誰が言い出したのか知らないが、右翼・保守界隈でかなり流行しているようである。

主張例
野村修也 ‏@NomuraShuya
池上彰さんも、私と同様の認識です。「現在の中国の公認の歴史では、この国共合作で共産党は日本軍と激しく戦ったということになっていますが、実際に日本軍と真正面から戦ったのは、国民党の軍隊でした。」(池上彰『そうだったのか!中国』(集英社文庫、2010年)

https://twitter.com/NomuraShuya/status/646246614919569408


竹田恒泰@takenoma
そういうことは、現在軍国主義を突き進む中国に言われたくない。そもそも中華人民共和国の成立は1949年。日本は中国とも共産党軍とも交戦した歴史的事実はない
6:42 - 2016年5月12日

櫻井よしこ氏

右の主張における歴史修正の筆頭は中国共産党が日本軍と戦ったという点であろう。日本軍と戦ったのは国民党軍で、彼らは日本軍に対しては連戦連敗だった。共産党軍は日本軍とは戦っていない。なぜなら彼らはひたすら逃げたからだ。従って中国共産党軍の働きが日本軍を敗北させたという王氏の主張は、国民党だけでなく連合国側のひんしゅくをも買うであろう。
http://yoshiko-sakurai.jp/2015/09/12/6125

どうウソか
以下の資料から、中国共産党が日本軍と戦っていたことが分かる。
まず共産軍の組織編成と戦力について。
昭和13~15年の編成
s13共産党軍編成
s14共産党軍編成s15共産党軍編成

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レファレンスコードC11111490000(15~17枚目)
北支那方面軍昭和16年度 粛正建設計画 昭和16年2月26日~16年4月10日


昭和14年の編成(別資料)
s14編成表s14編成表2

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八路軍関係資料 昭和14年


昭和18年の編成
S18共産党軍編成 - コピー
 
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レファレンスコードC13070344700(17枚目)

極秘 方軍特報第三五号 杉山部隊参謀部 二月十六日
北支に於ける共産軍の兵力及装備

一、第八路軍の一月現在人員(遊撃隊及傷病者を除く)及兵器弾薬、馬匹、現在数左の如し

1、人員
将官 三五
長上官 一二八九
尉官 五八二四
下士官、兵 一一二五三〇
計 一一九六七八
 
2、兵器
小銃(歩兵銃及騎兵銃) 六二八四七
重機関銃 一四一
軽機関銃  九〇八
自動小銃 一三二
手機関銃(原文) 一五
花機○銃(原文) 四五
○○銃 三四六〇
拳銃 七四五
迫撃砲 八二
平射砲 六
信号銃 一五三
擲弾筒 二〇

3、弾薬
小銃弾 二〇八七九八一
重機関銃弾 三六二五七
軽機関銃弾 一五一六〇〇
自動小銃弾 二六四〇〇
手機関銃弾 一二四五〇
花機○銃弾 二二五〇
○○弾 五一九一五
拳銃弾 七四五
迫撃砲弾 二〇〇〇
山砲弾 三〇〇
平射砲弾 一〇〇
信号弾 五六一
擲弾筒弾 一〇〇
手榴弾 一二四五七

4、器具
剣 二三〇七九
刀 (乗馬本分者用) 四一五二
工作器具 五七四五
防毒面具 五八四九

5、馬匹
乗馬 三四二一
駄馬 三〇五四
騾馬 一八二一

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レファレンスコードC11111670700(2・3枚目)
方参特報綴 昭和14年1月

北支方面占拠地域内敵兵力

年月 一五年一一月
共産軍
 正規軍 一四〇
 共産系遊撃隊及同色彩ある匪団 一六〇
 小計 三〇〇
蒋系軍
 正規軍 二五五
 蒋系遊撃隊及同色彩ある匪団 五〇
 小計 三〇五
単なる土匪 四
総計 六〇九 


一、多田部隊参謀部第二課「北支那方面敵情及治安回復状況要図」より
二、単位 千

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レファレンスコードC11111490000(20枚目)
北支那方面軍昭和16年度 粛正建設計画 昭和16年2月26日~16年4月10日
兵力  

北支共産軍(除地方遊撃隊、自衛隊)

第一八集団軍
・賀龍 
  所属部隊 120D T1D 207B 209B 決死第二、四縦隊
  兵力概数 六〇、〇〇〇
・劉伯承
  所属部隊 129D N4B N7B N8B N9B N10B N11B 決死第一、三縦隊
  兵力概数 六〇、〇〇〇
・山東
  所属部隊 115D 山東縦隊
  兵力概数 五五、〇〇〇
・聶栄臻
  所属部隊 冀東、西、中軍区 冀察熱挺進軍 
  兵力概数 六〇、〇〇〇

N4A
・陳毅 
  所属部隊 1D 2D 3D 4D 5D 6D 7D
  兵力概数 四五、〇〇〇

陜甘寧辺区
  兵力概数 四〇、〇〇〇

計 兵力概数 三二、〇〇〇〇
 
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レファレンスコードC11110934300(24枚目)
北支那方面軍状況報告および同別冊 昭和16年7月

第一章 中国共産軍の現況
・・・北支共産軍の事変当初に於ける兵力は第十八集団軍の建制部隊たる第百十五師、第百二十師及第百二十九師の計約四万なりしが爾後各地の土匪、重慶側地方軍を収編する外育成せる地方遊撃隊を逐次編入して新編旅等を編制し昭和十五年夏(百団大戦直前)に於ては約三十万の兵力を擁するに至れり。爾後我不断の討伐と爾他の剿共諸施策の推進により軍の維持逐次困難を加ふるに至り昭和十七年以降に於ては遂に精兵主義の下に所要の兵員を淘汰するに至れり。
昭和十八年十二月現在に於ける兵力左の如し。
(別紙区画要図参照)

晋察冀軍区 三〇、〇〇〇
晋冀魯豫軍区(百二十九師基幹) 四三、〇〇〇
山東軍区(百十五師及山東縦隊基幹) 四五、〇〇〇
晋綏陜甘寧軍区(百二十師基幹) 六七、〇〇〇
小計 一八五、〇〇〇
新四軍 四〇、〇〇〇
合計 約二二五、〇〇〇
右の外北支には約六十万の地方遊撃隊ありて之が活動は軽視を許さざるものあり。

第二章 共産軍の特質分類及相互関係
第一節 共産軍の任務及目的
第二節 正規軍
  共産正規軍は第十八集団軍及新四軍なり、第十八集団軍は表面上重慶中央軍事委員会に隷属しあるも中共は別に固有の中央軍事員会を設置しありて独立の軍事行動を取りあり、新四軍亦昭和十三年同じく蒋政権国民革命軍に編入せられたるも昭和十六年一月蒋系軍と衝突して皖南事変惹起し蒋政権より解散を命ぜられたるも之に応ぜず新四軍の再編成を行ひ現在七ケ師に拡軍し中共中央軍事委員会の指令下に活動しつゝあり、正規軍は一応軍としての体面を保持しあるも縦隊支隊の如き「軍」直属の部隊を分散せしむるものあり夫々駐地の遊撃隊自衛隊等に対し軍事指揮を行ひ正規軍の作戦に協力せしめ或は補助的任務を与へ之等の関係は中共党を中心に抗日統一戦線を指導理論として統合せられ軍民一致の関係を形成しあり。
斯くの如く共産軍は中共党を母体として生れ飽く迄党を中枢として行動するものなるも抗日戦の現段階特に北支に於ては共産軍自身中共の全体なるかの如き観を呈しあるは蓋し軍の持つ役割を実証しあるものなるべし。

第三節 准正規軍(地方正規軍)
  准正規軍は事変以後の拡軍により編成せる団の名称を有する部隊なり。
准正規軍には旅を編制するものと然らざるものあり晋冀魯豫軍及山東軍区の新編旅及山東縦隊旅の如きは前者にして晋察冀軍区の各団は後者なり、但し孰れも地方に於て編成し且地区の防衛に任ずるものなるを以て之を地方正規軍とも称しあり、従って准正規軍は仮令敗戦するも管内たる軍区を離るゝることを得ざるを原則とす。
尚晋察冀軍区には地区隊と称するものあり主として遊撃地区の遊撃に任ずるものにして通常便衣を着しあるも相当の戦力を有しあるを以て准正規軍と看做を至当とすべし。

第四節 遊撃隊
  遊撃隊は中共の対日戦に於ける基本的方略の必然的要請に基き広汎なる一般民衆を組織し且武装化し対日戦に協力せしめんとするものにして准正規軍に至らざる一切の武装団体は之を遊撃隊と称し得べし。
然れども現在遊撃隊と称するは民衆武装部中の生産を離脱せる部隊即ち県を単位とする県遊撃隊及区を単位とする区遊撃隊を指称するを通常とす、之等遊撃隊は各行政機関の武装部に隷属するも軍事的には軍の指揮領導下なりて専ら県(区)内の遊撃に任ずる傍ら正規軍の兵力補充源となり更に訓練向上せらるるに至れば正規軍に改編せらるゝを常とす。

第五節 自衛隊
  自衛隊は敵地区に於ける普遍的武装組織にして生産に従事する傍ら日常郷村に於て交替制を以て警戒並訓練に服するを常態とし一度参戦の場合には正規軍及遊撃隊に支援協力し後方任務に服し運搬、担架、交通、偵察、宣伝、看護、清室空野、民衆避難等に任ず。
未だ其の装備不充分にして遊撃を実施するに至らざるも、地雷戦法を担任する等軽視し得ざるものあり。

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レファレンスコードC13070344700(3枚目~)
剿共指針 第1巻 昭和19年4月

以下個別の戦闘例や日本軍の感想など
「極秘」印 
昭和十二年
付録(別冊二)
軍占拠地域内の警備状況に就て

本冊は警務連絡会議席上に於ける軍司令部第二課長嶺参謀の講演筆記なり

占拠地域内の警備状況に就て
私の担任であります後方占拠地域の治安警備状況に就て軍の実施しました治安工作の大隊の沿革並私の考へ等を申上げます。
戦況の進展に伴ひ逐次治安の悪化して行くことは事実となって居ます。例へば昨年十一月戦線が拡大して石家荘徳州西は忻口鎮の線に出た当時管内の匪数は約二万人内共匪約七千他の一万三千の賊は自衛団、民団等の匪化したもの又は純然たる土匪等にして共匪も殆ど積極的活動なく況や一万三千の匪賊は生命の保全に汲々たるものにして鉄道線路迄は出て参りませんでした。
十二月に入てから匪数は段々増加して四万となり共産抗日の色彩あるもの二万一般土匪二万と云ふ僅か一ケ月内に二倍に増加しました。十二月には鉄道沿線にも出て来初めましたがレールの破壊列車の転覆等は割合に少く一ケ月軍全体で二十回ぐらいでしたが一月に入ると激増して参りました。
山西、河北の山岳地帯五台阜平を中心とせる共産地区に共産学校の建設、共産党員の養成は十一月より一月に掛けて行はれましたが、一月中旬には阜平五台の山岳地帯より出で来て鉄道線路を襲撃し其の行動活発となって来たので二月上旬より一ケ月余に亘り之等の山岳地帯より平漢線の方面に亘り大討伐を実施し共産匪の根拠地阜平を占領一時平康を見ましたが全般的に見ますならば二月には九万三月には十五万四月には二十万五月には更に増加して居ることは事実で逐日増加の傾向にあります
斯の如き急速なる数字の増加と占拠地域が漸次調査が出来る様になった点にも起因しますが匪賊の数が増へ治安が悪くなって居ることは否定できません。
話が元に戻りますが石家荘徳州の線に出た当時は匪賊は未だ鉄道線路にも出て来ず永定河以北の地帯は全くの平和郷でありました。然るに現在は北京と指呼の間に在る門頭溝や昌平県等にも入って来て掠奪をし、人を拉致し又保定を襲撃しては日本人すら拉致し、定県の如きは毎夜襲はれて居りまして状況は一向に好転致しません。
徐州作戦の結果日軍の兵力異動を防ぐ為め蒋介石は遊撃隊を派遣して石家荘以北の京漢線済南以南の津浦線其の他膠済線等毎夜の如く襲撃して居りましたが徐州陥落に依って稍平穏になりました。
然し此の平康は永く続くか否かは甚だ疑問とする処でありまして従来も大きな会戦の直後は平穏でありました。之れは遊撃部隊の異動、指揮系統機関の破壊等に依るものでありますが徐州会戦も一段落付きましたから後方の遊撃隊も陣営を建て直し亦やって来るものと思ひます、前例に徹しましても今月末頃からぼつぼつ行動を開始するのじゃないかと思はれます。
軍占領地内には正規軍の大きなものは勿論居らない様ですが小さいものが相当に多く、現在の平穏は決して永続するとは思はれない。今迄の治安変遷状況は右の通りであります。
次は日本軍の勢力圏でありますが日本の勢力は鉄道線の両側千米位迄に及び治安の維持されて居ります。即ち細い帯の様な線が京漢線は黄河の線迄、津浦線は徐州迄、同蒲線は大同から蒲州迄続ひて居りますが此の左右一粁以外は全く日本の勢力が及ばず匪賊の横行地帯であります。
蒋介石が「日本は北支を占領したと言ってゐるが日本は僅かに帯の様な鉄道沿線と付近の県城を占領したに過ぎない。之を一歩出ずれば皆我々の勢力範囲である」と言って居りますが実際其の通りであります。然も之等匪賊地帯で遊撃をやるには住民との協力が無くては成立しない為に悪いことをやって居る匪団も相当あることはありますが大部分は統制的に成り立って規律もよく行って居ります、百姓の種子播きにも共匪が便宜供与をなし飛行機から見ると之等遊撃地区も青々として植付けの出来ない処はありません、秋になって百姓に収穫させ糧食を徴発するに便宜な為だからであります。
だから秋になり冬になっても彼等が食糧に困ると云ふ様なことはないと思はれます、只山西は山許りですから非常に糧食の欠乏を来たして居るらしく大同より太原に向ふ軍需品満載「トラック」が襲撃されるが帰りの空「トラック」は決して襲撃されないのを見ても明瞭であります。
先般石家荘で県知事会義をした処各知事は「軍の討伐は軍が引続き常駐して呉れるのだったら討伐に来て貰ってもよいが素通り的討伐だったら来て貰ひたくない、日本軍が討伐しても行った後に直ぐ又匪賊が入って来る」と云って居りました。共産軍、遊撃隊等も沢山ありまして何んな型をして居るのかも判然致しません。例へば名称にしても人民自衛軍、華北抗日第△軍、華北救国第△軍、人民抗日第△軍、河北連軍第△軍等随分勝手な名前が付けられて居ります、此の間入手した支那の書物にも「遊撃隊は軍司令官が統制し軍司令官の認めたものは一定の給与弾薬を渡す」云々と書いてありましたが、目下遊撃隊の不統制には支那側も手を焼いて居るらしい、中支で入手しました遊撃隊編成を見るに百名乃至五十名の中隊を単位として状況に依り大隊、連隊もあり、兵器給養等にも細部の規定がある、北支方面では未だ此種資料が手に入って居りませんから統制給養等判然して居りません。
次に共産軍でありますが山西省で我軍も度々衝突して居りますが何うも正体がよく判りません。第五師団の第八路軍に衝突した報告に「編成装備など普通軍隊に異ならず幹部に有能の士が多いから小部隊に行動に容易である」とある程度で実態を掴むことが出来なかった。最近常岡兵団の旬報を見ると其の共匪の俘虜の自白に依ると第八路軍の正規軍約十万は山西に他に独立したものが一師より六師迄あって察哈爾省南部及河北省方面に在り北京の西齊堂及び懐来付近に居るのは独立第六師なりとのことであります。
其の編成は歩兵三連隊迫撃砲六ケ中隊に砲兵もあり連隊は三大隊、大隊は三中隊と総て三単位で出来てゐる。正規の八路軍は河北平地には出て来て居らず主として山西に居ります。河北辺に出て来て居りますのは独立師で所謂外様部隊であります。
軍占拠地域の遊撃隊は主として抗日共産軍でありまして専門の土匪は極く僅少であります。河北省では津浦線東方地区は岐口を中心としてゐる土匪位であります。
山東省は占領当初は抗日匪団が少く軍及び特務機関の爾後に於ける山東の処理は楽観的で山東省の治安は直ぐ良くなるだろうと云ふ観察でした、勿論初めの内は其の通りでありまして土肥原部隊の僅か一ケ大隊が芝罘、威海衛、青島と何等の抵抗も受けずに廻って来ましたのを見ても明であります。
然るに其の後敵が遊撃戦法をなす為中央より幹部を入れ亦共産党も指導者を派遣するに及び二月以降は段々悪くなって河北省と同じになってしまったのであります。
山西省の治安は軍司令部に於ても心配して居ります、最初第五師団の情報に依りますと山西は女、子供迄抗日意識に燃へて居って之れが粛正は非常なる重荷だと云ふことで人に依っては山西の男は皆殺してしまって女だけにせにゃ、治安維持は到底出来ぬと云ふ人もありました。然しよく調べて見ると山西は教育が徹底して居るからでありまして綏東事件を切っ掛けに民衆訓練を実施し民衆を無理に抗日に引張り込んだに過ぎません。
でありますから山西必ずしも悲観するに当りません。
唯現在の山西特に南部山西は治安紊乱し全く手の付け様がなく我軍の攻勢に依り敵を撃破するに非んば治安工作の如きは問題とならないと云ふ実況であります。
近時敵の志気が昂り我軍の発見した敵の手紙を見るに「日本敗残兵を追払って臨汾以南を奪回すべし」と云った風に川岸兵団を敗残兵扱ひにし景気を付けて居り川岸兵団も相当苦戦を繰り返して居ります。
山西は山岳地帯で幾ら兵を増加しても果して日軍だけで治安が回復出来るや否やは疑問とする処で山西は山西人により即ち閻錫山でも呼び寄せて治安維持に当らしめたら等と云ふ人もあり全く手を焼く所で治安も迅速には行きません」
以上申上げました様に治安が仲々回復しない原因は根本的には、作戦を第一に安定を第二にしたことで、即ち永定河より保定に保定より石家荘と一地を占領すれば直ぐ次ぎの目標にと其の後方地帯の治安確保を見ないで先きに先きにと進んだ為め後方の治安が悪くなったのであります。
然し大部隊の敵が前に居るのですから我々も亦主力を第一線に出す必要あり後方に大部隊を置くことが出来ない、勿論第一線に兵力を集中させて置くことは戦術の原則的やり方でもありますし当時の事情は後方の治安回復を待って居られない状勢にあったのであります。
第二には後方安定に任ずる兵力が常に移動する点であります。初め後方治安の維持は方面軍の直轄兵站監が当って居りましたが次に末松部隊に変り更に又山下兵団となり其の山下兵団も今は一部兵力を前の方に出してある状況で絶えず部隊が入り換って居ります。治安と言ふものは其の衝に当って居る部隊が斯う動いては駄目である。少くも一地に四ケ月以上居れば良きにしろ、悪きにしろ顔馴染みにもなるし何んとか治まるものであります。
始終変ると云ふと即ち「旅の恥はかき捨て」主義になって善政を施さないのが人情の常であります。
山西の楡次には川岸兵団が四ケ月も駐屯したものですから、住民との間も非常に具合が良く、楡次の治安は模範的でありました、川岸兵団長は次の作戦で先きに向ふに際して態々太原より特務機関長を呼び寄せて、支那側のことに就て後々のことまで懇々と頼んで出て行かれました、斯様であってこそ初めて治安の維持が出来るのであります。
所が斯様に一地に大部隊を留めて置くと云ふことは出来得ない実状にあるのであります。
であるから如何に討伐をやり特務部や宣撫班が大童になって工作を進めても到底望みがありません。
(以下省略)

