とフィリピン人の投書に書いてある。
昭和19年度 イロイロ憲兵分隊書類綴
「パナイ」島大日本国の指導者各位 一九四四年一月二十七日 於「パナイ」島

「パナイ」島駐在の日本軍は大きな誤謬を犯かし比島民衆を(に?)激怒されているのである、同軍が吾が民衆に対する公害主張する反誼は全く問題外なり、此の民衆に与へし犯罪行為は過去及現在に於ける日比親善関係の大きな弱となり民心をして常に怨恨を呼起すべし、
斯かる犯罪行為は日軍当局で了解或は黙認されいるや、日軍の工作は破壊的行為なり、若し当局の了解なくして斯かる犯罪が為され居るのなら今後速やかに中止され度し、之れが強大なる日本軍を背景とする比島共和政府「パナイ」島に於ける最も早い治安確立なり、
日本兵に依り犯されし最も非(?)度い犯罪を左記に印す

(1)無差別の住民惨殺
(2)獣欲を満たさんが為の日本兵の婦人に対する凌辱的行為
(3)「パナイ」討伐に於ける日本兵の比人児童惨殺及殺害的行為
(4)住民に対する不正なる報復手段
(5)日本兵に依る比島民家の放火
(6)吾が比島婦人に暴行の上赤裸にし一般に曝出す言語同〔ママ〕断なる行為
(7)根拠理由なくして住民に対する拷問

斯かる行為は日本武士道に於いて許し難き悪行の数々にして、無辜なる住民を日本兵の手で血生臭い犠牲にする事は日本国家を凌辱する事であり日本政治家として決して許さる可き行為にあらず、斯かる残忍なる行為は曾て歴史になく前代未聞なり、若し日本人が東亜民族の真の共栄発展を望むのなら人道主義原則に反した行為は厳重に取締るべきなり、
(左欄外に濃い字で「●●●村長●●●記述」)
1行読解不能
比島人は反抗せり、其処で米人は人道主義●●敵意を有する比人に接近せる結果、一時焔となった比人の敵愾心は徐々に鎮まり抑へ難き比島人の反抗者は唯一の憂国の士となったのである、
比島人は独裁主義の蹂躙的虐政に対しては飽迄剛毅にして自由主義の柔軟且正当なる政治に対しては感応し易し、此の史上且て見ざる現在行われいる〔ママ〕事実に対し吾々は合流し得るや?日本人が比島人の心理を了解するまでは相当の期間と研究を要す、
前述は決して挑戦的意味でなく唯貴国の大共栄確立に先じて先ず親睦を以て吾が民衆の意図を了解させんがため勧告す、
貴民衆と吾々間の交際に於てもう少し誠意であって欲しい、若し吾民衆に対し寛仁雅量であれば其民衆を寛仁ならしめるのである、若し日本人が「光輝ある独立」と呼すのなら、貴政府にて許容されし独立に対し栄誉を与へ尊敬され度し、
平和幸福に生活する吾が無抵抗なる民衆に対し此れ以上貴軍人の残虐行為中止を要求する 、我土地には罪を正当に裁く法庭〔ママ〕あり、貴兵士の手で法を裁くな、其れは裁判権を横奪し比島共和政府を人形以上の立場にする誠に憂慮すべき行為なり、
吾々は日本兵の立派な武士道原則たる陛下へ対する忠誠正義の発揮をし吾が民衆を導かれんことを希望してやまぬ、
此の書に依り貴殿は必ず熟慮せざる●得ないと吾々は信ず、且御互ひに合理出来るやう適宜なる処置を乞ふ、
敬具 比人治安維持者 
http://wam-peace.org/koubunsho/files/J_129.pdf 

日本側も拷問をやっていたと認めている
「ビサヤ」地方憲兵服務指示

・・・是が為将兵の注意すべきこと次の如し
(1)殺より利用
戦闘に於て敵味方となり殺すか殺さるるかの時は元より問題外なるも戦闘後に於て或いは検挙検索等に於て得たる抗日分子を軍律会議にかけることなくむやみに厳重処分するが如き、衆人環視の中で斬首してさらすが如き、 又はMGで掃射するが如き、拷問にて殺すが如きは最も不可にして将兵は勢いの赴く処時に斯る暴挙に出づることなしとせざるが斯様の態様にて一人の比島人を殺害する時は却って十人の抗日分子を作るものなり。・・・
 
