦■■離れ勝なり。又警戒艦による掩護射撃は効果少しとの一部所見あるも今回涼月は大和の掩護射撃に於て機銃により一機主砲により一機を撃墜せり。
(ニ)電探による射撃可能なる如く速に兵器改善の要あり。
理由
(一)今次戦斗に於ては雲低く敵機発見遅れ射撃時間少く砲力の発揮充分ならざりき。
(二)現在の測巨〔ママ〕儀は測手の精神的影響大なり。即ち精神的誤差を零ならしむる為最も科学的なる電測兵器による射撃を実施せざるべからず。
(ホ)機銃群乃至小隊毎に主砲の薬莢を吊下げ「打方始め」は笛「打方止め」は薬莢を叩きたる処指揮上極めて有効なりき。
(ヘ)今次戦斗の際煙幕を展張せば或は有効なりしに非ずやと思考す。研究の要あり。
(ト)矢矧型主砲に於ては多数機との交戦を予期する時は予め分火しおくを可とす。 
(チ)矢矧型は砲術長が高射長をやるを可とす。
(リ)初霜に於て指揮所中継所間連絡用ランプを仮設せる処指揮上有効なりき。

四、通信
(イ)作戦上相策応すべき各部隊間通信は最緊密ならしむるを要す。而して策応部隊に水上部隊を含む場合は特に然り。之が為左の諸項留意の要あり。
(一)水上部隊発信専用通信系を一波特定するを可とす。
(1)今次通信計画
(A)P/1YB→P/1KFGB 第六特定通信系、第一(二)基地通信系 甲種艦船一般短波
(B)其の他の一般通信は艦所通信系、若くは共用艦船短波及甲種艦船一般短波(状況により甲種艦船旗艦短波併用)なりしところ送信艦駆逐艦となれる戦斗
後半に於て発信電報の遅達、不達、通達不如意等は各艦の具に体験せるところなり。
(2)専用通信電波策定の場合左の着意を要す。
(A)対諜防衛(妨信回避)上常用電波と異ならしむるを可とす。
(B)電波精度保持上水晶片ある電波を選ぶを可とす。
(C)電波通達状況良好なる電波を選ぶを可とす。
(3)専用通信系錯綜せる場合にのみ応急対策として他の予備通信系に依る如く予め其の順序等も通信計画指示しあるを可とす。 
(4)水上部隊の内容駆逐艦以下の小艦艇となり通信施設並に練度充分ならざる現状に於て簡明確実なる通信計画の策定と重点明示は絶対必要なり。
(二)通信の速達は水上部隊の本質を理解せる陸上部隊及通信機関の積極的全幅協力に俟つ。
(1)航空戦を主体とせる作戦に於て水上部隊は敵の航空攻撃に対し陸上とは本質的に其の強度を異にし進退度に合するや否や一に情報通達一瞬の遅速に関することなり。
(2)陸上通信機関は前項水上部隊通信の待受には最優秀員を配す。
(3)水上部隊の進退と密切〔ママ〕なる関係を有する作戦命令等陸上部隊に於て信電令として発せらるる場合有線系に依る信号(電話)命令を主とし水上部隊に通達すべき無線(電令)を次等視さるる傾向なしとせず。
(4)前号に関連対諜防衛上戦術暗号の使用を制限さるる為に通達に費消時を要せる事例あり。
(三)総合敵情、戦果速報、残存敵兵力、情況判断、決心等陸上に於ける総合は水上に於けるより遥に容易迅速且適確なるべきを以て之が水上部隊への速達は緊要なり。今次作戦に於ける天一号敵情速報等は極めて有効なり。
(ロ)対敵通信は計画訓練実施及兵器改善共に更に大規模に推進の要あり。
(一)航空攻撃、水上水中攻撃共に特攻化の今日以後作戦指導の根底を成すべき戦果確認(推定)上敵信(電話)傍受は極めて有用にして二水戦司令部付たる二名(特話)の少尉三名(特信)下士官兵の取得せる情況のみにても我攻撃成果及敵企図の一部を窺知し得たり。
(二)四月七日敵飛行艇の触接を受けたる際大和直ちに妨信せるも矢矧にて鑑査せるところ若干の周波数差あり妨信初期に於て其の効少かりき。
事前戦務図演に於て矢矧妨信準備を行はしめたる際電波調定に十分弱を要せり。
本作戦通信計画に於て「妨信はP/1YB指導特令により各戦隊旗艦をして実施せしむるものとす」
「各隊(艦)は情況特に有効にして且緊急を要すと認めたる場合は独断之を実施することを得。此の場合速かに報告を要す」と定められありたるも実施に於ては機を逸したり。
(三)雪風装備の中方位測定機は敵潜電波の測定八回に及び有効なりしも大和装備のものは使用するに至らず朝霜装備のものは結線完了後殆ど調整の余裕なくして出撃せる為利用し得ざりき。
尚雪風に於ても測角側に転換するや感二乃至三の低下あり受信可能にて測角不能なる場合尠からず。之に比し三型探知機(糎波送探)は有効に使用せり。
(ハ)応急通信
(一)大和の通信力は予想外に脆弱なりき。其の実情原因調査に由なきも情況左の通。
(1)大和の戦斗開始(一二三〇)後記録上にては約一〇分にして艦隊内電話に出系せず。 
当時の配備中波二波超短波一波
(2)一三二五初霜に対し通信代行を下令初霜代行にて1YB戦斗速報第一号(発令時刻一三五〇)を発信一六五五■の通了解せり。
(二)冬月(ロケット弾直撃二其の他被銃撃)雪風初霜(何れも至近弾)は何れも空中線に異状なく涼月は前甲板被弾大破に依り空中線全部落下せり。
(三)涼月は前部電信室火災時暗号書於十四を取出し得たるのみなりし為後部電信室にて受信せる電報も翻訳し得ざりしものありたり。応急準備上人員暗号書の分散配備を適切にする要あり。
(二)駆逐艦通信長職務執行者(航海長)及乗組通信士の通信指揮能力は大なるを期し得ず之が教育訓練の要あるは勿論なるも之に全幅倚存し得ざる実情並に今後水上部隊の主兵が駆逐艦以下となれる趨勢に着目取扱調整容易にして信頼度大なる兵器の整備及簡単にして確実なる通信計画の策定並に之に基く反復演練を以て実効を期するを要す。
(一)今次戦斗中自艦の発信が如何なる電波にて送信されたるや知らざる通信長通信士あり。
(二)自艦後部電信室に二■電話の装備しあるを知らざりし通信士あり。
(三)空間錯綜せる場合先順位を争ひ交信員が独断指定「至急」を「作緊」とせる艦あり。
(四)電話不達となれる際TM軽便電信機の使用に着意せざりし通信長あり。