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北支>軍占拠地域内の警備状況に就て 昭和12年

第一〇九師団電第一二七三号

一、金岡討伐隊は一月三十日奇村鎮平地(忻県西北方二〇粁)を討伐し合索村、西溝村、ワン付近に於て約七〇〇名の敵を撃破せり。
二、二月一日主力を以て陀羅村―三交鎮路ノ(ヲ?)一部を以て「ガセツソン」―楊家庄、三交鎮道を前進し一日正午ごろ主力を以て横●子、馬頭山付近に陣地を占領せる約三千の敵を攻撃激戦六時間にして之を撃破し一部は午前十一時ごろ楊家庄(忻県西方約十六粁)付近に陣地を占領せる約四〇〇の敵を撃破し次て馬家庄付近を占領する約二千の敵に対し頗る難戦後夕刻之を撃破し討伐隊主力を以て一日夜三交鎮を占領せり
三、敵の総兵力約五千にして軍服着せる共産軍第八路軍にして外国将校参加しあるものの如く三交鎮一体は悉く兵営に改築せられあり
四、敵遺棄屍体山地内にて詳細ならざるも目撃せるもののみにても約五〇〇名を下らず
五、三交鎮付近一帯兵営化せる村落は悉く之を焼却せり
六、討伐隊主力は三日午前忻県に帰還す
七、目下判明せる我損害は戦死下士官一、兵五、負傷将校一、下士官、兵七にして尚相当多数ある見込みなり

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 第1軍機密作戦日誌 巻8 昭和13年2月1日~13年2月15日

将校研修資料第五六号
赤軍正規軍に関する見聞

三月末当地に新任当初対共匪注意事項を研修資料を以て教示せしが其の後浅川部隊に於ては暖泉鎮南村付近に於て其の正規軍第百二十師の一部と二、三度交戦し更に七月八日に於て北水泉に急襲を大王城に待伏せを喰ひたり・・・

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将校研修資料 昭和13年4月~11月

聞込みたる話
一、共産軍の情況
大同西南方面の共産軍に関し信拠すべき応戦将師の談によれば
1、共産軍の主体は青年兵にして二十歳未満多く極めて勇敢にして寧ろ決死的戦闘を為す

以上の如くなるを以て決して恐るゝの要なきも少しも侮るを許さず
我軍は市街に入りて内地式或は満州式生活訓練を行ふ 彼れは極めて分散して質実剛健決死の実戦的訓練生活を行ひ真に我が軍の裏を掻かんことに大なる智能を絞りて来れり。
我軍は単純なる典令戦闘を正直に秋季演習の如く行ふ 此の点が非常に注意すべき点なり
我隊は後備兵は上海方面にて凱旋せしが為に余程元気を失ふ、又少数兵力にて常に数倍以上の優勢なる敵と南進北転して戦ひつつあり、従って相当の疲労あり又損害あり、彼れは新手に新手を用ひ年少決死の兵を以て来る、此の点今日大いに我等が考ふべき事にして特に我が隊の如きは今日昿古の重責に直面しあることを思ひ一意聖勅を奉体して門出の決心を益〃強化し軍紀を振作し団結を強化し早く土地に慣れ幹部の能力を向上し真剣に実力を蓄へ必勝の戦力を発揮すべきことを忘るべからず。

2、敵の戦闘法
此件は聞き込める話第八号蒋介石の誘撃作戦要領の五項目に存し特に夜間攻撃を用ひ 手榴弾攻撃を加へ 指揮官(本部)を覘って来るが如く又待ち伏せ式奇襲多く 偵察に関しては極力密偵すぱい〔ママ〕の熟練せる手段によりて実行するものと覚悟すべきなり、と云ふ
此の夜間攻撃戦法に関しては先般石川大尉講和に示せる如くなるが尚若干耳新しき点を述ぶ
イ、城壁に登り攻め込み家根〔ママ〕伝ひに来る 城壁は高さ三丈位のものを敏活に登ると言ふ 器材は梯子を用ふ 実に我が決死隊と何等異らずと言ふ

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将校研修資料 昭和13年4月~11月

将校研修資料第五八号
盛に急襲奇襲すべし

先般蔚県地区に第八路軍の正規部隊が極めて上手に企画行動を秘匿して攻防の術を尽くしたるが又一方に於て目賀田部隊方面では至る所に或は払暁攻撃或は匍匐屈進近接或は雨天迂回前進等色々の手段を講じて敵を急襲しあることは又喜ぶ所なり。

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将校研修資料 昭和13年4月~11月

独三旅電第一六六六号

一、外立支隊は昨二十五日新河南端に於て約五百名の八路軍を撃破し十二時架橋に着手せり

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第1軍機密作戦日誌 巻26 昭和13年11月1~13年11月30日

つよさ戦詳第十号
自昭和十三年九月九日
至昭和十三年九月十日

小石庄付近に於ける戦闘詳報

独立混成第二旅団 
独立歩兵第四大隊柴本小隊

(五)行動並戦斗経過
7、小隊主力として馬匹掩護を命ぜられたる橋本上等兵以下二〇名(内一名衛生兵)は五時半過三世斥候及小隊長方面に銃声を聞くや続いて南方より一〇〇余名の第八路軍進出し包囲攻撃し来る橋本上等兵は直ちに馬匹を高粱畑の中に入れ小溝を利用し円形陣を作り西正面(一二名)を自ら指揮し東正面(八名)を川津上等兵に指揮せしめ之が撃退に努む敵は次第に増加し来り西南方高地より機関銃射撃を行ひ猛烈に攻撃し来る漸くにして日没に至り敵を撃退し得たり恰も十六日の明月東天に昇り視野を大ならしむ二十時頃一〇〇余名の敵喇叭を鳴らし四周より夜襲し来る敵は極めて勇敢に陣地前十数米の地点迄近迫し来るも橋本上等兵以下克く奮斗し遂に之を撃退せり
二十二時過敵約一五〇再び陣地を包囲夜襲し来るも之を撃退し得たり

(七)参考となるべき所見
1、第八路軍勢力下の地方に於ては住民威を怖れ或は買収せられ之が言を信ずれば大なる失敗を生ずるに至る充分注意するを要す
2、第八路軍は相当勇敢なり特に我が劣勢なりと見極めたる場合に於て益々然り

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独立混成第2旅団独立歩兵第4大隊関係戦闘詳報 昭和13年9月9日~昭和14年5月17日
勇敢

極秘 方軍特報第三五号 杉山部隊参謀部 二月十六日
北支に於ける共産軍の兵力及装備

二、討伐の結果観察し得たる二、三、の経験
1経験
1、川村兵団の二月上旬に於ける和順、遼県方面討伐に際し一二九師及一一五師の三四三旅と戦闘せる結果に依れば敵の装備は優秀にして弾薬豊富なるのみならず其の戦意比較的旺盛なり
2、篠塚兵団の二月二日広宗に於て一二九師の一部と戦闘せる結果に依れば敵は装備優秀にして頑強に抵抗せり
3、一月末本間兵団永見部隊の河間付近に於ける討伐に際し共産軍の行動に関し得たる感想左の如し(薄井大尉報告)
河間付近に於ける共産軍(遊撃隊)は従来の支那軍に比し稍々異色ありて団結訓練の強化を察知し得べき点左の如し
イ、勇敢にして自軍の死体を乗越へて前進し果敢なる突撃を実施す
ロ、遺棄死体(山口隊と交戦せる)の大部(一二〇)は日本軍服を着し背嚢又同じ 残置せる小銃は大部分菊の御紋章入なり
ハ、日本語を解し「日本軍の馬鹿」「下れ下れ」「大砲を置いて下れ」等を巧に使ひ分く
二、日本軍前進する時は付近の部落に隠れ深く前進せしめて一斉に逆襲に転ぜしむ
ホ、装備優秀にして山砲、迫撃砲、自動火器等優良なるもの多し

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方参特報綴 昭和14年1月

「極秘」印
方軍参特方第一一号 昭和十四年一月十一日 杉山部隊本部
北支に於ける共産軍の現勢強化工作並民衆の抗日意識

第一 北支に於ける共産軍(党)勢力拡大の現況
一、最近方面軍作戦地域内に於ける共産軍の配置別紙要図の如し。其の中着目すべき現象左の如し。
1 正太線南方地域就中遼県、検社、沁県方面は朱徳が正規師団一師と一独立旅とを有して占拠し北部陜西に於けると同様不可侵的ソウェート区を形成せるの観ありて其内部の状況不明なり。
一二九師の遊撃隊は去る十二月三十日夜正太沿線及石家荘以南の京漢沿線に於て七ケ所を襲撃せり。
2 山東方面は迅速なる勢を以て共産遊撃隊侵蝕しつつあり。
3 概ね隴海線以南の地域には中支方面軍に根拠を有する葉挺の新四軍に属する遊撃隊出現しつつあり。
4 朱徳は山東方面の遠隔せる地点に在る共産遊撃隊の動静すら常に注視し連絡しつつあり。
5 共産軍(党)側の民衆獲得工作が極て組織的計画的なることは沈鴻烈等国民党側に於ても之に驚嘆しつつあり。

二、北支に於て共産軍(党)が此の如く発展せし跡を考察するに各種の原因あるべしと維〔ママ〕中国共産党正統派にして実(?)力を掌握せる多数の領袖が存在することを其理由の一として指摘せざるべからず。即ち延安に毛沢東、正太線南方地区に朱徳、彭徳懐、劉伯承、石樓方面に林彪、嵐県付近に賀龍、阜平方面に聶栄臻、南宮方面に徐向前ありて正規師三を基幹とし多数の遊撃隊を組織しつつあり、加ふるに天津英仏租界を拠点とする共産党機関は彼等の謀略機関若は派遣幕僚軍なるやの観あり。

