第六章 齟齬過失其の他将来の参考となるべき事項
第一節 霊陵全県に向ふ追撃戦闘

一、機動に関する事項
(一)優勢なる敵の空中勢力下に於て極めて不良なる道路を錯綜する友軍の人馬車輌を排除して行軍を実施するに方り敵機の損害防止には最も苦心せる所にして概ね左記要領に依りたり
1、夜行軍を厳守す
出発時刻は当日の天候、日没時刻に依り遅速あるも勉めて薄暮末期に於ける薄明を利用し行軍行程の増大を計る
到着時刻は遅くも日出一時間前通常は約三時間の余裕を見て退避す
一夜の行軍行程は道路と待避所の状況とを顧慮し右の時刻を基準として定め通常二〇~三〇粁に止む

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独立野戦重砲兵第15連隊第2大隊 桂林攻略戦戦闘詳報 昭和19年8月9日~19年11月20日

支那方面作戦記録
第六方面軍の作戦
昭和二十四年八月調製 
復員局

第八章 昭和二十年三月に於ける状況
第一節 全般状況及敵情
其の一 全般状況
其の二 第五航空軍の武漢撤去
我が在支航空兵力は湘桂作戦以来漸次増大し之が補充なく逐次戦力減少の観ありしが対米戦備の強化に伴ひ第五航空軍主力は東西の配置に移動し武漢地区には第十三飛行師団を残置せらるゝに過ぎずして武漢の制空権は甚しく弱化せり

其の三 敵情
敵地上軍は其の後も大なる変化なし。之に反し航空に於ては第五航空軍主力の撤去に伴ひ完全に米空軍の独り舞台となり連日的小型機の跳梁を見るに至れり
敵機の活動は逐次我後方地区に延び津浦線南京地区に及び交通幹線の各種損害は日を追うて増加せり。当時在支米航空兵力は既に一、五〇〇機以上に達しありしものゝ如し。


第九章 昭和二十年四月に於ける状況
第一節 全般状況及敵情
其の一 全般状況
沖縄に於ける戦局の推移は大陸に於ける我軍の士気に重大なる感作を与へたるも既に派遣軍の大陸に於ける作戦方針確定し方面軍内より今後更に一軍司令部、四箇師団を他方面に転用し之に伴ひ広西、湖南両省を撤去することゝなり之に関する方面軍の方策を決定せり。
右は方面軍の豫て豫想せし所なりしが茲に不利なる情勢下に戦略上の大転換に着手する段階に入り大陸決戦時期の緊迫感を益々深うせり。又此月中旬芷江作戦開始せられ当初戦況順調に進展せしが月末頃俄然有力なる敵の反撃に会し戦況逐次停頓の兆あり

其の二 敵情
第三十四軍の襄樊作戦に伴ふ敵第五、第六戦区軍の動向は特別の変化を認めず襄東地区の敵軍も旧態依然として平静なり、然れども芷江方面に於ては敵は極めて活発なる活動を開始し第六戦区方面より第十八軍の転用を見為に我が作戦の逐次困難となる。即ち四月十五日芷江作戦開始せらるゝや当面の敵第一線陣地は軽易なる抵抗の後之を撤退せしが敵は洞口南北の既設陣地に拠り之を拠点として後方兵団を増援し一斉に反撃に転じ我が北翼第四十七師団の一部は其の正面に敵第十八軍及第百軍の約五箇師、又我が中央第百十六師団に対して敵第七十三軍其他四―五箇軍約十箇師南翼関根支隊正面亦敵の七ー八箇師合計二十七―二十八箇師の敵は米空軍の強烈なる支援を受けつゝ攻勢に転じ来れり。
当時絶対制空権を敵手に掌握せられある我が軍は昼間行動全く不可能にして行動不便なる山地内に夜間行動を強制せられて機動の自由を失ひ敵情不明のまゝ優勢なる敵の為逐次包囲、圧迫を受くるに至れり。本作戦に於て敵の最も特異とせし所は強大なる米空軍の輸送部隊を以て実施せる兵力輸送にして敵は我が攻勢開始と共に直に芷江飛行場に対し●昆明より空中輸送を開始し四日間に約一箇師団の割合を以て月末頃連続十数日に亘り新編第六軍を空輸せり
従来敵の宣伝せる米式化に関しては装備に於ては自動小銃相当増加せる外大なる変化を認め得ざりしが其の戦斗法に於ては歩砲飛の巧妙なる協同、要点に対する弾薬の集中的使用、正確なる砲兵射撃等に於て従来の支那軍に比し進歩の跡顕著なるものあり
又全般の情勢をも反映せる為か士気亦旺盛にして敵軍の動向軽視を許さざるものあり。

第三節 四月に於ける後方状況
其の一 交通の状況
三月末●江の橋梁完成し又四月上旬衡陽、興安間の湘桂鉄道の修理亦完成し四月上旬以来衡陽北側の鉄道橋を除き武漢より全県に至る粤漢及湘桂鉄道上に重列車の運転を開始せり。
然れども輪転材料著しく少く粤漢線に在りては武漢地区の僅少なる列車を割きて岳州以南に漸く一列車(約六〇〇屯)を亦湘桂線上には隔(?)日に一列車(約二百屯)を運行し得るに過ぎざる状況に在りたり。
石炭の不足甚しく追送石炭は武漢地区の所要に充たず辛うじて湖南地区の若干の押収石炭及新に開発せる若干の石炭と薪を以て漸く其日其日を糊塗しある状況にして米空軍の全線に対する攻撃は連日続行せられ夜間運航のみに依り困難なる運転を継続せり


第十章 昭和二十年五月に於ける状況
第一節 全般状況及敵情
其の一 全般状況
五月八日独逸降服の情報あり。
芷江作戦は五月に入り第四十七師団主力の投入及第二十軍予備兵力の推進に依る第二十軍の努力に拘らず戦況希望の如く好転せず支那派遣軍は全般の情勢上方面軍に対し作戦中止を命令する所あり方面軍は茲に於て遂に作戦を断念し原態勢復帰を命令し第二十軍部隊は五月下旬敵の大なる妨碍を受くることなく原態勢に復帰せり。
第十一軍は芷江作戦参加を予期し兵力の集結を準備中適々広西撤去本格化するに及び五月中旬南寧を撤し引続き第三師団主力の賓陽地区撤去を開始せり。


第十二章 昭和二十年七月に於ける状況
第二節 第六方面軍の作戦指導及方面軍内の状況
其の四、 七月に於ける後方状況
二、弾薬の転用及び保有弾薬の状況
兵力の転用に伴ひ弾薬五個師団分並重砲及山砲弾薬の転用を命ぜられ七月之が後送を終了す。
湘桂作戦開始頃に於ては方面軍の保有弾薬は方面軍の兵力に応ずる約一会戦分を保有しありしが其の後の損耗と五箇師団分の転用とに依り将来方面軍の使用し得る弾薬の総量は各兵団の携行せる分を合するも当時現存せる兵力に応ずる約〇、六会戦分に過ぎず特に対空火器の弾薬は約〇、二―〇、三会戦分程度に過ぎざる状況に在り。

