以下の資料によると、伊藤は併合前年の1909年4月10日に賛成した。

小松緑「朝鮮併合之裏面」大正九年九月二十日発行
https://books.google.co.jp/books?id=sfAKMhM1xDgC&printsec=frontcover&dq=%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BD%B5%E5%90%88%E4%B9%8B%E8%A3%8F%E9%9D%A2&hl=ja&sa=X&redir_esc=y#v=onepage&q=%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BD%B5%E5%90%88%E4%B9%8B%E8%A3%8F%E9%9D%A2&f=false
第二章「霊南坂の三頭密議」8~12頁、15~17頁

 朝鮮併合の廟議は、何時確定したる乎といふに、それが、正式の閣議を経て、天皇陛下の御裁可を得たのは、明治四十二年七月六日であるが、此の時より約三箇月以前の四月十日に、当時の総理大臣桂太郎と、外務大臣小村寿太郎とが、相与に統監伊藤博文と赤坂霊南坂の官邸に会見し、朝鮮併合の実行方針を協議した時を以て、廟議が確実に決定したことゝ認むべきである。此の事実は、当時無論極秘に付せられてゐたから、従来世間に知られなかった。それ故へ、伊藤公が、若し哈爾賓に於て変死しなかったならば、朝鮮併合は、爾かく急速に実現しなかったであらうなどと言ふ人が、今尚ほ内外に少なくない。それは、全然誤解であるが、世間にかういふ感想を懐く者の少くないのは、必ずしも無理でない。桂首相や小村外相でさへも、霊南坂会見の時までは、伊藤公が飽くまで漸進主義を固持して居られたやうに思ひ込んだのである。
  此の隠れたる会見事情は、今日に於ける誤解を釈く為めにも、又後世史家の参考資料としても、精確に語る価値あるものと、吾輩は信ずる者である。
  霊南坂会見の当日が、明治四十二年四月十日とすると、伊藤統監の辞職に先だつこと約二箇月、併合実行の時から一年四箇月以前になる。吾輩は、此の時京城に居ったので、此の会見の事を知らなかったから、其の内容と時日とを確むる為めに、其の後ち単に伊藤統監及小村外相から聞いた断片的の直話のみに満足せず、更に後日の確証を得て置きたいと思って、当時の政務局長後ちの外務次官倉知鉄吉から覚書を手に入れた。此の覚書は、吾輩の私信に対する回答である上に、今日では、秘密文書の性質を失って、却って有力なる史料と認むべきものとなったから、其の全文を本章の末尾に添付することにした。其の中には、霊南坂会見の内容及時日のみならず、併合といふ文字を創作した苦心談も述べてある。
  元来、朝鮮の併合は、独り内政上の重大事件なるのみならず、或は容易ならぬ外交問題の起るべき可能性を持ってゐたものである。随って要路の責任者中異論があっては、到底円滑に其の目的を達することができない。当時山縣有朋は、枢密院議長として、初から朝鮮併合の議に与かり、賛成者といふよりも、寧ろ主唱者であった。肝腎の伊藤統監は、由来温和主義の政治家で何時も急激の政策に反対する性格を持ってゐた。故に朝鮮併合の提案に対し縦し主義に於て反対しないとしても、其の時機や、順序や、条件などに就ては、必ず種々の議論を持って居られるであらうとは、桂首相及小村外相が、心竊かに期待した所であった。そこで、両相が相携へて、当時恰も辞職の意を決して上京されてゐた伊藤統監を訪ふ時には、公と大議論を闘はす積りで朝鮮併合の万止むを得ざる理由及事情を立証すべき書類を充分に取り纏め、斯く問はれたらば、斯く答へむ、爾かく難詰せられたらば、爾かく弁明せんなどゝ、千々に心を砕いたといふことである。愈々伊藤統監に面会して、桂首相先づ口を開いて、朝鮮問題は、同国を我国に併合するより外に解決の途がない旨を告げると、伊藤統監は、案外にも、それは至極御同感ぢゃと言はれる。そこで、小村外相から、実行方針として、条約の締結や、王室の処分法等を述べて、公の意見を叩かれた。伊藤統監はそれを傾聴し、説明も求めず、質問も発せず、其れも好し、此れも可也とて、悉く同意を表せられた。是に於て、桂首相も小村外相も、今まで緊張した力も抜けて、意外の感に打たれた。同じ拍子抜けでも、これは、失望ではなく、得意の方であったから両相は、伊藤公の大量に敬服して退出したといふことである。此の事実は、吾輩が小村外相より親しく聞いた所であり、又倉知次官の手記した覚書の語句に徴しても、誤りのないことが判る。・・・
 