第二 共産軍(党)の教化工作
彼等の最も特異とする宣伝に関しては茲に之を省略し主として教育に関し簡潔に之を述べんとす。
一、延安に於ける闘士の養成
延安には多数の共産学校あり学生八〇〇〇人に達し軍事教育を受くるもの、政治を受くるもの及其他の教育例へば宣伝ポスター作製法の教育を浮くるもの等あり、
学生には女子をも包含する多数の志願者中より選抜せる二十歳前後の男女青年を採用して訓練し卒業生を続々前線に派遣し工作員を増強しつつあり。
二、各地共産遊撃支隊は夫々幹部学校を設立し支隊内の排長、班長を選抜入校せしめあり、其他の要地にも闘士の養成を目的とする学校少からず例へば左の如し。
五台山、軍政学校、修業期間三ケ月軍事政治学を教授す、任邱、
随官学校、各部隊より選抜せる二〇〇名を収容す。
覇県、幹部学校、一二〇名を収容せしむ。現在我軍に占領せらる。
博野、幹部学校、現在我軍に占領せらる。
掖県(山東)膠東公学、軍政幹部及共産斗士を養成す。
沛県北方(江蘇)、共産専門学校
馬門関(山西)、共産学校
三、教員の横断的結合
小学校教員の横断的結成を図り各種の研究申し合せ等抗戦教育の基礎を統合しつつあり。
四、小学校教育の励行
小学校教育を励行し新組織、新訓練を実施しつつあり。
五、小先生制教育
小学三年級以上を教育者となし大衆就中農民中の文化的低級者を被教育者とし食事時間或は労働の休憩時間を利用し樹蔭等に集め教育することを奨励しつつあり。
六、大衆に対する教育
1 識字運動
無学文盲のものに対して識字教育を施し愛国抗日に導きつつありて教化工作を重要せる状態を窮知するに足る
2 戦地民衆学校
青壮年級教育の為各小学校に戦地民衆学校を付設し大衆の教化を図りつつあり。
七、教科書の編纂
共産党は抗戦時期に適合する各級教科書を編纂し特に抗日意識の涵養に努めつつあり。何れの教程を観るも日本の侵略を痛憤し国共合作を唱へ中国共産党の愛国的体〔ママ〕度を知らしむる如く意を用ひ晋察冀辺区政府を照会し又日支の経済力、国土の広さ並第三国関係を比較して説き長期抗戦の必勝を高唱せり。
特に少年に対する教科内容は民族意識を刺戟して寸鉄●●に徹するものあり。

第三 北支民衆の抗日意識と親日意識
一、前述の如き敵就中共産党側の教化工作と其の巧妙なる宣伝とは北支民衆の抗日意識に如何に影響せるやを考察するに其結論は「楽観を許さず」と断ぜざるを得ず。
昨年十月乃至十一月の六旬に亘る支那民衆の差出せる普通郵便物検閲の統計的結果左の如し。
総検閲件数(日支合計) 三〇、九六三、〇五〇通
抗日的内容もの〔ママ〕(支のみ)二、四六三通
親日的内容のもの(支のみ)三一六通
其他(日支)爾余
即ち支那民衆の普通郵便物中抗日的内容のものは親日的内容のものに比し約八倍に相当す。
而して親日的内容のものは概ね「日本軍は想った程強姦掠奪せず」「日本軍の御蔭にて安居楽業しあり」等のものなりとす。

三、抗日的郵便物の内容(別冊 参照)
支那民衆の手紙に表現せられたる抗日意識を仔細に点検するに愛国的熱情を盛れるもの決して尠しとせず、
出征兵士を激励する父母、兄弟姉妹朋友等の態度は皇国に於けるものと類似せるものあり。
是等手紙は皇軍の直接占拠せざる地域より発せらるると共に皇軍が直接警備せる都市、鉄道沿線よりも亦発せらるもの少からざるの事実に鑑るに民衆獲得の容易の業にあらざるを認む。

第四、結論
共産党側の教化工作と宣伝工作とは熱烈にして巧妙且組織的なり。北支民衆は依然彼等に獲得せられつつあり。
皇軍の文教思想工作、宣伝工作並に民衆組織の運動は今後愈々大規模、統合的、且熱烈に展開せられざるべからず。

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方参特報綴 昭和14年1月

(四)共産軍の活動状況及び国共関係
(1)第八路軍新編第四軍の活動
共産第八路軍及第八路軍系遊撃隊の活動は晋察冀を中心とせしが其の組織益々巧妙拡大し山東方面は共産軍の進入なかりし所十三年秋季以来逐次頭角を顕し最近第八路軍系の遊撃支隊の活動及政治工作は諸所に現出し又中支方面にある共産新編第四軍は河南、安徽、江蘇方面へ逐次その勢力を北上せしめつゝありて治安の天癌を成形しあり
 
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 方参特報綴 昭和14年1月

「軍事極秘」印
昭和十四年十二月一日 北支那方面軍司令部参謀部
情報主任者会同席上に於ける 方面軍参謀長口演要旨

聖戦既に二週〔ママ〕年半数旬を出でずして改暦を迎へんとするに方り情報主任者を会同し過去に於ける情報勤務の実績を顧み今後嚮ふべき路を検討するは誠に意義深きものあり。特に今や世界の情勢は急転し又近く極東に新事態の展開を予期せらるるに方り情報勤務者の耳目は愈々尖鋭に諸事象に対する判断は益々正鵠を得るの要切なるものあるに於てお〔ママ〕や。我占拠地域内に於ける治安の状況は各兵団の絶大なる努力に依り逐次向上の途を辿りつつあり。殊に最近に於ける世界情勢の変転、汪政権樹立工作の進捗等に伴ひ敵側軍、政、党等各部面の抗戦力に漸次動揺の色を認めむるは誠に同慶の至りなり。然れ共現情勢を更に一歩深く観察する時敵側の抗戦力が益々潜行且執拗化しつつあるは又蔽ふべからざる事実なりとす。即ち地方武力を中心とし政治と民衆とを基調とする抗戦組織就中共産党、軍を背景とする民衆の抗戦組織は益々其潜行的地下活動を拡大強化しつつありて今尚拒日的心理を胸底に包蔵する北支民衆を駆りて益々抗日に邁進せしめつつある状況なり。而して現段階に於ける治安粛正の根本義は右に述べたる軍、政、党、民の有機的結合の上に立脚する抗戦組織の打破に存するは諸官の既に深く認識せらるる所たり。・・・


「軍事極秘」印
昭和十四年十二月一日 北支那方面軍司令部参謀部
情報主任者会同席上に於ける 第二課長口演要旨

第三 共産軍の状況
一、北支に於ける共産軍の配置別紙要図の如し
二、共産軍の西方移動の状況
(略)
三、山西、河北、山東方面共産軍、共産勢力の動向
前項に述べし如く仮令今後共産軍の西移行行はるるも山西、河北、山東等に於ける共産勢力は断じて退却するものに非ずして益々潜行拡大せられんとするは最近における之等方面の情勢を見るも明瞭なり。即ち山西、河北方面の共産軍は従来我が後方攪乱及び実力の消耗並に牽制を目的とし機に乗じて遊撃を行ふを以て足れりとせしも其の最近受けたる新市名は大規模積極的にして従来を趣を異にし其の●態的任務概ね左記の如しと称しあり。
(略)
等にして最近の情報に依れば共産勢力は殆ど全地域に浸透しありて実(?)に北京周辺たる●●、黄村県下各村の民衆の間に迄組織的に侵入しあるものの如く又山東方面に於ても共産勢力の浸潤は益々熾盛を加へんとしつつあり。・・・
又一方民心の把握に努力し民衆を抗日的に組織し地方自治組織を共産化し国民政府系地方行政機構を●食し更に甚だしきは国民政府系軍隊内に至る迄魔手を延しつつありて従来屡々述べられたる如く北支に於ける治安粛清に対し最も頑強なる敵たらんとしつつあり。之に対する情報蒐集の強化、対共産勢力芟除工策の確立は正に刻下の急務たらずんばあらず。

第四、西北支那最近の状況
一、要旨
西北支那の赤色化に関しては従来深甚なる注意を以て各種資料の収集に努むると共に西北赤化防止の為本春以来各種謀略的措置を講じある処なるも最近に於ける諸情報は今は西北「ソビエット」特別区の設定は着々として進行しつつありて今後に於ける我対抗勢力として之が解消撲滅を図るべき重大対象たらんとしつつあり。
即従来屡々唱道せし西北の共産党西南の国民党及新政権の三勢力鼎立の趨勢は今は対支時局解決の命題として如実に吾人の眼前に提供せられたり。
特に蘇連の支援を背景とする西北共産地区は仮令英仏支援の西南重慶政権没落を見る時と雖も将来永く抗日の原動勢力として残るべく之と直接境を接する我方面軍として今後之が解消撲滅の為には万般の用意と努力を要すべきものなり。

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北支那方面軍情報主任者 会同関係史料 昭和14年12月1日

第一四、八路軍戦闘に於て我が警備隊(今次作戦警備を交代せる坂井大隊)の得たる参考資料

一、南関鎮に於て交戦せる敵は第一二九師第三八五旅第七六九団独立第一団及独立第二団にして南関鎮警備隊の「トーチカ」の数米前迄近接し来り「馬鹿野郎」と呼び手榴弾を投擲し其の位置を動かざりしが如き勇敢なる敵兵多数を見たり(坂)
二、南関鎮警備隊に於ては風向を利用し「あか筒」を使用せしに其の風下に在る敵部隊は終日近接せざりし事実より見て瓦斯に対する装備訓練は充分ならざるものと察せらる(坂) 
三、夏店鎮地区に於て今富隊と交戦せる敵は第一二九師に属する新編第三八団(青年抗敵決死隊)にして一ヶ排に「チェッコ」軽機若くは自動小銃一、一連に重機一、小銃は各人一、手榴弾は各人二―三個を携帯しあり弾薬は比較的豊富なりしも捕虜の言に依れば編入後間もなき兵員及年少者多数を含みありと云ふ(坂)
四、我が鉄道道路通信線を破壊するに当りては穏〔ママ〕密と強行との二方法を採用しあり
即ち兵力大なるときは破壊点の両側にある我が警備隊を攻撃し其の出撃を阻止したる後予め連行せる多数の苦力を使用し破壊を強行す
穏密破壊は夜間暗黒の夜を利用し我が警備隊より遠く離隔せる個所を選定す
而して月明時は之を避け暗黒の夜を選定し其の実施時刻は前半夜二十三時前後、後半夜一―二時頃及夜明ヶ二時間位前の三時機最も多し
五、敵の夜間行動は迅速静粛にして引上時の如きは照明弾又は喇叭の吹奏等に依り一斉に行ふを常とす
六、敵の退却時の戦法は数組の「チェッコ」軽機自動小銃等を有する収用部隊をして交互に要点を占領せしめ主力の退却を掩護するを其の慣用戦法とす
而して主力と常に四、五百米の距離を有し其の距離を保持する為には我が猛攻撃に対しても容易に退かず
七、 兵力の偽〔ママ〕瞞と我に目標を捕捉せしめざる為絶へず移動し射撃し居りたるを随所に於て目撃せり
八、警備に当るべき部隊特に小分駐隊の如きに対しては努めて重火器(押収迫撃砲重機の如き)を配当することの緊要性を痛感す之小分駐隊に於ては兵力小なるを以て出撃人員を出来得る限り多からしむる為には残置すべき火器を必要ろするを以てなり(坂)
九、警備に当るべき部隊は敵の潜行諸工作に対抗し之を撃破する機関を必要とす
近来共産軍は軍隊を以て直接工作を避け政治的手段に依り其の勢力圏の拡大を図らんとしつつあり故に警備隊は単に支那側の機関を利用するのみならず自ら敵の諸工作に対抗し之を撃破する如き機関を持つこと必要なり特に諜報網宣伝謀略網方面に於て然り(坂)
一〇、我が部隊が笠原及青砥部隊より其の警備を申受け極めて広大なる地域の警備を担任するに当り各警備隊の兵力に適応する如く急速に変更せしむると共に諸工事を一層増強せしめたり 今回有〔ママ〕勢なる敵との交戦に際し勇敢に戦闘し得たる一因なり(坂)
一一、特務兵を多数有する部隊等に於ては動もすれば弾薬の乱射に陥り威嚇の為盲射を為す悪習あり
一二、常に兵器を整備し完全なる兵器を以て戦闘し得る如く点検し置くこと肝要なり
重擲弾筒に付一例を述ぶれば外鏍の緊定不充分なりし為戦闘中外鏍外れ射撃不能に陥りたるものあり幸に紛失することなく柄棹内にありたるを以て直に結合し射撃を継続するを得たるも好機を逸したることあり
(以下略)

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春季晋南作戦の教訓 昭和15年6月

第四節 交戦せる敵の兵力、団体号、将帥の氏名編成装備素質戦法

其一、敵兵力団体号
一、大道付近の戦闘
   約三百名 八路軍〔細部不明〕
二、双峯鎮付近の戦闘
   三、〇〇〇余名(遺棄屍体及戦闘正面等より推算するときは尚多数なりしと判定するも第一線各隊の目撃せ●兵力を基礎として算定す)
八路軍一二九師三八六旅
八路軍新編第二師?

沁県遊撃決死隊三十六団 
山西決死隊及其の他の雑軍

三、岳家庄付近配属輜重隊の戦闘
   約三百名 八路軍〔細部不明〕
四、輝教付近
   一一〇〇余名 八路軍十旅二十八団
五、中北嶺
   一〇〇余名 所属不明

其二、編成装備
一、敵軍の編成装備付表第一の如し

其三、素質戦法
由来八路軍は中央直系軍に比し素質劣弱にして戦法も亦概して迫力に欠くるものありと判断せられありしも今次作戦必ずしも然らざるを知れり即ち
一、作戦開始の当初より有力なる敵は北峯上を中心とし其の北方広地域に陣地を占領し太谷おり范村鎮を経て儀城村に(?)通ずる我兵站線路襲撃の機会を窺ひありしものにして我鳴海永野両支隊が進攻作戦途中八月三十日、三十一日両日に亘り一撃を加へたる際は逐次抵抗の形式を以て決戦を避け其の主力を暴露することなく而も執拗に潜伏待機しありて九月四日糧秣補給の為め范村鎮より彭●庄に向ひ前進中なる山元輜重隊に対し奇襲し来たりしは其の遊撃戦の本旨を遺憾なく発揮せしものと謂ふべし
二、双峯鎮付近の戦闘の起因に就て考察するに前項の敵は(?)山元輜重隊襲撃後我反転作戦の重点が太谷、儀城村道以南地区に移行するのを推知し之を逃避すべく全力を挙げて南進中長野支隊主力と遭遇し退路打開の必要上並に支隊の兵力寡少なりし関係上茲に本格的戦闘を決意せしものと判断せらる。
三、双峯鎮付近に於て交戦せし敵は夜間多数の喇叭、呼笛等を用ひて前進後退突撃等を区所〔ママ〕し猛烈果敢に突撃を反覆せり。
四、敵は兵力の優勢に恃みて盛に包囲を実行するも其方法たるいや所謂「伸べ膏薬的にして迂回奇襲的に不意に現出するの着意に乏しきものゝ如し。
五、敵には督戦隊あるものゝ如し〔後方の銃声喊声喇叭小笛等に依りて判断す〕。
従って突撃部隊は所謂死物狂的に行動せるを見ることあり。