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支那方面作戦記録 第6方面軍の作戦 昭和19年9月~終戦まで

砲兵隊長指示

一.敵機に対する処置
二.体力の増強に勉むべし
将兵の体力増強に関しては各隊長以下各級幹部は万策を講じ之が保持増強に努力せられあるも将兵の数ヶ月に亘る作戦参加による疲労の蓄積せるに加へて追送補給の困難と体力劣弱なる補充兵の近く参加する等ありて其の体力増強に関し関心を大ならしむる要更に切なるものあり。殊に最近酷暑による体力低下水の過飲と寝冷えに因る下痢、補給量の減少睡眠不足等により栄養失調症様患者発生の傾向あるは洵に憂慮すべき事象にして今にして体力増強の方途を講ぜざれば将来軍の戦力頓に低下する事なきを保し難し。軍の作戦目標は前途長遠にして一将兵の体力の貴重なる今日特に関係幹部を指導し左の諸点に注意し軍の戦力増強に関し万遺憾なきを期せられ度

1.体力保持増強の最大要件は十分なる給養と適正なる休養に存す。此の両者は作戦行動と相背馳するものありと雖も各級幹部にして此等に対する関心及部下の戦力保持増強に関する熱意あらば此の困難を打開する途無きにしもあらず。直接戦闘行動に支障無き限り休養の方法を講じ徒らなる疲労の防止に努むること特に必要なり。殊に体力劣れる兵に於て然りとす。
給養に方りては現地物資の利用を最大限に行ふことは極めて必要なるも往々にして所在物資全部を取得し之を消尽することを最大限の利用と解するものあり。物資取得に方りては常に爾後に於ける其の部隊或は後続部隊の行動を顧慮し必要量以上の浪費を戒むるを要す。
獣鳥等の利用に際しても亦其の肉の一部のみを利用し他は之を放棄して顧みざるものあり。獣鳥は其の内臓迄余す所無く利用すること緊要なり
野菜類の取得困難なる場合は救荒植物(野草)の利用に関し著意せられ度。又副食物の取得全く不能の場合と雖も食塩(味噌、醤油を含む)のみは万策を講じ摂取せしめられ度。夏季行動に於て食塩の補給を欠くことあらば急激に体力を低下するものにして其の戦例今次南方作戦に於て乏しからず。
2、部隊の戦力低下を来す重大要因に「マラリア」あり
(略)

昭和十九年八月二十日
砲兵隊長 佐々木大佐

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独立野戦重砲兵第15連隊第2大隊 桂林攻略戦戦闘詳報 昭和19年8月9日~19年11月20日

支那派遣軍兵站資料(覚)
中国戦区日本官兵前〔ママ〕後総連絡部
一九四六年一月十五日

其の一、京漢打通作戦
其の二、大陸戦略空軍基地の覆滅及粤漢打通作戦
実施上の難点

一、作戦当初より空襲活発にして船舶被害大(50%)にして到底昼間輸送し得ず。
夜間小型船の〔ママ〕よるの止むなきに到る
又時恰も雨期に際し道路泥濘なりしと晴天時は空襲の為、被害多く自動車の日中行動を許さず、鉄道の延伸又水路による資材輸送至難の為進捗せず
為に長沙攻略頃迄は現地自活と相俟ち携行軍需品により辛して支障なかりしも爾後は漸次補給杜絶

二、長沙攻略後第一線は迅速に衡陽に迫りしも携行品特に大砲、弾薬追随せず、中国軍の頑強なる抵抗と相俟ち衡陽の攻略は予定よりも約一ケ月を遅延す
従って第二期作戦当時戦場に追及し得たるは十五榴、山砲数門にして其の弾薬山砲に於て約一〇〇発程度のみ

三、補給円滑は漸次衣糧を圧迫するに至り、夏季炎熱と相俟ち栄養失調患者を生ず
常時銃爆撃、機雷投下等は武漢以南の戦場地帯はもとより、揚子江、京漢戦等全面に亘り行はれ為に
1、人馬、車輌、船舶、列車何れも昼間大規模の行動は停止の止むなきに至り、又之等の退避行動により著しく能率低下(2分の1)す
2、固定施設たる橋梁の如きは架設と共に破壊せらるゝこと多く、渡河は夜間中継輸送を採用す

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支那派遣軍兵站資料(覚) 昭和21年1月

第二 部隊行動の概要
昭和十八年以降兵団行動の主要なるものを略述す

昭和十八年度
十月 補充兵(国民兵の再徴集者)約二千名到着其の過半数が結核性疾患の既往あり其の年齢と共に体力の劣弱に吃驚す

昭和十九年度
四月 十四日迄に清化鎮に於てなし得たる衛生業務の大部は過剰に携行しありたる医務室用材料其の他を各隊より返納或は集積せしめ新郷に於て処理せしめ得たるのみ、然れども尚各隊は約三箇月分の衛生材料及弾薬類を携行しありたり。
以て兵員の著しき過重装備の状況にありて兵個人の負担量総計約四十五瓩に及びあり。小官の記憶にして誤りなければ当時の兵員平均体重は五二瓩余なりしなり。而して兵員の大部は入営後二箇月余なる初年兵及補充兵員にして真に既教育たる現役兵員は半数に満たず。洵に片足軍靴、片足高下駄の如き跛行的組成にて行動を発起するの状にあり各級幹部の苦心全て此処にありたり、

五月十六日 信陽より漢口への列車輸送開始せらる。最終部隊二十五日漢口著〔ママ〕直ちに駄馬部隊に改編す。
漢口に於ける駄馬部隊への改編は兵団の行動上先発者を差出し得ざりしと既往の輓馬を駄馬とせる外殆ど馬匹の増加なかりし為兵団の諸資材携行能力は輓馬編成時の三分の一に激減するの止むなき実情を呈し為に兵器を約三分の二衛生材料を編成定数の半数に減ぜしむるの結果となれり。而して其の改編に使用せる日数は最大六日最少一日にして兵の休養、患者の整理も行ひ得ず為に約千五百の入院患者を信陽漢口武昌に残すに至れり。

五月二十六日 兵団長竹下中将パラチフス疑にて武昌陸軍病院に入院せらる。・・・
駄馬部隊及残余は徒歩にして武昌出発崇陽に追及を発起す。
平江付近に於て駄馬部隊の兵団主力に追及せるは約一箇月の後にして其の間駄載に未熟なる輓馬は其の取扱の未熟と併行して終に其の三分の一を損傷するに至り為に又兵団の資材携行は更に半減するに至れり。

六月八日 通城より前進道路工事続行、雨と敵機とに支障せられ前進し得ざる自動貨車を残して兵団主力は田中及断崕に自動車道を開く。而して尚駄馬追及せざる為糧秣器材は全て臂力搬送なり。数日にして主食調味品共に減じ又薬物に不足を来たす
患者は野戦病院自隊に於て搬送前進す。

六月二十日 駄馬部隊追及し衛生隊又患者前送に協力し得るに至る。

六月二十八日 瀏陽著〔ママ〕
瀏陽に於ては主食を補給し得たるのみにして次第に不足す。又同地患者輸送隊に患者を托す。
尚兵団は軍靴、衛生材料、調味品に不足を来たし最後の手段として駄馬輜重を長沙に迂回せしむることに決意し瀏陽より西下せしめ長沙より醴陵に前進同地に於て合せしむる如く処置す。

