大阪朝日新聞 1917.2.1-1917.2.7 (大正6)
此律賓と我投資の機運 (一〜四) 在麻尼拉 美閑

比律賓人は資本の欠乏を認め外国の資本を輸入する必要があることは承知して居るが兎角日本の資本に対して何か不安の念を懐いて居るかの如き感がある而して其理由とも云う可きは若し日本の資本を自由に入れる時は将来に於て政治上の問題を惹起し日本は之を口実として比律賓が独立した暁には之を占領する様なことがありはしないかと云うことである

大阪毎日新聞 1920.1.19(大正9)
比島の排日土地法
在留邦人の大打撃

時事新報 1935.1.17(昭和10)
比律賓政府の邦人漁夫泣かせ
二百名途方に暮れる

【館山電話】フィリピン、ダバオに進出漁業方面に活躍している邦人漁夫二百余名が昨年六月公布された同島の漁業規則改正に伴う単なる手続上のことから漁業権を没収され異境の地で極度の苦悩に喘いでいるという憂鬱なニュースが十六日館山に入港した農林省水産講習所講習船白鷹丸によってもたらされた―
ダバオはミンダナオ島の南端にある港で同地居住の邦人漁夫は大部分大分県出身で数年来同地に移住し大謀網、巾着網その他沿岸漁業に従事していたが、昨年六月フィリピン政府が日本人の勢力を駆逐する目的で漁業規則の改正を行い新たに漁業権を認めないことになったが、これ等邦人漁夫達は既得権の存続はそのまま認めるという条文に安心して昨年十一月まで何等手続をとらなかったところ十一月に至り遂に漁業権の喪失を宣告され漁網を取上げられてしまった、その後同地の日本領事館或は弁護士等に依頼して極力漁業権の復活をフィリピン政府に懇請したが同政府は頑として再認可を拒絶し其上所有の漁船を焼却せよと強硬な態度に出ているため漁業権の回復は全く絶望とされ邦人漁夫達は同地を引上げて帰国するか否かに迷っているというのである、右につき十六日館山に入港した白鷹丸乗組の安原専任教官は語る
「ダバオ港には十二月上旬寄港し三日間滞在し同地の官憲と交換し歓迎を受けたが同地居住の邦人漁夫達は漁業権を取上げられて困っていました、漁業規則が改正されても以前から漁業権を有している者には既得権を認めるという条文に安んじて邦人漁夫達がウッカリ手続を怠っていたのを理由に漁業権を剥奪されたというのですが、規則が公布されて僅か半年たつかたたぬのに没収までしなくとも何等か手心があると思われるが要するにフィリピン政府の日本人駆逐政策の犠牲となったものでしょう又濠洲領ニュープリテン島のラボールでは台湾基隆の本邦漁船が密漁の嫌疑で同地官憲に拏捕され船長以下二十三名が拘禁されているということを聞きました」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10083484&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