五、運動
(イ)雷撃に対しては雷撃機を避けざれば間に合はず。而して雷撃機の観破之が第一義たり。
(ロ)雷爆同時来襲には先ず雷撃機を避くるを要す。雷撃は一発にて致命傷となる。爆撃機は命中率少なり被害亦少し。
(ハ)見張員操艦者と操舵員の連繋は最も重要なり。之を大いに訓練しおく必要あると共に三者間の通信装置は間然なからしむる如く工夫施設の要あり。

六、防御
(イ)涼月型に於ては中部に吐水口少し増設の要あり。
(ロ)「ガソリンポンプ」は気化器の簡単なる改造に依り代燃にて作動し得(矢矧)
(ハ)予備魚雷格納庫及発射管に竹の「マントレット」 を施しありたる処発射管に三発魚雷格納所に七発の機銃弾命中せるも何れも反発せり極めて有効なるものと認む。(涼月)
(二)戦闘服装は上衣を「ズボン」に包み置くを要す。准士官以上は雨衣を着用するを可とす。
(ホ)無電池電話有効に使用せり。(磯風)
(へ)可燃物を極力陸揚せる為火災起り難かりき(矢矧磯風)
(ト)被害時の探知は仲々困難なり。よく研究訓練しおくを要す。

七、機関
(イ)艦隊速力二十二節巡航運転中朝霜は会敵約二時間前より■巡航「タービン」減速装置温度過昇し(温度不明)巡航「タービン」を離脱せんとせしに離脱に約五時間を要する応急作業となり(同艦よりの信号報告に依る)解列し艦隊の視界内続行中対空戦闘となり遂に行方不明となれり。
同艦はあ号作戦以来巡航「タービン」減速装置の音響大なりし為今次出撃前呉工廠に於て減速装置の中心検査並に片当り部分の摺合を施行したり。今回の故障の原因は叙上の工廠修理の不具合に依り減速装置焼損したるが如く信号報告ありたるも左の諸項より判断し嵌脱接手部の故障と認めらる。
(二)同部軸受温度上昇に関する来歴なし(前朝霜機関長の言に依る)
(三)呉廠の修理は順調に進捗す
(四)嵌脱接手部故障とすれば巡航の離脱作業に約五時間を要す。
(五)減速装置焼損せば直に巡航を離脱し得る筈なるに離脱出来ざりしこと
尚同艦准士官以上の出撃前の機関整備に対する熱意は司令部の助言に対し極めて低調にして工廠に全幅依存し居れり。今回の機関故障の原因は自己と生死を共にする機関に対する整理操縦の不熱意に依るところあるにあらざるか。 
(ロ)運転幹部は機関の経済運転が即機関効力の最大発揮にあることを銘肝し整理操縦に邁進するを要す。
(ハ)会敵を予期する場合に於ても中速力以下の航行にありては巡航運転且探信を妨害せざる如く使用罐を選定するの要あり。
(二)大豆油は冬月の使用実績(横須賀機関学校に報告済)に依れば機関教範所定汽釀諸元にて使用し差支なし。
(ホ)左記の場合機関員は出来得る限り艦内各部に分散を要す。
(一)碇泊中配置に就く場合(機関室は一直配員にて可)
(二)総員退去ありたる場合
(ヘ)将来の蒸気真水海水管は出来得る限り室内中央部且下層に配列の要あり。ロケット弾(冬月)機銃弾(矢矧)至近弾々■(矢矧)に依る諸管系の損傷中致命的なるもの相当数あり。

八、臨戦準備
(イ)出撃前不用物件は全部陸揚げするを要す。尚徹底し得ざる処ありたり。
(ロ)乗員の履歴考課表総員名簿等全部陸揚げし置くを可とす。
(ハ)総員名簿には生年月日を付し置くを要す。

九、医務
(イ)一号綳帯具は各人直接身に着け携行するを可とす。
(ロ)止血棒は其の使用法に注意の要あり。
寧ろ負傷部圧迫止血に徹底する方を可とす。
(ハ)水中爆症二名ありたり。水中爆症には腹巻は有効なり。

一〇、救難
(イ)溺者の風上側にて艦を停止するを可とす。
(ロ)溺者の救助に釣床其の儘両端を把りて外舷に吊す法は有効なり。
(ハ)浮泛物を纏め筏作製を企図せる際「ナイフ」小索は極めて有効なり入水時身に着けあるを可とす。
(ニ)手拭手巾等は泛水中目を拭ひ重油に依る刺戟を弱むるに有効なり。
(ホ)泛水中極力皮膚の直接海水と接するを防ぐを要す。殊に腹部は然り。腹巻は有効なり。
(へ)既往の訓なるも泛水時気力の充実は絶対必要なるも過度の発声運動は疲労を促進し耐久力を失す。救助直前筏を離れ泳ぎ着かんとして舷側至近にて沈没せるものありたり。
(ト)泛水者は極力集結しあるを可とす。士気を維持し被救助を容易ならしむる所以なり。

一一、其の他
(イ)現在の艦橋は防空指揮所施設不良操艦戦斗指揮見張等全部防空指揮所にて行ふ如く改造を要す。飛行機の操縦席の如く風防(?)式となすを可とす。
(ロ)水上艦艇の旋回圏を極少ならしむる為速に前舵を付する必要あり。
(■部揚錨機を使用して出入可能なる如く計画す)
(終) 

【資料】東京裁判 起訴状

以下はアジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコードA08071307800(126枚目~)
原文に読点が無いので適宜補った。
起訴状