七月七日 醴陵付近に到着
瀏陽出発以来連日交戦しありて患者の前送困難を呈す。
醴陵に第四野戦病院を衛生隊と共に前進せしめ同地「山」兵団野戦病院を引継ぎ開設す。患者約三〇〇名薬物は緊急手術に堪ふるのみ。兵団は東方萍郷との中間地区に於て敵と交戦之を萍郷方向に圧迫を続く

八月上旬 湖南江西省境萬洋山系中に在りて敵と連日交戦しつつ険難を突破して南下を続く。当時地図は全く其の用をなさず。加ふるに調味料欠乏し塩なき数日を過すの苦心をなしつつあれば衡陽の攻略既になり爾後の進展を思ひて心せかるれども意の如く進まず。・・・

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レファレンスコードC13120588300(1枚目~)
大東亜戦争陸軍衛生史編纂資料 昭和19.4~20.8

一、作戦前に於ける彼我形勢の概要
(一)敵
1.要旨
中共は依然党軍政民四位一体となり抗日民族統一戦線の目標の下各種戦力を結集総動員体制を強化すべく当面党勢の拡大推進 政治攻勢及遊撃戦等の執拗活発なる諸施策を展開し極力抗戦力量の培養強化に努め以て抗戦態勢の確立に全力を傾注しあり。特に対新政権側施策就中反正工作、襲撃拉致並に対民衆諸工作を活発に続行すると共に我が方重要戦争資源施設地区及交通、通信線に対する襲撃破壊等の各種謀略的蠢動を激化し其の動向偸安を許さゞる状況にあり
蒋系側は我方の屡次に亘る作戦と中共の飛躍的発展とに依り其の勢力最近に於ては逐次駆逐せられありと雖も国際戦局に便乗し一挙に勢力を挽回せんとしあるものゝ如く之に伴ふ蒋系特務工作は特に主要都市に活況を呈し来りて中共側の動向と共に将来厳に警戒を要する状況にあり。

二、作戦に影響を及ぼしたる自然人文現象
(二)作戦に影響を及ぼしたる人文現象
昭和十八年一月九日中国参戦以来我方の対華処理新方針に基き中国側の自主的創意を尊重し内政不干渉の方針を以て従来各県に配属せる●
(原文「日」+「毛」?)県顧問を引揚げたるが華側の職員(?)の服務態度は益々消極退嬰に陥り政治力は我が方の実施せる作戦に●●せず敵側に対し工作の余地を与へ加之接敵地区民衆は経済逆封鎖を受け生活の困難に伴ひ両面性激(?)化し我方治安圏は漸次縮小するに至れり
又同年七月以降華北政務委員会は食糧収買工作並に物価抑制
対策等統制経済を強化せるが敵側の執拗なる逆宣伝と民衆の両面性とに因り物価高騰経済的諸施策の渋滞等を招来し民心の不安定一般民衆の新政権離反傾向を濃化し之に乗ずる敵側秘密組織活動、漸次活発深攻化せり。

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北支那特別警備隊第1期作戦 戦闘詳報 昭和18年9月20日~19年6月9日

「極秘」印
昭和十八年一月十五日 第五部隊本部
昭和十八年一月参謀長並軍直轄部隊長会同席上 
第五部隊参謀長口演要旨

第八 現地自活の徹底に就て
現地自活の徹底は一般に刻下の急務にして本年度に於ては各部隊の努力に依り夏季用野菜、干草類の全量、冬季用野菜、粟稈類の大部、肉類、味噌醤油、漬物類の若干を自活し得たるも来年度は更に一層周密なる計画の下に糧食品は固より軍需の全般特に兵器部品の修理材料、応用作戦資材等に就き自給自足の画期的実績を挙げられんことを望む。之が為関係官民或は開拓団等を指導して資源の培養、開発を策すると共に自●に於ける兵営付近空閑地の利用生獣の飼育現地代用資源の活用に関する創意工夫等に関し特に配慮あり度。而して特に食糧資源に就ては所要量の厖大に反し輸送力、労力の不足に基く補給の不円滑愈々大ならんとし軍隊も亦国民と同様節食の止むなきに至る場合を顧慮するの要あるに至れり。此の際各部隊は満州産雑穀の混用より更に進んで馬鈴薯等の主食代用等に付調査研究を実施すると共に予め之が対処の準備あらんことを望む。亦東満地方に於ける生獣資源は極めて貧弱にして頗る憂慮に堪えざるもおあり。上司に於て之が根本対策を攻究中なるも各部隊に於ても亦関係機関を督励し之が培養助長に努むること肝要なり。右と関連して湖沼河川に於ける魚資源の開発取得に努め肉資源の不足を緩和する如く着意あり度。尚現下の逼迫せる後方輸送緩和の為現地統制物資は努めて現地に於て之を取得し得る如く研究中なるに付各部隊に於ても亦関係機関と密に連繋し之が円滑なる実施に関し研究準備を進められ度。

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満洲>全般>口演要旨綴 昭和18年

北支那方面軍管下の鉄道守備に就て
(主として鉄道部及鉄道隊並鉄道管理機関の為に)

過般停車場司令官会同に際し司令官(鉄道監)より方面軍の企図に基く治安第一の方針に順応し鉄道の匪害防止に関し一段の努力を要求せられたり。
然るに鉄道の守備は勿論鉄道守備隊の専任する処にして軍事鉄道機関としては従来其の任に応じ守備隊に協力し其活動を容易ならしむることに努めありたるも守備の現状は遺憾乍ら今や鉄道交通死活の岐路に立つに到れるを以て各軍事鉄道機関は更に積極的守備隊援助及鉄道自体の防衛力強化を策し北支交通確保の明朗を計らむとす。
以下右に関する当部の方針を述べ関係各機関の善所〔ママ〕及実行に資せむとす。

第一 要旨
北支鉄道の守備要領は満州と大差なく概して其守備要領を準用せば可なるべきも左の点は満洲の事情と異るを以て此の特性を知り長短相補ひ以て守備及運営の確立を期するを要す、即ち北支の特色左の如し

一、北支民衆は排日思想徹底し対日民族争斗を自覚し且真剣にして非文化なる満洲人の如からず面従心反、一寸の油断を許さず、時に応じ兵匪と土民は一体なるを以て我戦斗に諜報に之を忘るべからず。

二、我守備隊は満洲の如く固定化せず匪情民情地形に通ぜず加之大作戦本位にして鉄道守備は「腰掛けなり」甚しきは「休憩なり」との考を有する兵を含●部隊もあり、鉄道守備に真剣を欠き随而要領を解●●●守備効果少なきのみならず、敵に見縊られありて敵の行動は活気あり。

三、地形交通自由、食糧資材豊富、人家稠密、気候温暖、民心は日軍に背反し、日軍の愛護村は発達せず且外国人の援助を受け得べきを以て行動自由、隠顕出没、日軍に捕捉せらるることなし。