六、敵は突撃に当り手榴弾を投擲する者と銃剣を以て突撃する者と二ケ班に分け(?)あるものゝ如く投擲班は三四十米以内の近距離迄前進し携行せる手榴弾全部を連続的に投擲し突撃を支援し突撃班は手榴弾投擲を機として突撃を発起せり。
七、敵陣地に対しては白兵突撃にあらざれば成功困難なり。
我が突撃に対しては手榴弾を投擲して頑強に抵抗し該陣地奪取せられたる後と雖も手榴弾を投擲しつゝ執拗に逆襲を反覆せり
八、敵は退却に当り一部を残置して或は手榴弾を投じ或は盛に射撃を敢行して其の退却行動を偽騙すると共に之が収容に任ぜしむるを通常とす。
九、敵の戦死傷者兵器等は夜間或は我が射撃の間断等を利用し
努めて収容後送せり。
双峯鎮付近の戦闘に於て第一日たる九月六日非昼間我機関銃陣地の直前には無数の敵屍体ありしも翌朝に至り其大部は撤去しあるを見たり。
十、八路軍は目下弾薬相当欠乏しあるものゝ如く喧伝せられあるも依然火力戦を主体とし稍々濫射の傾向あるも一般に狙撃に長ず。
迫撃砲弾は補充豊富ならざるものゝ如く其の射撃熾盛ならず敵は特に夜間好んで小銃及機関銃射撃を実施す。
備考
捕虜の言に依れば新編第二師中には最近中央軍より改編せられたるもの多しと。

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歩兵第224連隊第2大隊 晋中第1期作戦戦闘詳報 昭和15年8月23日~昭和15年9月15日

三、彼我の兵力並に交戦せし敵の隊号装備素質戦法及び特発の効果

1、敵 第八路軍独立第一師約二千(第二十五団 第二団 第二十六団)
  我 編成表別紙付表其の一其の二其の三の如し
2、敵の装備は相当優秀にして第一線に進出せる敵兵には鉄帽を使用しあるものを相当数確認せり又極めて幼稚なるも防毒面様のものを所有しあり(遺棄死体より発見)
迫撃砲三 重機一 チェッコ十五、六を確認せり
手榴弾は極めて豊富に所有しあるも粗製乱造品多く約1/3は不発なり又炸薬極めて劣等にして破裂するもマッチ箱乃至一銭銅貨大に破裂し破片のため服破れ或は打撲を感じたる程度にして負傷せざりし兵多し 従来支那軍の使用しありし手榴弾より稍小型なり
3、素質又相当良好にして夜間は我が陣地に肉迫し手榴弾を投擲す昼間に於ける射撃の精度亦良好なり
4、戦法従来当警備隊を襲撃せる戦法を一変し暗夜を利用し各陣地に肉迫して手榴弾を投擲し一挙に陣地を奪取するの戦法を用ひたり又之に失敗するも執拗に肉迫攻撃を反復せり
昼間は我陣地周囲の高地に陣地を構築し狙撃し来れり又我占領せる以外の望楼は殆んど敵の陣地として使用せり

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独立混成第2旅団独歩第4大隊 第2中隊戦闘詳報 其の1 昭和15年9月22日~15年9月29日


極秘〔参考〕
民心の把握と我等の反省
北支極第二九〇〇部隊
乙第三五〇〇部隊複写

本資料は昭和十八年一月十六日実施したる連、大隊長教育の際に於ける「聖戦目的の体得具現」及「軍紀の確立」と同一趣旨なるも一般的兵に対する敷衍教育資料として配布す
昭和十八年二月
第一軍参謀長 花谷正

民心の把握と我等の反省
第五、民心把握上皇軍の著意すべき事項
七、民心把握と対敵行動との関係に就て
・・・然し直ちに勇敢にと謂ふことは、敵の兵力や状態の如何に拘らず、捜索も警戒もしないで猪突猛進せよといふことを意味することではない。特に八路軍の如き抗日意識極めて旺盛にして政治的思想的戦術に特技を有するのみならず、武力戦法に於ても相当見るべきものを持つ敵に対して然りと考ふるものである。八路軍の戦法を改めて詳しく申述べる必要はないが、要するに其の特徴とする所は、地上に於ける僅少なる武力の行使と、地下民衆工作とを併用し、同民族たる有利なる地位を利用し、巧妙なる宣伝、教化、懐柔と厳罰の威嚇とを以て地下に於ける民衆の獲得圏を逐次拡大し日本側の弱点を求めては獲得したる民衆と、地上武力とを集結使用して、日本軍又は華側の抗戦力を破碎することを努めて居る。要するに彼等の目標は抗日民心の把握であり、抗日人的資源の獲得に在る。武力戦の部面に於ても山岳其他不毛に近い地に根拠を持ち、困苦欠乏に堪へ、極めて困難なる環境に追ひ込まれても、反覆執拗に反抗し或は巧みに他の地域を開拓し止むを得ざるも耐忍持久戦機の到来を待つ、又よく創意工夫して相手の意表に出づること、機動力に富み命令一下よく集散離合すること、相手の弱点を看破して巧に之を突くこと、相手を誘致して之を包囲殲滅に導くこと、一兵に至るまで生命にかけても軍の秘密を厳守し口外せざること、厳重処断の励行によるとは言へ軍律が厳守せられて居ること等は我等の大に参考とするに足るものがある

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民心の把握と我等の反省

三、彼我の兵力敵組織名重要なる敵幹部の氏名敵の編成装備素質戦法(秘密戦法)等

(一)我軍の兵力
別紙第四編成表の如し

(二)敵の兵力組織名重要なる幹部の氏名
1、共産軍
晋察冀辺軍第十三軍分区第十一団

団長 不詳
兵力不詳
同 第十二団
団長 曽克林
兵力不詳
同 独立営
営長 楊思録
政治指導員 仲仁
兵力約四〇〇
同 第四区隊
区隊長 龍海航
政治委員 集(原文「隹」+「大」)樹平
兵力約三五〇
2、共産党機関
3、共産行政機関

(三)敵の編成
(四)敵の装備素質戦法(秘密戦)等
1、軍
第十一団、第十二団は冀東中共の基幹隊にして其の戦力認むべきものあり。各団は重機迫撃砲数門宛を具ふる直轄機砲連一ケ連あり機砲連の外各団独立営及第四区隊の各連は軽機及擲弾筒を有し小銃又は拳銃及手榴弾数発は全員に全備銃剣を有するものも多数あるものゝ如し。
兵員は強制徴募によらず遊撃地域内貧農階級の青年子弟が志願入隊せるもの多く概ね三ケ月間新兵訓練の課程を経戦闘員として各隊に属せしむ。排長班長級は軍分区教導隊の課程を経たるもの多し。幹部及隊内党組織の監察峻厳にして下級者は抗日宣伝及政治教育盲従し隊内秩律相当高度のものあり。各団及独立営は山地帯村落を根拠とし数ケ連毎に分散常時遊動し平地帯にては所在部落は交通遮断して情報封鎖を行ひつゝ機敏に移動しあり。敵の攻撃目標は中国側武装団体にあるものゝ如く綏靖軍、保安隊に対し各種大量の反正宣伝文の撒布送越部内に連絡する内応工作等表裏よりする反正政治工作及之と連繋する謀略的武力攻撃を執拗に行ひあり。又劣勢なる中国側部隊日軍小部隊に対しては埋伏掩撃等謀略的奇襲を加へんとするも有力部隊に対しては専ら交戦を避け我屡次の討伐作戦にもその大なる機動力を以て巧妙に包囲圏内より逸脱しあり。

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北支那特別警備隊第3警備大隊 第4中隊戦闘詳報 昭和18年9月20日~19年6月9日

支那方面作戦記録 第一巻
昭和二十一年十二月
第一復員局

本記録は参謀本部戦史編纂部職員元陸軍中佐石割平造の編纂なり。而して戦史資料の大部は同中佐の記憶及び備忘録に拠り其の他各作戦に参加せし参謀等の手記及記憶を併用せり。

支那方面作戦記録第一巻目次
第一章 支那事変推移の梗概
第二章 太平洋戦争前に於ける支那事変経過の概要
 第一節 事変勃発より武漢付近作戦迄
 第二節 武漢作戦後より太平洋戦争勃発迄
  第一款 武漢攻略後の作戦指導
  第二款 在支兵力の整備 
  第三款 主要なる作戦
  第四款 占拠地域に於ける新政府の成立

第三款 主要なる作戦
其の一 概説
敵は其の優勢なる兵力を以て我が占拠地域に対し其の全域を包囲して我に対峙す。其の配置は北支に在りては山西省西部に第二戦区、同省南方及河南省を第一戦区、中支に在りては西北部に第五戦区、西南方に第九戦区、揚子江下流地域の同江右岸地帯に第三戦区、南支に在りては第四戦区の諸軍を配置す。其の他共産第八路軍は陜西省延安付近に蟠踞す
我が占拠地を包囲する敵は我軍と近く対峙して数線の陣地を設備し我が占拠地に通ずる主要なる交通線は悉く徹底的に破壊してわが軍の進攻阻止に努む。別に大規模にして組織ある遊撃部隊を我が占拠地域に進入せしめて後方攪乱を図れり。又尨大なる募兵及之が整訓を実施して大兵力を以て日本軍に対し大反攻を実施すべく其の機を窺ひつつあり。
右敵の行ふ我に対する対策中遊撃戦は兵力寡少の我軍の最も苦手とする所なり。殊に共産軍は其の行動巧妙にして山西省及び北平西北部等の山岳地帯に根拠を推進して我が治安を攪乱しありしが三六(?)我が占領全地域に亘り策動するに至れり。敵の行ふ攪乱工作の主なるものは我が分散配置せる警備隊に対する奇襲、交通線たる鉄道道路通信線の破壊、共産工作を推進、住民を我より離間せんとする宣伝等とす。
敵の遊撃戦に対し我が兵力配備の要領は敵有力部隊の攻撃を受けざる後方地区に於ては兵力を分散配置して民匪を分離し治安の確立に努めたるも有力なる敵と対峙する方面即ち山西省、武漢地区等に於ては各兵団は其の第一線を確保すると共に背後連絡線たる道路水路等を確保するため其の兵力の大部を使用し之を大観して所謂点と線とを確保するの状態なりき
我軍は武漢作戦以後大なる進攻作戦を行はず結局に於て持久態勢のまま敵を屈せしめんとする作戦に終始せり。其の作戦を分類せば左の如く区分し得べし。
一、北支及揚子江下流地域にては我が治安を攪乱する敵を掃討する作戦行はる。特に山西省に於ては共産軍、中央軍等の数箇師又は数軍山岳地帯に割拠し之が討伐は屡々大規模にして実施せられたり。
二、武漢地区に在りては敵の戦力撃摧を主なる任務とせるを以て敵の戦力充実に先だち敵を攻撃して原駐地に帰還する作戦最も多し。
三、南支及中支沿岸に於ては主として敵の海外補給路遮断の為の作戦行はれ遂に仏領印度支那に迄進駐するに至れり。
四、敵総反攻に対する作戦。

其の二 治安確保すべき地域内の掃討作戦
治安粛清を確保すべき北支及び中支揚子江下流地域内にては敵は我が兵力の配置しあらざる地域に蟠踞して之を根拠として我が占拠地内の攪乱を図れり。之が討伐は師団以下の兵力を以て実施せるもの其の数枚挙に遑あらず。故に此の種作戦中最も顕著なるもの若干を掲ぐるに止む。

一、山西省内の掃討作戦
一九三七年十月山西省北部を翌一九三八年二月及三月に亘り其の南部地域の作戦を実施し主要なる鉄道沿線及潞安付近の敵は之を駆逐せしも其の際敵の大部省内山地に遁入し此等の敵は各所に割拠して其の得意とする遊撃戦を展開せり。殊に徐州会戦の際山西省方面より我兵力を抽出せるが為我が第一軍は各所に於て敵に圧迫包囲せられて苦境に陥りたるも徐州会戦後兵力増加に伴ひ主要幹線付近は我が領有する所となりしも五台山及潞安付近は共産軍等の巣窟となり依然治安を攪乱しつつあり。

一、五台作戦(挿図第三参照)
山西省を防衛せる我が第一軍は先づ五台山付近の共産軍を撃滅せんとし一九三九年五月五台山の敵を四周より攻撃して之を駆逐し次で五台山の西方東方及南方に対し前後四次に亘り敵を攻撃せるも敵は巧に姿を匿して之に何等の打撃を与ふること能はず。即ち討伐は単に地点を攻略するのみでは効果を挙ぐるに足らず一家屋一谷地をも虱つぶしに抉出するにあらざれば討伐の目的を達し能はざるを常とす。軍は五台山に一部の兵力を駐屯せしむ。
(以下略)
(以上五台、潞安、晋南、晋中作戦の資料は戦時中参謀本部史実調査部付立花種勝大尉の「主要作戦の概要」なる手記より採る)

アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコード
C11110752100
C11110752200
C11110753200
支那方面作戦記録 第1巻 昭和21年12月調

日本軍に対し、山西省では中国共産党の軍隊・八路軍が山などの地形を巧みに利用したゲリラ戦を展開。宣伝工作によって住民を次々と味方につけていた。
日本軍が確保できたのは、資源を運ぶ鉄道と拠点となる町や村だけだった。限られた兵力で広大な地域を支配するため、日本軍は部隊を少人数に分散させ「分遣隊」として配置した。こうした分遣隊は、わずか十数人で8キロ四方を受け持つ場合もあった。

  大同の石仏で名高い山西省の山の中で、日本軍は八路軍(注1)と対峙していた。長期持久戦であるから、食糧も衣料も自給自足しなければならない。日本軍はともかく戦線の背後に鉄道を持っていたが、相手方の背後には、陜西省の山岳地帯と万里の長城がひかえているだけである。そんなところで持久戦を遂行することは日本軍としては、ひじょうに困難で、もし敵味方ところを変えてみたらどういうことになったか分からないような情況であった。というのは、八路軍の陣地線はえんえんとつらなる、まったくの岩山であったからだ。そこに、かれらは土を運んできては盛った。そして種をまいた。この変化の模様は空中写真でよく分かった。わたくしがその戦線をおとずれたとき、第一線の司令官もこれには舌を巻いてその写真を見せてくれた。
  また、かれらの対民衆、ことに対婦人軍紀はおどろくほど厳粛であった。ある北支軍の参謀は「八路軍の兵士は男性としての機能が日本人とすこしちがうのではなかろうか。」とさえ語った。読者はこれを笑い話とお考えになるかもしれないが、当時としては、けっして笑い話どころのさわぎではないのであって、これを裏がえせば、とりもなおさずわれわれの軍自体に対する痛烈な批判にほかならなかったのである。これはたんに精力とかイデオロギーの問題だけでなく、罰則の軽重ということに重要な原因があったとわたくしは思う。しかしいろいろの例から見て、たんに罰則だけで人間の集団の行動を律することは一時的にはできるが、長つづきはしない。長つづきさせるためには、なんとしても心理的なエネルギーを燃え立たせなければならない。日本軍の非聖戦的行動が中国人の敵愾心を高めたことは疑う余地もない。しかし、わたくしにはそれだけですべての問題を解くことはできなかった。そこにのこったのは、八路軍独特の情熱の根源の問題であった。こうした大きな疑問をもったままで、わたくしは終戦を迎えたのである。
(三笠宮崇仁「帝王と墓と民衆 オリエントのあけぼの 付わが思い出の記」p183,184)