大阪毎日新聞 1935.9.12(昭和10)
比島ダヴァオの排日意外に深刻
邦人利権を水泡に南洋発展に大支障
土地租借の取消拡大
在留邦人解決に躍起の運動

大阪朝日新聞 1935.9.12(昭和10)
ダヴァオでまた借地権取消し
排日を目標の比島当局
邦人ら対策に腐心

大阪毎日新聞 1935.9.15(昭和10)
比島の排日に敢然起つ
邦人借地取消
言語道断
気勢を揚げた在留民大会

大阪朝日新聞 1936.4.18-1936.4.20(昭和11)
赤道直下の宝島
邦人開拓の功 漁村ダヴァオ忽ち近代都 恩を仇の土地問題

今このダヴァオ在住一万四千人の同胞に襲いかかって来て、彼らを日夜脅かしつつある土地問題とは、ダヴァオにある日本人がフィリッピン人の土地を使用耕作しているのは、フィリッピンの土地法に違反しているからその権利を認めない、日本人から一切の土地を取上げてしまえというのである。 
即ちその土地法によれば、フィリッピンの公有地を租借しうるの権利は米比人以外にはなく、従って日本人は米比人の租借したる土地を更にある契約によって請負耕作しているのであるが、この請負事業が比島土地法によって禁止しているところの再租借の条項に牴触するというのである。 
だから、日本人に土地を貸したところの地主は、政府からその土地を没収さるべきであり、同時に不法にその土地を借りてこれに栽培をしている日本人の権利も当然消滅すべきである、というのがフィリッピン政府の農務局長ロドリゲス氏の言明であるが、三十年間何らかような禁制もなく、平和に、提携今日に至ったダヴァオである。しかも事実幾多の尊い血をさえも流しまたそれにも劣らない日夜の膏血をしぼったおかげで、手のつけようもなかったほどのジャングルは、やっと近代的農園となり、ようやく文明の光を浴びるようになった今日、実際先頭に立った開発の功労者である日本人が、そうでござるかと頓首閉口、手を引けるものであろうか 
果然、不服と抗議の火の手は、全ダヴァオ州の各所に揚がり、邦人は奮起一致団結を盟い、あくまでフィリッピン政府と抗争すべくたとい一坪の土地たりとも手放すものかと悲壮な覚悟で、抗争資金を募集するやら、代表者を選出してマニラに送るやらしているのである。いかに問題が急迫し、いかに在留邦人が必死の決意を持っているかは、七万比(邦貨十三万円)近くの抗争資金が立ちどころに集まったのを見ても、容易に想像することが出来よう。(仲原営徳) 

時事新報 1936.8.23(昭和11)
比島在住邦人の居住権制限を計画
米比支間に協定進む

第七十回帝国議会衆議院
予算委員第一分科会議録 第一回 昭和十二年二月二十八日
○櫻井委員
・・・比律賓の方へ参りますと、洵に意外千万に驚くのであります、政府は固より私共日本国民として或る時期を狙って比律賓を占領しようと云ふやうなことは、もう毛頭夢にも考へた者はあるまいと思ふ、日本政府は固より日本国民もさう云ふことは夢にも考へて居らない、所が向ふへ行って見ると、さう云ふことが盛に宣伝されて居る、其由って来る所は、さう云ふことを宣伝して日本と比律賓の間を離間することに依って、或る一つの目的を達しよう、経済的の接近も遠ざけて置けば宜しいと云ふやうな考で、何か或る宣伝をするやうな方面があるやうに思はれる、私共は支那との国交も調整して、真の善隣と云ふ関係にならなければならぬと思ふと共に、比律賓が近い将来に於て真の独立国となる、完全な独立国として、東洋に於ける親善なる友邦として立って行きたいと云ふ希望を持って居ります、斯う云ふことに対しては、一つ日本の政府の―実は改めて明にすると云ふ程のこともない位な問題でありますけれども、私は誤解を一掃することに努められんことを望むと共に、経済上日比の関係に付きましても、・・・

○林国務大臣
比律賓に対して我国が政治的の希望を持つとか云ふやうなことは無論ないことは明瞭であります、主として経済的に、又文化的に両国の関係を律して行きたい、其外余念はない訳でありますが、・・・

帝国議会会議録http://teikokugikai-i.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/070/0098/main.html
左欄から2月28日を選択
 
「秘」印
内閣情報部九・一九 情報第一号 (1939年か)
比島排日移民抛棄
―同盟内報(秘)―不発表―
マニラ十六日中屋特派員発
(八月十七日内報参照)

消息通筋の観測に依れば比島議会々期延長は日本人及支那人排斥を目的とする新比島移民法制定のためと云はれる、即ち同法案は比島入国者を一律に一国一ヶ年二千名に制限せんとするものでこれ等が通過の暁には毎年約二千五百の移民を送りつつある日本及び約五千の移民を入れつつある支那にとって大打撃となるもので却って現移民法で入国禁止となってゐる印度人の移民を許す結果となるものである。

アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコードA03024515800

 「秘」印
内閣情報部四・二四 情報第一号 (1940年か)
◎比島議会移民法審議を急ぐ
同盟内報(秘)
マニラ二十三日中屋特派員発(内報)
比島新移民法案に関して日本政府が米国政府に申入をなしたとの報道に比島議会の排日議員連は、一応日本は比島の内政に干渉する権利なしと豪語して居るが内心は大いに狼狽し同案の通過を急ぎ議会閉会期日切迫を理由に俄かに二十三日より午前及夜の二回にわたって本会議を開きおそくも二十五日までには可決せんとして居る。

アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコードA03024621600

本日の新聞論調(第五百号) 内閣情報部 一五・四・二八(日)二九(祭)三〇(火)

