「韓国がお願いしてきたんだ」というデマでよく根拠にされるのが一進会の合邦声明だが、それについては以前説明した
池田信夫氏「一進会の合邦運動に百万人署名」の真偽

そして一進会の他にもう一つ根拠としてしばしば挙げられるのが、ある韓国メディア記事である。
これが日韓併合の経緯だ!
2013/09/09 09:29

本音(あまり気が進まない)を隠したままの日本側に対し、まず合邦を打診したのは朝鮮側だった。総理大臣の李完用の側近である、新小説「血の涙」で知られる李人植が密使として動いたのだ〔ー2001.08.27.中央日報〕
http://asvaghosa.blog.fc2.com/?mode=m&no=8 

中央日報2001.08.27の記事
【噴水台】韓日合邦の魚
「網を張る前に魚が飛び込んできた」--。
1910年8月、韓日合邦の前夜の秘史についてこのように語ったのは、
当時の統監府外事局長、小松緑だった。心痛い証言だ。 
それは決して文学的修辞ではなく、惨めな無能の末、合邦を決めた
91年前の我々の姿だったことの確認であるからだ。明日、韓国は
庚戌(キョンスル)国恥日(韓日合邦)を迎える。 
この経路を振り返るに当たって、まずは「合邦の魚」の主役から見てみよう。
本音を隠したままの日本側に対し、まず合邦を打診したのは朝鮮側だった。
総理大臣の李完用(イ・ワンヨン)の側近である、新小説『血の涙』で知られる
李人稙(イ・インジック) が密使として動いたのだ。 
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=18651&servcode=100&code=100
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=teconomy&nid=3423055&tab=ten

日本へ併合を最初に打診したのは朝鮮側だった。という事実を直視する様に

しかし、朝鮮の方が積極的で、先に併合を打診してきます。総理大臣・李完用の側近である李人植が密使として日本に来ます。
http://nikkanheigo.japonismlove.com/keii.html

しかし、李人植の密談相手である小松緑の文章を読むと、それが間違いであることが分かる。

  まず李人植が小松緑を訪問した際、李は最初に「純然たる自己の意思より出でたるもので、李完用又は趙重応と打合せたる結果でない」(下線1)と断っている。つまり密使ではないと明言している。それを小松が勝手に「吾輩は、渠(かれ)が、当面の併合問題に就き、李趙両相の旨を承けて、いわゆる細作の任務を以て来たことを悟った」(下線2)と解釈しただけである。李は密談の終わりにも「実は、今晩、貴君一己の御考を窺ふ積りで参ったのでありましたが」(下線4)と、ただ小松の考えを聞きに来ただけで何ら韓国側から提案する意図ではなかったことを述べている。

  そして「大体に於て日韓一家となること丈けは、確定して動かないと言ってよい」(下線3)と、先に併合方針確定の話をしたのは小松である。

小松緑「朝鮮併合之裏面」大正九年九月二十日発行
https://books.google.co.jp/books?id=sfAKMhM1xDgC&printsec=frontcover&dq=%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BD%B5%E5%90%88%E4%B9%8B%E8%A3%8F%E9%9D%A2&hl=ja&sa=X&redir_esc=y#v=onepage&q=%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BD%B5%E5%90%88%E4%B9%8B%E8%A3%8F%E9%9D%A2&f=false