四、兵匪の知識高級且装備優良、行動指揮共に適切にして技術に於て優秀なり、満洲人の無智低級の者と比すべからずして彼は日進月歩策を換へ法を廻らすを以て我又対策際応即行せざるべからず。
(以下略)

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将校研修資料 昭和13年4月~11月

戦詳第十六号
自昭和十四年三月二十七日 至昭和十余年四月十九日
津浦線東側地区 于学忠軍掃蕩戦戦闘詳報
第百十四師団歩兵第百五十連隊
(山本討伐隊)

第四編 将来の参考となるべき事項

一、夜間のみ行動し之が偵察困難なる敵に対し我は寡小の兵力を以て過度に広地域を担任警戒網を構成するの止むなきに至り極力之が捕捉につとめたるも兵力上捜索及機動の余力を欠き又部隊相互の連絡機関に乏しく諸報告通報は概して其の時機を失し協同動作に支障を来たしたること少なからず。依て分散配置せられたる各部隊は更に連絡を密にすると共に状況判断を適確に行ひ積極的独断を以て敵に追尾し或は攻撃を敢行し或は進路を変更する等の独断行為を必要とす。
二、戦意を失し不戦遁避を本とする敵とは云へ長時日寡小兵力を以て過度の広正面に之を捕捉せんとして停止あることは好んで採るべき手段にあらず。・・・

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戦詳第16号 津浦線 東側地区 于学忠軍掃蕩戦戦闘詳報 自昭和14年3月27日至昭和14年4月19日

「秘」印
昭和十三年十月
状況報告
臨汾憲兵隊

第二 管内状況
一、保安の状況
(一)一般概況
管内には約十万の敵匪蟠踞し近時後方攪乱を企図して其の活動極めて活発なり 故に稍治安の保持せられあるは僅かに我軍の駐屯せる主要県城内及鉄道沿線一粁乃至二粁の範囲に過ぎず而も我警備圏内に於て鉄道及電線の破壊、列車並停車場、下士哨等の襲撃、県城砲撃等頻発し治安の状態最も険悪にして寸毫も愉安を許さず。

(二)事項別状況
(ハ)匪団並各種思想団体の策動状況
管内は東に大行山脈、西に連枝山脈を控へ其支脈は全面に錯綜して汾河に迫り之の天険に蟠踞する匪団は現在中央軍を主とし共産八路軍山西軍等約十万の多きに達し我軍の間断なき剿討にも屈せず本秋来皇軍の漢口攻略に際し後方攪乱を企図して執拗なる蠢動を続け本年九月中旬以降十月二十日迄の間憲兵の知得せるもののみにても
 鉄道破壊電線切断 四五件
 下士哨、停車場、列車襲撃及県城砲撃(主なるもの) 一〇件
 抗日反戦逆宣伝文配布 一五件
に及び又常に我駐屯地に間諜を密派し兵力装備等を偵知し襲撃奪還を企図しあり。之等間諜にして憲兵に於て検挙せるもの九月中旬以降四件八名あり、
而して敵匪団中其の行動活発なるは中央軍及共産軍にして閻錫山麾下の山西軍は依然国共合作に反対的態度を示し抗日気勢振はず。尚毛沢東麾下の共産軍は各地遊撃隊を指導し郷村民衆を動員し抗日に名を藉り遊撃戦に参加せしめ之等の地を根拠とし各地に偽称県政府を樹立し勢力の拡大遊撃隊の増設を図り長期抗戦に依り最後の勝利を獲得せんと策動しあり。最近我軍に帰順せる匪団は許家店に於て約二百臨汾に於て二百聞喜に於て紅槍会匪二千六百合計三千に過ぎず。将来管内は其地理的関係よりするも北支に於ける匪団の巣窟として治安の恢復容易に非らざるべしと思考せらる、
尚管内には現在思想団体と目すべきものを認めず。
匪団の分布付図第一の如し。