(参照)
覚書 
明治四十二年春曾禰子爵の伊藤公爵に代りて統監に任ぜらるる内議ある際右交迭に先ぢ韓国問題に●する我大方針を確立し且之を文書となし置くことを必要なりとし小村外相より自分(当時政務局長)に右文案の起●を命ぜられ且本件に関する外相の意見の大要を指示せられたり。自分が右指示に基き立案し更に同外相の意見に依り之に修正を加へ遂に確定草案となりたるもの即ち別紙第一号方針書及施設大綱書なり。
該案は三月三十日を以て外相より桂首相に提出せられたるも当時右は最機密として取扱はれ之に関し何等記録の残留するものなし。然れども小村外相の自分に語られたる所に依れば外相は右に対し桂首相の同意を得たる後相携へて伊藤公(当時統監)を訪問し本件に関する熟議を遂げんことを欲し四月初め毛利公爵邸園遊会の折同公と訪問の約をなし●て四月十日桂小村両相伊藤公に会見し意見を述べ窃かに或は同公より議論の出づべきことを期したるに公は以外にも右に対し同意の旨を明言せられ両相は格別の論議をなさずして同公邸を辞せたれたりと云ふ
然るに該案は尚久しく之を極秘に付せられ同年七月六日に至り初めて之を閣議に付して各大臣の署名を得且同日陛下の御裁決を経たりと記憶す。 
因に曰ふ当時我官民間に韓国併合の論少からざりしも併合の思想未だ十分明確ならず。或は日韓両国対等にて合一するが如き思想あり又或は墺匃国の如き種類の国家を作るの意味に解する者あり。従て文字も亦合邦或は合併等の字を用ゐたりしが自分は韓国が全然廃滅に帰して帝国領土の一部となるの意を明かにすると同時に其語調の余りに過激ならざる文字を選まんと欲し種々苦慮したるも遂に適当の文字を発見すること能はず。依りて当時未だ一般に用ゐられ居らざる文字を選む方得策と認め併合なる文字を前記文書に用ゐたり。之より以後公文書には常に併合なる文字を用ゆることとなれり。乍序付記す。
・・・
以上
大正二年三月十日 倉知鉄吉 

外務省蔵版
日本外交文書別冊
小村外交史 上
新聞月鑑社

例言
一、外務省編纂の「日本外交文書」は、目下明治二十七年度分を了り、とりいそいで続刊するよう進めているが、しかし明治時代を完了するには、なお両三年を要する。また右は極めて専門書であるので、一般読者にとっては恰好なものとは言い難い。そこでこゝに、信夫淳平博士の旧稿「侯爵小村寿太郎伝」を補訂のうえ、「日本外交文書」別冊『小村外交史』として刊行することゝした。
一、「侯爵小村寿太郎伝」は大正十年代の稿になるが、種々の理由から、外務省に秘蔵しきたったものである。
今般発刊にあたっては、改めて信夫博士に一覧をねがい、更に青木新元公使、佐藤信太郎元参事官に閲読および添削を願った。
一、しかし、本書の最終的補訂および年表の作成には、臼井勝美事務官が主として苦心をはらった。その際「外務省記録」のほか、「日英外交史」「日露交渉史」「通商条約と通商政策の変遷」(何れも外務省編纂)等を主に参照した。
一、なお本書には必要な索引を欠き、また用字、用語、かなづかい等の不備、或いは構文ならびに見解の不統一な箇所が見られるが、史実を伝えることを主旨として、そのまゝ出版することにした。この点特に御了承を願いたい。
なお敬称は殆んど之を省略した。
昭和二十八年二月
編者誌
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/pdfs/komura-1_00.pdf
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/komura-2.html

第十章 第二次外務大臣時代
第二節 東亜問題の処理
第四款 韓国併合の決行
 これより先き曾禰の統監陞任の内議ありし頃、小村はもはや予め韓国問題に関する今後の大方針を確立し置くの要ありと認め、私に倉知政務局長に要旨を授けて意見書を起草せしめ、その成案に更に自ら加筆の上、対韓大方針及び施政〔ママ〕大綱の二編として同四十二年三月三十日を以て之を首相桂に提出した。

其の要旨は、先づ対韓方針に於て
帝国の韓国に対する政策の我が実力を同半島に確立し之が把握を厳密ならしむるに在るは言を俟たず、日露戦役開始以来韓国に対する我が権力は漸次其の大を加え、殊に一昨年日韓協約の締結と共に同国に於ける施政は大に其の面目を改めたりと雖も、同国に於ける我が勢力は尚ほ未だ充分に充実するに至らず、同国官民の我れに対する関係も亦未だ全く満足すべからざるものあるを以て、帝国は今後益々同国に於ける実力を増進し、其の根底を深くし内外に対し争うべからざる勢力を樹立するに努むることを要す。而して此の目的を達するには、此の際帝国政府に於て左の大方針を確定し、之に基き諸般の計画を実行することを必要とす
第一 適当の時機に於て韓国の併合を断行すること
第二 併合の時機到来する迄は併合の方針に基き充分に保護の実権を収め努めて実力の扶植を図るべきこと