以下本起訴状の言及せる期間に於て日本の対内対外政策は犯罪的軍閥に依りしはいせられ且指導せられたり。斯る政策は重大なる世界的紛議及び侵略戦争の原因たると共に平和愛好諸国民の利益並に日本国民自身の利益の大なる毀損の原因をなせり。

日本国民の精神は「アジア」否全世界の他の諸民族に対する日本の民族的優越性を主張する有害なる思想に依り組織的に毒せられたり。日本に存したる議会制度は広汎なる侵略の道具として使用せられ且当時「ドイツ」に於て「ヒットラー」及び「ナチ」党に依り「イタリア」に於て「ファシスト」党に依り確立せられたると同様の組織が導入せられたり。日本の経済的及び財政的資源は大部分戦争目的に動員せられ、為めに日本国民の福祉は阻害せらるるに至れり。

被告間に於ける共同謀議は他の侵略国即ち「ナチ・ドイツ」並に「ファシスト・イタリア」の統治者の参加を得て約定せられたり。本共同謀議の主たる目的は侵略国家に依る世界の他の部分の支配と搾取との獲得及び本目的の為め本裁判所条例中に定義せられたるが如き平和に対する罪、戦争犯罪並に人道に対する罪を犯し又は犯すことを奨励するにありたり。斯くて自由の基本原則と人格に対する尊敬を脅威し毀損したり。

該企図の促進並に達成に対し此等被告は其の権力、公職及び個人的声望及び勢力を利用して「アメリカ」合衆国、中華民国、「グレート・ブリテン」・北「アイルランド」連合王国、「ソビエット社会主義共和国連邦、「オーストラリア」連邦、「カナダ」、「フランス」共和国、「オランダ」王国、「ニュージーランド」、「インド」、「フィリッピン」国及び他の平和的諸国家に対し国際法並に神聖なる条約上の誓約、義務及び保証に違反して侵略戦争の計画、準備、開始又は遂行を意図し且つ実行せり。該計画は俘虜、一般収容者及び公海に在る人を殺害、毀傷及び虐待し之等に対し適当なる食糧、収容所、衣服、医療手当又は其の他の適当なる処置を与へず此等を非人道的条件下の強制労役に服せしめ、且恥辱を与へ以て広く承認せられたる戦争の法規慣例の審判を企図し且之を実行せり。又日本の利益の為めに被征服国民の人的及び経済的資源を搾取し公私の財産を掠奪し、都市村落に対し軍事上の必要以上濫りに破壊を加へ、蹂躙せられたる諸国の無力の一般民衆に対し大量殺害、凌辱、掠奪、劫掠、拷問其の他の野蛮なる残虐行為を加へ日本国政府の官吏及び諸機関に対する陸海軍派閥の勢力及び制圧を強めいはゆる翼賛会等を創設し国家主義的膨張政策を教へ戦争宣伝物を播布し新聞及び「ラヂオ」に厳格なる統制を加へ以て日本国民の輿論を動かし以て侵略戦争に対する心理的準備を整へしめ被征服諸国に『傀儡』政権を樹立し武力に依る日本の膨張計画を推進する為め「ドイツ」及び「イタリア」と軍事同盟を締結せり。

故に上記諸国家は一九四五年⦅昭和二十年⦆七月二十六日の「ポツダム」宣言、一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日の降伏文書及び本裁判所条例に従ひ、重大なる戦争犯罪人に対する被疑事実の調査及び之が訴追に付き各自の政府を代表すべく正当に任命せられたる下記署名の代表者に依りて上記の凡ての者を以下列挙の諸点に付き本裁判所条例中に凡て定義せるが如き平和に対する罪、戦争犯罪、人道に対する罪及び以上の罪の共通計画または共同謀議の罪ありとして茲に告訴し此の故に本訴訟に於ける被告とし且其の氏名が夫々記載せられたる後述の訴因に拠り起訴せられたるものとして指名す。




第一類 平和に対する罪
下記諸訴因に付きては平和に対する罪を問ふ。
該罪は茲に記載せられたる者及び其の夫々が極東国際軍事裁判所条例第五条特に第五条(イ)及び(ロ)並に国際法又は其の孰れかの一により個々に責任ありと主張せられ居る行為なり。


訴因第一
全被告は他の諸多の人々と共に⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て一個の共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に指導者、教唆者又は共犯者として参画したるものにして斯かる計画の実行に付き本人自身により為されたると他の何人により為されたるとを問はず一切の行為に対し責任を有す

斯かる計画又は共同謀議の目的は日本が東「アジア」並に太平洋及び「インド」洋並びに右地域内及び之に隣接せる凡ての国家及び島嶼に於ける軍事的、政治的及び経済的支配を獲得するに在り。而して其の目的の為め独力を以て、又は同様の目的を有する他の諸国と共同して、若くは右計画乃至共同謀議に誘致又は強制的に加入せしめ得る他の諸国と共同して、其の目的に反対する国又は国々に対し宣戦を布告せる又は布告せざる侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行ふに在り。

付属書Aの細目、付属書Bの条約条項及び付属書Cの誓約の各全部は本訴因に関係あり。



訴因第二
全被告は他の諸多の人々と共に一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て一個の共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に指導者、組織者、教唆者又は共犯者として参画したるものにして斯かる計画実行に付き本人自身より為されたると他の何人により為されたるとを問はず一切の行為に対し責任を有す。

斯かる計画又は共同謀議の目的は直接に又は日本の支配下に別個の一国家を建設することに依り日本が中華民国の一部たる遼寧、吉林、黒龍江、及び熱河の各省に於ける軍事的、政治的及び経済的支配を獲得するにあり、而して其目的の為め中華民国に対し宣戦を布告せる又は布告せざる侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行ふにあり。

付属書Aの細目全部、付属書Bの下記条約条項即ち第一乃至第六、第八乃至第十四、第二十二乃至第三十及び第三十二乃至第三十五並に付属書Cの下記条約即ち第一乃至第八は本訴因に関係あり。



訴因第三
全被告は他の諸多の人々と共に一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て一個の共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に指導者、組織者、教唆者又は共犯者として参画したるものにして斯かる計画実行に付き本人自身により為されたると他の何人により為されたるとを問はず一切の行為に対し責任を有す。