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支那事変北支状況(現状)報告 昭和13年10月

「極秘」印 
昭和十二年
付録(別冊二)
軍占拠地域内の警備状況に就て
本冊は警務連絡会議席上に於ける軍司令部第二課長嶺参謀の講演筆記なり

占拠地域内の警備状況に就て
私の担任であります後方占拠地域の治安警備状況に就て軍の実施しました治安工作の大隊の沿革並私の考へ等を申上げます。
戦況の進展に伴ひ逐次治安の悪化して行くことは事実となって居ます。例へば昨年十一月戦線が拡大して石家荘徳州西は忻口鎮の線に出た当時管内の匪数は約二万人内共匪約七千他の一万三千の賊は自衛団、民団等の匪化したもの又は純然たる土匪等にして共匪も殆ど積極的活動なく況や一万三千の匪賊は生命の保全に汲々たるものにして鉄道線路迄は出て参りませんでした。
十二月に入てから匪数は段々増加して四万となり共産抗日の色彩あるもの二万一般土匪二万と云ふ僅か一ケ月内に二倍に増加しました。十二月には鉄道沿線にも出て来初めましたがレールの破壊列車の転覆等は割合に少く一ケ月軍全体で二十回ぐらいでしたが一月に入ると激増して参りました。
山西、河北の山岳地帯五台阜平を中心とせる共産地区に共産学校の建設、共産党員の養成は十一月より一月に掛けて行はれましたが、一月中旬には阜平五台の山岳地帯より出で来て鉄道線路を襲撃し其の行動活発となって来たので二月上旬より一ケ月余に亘り之等の山岳地帯より平漢線の方面に亘り大討伐を実施し共産匪の根拠地阜平を占領一時平康を見ましたが全般的に見ますならば二月には九万三月には十五万四月には二十万五月には更に増加して居ることは事実で逐日増加の傾向にあります。
斯の如き急速なる数字の増加と占拠地域が漸次調査が出来る様になった点にも起因しますが匪賊の数が増へ治安が悪くなって居ることは否定できません
話が元に戻りますが石家荘徳州の線に出た当時は匪賊は未だ鉄道線路にも出て来ず永定河以北の地帯は全くの平和郷でありました。然るに現在は北京と指呼の間に在る門頭溝や昌平県等にも入って来て掠奪をし、人を拉致し又保定を襲撃しては日本人すら拉致し、定県の如きは毎夜襲はれて居りまして状況は一向に好転致しません。
徐州作戦の結果日軍の兵力異動を防ぐ為め蒋介石は遊撃隊を派遣して石家荘以北の京漢線済南以南の津浦線其の他膠済線等毎夜の如く襲撃して居りましたが徐州陥落に依って稍平穏になりました。
然し此の平康は永く続くか否かは甚だ疑問とする処でありまして従来も大きな会戦の直後は平穏でありました。之れは遊撃部隊の異動、指揮系統機関の破壊等に依るものでありますが徐州会戦も一段落付きましたから後方の遊撃隊も陣営を建て直し亦やって来るものと思ひます、前例に徹しましても今月末頃からぼつぼつ行動を開始するのじゃないかと思はれます。
軍占領地内には正規軍の大きなものは勿論居らない様ですが小さいものが相当に多く、現在の平穏は決して永続するとは思はれない。今迄の治安変遷状況は右の通りであります。
次は日本軍の勢力圏でありますが日本の勢力は鉄道線の両側千米位迄に及び治安の維持されて居ります。即ち細い帯の様な線が京漢戦は黄河の線迄、津浦線は徐州迄、同蒲線は大同から蒲州迄続ひて居りますが此の左右一粁以外は全く日本の勢力が及ばず匪賊の横行地帯であります
蒋介石が「日本は北支を占領したと言ってゐるが日本は僅かに帯の様な鉄道沿線と付近の県城を占領したに過ぎない。之を一歩出ずれば皆我々の勢力範囲である」と言って居りますが実際其の通りであります。然も之等匪賊地帯で遊撃をやるには住民との協力が無くては成立しない為に悪いことをやって居る匪団も相当あることはありますが大部分は統制的に成り立って規律もよく行って居ります、百姓の種子播きにも共匪が便宜供与をなし飛行機から見ると之等遊撃地区も青々として植付けの出来ない処はありません、秋になって百姓に収穫させ糧食を徴発するに便宜な為だからであります。
だから秋になり冬になっても彼等が食糧に困ると云ふ様なことはないと思はれます、只山西は山許りですから非常に糧食の欠乏を来たして居るらしく大同より太原に向ふ軍需品満載「トラック」が襲撃されるが帰りの空「トラック」は決して襲撃されないのを見ても明瞭であります。
先般石家荘で県知事会義をした処各知事は「軍の討伐は軍が引続き常駐して呉れるのだったら討伐に来て貰ってもよいが素通り的討伐だったら来て貰ひたくない、日本軍が討伐しても行った後に直ぐ又匪賊が入って来る」と云って居りました。共産軍、遊撃隊等も沢山ありまして何んな型をして居るのかも判然致しません。例へば名称にしても人民自衛軍、華北抗日第△軍、華北救国第△軍、人民抗日第△軍、河北連軍第△軍等随分勝手な名前が付けられて居ります、此の間入手した支那の書物にも「遊撃隊は軍司令官が統制し軍司令官の認めたものは一定の給与弾薬を渡す」云々と書いてありましたが、目下遊撃隊の不統制には支那側も手を焼いて居るらしい、中支で入手しました遊撃隊編成を見るに百名乃至五十名の中隊を単位として状況に依り大隊、連隊もあり、兵器給養等にも細部の規定がある、北支方面では未だ此種資料が手に入って居りませんから統制給養等判然して居りません。
次に共産軍でありますが山西省で我軍も度々衝突して居りますが何うも正体がよく判りません。第五師団の第八路軍に衝突した報告に「編成装備など普通軍隊に異ならず幹部に有能の士が多いから小部隊に行動に容易である」とある程度で実態を掴むことが出来なかった。最近常岡兵団の旬報を見ると其の共匪の俘虜の自白に依ると第八路軍の正規軍約十万は山西に他に独立したものが一師より六師迄あって察哈爾省南部及河北省方面に在り北京の西齊堂及び懐来付近に居るのは独立第六師なりとのことであります。
其の編成は歩兵三連隊迫撃砲六ケ中隊に砲兵もあり連隊は三大隊、大隊は三中隊と総て三単位で出来てゐる。正規の八路軍は河北平地には出て来て居らず主として山西に居ります。河北辺に出て来て居りますのは独立師で所謂外様部隊であります。
軍占拠地域の遊撃隊は主として抗日共産軍でありまして専門の土匪は極く僅少であります。河北省では津浦線東方地区は岐口を中心としてゐる土匪位であります。
山東省は占領当初は抗日匪団が少く軍及び特務機関の爾後に於ける山東の処理は楽観的で山東省の治安は直ぐ良くなるだろうと云ふ観察でした、勿論初めの内は其の通りでありまして土肥原部隊の僅か一ケ大隊が芝罘、威海衛、青島と何等の抵抗も受けずに廻って来ましたのを見ても明であります。
然るに其の後敵が遊撃戦法をなす為中央より幹部を入れ亦共産党も指導者を派遣するに及び二月以降は段々悪くなって河北省と同じになってしまったのであります。
山西省の治安は軍司令部に於ても心配して居ります、最初第五師団の情報に依りますと山西は女、子供迄抗日意識に燃へて居って之れが粛正は非常なる重荷だと云ふことで人に依っては山西の男は皆殺してしまって女だけにせにゃ、治安維持は到底出来ぬと云ふ人もありました。然しよく調べて見ると山西は教育が徹底して居るからでありまして綏東事件を切っ掛けに民衆訓練を実施し民衆を無理に抗日に引張り込んだに過ぎません。
でありますから山西必ずしも悲観するに当りません。
現在の山西特に南部山西は治安紊乱し全く手の付け様がなく我軍の攻勢に依り敵を撃破するに非んば治安工作の如きは問題とならないと云ふ実況であります
近時敵の志気が昂り我軍の発見した敵の手紙を見るに「日本敗残兵を追払って臨汾以南を奪回すべし」と云った風に川岸兵団を敗残兵扱ひにし景気を付けて居り川岸兵団も相当苦戦を繰り返して居ります。
山西は山岳地帯で幾ら兵を増加しても果して日軍だけで治安が回復出来るや否やは疑問とする処で山西は山西人により即ち閻錫山でも呼び寄せて治安維持に当らしめたら等と云ふ人もあり全く手を焼く所で治安も迅速には行きません」
以上申上げました様に治安が仲々回復しない原因は根本的には、作戦を第一に安定を第二にしたことで、即ち永定河より保定に保定より石家荘と一地を占領すれば直ぐ次ぎの目標にと其の後方地帯の治安確保を見ないで先きに先きにと進んだ為め後方の治安が悪くなったのであります
然し大部隊の敵が前に居るのですから我々も亦主力を第一線に出す必要あり後方に大部隊を置くことが出来ない、勿論第一線に兵力を集中させて置くことは戦術の原則的やり方でもありますし当時の事情は後方の治安回復を待って居られない状勢にあったのであります。
第二には後方安定に任ずる兵力が常に移動する点であります。初め後方治安の維持は方面軍の直轄兵站監が当って居りましたが次に末松部隊に変り更に又山下兵団となり其の山下兵団も今は一部兵力を前の方に出してある状況で絶えず部隊が入り換って居ります。治安と言ふものは其の衝に当って居る部隊が斯う動いては駄目である。少くも一地に四ケ月以上居れば良きにしろ、悪きにしろ顔馴染みにもなるし何んとか治まるものであります。
始終変ると云ふと即ち「旅の恥はかき捨て」主義になって善政を施さないのが人情の常であります。
山西の楡次には川岸兵団が四ケ月も駐屯したものですから、住民との間も非常に具合が良く、楡次の治安は模範的でありました、川岸兵団長は次の作戦で先きに向ふに際して態々太原より特務機関長を呼び寄せて、支那側のことに就て後々のことまで懇々と頼んで出て行かれました、斯様であってこそ初めて治安の維持が出来るのであります。
所が斯様に一地に大部隊を留めて置くと云ふことは出来得ない実状にあるのであります。
であるから如何に討伐をやり特務部や宣撫班が大童になって工作を進めても到底望みがありません。
(以下省略)