次に対韓施設大網として
韓国に対する帝国政府の大方針決定せられたる上は同国に対する施設は併合の時機到来する迄大要左の項目に依り之を実行することを必要なりと認む
第一 帝国政府は既定の方針に依り韓国の防禦及び秩序の維持を担任し之が為めに必要なる軍隊を同国に駐屯せしめ、且出来得る限り多数の憲兵及び警察官を同国に増派し充分に秩序維持の目的を達すること
第二 韓国に於ける外国交渉事務は既定の方針に依り之を我手に把持すること
第三 韓国鉄道を帝国鉄道院の管轄に移し同院監督の下に南満洲鉄道との間に密接なる連絡を結び我が大陸鉄道の統一と発展を図ること
第四 成るべく多数の本邦人を韓国内に移植し我が実力の根底を深くすると同時に日韓間の経済関係を密接ならしむること
第五、韓国中央政府及び地方官庁に在住する本邦人官吏の権限を拡張し一層敏活にして統一的の施政を行うを期すること

長文の意見書なるも、その眼目は適当の時機に於て韓国の併合を断行することの一句にあった。これを断行すべきいわゆる適当の時機なるものは、小村の最る苦慮した所であった。その第一は列国の思惑である。小村は往年ポーツマスを引揚げて後、病を冒して大統領ローズヴエルトを訪い、韓国の将来に就てその諒解を得た。けれども他の関係列国の態度は当時なお不明で、よしんばポーツマス條約、対韓保護権の設定、ハーグ密使事件に伴える第三回日韓協約は次第に韓国の命脈を縮め、その終局の運命の帰着する所は列国夙にとれを諒得しないではなかったけれども、愈々併合を断行するとなっては、これに関する外交の運用にはよほど慎慮を要するものがあった。殊に列国中には、当時我が満洲経営を以て、曾て声明した門戸開放の主義に反するものとする声も高く、旁々我が極東政策上併合決行のことには格段の留意を払わざるべからざるは論を俟たない。第二には日清戦役以来我が政府が韓国に関して為した累次の宣明である。我が政府は韓国の独立扶翼、独立維持等を幾たびか宣明した。よしんばこれ等の宣明は、各その時代に於ける当該事態に応ぜしめたもので、時勢の変遷は政策の変遷を要すること論なしとするも、我方より進んで併合を決行することは聊か面白からざる関係もあるので、小村は主義としては併合断行の決意は疾く四十二年の初めに於て既に牢乎として抜くべからざるものがあったが、これ等機微の関係に鑑み、寧ろ満を持して適当の時機の到来を俟つの方針であつた。
 小村の対韓案については、桂は公然同意を表したので、小村と桂は追ってこれを閣議に諮るに先だち、当時なお統監の職にあった伊藤と予め熟議を遂げ置かんと欲し、四十二年四月十日相携えて伊藤を訪い、交々意見を述べた。その際伊藤から多少異議が出るであろうと予想していた小村と桂は、伊藤が即座に同意を表したのにはやゝ意外の感に打たれた。勿論当日は極めて大体の意見交換に過ぎなかったが、伊藤が大体に於て併合の早晩已むべからざることを当日容認したのは事実である。世には伊藤の併合論に賛したのを遥に晩年のことと推断せる説者もあるが、伊藤の三十九年末初めて統監職に就いた頃、その特に選叙した幕僚中には、疾く併合の急伸論を伊藤に献策したものもあったが、伊藤は自己の意中を語らなかった。勿論統監政治創業の当時、伊藤の胸中既に併合論を抱けるものと見るのは早計で、そのこれに傾くに至れる迄には相応の時期も順序もあった。伊藤は初め埃及に於けるクローマーを師として韓国に莅み、飽く迄指導、保護、監理の範囲内にあって統監政治の実を挙げる方針であったが、躬その局に当り親しく韓国の事態を究むるに連れ、二頭政治の半殺半活的制度の到底永続すべからざるを感知するに至った。谷干城の四十一年九月二十日の日誌にも「二十日午前八時、伊藤侯を帝国ホテルに訪う。快談一時間計、緻密なる韓国談を聴く。侯の前途の定見は覚支なきが如し」とありて、伊藤はその頃には、既に統監政治の現状を長えに固執すべしとは考えていなかったようである。翌四十二年の春、伊藤が大磯の別墅で山県と会晤し、談韓国の将来に及びし折、山県の日韓一帝論に対し伊藤はその決行の容易ならざるを弁ずる所あった。この消息の外間に洩れた当時、山県の併合論に対する伊藤の非併合論として政界の一角に伝えられたが、伊藤の考慮したのは主義上の非併合論でなくして、ただこれを決行するの難易について深く慮る所があった。山県との論難も、若し論難があったとすれば、専らこの点に外ならざりしは想像するに難くない。されば同四十二年四月、伊藤は東洋協会に於けるその演説中に於て
 「今は日韓両国互に利害を同じうし、共に同一目的に進み、更に進んで一家とならんとするの境遇にある。しかもこの理を解しないで徒に種々の流言を放ち、両国の人心を阻碍せんとするものもある。殊に韓人の多数は世界の情勢に通ぜず、否な遠き世界のみならず、近接の日本の事情をも判じない。願くは韓人も日本の情勢を視察し、両国利害共通の理を会得し、以て一家の如く相親和するに努めよ。列国の大勢は合するものは強く、離るゝものは弱い。如何なる大国とても、各同盟の力を借りつゝある現状ではないか。韓国民たるもの深く慮る所なければならぬ。」
といった。日韓一家の語は婉曲なるも言外に味うべきものがある。勿論その前年すなわち四十一年の七月、前述のハーグ密使事件に伴える第三回日韓協約の成立後、伊藤は韓廷諸高官の前で
「韓国の独立自主は一に日本の主張に係るものである。過去数百年間、韓国には未だ曾て一人の独立を唱えたものはない。しかも今回の日韓協約を以て、或は韓国の独立を破壊蹂躙せんとするものゝ如く思うが如きは何の心であるか。独立は僅に三十年以来、日本が韓国に与えた空名である。けれども日本は敢て韓国を併呑せんとするのではない。併呑は日本に取りて寧ろ迷惑である。日本は既に確実に韓国を保護している。何を苦んで併呑を為さんや。」
