以下は全て中里成章「パル判事―インド・ナショナリズムと東京裁判」岩波新書2011年2月18日第1刷発行から


まず国際法の素人だったという点について 
カルカッタでパルは弁護士を開業するとともに、カルカッタ大学法学部の講師に採用されて授業を担当することになった。このとき以後、パルは弁護士と大学教員の二足の草鞋を履く生活を続け、法律実務と教育・研究の両方において法曹界で評価されるようになってゆく。(p53)

弁護士を開業すると、パルは所得税法を専門とするようになった。(p54)

パルは一九ニ七年、所得税法のインド政府法律顧問に任ぜられ、四一年までその職にあった。 パルの担当はベンガル州で、州の所得税法に関する訴訟書類はすべて、パルの机の上を通ったという。三七年、「ユール事件」という訴訟のために、パルはロンドンの枢密院に派遣された。枢密院はイギリス国王の助言機関だが、裁判所としても機能していた。植民地インドの上告審はこの枢密院で行なわれていた。(p55)

一九ニ四年、パルは博士論文を提出し、法学博士号を得た。論文のタイトルは「マヌ法典以前のヴェーダ時代及びポスト・ヴェーダ時代におけるヒンドゥー法哲学」であった(p58)

パルは一九ニ五年、三〇年、三八年の三度、タゴール法学教授に指名された。三度も指名されたのは、カルカッタ大学の歴史で初めてのことであった。実際の講義はその年度に行われるとは限らなかったが、講義のタイトルはそれぞれ、「長子相続法―特に古代及び近代のインドとの関連において」、「ヴェーダ時代、及びマヌ法典までのポスト・ヴェーダ期におけるヒンドゥー法史」、「国際関係における犯罪」であった。……この寄付講座の教授職は常勤ではなく、一年限りで交代したが、一二回の講義をして、講義録を出版することが義務づけられていた。(p58~60)
この3つの講義のうち「国際関係における犯罪」は国際法関連であるように見えるが、実は当初の講義テーマは「英領インドの憲政的発展」だった。それが実際には開講されず、東京裁判後に「国際関係における犯罪」と題を変更して講義を行なった。下のp66~68参照。

なおパルは、国際比較法学会が一九三七年にハーグで開催した「第二回国際比較法会議」に参加し、議長団の一人に選出された。前述のように、パルは三七年に「ユール事件」で渡英している。このときに会議に参加したものと思われる。それ以上のことは詳らかにしないが、パルのヒンドゥー法に関する業績が評価されたのであろう。(p60)

法学者としてパルがどのような仕事をしたか、著書を見るとよく分かる。著作を出版順に並べると次のようになる。 

①「ヒンドゥー法哲学」一九ニ六年頃刊

②「長子相続法史―特に古代と近代のインドとの関連において(一九ニ五年タゴール法学講義)」一九ニ九年刊

③「英領インド出訴期限法」一九三四年頃刊

④「英領インド所得税法」全二巻、一九四〇年刊

⑤「極東国際軍事裁判所―パル判事の反対意見書」一九五三年刊

⑥「ヒンドゥー法史―ヴェーダ時代とマヌ法典までのポスト・ヴェーダ時代とにおける(一九三〇年タゴール法学講義)」一九五八年刊(p60・61)


