電信訳文 廿七年七月廿三日午前八時十分発午後三時七分着
東京 陸奥大臣 京城 大鳥公使

朝鮮政府は本使の電信に述べたる第二の要求に対し甚だ不満足なる回答を為せしを以て不得已(やむをえず)王宮を囲むの断然たる處置を執るに至り本使は七月廿三日早朝に此手段を施し朝鮮兵は日本兵に向て発砲し双方互に砲撃せり
アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
【 レファレンスコード 】C06060802800
王宮包囲

アジア歴史資料センターの解説
明治27年(1894年)7月23日の朝に、京城(漢城のことです)の大鳥圭介駐朝鮮公使が本国の陸奥宗光外務大臣に送った電文です。日本からの要求に対する朝鮮政府の回答が満足のいくものではなかったために兵をもって王宮を包囲し、朝鮮の兵との間で戦闘が起きていることを伝えています。
http://www.jacar.go.jp/jacarbl-fsjwar-j/smart/main/18940723/index.html

NHK高校講座日本史の解説
1894年春、朝鮮南部で大規模な農民の反乱が起こりました。「甲午農民戦争」です。役人による不当な課税などに対して民衆が怒り、そのころ朝鮮で広まっていた新興宗教「東学」の指導者を中心に武力蜂起したのです。
朝鮮政府はこの鎮圧のため、清国に出兵を要請。清国からは2000人余りの軍隊が派兵されました。これに対して日本は、朝鮮にいる日本人を保護するためとして、朝鮮への出兵を決定、およそ4000人を送りました。ところが、日清両国軍の介入に危機感をもった朝鮮政府と農民軍は和約を結び、反乱はいったん収まります。そこで、日本政府は清国に共同で朝鮮の内政改革を行なうことを提案しましたが、清国はこれを拒否しました。
日本政府は独力で朝鮮の内政改革にあたるとして、そのまま兵を置くことを決めました。そして、朝鮮王宮を占領。清国寄りの政権を倒し、国王の父で日本を支持していた大院君(テウォングン)を政権の座につけました。そして、清国軍を追放をしてほしいと、朝鮮王朝から日本に依頼させたのです。その2日後の1894年7月25日、プンド(豊島)沖で遂に日清両軍の艦隊が戦いに突入、日清戦争が始まったのです。
https://web.archive.org/web/20130727182759/http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume030.html

朝日新聞記事の抜粋
■朝鮮の王宮占領 清軍追い出す作戦
・・・1894年7月23日未明。闇のなかで、日本軍の一団が景福宮の門の一つを爆薬で壊そうとした。だがうまくいかない。よじのぼり、斧(おの)でたたき、四苦八苦の末に壊すと乱入する。ほかの門も開け放ち、王宮を守る朝鮮兵たちとの約3時間にわたる銃撃戦の末に王宮を制圧したのは、すっかり夜も明けたころだった。
 活劇映画さながらの戦闘は、日本軍の公式戦史にはない。偶発的な小競り合いとされてきたが、福島県立図書館で詳細な戦史草案を見いだし、百年の後に世に問うたのは奈良女子大の中塚明名誉教授だった。
 なぜ王宮占領か。ひとことで言えば、思い通りにならない為政者をとりかえ、清国の軍隊を朝鮮から追い出してくれと日本に依頼させるためだった。
・・・日本はとにかく開戦の口実がほしかったのだ。政府内には慎重論もあったなかで、主導したのは外相陸奥宗光である。

 つまり、どうも日清戦争のきっかけは日本の自作自演だったらしいということ。その中塚氏が発見したという戦史草案がこちらで紹介されている。
http://homepage2.nifty.com/kumando/mj/nsn25111.htm

「朝鮮王宮ニ対スル威嚇的運動ノ計画」の項目が見える。



2021年3月23日追加
以下の資料は検索したところネット上にはまだ出てないかな(書籍・論文は知らん)。王宮占領から9年後の1903年(明治36年)作成の文書
日本軍が王宮侵入する場面の描写がかなり詳しい。
日本側から先に「吶喊」「空砲を発して」など威嚇・徴発行為を行ったことが記されている。
韓国京城駐箚隊歴史
我が帝国軍隊の守備として韓国に駐箚せし以来の経歴並に韓国軍制沿革の大要を知らんとするは吾人の深く希望する処にして前任各駐箚隊に於ても早く已(?)に茲に見るやり(?)鋭意其の材料の蒐集に勉めたりと雖ども奈何せん国情の然らしむる所各種の障碍あり未だ充分其目的を達するに至らざりしを於是昨秋通訳小嶋今朝次郎に命じ先づ駐箚隊に関係ある事項を編録せしめ名けて駐箚隊歴史と云ふ忽卒の間章句の修正を加ふるに暇あらず読者夫れ之を諒せよ。希くは自今年々修正加除し以て稍々完備の冊子と為されんことを。軍政沿革の如きは別に一冊を編纂せらるあらば幸甚
明治三十六年五月
韓国京城駐箚
歩兵第三十二連隊第一大隊長太田廣三郎
(ここまでC14110931500)

