復命書
嘱託 小暮泰用 
依命小職最近の朝鮮民情動向並邑面行政の状況調査の為朝鮮へ出張したる処調査状況別紙添付の通りに有之右及復命候也
昭和十九年七月三十一日
管理局長竹内德治殿

七、朝鮮内に於ける労務規制の状況並に学校報国隊の活動状況如何
  従来朝鮮内に於ては労務給源が比較的豊富であった為に支那事変勃発後も当初は何ら総合的計画なく労務動員は必要に応じて其の都度行はれた、所が其の後動員の度数と員数が各種階級を通じて激増されるに従って略大東亜戦争勃発頃より本格的労務規則が行はれる様になったのである。
  而して今日に於ては既に労務動員は最早略頭打の状態に近づき種々なる問題を露出しつつあり動員の成績は概して予期の成果を納め得ない状態にある、今其の重なる点を挙ぐれば次の様である。

(イ)、朝鮮に於ける労務動員の方式
凡そ徴用、官斡旋、勤労報国隊、出動隊の如き四つの方式がある
徴用は今日迄の所極めて特別なる場合は別問題として現員徴用(之も最近の事例に属す)以外は行はれなかった、然し乍ら今後は徴用の方法を大いに強化活用する必要に迫られ且つ其れが予期される事態に立到ったのである。
官斡旋は従来報国隊と共に最も多く採用された方式であって朝鮮内に於ける労務動員は大体此の方法に依って為されたのである。
又出動隊は多く地元に於ける土木工事例へば増米用の溜池工事等への参加の様な場合に採られつつある方式である、然し乍ら動員を受くる民衆にとっては徴用と官斡旋時には出動隊も報国隊も全く同様に解されて居る状態である
 アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/
【レファレンスコードB02031286700 

以下も当時の朝鮮で募集・動員が行われた例だが、これらが朝鮮人を対象としていたか、それとも朝鮮在住の日本人を対象としていたかが不明である。

白取道博 「満州建設勤労奉仕隊」に関する基礎的考察」北大教育学部紀要 2000年3月
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/29621/1/80_P277-295.pdf
p292「第1表 『満州建設勤労奉仕隊』編成形態の推移」で1939~41年度に「朝鮮隊、朝鮮班」


 川瀬俊治「『紀元二千六百年祝典』と在日朝鮮人」天理大学人権問題研究室紀要第9号、2006年 65ページ~
https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/2469/JNK000904.pdf
 1940年11月10日の「紀元二千六百年祝典」は、『古事記』「日本書紀』の伝承上の人物である神武天皇即位から数えて2600年にあたるとして行われた政府主催の奉祝行事であり空前の国家イベントであった。 
 神武天皇をまつる奈良県高市郡畝傍町(現橿原市)の橿原神宮ではその記念事業の一環として神宮境域と外苑の拡張整備事業が行われたが、日本各地のほか朝鮮、台湾、満州国、関東州などからも勤労動員して、1938年6月8日から1939年11月26日までの507日間作業を続け事業を進めた。建国奉仕隊と名づけられたこの勤労奉仕隊は507日間で約120万人が勤労奉仕した。・・・
 建国奉仕隊と朝鮮人の関わりでは、いくつか特徴をあげることができる。
(ⅲ)朝鮮からの動員では朝鮮人生徒・学生の勤労奉仕が顕著であった。・・・(p65)
 さて文頭で挙げた4項目のうち(ⅲ)の朝鮮人生徒・学生の動員についてである。朝鮮本土では「皇国臣民」化を促進する「改正朝鮮教育令」公布後の国家的事業であったことと関係が深い。
 朝鮮では朝鮮総督府は1939年6月、学校正科として中等学校の男女、専門大学校10万余名動員を打ち出す。 第一陣が同年7月1日から始まった朝鮮神宮奉賛殿広場の拡張工事であ った
 20人を代表団とした建国奉仕隊はその一年前から始まっており、先鞭役を担ったともいえる。また派遣の時期とほぼ同時期に京畿道中等学校が1万余名の生徒を動員して勤労報国隊を結成する方針が伝えられてもいた。(p71・72)