と演述したることもあったが、時は恰も新協約締結早々の際であったが故に、併呑に意なきをいうのは時節柄当然の辞令と認むべく、しかも韓国の独立自由は日本の賦与せしもの、剰さえ、そは空名同様のものと言明したのは、伊藤によりて初めて千釣の重きを成せるもので、同時に伊藤の既に独立万能論者でないことを反面に暗示せるものと見得るのである。現に明治四十年の第一回日露協約交渉の際、その内容について伊藤は統監として京城から種々意見を或は西園寺首相、或は林外相に電致し、中に於て我が政府の韓国問題の将来の発展に対し露国のこれを妨害せざるべきを約さしめんとしたる一条に関し、本野大使の「露国若し協約の明文として挿入するに異議あらばこれを秘密の文書交換に譲るべく、秘密の文書と為す以上は、他日の誤解を防か〔ママ〕んがため、将来の発展なる文字は判然アネキゼーションに及ぶ意義なることを明かにして置くを要す」との意見を林から伊藤に転電した際、伊藤は林に対し「本野の稟議の如く文書の交換に於て将来の発展なる語はアネキゼーション迄をも包含する旨を明かにして置くのは最も得策である。韓国の形勢今日の如くにして推移せば、年を経るに従いアネキゼーションは益々困難となろうから、今日に於て我が意思の存する所を明かにし、予め露国の承諾を得置くに若かず」との意見を回電した。これは四十年四月十三日のことである。この後同年七月三十日日露協約の調印を見るに至れる間に於て、如何に伊藤が韓国の将来に関しこの際を機として少くも露国との間に完全な諒解を遂げ置くの必要を切々当局者に縷説したかは、当年の記録がこれを証して居る。知るべし伊藤は四十年の春、既に併合の実行上に横わる難関を予め排除するについて切偲措かざるものがあったことを。事実四十一、二年の交には、伊藤の対韓思想は統監就職時に比し著しく進境を呈し、胸中既に併合の已むべからざるを固く信じていたと見るべく、現に四十二年の初夏まさに韓京を辞さんとする際、有力な一部下に「併合は日露戦役後直ちに断交し置くべかりしに」と語り、これを聴いた部下は「列国関係が面倒ならざりしや」と質問したるに、伊藤は「否な格別のこともあらざりしならん」と答えたという実話もある。次で京城より仁川に下り、同地官民の催せる送別会上、伊藤はその離別の辞に於て「韓国民の生活状態を察するに、この三年有半の間に於て改良進歩するを得たりと信ずるの程度に達しない。これ自分の力及ばざるがためか、或は韓人自ら勉めず、自ら励まずやゝもすれば他国の保護の下に居るを甘んぜざるの徒往々にあるがために然るか。自分は今日まで韓国政府を指導啓発して韓国民の幸福を増進せんと欲し、これがため自分の心力を尽して韓国皇室及び政府または地方官に警告した。自分は固よりその方針に誤なしと確信するも、その功績未だ相伴わざるもの往々あるのは頗る遺憾とする所である」と述べたが、これは一面に於て、伊藤がその対韓保護政治に対する絶望の情を言外に吐露したものとも解せられた。
 程なく伊藤は統監の職を辞して枢密院議長に転じた。伊藤は前年の秋既に辞意を申立てたが、山県、桂、山本等交々切に留任を求めたので一時京城に帰任したが、四十二年二月韓帝の南北巡幸のことを終えて上京した際には、辞意既に固かった。何故に辞意が爾く固かったか、又何故に山県、桂の巨頭がこれを認諾したかの消息は、今に至っても揣摩臆測なお充分に解知し得ない。伊藤からいえば、多少は山県、桂に対する反発的感情もあったであろう。桂の意中として当時皮肉に解釈したものゝ説では、伊藤は既に桂と韓国の将来に就て意見を交換し、既に併合論に傾いていたが、伊藤のこととていつこれを実行する積りなるや予測し難く、また荏再日月を送るの間、これを伊藤に督促する訳にもゆかず、さりとて桂内閣の一大勲績として実行した併合を伊藤にやらして、その功を奪わるゝのも面白からず、これ表面伊藤の留任を慫慂しつゝ裏面その辞職を欣諾した所以なりとあったが、そは余りに穿った一説かもしれない。伊藤の後任曾禰に対しては、桂はことさら終局の併合胸算を語らず、却って伊藤前統監の方針を体してその遺業を大成すべき旨を伊藤列坐の所で訓示した。曾禰は之を以て政府の方針は現状維持にありと額面通りに解し、後日一進会の合邦運動起るや努めてこれを抑止し、次で統監職を寺内に譲った。
 去程に曾禰は六月十四日を以て統監の任を拝し、直ちに東京を発して同月下旬京城に着し、現状維持の方針の下に殖産政策を以て悠々韓国開発の業を挙げんとしつゝあったが、他の一方に於て首相桂はその翌七月七日、前に述べた小村の対韓案を閣議に付してこれを決定し、同日参内伏奏して聖裁を得た。そこで小村は、併合実行の時機如何は予測し難きも、何時好時機の到るやも知れざるに鑑み、これに応ずる手筈を定め置くの要ありとし、併合断行の順序方法等の細目に就て更に推敲を重ね、すなわち韓国併合の宣布、韓国皇室の処分、韓国将来の統治、対外関係等に亘る諸項を詳に具した意見書を七月下旬桂の手許に提出した。併合の文字は立案の命を受けた倉知政務局長に於て、韓国の処分は二国対等の合邦でなくして、韓国を我が領土の一部とする意を明かにすると同時に、語調の成るべく激しくないものを採択せんと苦心の末、当時まで世人の多く用いなかった併合の文字を考案した次第で、爾後公用語となったものである。該意見書は左の如くである。