大阪毎日新聞 1942.7.4-1942.7.9(昭和17)
大東亜戦争下の支那 現地報告 (1~6)
大本営陸軍報道部派遣(東日政治部) 栗原広美

治安の癌は赤匪
北支軍が一大造攻作戦を敢行せんとした場合、その直接前面に配備された蒋系軍の総兵力(占領地内をも含めて)は百二十ケ師、約七十万である、この数字は全大陸における重慶軍の三百万に比し相当な大兵力であるが、何等積極的な意図を持たず皇軍の造攻作戦に戦々兢々として一応わが前面に対峙しているに過ぎない、従って北支における蒋系軍は当面さして問題とするに当らない、然るに共産党軍に眼を転ずれば事態は一変する 
全支の共産軍は正規軍二十五万と称され、その八、九割が北支に蠢動している、ここで注意すべきは正規軍の一人は大体において単なる一人であるが、共産軍は全然ちがう、彼等は巧妙に民衆武装組織を確立しているためその戦力は正規軍数の二倍、三倍となって発揮されて来るのである 
しかしながら共産軍の遊撃戦、特務戦は民衆の全面的な協力を前提条件とするためにその対民衆工作は□□□□□□□□□□□□□すれば民衆の婦女子の一人に至るまで戦争遂行の一単位だともいえるであろう、従って北支における対共産党・軍戦争は一種の民族戦争的色彩を帯び現代の最も高度化せる戦争形態を備えている点、わが作戦軍のなみなみならぬ苦心が費されねばならぬのである、現在この共産党・軍を相手に第一線部隊長として活躍している大平秀雄氏(前大本営陸軍報道部長)はわれわれですら東京に在った当時を省みれば、共産軍の実体について認識の欠けていたことを痛感する、現地に来て遊撃戦なるものの正体に接しその始末の悪さにびっくりしている有様だと述懐しているほどである 
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00479702&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

大阪朝日新聞 1941.1.14-1941.1.16(昭和16)
最近の北支中国共産軍 (上・中・下)

(上) 目指すは支那赤化 今や重慶を脅かす大勢力
北支における抗日勢力は中国共産軍および共産党に独占され、陝、甘、寧西北辺地から戦区一帯にかけて支那北半はほとんど重慶の求心力から離れてしまった、隴海線以北は蒋軍の影寥々、しかも日一日と衰退の運命をたどっている、中共がいわゆる「二万五千里大長征」ののち陝北地区に根をすえたのは一九三五年でこの時からわずかの間になんという大飛躍であろう 
[写真(周恩来)あり 省略] 
[写真(朱徳)あり 省略] 
西安事変につぐ支那事変を機として抗日戦線統一、国共合作を口実にまんまと蒋政権を出し抜いて、多年垂涎の平地進出に成功してしまったのであった、今まで山地辺境のみをさまよい歩いた中共は、も早や単なる辺境の田舎武士ではなく、今や重慶を脅かす大勢力となり、北支西北支那にまたがる一大勢力圏を確立してしまった、殊に北支においては中央軍を根こそぎして隴海線以南に追っ払い、中支の新四軍と連絡をとり今となっては重慶政権の力ではどうすることもできない、かつて蒋介石が再三討伐軍を起し、陝西省地区に大軍を進めたが、当時はまだ陝北、ソウェート区と自称して細細と建設途上にあった程度だったに拘らず遂に打倒し尽せず、西安事件であべこべに屈服させられてしまった、いまや中共勢力はその当時の何百倍にも拡大強化されてしまった、しかも蒋政権の力はかつての「中央政府」の力に対して今日においては没落に瀕する敗戦地方政権に転落してしまい、も早や西北、北支の赤化は蒋にとってただ手を拱いて眺めているより仕方がない、いやそれどころか将来自らの位置を土台からひっくりかえされることを警戒しなくてはならない時になってしまったのだ 
 国共合作は自己の勢力を増大してゆくためだけの方便で、あわよくば政権とり戦術の前提ともなる、分裂しても現在獲得している勢力をいささかも失うことなく、時来れば蒋軍との一戦をも辞さない自信を持ち得る域に達している「抗日」は今日の中共の表面の指導原理となっているが、目指すところはあくまで支那赤化であり、政権獲得であって「抗日」はその方便に過ぎない、その証拠にあれほど声を大にして「到底抗戦」を叫びつつも、中共自身の今までの動きはあくまで兵力消耗を逃れる工夫に終始して皇軍との衝突を巧みに避け、皇軍来れば山奥にかくれるという戦法をとって来たことに見ても明瞭である 
本年七月四川奥地で開かれた重慶側七中全会において周恩来など中共側代表は重慶政権側に猛烈に食い下り、ついに北支における中共の自由な活動権を認めさせたが、これは今さら業々しい国共問題調整弁法などと掲げるまでもなくすでに動かすことのできぬ現実の事実に即して今まで北支全部を第一戦区と指定して蒋直系の衛立煌を総司令に任命していたのを正式に取消したというにとどまる、同調整弁法は左の如く九ヶ条から成っている 

一、重慶側は北支における中共の党、政、軍の三部機構の自由活動権を容認する 
二、黄河以南においては共産軍の自由活動を許さず 
三、共産軍に対し山西省、察哈爾、山東、陝西方面の独立駐屯権を認める 
四、中共領導下の新四軍を黄河以北に移駐 
五、陝西省西安以北における中央の軍政機構は西安以南に撤退する 
六、共産軍は中央軍に対しての武器、弾薬、糧食の補給を途中において絶対に抑留または押収せず 
七、中共は北支各地において銀行を設立することを得 
八、中共は中央の軍政、経済、外交に意見を開陳し得るも干渉を行わず 
九、中共は中央部内において赤化工作をなすことを得ず 

以上いずれも中共の大進出を意味しているが、それは要するに現実の事態の前に蒋政権側が押し詰められた結果である、中共としていまさらありがたがって狂喜しているのではない 

北支における共産党は山西省東南部の山中に潜む朱徳を総司令として全北支に網をひろげているがその勢力はつぎのごとくである 

[図表あり 省略] 

その総兵力は基本部隊となっている共産正規軍が約三十万、その他の共産系自衛軍を合すると百万を突破すると称せられている、もともと紅軍(第八路軍の前身)が支那事変を契機として蒋介石から第八路軍の名称を授けられた際、一一五師、一二〇師、一二九師も同時に師の名称を与えられて中央軍とともに抗日正規軍に編入された、その後中共軍はぐんぐん増大していったが、蒋介石は最初抗日軍の拡大をよろこびつつも、中共軍の勢力増大は結局中央軍の悩みの種になることを恐れて、右の三師以上には新しく中共軍に師を増すことを避け、中共軍側も初めのうちはこの点に対して不満を抱いていたが、名よりも実をとれという方針に進んで、右の三師を基準としてどんどん新しい部隊を整備していた 
 第一一五師からは冀中地区に進出した呂正操、山東挺進隊の徐向前が分れ、第一二〇師からは晋察冀辺区の聶栄臻、熱河挺進隊の宋士倫が分れ、第一二九師から冀南の宋仁窮が分れ、それそれゆくさきさきで自衛共産軍を編成訓練して地盤を作り上げるとまた分れて新しい地盤開拓の挺進隊が出発し、東へ東へ…中央軍を追い払いつつついに黄海海岸に到達してしまった 

北支に残存する中央軍はこれら中共軍に押されてわずかに隅っこでうごめいているに過ぎない、山東の于学忠軍、隴海線北方省境にあった石友三軍、山西省西南隅の閻錫山軍、山西省東南部に頭だけ出した第一戦区司令衛立煌軍、蒙彊五原地区の傅作義軍、その他オルドス地帯の馬鴻逵、馬鴻賓の回教軍程度に過ぎない、しかも閻錫山軍からは中央軍に寝返り打つもの続出し回教軍も中堅軍を中共系に食いつぶされ、衛立煌、傅作義の両軍を除けば中共軍に乗っとられるのは時期の問題となってしまった、山西の国共相剋戦も最近やや下火にはなったが、この間閻錫山の失った兵力は非常なものであった 

灰色の木綿服、真紅の旗、白地に藍色で「民族英雄」と染めた腕章を巻いて山猿のような眼を尖らした野性の一群が、革命歌を高唱しつつ長城線を東へ進んでゆく、支那事変勃発とともに蒋介石から第八路軍の名称を与えられ、きのうまでの蒋の敵は、すでに抗日英雄軍となって、防戦の第一線に勇奮して進軍した 
 山西北部から察恰爾へ、わが蒙彊作戦軍および太原攻略軍の進路を阻もうとその意気は凄かった、中共軍がはじめて皇軍の強さを知ったのは山西北方長城線勾注山の戦だった、中共軍の戦意も皇軍の前には敵ではなかった、敗退につぐ敗退、しかし中共軍の名は全支那に英雄として讚えられはじめた、エドガー・スノー、アグネス・メドレーらが従軍してその戦闘記録を紹介し、中共は俄然事変とともに抗日英雄的仔在として頭を擡げた、皇軍に蹴散らされてもかれらは南に下ろうとせず、附近の山奥に潜んで野性の動物の如く執拗な遊撃戦に入った 
 
(中) 巧妙な地盤獲得策 恐るべき民衆への浸透力
第二期は山西省内の地盤確立工作時代である、朱徳は初め山西省東南部●安地区に根拠を置いて着々と山西省内地盤の確立に当った、閻錫山は太原を逃れて西南方に去ったが戦意はぐんぐん衰え、さらに中共軍に食われてゆく、中共は陝西省の本拠と巧に連絡をとり、じわじわ皇軍の目をかすめては険岨な山奥伝いに山西省内に入りこみ、特に西北部奇風、静楽附近、東北部五台山附近、さらに東に進んで河北、山西、察哈爾三省境にまたがる晋察冀地区には辺区政府を樹立した(一九三八年一月)かくて山西省の共産軍は次のごとき配置を布くに至った 

一、山西北部および西部、五台山東北部、河北西部省境附近から陝西北部綏徳にいたる山西北部には賀竜の一二〇師―三九八、三五九両旅(約二万五千)冀西区から忻県西北まで移動し晋察冀辺区軍の一部一一五師、一二九師の一部を加えている 
二、山西省東部および東南部、九竜関以南の山西、河北、河南三省境から武郷、楡社附近にわたる晋東地区には朱徳直轄部隊の劉伯誠の一二五師―三八五、三八六両旅、その南方には林彪の一一五師、三四四旅など(総兵力約三万) 
三、陝西省方面、北部陝西省内には蕭勁光の二万と綏遠方面には一二〇師、三五九旅のうち王震を主とする一部 

第三期は北支平原進出時代である、山西省内の地盤を確保し、晋察冀辺区政府を樹立した中共は雪崩の如く平原に流れ出て来た、大体武漢戦後のことである 
 当時河北にぐずついていた中央系軍は京漢線を中心に石友三軍鹿鍾麟軍、津浦線附近は于学忠軍その他沈鴻烈軍などがうろついていた、すべて皇軍に叩かれつくして疲労困憊、すでに中共軍の敵ではなかった、中共は最初山西における戦闘以来、自らの力を養うためにできる限り皇軍との衝突を避け、ひたすら兵員と武器弾薬の増大拡充につとめ、皇軍の影を見てさえ直に山奥深くかくれてしまうのを事としていた、疲れ切った北支中央軍と力を貯えた中共軍の勝敗の数はすでに明らかである 
晋察冀辺区からは冀中地区および察哈爾南方へ、山西省東南部からは冀南地区(隴海線北部)からさらに山東へ瞬く間に中央系残敵を追っ払ってしまった、中共の戦術はまんまと功を奏したのだ、中央軍の自滅を待ち、自ちの力をあまり多くは犠牲にせずに大きな獲物をわがものとしたのである 

第四期は全北支中共勢力統一時代というべきであろう、ひたすら力の増大拡充を計り、地盤を獲得した中共は今年の夏を期してついに長らく垂涎せる豊かな平地を獲てどっかと不動の位置におさまった抗日を叫びつつも皇軍との衝突を避けていた共産軍は今や時来れりとばかりに雀躍していよいよその本領を発揮しようと意気込み始めた、これが今日の状況である 

昨年八月太原、石門を結ぶ正太線全線にわたって大規模な鉄道破壊を行い、鉄橋を壊し、線路をはずし、井●炭砿を襲撃し、一夜のうちに太原、石門間の連絡を絶ってしまった、中共の八月攻勢である、朱徳はさらに蒋介石に対して「中共軍の果敢な攻勢を見よ、蒋盛介石は直に全軍に命じてこの第八路軍の英雄的抗日戦に応じて全面的攻勢に出づべし、特に北支の全戦線を進めて中共軍の攻勢に援助すべし」と要求し、大目得を切った、この正太線破壊は明らかに朱徳の命令によったもので、今までのような蒋介石の命令が軍に最前線の一部の部隊のみの見せかけ攻勢に終ってしまったのと全然性質が違い、中共軍自力による攻勢として注目すべき事件であった、この事件は直に皇軍の果敢な討伐によって多数の損害を中共に与え、破壊箇所の修築も間もなく完了したことはいうまでもないが、この事件は中共の実力がある程度の高さに達した証拠として北支治安上大きな問題を提起したわけである 

昨年十一月十日を期して開始された北部大行山脈作戦はいうまでもなく晋察冀辺区軍討伐戦であり、北支中共統一戦線を覆す中央突破作戦であった、峨々重畳の山地の奥深く阜平を中心に聶栄臻を総司令とする第一分区司令揚成武、第三区司令康英勝、第四分区司令能伯濤の指揮する約二万は地方農民青年子女を赤化して辺区銀行出張所、辺区貿易総局、兵器製造所合作社などを設け、自給自足の一区域を建設し、晋冀辺区政府、冀察予辺区党委員会、冀魯辺区党委員会などの各辺区政府とともに北中支共産軍勢力拡大の大きな地盤である、これらの各地中共根拠地がどう拡大するか晋察冀辺区と同じ運命に遭って潰滅してゆくか、北支の治安は一にかかってこれらの今後の動きにかかっているというべきである辺区政府は一挙にソウェートを建設するよりも中国民族の伝統と習慣を重んじて中国人の親しみを求める方向を採用している 
 二ヶ月に一回辺区全軍代表者および地方民衆代表の辺区会議を開いて最高審議案を審議し、各村に救亡室(民族革命室)を設けて民衆政治の実現を計り、財政経済、文化、娯楽、訴訟、識字(教育)壁報(新聞)などの各組に分れ民衆文化の啓発、参政能力を高めている、完全な航日第一主義で政府収入はほとんどを遊撃戦費に充てて、官吏の俸給は最高一ヶ月十八元しか支給しない 
一九三八年二月から七月までの支出は四百万円、これに対して収入は八十万円で三百二十万円の赤字は救国公債によって賄った、辺区銀行は資本金二百万円(一九三八年三月二日設立)鈔票(紙幣)を発行して法幣、連銀券は「外貨」として中央軍地盤はむろんのことわが戦領地域内にも巧に潜入して物資買付けをやっている、時にはその当時のその他の物価の二倍、三倍を出して買うこともあり経済攪乱工作に使用している、しかも連銀券対法幣のバランス(皇軍非占領地区における)によって鈔票で法幣を回収して外貨を集める方法なども講じている、無論民衆には法幣、連銀券の使用を厳禁していることはいうまでもない、農村対策としては 