我日本軍隊
二十二日夜帝国公使館にては人馬の往来織るが如く同時に龍山に於ける軍営の動静如何と看れば已に結束して起たんとするものゝ如し俄にして命令は軍隊に下りたり。
明二十三日午前四時より行軍すべし
と此の命令下りたるは実に夜半前なりき。
鶏鳴暁を報じ京城の四門纔かに開かれたるの頃吶喊の声は響けり。而して王城の四面は既に我軍隊を以て繞らされたり。恰も午前五時にて(?)ありしなり。

我兵朝鮮兵を走らす
我兵は王城内に入らんとす。分ちて二隊と為し橋本少佐一隊を率ひて正門なる光化門に当り森少佐は後門なる彰化門に向ひたり。而して正門の一隊は先づ門前に構へたる親軍壮衛営に駐屯せし韓兵を吶喊の声の下に逐ひ散らし勢に乗じて門壁を摩し銃床を乱敲しつゝ連りに吶喊すれば後門の一隊も之に応じて鯨波を作り或は空砲を発して犇き渡れり。先是我兵の王城に向ふや厳戒して曰く、王城は国王殿下居城なり妄りに暴発すること勿れ、我兵は城内の朝鮮兵を逐へば則ち足れり、故に濫に発銃すべからず、必ず恐嚇を以て守兵を走らしむべし、若し彼れより発銃せば則ち已むなく之れに応ずべし、と。因て前門後門暫は吶喊の声を以て城兵を逐はんとせしなり。然れども城に拠りたる朝鮮兵は容易に退くべくもあらず、剰へ後門の守兵は我●兵の敢て逼まらざるを見て二三発を鳴らして我兵を挑みたりければ「進め」の号令は此の刹那に男気を鼓舞したり。轟々の音は閃々の光と相応し叫喚の声山岳に振を(?)尋て我兵は悉く城内に入り守衛の韓兵を見当次第逐ひ捲くり宮殿指して進みたり。怯懦なる韓兵倉皇狼狽出づる処を知らず我兵に向って少しの抵抗をもなし得ず銃器を狼藉したるしたるまゝ西へ東へ遁走し適々我兵の捕ふる所となれば合掌地上に拝伏して命を請ふのみ。我兵は大抵之を麾て城外に去らしめ而して正門の二層楼上には早くも我大隊旗の翻へるを見るに至れり。

我兵王城付近を鎮定す
於是乎我兵は四門の守衛を厳にし其一隊を以て其付近を略定せんとし、遂に右営左営の朝鮮兵をも撃て之を走らし全く京城内を鎮定したるは其日の黄昏頃なりき

朝鮮兵苦戦の場所
此日の事変に朝鮮兵の苦戦したる状あるは三春門内を以て稍太甚しと為す。門内に入りて隆武堂左右の廊廓を見るに履は階上にあり冠は地に委して家具散乱せり。又同処には朝鮮兵二人の死骸横はり一は鼻を貫かれ他は胸部に出血して斃れ居たりと云ふ。

交戦地
真の交戦地と目すべきは神武門外七八町程の芝生に在り。同処は隆武隆文の両堂と観豊殿の間に囲まれたる所なり。同所に屯したる朝鮮兵恰も我兵の此に来るを待受けたるもの如し。我兵の広場に顕はるや一声に小銃を発射せり。右の発射は我兵の側面に当りければ彼等に取りての非常の利益を得たるなるべし。此交戦中に我兵に取りて最も危かりしは観稼門外に十余人の朝鮮兵ありて二門の大砲を動したるの事なり。我兵は疾く進みて其四人を斃し十数人を走らしたり。後直に其砲を検するに一門其(?)爆裂弾にして一門の大砲は已に装薬を畢りたるものゝ如し。若し我兵にして至ること五分間遅かりせば多少の死傷は必ず免れざりしならん。

朝鮮兵の実数
朝鮮兵の実数は未だ詳ならずと雖ども五六百以上の兵なるべし。而して其の半数は戦はずして砲声の起ると共に逸早く逃れたり。朝鮮兵の一半は後の山腹に拠りて支へたるも其敵すべからざるを知り銃を捨て塀を乗り越へて皆三角山に逃げ込みたり。
朝鮮兵の死せるもの十七名負傷者六十余名而して我騎兵即死一名負傷は歩兵二名のみ、又分捕の大砲十五門小銃千挺以上なり。