二、憲兵の対策
2、民衆を敵とすべからず
・・・是が為憲兵は
(1)拷問を止むべし
明瞭なるを以て理由を記述せず

右指示す
昭和十七年十一月十五日
比島憲兵隊長 長濱彰

アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコードC14061256300(6枚目)
 比島>防衛>第14軍憲兵隊参考書綴 昭17.10.4~17.11.15
 
こちらの資料にも「拷問の廃止」とある。廃止とはつまりやっていたわけである
隊長「ビサヤ」地方憲兵服務指示図解
拷問
http://wam-peace.org/koubunsho/files/J_122.pdf

このように見てくると、次の資料も拷問と解釈するのが妥当だろう。
 「ナカール」中佐一派討伐間の教訓
東地区警備隊

一、情報蒐集に就て
1、土民情報
(略)
2、討伐初期は
土民は殆ど一応は虚言を弄す。町村長は素より敵に通じあると関係なきとに不拘我質問に対し異口同音に「知らぬ存ぜず」と称すか価値無き遠き以前の情報を提出するのみなり。其の原因は我軍の決意を知らず大〔ママ〕風一過的に通過せると思考せると敵の報復を恐れたるものゝ如し
而して支隊本部「ピナバガン」に前進し我が異常なる決意を示すと民衆に対する〔ママ〕烈なる取調に依り漸く真意を理解し協力的態度に出ずるに致せり。・・・
4捕虜帰順者の利用に就て
捕虜より情報を得るためには取調べ俊〔ママ〕烈苛酷ならざるべからず。捕虜は一通りの訊問に依り全部の自白をなすものに非らず、須く手段を盡し寛厳機に適し或は反証を挙げて取調べ或は強問して窮地に追ひ込み或は一刀両断するが如く見せて生の執着を利用する等の方法必要なり。帰順者の取調に於ては其動機人物等に依り一様ならざるも概ね捕虜に準ずるを可とす。然れ共相当なる人物の取扱に就ては注意を要す。

アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコードC14020725200
匪首捕獲の参考 S17.12.25

これらも拷問
武昌憲兵隊
 昭和十六年三月中旬、私は武漢の地を去る事と成った。写真中真ん中の建物は、武昌憲兵隊、その後ろ小道を隔て私の勤務の場所、兵站病院レントゲン室があった。嫌でも聞こえる訊問の大声、悲鳴、水攻め、死者を甦らせよ、もう一度聞きたい事ありと私に命じる憲兵殿の語気、それは今でも私の悪夢である。この建物にはYMの三角マークと武昌基督教青年会と書いてある。
(麻生徹男「上海より上海へ」 p39)
 
最初にイバナ町長に尋問しましたが横柄な態度でなかなか口を割らないので両手を縛り天井からブラ下げました。しばらくして苦しくなったのか一切自白し、また他の百人近い逮捕者の証書でゲリラの全貌が判明しました。(p471)
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_463_1.pdf
 
 山東省でも平地から一歩山の中に入ると八路軍の陣地があって、日本軍の様子を看視しており、特に農民の姿をして日本軍が少数と見ると襲いかかって来る、あの有名な便衣隊が横行して油断が出来ませんでした。あるとき、密偵が捕まって情報を自白させるため、あの手この手で責める仕打ちを見て、これも戦争のためかと顔を背けたこともありました。(p156)
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_151_1.pdf
   