第九章「深夜の密談」の全文(p124~143)

  京城の夏は、日中こそ百度以上の暑さであるが、夕方になると、微風吹き起って、心地よき涼味を感ずる。吾輩は、退庁後に一時間ばかり昼眠をして夜に入ってから、調査や読書などをすることに極めてゐた。如何に夏の夜とは言ひながら、尋常の訪問には晩過ぎると思はれる十時頃に、突然、一人の来客が、南山脚下の官舎に来て、吾輩に面会を求めた。名刺を見ると、李人植とある。時節柄、吾輩は不審の感を起さゞるを得なかった。此の李人植といふ男は、趙重応と共に東京に亡命した人であった。其性質は極めて朴直であったが、学才のある所から、帰韓の後ちは、著述をしたり、新聞の主裁をしたりしてゐた。さうして、趙重応とは無二の親友であったが、同時に、李完用の信任を受けてゐた。此の時分は、その秘書役を勤めてゐた。明治三十年前後であったらうが、吾輩は、星亨、松本君平などの創立した神田の政治学校で、列国政治制度の講義をしたことがあった。その時分に、趙重応と李人植とが、科外生となって、其の講義録を講習してゐたといふ関係から、吾輩が、明治三十九年の初に、伊藤統監と共に、京城に来てから以来、吾輩を、旧師、賢師などゝ言ひつゝ、馳走をして呉れたり、渠(かれ)等の知友に紹介して呉れたりして、一方ならぬ好意を表して呉れた。別けて、李人植は、時折り吾輩の家に遊びに来て、好んで学問上の話をした。併し、寺内新統監が、着任してからは、今夜始めて来訪したのである。時間が余りに遅いので、吾輩は、只事ではあるまいと思った。
  遇って見ると、李人植は、何時になく沈鬱な様子で、口を開いた。面識以来、四年にもなるが、是れまで、未だ曾て打開くることを敢てしなかったほどの一大事に就き、苦衷を訴へ、教を乞はんが為めに、態と夜陰に乗じて、静座を妨げる由を、流調ではないが、解り易い日本語で話し出した。渠の来訪が、純然たる自己の意思より出でたるもので、李完用又は趙重応と打合せたる結果でない(1)こと、今夜の対話は、此の場限りの密談として、寺内統監の耳に入れて貰ひたくないことなどを、渠は、先づ以て特に注意した。併し渠が劈頭に、一大事と云ひ、李趙両相及寺内統監にまでも言及した所から考察して、吾輩は、渠が、当面の併合問題に就き、李趙両相の旨を承けて、いわゆる細作の任務を以て来たことを悟った(2)。そこで、吾輩も、渠を通して、李首相と語る心持ちで、応答した。此の対話は、結局、併合談判の端緒を啓いたものであった。大戦の前の斥候戦とも言ふべきものであった。吾輩が、此の一場の私談を、詳細に叙述せんとする所以は、之が為めである。
  渠は、眉宇の間に憂色を浮べつゝ、先づ根本問題より話し出した。『伊藤前統監が、哈爾賓で朝鮮人の為めに暗殺され、それに次いで、一進会が合邦論を唱へ出し、又日本にも併合説が盛んになって来たといふやうな事情を思ひ合せると、今日、何か大変革が起らねばならぬと、自分等は、諒解したので、近頃、私は李首相に逢って、早く去就の覚悟を極めるやうに勧めて見ました。二千万の朝鮮人と仆れて了ふか、将た六千万の日本人と共に進んで行くか、此の二つより外に、首相の取るべき途はない。若し首相の力、到底時局解決の任に堪へぬと云ふならば、是非に及ばない。耻を故国に晒らすよりも、曩に韓国を去って一身を全うした李学均を学んで、日韓孰れの法権も届かぬ所の上海にでも隠遁する外はあるまい。どちらの道に出でらるゝかと尋ねた。