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北支>軍占拠地域内の警備状況に就て 昭和12年

敵の在支那航空兵力は一九四五年三、四月頃既に一五〇〇―二〇〇〇機 前年十一月頃八〇〇機 にして之に対する我が航空使用兵力は一五〇機内外に過ぎず而も比島、沖縄作戦等に多大の飛行機消耗を生じ支那方面に飛行機を増強する見込薄く之が為在支我が空軍は専ら将来の為飛行機の温存と訓練に勉むるに過ぎざるの状態なり。・・・

我が第十二軍は前年春季実施せる●漢作戦後新安付近より長台関(?)付近に亘る間を第一線とし其の以東の地区を占拠し第三十四軍は従来と同様信陽北方より宜昌に亘る間に陣地を占領す。之に対し敵は我に近く対峙して陣地を占領しあり。其の状態挿図第三十八の如し。
第二十軍は湘桂作戦後永●、宝慶、東安付近を第一線とし其の以東の地域を占拠しあり。此の前面にも敵は陣地を構築して我に対峙しあり。新寧は一時我が軍占領(?)せることありしも芷江作戦前は之を領有しあらず。芷江方面の敵は新たに編組せる湯恩伯を司令官とする第三方面軍にして装備米式化し我軍に優れるものあり

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支那方面作戦記録 第3巻

資料通報(B)第44号
(中国派遣軍34D68D116D関係 会同成果、資料)
昭和26年9月18日
留守業務部第三課

地上及び対空敵情患者後送状況
地上に於ける敵情の顧慮は比較的少なかったが衡陽攻撃中約一ケ師の敵が後方兵站線を扼し一週間ほど杜絶した事がある。土民は一般に敵意旺盛にして兵站線より四粁乃至五粁离隔した地域に糧秣徴発に出て土匪又は土民に殺傷された例は屡々ある。
P51 4~8機編隊で殆んど毎日数回来襲し主として橋梁弾薬燃料糧秣集積所及自動車退避所等を目標に豊富な小爆弾及MG掃射を浴せ湘江を上下す舟艇単独兵に対してまで銃撃を加ふるに至り行動は総て夜間実施するの止むない状況であった
自動車燃料の補給困難 雨季の為急設軍用道路は泥濘化し剰へ空襲による行動制限等患者輸送に大なる危険と困難が伴ひ又相当の日時を要し輸送途次の死亡者も相当数に昇った。

補充要員及治癒退院者の部隊追及状況
補充要員は相当通過したが連日の強行軍と食糧不足の為疲労困憊してゐた。落伍者発病者等は最寄兵站に託し兵站のない地点では付添兵を付して残置し行軍を継続してゐた。
退院患者は小隊分隊単位に上級者の指揮により部隊へ追及したが指揮掌握は完全でなかった。
而も糧秣を自己徴弁しつゝ行軍を続けねばならなかったので部隊へ到着するのは其の半数位であったと云ふ
第一線部隊の患者で沿道の空民家に滞留又は死亡してゐるのを散見した。

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資料通報 第44、46号 中国派遣軍 34D、68D、116D、3D 昭和25年9月

第二号 数倍の敵ならば朝飯前の覚悟を養ふを要す(但し此の考へにて今直ちに攻勢を軽挙に取れと云ふにあらず)

現在迄の戦斗にて至る所我兵力に数倍の敵を引き受けて守るは極めて普通のことにして十数倍数十倍の敵を引き受けたる例も少からず。先般洗車修理のために後方に遅留し八名の勇士の活動のこおが新聞にも●●●所なるが如し。目下京漢線方面など一吉の延長に一人宛にも足らず守備兵にて然も後備の老兵を以てせりと云ふ。故に数里毎に一、二分隊位の守備隊を以てするが普通にして此の守備隊が少しにても弱味を見せつくれば直ちに襲はると云ふ。同じ兵数にても彼れは守備兵の強弱指揮官の有無能力に至る迄綿密に偵査して上級指揮官の指令に基きて一糸乱れぬ遣口にて弱点に向って襲ひ来り毎夜毎日殆んど事故を生ぜざることなしと云ふ。最近某地にては三十数台のトラック縦隊が悉く毀されたりと云ふ。此の様に彼れが成功するの自身を得るに到りては中々手をつけられぬことなり。彼れは無線通信機関を有し能く統制ある戦を為す。但し多数を恃みて来るもおにして中には勇敢なる指導者に指揮せられて巧みに猛烈に突撃迄し来るものなきにあらざるも多くは近距離点迄迫りて一夜包囲し払暁逃げると云ふ方式を矢張り行ひ居ると云ふ。特に武器「かっぱらい」を策す。近来は彼等
は兵力の優勢(少も十倍)を以てし単に一方より攻めるのみならず必らず我が退路連絡線等を断ち多くの兵を伏せて逃ぐるを追撃して打たんとする。我匪賊討伐同様の戦法を用ヰ特に重火器迫撃砲を用ひて中々巧妙に対劇し来ると云ふ。・・・
 
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将校研修資料 昭和13年4月~11月(1・2枚目)

極秘〔参考〕
民心の把握と我等の反省
北支極第二九〇〇部隊
乙第三五〇〇部隊複写

本資料は昭和十八年一月十六日実施したる連、大隊長教育の際に於ける「聖戦目的の体得具現」及「軍紀の確立」と同一趣旨なるも一般的兵に対する敷衍教育資料として配布す
昭和十八年二月
第一軍参謀長 花谷正

民心の把握と我等の反省
第一、民心把握の重要性と其の要諦
・・・大東亜共栄圏を完成するため皇軍の第一線に活躍すべき範囲は尚極めて大なるものを残されて居ることを知らなければならない。而して之が為の兵力は幾らあっても足りないのである。然るに支那事変以来五年有半を経過し、一旦粛正せられたる第二、第三線とも謂ふべき後方地域に、尚多大の兵力を配置しなければならないことは現在に至って止むを得ないこととは申せ、戦争の大局からして誠に遺憾至極のことである。
  我兵団管下に於ては上司の御指導と将兵の絶大な努力とに依り、大いに粛正建設向上の跡を認むるものであるが、然し治安の前途は尚遼遠なるものがあるのみならず、現況を率直に申すならば行政組織は整ったが政治力は必ずしも滲透せず、為政者と民衆とが融和して居るとは申されない。新民会等は出来たが必ずしも我に就いて来ない。治安軍警察隊等は整備せられたが思想的治安は必ずしも良くなったと申されないものがある。所謂防共の鉄壁は出来たが其の内部は寧ろ赤くなりつつある。而して他方面からする極めて少数の八路軍の工作に依り、農村の多くの者が容易に之に随順加担し、我が方に対し反抗若くは非協同的態度を表しつつあると申しても必ずしも過言とは申されない一面を持って居る。従って皇軍日夜の奮闘と邦人の多大の努力とに拘らず、思想的治安は確立されないのみならず、現状を以て推移すれば状況に依りては将来益々民心は離反し敵の地下工作は愈々浸潤するに非ずやと迄思はるるものがある。

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民心の把握と我等の反省

第十二 衛生関係
四十五 終戦当時に於ける派遣軍内患者数約八万名にして之が主要疾患は依然「マラリア」首位を占め次で脚気赤痢其他全身病(主として栄養失調症)、外被病等其の主なるものとす
 