斯かる計画又は共同謀議の目的は直接に又は日本の支配下に一又は数個の別個の国家を建設することに依り日本が中華民国に於ける軍事的、政治的及び経済的支配を獲得するにあり而して其の目的の為め中華民国に対し宣戦を布告せる又は布告せざる侵略戦争並に国際法、条約教千恵及び誓約に違反する戦争を行ふにあり。

付属書Aの細目全部並に訴因第二に於けると同一の条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第四
全被告は他の諸多の人々と共に一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て一個の共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に指導者、組織者、教唆者又は共犯者として参画したるものにして斯かる計画実行に付き本人自身により為されたると他の何人により為されたるとを問はず一切の行為に対し責任を有す。

斯かる計画又は共同謀議の目的は日本が東「アジア」並に太平洋及び印度洋並に右地域内又は之に隣接セル凡ての国家及び島嶼に於ける軍事的、政治的及び経済的支配を獲得するに在り而して其の目的の為め独力を以て、又は同一の目的を有する他の諸国と共同して、若くは右計画乃至共同謀議に誘致又は強制的に加入せしめ得る他の諸国と共同して、「アメリカ」合衆国、全「イギリス」連邦(本起訴状に於て使用せる場合此の語は常に「グレート・ブリテン」及び北「アイルランド」連合王国、「オーストラリア」連邦、「カナダ」、「ニュージーランド」、南「アフリカ」連邦、「インド」、「ビルマ」、「マレー」連邦及び国際連盟に於て個々に代表せられざる「イギリス」帝国の他の凡ての部分を含むものとす)「フランス」共和国、「オランダ」王国、中華民国、「ポルトガル」共和国、「タイ」国、「フイリッピン」国及び「ソビエット」社会主義共和国連邦又は之等の内其の目的に反対する諸国に対し宣戦を布告せる又は布告せざる侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行ふに在り。

付属書Aの細目、付属書Bの条約条項及び付属書Cの誓約の各全部は本訴因に関係あり。



訴因第五
全被告は他の諸多の人々と共に一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て一個の共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に指導者、組織者、教唆者又は共犯者として参画したるものにして斯かる計画実行に付き本人により為されたると他の何人により為されたるとを問はず一切の行為に対し責任を有す。

斯かる計画又は共同謀議の目的は「ドイツ」、「イタリア」及び日本が自己特有の圏(?)内に―日本は東「アジア」、太平洋及び「インド」洋並に右地域内の又は之に隣接せる凡ての国家及び島嶼に―夫々特別支配を有することに依り全世界に亘る軍事的、政治的及び経済的支配を獲得すべきこと、而して右三国は其の目的の為め相倚り相扶け以て其の目的に反対する諸国、特に「アメリカ」合衆国、全「イギリス」連邦、「フランス」共和国、「オランダ」王国、中華民国、「ポルトガル「共和国」、「タイ」王国、「フィリッピン」国及び「ソビエット」社会主義共和国連邦に対し宣戦を布告せる又は布告せざる侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行ふに在り。

付属書Aの細目、付属書Bの条約条項及び付属書Cの誓約の各全部は本訴因に関係あり。



訴因第六
全被告は一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て中華民国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり。

付属書Aの細目中下記節即ち第一乃至第六並に訴因第二に於けると同一の条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第七
全被告は一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に到る迄の期間に於て「アメリカ」合衆国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり。

付属書Aの細目中下記節即ち第三、第四、第五、第六、第七、第九及び第十、並に付属書Bの下記条約条項即ち第一乃至第十、第十七乃至第十九、第二十二乃至第三十五及び第三十七並に付属書Cの誓約全部は本訴因に関係あり。



訴因第八
全被告は一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て「グレート・ブリテン」及び北「アイルランド」連合王国、及び全「イギリス」連邦中本起訴状に於ける個々の訴因の主体たらざる凡ての部分に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり。

付属書Aの細目中下記節即ち第三、第四、第五、第六、第七、第九、及び第十並に付属書Bの下記条約条項即ち第一、第二、第五、第十乃至第十九、第二十二乃至第三十、第三十二乃至第三十五、第三十七及び第三十八並に付属書Cの誓約の全部は本訴因に関係あり。



訴因第九
全被告は一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て「オーストラリア」連邦に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり。

訴因第八に於けると同一の付属書Aの細目各節並に右訴因に於けると同一の条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第十
全被告は一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て「ニュージーランド」に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反せる戦争を計画し準備せり。

訴因第八に於けると同一の付属書Aの細目各節並に右訴因に於けると同一の条約条項及び保証は本訴因に関係あり。



訴因第十一
全被告は一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て「カナダ」に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり。

訴因第八に於けると同一の付属書Aの細目各節並に右訴因に於けると同一の条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第十二
全被告は一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て「インド」に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり。

訴因第八に於けると同一の付属書Aの細目各節に右訴因に於けると同一の条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第十三
全被告は一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て「フィリッピン」国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり。

訴因第七に於けると同一の付属書Aの細目各節並に右訴因に於けると同一の条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第十四
全被告は一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て「オランダ」王国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり。

付属書Aの細目中下記節即ち第三、第四、第五、第六、第七、第九及び第十並に付属書Bの下記条約条項即ち第一乃至第五、第十乃至第十八、第二十、第二十二乃至第三十、第三十二乃至第三十五、第三十七及び第三十八並に付属書Cの下記誓約即ち第十乃至第十五は本訴因に関係あり。



訴因第十五
全被告は一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て「フランス」共和国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり。

付属書Aの細目中下記節即ち第二、第三、第四、第五、第六、第七、第九及び第十並に付属書Bの下記条約条項即ち第一乃至第五、第十乃至第十九、第二十二乃至第三十及び第三十二乃至第三十八並に付属書Cの下記誓約即ち第十四の予備第十五は本訴因に関係あり。



訴因第十六
全被告は一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て「タイ」王国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり。

付属書Aの細目中下記節即ち第二、第三、第四、第五、第六、第七、第九及び第十並に付属書Bの下記条約条項即ち第三、第四、第五、第十及び第三十二乃至第三十八は本訴因に関係あり。



訴因第十七
全被告は一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て「ソビエット」社会主義共和国連邦に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり。