  パルが東京裁判の判事に選ばれたのは、「国際関係における犯罪」のような国際法に関する業績があったからだとする説がある。なかには、判事の中で国際法の素養があったのはパルだけだったと主張する研究者さえある(マイニア 一九八五、一○七-一○八)。「国際関係における犯罪」はタゴール法学講義を本にしたものである。このような説が正しいとすれば、この講義は東京裁判の前に行われていなければならない。しかしそうなのであろうか。
  「国際関係における犯罪」は、一九三八年のタゴール法学講義ということになっている。一部の説はこれをそのまま事実と受けとめたものであろう。しかし、箱根のパール・下中記念館に、カルカッタ大学がパルに宛てた書簡が保管されている。それによれば、大学は四二年九月三〇日付の書簡で、三八年度分のタゴール法学講義をするようパルに依頼した。依頼の内容は、「英領インドの憲政的発展」という題で植民地統治機構の歴史について講義を行うことであって、国際法とは何の関係もなかった。パルは一〇月一日に返書を送り講義を引き受けた。だがその後、副学長などを歴任したために約束を果たすことができず、五一年九月になってやっと講義を行うことができたのである。そしてその時には、講義題目が「英領インドの憲政的発展」から「国際関係における犯罪」に変更になっていた。この講義を本にするのはさらに遅れ、一九五五年になってようやく刊行することができた(パル・カルカッタ大学往復書簡、パール・下中記念館/Pal 1955:ⅲ)。   
  以上から、パルが東京裁判の後になって国際法に関する講義を行ったことは明らかであろう。実は、このことはパルの親族にはよく知られていることのようである。彼らから話を聞いた研究者は、彼らの間では、パルは東京裁判の判事に任命された後になって初めて、国際法を本格的に勉強したと、言い伝えられていると書いている(Nandy 1955:70-71)。 
  パルは国際法の業績があったから、東京裁判の判事に任命されたのではない。事実は正反対で、東京裁判の審理に加わってから国際法学者になったのである。(p66~68)




次に、間違って選任されたという点について
・・・戦争省は四月二七日にパルに電報を送り、代表判事に任命したことを通知した。ところが同じ日に、インド政府の別の部局のインド総督官房で、この人事を疑問とする声が上がった。理由は二つあった(インド政府文書11/4/46-GG(B),1946)。
 一つは、 人事を含め高等裁判所の行政に関わることは総督官房の管轄だから、戦争省は電報を四人の高裁長官に送る前に、総督官房の意見を聴くべきだったというものであった。
 もう一つは、パルの経歴に関わる疑問であった。インド代表判事選任の基準は、 高裁の現職判事あるいは少なくとも定年退職した元判事から選ぶとされているが、総督官房としては、パルはどちらにも該当しないと判断せざるを得ないというのである。この点に関する総督官房の追及はなかなか手厳しかった。彼等は次のような覚書をファイルに書き残している。

パル氏というのは多分ラダビノド・パル氏のことであろうが、彼は一時的な欠員がある間、高等裁判所の判事を代行するように任命されたにすぎない。パル氏は定年退職した高等裁判所判事と見なすことはできないものと思われる。彼は弁護士であり、一時的な欠員がある間カルカッタ高等裁判所の判事の職を代行するように任命された。彼は同高裁の判事として正式に認められたことは一度もなかった。したがって彼は(退任後)カルカッタで弁護士業に戻らねばならなかったし、彼とカルカッタ弁護士会の他の会員とを大きく区別するものはほとんど何もない。(Minute by Gulzar Singh 27/4/1946, File 11/4/46-GG(B),1946)


 以上の異議に対して戦争省は迅速に対応した。三日後、戦争省次官は誤りのあったことを認め、総督官房の次官に電話で遺憾の意を表明した。また、起こってしまった誤りを正すのは不可能だが、この種の誤りが再び起こることのないようにすると約束した。そうしてこの時点で既に、直接の担当官は戦争省から左遷されていたのである。
 要するに、 パルは適格者でないにもかかわらず、選任手続き上の誤りでインド代表判事に任命されてしまったわけである。本来ならば、ラーホール高裁から推薦のあったムニール判事に入れ替えるべきだっただろうが、既に任命の電報を打ってしまっており、後の祭りであった。(p98・99)

中里成章 
東京大学文学部東洋史学科卒、Ph.D(カルカッタ大学)、東京大学東洋文化研究所教授等を経て、2010年から東京大学名誉教授、南アジア近現代史専攻
主要著作
・Agrarian System in Eastern Bengal c.1870-1910(Calcutta,1994)
・「世界の歴史14 ムガル帝国から英領インドへ」(中央公論社,1998年/中公文庫,2009年.共著)
・The Unfinished Agenda: Nation-building in South Asia(New Delhi,2001.共編著)
・Purba Banglar Bhumibyabastha,1870-1910(Dhaka,2004 上記Agrarian Systemのベンガル語訳)
・‘Harish Chandra Mukherjee: Profile of a “Patriotic”Journalist in an Age of Social Transition’, South Asia,31,2(2008)
・「インドのヒンドゥーとムスリム」(山川出版社,2008年)