アジア歴史資料センター https://www.jacar.go.jp/
レファレンスコード C14110931800・C14110931900
韓国京城駐剳隊歴史 明治15.8.30~36.2.12
王宮占領新史料


「秘」印
昭和十三年十月
特輯第一号

中田敬義氏述 
日清戦争ノ前後
外務省調査部第一課

 自昭和十三年十月

序言
外交の史実を知るには外交文書に拠るに如くは無い。併し外交文書なるものは往々にして難解で且無味乾燥の嫌がある。然るに史談なるものは読んで分り易く且興味がある。史談は謂はば外交文書の註釈の様なものである。他方外交文書は必ずしも既往の外交事件を網羅して居らないから此の欠陥を補充する意味に於ても口述筆記に依る外交史の編纂は必要である。
依て重要なる外交事件に関係せられたる先輩の存生中に其の経験談を記録して置くならば年を経るに従ひ其の資料の価値も増加する事は疑ひが無い。之れ当部が今回本特輯編纂に着手せる所以である。
昭和十三年十月 調査部長 米澤菊二

略歴
中田敬義(Takanori Nakata)氏は安政五年六月二十二日石川県金沢市に生れ、在清国北京公使館付三等書記官見習(明治九年三月)を振出しに其の後本省勤務、在英大使館勤務を経て外務書記官(明治二十三年)、秘書官(陸奥外務大臣当時)、政務局長に任ぜられ明治三十一年十月退官せられたり。

日清戦争の発端
 日清戦争は朝鮮の東学党の乱を契機として遂に起ったのであるが然し、何とかして朝鮮の問題を片付けて支那との紛議を解決せねばならぬとは従来から考へられて居った所である、・・・これは何とかして朝鮮のことは何時か機会を見て支那と黒白を決してしまはねばならぬといふことを我政府に於ても考へて居ったのである。
 ところが東学党の事件が起り、朝鮮の方から援兵を乞はれたのであったから、支那は益々つけ上ったのである。そこで、こちらは最初から何か事を起さうといふ考があったのであるし、殊に川上参謀次長の如きは支那を回って来て、支那兵は問題になならぬ、乞食同然だ、唯兵らしいのは李鴻章の兵のみだと私共に語って居った位であって、今日私から言はすれば、此の際支那を片付けてしまはうではないかといふのである。是は川上と陸奥との仕事であった。
当時は伊藤公の内閣であったが、伊藤公は初めから戦争する迄の心はなかった。それで何処迄も親善的に、両国から共同委員を出して朝鮮の内政改革をやらうではないかといふことに閣議で決定した。
然し支那の方では、朝鮮は自分の所の属国であるからと言って共同委員の提議には相手にならない。さうして到頭談判は壊れてしまった。尤も是はわざわざさうなって来るように仕向けたのであった。又一面に於ては当時政府と議会との間は衝突し通しであったので、ナポレオン三世ではないが何か一つ国家に大事が起れば国内が総て一致するだらうといふ考もあったことヽ思はれる。それは果して其の通りになって、さうして到頭戦を始めたのである。其の時伊藤公から陸奥に送った私信があるが、其の一節に「知らず識らず大洋に乗出した」といふ文句がある。伊藤公の心境から言ふとそれに違ひないが、併し船頭達は益々船の舵を自分達の信じた方向へ向けて行き、さうして其の船頭は誰かといふと陸奥と川上参謀次長であったと私共は見て居る。(6画像目まで)

侵略か聖戦か
 今日の日支事変は断じて侵略に非ず、聖戦であると言はれて居るが、日清戦争等は、事実に於ては見方次第で侵略といへば侵略になって居るのだと思ふ。今度の日支事変に於ては、領土は絶対に取らぬと言って居るのであるし、是は当然聖戦と言って宜いと思ふが、日清戦争の時は朝鮮の独立を維持すると言ったが最後には保護国、合併するといふことになった。尤それは合意で出来た訳ではあるが、矢張り日本がさう仕向けてやったに相違ないと思って居るだらう。満州にしても亦然りである。帝王を立てゝ帝国にして居るのだから日本が取った訳ではないが、日本が自由に手腕を振ふことも出来ないでもないであって見れば是は見方によって侵略であると言はれても或は仕方があるまい。日本とは不可分の関係にあるといふだけで、立派な独立国であり、条約も結んで居るが、役人も多数行って居るし日本が自由に出来る状態に在る。だから土地を取るのも侵略であるし、又ファクトに於て自由に出来るのも亦所謂侵略なのであって、それ等の過去の事実を引用して来て・・・

アジア歴史資料センター https://www.jacar.go.jp/
レファレンスコード B12080958000(1~6画像目)
外務省外交史料館 諸修史関係雑件/外交資料蒐集関係 第三巻