付属書Aの細目中下記節即ち第一乃至第八並付属書Bの下記条約条項即ち第一乃至第五、第十乃至第十八、第三十二乃至第三十五及び第三十九乃至第四十七並に付属書Cの誓約第十三は本訴因に関係あり。



訴因第十八
被告荒木、土肥原、橋本、平沼、板垣、小磯、南、大川、重光、東條、梅津は一九三一年⦅昭和六年⦆九月十八日又は其の頃中華民国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を開始せり。

付属書Aの細目中第一節並に付属書Bの下記条約条項即ち第一乃至第五、第十一乃至第十四、第二十二、第二十三、第二十五、第三十及び第四十乃至第四十三は本訴因に関係あり。



訴因第十九
被告荒木、土肥原、橋本、畑、平沼、廣田、星野、板垣、賀屋、木戸、松井、武藤、鈴木、東條、梅津は一九三七年⦅昭和十二年⦆七月七日又は其の頃中華民国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を開始せり。

付属書Aの細目中第二節並に訴因第十八に於けると同一の条約条項並に付属書Cの下記誓約即ち第三、第四及び第五は本訴因に関係あり。



訴因第二十
被告土肥原、平沼、廣田、押野、賀屋、木戸、木村、武藤、永野、岡、大島、佐藤、嶋田、鈴木、東郷、東條は一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月七日又は其の頃「アメリカ」合衆国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を開始せり。

付属書Aの細目中第九節並に付属書Bの下記条約条項即ち第一乃至第九、第十九、第二十二乃至第三十、第三十三、第三十四及び第三十七並に付属書Cの誓約全部は本訴因に関係あり。



訴因第二十一
訴因第二十に於けると同一の被告は一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月七日又は其の頃「フィリッピン」国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を開始せり。

訴因第二十に於けると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第二十二
訴因第二十に於けると同一の被告は一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月七日又は其の頃全「イギリス」連邦に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反せる戦争を開始せり。

付属書Aの細目中第九節並に付属書Bの各条約条項第一乃至第五、第十九、第二十二乃至第三十、第三十三及び第三十七並に付属書Cの誓約全部は本訴因に関係あり。



訴因第二十三
被告荒木、土肥原、平沼、廣田、星野、板垣、木戸、松岡、武藤、永野、重光、及び東條は一九四〇年⦅昭和十五年⦆九月二十二日又は其の頃「フランス」共和国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を開始せり。

訴因第十五に於けると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第二十四
訴因第二十に於けると同一の被告は一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月七日又は其の頃「タイ」王国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を開始せり。

付属書Aの細目中第七節並に付属書Bの下記条約条項即ち第一乃至第五、第三十三、第三十四、第三十六、第三十七及び第三十八は本訴因に関係あり。



訴因第二十五
被告荒木、土肥原、畑、平沼、廣田、星野、板垣、木戸、松岡、松井、重光及び鈴木は一九三八年⦅昭和十三年⦆七、八月中に於て「ハーサン」湖区域に於て「ソビエット」社会主義共和国連邦を攻撃することに依り侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を開始せり。

訴因第十七に於けると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第二十六
被告荒木、土肥原、畑、平沼、板垣、木戸、小磯、松井、松岡、武藤、鈴木、東郷、東條及び梅津は一九三九年⦅昭和十四年⦆の夏期中「ハルヒン・ゴール」河区域に於て蒙古人民共和国の領土を攻撃することに依り侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を開始せり。

訴因第十七に於けると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第二十七
全被告は一九三一年⦅昭和六年⦆九月十八日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て中華民国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行へり。

訴因第二に於けると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第二十八
全被告は一九三七年⦅昭和拾に年⦆七月七日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て中華民国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行へり。

訴因第二に於けると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第二十九
全被告は一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月七日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て「アメリカ」合衆国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行へり。

付属書Aの細目中下記節即ち第四乃至第十並に訴因第二十に於けると同一の条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第三十
全被告は一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月七日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て「フィリッピン」国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行へり。

訴因第二十九に於けると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第三十一
全被告は一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月七日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て全「イギリス」連邦に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行へり。

付属書Aの細目中下記節即ち第四乃至第十並に訴因第二十二に於けると同一の条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第三十二
全被告は一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月七日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て「オランダ」王国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行へり。

訴因第十四に於けると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第三十三
被告荒木、土肥原、平沼、廣田、星野、板垣、木戸、松岡、武藤、永野、重光及び東條は一九四〇年⦅昭和十五年⦆九月二十二日及び其の後「フランス」共和国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行へり。

訴因第十五に於けると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第三十四
全被告は一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月七日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て「タイ」王国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行へり。

訴因第二十四に於けると同一の細目及び条約条項は本訴因に関係あり。



訴因第三十五
訴因第二十五に於けると同一の被告は一九三八年⦅昭和十三年⦆の夏期中「ソビエット」社会主義共和国連邦に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行へり。

訴因第十七に於けると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第三十六
訴因第二十六に於けると同一の被告は一九三九年⦅昭和十四年⦆の夏蒙古人民共和国及び「ソビエット」社会主義共和国連邦に対し侵略戦争並に国際法、条約、及び誓約に違反する戦争を行へり。

訴因第十七に於けると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



第二類殺人
下記諸訴因に就きては殺人罪及び殺人の共同謀議の罪に問ふ。該罪は茲に記載せられたる者及び其の各自が個々に責任ありと主張せられ居る行為なると共に既述の裁判所条例第五条の全項、国際法及び日本を含む犯罪の行はれたる国々の国内法又は其等の一若くは二以上に違反したる平和に対する罪、通例の戦争犯罪及び人道に対する罪なり。


訴因第三十七
被告土肥原、平沼、廣田、星野、賀屋、木戸、木村、武藤、永野、岡、大島、佐藤、嶋田、鈴木、東郷、及び東條は他の諸多の人々と共に一九四〇年⦅昭和十五年⦆六月一日より一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月八日に至る迄の期間に於て一個の共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に指導者、組織者、教唆者又は共犯者として参画したるものにして斯かる計画の実行に付き本人自身により為されたると他の何人により為されたるとを問はず一切の行為に対し責任を有す。