韓半島ニ於ケル我ガ実力ヲ確立シ併セテ韓国ト諸外国トノ条約関係ヲ消滅セシムル為メ適当時機二於テ韓国ノ併合ヲ断行スヘキコトハ曩ニ廟議ニ於テ決定セラレタル所ナリ
併合実行ノ時機如何ハ内外状勢ニ依リテ決スヘキ問題ニ属シ今二於テ之ヲ測知スルヲ得ザルハ勿論ナリト雖モ内外ノ状勢ハ日々推移シテ止マザルヲ以テ今後予見スベカラザル新事実ノ発生スルアリテ何時併合実行ノ機会到来スルヤモ料リ難ク従ツテ右実行ノ場合ニ於テ我ガ取ルベキ方針及ビ措置ハ今ヨリ之ガ講究ヲ遂ゲ以テ万一ノ違算ナキヲ期スルヲ必要ナリトス依ツテ左ノ四項ニ基キ別紙ニ之ガ細目ヲ掲記シテ講究ノ資ニ供ス
第一 併合ノ宣布
(一)併合実行ノ際ニハ特ニ詔勅ヲ発シ併合ノ事実ヲ内外ニ宣布セラレ併セテ左ノ事項ヲ宣明セラルヽコト
(イ)併合ヲ実行スルノ已ムヲ得ザルニ至リタル事由
(ロ)東洋永遠ノ平和ヲ維持シ帝国ノ安固ヲ確保シ併セテ韓民並ニ韓半島ニ於ケル外国人ノ康寧ヲ増進スル為メ併合ノ必要ナルコ〔ママ〕
(ハ)半島ニ於ケル外国ノ権利ハ併合ニ依リテ生ジタル新事態ト両立スベカラザルモノヲ除クノ外帝国政府ニ於テ充分之ヲ保証スヘキコト
(ニ)右詔勅ニ於テハ尚ホ韓半島ノ統治ノ全然天皇大権ノ行動二属スル旨ヲ示サレ以テ半島ノ統治ガ帝国憲法ノ条章二遵拠スルヲ要セザルコトヲ明ニシ後日ノ争議ヲ予防スルコト

第二 韓国皇室ノ処分
(一)韓国ノ併合ト同時二同皇室ヲシテ名実共ニ全然政権ニ関係セザラシメ以テ韓人異図ノ根本ヲ絶ツコト
(二)韓国皇帝ハ全然之ヲ廃位トシ現皇帝ヲ大公殿下ト称スルコト
(三)太皇帝、現皇太子及ビ義親王ハ之ヲ公殿下ト称スルコト
(四)大公殿下、公殿下、及ビ其ノ一門ハ之ヲ東京二移居セシムルコト (五)大公殿下、公殿下、及ビ其ノ一門ニ対シテハ我ガ皇室及ビ華族ノ例ヲ参酌シ特別ノ礼遇及ビ特典ヲ与フルコト
(六)大公家及ビ公家ニ対シテハ経費トシテ国庫ヨリ一定ノ年額ヲ支給スルコト、但シ大公家及ビ公家二関スルー切ノ事務ハ宮内大臣二於テ之ヲ管理スルコト
(七)併合実行ノ際韓国皇室ニ属スル財産ニシテ皇室私有ノ性質ヲ有スルモノハ、之ヲ大公家又は公家ノ所有ト為シ、私有ノ性質ヲ有セザルモノハ之ヲ帝国政府ノ所有二移スコト