また同論文の注では、
 (49)判明している朝鮮からの建国奉仕隊は1938年6月8日の青年代表団のほか記すと 以下のとおり。但し、統計は民族別ではなく地域別のため以下の35団体に日本人が含まれている団体もある。今後、団体別に検証することが課題でもある。▼1938年=①7月 27日、28日=開城府青年団20人(27日)、26人(28日 )②8月5日=仁川神社参拝奉仕隊10人③12月1日=朝鮮「各府郡」の青年24人▼1939年=④2月9日、10日=国民精神総動員専売連盟各46人⑤2月10日=朝鮮総督府鉄道局22人⑥3月3日=朝鮮煙草小売組合67人⑦ 3月4回、5日=朝鮮煙草小売組合62人(4日 )、69人(5日)⑧3月18日=慶尚北道巡査教習中の青年32人⑨4月1日=鎮南浦公立高校生64人⑩4月18日=朝鮮釜山公立高女86人⑪4月21日、22日、23日=朝鮮清州1中各100人⑫4月29日=慶尚南道東莱公立中学85人⑬5月9日、10日=朝鮮清州商業各55人⑭5月10日=晋州農業学校 60人⑮5月13日木浦高等女学校104人⑯6月6日=木浦府公立商業学校5年生84人⑰6月8日=朝鮮師範 (人数不明 )⑱6月10日=晋州公立農業学校55人⑲6月10 日=平壌公立商業学校 46人⑳6月14 日=光州西中学生80人㉑6月18日=仁川自治会25人㉒6 月18日=仁川商店60人㉓6月22日=忠州煙草耕作組合27人㉔6月22日、23日=京畿公立中学各92人㉕7月25日=平安北道金融組合職員21人㉖9月9日=平壌公立第2中学142人㉗9月22日=馬公山商業学校57人㉘ 9月22日=忠清南道御景立商業学校40人㉙9月30日=礼山公立農業学校生徒36人㉚10月2日=全州公立高女110人㉛10月6日=清川公立農業学校四九人㉜10月10日=朝鮮裡里高女35人㉝10月12日=金海公立農業学校35人㉞10月19日=平安北道教員視察団㉟11月15日=全鮮恩報国聯盟聯合50人。この中で学生、教員など学校関係は、⑨、⑩、⑪、⑫、⑬、⑭、⑮、⑯、⑰、⑱、⑲、⑳、㉔、㉖、㉗、㉘、㉙、㉚、㉛、㉜、㉝、㉞の22 団体になる。詳 しくは前掲拙稿「『紀元二千六百年祝典』と朝鮮人建国奉仕 隊 」。(p75)
 
【研究資料】植民地朝鮮の女学校・高等女学校といけ花・茶の湯・礼儀作法
―植民地台湾との相互参照を加えて―小林善帆
http://202.231.40.34/jpub/pdf/js/IN4707.pdf
二 朝鮮人を対象とした公立の女学校・高等女学校 
1京畿公立高等女学校(現京畿女子高等学校、ソウル)
⑴沿革
一九〇八(明治三二)年四月純宗勅命により官立漢城高等女学校設置、初代校長魚允迪。一九一一(明治四四)年八月、朝鮮教育令公布により官立京城女子高等普通学校に改称、三年制。一九一三(大正二)年四月、第二代校長太田秀雄就任、一九一九 (大正八)年第三代校長長田富作就任。一九二二(大正一一)年第二次朝鮮教育令公布により「国語を常用セサル者ニ普通教育ヲ為ス学校」として京城公立女子高等普通学校と改称、四年制となる。一九二五(大正一四)年、第四代校長高本千鷹就任。一九三八(昭和一三)年四月、第三次朝鮮教育令による高等女学校の一本化として京畿公立高等女学校と改称。一九四一(昭和一六)年四月、第五代校長に朝鮮人朴寛洙・日本名琴川寛が就任。生徒はすべて朝鮮人であり、朝鮮人女子が通う伝統校として知られた。
 
表 1 京畿公立高等女学校(京城公立女子高等普通学校)写真帖一覧
1938年(昭13) 
「皇国臣民ノ誓詞」(昭和12年10月6日愛国日初斉唱)、校舎と白松寮、割烹・理科室、編み物、裁縫、観能会(創立記念日)、雛祭り会(講堂・生徒琴演奏三面)、田植え・稲刈り(勤労体験)、スポーツ、昌慶苑スケート、皇軍献納の尽忠憤努志製作ほか、愛国子女団発団式(昭和12年12月18日)、南京陥落の快報、「内地」修学旅行(宮島・伊勢 神宮・李王家)、昌慶苑の一日と朝鮮神宮参拝、謝恩会洋服
1940年(昭15)
皇国臣民ノ誓詞、校舎と白松寮、奉安殿落成式、南京陥落の快報、愛国子女団発団式、出征勇士を送る、勤労報国作業、田植え・稲刈り、割烹会、校友会(技能部・茶の湯)、皇国臣民誓詞之柱、昌慶苑、「内地」修学旅行(橿原神宮建国奉仕隊作業・伊勢神宮・李王家)
1941年(昭16)
皇国臣民ノ誓詞、校舎と白松寮、奉安殿落成式、特設防護団、体育大会、勤労作業、割烹会、校友会、茶の湯・生花(盛花)、昌慶苑・秘苑、 「内地」修学旅行(橿原神宮・伊勢神宮)、韓国人・日本人名