李首相は、霎時沈吟してから、徐ろに語らるゝやう、実は、旧臘、兇漢の為めに受けた刀創が、未だ全く快癒しないので、暫く閑地に就いて静養したいと思ひ、内部大臣の朴齊純に首相の職を譲らうとして相談したが、どうしても引受けて呉れない。そこで、農商工部大臣の趙重応に頼んで見たが、是れも首相の器に非ずとて辞退した。かくては、自分が退けば、内閣は瓦解する外はない。五賊又は七兇とまで呼ばれたほどの親日派の現内閣が、瓦解することになれば、現内閣以上の親日派内閣が、新たに出来るかどうか誠に痛心に堪へないと答へられた。李首相の境遇は、実に憐れむべきものではありませんか。』
 吾輩は、此の李人植の話を聞いて、是れは、誠に好い問題を持って来た哩と、心竊かに歓んだ。此の問題を推究して行くと李首相の併合に対する意向が、自然に判明するであらうと考へたからである。そこで、吾輩は、渠の話の途切れるのを待って、かう答へた。
『吾輩は、細目に就ては、能く承知してゐない。よしんば、それを知ってゐたところで、今は言外すべき時機でないが、大体に於て日韓一家となること丈けは、確定して動かないと言ってよい(3)。是れは、一大変革に相違ない。君は、二千万の朝鮮人と仆れるか、六千万の日本人と共に立つか、二途の中其の一を擇ぶやうに、李首相に勧めて見たと云はれるが、日韓併合といふ事は、二千万の朝鮮人を倒して、六千万の日本人を立てるといふ趣旨では、断じてない。その真意は、二千万の朝鮮人を困窮の死地から救ひ出すに在るのであるから、或は日本人六千万の為めには、却って不利益であるかも知れない。それは、兎に角、自分の諒解する所に拠れば、寺内新統監は、伊藤曾禰両前統監と均しく、現内閣を信任してゐる人であるから、現内閣をして掉尾の偉功を挙げさして、所謂有終の美を済さしめたいと思って居らるゝに違ひない。世間の噂のやうに、宋秉畯内閣を作るなどと云ふ考を、夢にも思ってゐられない事だけは、吾輩の何人にも言明するを憚らない所である。かの日韓合邦の主唱者で、而かも一般に日本政府の薬籠中の物のやうに疑はれてゐる宋秉畯に、新内閣を組織させて、それを、交渉談判の相手とすることは、頗る便利であるに相違なからうが、それでは、所謂自画自賛で、合意的国際条約を締結する意味を没却するやうなものである。君も日本に居られたから知ってゐるであらう、我々は、大和魂を持ってゐる。単に表面上の形式を取り繕うやふな卑怯な手段に訴へることは、断じて屑(いさぎよ)しとする所ではない。それならば万一現内閣員が自ら逃げ出した場合には、どうするかと云ふに、その時は、更に一時的の新内閣を作るやうな姑息の計に出づる代りに、統監は、直接韓帝に謁見して、国事を議するを得といふ権能に基き、韓帝と直接談判をされるかも知れない。憲法の制定なき韓国に於ては、必ずしも、内閣の仲介を要する必要がない。韓帝は、何人にても全権委員に勅命し給ふ権能を持って居られる。併しかういふ変則は、現内閣員が、其の責任を回避し、只自己の安全を図らんが為めに、国家の大事を擲って逃げ出した場合に起るものである。さうなると、現内閣員は、韓国からは、不忠の臣たる汚名を蒙り、日本からは、不義の人として唾棄せられ、天高く地広しと雖も、其の身を容るゝ処もないやうになりはせぬか。李首相の賢明なる、斯ばかり明白なる事理を解せぬ筈がない。併し、君の言はるゝやうに、李学均の跡を追うて、上海にでも逃亡するのは、妙計たるを失はない。』
  最後の一句は、戯談の積りで加へたのであった。真面目にばかり話してゐるのは、真消息を引出す所以でないと思ったからである。そこで、吾輩は、殊更に呵々と笑ひながら、手づからビールを注いで、渠に勧め、自分も飲んだ。広い応接間で、二人ぎり、固より誰も居なかった。李人植は、吾輩の懇談を聞いて、稍々安堵の思を為した様子で、直ぐに其の話を次ぎの問題に移した。