第三 韓半島統治
(一)中央官庁ノコト 略ス
(二)地方官庁ノコト 〃
(三)裁判所ノコト  〃

第四 対外関係
(一)韓国ト諸外国トノ条約ハ併合ト同時二消滅二帰シ法権及ビ税権ハ全ク我レニ帰スルニ至ルベキニ依リ詔勅ヲ以テ併合ヲ宣布セラルヽト同時ニ帝国政府ヨリ関係諸国ニ併合ノ趣ヲ通告シ且左ノ事項ヲ宣言スルコト
(イ)帝国ト諸外国トノ条約ハ韓半島ニ適用シ得ル限其ノ効力ヲ同半島二及ボスコト
(ロ)外国人二関スル司法事務ハ在韓日本裁判所ニ於テ之ヲ取扱フコト
(ハ)輸出税ハ併合ト同時ニ之ヲ全廃シ輸入税ハ当分ノ間現行韓国税率ト同一ノ率ニ依リ之ヲ徴収スルコト
(二)外国人ノ既得権ハ併合ニ依リテ生ジタル新事態ト両立スベカラザル モノヲ除クノ外、充分之ヲ保護スヘキコト
(ホ)半島内地ヲ外国人ニ開放シ居住及ビ営業ヲ為スノ自由ヲ享有セシムベキコト
(ヘ)半島ニ於ケル土地ノ所有権ハ之ヲ外国人ニ附与スルコト
(ト)日本ト韓国間及ビ韓国各港間ノ沿岸貿易ハ当分ノ間従前通リ之ヲ外国船舶ニ許スコト
(二)清国二於テハ我レニ対シ内地雑居ト土地所有権トヲ許サザルヲ以テ同国人ニ対シテハ右ニ関シ相当ノ制限ヲ設クルコトトシ其ノ趣旨ニ依リ前項ノ宣言ヲ発スルコト