斯かる計画又は共同謀議の目的は「アメリカ」合衆国、「フィリッピン」国、全「イギリス」連邦、「オランダ」王国及び「タイ」王国に対し不法なる敵対行為を開始し且日本が上述国家と平和状態にある時に於て不法に是等諸国家又は其の或るものの領土、艦船並に航空機の攻撃を日本軍に命じ為さしめ且許すことに因り下記の人々を不法に殺害し殺戮せんとするに在りたり。

殺害或は殺戮の目的とせられたる者は凡て上述諸国家の軍隊及び一般人中斯かる攻撃の際偶々其の地点に居合せたらん者なり。

該敵対行為及び攻撃は付属書Bの条約条項第五に違反せるが故に不法なり。従って被告及び該日本軍は適法なる交戦者としての権利を獲得し得ざりしものなり。

是等被告及び其の各自は右条約条項に違反して斯かる敵対行為を開始せんと意図し又は該条約条項に違反するや否やの如きは之を介意せざりしものなり。



訴因第三十八
被告土肥原、平沼、廣田、星野、賀屋、木戸、木村、松岡、武藤、永野、岡、大島、佐藤、嶋田、鈴木、東郷及び東條は他の諸多の人々と共に一九四〇年⦅昭和十五年⦆六月一日より一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月八日に至る迄の期間に於て一個の共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に指導者、組織者、教唆者又は共犯者として参画したるものにして斯かる計画の実行に付き本人自身により為されたると他の何人により為されたるとを問はず一切の行為に対し責任を有す。

斯かる計画又は共同謀議の目的は「アメリカ」合衆国、「フィリッピン」国、全「イギリス」連邦、「オランダ」王国及び「タイ」王国に対し不法なる敵対行為を開始し且不法に是等諸国家又は其の或るものの領土、艦船及び航空機の攻撃を日本軍に命じ為さしめ且許すことに因り下記の人々を不法に殺害し殺戮せんとするに在りたり。

殺害或は殺戮の目的とせられたる者は凡て上述諸国家の軍隊及び一般人中斯かる攻撃の際偶々其の地点に居合せたらん者なり。

該敵対行為及び攻撃は付属書Bの条約条項第六、第七、第十九、第三十三、第三十四及び第三十六に違反せるが故に不法なり。従って被告及び該日本軍は適法なる交戦者としての権利を獲得し得ざりしものなり。

是等被告及び其の各自は右条約条項に違反して斯かる敵対行為を開始せんと意図し又は該条約条項の全部又は一部に違反するや否やの如きは之を介意せざりしものなり。


訴因第三十九
訴因第三十八に於けると同一の被告は本件訴因第三十七及び第三十八に於て主張したる情況の下に一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月七日〇七五五時頃(真珠湾時間)「ハワイ」準州真珠湾に於て日本が当時平和状態に在りし「アメリカ」合衆国の領土、艦船及び航空機に対する攻撃を日本軍に命じ為さしめ且許すことに因りて不法に「キッド」海軍少将の外目下其の氏名及び員数不詳なる「アメリカ」合衆国陸海軍将兵約四千名及び一般人を殺害し殺戮したり。


訴因第四十
訴因第三十八に於けると同一の被告は本件訴因第三十七及び第三十八に於て主張したる情況の下に一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月八日〇〇二五時頃「シンガポール」時間「ケランタン」州「コタバル」に於て日本が当時平和状態に在りし全「イギリス」連邦の領土及び航空機に対する攻撃を日本軍に命じ為さしめ且許すことに因りて不法に目下其の氏名及び員数不詳なる全「イギリス」連邦軍将兵を殺害し殺戮したり。


訴因第四十一
訴因第三十八に於けると同一の被告は本件訴因第三十七及び第三十八に於て主張したる情況の下に一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月八日〇八〇〇時頃(香港時間)香港に於て日本が当時平和状態に在りし全「イギリス」連邦の領土、艦船及び航空機に対する攻撃を日本軍に命じ為さしめ且許すことに因りて不法に目下其の氏名及び員数不詳なる全「イギリス」連邦軍将兵を殺害し殺戮したり。


訴因第四十二
訴因第三十八に於けると同一の被告は本件訴因第三十七及び第三十八に於て主張したる情況の下に一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月八日〇三〇〇時頃(上海時間)上海に於て日本が当時平和状態に在りし全「イギリス」連邦の軍艦「ぺトレル」号に対する攻撃を日本軍に命じ為さしめ且許すことに因りて不法に目下其の氏命〔ママ〕不詳なる全「イギリス」連邦海軍軍人三名を殺害し殺戮したり。
 

訴因第四十三
訴因第三十八に於けると同一の被告は本件訴因第三十七及び第三十八に於て主張したる情況の下に一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月八日壱〇〇〇時頃(「マニラ」時間)「ダバオ」に於て日本が当時平和状態に在りし「フィリッピン」国の領土に対する攻撃を日本軍に命じ為さしめ且許すことに因りて不法に目下其の氏名及び員数不詳なる「アメリカ」合衆国軍将兵並に「フィリッピン」国軍将兵及び一般人を殺害し殺戮したり。


訴因第四十四
全被告は他の諸多の人々と共に一九三一年⦅昭和六年⦆九月十八日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て一個の共通の計画又は共同謀議の立案及び実行に指導者、組織者、教唆者又は共犯者として参画したるものにして斯かる計画の実行に付き本人自身により為されたると他の何人により為されたるとを問はず一切の行為に対し責任を有す。

斯かる計画又は共同謀議の目的は上記期間中日本が行ひ又は行はんとしたる不法なる数回の戦争に勝利を容赦なく獲得せんとし日本の占領したる領土内に於て、陸上又は海上に於て、俘虜、日本に降伏することあるべき敵対せし諸国の将兵、日本の権力下に置かるることあるべき一般人及び日本軍に撃破せられたる艦船の乗組員の大量殺戮を行はしめ且之を許可するに在りたり。