一、墾荒条例を発布して自由開墾の許可、戦時中の地租納入の撤廃、不労地主の発言不許可 
二、失業者、難民に土地を与える 
三、農具、種子を分け、前線兵の家族は農家指導者の代耕隊によって食ってゆける 
四、小作領、金利を減らして融資を行い、小作料は二割五分、利息は年利一分以下とする五、商品農産物を減少して食用農産物を奨励 
六、各種の施設を増す 

以上のような対策を基本としたが中共戦術として決して共産主義という言葉を表面に出さず、ただ制度を実施して、民衆の歓迎を受けつつ、遊撃戦力を蓄えて自由を達しているのである(つづく) 

(下) 皇軍を真似て訓練 何時まで続く英雄主義の夢
最近見知らぬ男が部落に入りこんで来たぞ、何だろうと部落民の間で問題になるころはすでに中共党員の地下工作が進められている時である 
 どこから潜り込んでくるのか、放浪の農村青年姿で次から次へと中共未開拓の土地にもいりこんでゆく、その部落の貧農青年と時局を語り、蒋を罵り抗日に激してようやく青年たちから信望を集め出した時はすでにこの青年の工作はほぼ完成した時であろう 
報告によって中共軍が乗りこんで来て、直に青年たちが論じた結論通りの政策を強制的にクーデターで断行してしまう、貧農青年を中心とした極貧農民たちは中共軍を救世主のようにあがめ感謝する、若い連中にとって煙ったい穏健派や、中共のやり口を看破して疑いの目を向ける連中は地下工作員のブラックリストによって何時しか犠牲に供され、かくて中共は恐怖政治による荒療治の政策を徹底すると同時に、一瞬にして新しい時代を作り上げてしまう、しかもその政策はあくまで大多数の極貧階級を基礎とするものであるから、たちまち大多数民家の歓呼に包まれ、さらに党員が指導して新しい県政府、部落役所を作り上げてしまう、最近北支における中共の進出政策はほとんど全部この手を用いている 

指導者党員はどこから送られてくるのか、中枢分子は全部延安からはるばる山西山岳部の間道を縫ってもぐりこんでくる、延安の陝北大学はこれら政府樹立工作員養成所となり、二ヶ月修業で共産教育を施した青年をどんどん北支にばらまいているのだ 
 延安にある抗日軍政大学が中共軍幹部養成所であるのと並立して、陝北大学は政治方面を主とし、校長は成●吾、前上海事変後設立されて全支およびフィリッピン、安南、ハワイ方面からも入校するもの多く、一回毎に五百名乃至八百名を入校させ社会科学を主として理科、医学、工芸、建築その他の学課の基本的なものを課目として軍事集団化による教育方針をとっている教授はこんどの事変で逃げた北京燕京大学、清華大学、天津南開大学などの教授を中心にして第八路軍将校も教鞭をとり学生のうち女性が約五%入っている 
陝北大学とともに中共大学(校長毛沢東)も中共政治指導員の培養所である、この方は陝北大学よりも高級であり党最高幹部の養成に当って世界政治、レーニン主義、時事、中国革命、自衛軍組織、政治経済、軍事訓練などについて専攻的に高度の研究が行われている、これらの学校を出た若い連中が次から次へと潮の如く北支へ雪崩れこんで来るのである 

ソ連にならって軍隊および部落民の党員化工作は徹底している「われわれのやり方が気に入ったか」「気に入りました」「よし、では党に加入しろ」共産主義の講義をするでもなくソ連讚美をするのでもない、ただその政策の実際を見せて気に入ったものは党員とし、反対するものは射殺する…余りにも簡単な方法であるが、そこに中共政策徹底化の要諦があり、短期間内に広い範囲に拡がっていった秘密を解く鍵がある 

[写真(延安大学生の野外教授)あり 省略] 

中央軍を追っ払い、皇軍警備の網をくぐったと大袈裟にいいふらす中共軍、党の幹部の姿は英雄と仰がれ、若い心には必然的に英雄の仲間に入りたいという盲目的本能が燃え上る、とにかくも中共の指導によって極貧階級の生活は向上した、それが将来大きな禍痕をのこすか、目先だけのことか―そんなことを考える頭も暇もない、青年たもは半ば自発的にこの偽られた楽土擁護という英雄的興奮によって自衛軍組織に参加し、中共自衛部隊は鼠算式に増してゆく 
 まず精神をつかみ、つぎにその団結による武装化―厄介なことはこれら屯田兵となった中共区域はすべて便衣姿であって日ごろは武器をかくして野艮に働きいわゆる良民と中共党員との見分けがつき難いのである、しかも中共系自衛軍は戦力を蓄えるや遊撃隊となり、北支治安の攪乱を企てる、ソ連をまねて軍事行動の前後には各部隊が集ってそれそれ検討を行い、家の行動の参考とするという方法で団結心と感激をあうっている、しかし命令は絶対である、政治に関しても幹部の発言は一切であり、「違反は死刑」の鉄則はいささかの温かさもなく峻厳そのものである 
鎌とハンマーの交叉したソウェート旗を掲げ十四歳の少年が銃を担って前線に行く、中共遊撃隊は少年兵をも駆り出して純な魂を魅する英雄崇拝と抗日という悲壮感によって闘わせている、嘘をつかぬこと、絶対服従、規律を重んずること、質素を尚べなどわが皇軍精神をそのまま取ったような軍人精神を鼓吹し、最近目立ってその成果が現れて来た、この点についていかに努力しているかということは中共軍根拠地襲撃の跡に残された多くの文献によってもうかがえるが、こうした一人一人の兵については立派な戦闘精神を持ったものが多くなって来た、然し悲しいかな武器は貧弱であり、軍としての歴史が浅いため幹部の人材が欠乏していることはいうまでもない 

遊撃は現在における北支中共軍の全戦略である、積極攻撃に出る力が出来たと思い上っているけれどもその攻勢も遊撃攻勢の域を一歩も越してはいない 
 第八路軍(第十八集団軍)の指導のもとに、少年兵を混えた自衛軍がその先鋒隊となって、支隊を単位としている、支隊の人員は大体九百から千程度でたとえば平津支隊、黄河支隊、隴海支隊と称え、騎兵が配属されている、中共遊撃隊の狙う地点は冀察辺区周辺、北京近郊(特に北京南面)津浦線と京漢線の中間地区、天津附近、冀東地区などであり、東亜新秩序破壊が抗日戦略の主眼とされている、鉄道破壊、工場破壊、思想攪乱、経済(金融)攪乱などのいわゆる第五列も特設されて暗躍し、さらに熱河を経て満洲にも魔手を伸ばそうと企てている、互にこと言葉を通じ、威しによる民衆操縦も行い、さらに決死の挺進隊も良民に化け、たくみに治安地区内に潜入してすべてはスパイの役割を果している、スパイの通報によってすぐ遊撃隊は匿した武器をとり出して暗夜に乗じて警備手薄の地区を襲わんとする…北支治安は一刻の油断も出来ない 

しかし中共必ずしも恐るるに足りず、武器劣り、各地の中共軍需工場能力もいまだ活溌ならず、歴史浅く指導者も充実せず、民衆もまたいつまで中共の欺瞞の自由になりつづけるか疑問である、中共はいずこへゆくか、長らく山奥生活をつづけていたものが豊沃な平野にきたため起る急激な変化も起るであろう、ただ問題はたとい重慶政権倒れたとしても東亜新秩序の建設、東亜共栄圏の確立のためにはこの中共が重慶と絶縁して抗日を叫びつづける限り、長きにわたる戦いを覚悟せねばならないことである(完) 
データ作成:2015.4 神戸大学附属図書館

大阪朝日新聞 1942.6.29(昭和17)
農産三、四割増収 兵站基地の面目発揮
大東亜建設週報 北京、香港、バンコック各本社支局二十八日発

北支
華北一億民衆が大東亜戦争下兵站基地的役割を完遂するためには治安の確保と民生の安定が高度に実現せられねばならないこのため華北当局が重要問題として採り上げたのが治安強化運動と緊急物価対策の二つであった、事変勃発以来六ケ年、北支の治安は面目をまったく一新したとはいえ検察網をくぐっていまなお執拗に蠢動をつづけつつある中共の魔手はなお大きな癌となっていた、この癌を剔抉して真の明朗華北をつくるため昨年度から全華北にわたって治安強化運動が展開されること四度、今年度は第四次運動が去る三月十五日まで行われた、あらゆる困苦に打ち克ってしばしば実施された粛清討伐、政治工作隊の活躍と相俟って日華民衆動員の総力戦は共匪の活動を完封した、治安圏の拡大に伴い大東亜戦争の兵站基地としての重責を自覚する産業戦士はいまやその完璧の態勢をとって水田の開拓をはじめ新しい鑿井計画二十万のうちすでに六割を完成、技術員の巡回指導、諸施設の増加により農産物の三割乃至四割の増収は必然と目されるにいたった、各炭鉱、鉱山においては能率向上週間の設定、地域的特殊性に順応した工作が講ぜられ著しい増産が行われた、治安強化運動の成果としては 

一、日華基本条約に定められた共同防衛を華北が率先実行し貴重な経験とみるべき実績を挙げた 
一、郷村自衛力が著しく増強した 
一、道路、橋梁、通信網の開設および改修、囲壁塹壕の構築改修などが積極的に行われ各機関の綜合自衛力が一段と強化された 

ことなどが挙げられる 

大阪毎日新聞 1943.4.7(昭和18)
我が温き新政策の下北支"中央化"へ進展
特殊的役割は依然厳存

事変以来五ヶ年間北支は政治、経済、軍事、文化のあらゆる部面で中国内における一大特殊地域を構成し、その特殊性を強調して来た、これは支那事変の発展過程と臨時政府より華北政務委員会へと北支政権の発育を振返えるとき容易にうなづけるが、これにもまして北支の特殊性を裏附けたものは実に、鉄、石炭、棉花、塩などの世界に誇る国防資源の対日供与と、北支周辺を囲繞して執拗な策動を続ける五十余万の中国共産軍の存在であった、このため北支の特殊性は自他ともにこれを認め、あらゆる施策は戦争資源の開発増産と剿共に重点が傾注されたのである、

大阪朝日新聞 1942.6.16(昭和17)
重慶中枢の撃砕
要望される新大攻勢
冷静に認識せよ 雑草の如き敵抗戦力

上海と南京の目の先まで根をおろそうとする太々しい戦区経済の生態には北支の共産軍とはちがった執拗さがある、、さる二月重慶が決定した一部軍費の現地調弁に全く賛成したのは陳誠と顧祝同であったといわれる、第三戦区の地域や第九戦区の長沙附近には現地調弁のため兵隊が鋤鍬を取って耕すという屯田兵制度が出来ている 

大阪朝日新聞 1941.7.6(昭和16)
交戦敵兵力八十一万 軍事、経済に重慶急追
今年前半の大戦果
大本営発表

一、支那軍第一線総兵力 約二百九十個師、約百九十万、他に独立師、騎兵師あり 
一、各戦区兵力内訳【第一戦区】約三十五個師、約二十万【第二戦区】約二十五個師、約二十万【第三戦区】約三十個師、約二十万【第四戦区】約十二個師、約七万【第五戦区】約二十五個師約三十万【第六戦区】約三十五個師、約二十万【第七戦区】約十個師、約八万【第八戦区】約四十個師、約二十三万【第九戦区】約三十個師、約二十万 
一、占拠地区内の共産軍 北支方面約二十二万、中支方面約十万 
一、戦況図は主要なるもののみを示しこのほか多数の掃討粛清戦が全支各地で実施された=図中海岸線の矢印は封鎖および遮断作戦地点 

 それから十日後、東海地区の行本(ゆきもと)大隊の第四中隊に移りました。そこの古年兵は東北弁の人達でした。我々初年兵にも親切にしてくれましたので非常に嬉しかったです。警備が任務の部隊で、敵は新四軍といって共産八路軍に中でも精鋭部隊で、なかなか手強い敵といわれていま した。(p415・416)上原
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_413_1.pdf

 相手は山西省の親分といわれる閻錫山の軍隊と共産八路軍の両方でした。閻錫山は蔣介石と意見が合わず山西モンロー主義を唱え、中央軍とは相容れぬものがあったそうです。要注意は毛沢東の率いる共産八路軍で、農民を味方にし、なかなか手強い相手だと古年兵からよく言い聞かされました
 八路軍の新兵は山岳戦に強くなるように両足に砂袋をくくりつけて、急な山を登る訓練をさせられるものだから、実に山登りが得意で、山岳戦になると、さすがの日本軍も散々痛めつけられるのだと古年兵は教えてくれました。中条山脈は中隊のすぐそばに迫っており、そこが中共軍の巣になっているそうです。(p352)中野
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_350_1.pdf

 そのうちろ馬百頭、馬車五十車両に軍需品、食料等を運ぶ輸送部隊が編成されました。護衛の兵力は指揮官、兵約三十二人で川添兵長も行くことになりました。私はその輸送部隊の出発を見送り、朝食を済ませて一息ついて間も無く、突然銃声が轟きました。これでは輸送隊が攻撃されたということが即座に分かり、軽機に軽弾倉二段込め、後は弾薬手に任せ、現場に向って走り出しました。
 ここは山西省籍陽県の県庁所在地で、籍陽から六キロぐらいの地には渓谷があり、道路はこの谷底を通っており、襲撃の恐れのある危険な場所です。ここに待ち伏せしていた八路軍約二千人が二手に分かれ、稜線より一挙に襲いかかって来たのです。(p14)金子
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_009_1.pdf

 八月一日より将校当番となり、共産八路軍の討伐に参加しました。この地域は共産軍の他に土匪も多く暗躍しているため、討伐には何回となく出動しました。野戦地において野営の準備や夕食の準備が終わった時に、共産八路軍に包囲されて大戦闘になり、食事も取らずに戦争になったこともありました。敵の銃弾が私の胸に命中しましたが、奇跡的に軍服の胸ボタンが一個無くなっただけで怪我も無く、命拾いしたこともありました。(p407・408)高橋 https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_405_1.pdf

 捜索隊としての教育を受けましたが、その後捜索隊なるものは解散して、一期検閲終了後に大同無線通信教育隊平地泉通信所勤務を命ぜられ、各部隊との命令伝達等の任務に従事することとなりました。この付近には八路共産軍が出没し、度重なる戦闘が展開されていました。(p209・210)和田