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支那派遣軍終戦及び復員資料 上奏(終戦後に於ける支那派遣軍の一般状況について)

第百十六師団 師団長 陸軍中将 岩永汪
一 行動概要
二 第百十六師団野戦病院の概況
1 第一野戦病院(長 軍医少佐 阿久津澄義)

株州野戦病院(19・6初旬―19・7・3)収容患者約五〇〇戦傷平病の比は概ね四対六 死亡者約五〇 患者は株州野予病第三班及当院株州患者療養所へ引継す(赤井隊)

株州患療(19・7~19・8)収容約六〇〇 7・10前後に約二〇〇を野予第十五班へ後送 歩兵第一〇四連隊と行動を共にし八月引継迄残留した。
本隊は衡陽に向ひ前追(進?)当時兵団主力は既に衡陽に接近して攻略を開始して居た。衡陽攻略間の患者は衛生隊により自動車又は車輌を以て衡山又は長沙野予病第二十一班へ後送した。

月塘野戦病院(19・7・12―19・8・19)
他病院に遅れて月塘最西部に開設。当時中国第十一軍の敗残兵
出没し又衡陽奪還を企図せるビルマ方面から転用された精鋭約五ヶ軍団渣江付近に集結して居り敵を腹背に受けての病院業務であった。
最初戦傷患者が多かったが後栄養失調赤痢コレラ等爆発的に発生し多数死亡者を出した
収容約一五〇〇死亡約三〇〇開設中に二回ほど患者輸送隊により易俗河方面へ後送 尚宝慶攻略戦参加の為病院移動時一二八兵站病院へ施設一切を譲渡一部患者を三板兵站病院(楊家●〔左「土」+右「勾」〕第十四班)へ自動車輸送 閉鎖時隣接第二野戦病院へ約四〇〇を引継した

余田橋患者療養所(19・8・20ー20・2)
宝慶攻略時コレラ患者発生の為余田橋(宝慶東方四〇粁)に開設収容患者約一〇〇〇死亡約二〇〇患者は衡陽一二八兵站病院へ後送した

宝慶野戦病院(19・9・20~20・4・15)
収容患者は主として37D116D関係者で約一五〇〇内37D患者は約四〇〇にして同兵団仏印進駐の為本院が継承した。治癒者は宝慶―衡陽―桂林―南寧―仏印道を原隊に復帰させ後送患者は衡陽一二八兵站病院へ収容された。
本病院の衡陽攻略戦間の死亡者関係書類を後送途中空爆により焼失し再調製したが是がため不明者を出してゐると思料される。

2第二野戦病院(長 軍医少佐 木谷祐寛 〃 副島順造)
月塘野戦病院(19・6下旬ー19・9・25)
19・6・27~28日頃歩兵第一三三連隊の患者最も多く衡山方面へ独歩担送馬送により後送した戦傷患者中瓦斯壊疽敗血症内科は赤痢戦争栄養失調症等で死亡するもの多く其の数一千に及んだ。収容患者約三〇〇〇一日平均一〇名の死亡者を出した。患者は主として烝河畔野戦予備病院第十四班へ一部兵站自動車により衡山兵站病院へ後送した。
19・9・25病院閉鎖時患者約二〇〇を自動車により野予病院第十四班へ 又本院の跡へ第一二八兵站病院開設されるに及び後送不能者は是に申継す。
安仁地区歩一二〇連は内科系特に回帰熱患者多く死亡2%位後送は自動車により来陽方面へ反転時独立浅野大隊医務室へ申送りした。
病院略歴によれば湘桂作戦間収容患者六一〇〇名湘西作戦二〇〇と計上されてゐる。

3 第四野戦病院(長 軍医少佐 小山倫夫)
月塘野戦病院(19・7上旬―19・8中旬)
116D及68D関係衡陽攻略部隊患者戦傷赤痢マラリヤ大腸炎等約一〇〇〇を収容 前病院長山崎少佐を始め過労に基き病院関者〔ママ〕の発病するもの多し。死亡亦相当数に及んだ。
患者は主として衛生隊患者収容隊により楊家●〔左「土」+右「勾」〕野予第十四班に後送された。八月中旬急遽宝慶方面へ転身命令下り短時日に患者を処理する必要に迫られ大混乱を来した事がある。
又九月上旬衡陽周辺にコレラ患者爆発的に慢〔ママ〕延し阿鼻叫喚の状を呈した。

将軍石山野戦病院(宝慶東方約十二粁 19・10―20・3)
殆んど平病患者で回帰熱約二〇〇死亡五〇 患者は湘西作戦開始に伴ひ宝慶第一野病へ全部前送した。

(註)
野戦病院関係書類皆無の為 病院職員に就き聴取したものを総合記載した。従って日次収容患者死亡者数等は概数である

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 資料通報 第44、46号 中国派遣軍 34D、68D、116D、3D 昭和25年9月

井上源吉「戦地憲兵 中国派遣憲兵の10年間」 
九江とその周辺に住む中国人たちの日本軍に対する感情は、南昌地区とはたいへんちがっていた。南昌地区は最前線に近く対峙(たいじ)する敵が中国正規軍であり、彼我の占領地区がはっきりしているため、住民たちも自然その態度をはっきりせざるを得なかった。ところが九江地区では、周辺に潜入している中国軍はすべて諜報謀略を任務とする特殊部隊であるため、住民に対する宣伝、扇動工作も巧妙であった。彼らは住民に対し報賞、脅迫をはじめあらゆる手段をもって日本軍との離反を策していた。  住民たちが日本軍や日本人に対して強い反感を持っていた原因のひとつは、前述したように市内の主要個所を全部日本軍や在留邦人が占拠し中国人たちを裏町のスラム街に押しこめ、みじめな生活を強いていることにもあった。憲兵分隊はじめ各地警備部隊ではしばしば潜入してくる中国側謀略分子、秘密工作員を捕え、無謀にもたいした取調べもせずにつぎつぎに銃殺刑に処していた。憲兵分隊ではこれらの処刑を揚子江上に漕ぎだした小舟の上で行なった。舟のへさきに座らせた彼らを情容赦もなく射殺して揚子江の濁流へ蹴落とし、ときには斬首することもあった。こうした事実を見聞した住民たちがどんな感情を持つか、当然推しはかることができるはずであるが、中国の人々を侮蔑しきっていた当時の日本軍は平然としてこの残虐な行為をつづけていた。こんなわけで当時中国人のあいだでは、日本憲兵隊の門をくぐったら絶対生きては出られない、とまでいわれ恐れられた。(p178)
  当時、軍首脳は在華日本陸海軍二百万と呼号していた。しかしこの大軍も広大な大陸占領地域へ分散すれば、後楽園球場へトラック一杯の砂利をばらまいた程度にすぎず、点と線を確保するのに精いっぱいのありさまだった。こんな状態だから占領後四年あまりを経た九江さえ、郊外へ一歩出れば中国側ゲリラ部隊が横行する中国側支配地帯だった。(180頁)

※ 九江占領は1938年7月26日「1938年揚子江遡上作戦にともない、7月26日に九江を占領。」
http://www.jacar.go.jp/glossary/term/0100-0040-0080-0020-0010-0040-0010.html

