小俣行男「現代のドキュメント 侵掠 中国戦線従軍記者の証言」徳間書店1982年9月30日初刷
第4章「『仏印』への侵攻準備をみる」の「『とい』の女」の項

  その翌日、私は応山へ連絡に引きかえした。ここには第三師団の留守部隊がいて、軍司令部の警備に当っていた。その留守部隊長は私の中学の同級生の若林四郎少佐だった。
  陸士出の将校で、こんどの戦争では岐阜の六十八連隊の砲兵隊の中隊長だった。徐州会戦が終ったとき、六十八連隊ではたった一人の生き残りの中隊長だった。南京で会ったときは大尉だったが、ここでは少佐になっていた。
  隊長室へ入って行くと、彼は「おー」と奇妙な声を出し、「よく来たなァ」といって喜んでくれた。八字髭を生やし、ここでは堂々たる隊長ぶりをみせていた。日が暮れると若林は「おい、飲みに行こう」といって「とい街」に出かけた。「とい」といわれて、何のことだかとまどったが、「特殊慰安所」の「特慰」を略して「とい」と呼んでいたのだ。
  武漢作戦終了後、第三師団はこの応山に駐屯していたので「特殊慰安所」をつくっていたのだった。家は十数軒、ここには珍しく日本の若い女がたくさんいた。珍しく――というのは前線の慰安婦はたいてい朝鮮人が多かったからだ。これらの日本の女たちも、昼間は兵隊たちのために客をとる。夜は将校のために酒の相手をする。夜更けると将校といっしょに寝る。それが特殊慰安婦だった。
  若林隊長はそのなかの顔なじみらしい一軒に入っていった。いつもは賑わう「とい街」だというが、作戦で兵隊が前線へ出てしまったので、ひっそりとしていた。若林と私が入ってゆくと、三、四人女が出てきた。こんな前線には、もったいないような、若くて、器量のよい女たちだった。
  こんな器量の女たちなら、こんな前線へ来なくても、どこでも立派に働けるのにと思って、そのうちの一人、丸顔の可愛い娘にきいてみると――
「私は何も知らなかったのね。新宿の喫茶店にいたのだけれど、皇軍慰問に行かないかってすすめられたのよ。皇軍慰問ということが、どういうことかも知らなかったし、話にきいた上海へ行けると言うので誘いに乗っちゃったの。仕度金も貰えたし、上海までは大はしゃぎでやってきたら、前線行きだという。前線って戦争するところでしょう。そこで苦労している兵隊さんを慰問できるなんて素敵だわ、と思って来てみたら、『とい街』だったじゃないの、ここまできてしまったら、逃げて帰ることもできないし、あきらめちゃったわ」。
  そういって彼女は私にビールをついだ。
  ここにも“聖戦”のかげに女がいた。“聖戦”といい“皇軍慰問”といって女を連れだすのだが、その慰問の実態がこれだったのだ。私は、その後も、こういう慰安婦たちから話をきく機会があったが、朝鮮人女性の場合など、強制連行同様であった。何も知らない少女たちが、戦場に連れてこられて、性に飢えた兵士たちを相手に、一日、何十人もの“労働”が課されるのだ。何人も相手をしていると、しまいには“死んだ”ようになってしまう。それでも、殺伐な戦場から帰った兵士たちは、慰安所に殺到した。このころのようにまだ日本軍が勝ち戦さをつづけている場合はまだよかったが、敗戦をつづけるようになると、足手まといの彼女らは、戦場に置き去りにされた。太平洋戦争下で、これら慰安婦たちの哀話は多い。
  このときの慰安婦は、日本人で、まだそれほどの思いをしていなかったためか、陽気であった。たもとから小さな資格のセルロイドの札をパラパラと三、四枚出して数えた。
「ちかごろは閑になっちゃってね。今日もこれっぽっち」。兵隊に抱かれるたびに一枚ずつ渡されるセルロイドの札、兵隊が前線に出動する直前などは十五枚も二十枚もあった日がつづいていたといっていた。
  若林はそんな話には飽き飽きしていたらしく、「おい、くだらない話はもうそのくらいにして、もっとお客さんにお酌をしろ、お前も飲めよ」といって、彼女たちにビールを飲ませた。
  私たちは夜更けまで、級友や故郷のことなどを話し合った。(p186・187)

小俣行男「現代のドキュメント 続・侵掠 太平洋戦争従軍記者の証言」徳間書店1982年10月31日初刷
はじめに―日中戦争から太平世戦争へ
私は「読売新聞」社特派の従軍記者として上海に着いた。南京が陥落したばかりの一九三八年(昭和十三年)一月のことだった。・・・私は広東から南寧に入り、さらに国境を越えて仏領印度支那(ベトナム)北部への武力進駐に従軍した。この北部進駐が南部仏印進駐となり、ついに太平洋戦争へと発展した。私はマレー、シンガポール、ビルマ戦線に従軍した。(p5・6)

第4章「ビルマ戦線―歓呼と壊滅」の「慰安所の少女八名を逃がす」の項
  ある日、 「日本から女が来た」という報せがあった。連絡員が波止場へ行ってみると、その朝到着した貨物船から、女が四、五十人上陸して宿舎に入ったことを聞いた。
   しかしこれは「日本の女」ではなく「朝鮮の女」だった。連絡員の話では、まだ開業していないが、新聞記者達には特別にサービスするから、「今夜来てもらいたい」という話だった。
  「善は急げ!」ということになって、私たちは四、五人で波止場近くの彼女たちの宿舎に乗りこんだ。私の相手になったのは、二十三、四の女で、日本語はうまかった。公学校の先生をしていたという。
  「学校の先生が、どうしてこんなところへ来たのか」ときくと、彼女は本当に口惜しそうにこういった。
  「私たちはだまされたのです。東京の軍需工場へ行くという話で募集がありました。私は東京へ行ってみたかったので応募しました。仁川沖で泊っていた舟に乗りこんだところ、船は東京へは行かずに、南へ、南へと動いて、着いたところはシンガポールでした。そこで半分くらいが降されて、私たちはビルマに連れられて来たのです。歩いて帰るわけにもいかず、逃げることもできません。私たちはあきらめています。ただ可哀想なのは何も知らない娘たちです。十七、八の娘が八名います。この商売はいやだと泣いています。助ける方法はありませんか」
   彼女たちのいうように、逃亡できる状態ではない。助ける方法といって何があるだろうか。考えた末に、「これは憲兵隊に逃げこんで訴えなさい」といった。
  前線の憲兵は泥棒の首をきる。悪いことをしたものの首に札を下げ、街路樹に縛りつけたりする。しかし、彼女たちがかけこめば、何か対策を講じてくれるかも知れない。あるいはその反対に「脱走者」として処罰されるかも知れない。しかし、いまのビルマでは、ほかにどんな方法があるだろうか。
  私の話を聞いて、若い記者たちも同情して、それこそ、「善は急げ!」だ。早速私たちはこの八人の少女を連れ出して、憲兵隊に逃げこませて、救いを求めた。憲兵隊でも始末に困ったが、慰安所の抱え主と話し合って、八名の少女は将校クラブに勤務することになった。その後この少女たちはどうなったのだろうか。 (p181・182)

※「第4野戦飛行場設定隊 陣中日誌」9月1日の項に「五、当地にも半島人の慰安所の開設を見、本日より開業さる」(アジア歴史資料センターhttps://www.jacar.go.jp/ レファレンスコードC16120239600(1画像目)
第4野戦飛行場設定隊は当時ミャンマーにあった