 熱河省は毛沢東の率いる共産第八路軍の拠点で、我が部隊は交戦中のために、基礎教育を内地で学んでから渡満するのであった。(p271)酒井
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 石部隊の人達の話しでは、この地区は抗日意識の強い八路軍第一九団の根拠地で、岩山に穴を掘って潜伏し、ゲリラ専門の敵兵達です。百姓姿の農民が一変して兵隊になり日本兵を襲って来るので、気が緩められない毎日です。
(p182)
 八路軍は山に穴を掘りモグラ生活で、時々出没し日本軍を悩ませました。恐ろしいのは地雷源でした。至る所に埋められているので知らずに踏んで死亡した人や、負傷した人達もおり、用心しながらの出動の毎日です。地雷敷設は八路軍の得意な作戦のようで、河南作戦の時も地雷を踏んで負傷者がでました。
 山西省に春が訪れるのは五月も半ばでした。柳の芽が出るころになりますと、八路軍の活動も活発になりますので目が離せません。食料の確保も容易になりますので、方々で戦火を交えています。
 忘れ得ないのは十二月三十一日、上王村と東漢湖の分遣隊が中隊との中継連絡の帰途、八路軍の襲撃を受け、多数の戦死者が出ました。私の分遣隊員も九人が戦死し、分隊長と私達二人が残るという悲惨な激戦でした。(p182)
 昭和二十年五月五日、山東省防衛のため独立警備歩兵第六十大隊が編成され、私は第二中隊に編入になりました。・・・五月十五日より三十日まで、山東省諸城県付近の共産軍との戦闘にも出動し、戦果を上げました。
 六月二十一日より七月一日まで勃〔ママ〕海地区作戦にも出動し、共産軍に打撃を与えました。・・・
 河南作戦でも度々共産軍の襲撃や地雷による負傷者も多く出ました。(p183)森本

 昭和十九年五月に新しい初年兵が入隊して来ましたので、私は初年兵教育の助手に任命され上等兵に進級致しました。我々独立歩兵大隊は第一戦の作戦要員ですので、後方からの補給があまりないので、現地調達、自給自足という生活状態でした。北支派遣軍も南方や満州方面が手薄となったため、関東軍等への転出などがあったのを察知してか、時々八路軍の襲撃等があるようになりました
 部隊は昭和十九年七月、老河口に集結した敵を攻撃、多大な損害を与えたのでした。そして我々はこの河北省老河口の警備をすることとなりました。しかし、警備隊は手薄になり犠牲者も出て兵力は少なくなる。住民は情報を八路軍に知らせていたので、その少ない兵力の所へ八路軍は襲撃して来るのです。毎日のように銃砲声がしていました。(p190・191)篠村
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 翌日から初年兵教育が始まりました。部隊名は雪部隊です。初年兵教育を受けながら中国軍や共産八路軍の攻撃や侵入を食い止めるための警備が主な任務でした。戦闘経験のない初年兵の私たちは、敵の攻撃の無いことを祈りながら、教育を受けたり、古参兵と共に警備の任務に勤務しておりました。(p193)日沼
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_192_1.pdf

 特に山西省は中共精鋭軍徐向前部隊が西安方面から山西省内へ進出、日本軍の警備のスキマをぬって北上し、農民を巧妙な工作によって赤化地域を拡大していました。
 第一軍は辛うじて、省内鉄道線の点を確保するのが精いっぱいで、その点を警備する警備隊は、日夜、共産軍の襲撃を受け、それだけに犠牲を強いられていました。・・・
 八路軍はゲリラ戦が得意で日本軍の通信線を夜間切断するので、我々も夜間警戒によく出動しましたが、なかなか捕捉するのは難しいことでした。昔陽の近くで輸送隊が襲われて救助隊が駈けつけた時は既に敵影はなく、ただ一人、上等兵が右の大腿部に貫通銃創を受け生存していましたが、路傍の溝の中には打つ伏せになった初年兵の死体が一列に並んでいました。(p225・226)土師

中国、国民政府(蒋介石)正規軍は大丈夫であるが毛沢東の中国共産党の八路軍が始末に負えぬ敵とのことでした。この八路軍は便衣隊を組織し、一般民衆の人間のごとく振る舞いながら、にわかに襲撃して来るのです。敵は地の理を知りつくしており、神出鬼没の有様でした。(p204)小林
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_200_1.pdf

 八路軍得意の地雷作戦で、至る所に地雷を敷設し、それによる負傷者も出るし、農民と思っているとたちまち兵士に早替りして攻撃して来るなど一瞬たりとも気を許せなかった毎日であっただけにこの休日は有り難い時間でした。(p240)西岡

 ある日のこと、分哨についていますと警備地の北方一キロ地点の小高い山に八路軍が来襲、かなり多勢の敵兵の様子だったので、早速本部に通報しました。敵はチェコ機銃で襲撃してきたのです。また時々迫撃砲を打ち込んできます。
 我が軍はこれに反撃して激戦となりました。三時間ぐらいの戦闘が続き、我が軍には数十人の戦死傷者が出ました。私は幸いというか無事だったので、負傷した戦友を二人で担架で後方に運んだりしました。(p261)竹原

ある夜非常呼集のラッパが鳴り、全員中庭に集合する。隊長がいきなり抜刀して出動命令を伝える。「今夜、連隊より我が隊に出動が下令され、これより博山方面に侵入した敵共産八路軍に対して我が第二十連隊はこの作戦に参加し、速やかに電信網を構成の任に当る。この作戦を博西作戦と称する。我が隊は明早朝集合地に向け出動する」と。我々は興奮し武者震いをする。初めての戦闘に参加出来るのだと思ったが、その後人事係よりの編成発表では、俺は残留となり、翌朝出動する部隊を見送る。悔しさで涙が止まらない。(p17)高橋
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_014_1.pdf

五月二十二日、中国山西省の衷陵県衷陵と言う所へ到着して同地域の警備勤務となりました。
 警備勤務でありますから当方から戦争をしかけることはありませんが、土匪が襲撃して来ると戦闘になり、また時には討伐作戦を展開したり、共産八路軍と戦争になったりの毎日でした。一度は八路軍の真正面から突っ込んで撃破したことも有りました。何度も命の危険を感じたこともあります。(p378)岩澤
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 夏が去って直ちに河北共産殲滅作戦(秘匿名『オ号演習』)が始まり、私も高田中隊長の指揮下に入り山西省朔県へ出動しました。我々は押田隊と言う愛知県の部隊が守備をしていた山の中の平魯と言う部隊の要点にある陣地が八路軍に襲撃されるので、新鋭の我々の機動歩兵の威力を見せて追っ払って貰いたいと言うことであった。我が中隊が到着して第一に感じたのは給養の悪さであった。食事の質量共に貧弱で、いつ出動が掛かるか分からないのに、空腹を抱えての夜間の歩哨勤務と車両整備でした。そして碌な道路もない山岳地帯に車両部隊の行動は束縛され、スピードと行動距離が本領の機動部隊も形無しでした。
 そして第一に目指す八路軍に遭遇しないのですから戦力の発揮もできない。八路軍はこの山間地の貧しい農民の心を完全に捉えていて、「奪わず犯さず」で農繁期には農業の手助けまですると言うのですから、ただでさえ不足気味の農産物を、紙片同様の軍票で奪い取る日本軍に、農民は八路軍の情報など流す訳はないのです。こちらも懐柔策に出て、塩や小麦粉などを餌に農民から情報を得ようとしても、相手が餌が欲しくて流す情報は、いつもタイミング外れの空ぶりに終わるものばかりでした。
 遭遇する筈の地点を射撃できるよう陣地を構築して、寒さを我慢して夜通し見張っていても、目指す敵は現われず、夜露と山の冷気で冷えきった体で駐屯地に帰る挫折感は後味の悪いものでした。
 たまに確度甲の情報で夜間出動すると、鍛冶屋が外で仕事をしている。鼻をつままれても分からない闇夜で仕事ができないだろうと思うとさにあらず、農具の修理か何やらやっている。鞴で爐に風を送る度に火の粉が空中に舞い上がる。二キロも行軍して前方を見るとはるか彼方でも同じように火が見える。四キロ以上も離れた部落で同じ夜に鍛冶屋が夜業をする訳はないのだろうから、これは「日本部隊が出動したぞ」との合図の狼火に間違いない。
 と気付いた時はもう後の祭り。隠密行動で闇の中を擲弾筒の重い榴弾をブラ下げて山道を躓きながら這い上がり、目的地までやっと到達すると敵は藻抜けの殻である。白々と夜の明ける頃には昨夜の苦しい行軍の疲労と、期待を裏切られた落胆とで士気阻喪甚しく、何のためにこんな苦労をと考えさせられる事でした。
 二カ月近くも努力して敵の姿を見たのは一回だけ。はるか千五百メートルも離れた山の尾根を望遠鏡で見ると、馬を引いてのんびり移動して行くのが見えただけで、陽は西に沈みかけているし、着弾距離内に進出するには幾つか谷を超えなくてはならず、夕闇迫る中で指を銜えて見ているばかりでした。
 こんな事で戦果も挙げられず、また朔県から車両を貨車積みして包頭経由で安北に帰ると、安北の西北二十キロ位の督励山付近の戦闘で中隊幹部の斎藤軍曹が戦死しておりました。後で聞いた事ですが、我々が援護に行った平魯の部隊も、我々が去った後敵襲を受け全滅に近い損害を被ったとの事でした。(p19~21)川村
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_017_1.pdf

 当時の満州国、特に新京は、見た目は安穏でしたが、時には共産軍との戦いで一個分隊全滅となる戦闘もあったようで、負傷した患者が入院して来る事もありました。また私たちも日曜外出しても中華街には絶対に行かないように注意されておりました。舟山
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_094_1.pdf

 家に帰り、農業をしていたが、昭和十七年五月、再召集された。大東亜戦開戦半年で再び軍隊に復帰したが、今度は中国北部の山西省で、第六十九師団(勝兵団)であり、この師団も第八師団同様の東北部隊であった。山西省は共産八路軍との戦闘が多かった。従って、蔣介石軍との戦闘より共産軍との戦いが主であった。山西省は各地に陣地を散在させているので、陣地の兵力は少なく、途中で襲われたり、包囲される。共産軍は日本軍が強ければ攻めず、兵力が少ないと襲撃したり包囲するのである。
(p208)菊池

 七月に一期の検閲が済み、初年兵全員が北支へと出陣した。私は二カ月遅れて部隊の後を追いサギ(地名)の第三十九連隊に合流した。九月に北京に到着、セイケイ(地名)の連隊本部に合流した。セイケイから四キロ程離れたところにトウスイという大きな部落がありそこにトーチカ陣地がある。一個中隊が駐屯して警備にあたっていた。トウスイの中隊から一個分隊、常にトーチカ陣地の警備についていた。・・・
 五日または一週間に一度は部落を巡回する。八路軍の勢力範囲と聞いていたが、平和な部落で一度も攻撃を受けたことはない。
 糧秣は十日に一度、中隊本部に受領に行き食糧の現地調達はしたことはない。今から思えば、これが部落民が八路軍の手引きをしたり、自ら襲撃しなかった大きな原因に思えてならない。(p204・205)柴原https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/14onketsu/O_14_203_1.pdf

 各地に患者療養所が開設されたが、私は海州患者療養所勤務を命じられ、脇軍医大尉の指揮下に入り、本部と発着の担当となる。・・・ 
 この地域は八路軍との衝突が多く、私はどういうめぐり合わせか、あるいは本部付なるが故か知らないが、ほとんどの作戦には参加を命ぜられ、私は自らを作戦要員とつぶやいたものであるが、よく内地へ無疵で帰還できたものだと感慨も一入である。(p42)竹内

山海関では初年兵教育と、折から、万里の長城に出没する八路軍の討伐に明け暮れる最も厳しい日々でした。聞くところによると、山海関の港は当時中共軍の重要な軍需物資の補給ルートだったそうです。(p319)竹田https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_318_1.pdf

左方頂上に電信所が見える。二年兵に聞くと、ここがかの昭和十五年三月に、我が部隊分遣の通信隊を含む一小隊と、ここから三十キロ先の南波頭の一個中隊が共産軍の襲撃を受け全滅した荘風嶺であるという。(p16・17)小澤 

八路軍と遭遇して撃ち合いとなった時にも、分隊長としての責務を果たしました。(p42)舞嶽https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_037_1.pdf

その頃ますます兵力の減った分遣隊は八路軍の攻撃目標となり、本部要員が救援に追われ、忙がしく時は流れた。折りも折り、諸満の分遣隊は八路軍の攻撃により布施少尉以下、二十五人全員戦死した。救援に出動したが間に合わず、時に七月十八日、十九日のことである。終戦が一ヵ月早ければ死なずに済んだかもしれない。(p81・82)稲垣https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_074_1.pdf

 寧津城の周辺は共産八路軍の勢力下で夜になると外出禁止です。知らぬ間に壕が掘られて新兵の訓練も城内が多かったです。城内が東西南北になり城壁の上は自警団が巡回警護していました。
 日本軍の衛兵は夜間城内の巡視に当たっていました。近くの部落の偵察を二騎でやりましたが、まず一周し、二周目の途中で急に馬首を反して突進すると在敵の時は必ず撃ってくるので判断できました。いない時は撃ってきません。
 八路軍の命令で、村長が住民を夜間動員して深い塹壕を掘らせるので、いたる所に壕が掘られているので無気味でした。・・・
 捜索連隊の人員は歩兵連隊とは違って少人数で一中隊一〇〇人くらいです。城内には第一、第二中隊が同居でした。八路軍が日本の戦車を攻撃する方法は丸太棒をキャタピラーに突っ込んで止まらせ、天蓋を開けた際に手榴弾を中に投げてやっつける戦法を取ったそうです。
 城外を華北交通のバスが一日一回走っていましたが、日本兵が乗ると同乗の現地人が「日本兵を見つけると八路軍が撃ってくるから姿を見せないでくれ」と注意するのだそうです。
そして「このあたりは大丈夫だから頭を上げてもよろしい」と言っていたそうですから、八路軍がいる場所を承知していました。(p246・247)
 昭和十八年、山西作戦が始まり、六ヵ月間討伐に出動しました。私は本部詰めでしたが、山西の地形は厳しく閻錫山の中国軍と八路軍の両方が相手ですから大変な苦労でした。特に八路軍の待ち伏せ作戦にかかり、小さな部隊の全滅が相次ぎました。(p249)斉藤

 山東省一帯は治安が比較的平穏であったが、日本軍全般に戦況不利に傾いた昭和十九年末頃から共産軍の攻勢が強くなり、それに加えて今まで日本軍に協力して治安維持に協力していた和平軍の反乱が相次いで発生し、山東省駐留のわが部隊は、これらの討伐に東奔西走の渦中に投ぜられました。(p250・251)小林https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_249_1.pdf

 教育の後半の四月初旬、部隊の討伐行に初めて参加しました。
 敵は大行山脈に盤踞する共産八路軍です。峻険な山岳地帯の強行軍と厳しい内務班の務めに疲れ果て、苦し紛れに小銃の音がすると手を挙げて当たれよがしの行動をする者も出るようになりました。負傷した方が楽になれると思いこむようになるのです。(p255)高橋

本隊は春四月から夏中は戦闘、冬は駐屯地区の警備(大同付近)で、敵は共産八路軍です。特に八路軍は騎馬戦が得意で、「コサック」と呼ばれるくらい上手で、馬の横腹に隠れて人影は見えず馬だけが走っているように見えました。(p287)嶋田https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_286_1.pdf