桂は次で小村の意見書を閣議に付し、閣僚一同これに賛し、なお別に併合の条約締結の形式によつて行われない場合の措置をも攻究する所があつた。
 間もなく同年十月二十六日、伊藤は哈爾賓駅頭で韓人安重根の狙撃に遭い遂に薨去した。この椿事の飛報京城に達するや、一進会の如きは国人の自暴自棄を痛惜し、李家五百年の命数は茲に尽きたりと論じたものもあつた。されど我が內地にあつては、此の偉人の喪失に対し朝野挙つて深く哀悼の意を表したのは勿論であつたが、それ以上には少くも政府は冷静の態度を持し、進んで何等の行動を試むるの風もなかつた。然しながら、この事件の痛く我が国民全般の対韓感情を刺戟したのは掩い得ない。桂は機を見て韓国併合の宿志を実現しようと思いつゝあつた際、伊藤の遭難突如として起り、そして内に於ては、我が対韓政策上に最後の解決を与うべき時機到れりと信ずる有志者は、対韓同志会を組織して徐に国論を喚起し、外にありては、これと声息を通ぜる一進会の領袖李容九、宋秉畯等日韓合邦を主唱して、陳情書を韓帝、当局有司、及び我が統監に提出した。桂は、その宿論実行の機会が漸く到来するのを認めたが、必しもこれ等内外の運動に動かされたのでない。桂は別に当時我が極東の将来及び対列国関係を顧念し、寧ろ宿論を断行して国際上に於ける我が旗色を鮮明ならしむるに若かずと考えたのである。されど韓国に於ける合邦運動は、機運なお熟しなかったのみならず、曾禰は韓国有志者との間に意思の疏通を欠き、独り併合の機運を利導せざりしのみか、却ってこの運動に与かれる韓人を抑圧するの方針を執り、管下の新聞紙を通じて「日本の対韓方針は今日に於て何等の変更を来さず。韓人の合邦賛否論は或程度まで言論の自由に属するので敢て制止しない。一進会の上奏は国民一部の意見として聞き置くも、進んで国内の治安を妨害し、日韓の関係に阻擬を与うるの虞ありと認めれば、 その何会たるを問わず断然たる処置を加うべきは勿論で、韓国内閣に対してこの意を以てそれぞれ戒飭を加えている」との意を声明した如き、以てその意向を察すべく、一進会の如きは、これがために一時四面楚歌の窮地に陥った。蓋し曾禰は日韓の併合を不要不急としたのみならず、寧ろ至苦至難の業と信じ、殆んど念頭に置かず、偶々人の併合の要を説き、またはその方法を献策する者があれば、彼は答うるに我が財政の負担加重を以てし、到底これに耳を傾くるの意思を有しなかつた。ただに韓国に於てのみならず、我が内地の言論界にありても、併合決行論は未だ充 分に熟せず、一進会の合邦運動を聞くも真面目にこれを迎えたものとては殆んどなく、曰く列国は到底合邦を承認せざるべし、曰く合邦は徒らに我が負担を嵩加するのみ、曰く名を捨て実を取り、事実に於て韓国の政治を我が掌裡に収むれば足る、日く合邦の企図は韓国十三道の大騒擾を伴うを免かれずと。平素口に対外硬を唱え、筆に政府の柔懦を罵った在野の政客すら、所論率ねこの類で、韓国併合の如きは到底一朝にして行われ得べきものにあらずと見るの状であつた。況して曾禰の如きは、いわゆる捨名取実にて満足するの方針を得々人に語って憚らざりしに於てをやである。  我が国論の癖樹に迷ったことかくの如くであつたので、桂は暫くは局面の推移を熟視していた。その間に翌四十三 年の春となり、機運は漸く熟し、併合の準備及び善後方案悉く成り、諸元老の一致を名得、一進会の態度行動る次第 に粗より細に入り、次第に具体化して来たのみならず、小村は同年四月露国政府との間に第二回日露協商の商議を行 つた際、駐露本野大使をして密かに、かつ最る明確に韓国併合の已むを得ざるを告げしめたるに、同政府に於てる何 等異存なき旨を言明し、ただその実行に際し多少の予告を得たしとの希望ありしに過ぎなかつたことは前に叙した如 くである。そしてこの意見交換は英国政府にも伝わり、五月中旬在本邦同国大使より併合に関する我が政府の意向を 小村に尋ねる所があつたので、小村は併合の免かるべからざる運命なることを語り、ただその時期如何は今予言し能 わざるる悠々機会到来せば予めこれを英国政府へ内報すべき手筈なる旨を告げ、同政府るこれを話した。情勢既にか くの如くであったから、政府は五月三十日統監の更迭を行い、曾禰を絡めて寺内陸相を統監に兼任せしめた。翌六月 三日、閣議は併合後韓国に対する施政方針を定め、七月八日更に併合條約案、詔勅案、宣言案等の閣議が決定した。 3 第二節東亜問題の処理 第十章 第二次外務大道時代 そして政府は韓国に関する外交関係その他の諸問題について万還算なからしめんがため、別に柴田内閣書記官長、安妙 広法制局長官、倉知外務省政務局長を委員としてこれが調査に当らしめ、その結果同委員は国称、朝鮮人の国法上の 位地、朝鮮に於ける司法上の諸事項、外国居留地の処分、居留民団、外国人の土地所有権及び借地の将来、外国船舶 及び輸出入貨物、朝鮮の債権債務、韓国潮章、官吏の任命、韓国皇室及び功臣の処分等に関する諸事項、その他朝鮮 総督府の設置、旧韓国軍人の処分、旧韓国財政の処理、朝鮮に於ける法令の効力、関税等に関する法令案を真して內 閣に復命し閣議は若干の修正を加えてとれを可決した。その国称に就ては、時の遊相後藤は、韓人の歴史的心理を顧 念して高麗と称するの議を出したが、性、寺内等の賛同を得ず、議は遂にこれを「朝鮮」と為すに決したのである。 他の一方に於て我が政府は、時局の発展に処すべき先決問題として、韓国政府の警察機関を統監府に移すの要を認 め、新任寺內統監は上京中の明石憲兵隊司令官をして案支を舞らして急速京城に帰任せしめ、統監府総務長官事務取 扱の右塚参与官は旨を承けてこれを韓国政府に交渉し、六月二十四日韓国政府との間に警察事務委托に関する覚書を 交換した。同月三十日、同政府は韓国警察官々制を廃止し、同時に我が政府は統監府警察官署官制及び韓国駐勧憲兵 條例の改正に関する勅令を発し、明石憲兵隊司令官を以て統監府警務総長を兼ねしめ、全国の警察事務を挙げて憲兵 の手に移した。 程なく寺內は重要の訓令を帯び、最後解決の警算を胸底に蔵して赴任の途に上り、七月二十三日着任した。新統監 は寡言沈黙、態度端厳、韓廷內外自ら畏懼した。等内は従容迫らざることに。その間に於て彼は韓国上下の状勢を 観測したが、Sヴれる大勢の進運に鑑み、難局救済のためには到底根本的改革の避くべからざるを覚悟したるの如 く、ただ韓延当局者は皇室の待遇と習管有司の処分とに関し多少疑惧の念を抱巻、或は時局解決の責任を相互に推談 せんとするの状であった。寺內は裏面の径路により、天皇陛下の寬仁にして日本政府の公明なる、韓皇室以下百官有. 司は勿論、韓民全般の生活状態を治一層安全にし、幸福の増進を弥が上に期すればとて、決して現状以下の苦境に陥 らしむるが如ことなき理由と、韓国の現閣員にしてその職を去るとる日本政府の決意を実行するには何等の支障な く、しかるその退避は却って韓国及び当路者自身に不利益の結果を来すに過ぎざる所以とを了解せしむるに努めたの で、総理大臣李完用は自ら時局解決の衝に当るの決心を示した。或は(378頁)
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/pdfs/komura-2_10-02.pdf
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/komura-2.html