『若し寺内統監が、飽くまで現内閣を信任して下さるといふ事であれば、李完用は、漫に責任を避けやうとする人ではありません。実を申せば、病躯を努めて踏み留まらんとの決心を固められたのでありますが、さて、難問題は、王室の待遇である。現帝は、自ら位を退くの意を洩し給はざるに、臣子の分として、数千年来の社稷を一時に断絶する大事を言ひ出すに忍びないと語られたが、その時、李首相は、疲れた体を臥榻の上に横たへつゝ、声と共に涙を落された。私は、それを一寸見て、正視することができませんでした。』
  是れは、如何にも尤もな質問であると同時に、是非とも、心理的丈けにも先づ解決して置かねればならぬ要件であると、吾輩は考へた。単に現内閣が、併合談判に応ずるや否やを確めんとするのは、無理な注文で、さうして無駄な努力に終るに相違ない。 故に先づ併合条件の大体を語るのが、現内閣の最後の決心を促がすべき唯一の方策であらう。それと同時に、根本問題の是非を論究して、将来先方が情実に訴ふべき余地を予防して置く必要もある。幸ひ、李人植は、吾輩を政治学の師と仰ぐなどゝお世辞を言ひつゝ、茶話の際でも、屡々種々の政治的質問を発したことがあるから、吾輩は、先づ李人植に対し、一片の学説を試みる旨を予告した上、其の頃、朝鮮史を研究して得たばかりの印象から説き起して、併合条件の大要に及ばんと考へた。
『君は、数千年の社稷と謂はれたが、それは、日本のやうな開闢以来、万世一系の皇統を戴く国の事である。 韓国の如き易姓革命 頻繁であった国柄では、数千年の社稷などゝ言ふのは、無意味の浮辞に過ぎぬ。今併合と云へば、頗る奇異に響くかも知れないが、朝鮮内に於て、既に幾度びも併合があった。併合より悪い征服もあった。例へば、姑らく上古を措き、中世から見ても、新羅の金氏は、三十八代にして、高麗の王氏に征服された。その時、金氏は「暦数既に窮まれり。基業を復興するの望なし、願くは臣礼を以て相見えむ」と言った。かくして新羅を滅ぼして、朝鮮の天下を取った高麗の王氏は、それから、五百年の後ち、其の臣下たる李成桂の為めに滅ぼされた。李成桂は、当時の高麗王を以て、暗愚にして国政を執るに耐へぬものと認め、此の王氏を逐って、自ら王位に即いた。李成桂は、即ち現皇帝李坧陛下の始祖である。趙重応などは、自ら高麗朝の功臣だと誇ってゐるが、果して然りとすれば、高麗の国王を逐ひ払って、其の位を奪った李成桂の後裔たる現帝は、高麗朝の遺臣たる趙重応から見れば、旧敵に当る訳である。又外部との関係を見ると、今代の李朝になってからも、支那の隷属となってゐたことがある。明朝からも、清朝からも、封冊を受けて、其の正朔を奉じ、李氏は、終始支那の皇室を陛下と尊び、支那側からは、朝鮮王殿下と呼ばれてゐた。甲午戦役の後ちに、日本が、支那の覉絆より、韓国を救ひ出してから、朝鮮は、漸く独立の地位に上り、大韓国と言はれるやうになったに過ぎぬ。されば、今、日韓併合と云ったとて、決して稀有の珍事ではない。』
『況んやだ、 吾輩の洩れ聞く所に拠ると、今度の併合は、従来の変革の如く、戦勝者が戦敗者を圧伏するやうなものでないのは勿論、彼の近世に於て、仏国がマダガスカルを併合し、又、米国が布哇を併合した時のやうに、被併合国王を虐待するが如きものと同日の論ではない。マダガスカル国王は、孤島に流謫せられ、布哇国王は、市民に落されたが、韓帝陛下は、併合後、日本皇族の待遇を受けられ、向ほ今日と異ならざる歳費を給せられやうといふのが、我が天皇陛下の優渥なる思召であるかに承ってゐる。故に、現帝は、単に其の虚位空権を棄てらるゝのみで、実質に於ては、却って安泰の地位に移られ、従来の如き宮中紛擾の煩累や危険などから脱出せらるゝ訳である。