  当時、昭和十六年十二月ごろからはじまった江西省方面の中国側のゲリラ活動は月を追うごとに活発化しつつあった。十七年にはいるとまず南昌市内で邦人商店の爆破からはじまり、ついで爆破装置をほどこしたトランクを道路上に置く、あるいは洋車に爆破装置を仕掛け客が乗車すると同時に爆発させるなどという方法で、日本軍、住民を問わない無差別テロが続発した。大冶鉄山地区では小部隊で日本軍の連絡トラックを奇襲し、トラックの通路に地雷を埋設し爆破するというテロ行為が頻発した。
  いっぽう、南潯鉄道に対しては、重点的にその攻撃目標を決め、主として徳安、修水河両駅間と沙河駅、馬廻嶺駅間をねらって爆破工作を行なっていた。
はじめは鉄道線路に地雷を埋設していたが、その効果がうすいと知った中国側はこれを電導式に切りかえた。この方法はレールに直接装着した黄色薬(強力な爆薬)から山中に向かって細い電線を引き、山中にかくれた工作員が列車の到着する瞬間をねらってスイッチを入れるという、確実性の高いものだった。機関車を破壊された列車は後続車両の惰力に押されて中央部の数両が尺取り虫のように空中にはねあがり、落下脱線するのでその被害は甚大だった。
  こうした被害を防ぐため、鉄道隊では機関車の前に砂利を満載した貨車をつけ、列車の前方四、五百メートルに装甲車を先行させたが、何の効果もなかった。これらのテロも警備が充分に行きとどけば防げることはわかってはいても、兵力の少ない日本軍は駅舎を守るだけでも手いっぱいで打つ手がなかったのである。こうしたなかで鉄道隊苦力のなかに潜入した工藤軍曹は、しんぼう強い活動を二年あまりにわたってつづけた。 
  のちの話になるが、このような工藤曹長(この工作中に曹長に進級した)らの苦労が実をむすび、昭和十九年二月には南潯鉄道に潜入していた中国側スパイたちを一網打尽に検挙することができた。こうした地下工作はひとり工藤曹長にかぎらず、各地の憲兵隊で行なわれていたが、このような任務こそ戦地特高憲兵の特徴ともいえる仕事の一つであった。そして特高班は戦地憲兵の職務活動の中心となって動いていたのである。
  このころ華北地方に勢力をはる第八路軍(中国共産軍)の活動が激しくなったので、九江憲兵隊にも思想戦班が編成された。この班の任務は中国人官民に対する共産思想の浸透をふせぐとともに、軍の主唱する大東亜共栄圏建設に協力する思想を普及することだった。共産党というものがどんなものかもわからないのでは、手の打ちようもないので、私は上海から『マルクスの唯物史概説』という本をとりよせて勉強することにした。ところがその内容は意外に共鳴するところが多い。私は、ミイラ取りがミイラになってはまずいと思い、早々とこの勉強を中止した。(182・183頁) 

十七年といえば大東亜戦中、最も日本に有利な時であった。しかるに其の当時でさえ、海口地区(陸軍の警備地区)以外の主導権は敵側にあった。実に其の占領地域の治安たるや、点と線以下の淋しいもので、警備隊相互の連絡は、海上船舶によってようやく保たれている状態であった。敵地同然の占領地域の住民に対して、如何なる宣撫工作をしたとして、如何に大量の物資を放出したとて、所詮、絵に画いた餅のみか、敵の戦力の増強に協力しているようなものであった。むしろ戦線を縮小して重要地区(北部海口地区、南部三亜地区)の確保こそ最良の戦略ではなかったろうか。
(鈴木卓四郎「憲兵下士官」63頁)

対支情勢判断
昭二一、二、末 一復資料課

史実部第一課長殿
対支情勢判断の件回答 昭和二十一年二月末日 資料課長
以下所述する所は当時の関係各官の呈出資料を基礎とし当課山崎中佐に於て整理せるものなり。尚支那事変勃発以前(満州事変当時)に於ける対支情勢判断は別冊対「ソ」情勢判断中に包含せられあるに付右を参照せられ度

第一、昭和十二年七月
第二、昭和十二年九月
第三、昭和十二年末
三、軍は状況之を要するに至る迄は特に必要なる場合の外戦面を拡大し又は新方面に作戦を行ふこと無く敵軍後方に対しては主として航空作戦に依る圧迫を続行しつゝ専ら占拠地域内治安の確保に勉むるを要す。
第四、(※判読不能)
一、帝国軍の奥地進行停止に伴ひ敵は我戦力既に消耗し攻勢の余力なしと判断し且台児荘の戦斗を過大評価し其の戦意著しく昂揚し日本軍殲滅を豪語して中外に対する宣伝は極めて活発化せり。
第五、昭和十三年末
二、対支持久戦争の本質に鑑み徒らに奥地進攻のみを続行するは敵の消耗戦略に乗ぜらるゝ虞大にして有利ならざるべく他方進行作戦の結果多大の兵力を抽出せられたる我占拠地内部の治安は特に中共党軍の迅速強力なる浸透により急激に悪化しつゝあるを以て此の際選挙地域の確保安定を図るの要緊切なるものあり。

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対支情勢判断

  南京に着くと、ここにて部隊編成が行われ、私は独立警備歩兵第四十三大隊に配属になり、山東省張店の部隊本部まで戻りました。 ・・・
  部隊の編成には、兵器など現地製作品や鹵獲兵器などが混在していたようで、我々に与えられた装備は、地下足袋、銃は騎兵銃が五人に一丁、弾薬も乏しく、帯剣はあっても鞘は木製という有様でした。
 部隊は前述のように地域の警備、治安維持に従事しており、私は衛生兵として本部勤務で、兵站病院も負傷兵は少なく、比較的楽な勤務でした。 (193・194頁)小川     
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_191_1.pdf

  部隊は昭和十九年七月、老河口に集結した敵を攻撃、多大な損害を与えたのでした。そして我々はこの河北省老河口の警備をすることとなりました。しかし、警備隊は手薄になり犠牲者も出て兵力は少なくなる。住民は情報を八路軍に知らせていたので、その少ない兵力の所へ八路軍は襲撃して来るのです。毎日のように銃砲声がしていました。
  そのころ我が鉄道交通撹乱のため、重慶方面から米軍機が毎日飛来し、昼間は鉄道交通による輸送は出来ず避難し、夜間細々と局地的に運行する程度で、幹線の機能は喪失している状態でした。しかし当時、沖縄には米軍が上陸して激戦中との情報がありました。(191頁)篠村
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_189_1.pdf

  そのころになると満州でも食糧不足を感じるようになりました。満州で生産される大豆と高黍(たかきび)が主食に代わるようになりました。戦友同士で「米の飯が食べたいな」と話しをするようになり、食糧事情も日々悪くなってきました。(88・89頁)坂井
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_086_1.pdf

 作戦に出てしばらくすると軍服や編上靴に穴があいても補充がない。兵隊は皆、現地人の服や木綿靴を使用し、シラミやマラリアも苦にならなくなってきました。(231頁) 清水