中共軍の出没がはげしくて討伐に幾度となく出動しました。(p298)竹原

 私も古参兵へとなったのですから、ビンタはないが、教育をやり直しながら、八路軍と戦いました。黄河の水が凍ると敵が夜襲してくる。こちらの兵力が少ないと攻めてくる。演習中に攻めて来られて戦ったこともありました。(p318)
 その頃から情勢が悪くなり、警備・教育・警備・討伐(八路軍が攻めて来るとそれを追い払う)の連続でした。(p320)佐久間

 南口鎮で初年兵集合教育を受け、一期の検閲は大隊本部のある密雲で受けました。
 教育中でも治安状況は悪く、特に共産八路軍の活動が活発で、第三中隊が山の中で待ち伏せ攻撃を受け大損害を被りました。
 また、引き続き第四中隊が討伐中、部落で休憩中を襲われ、重機関銃を奪われる損害を受ける事件が発生しました。初年兵の私等も戦場掃除に出動しましたが戦死者は全員丸裸にされており、被服、装具、武器一切、靴まで奪われ、機関銃隊長は手榴弾で自爆していました。
 初めて見る戦場の悲惨さにびっくりしました。現在でも、その惨状は眼前に浮かびます。全くひどいものでした。(p448)久保田
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_447_1.pdf

その後、匪賊ばかりでなく、共産八路軍とも戦闘を交えたことも度々ありました。(p150)大和https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_149_1.pdf

 武昌より岳州へ進み粤漢線補強の任務につき、分隊長として通信兵十人を引き連れ、趙李橋付近に進出しました。架線の電信線の補強工事を進めるため、駄馬に車両を引かせ、通信資材を満載して駅から分哨へ、分哨から各駅へと運搬する。やっと補強整備を終えた直後に八路軍の襲撃を受け、電柱が切り倒されて、十回線電線が切断されるということが毎日毎夜の繰り返しでした。その都度分哨の兵士達と共に敵を追撃し、応急修理で通信を開通するなど、夜を日についでの苦戦激闘でした。(p163)池田
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_160_1.pdf

 昭和十八年十一月一日、北支那方面軍騎兵第四旅団へ入隊、集合したのは大阪府の部隊で臨時に二日ほど入隊し、冬服が支給されたから多分寒い所だろうと予想しながら大阪港出帆、博多から朝鮮釜山へ上陸し、鉄道で山海関経由北支へ向かいました。しかし、やはり戦地だと感じたのは夜中、輸送の列車に対して射撃を受けたことでした。これは共産八路軍であると引率の下士官から言われました。我々は騎兵銃を持っていましたが応戦することなく列車は走り続け、被害も無かったようでした。
 帰徳駅の手前、部隊本部のある柳河で一時下車、帰徳には騎兵第二連隊があり、我々は柳河の第一連隊、自動車第二中隊に入りました。通称号は「成第五三五八部隊」です。そこで三ヵ月間の初年兵教育を受けました。教育中に部隊は時々出動しましたが、我々は射撃の音を聞いただけで出動はしませんでした。本隊は応戦していました。駐蒙豪軍は、八路軍を相手に討伐や作戦に出ていたのです。
 一期の検閲が終わると間もなく、雪が解け始める頃ですが、やはり内蒙古の寒さは厳しいもので、内地の飛騨で育った私にも寒さは身にしみるものでした。教育が終わってからは、柳河は第一線でしたから、共産軍の討伐には二、三日出かけ、弾丸の下をくぐる経験をしました。共産軍は、こちらが少数、弱いと判断すると攻撃をしてきますが、こちらが強いと逃げる戦法をとっていました。
 しかし、その戦力は侮れません。その上、部落民から情報を取っていたので、こちらの状況は十分承知していたとのことでした
。(p213・214)山平
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_213_1.pdf

 昭和十九年五月、徴兵検査が現地であり、甲種合格となり、同年十一月、承徳(映画「熱砂の誓い」のロケ地)へ入隊した。一週間後、満支国境警備のため万里長城にあった馬蘭口という地へ、承徳より三泊四日の行軍で行ったが、兵舎とは名ばかりの、民家を改造した所であった。ここは敵地と同じで、共産八路軍がいつ出没するか判らぬ所である。そのため巻脚絆を巻いたまま就寝したときも度々であった。そして、いつ襲撃されるか判らぬため実弾を持って演習に出るのが常であった。特に夜間演習には気を配って行ったものである。(p266・267)藤井
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_264_1.pdf

 十二月、大東亜戦争勃発。十ヵ月程過ぎ、私は黒河省の国境警備の独立隊として派遣を命ぜられました。・・・寒さとの戦いでした。しかし本当の敵は付近に出没する共産八路軍です。(p278)寒河江https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_276_1.pdf

 北支は共産八路軍の巣ですから、向こうから撃ってきます。しかし、工兵は銃器を歩兵のように持っていません。特に工兵単独での応戦ですから、八路軍は、こちらが少数、戦力が弱いと見ると攻撃してきます。大勢で強いと見ると退去するという戦法でした。従って、戦闘本分でない工兵と言えども自分を守らねばなりませんから、積極的に共産軍を攻撃していました。
 討伐は四六時中で、夜出て行って朝帰隊します。兵力は少なくて工兵だけでの出動ですから、一個小隊単位くらいで戦闘行動をしなければなりませんでした。
 その頃はまだ一等兵の初年兵でしたので、弾の音も初めて聞きました。河北省の石家荘には大きな城壁がありましたが、その時も工兵だけでいました。歩兵が一緒にいないのですから、こちらには小銃と軽機関銃ぐらいしかありません。八路軍はラッパを吹いて進撃してきます。砲も引いてきます。心細い戦いですし、犠牲は出るしで、私も負傷しませんでしたが随分苦労したものです。(p104)伊藤
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_103_1.pdf

 北支は、ご承知のごとく共産軍の勢力が強く、八路軍との戦闘も三回程体験しました。通信兵は戦闘部隊ではなく、隊と本部、隊と隊の間に線を引いて通信するのです。従って、有線敷設の距離は長く、その間を守るのはほとんど自分たちでしなければなりません。(p108)石塚
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_108_1.pdf

 昭和十七年七月北支へ来てから、駐屯地付近の討伐や戦闘で、中隊長福永勉大尉をはじめ下士官四人の戦死者が出ました。勿論負傷者も数多く、主として中共抗日軍主力の八路軍相手の損害です。この外に新四軍も抗日軍として日本軍を悩ませました。(p217)寺川https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_216_1.pdf

 河北省は北支那の満州寄りの省であり、共産八路軍の活動が盛ん、関東軍と北支軍は度々討伐戦を行っていたと聞いた。特に我々が入隊した昭和十五年後期からは治安が悪く、八路軍の河北省東部(冀東という)への侵略は表面化し、情報によれば、昭和十五年四月頃、中共軍の冀東軍区が北支の根拠地となっており、軍区司令は李雲長という。
 極部隊の第一連隊本部は唐山、第一大隊は豊潤、第二大隊は古治、我が第三大隊は遵化に配置され、灤河以西の敵の進出を抑える任務を持っていた。我々が入隊する前年、共産軍が侵入し、教育中に非常呼集があったという。我々も教育中に河北交通官舎に中隊を分散し、対戦、警備のため二、三日間宿泊したこともあった。私は一応学校で軍事教育を受けていたから基本的なことは身についていたが、未教育兵である多くの仲間は、北支に着くや否や、敵と対峙したのであるから緊張度は高かったであろう。一期の教育は三ヵ月間、検閲は昭和十六年三月三十一日であったと記憶している。
 私の所属する第三大隊本部は遵化、我が第九中隊は鉄廠鎮という所であった。そこは豊・遵・遷三県の県境で、山岳地帯の中央にあり、周辺の山脈は遠くは熱河省の山に連なり、付近一帯は共産八路軍の冀(河北省)東地区前進根拠地帯と目されていた所である。極部隊が移駐した日から付近に出没する八路軍の討伐に落ち着く暇もなかった。であるから、我々初年兵は、実戦をしつつ軍隊の教育を受けた、実戦教育で育ったのである。
 しかも、第九中隊には、昭和十三年末の武漢三鎮(漢口・武昌・漢陽)攻略戦に参戦した昭和十二年入隊の第十二年次兵が、中隊本部のほかに四十人ぐらいいて、別名「焼酎小隊」と呼ばれるくらい毎日焼酎(チャンチュウ)を飲んでいた。二、三年兵はそこには近付けないので、その古参兵の世話は我々初年兵だけに命ぜられていた。随分気を使いながらの世話であったが、昭和十六年四月二十五日、内地に帰還をした。
 また、第九中隊は、牟田口連隊の時、盧溝橋で直接中国軍と戦った中隊であり、長沢准尉はその時戦闘に参加した古参准尉である。そのような関係から、歴戦の誇りを持ち、従って、訓練も内務班での教育もやかましいものであった。
 鉄廠鎮付近は八路軍の巣窟といわれる所で、中隊の柱に青竜刀の切り痕や、弾痕などが残っていて、彼等が隊内まで侵入した証拠であった。私が入ってから、一期検閲が終わった翌月頃から敵の夜襲のため非常呼集があったが、私にとっては初めての体験で緊張した。今までは銃声を聞いたり、他隊への襲撃であったが、チェッコ機銃が隊へ撃ち込まれたのは初めてであった。しかし、その時は被害は無かった。
 古参兵は平気な顔をして「これが日常茶飯事だから、心得ておけ」と言っていた。二、三日毎に撃ち込まれる、時には毎日襲撃される。敵の攻撃の間隙を縫って討伐に行くが、こちらの兵力が少なく、手薄となった留守部隊がやられるので、しょっちゅうは討伐に出ることが出来なかった。八路軍は、こちらが多ければ逃げる。しかし、兵力が少ないと見ると襲撃する。神出鬼没の行動をするから油断は出来ないのである。
 初年兵は辛いものだが、とくに恐ろしいのは戦闘よりも、中隊の望樓に立哨(警戒のため歩哨に立つ)することである。望樓の階段を上って行くのは死刑囚のようである。古参兵は交替時間が来ても交替してくれぬから、初年兵は二時間でも三時間でも立哨し続けなければならない。分哨は一個分隊だから十人余で、共産軍が望楼目がけて時々撃ってくる。彼等はどこに隠れているか、こちらからは判らない。立哨者が狙われるのだから肝を冷やすというより危険この上ない。時には戦死、戦傷者も出る。姿の見えぬ敵との対決である、普通の戦闘の撃ち合いより不気味である。この不安は体験者でなければ判らぬであろう。しかも、分哨は小人数、警戒を厳重にしなければ、全員戦死という例も度々あるのだから、立哨者の任務は重いのである。(p248~250)

 私の受けた次のショックは、九月十二日、新店子で第九中隊の分屯隊が八路軍の襲撃を受け、戦死六人、負傷者多数を出したことである。その非常呼集があり、私も出陣した。ところが遵化県(第三大隊本部処在地)の城壁を出た途端、待ち伏せしていた敵が、自動車の第一車輌を目掛けて、チェッコ機関銃の一斉射撃を浴びせてきた。遮蔽物はなし、先頭車がやられたのだから自動車は出られない。至近弾が飛んでくるので、その時、私は戦死するかと思った。我が軍が擲弾筒を撃ったので敵はチェッコ機銃を置いたまま逃走し、ことなきを得た。
 しかし、分屯隊へ着いたら、松本軍曹、幹部候補生の軍曹以下、隊員十数人がいない。その後捜索して、ほとんどの死体を発見したが非情にも全裸にされていた。戦死は松本軍曹、乙種幹部候補生出身の軍曹、三年兵の一等兵など六人であった。他は望楼の中で初年兵を含めて負傷し倒れていた。この死体捜索や、負傷者収容は中隊全員で夕方までかかった。(p252)
 しかし、敵は執拗に我が警備の間隙を縫って共産党の地下工作を続行したり、小部隊により各地を遊動し、我が軍の兵力の少ない際に交戦、我が連隊の各隊は粛正討伐を続けていた。そのため私には暇なく、出動、討伐の連続と、作戦参加の記憶が残っている。(p255)
井上
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_247_1.pdf

 私の部隊は旅団編成のときと同じ独立歩兵第八十三大隊でした。部隊は山西省離石附近の警備と討伐が任務でしたが、敵は蒋介石軍の山西軍と共産軍の八路軍でした。北支での戦闘は大きな作戦から、小部隊でする討伐もあり、対手も共産軍であったり山西軍であったりするので複雑でした。その蒋介石系、いわゆる国民政府軍と八路軍はある時は協力したり、ある時は相反したりだったのです。(p257)

 八路軍も勇敢で、ラッパを吹いて逆襲突撃をして来たこともあり、曹長が肩を撃たれ、敵が我々の近くまで来たこともありましたが、何故か急に退却して事なきを得たこともありました。(p259)

 昭和二十年二月十九日より二十七日、第五分区、延安匪二月粛正討伐がありました。共産党との戦いです。八路軍はこちらの兵力が少ないと攻撃してきますが、強いとなると逃げてしまいます。神出鬼没ということでしょうか、地の利を上手に使うし、住民から情報を得るのですから、山西軍より始末が悪いというか、ゲリラ戦も上手であったようです。(p261)
山口
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_256_1.pdf

 この地域は平野でコーリャン畑でしたが、共産八路軍の勢力が強い所で、日本軍の討伐と八路軍の侵攻が繰り返されていました。・・・
 村長は二人いて日本用と八路用と使い分けしていました。日本軍の命令で周囲の道路のかさ上げをしたと思ったら、八路の要求で道路の切断を夜間に行う。それの復旧を日本軍の指示でやる。再び八路の要求で切断するの繰り返しですから現地住民の苦労は並大抵ではありません。弱小国の悲哀を見せつけられたものです。(p263・264)田中
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_262_1.pdf

 ここに声を大きくして叫びたいのは、清郷工作のことです。日本軍の占領地域は、軍の駐屯地と鉄路だけ、いわゆる点と線だけでした。農業国中国の底力は郷にあるのです。日本軍も国の行政機関、中国の郷村組織の後押しをして、郷村の獲得に協力しました。
 一方、蒋介石軍と八路軍も都民の獲得に必死でしたが共産軍がジリジリ進出してきています。そのため日本も第一期清郷工作、第二期清郷工作と引き続き清郷の安定に全力を傾注したのです。清郷は表面は服従または協力しますが、日本軍が去ると国民党または八路軍に通じるといった具合でした。(p288・289)高山
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_288_1.pdf

 郷寧作戦の後の戦況について、作戦資料によると、臨汾においては中共軍の勢力が広範囲に浸透して、その活動が積極的かつ執拗となり、治安維持のため、共産軍殱滅、粛正討伐を繰り返し、戦闘の毎日であった。・・・しかし、臨汾周辺の治安は良くなかった。連隊より出している警備隊はしばしば夜襲を受け、特に共産軍との戦闘は熾烈であり、また通信線(有線)の遮断は常套手段であった。
 我が部隊は夜間を通じて自動車部隊に無灯火で山麓まで前進させ、夜明けを待って共産軍の根拠地である陣地に奇襲攻撃をしたこともあった。
(p248・249)榎坂
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/09onketsu/O_09_245_1.pdf