訴因第四十五
被告荒木、橋本、畑、平沼、廣田、板垣、賀屋、木戸、松井、室生、鈴木及び梅津は一九三七年⦅昭和十二年⦆十二月十二日及び其の後引続き本件訴因第二記載の条約条項に違反して南京市を攻撃し且国際法に反して住民を鏖殺することを日本軍に不法に命じ為さしめ且許すことに因り不法に目下其の氏名及び員数不詳なる数万の中華民国の一般人及び武装を解除せられたる兵員を殺害し殺戮せり。


訴因第四十六
訴因第四十五に於けると同一の被告は一九三八年⦅昭和十三年⦆十月二十一日及び其の後引続き本件訴因第二記載の条約条項に違反して広東市を攻撃し且国際法に反して住民を鏖殺することを日本軍に不法に命じ為さしめ且許すことに因り不法に目下其の氏名及び員数不詳なる多数の中華民国の一般人及び
武装を解除せられたる兵員を殺害し殺戮せり。


訴因第四十七
訴因第四十五に於けると同一の被告は一九三八年⦅昭和十三年⦆十月二十七日の前後に亘り本件訴因第二記載の条約条項に違反して漢口市を攻撃し且国際法に反して住民を鏖殺することを日本軍に不法に命じ為さしめ且許すことに因り不法に目下其の氏名及び員数不詳なる多数の中華民国の一般人及び武装を解除せられたる兵員を殺害し殺戮せり。


訴因第四十八
被告畑、木戸、小磯、佐藤、重光、東條及び梅津は一九四四年⦅昭和十九年⦆六月十八日前後に亘り本件訴因第二記載の条約条項に違反して長沙市を攻撃し且国際法に反して住民を鏖殺することを日本軍に不法に命じ為さしめ且許すことに因り不法に目下其の氏名及び員数不詳なる数千の中華民国の一般人及び武装を解除せられたる兵員を殺害し殺戮せり。


訴因第四十九
訴因第四十八に於けると同一の被告は一九四四年⦅昭和十九年⦆八月八日の前後に亘り本件訴因第二記載の条約条項に違反して湖南省衡陽市を攻撃し且国際法に反して住民を鏖殺することを日本軍に不法に命じ為さしめ且許すことに因り不法に目下其の氏名及び員数不詳なる多数の中華民国一般人及び武装を解除せられたる兵員を殺害し殺戮せり。


訴因第五十
訴因第四十八に於けると同一の被告は一九四四年⦅昭和十九年⦆十一月十日前後に亘り本件訴因第二記載の条約条項に違反して広西省の桂林、柳洲両都市を攻撃し且国際法に反して住民を鏖殺することを日本軍に不法に命じ為さしめ且許すことに因り不法に目下其の氏名及び員数不詳なる多数の中華民国の一般人及び武装を解除せられたる兵員を殺害し殺戮せり。


訴因第五十一
被告荒木、土肥原、畑、平沼、板垣、木戸、小磯、松井、松岡、武藤、鈴木、東郷、東條及び梅津は一九三九年⦅昭和十四年⦆夏「ハルヒン・ゴール」河地域に於て当時日本と平和状態に在りたる蒙古及び「ソビエット」社会主義共和国連邦の領土を攻撃することを日本軍に命じ為さしめ且許すことに因り不法に目下其の氏名及び員数不詳なる蒙古及び「ソビエット」社会主義共和国連邦の軍隊の若干名を殺害し殺戮せり。


訴因第五十二
被告荒木、土肥原、畑、平沼、廣田、星野、板垣、木戸、松岡、松井、重光、鈴木及び東條は当時日本と平和状態にありたる「ソビエット」社会主義共和国連邦領を(一九三八年⦅昭和十三年⦆七月及び八月「ハーサン」湖区域に於て)日本軍に攻撃することを命じ為さしめ且許すことに因り目下其の氏名及び員数不詳「ソビエット」社会主義共和国連邦の若干名を不法に殺害し殺戮せり。


第三類 通例の戦争犯罪及び人道に対する罪
下記訴因に付きては通例の戦争犯罪及び人道に対する罪を問ふ。該罪は茲に記載せられたる者及び其の各自が極東国際軍事裁判所条例第五条特に第五条(ロ)及び(ハ)並に国際法又は其の孰れかの一に依り個々に責任有りと主張せられ居る行為なり。


訴因第五十三
被告土肥原、畑、星野、板垣、木戸、木村、小磯、武藤、永野、岡、大島、佐藤、重光、嶋田、鈴木、東郷、東條及び梅津は他の諸多の人々と共に一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月七日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て一個の共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に指導者、組織者、教唆者又は共犯者として参画したるものにして斯かる計画の実行に付き本人自身に依り為されたると他の何人に依り為されたるとを問はず一切の行為に対して責任を有す。

斯かる計画又は共同謀議の目的は当時日本が従事せる諸作戦地の各々に於ける日本陸海軍の最高司令官、日本陸軍省職員、日本領土又は其の占領地の俘虜及び一般収容者の収容所及び労務班の管理当事者、並に日本の憲兵及び警察と其の夫々の部下とに「アメリカ」合衆国、全「イギリス」連邦、「フランス」共和国、「オランダ」王国、「フィリッピン」国、中華民国、「ポルトガル」共和国及び「ソビエット」社会主義共和国連邦の軍隊に対し並に当時日本の権力下に在りし此等諸国の数千の俘虜及び一般人に対し付属書Dに於て述べられたる条約、誓約及び慣行中に含まれ且之に依り証明せられたる戦争の法規慣例の頻繁にして且常習的なる違反行為を行ふことを命令し授権し且つ許可すること、而かも亦日本国政府に於て上記条約及び誓約竝に戦争の法規慣例の遵守を確保し且其の違反を防止する為め之に準拠して適当なる手段を執ることを差控ふべきことに在りたり。

中華民国の場合に於ては該計画又は共同謀議は一九三一年⦅昭和六年⦆九月十八日に始まり上記指名の者の外下記被告も亦之に参画せり。
 
荒木、橋本、平沼、廣田、松井、松岡、南


訴因第五十四
被告土肥原、畑、星野、板垣、賀屋、木戸、木村、小磯、武藤、永野、岡、大島、佐藤、重光、嶋田、鈴木、東郷、東條及び梅津は一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月七日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て訴因第五十三に於て述べたる者と同一の人々に同訴因中に於て述べたる違反行為を行ふことを命令し授権し且許可し以て戦争法規に違反せり。