又内閣大臣は勿論、他の大官にして、併合の実行に与り、又之に関係しないまでも、非違の行動に出でざる者には、悉く栄爵を授けられ、且つ其の地位を維持するに十分なる恩賜金をも給せらるゝとの事である。されば、併合は日本の為めばかりではなく、韓国の幸福である。之に由って、韓国は、世界の一等国たる日本帝国の一部となり、其の人民は、半開国の隷民より、一躍して堂々たる帝国臣民となるのである。此処が、従来の朝鮮に於ける興亡や外国に於ける併合などに比し、全然其の趣を異にする所以である。』
  吾輩は、尚ほ之に付け加へて、李人植の注意を促がした。前段の朝鮮興亡の事柄は、苟くも朝鮮歴史を知るほどの人の、容易に諒解する所、李人植の如き篤学者に対して、斯かる説明を試みたのは、釈迦に説法の類であらうと一笑したが、後段の韓国王室及大臣等の待遇に関する事柄は、大体確定して動かぬ所であると真面目に明言した。
  李人植は、吾輩の言ふ所を、常にない注意を以て聴いてゐたが、吾輩の話が終ると、直ぐかう言った。
『併合の実行問題に付ては、貴君らが、専ら関係して居らるゝことゝ諒解してゐますから、只今のお話は、一場の閑談ではなく、日本政府の大体方針を語られたことゝ考へられますが、果して、さういふ寛大な条件で、併合が行はれるものとすれば、李首相の痛心せらるゝほどの難件でもないと思はれるからして、首相は、決して其の責任を避けんとして、内閣を去らるゝやうな事はなからうと、自分は確信します。実は、今晩、貴君一己の御考を窺ふ積りで参ったのでありましたが(4)、僥倖にも、斯くまで打開けた御説を承るころができたのは、感謝の至りにも堪へません。尚ほ茲に念の為めに伺ひたい事は、お話の要領を、李首相丈けに内密に伝へたいと思ふが、差支はありませぬか。』
 固より差支のあらう筈はない。併し、渠が、かく念を推した底意は、吾輩の話したことが、無責任な想像説であるか、将た、それが、本当の日本政府の真意であるかを、一層確めて見たいといふのであらう、それと同時に、李人植が、繰り返へして言った所の、李首相が内閣に踏み留まって、併合談判に応ずるに相違ないと云ふ事が、果して信用ができやうか、或は、逆打の心で見せた誘ひの隙ではあるまいか、此方では、それも、一応確かめて見たかった。
『只今、吾輩の話した所は、固より事件の全部でなく、其の小部分に過ぎないけれども、既に話しただけの事柄は、悉く真実である。併し、今の処では、絶対秘密となってゐるから、吾輩は、未だ曾て何人にも、一言だに口外したことはない。若し、今晩の話が世間に洩れるとすると、君より外に責任者がない訳である。君が李首相に話すだけは、差支ないとしても、李首相から外に洩されては大変だから、その辺は、言ふまでもないことだが、特に注意して貰ひたい。寺内統監の意図は、和気靄々の間に、合意的協定を遂げて、飽くまで、一家団欒の親愛関係を結びたいといふのである。若し相互に、意思が齟齬したり、希望が背駆してゐるに拘らず、一方は強制的に、他方は形式的に、一時を糊塗する丈けでは、当面の実行が、何ほど容易であっても、将来に抜くべからざる禍根を胎すことになる。それでは、雙方の為めにならぬから、併合の本旨は、徹底的に諒解せられねばならぬ。君が、李首相に話す時には、片言隻語を慎んでくれぬと、所謂毫釐の失、千里の差を生ずる患がある。その用意さへあれば、李首相だけに内密に洩されることは差支えない。但し吾輩の方にも、それに関連して一つの要求がある。それは外でもない。君の話を聞いてから、李首相の起された感想に就ては、必ず時を移さずに知らせて貰ひたい事である。由々しき大事を打開けた吾輩としては、是れが当然の要求であると、御承知を願ひたい。』