伊藤之雄「伊藤博文をめぐる日韓関係」

  一九〇七年(明治四〇)三月二〇日、伊藤統監は四カ月ぶりで漢城(ソウル)に戻った。伊藤はすぐに韓国の政情が一変していることを知った。それは自強会・教育会・青年会・西友会や二、三紙の韓字新聞、英国人主宰の大韓毎日新聞などが、いたるところで韓国の内閣を攻撃していることであった。これは政府排撃に名を借りた排日の動きである。また国債報償会が各所で伊藤統監が斡旋した国債を償還しようと、募金活動を行っていた(31)
  伊藤は日本に帰っている間も、義兵を「匪賊」とし、日本の警察官十数名を派遣すればたちまち四散するもので、「盗賊的窮民の群」に種々の「小野心家」が流れ込んで「政治的運動の真似」をしていると見ており、それほど危険視していなかった。また韓国は長い間独立国だったので、一国という観念は強く、「猜疑の深き人民」であるので「日本が韓国を併呑」せんことを疑う者も多い、と自覚していた(32)。しかし伊藤の韓国統治は、韓国人が伊藤を信用して彼の構想を理解し、それに主体的に協力することを前提とするものだった。韓国人が自発的に協力する基盤が、一年経ってもほとんどできないばかりか、逆に排日の空気が強まっているのを知り、伊藤は自らの構想の前途に強い不安を感じた。この時伊藤は、韓国を併合せざるを得ない可能性もある、と考えたと思われる。(42・43頁)

  すでに述べたように、一九〇七年春以降、韓国内で反政府・排日の空気が強まったので、朴齊純参政(首相)は、再三にわたって辞任の意向を伊藤統監に申し出た。そこで伊藤は、学部大臣李完用を参政とする内閣を作り、韓国人を中心とした親日団体の一進会と連携して、昨年来の「施政改善」を勧めようと構想した。(45頁)

  義兵は、一九〇八年(明治四一)七月をピークとし、一九〇九年初めには全羅南北道・京畿道・黄海道など特定の地域に局限されるようになり、同年半ばにはおおむね平静の状況となっていく(52)
  義兵の活動がピークに近づいた一九〇八年六月一二日、伊藤統監は韓国駐箚軍の陸軍将校を招待し、(1)「韓国の暴徒」は決して内乱ではなく地方の「騒擾」にすぎないので、それを討伐する際に、「良民」に危害を加えないようにすべきである、(2)「一般の国民」は、その「脳裏に多少の排日思想を抱くも公然干戈を執りて日本に反抗するものにあらす」、(3)「良民を愛護して我に我に悦服せしめ、我か陛下の徳化に浴せしむるの責任あり(53)」、等と義兵鎮圧にあたっての注意を促した。統監として韓国に来て二年以上になっており、一般の韓国人も排日思想を持っていることを伊藤は認めざるを得なかったが、彼らを親日にする希望を捨てていなかった。(75頁)

  一進会は伊藤統監から解散するように求められており、その顧問の内田良平は、一進会に頼らずに韓国人の基盤を拡張しようとする南北巡幸に批判的であった。最初に行われた南韓の巡幸に対しても、杉山茂丸に次のように報じている。(1)内田の予想に異ならず、行きには大邱で人民は皇帝と統監を「同一に歓迎」したけれど、帰路には皇帝に万歳を唱えたが統監には唱えなかった、(2)「京城」(漢城)でも、南大門駅から皇帝が王宮に戻る際には歓迎した沿道の学校生徒が、次に統監が帰邸しようとすると、退散しようとして統監の帰路を乱しかけたので、巡査が制して事なきを得た、(3)釜山・馬山等でも、「愚蒙なる人民」は初めて皇帝がいることを知り、大いに気勢を上げた、(4)「役人共」は「悪影響」が少しも統監の耳に達しないようにして、統監を大成功のように喜ばせている(63)
  北韓国巡幸の失敗と併合論
北韓巡幸では、平壌、新義州、義州、開城等を訪れた。ところが厳重な警戒にもかかわらず、爆弾騒ぎや伊藤統監暗殺の計画など、排日運動が見られた。また、学校生徒に対し、日韓両国旗を持って迎えるようにという統監府からの指示にもかかわらず、韓国側は日本国旗を持たず、日本側は韓国国旗を持たずに出迎えた所も少なくなかった。行幸が通り過ぎた後、韓国人が韓国旗のみを持ち帰り、日本国旗を捨てていくこともあった(64)。このように、日本の統治への韓国人の反感が少なからず察知された。南韓巡幸と比べ北韓巡幸が不穏であったことは、在韓日本語新聞にすら報道された(65)
  伊藤統監は北韓巡幸に陪従した後、二月一〇日に漢城を出発し、一七日に大磯に戻った。おそらく、北韓巡幸後に韓国民が伊藤の統治策を積極的に支持していないことを知り、伊藤は韓国併合を止むを得ないと考えるようになっていったのであろう
  韓国の新聞『大韓毎日申報」は、北韓巡幸の後も、日韓の「親睦」を前提とする実力養成運動や、日本を中心とする東洋連帯論に批判を加える論説を掲載し続けた。しかし、それらは「忠君愛国」を前提としたものであった。日本の手によって皇帝の「文明化」が行なわれている以上、「忠君愛国」ではいまだ伊藤の「自治育成政策」を否定できない。ところが、一九〇九年八月になると、『大韓毎日申報』に、韓国人の「国家的精神」・「自国精神」が自明化された以上、日本に掌握された皇帝・皇室は必要がないとの論理を持った論説が登場するようになった(66)
  伊藤が併合をやむを得ないと考えるようになる頃から、日本の保護の下で韓国の近代化を達成し日本のみならず韓国も利益を得ようという伊藤構想を、韓国側が支持する論理が、崩壊し始めていったのである。(79・80頁)