中華民国の場合に於ては該命令、授権及び許可は一九三一年⦅昭和六年⦆九月十八日より始まる期間に発せられたるものにして上記指名の者の外下記の被告も亦之に責任を有す。

荒木、橋本、平沼、廣田、松井、松岡、南


訴因第五十五 
被告人土肥原、畑、板垣、賀屋、木戸、木村、小磯、武藤、水野、岡、大島、佐藤、重光、嶋田、鈴木、東郷、東條及び梅津は一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月七日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て夫々の官職に因り「アメリカ」合衆国、全「イギリス」連邦、「フランス」共和国、「オランダ」王国、「フィリッピン」国、中華民国、「ポルトガル」共和国及び「ソビエット」社会主義共和国連邦の軍隊並に当時日本の権力下に在りし此等諸国の数万の俘虜及び一般人に関し上記条約及び誓約並に戦争の法規慣例の遵守を確保する責任を有したるも、其の遵守を確保し其の違反を防止するに適当なる手段を執る可き法律上の義務を故意又不注意に無視し以て戦争法規に違反せり

中華民国の場合に於ては該違反行為は一九三一年⦅昭和六年⦆九月十八日に始まり上記指名の者の外下記被告も之に責任を有す
 
荒木、橋本、平沼、廣田、松井、松岡、南 


以上の理由に依り裁判所に対し本起訴状を提出し茲に前記指名の被告人等に対する起訴事実を裁判所に提出するものなり

手榴弾は弾薬で武器ではない、というウソ

中谷元防衛相は弾薬と武器は別物と考えているらしい。
安全保障法制で「弾薬」と「武器」の定義が問題になっています。中谷防衛大臣は手りゅう弾に続いてミサイルも「武器」に当たらないという見解を示しました。 「ミサイルについては『弾薬』と『武器』の定義にあえて当てはめるとすれば『弾薬』に当たる」(中谷 元 防衛相)
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2555621.html

次に外務省サイトより抜粋。
小型武器問題について
平成19年10月

 【参考2】「小型武器」の定義(国連小型武器政府専門家パネルでの報告書) 致命的な戦争手段として使用するため軍隊仕様で製造された武器で、(1)一人で携帯・使用が可能な「小火器(Small Arms)」、(2)数名で運搬・使用が可能な「軽兵器(Light Weapons)」、(3)弾薬及び爆発物の3種類があるとされている。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/arms/sw/gaiyo.html
 
 どうやら弾薬は「小型武器」に含まれるようだ。そして「専門家パネルでの報告書」とはこれだろうか。「Report of the Panel of Governmental Experts on Small Arms」
http://www.un.org/depts/ddar/Firstcom/SGreport52/a52298.html

ここには武器の定義が挙げられているようだが、missiles(ミサイル)、hand grenades(手榴弾)の単語が見える。
26. Based on this broad definition and on an assessment of weapons actually used in conflicts being dealt with by the United Nations, the weapons addressed in the present report are categorized as follows:

(a) Small arms:
 (i) Revolvers and self-loading pistols;
 (ii) Rifles and carbines;
 (iii) Sub-machine-guns;
 (iv) Assault rifles;
 (v) Light machine-guns;

(b) Light weapons:
 (i) Heavy machine-guns;
 (ii) Hand-held under-barrel and mounted grenade launchers;
 (iii) Portable anti-aircraft guns;**
 (iv) Portable anti-tank guns, recoilless rifles;**
 (v) Portable launchers of anti-tank missile and rocket systems;**
 (vi) Portable launchers of anti-aircraft missile systems;
 (vii) Mortars of calibres of less than 100 mm;

(c) Ammunition and explosives:
 (i) Cartridges (rounds) for small arms;
 (ii) Shells and missiles for light weapons;
 (iii) Mobile containers with missiles or shells for single-action anti-aircraft and anti-tank systems;
 (iv) Anti-personnel and anti-tank hand grenades;
 (v) Landmines;
 (vi) Explosives.
 

上の定義を日本語に訳したものが次の表1
2.小型武器問題とは何か? ―冷戦後の武力紛争の特徴―
(1) 小型武器の定義/分類と数字
「小型武器」とは、1997 年に国連小型武器政府専門家パネルが作成した報告書によれば、 「国連が関与する紛争で実際に使われているタイプ」で、特に軍事用に製造された武器が対 象であるとした上で、①兵士一人で携帯、使用が可能な「小型武器 (Small Arms)」、②兵士 - 64 - 数名で運搬、使用が可能な「軽兵器 (Light Weapons)」、③弾薬及び爆発物 (Ammunition and Explosives)の3種類があるとされており、一般的にはこれらを総称して「小型武器」と呼ん でいる (ただし、弾薬・爆発物のカテゴリーには「対人地雷」も含まれるが、1997 年に対人 地雷禁止条約が締結されていることを踏まえ、小型武器問題のスキームからは除外されてい る。)(注3)。

表1. 国連小型武器専門家パネル報告書による小型武器等の分類(注4)

小型武器
回転式拳銃、自動式拳銃、ライフル銃及びカービン銃、小型軽機関銃、突撃 銃、軽機関銃

軽 兵 器
重機関銃、携帯型手榴弾発射台、携帯型発射砲、携帯型対戦車用銃及び無反 動ライフル銃、携帯対戦車ミサイル及びロケット発射装置、携帯用対空高射 砲、口径 100 ミリ以下の直撃砲

弾薬・爆発物
小型武器用弾薬筒、軽兵器用弾薬及びミサイル、対空・対戦車用可動式砲弾 及びミサイル、対人・対戦車用手榴弾、地雷、爆発物

- 注 -
3.外務省軍備管理・科学審議官組織編『我が国の軍縮外交』(財)日本国際問題研究所軍縮・不 拡散センター、2002 年、109 頁を参照。
4.UN Doc. A/52/298, para.26.小型武器分類の日本後訳については、国連広報センター『なく そう!小型武器・対人地雷展 (パンフレット)』2001 年、等を参考にして筆者が作成した。
http://www2.jiia.or.jp/pdf/global_issues/h14_funsou-yobou/6_yamane.pdf(p63・64)
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