△比島の排日法案(廿八日付報知)
比島議会が邦人移民数を従来の二千五百名から五百名に限定せんとする法案を上程し、堀内大使がハル長官に斡旋方を求めたに拘らず、同法案の通過を強行の肚と伝へられる。比島議会の反日的行動並に日本の要望を裏切る米当局の不信に憤激を禁じ得ない。比島人はわれ等と人種的系統を同一にし自ら進んで共に東亜民族の発展に資すべき筈である。これといふのも要するに反日の一路を辿る米が比島の背後に操り反日感情を燃え立たせた結果に外ならぬ。而してこの法案は米太平洋艦隊の増強、蘭印に対する感傷的身構へとも一連の関係を持つ所に重大性が潜在する。比島民の立場も不可解である。比島独立に苦闘して来たケソン大統領までも米の尻押に乗り日本の対比態度に疑惑をもち、昨今独立要求を放棄し米国依存に豹変したのは笑止である。わが当局は一般の熱意をもって邦人の比島移住は単なる平和的経済的発展以外他意なきを闡明して彼等の疑惑を解き、日比の関係を破局から救出する積極外交を働かすべきである。

アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコードA03024624600(6・7枚目)

この移民法について、外務省はこう説明している。
2 フィリピン
 本項目では,比島移民法の修正(移民割当制の創設)をめぐる日本と比島および米国当局との折衝(14~15年)に関する文書を採録しています。フィリピン政府は激増する中国移民の流入阻止のため,各国同数の割当制導入を進めました。日本は,割当制は従来制限がなかった邦人移民に多大な影響を及ぼすとして,議会への法案提出先送りや,邦人移民への割当数増大などをフィリピン当局に求めました。この移民法の修正には米国議会の承認が必要であり,本件には米側の意向が強く影響していたため,日本は米国政府へも折衝を重ねました。しかし,米側の対応には積極性が見られず,結果的には,予想(1000名)を大きく下回る500名が各国割当数となりました。そこで日本は,ケソン大統領に移民法の運用によって邦人移民数を増加するよう求めました。
 (採録文書数22文書)


中外商業新報 1936.8.7-1936.8.25(昭和11)
フィリッピンの印象
飯沢章治
 
これは驚いた!比島新聞記者の恐日病 何と宣伝下手な日本よ
満洲事件以来比島民の恐日病
フィリッピンに着いて先ず比島人から質問されることは日本は満洲を支那から奪った後に覗っているのはフィリッピンではないかということである。ダバオの土地問題にしても、一つは恐日病から来ているのだということを聞いていたが、最も国外の事情に通じていなければならぬ新聞記者までもこうした質問をする位であるから他は推して知るべきである
日本は比島の独立が実現されるのを待って南方に触手を伸ばすのであるが、その第一の槍玉に上るのがフィリッピンだ といった疑いは、満洲事件を楯に取って、排日的政治家、又支那の商人等によって飛ばされたデマにより想像以上に頭の中に泌み込んでいるようだ

宣伝下手な日本ここにも暴露
今度の旅行でどうも日本という国は宣伝が下手の国民であるということを泌み泌み感じた、極東に新に生れようとしている独立国家と、親善関係を結んで行かねばならぬ必要に迫られている時に、対手国にこんな不利な感情を持たせるということは少くとも宣伝が下手である、という一例になろう
勿論こうした質問に表はれる裏面には、アメリカに対する気兼もあろうし、事実日本人より数多くの支那人が乗込んでいるのだから、斯うした連中が、自分の利益の擁護の為め、日本人を排斥する方便として「侵略国家」の異名を冠せてその蔭で甘い汁を吸わんとする支那人一流の狡猾なやり方もあろうが、兎に角これはあらゆる機会に是正する必要がある
これは一つは言論機関の力に俟つ外はないが、邦字新聞では比島人には役に立たず、勢い英字新聞その他の外語新聞の力を藉りなければならぬ、ところがその多くが外国資本の下に立っている関係から仲々困難のことである、唯先年日本に来朝したエム・ハロラン氏の主宰するフィリッピン・ヘラルドが多少親日的傾向を帯びている位だから心細い