  事件が起ったのは、曹長に進級する直前だったから二十年の一月の末か、二月の初めであった。事件の二、三日前、警務係で県政府の幹部である「李渉外課長」を逮捕し取調べ中であると警務主任から特高主任に連絡があった。
  対中国人関係は主として特高で取扱っていたし、特に中国機関に対しては慎重を期して、たとえ職員の行動に多少の疑惑があっても、逮捕、監禁などの強硬手段は避けていた。それにもかかわらず、事もあろうに渉外関係を一手に握る李課長を逮捕したことについては、特高職員としては大きな不満があった。しかし、警務主任が班長の須賀准尉(中村隊長は本部に長期出張)の許可を得ての逮捕だから文句のつけようがなかった。
  朝礼が終った九時頃、軍服を特務服に着替え、勤務に出ようとして留置場の隣にある取調室の前を通った。其の時、取調室の中から大きな怒号の声が聞えてきた。「随分早くからやっているな。誰だろう」と軽い気分で中をのぞいた。
  私はその場を見た瞬間、「はっ」とした。我々が心配している李渉外課長の取調べを楢原伍長がやっているではないか。李課長は、乱れきった髪をふるわせて、怒りに燃える手で床をたたきながら、怒号のような声で抗弁していた。上流階級にのみ許される羊皮の長衣は破れ、過酷な取調べを物語る紫色にはれあがった傷の下からは、卑しからぬ顔がありありとのぞかれた。
  「楢原どうした、止めんか」
  倒れるようにうずくまっている李課長を抱き起して椅子に坐らせた。
  「警務主任、班長の命令で取調べをやっているのです。関係のないものは文句を言わないで下さい」
  「何に、関係がない、文句を言うなとは何事だ。遊匪や土匪ではないぞ。いやしくも県政府の高官ではないか。こんなひどい取調べをする奴があるか」
  「これがひどい取調べですか。満洲では、此のくらいは取調べの部類には入まり〔ママ〕せんよ」と私の意見を容れようとしないのみか、更に拷問の「死の十字架」(拷問中の拷問で遊土匪の取調べ以外には禁止されていた)の準備を始めようとした。
  「ここは満洲ではない。南支那だぞ。警務主任には俺から話しておくから、此れ以上の拷問をやっては駄目だ」と強く念を押したが返事はなかった。
  事務室に来たが警務主任がいなかった。若い伍長にすぐ探して来るように命ずると共に、須賀准尉に速やかに楢原伍長の取調べを中止するように要請した。しかし、須賀准尉は「警務主任の金城曹長がやらせているのだから、心配することはないだろう」と軍曹のくせに、生意気なことを言うなとばかりの言い方であった。
  「此の無能准尉、問題が起きたって俺は知らぬぞ」と口の中でつぶやきながら、自分の机に坐った。
  私の予想は三十分後に起った。あわただしく入ってきた楢原伍長の顔は真蒼であった。
  「取調べ中の李課長が今死にました」と班長に報告する声はふるえ、とぎれがちであった。・・・
  李課長の死体は、取調べ室から南向きの廊下に移されていた。手首、足首は紫色にはれあがり、麻なわで強く縛りつけられたあとが歴然としていた。更に顔から上半身にかけて、水につかったようにぬれているのは、「死の十字架」の拷問死によることを物語っていた
(鈴木卓四郎「憲兵下士官」p195~198)


 『さむぱぎいた』で記された説田の教師経験のなかで重要なものとして、フィリピン大学農学部付属農学校での抗日ゲリラ組織に対する討伐作戦を挙げることができる。この際、説田は取調べにおいて通訳をさせられる。彼には、学問の府で共に働く同僚を追及する軍の作戦に協力したことに葛藤があった。さらに、彼にとって痛恨の事態は同僚が拘束されただけではなく、拷問が行われたことである。作戦終了後に出会った農学部長は、

 顔や手を紫色にはらして、死人のような顔色でいすに掛けているというより倒れかかっているという恰好です。私がそばに寄って行くと、自ら弱々しい口を開いて、「ミスターセツダ、私のこの体を見てください。私はもう二度と顕微鏡を使うこともできない。学者としての生命は終った。私はミリタリーは大きらいだ。日本とか、アメリカとかではない。軍というものがきらいだ。」と一気に言いました。私は答える言葉を知りませんでした。農学部長の彼は数日間にわたって拷問を受けたのです。後ろ手に縛られて、梁からぶる〔ママ〕下げられて、バットようの棍棒で殴られていたのです。[説田①第三集:48]

近郷部落の討伐で、敵の重要人物が妾宅等へ来るが、情報が入り次第包囲しても、逃げ足が早くて効果なしです。女どもを捕らえて電源から電線を足の指につないでは、折檻しますが黙々と反応なしで、死すとも語らずとの形相でした。(p316)上代
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/09onketsu/O_09_308_1.pdf