2釜山港公立高等女学校(現、慶南女子高等学校、釜山)
⑴沿革
一九二七(昭和二)年四月、釜山公立女子高等普通学校開校、四年制。一九二九(昭和四)年、釜山府水晶町五五八番地に新校 舎落成につき移転。一九三一(昭和六)年三月第一回卒業式、卒業生四二名であった。一九三八(昭和一三)年四月、第三次朝鮮教育令公布に伴い釜山港高等女学校と改称、生徒はすべて朝鮮人であった。朝鮮人を対象とした公立の高等女学校としては、京畿公立高等女学校、平壌公立西門高等女学校に次ぐ設置であった。
 
表 2 釜山港公立高等女学校(釜山公立女子高等普通学校)写真帖一覧
1939年(昭14)
奉安殿・大麻殿の写真が巻頭、以後同様、教師軍服、寄宿舎、作法 教室初出(「その一」洋室で紅茶・「その二」和室で煎茶)、菊花栽培、部活動(テニス・卓球・競技・バスケットほか)、「内地」修学旅行 (李王家)、慰問袋、勤労報国隊
1940年(昭和15)
名簿・ほとんどが韓国名、紀元 2600 年記念碑「八紘一宇」が以後巻頭写真に加わる、寄宿舎漬物など、作法教室・和・洋、「内地」修学 旅行(橿原神宮建国奉仕隊作業・明治神宮)
1941年(昭和16)
日本名が多くなる、勤労奉仕作業、珠算、女子青年団結成式、部活 (テニス・卓球・水泳・バスケ・バレー・陸上競技)、「内地」旅行、遠 足
1942年(昭17)
ほぼ日本名、紀元2602年明記される、薙刀、「勤労報国隊」(稲刈り・ 土運びなど)、菊花栽培、「内地」修学旅行、和室作法室

京城日報 1941.9.23(昭和16)
国民皆労座談会 (一~六)

出席者
朝鮮連盟総長 川岸文三郎氏 
同 総務部長 烏川 喬源氏 
同 宣伝部長 御手洗辰雄氏 
朝鮮軍参謀大佐 山之内二郎氏 
総督府労務課長 林 勝寿氏 
城大教授 森谷 克己氏 
鐘紡京城工場長 片岡 勉氏 
社会思想家 青山覚鐘氏 
(旧名李覚●) 
三千里社長 白山 青樹氏 
(旧名金東●) 
淑明女専教授 豊川淑宰女史 
京城友の会 花山芳子女史 


林労務課長 
御指名によりまして朝鮮における国民皆労運動の趣旨および勤労報国隊の要旨について申上げてみたい、・・・
従って半島二千四百万民衆が真に国運を隆昌に導く原動力、推進力として一斉に起上る、ということが朝鮮に於る国民皆労運動の趣旨であります・・・

この運動を起す場合においていろいろな実践の方法が考えられるのではありますが、その一つとして、国民勤労報国隊の結成について簡単に申上げますと以上申上げました趣旨から老幼不具廃疾者その他特殊な者を除きまして一人もブラブラ遊んでいる者のないように、不労者、有閑者または無職者を朝鮮から一掃するという目的のために勤労報国隊の結成をお願い致したいと思うのであります 
この勤労報国隊はドイツでやっておりますような労働奉仕というような考え方も多分にはいっておりますが、その狙い所は一定年齢層、すなわち大体十四歳以上四十歳までの男子、十四歳から二十五歳までの未婚の女子につきまして一年間を通じ約三十日未満の間は本業のほかに国家、公共団体、その他政府の指定する重要事業に働いて頂く、そうして自分の仕事のほかに余分に国家奉仕をして頂くという趣旨であります、そうしてこれが結成については府邑面連盟、学校連盟、その他特殊連盟というような総力連盟の単位を通じて結成して頂きたいと思います

林労務課長
従来朝鮮で道路の修理そのほかに賦役という制度があったことは御承知の通りでありますがこの賦役と勤労報国隊との根本的な相違は前者は労働の強制でありかつまた賦役に出る人が極めて特定な限られた人、すなわち一部の下層階級の人であったのであります。しかし勤労報国隊の狙いどころはあくまでも自発的、積極的な愛国運動であって民衆から真に盛り上がった愛国精神に基づいて国家的、公共的方面の仕事に労力を提供して戴くのであります。従って勤労運動は単に賦役で狙っておるような単純な肉体的な労働ばかりでなく精神的な労務をも意味するのであって、肉体的精神的なあらゆる自己の技能を通じて国家に奉仕して貰うのであります