大阪毎日新聞 1940.12.10 (昭和15)
比島の現地報告
本社マニラ特派員 大谷純一

・・・事態の逼迫を思わせるものに新聞報道の変化がある、満州事変以来今次事変の勃発に当っては在留支那人の策動もあり、反日論が連日の紙面を賑していたが今回の非常時に当っては反日陣営も鳴りをひそめたが、殆どそんな事実がなく、何れも民心安定に努めているが、一般民衆にとっては諸新聞のかかる態度は事態が急迫したため反日の閑文字など掲載の余裕なきが如く受取られると見え、街に流布される風説は大衆の間に忽ち拡大され戦争恐怖の騒ぎとなるという風で一時はホテル、食堂、倶楽部、ホール、街の辻々で話題を独占した形となってしまった この情勢に鑑みケソン大統領は比島が近い将来に戦争に巻込まれるが如き危険は全くないと確信する、極東各地の比島人に対しては引揚げなどについて一切考慮していない、今後十八ケ月間、否三年くらいの間にマニラが空襲を受けるが如き危険は全くない 旨を述べ、不必要な騒ぎに警告、各新聞も不安一掃に努めたので最近に至って漸く平静化してきた状態である、日本は結局比島を侵略するであろうという恐日感は無責任な一部米国筋によって反日運動の材料となってきたが、世界情勢の目まぐるしい変遷はかかるあり来りの古材料を持出す暇さえ与えず、大きい力がぐんぐん圧力を加えているかの如く、これを脱せんとする焦慮にまで追詰められている観がある、この間にあって在留邦人は平静な態度を持し大国民の襟度と友好関係を持続し平常通り活躍しており、その間特に紛争を惹起するが如き事態には立至っていない

大阪朝日新聞 1941.2.17-1941.2.24 (昭和16)
東亜共栄圏と南方諸国 (1〜5)
東日南洋課長 渡瀬亮輔

(5) 日本を恐怖の幻影 比島 米に踊らさる
・・・比島の独立は、一九一六年ウィルソン米大統領が自治法案に署名し、さらに一九三四年十一月二十四日、ルーズヴェルト大統領が、タマ独立法案を裁可して以来法的基礎を有して今日まで変らず現在の比島独立準備政府においても、ケソン大統領初め政府首脳部は着々独立準備工作を進め、また米国上院における比島委員会の主宰者ミラード・イー・タイディングス氏も「米国と比島との政治的関係事項は終結した、比島人は完全にして絶対かつ無条件の独立を要求している、比島人は完全独立によってもたらされる一切の利益のみを享受し、米国は独立に伴う責任のみを持たされてよいものだろうか」と述べ、改めて比島の独立を再確認している。・・・

この意味において、米国依存経済からの分離は、独立を妨げる有力な論拠ともなり、かつ暗礁とも見られようが、記者が現地に見聞した観察を総合すると一般の比島人はこの種の経済問題をさして深刻に考えているようには見えず、むしろ”独立後に”来るべき第三国の侵略を幻影的に恐怖している様子が多分に見える、しかして、この幻影が大東亜共栄圏以来、日本の立像を大きくクローズアップしていることはいうまでもない
何故、比島人が日本を恐怖の幻影とするか、何故、かれらが恐日観念を抱くに至ったか、率直にいえば、最近著しく露骨化した米国の対日恐怖宣伝と、この恐怖感を利用する一部米国依存資本家の策動と断言し得るであろう
たとえば比島の有力紙「マニラ・ブレッティン」に掲載された「米国の与論」を紹介すれば、いわく「一九三五年以来、世界の小国は、相ついで独裁国の犠牲に供せられた、米国にして万一比島を見離せば、比島は果していつまでその自由を保持し得るであろうか、マニラは北方東京に向って、戦慄しつつあるのではないか」とか「比島に対する米国の主□が撤去されるその瞬間において、フィリッピン群島は日本の霧中に落込むであろう、恰も熟したりんごが落ちる如く日本は比島を香港に対する開門と心得、ボルネオへの橋梁と称している、比島に対するこの脅威は、将来とも継続するであろう、一九四六年の比島独立は、かかる二品の攻撃がスタートをきるべきを疑いもない行動開始時間である」といったものでフィリッピン人の恐怖心をそそるべく百パーセントの表現効果をねらったものばかりだ・・・

比島人は聡明でありその政治的手腕と才能わ高く評価されねばならぬが、マニラの首都エスコルタの街に見る如き軽佻浮薄なるアメリカニズムに耽溺していたのでは、永久に米国帝国主義の桎梏から脱し得ないであろう、す