  李人植は、此の意を諒とし、善悪に拘らず、一応報告に来る旨を言ひ遺して、十二時少し前に帰って行った。 
  李人植の前後の口吻から推察して、吾輩は、当方の併合条件が、先方の予想してゐた所よりも遙かに寛大であったやうに思って、頗る快感を禁じ得なかった。吾輩は、渠が帰へると、直ぐに、彼我の対話を筆記した。翌朝、それを浄書して、寺内統監に見せた。李人植も、多分同じ日に、李首相に一部始終を告げたことゝ思った。併し、渠は、二三日経っても見えなかった。やうやく四日目の八日になって、又夜遅くやって来た。其の間、吾輩は多少心配してゐたので、直ぐに会って見ると、渠は、前晩のやうに沈鬱な顔をしてはゐなかった。渠は先づ余り訪問を続けると、或は世間の疑惑を招く虞があるので、態と三四日間差控へてゐたことを述べ、更らに前夜の談話の大要を、李首相に伝へたところ、李首相は、一々首肯されたのみで、各事項に対し、可否の意見を加へられなかったが、唯々最後に、余り永引くと、意外の故障が起るかも知れないから、一日も早く、時局を片付けた方が得策であらうと言はれた。それ丈けを、特に報告すると語った。そこで、吾輩は、それは、如何にも御尤もなる御注意であるから、早速寺内統監に伝へる旨を答へたのみで、外に何も話をせずに別れた。
  吾輩は、李人植の挨拶を、寺内統監に告げた上、最早談判開始の時機が熟したものと思はれる旨を付け加へた。そこで、寺内統監は、使者を立てゝ李首相を招かれた。此の使者は、曾て京城の日本公使館に通訳官として永らく在勤し、統監府になってから、人事局長に就任してゐた国分象太郎であった。国分は、使の事であるから、勿論、談判の内容には触れなかったが、先づ日韓併合の件に関し面会したしとの統監の意を伝へ、更に世間の注視を避ける為めに、夜中にても、統監邸に来られてはどうかと注意した。すると、李首相は、夜中に往復すると、却って世人の疑を招く恐れがあるから、寧ろ白昼公然趙重応と共に訪問致す方がよからう、幸ひ日本に於ては、例年にない大洪水があったといふ事であるから、統監を通じて日本皇室に水害の見舞を申上げると云ふ事にして伺はふと答へた。此の思付は、流石に李完用の偉い所である。当時、統監邸の周囲には、内外の新聞記者や通信員が、昼夜を別たず、鵜の目、鷹の目で、監視してゐたのであるから、夜中たりとも、その注視を免かるゝことは六ヶ敷かったのである。
  李人植が、吾輩を最後に訪問してから八日目の八月十六日に、二頭立の馬車が、堂々として統監邸に走って来た。その中に、李完用と趙重応とが同乗してゐた。一日千秋の思ひで待ち受けた所の新聞記者や通信員は、それ、談判の開始だと言ひつゝ、我れ先きに、統監邸に押し寄せて来た。受付で聞くと、水害見舞に来たのだと言ふ。それかあらぬか、僅か三十分も経たぬ中に、両相は、再び馬車を駆って、堂々と引返へして行って了った。厚顔な、否職務に忠実な操觚者連中は、吾々を要して、何事が、議題に上ったかと、頻りに探らんと試みた。吾々は、渠等の質問に対して、心ならずも偽りの答を与へた。我が天皇陛下までも宸襟を悩まし給ふほどの水害があったので、単にそれに対する見舞の挨拶を述べるために来たのである。併合談判の予備交渉に、白昼公然人の耳目を冒して堂々と乗り込むといふやうな事は、朝鮮ではない図ではないかと、巧みに渠等を欺いた。其の後数日間何の音沙汰もなかったので、渠等は、吾々の言辞を信じて、談判の開始とは思はない様子であった。斯る白々しい虚言を吐くのは、如何にも心苦しかったけれども、国家の大事には代へられなかったのである。今日となって、吾輩は、始めて其の内容を打開くべき自由を有する。責めてもの罪滅ぼしに、いざ、これより其の真相を語らう。