中華民国成立は1912年(明治45年)だが、それ以前に「中国」という呼び方が存在したと見られる例をあげる。以下引用・解釈に間違いがあるかもしれない。

○1876年(明治9年)の用例
事項ニ 朝鮮問題等に関し森公使清国政府と交渉一件

一月十三日 清国駐箚森公使より寺島外務卿等宛
明治九年一月十日午後二時森公使総理衙門に於て清国諸大臣と晤談大意左の如し

通訳 鄭書記官
筆記 頴川書記官 竹添進一
列の座 沈桂芬 毛昶凞 董恂 崇厚 郭嵩● 
陪席 周家楣

「十七」森大臣問
朝鮮を除くの外尚ほ何等の属国ありや
「十八」沈大臣答
アンナンリユキユ例朝鮮と同じ惟緬甸は冊封の例なし又一定の貢献なし
「十九」森大臣問
属国と外国と約を通ずる事ある如きも貴国に報ぜずして妨げなきか
「二十」沈大臣答
総て彼の自主に任せ管する所なし
「廿一」沈大臣問
朝鮮と貴国と通商する既に久しきか
「廿ニ」森大臣答
然り
「廿三」沈大臣曰
其事亦嘗て彼より我に報ずる所有るを聞かず
「廿四」森大臣問
貴諭の如くなれば所謂属国なるものは彼より中国を慕懐し来たるものにして或は又其疎濶過ぎ去る有れば属国と認め做すべき由なきものに似たり
「廿八」森大臣問
我朝鮮と交を通ずるに於ては其の中国の属国たるの名分を明晰領教し以て彼と相交るに妨礙なきに便せんと欲す因て再三問て之に及ぶ請ふ明確に之を示せ
「三十」森大臣問
借りに問ふ朝鮮若しくは中国に進貢の礼を闕く事あらば貴国に於て何等の処置を為すか我今朝鮮と議する事あるの際関係なきに非ず因て更に問て以て心照する所あらんとす

〔試訳〕
1月13日 駐清森有礼公使より寺島宗則外務卿などへ
明治9年1月10日午後2時森公使が総理衙門(清国の外交など司る役所)で清国の諸大臣と会談した概要は次の通り

森大臣が質問
朝鮮以外ではどういう属国があるか

沈大臣が返答
例えば安南琉球は朝鮮と同じである。ただミャンマーは冊封したことが無い。また貢ぎ物も無い。

森大臣が質問
属国と外国が条約を結ぶような場合も貴国に報告しなくても差し支えないのか

沈大臣が返答
総じて属国の自主性に任せ管理していない。

沈大臣が質問
朝鮮と貴国とは交易してもう長いのか

森大臣が返答
その通り

沈大臣が言うには
その事実もやはり朝鮮から我が国に報告があったとは聞いていない

森大臣が質問
あなたの説明のようであれば、いわゆる属国というものは、相手国から中国を慕ってくるものであって、疎遠になることや過去の話となることもあるだろうから、属国と認定するべき根拠が無いように思える。

森大臣が質問
我が国が朝鮮と国交を結ぶにおいて、朝鮮が中国の属国であるという根拠を明確に示してもらい、それによって朝鮮と国交をするのに支障が無いようにしたいと考える。だからこうして再三質問している。どうか明確に示して頂きたい

森大臣が質問
ちょっと質問だが、朝鮮がもし中国に朝貢の礼を欠いたとしたら、貴国としてどのような処置をするか。我が国がいま朝鮮と話し合う際に無関係のことではない。だから更に問いただして理解しておきたい。

日本外交文書デジタルアーカイブ第9巻(明治9年/1876年)
2 朝鮮問題等ニ関シ森公使清国政府ト交渉一件
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/9.html
森有礼_中国1森有礼_中国2森有礼3森有礼4
これは「大意」とあるので実際に正確にどういう単語を用いたかは断定できないかもしれないが、しかし大意だろうがまとめだろうが、日本側が会談記録で「中国」の呼称を用いていることは事実であるようだ。



○1906~1909年の用例
間島の版図に関し清韓両国紛議一件付属書内藤虎次郎調査報告(明治39年5月~明治42年7月)

内藤提出の分 
清国来文に関する鄙見

光緒三十四年六月初四日付間嶋問題に関する清国よりの来文を閲し其の不合理と思はるる論点を摘出すること左の如し
(一)白頭定界碑は清国従来の主張にては毎に分界の字面なきを以て証となすに足らずとし之を挙ぐることを避けたるに今回の来文に初めて康煕の上諭光緒八年朝鮮王の咨文、同十一年李重夏会勘図と並に符合するを以て該碑は現在中国政府が主張の確証とすべしと云ひ・・・朝鮮太祖より世宗に及ぶ間、豆満江岸の六鎮地方を経営し爾後二百年間は女真人皆内付の事実を見はしたるが其の中国と江を劃(かく)して界と為せし事実なし。・・・又清朝は当時今だ国家を成さざりしを以て豆満江が中韓境界たること五百年の久しきを歴たりといへる清国の主張は何の点より見るも不実なり。※劃=画

〔試訳〕
間島(豆満江以北の地域)の領土に関する清と韓の論争についての内藤虎次郎報告 (内藤虎次郎は内藤湖南。当時外務省嘱託)

内藤提出の分
清国が送付した文書についての私見
光緒34(1908)年6月4日付の間島問題(中韓の国境問題)に関する清国が送付した文書を読んで、そのおかしいと思われる点を以下の通り挙げる。
(一)白頭定界碑(国境を定めた碑)は清国の従来の主張ではつねに、分界という文言が無いので証拠にはならないとし、これを挙げることを避けていたが、今回の送付文書で初めて康熙帝の言葉(碑文?)が光緒8(1882)年の朝鮮王の文書、同11(1885)年の李重夏の会勘図と一様に符合するのでその碑はいま中国政府が主張の確証とすべきであると言い・・・朝鮮は太祖から世宗にいたり、豆満江岸の六鎮地方を統治し、その後二百年間は女真人もみな服属した事実があるが、中国と川で区切って国境とした事実は無い。・・・また清朝は当時まだ国家が成立していなかったので、豆満江が中韓国境として五百年の歴史があるという清国の主張はどの点からみても事実ではない。

アジア歴史資料センター 
http://www.jacar.go.jp
【 レファレンスコード 】B03041212000
中国_内藤_1
【 レファレンスコード 】B03041212700(1・2・9枚目)
中国_内藤_2中国_内藤_3中国_内藤_4 
これもやはり日本側が清朝を「中国」と呼んだ例。つまり「中国」とは「中華民国」の略称ではなく、清だろうが中国と呼べるということになる。日本側の呼び方としてはやはり「支那」が多いのだが、このように「中国」も無くはないようである。


地球説略訳解. 巻1 亜細亜大洲図説
著者リ チャード・クオーターマン・ウェー 著[他]
出版者 江藤喜兵衛
出版年月日 明8.10

中国は亜細亜の東に在り・・・

○1894年の用例
支那史綱. 上巻 明治27年、西村豊著、敬業社
仏教中国に入る 外蕃の叛服及び班超、班固の略伝
近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/775354
支那史綱1
支那史綱2