日本軍の実態 体罰・私的制裁(1)
日本軍の実態 体罰・私的制裁(3)
日本軍の実態 体罰・私的制裁(4)

 昭和十八年一月十日、千葉市の鉄道第一連隊(東部第八十六部隊)に関東軍要員として入隊し、材料廠中隊(特科隊)に配属であった。・・・初めに軍隊生活の一応の説明があって、夕食からは厳しい内務班の生活が始まった。我々初年兵はただうろうろするばかり、時々ビンタが飛んでくる。(204・205頁)熊谷
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/10/O_10_204_1.pdf

 昭和十八年四月十日、現役兵として広島第五部隊第二中隊(戦車隊)へ入隊しました。・・・
 ある夜、酒に酔った曹長が突然「整列」と号令をかけて初年兵を営庭へ引っ張り出し戦車に乗り組ませ、練兵場へ行き前進行動中戦車壕へ車の前部を突っ込み、バックしても壕より脱出できず、隊へ連絡して下士官、古兵の応援によりやっとのことで正常な状態になりましたが、新兵はビンタのお叱りでした。初年兵係の教官、助教、助手をさしおいて、しかも夜間飲酒しての暴挙であり、制裁されるのは曹長であるべきはず、逆に新兵に当たるとはと軍の不合理を考えさせられる悪い思い出もありました。(166~168頁)竹田
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/10/O_10_166_1.pdf

 私は昭和十五年徴集の現役兵である。岡山備前長船町で徴兵検査を受け、徴兵官から「光延一徳、第一乙種合格」と宣言された。当時は第一乙種合格は即甲種合格に編入されて、翌年一月十日に姫路五十四部隊へ入営した。軍装を整えると十日ほど後に満州に出動した。
 何も解らずに引率され、朝鮮から、図們を通過して満州国佳木斯に到着した。満州第一二四部隊だった。第一中隊、第二中隊は輓馬中隊、私は第三中隊の新設自動車隊である。隊には古参の二年・三年兵がいた。彼らは野戦下番といって、支那事変に従軍し、昭和十四年に一度姫路に凱旋している連中だから、気が荒く一にも二にも私的制裁が横行していた(149頁)光延
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/10/O_10_148_1.pdf

 昭和十七年九月一日、佐世保、相の浦の第二海兵団に入団、教育は相当厳しかった。年上の徴兵の人(大正十年生まれが多い)と一緒に教育を受けた。・・・
 同年十一月三十一日に佐世保を掃海艇で出発。二十人ぐらいの同年兵と一緒に、翌十二月一日任地朝鮮鎮海着、鎮海鎮守府に入って通話業務の学科講習から始まった。「トツー」のモールス信号から、受送信も一分間に四十五字受けられて、卒業である。私は九州生まれであるから、新兵の時は寒い所で大変苦労した。鎮海は内地と違って寒い。甲板に水をこぼしたらそれが凍り、翌春まで解けないとのことで、全部削り取らされた。外出中広い道路の反対側を通る上官に欠礼したら叩かれたこともあった。
 また、海軍は一蓮托生、一人の過失で全艦が沈む、従って一人の過失も許されない。そのため連帯責任で叩かれ、臀はバットで叩かれるから紫色に変わってしまう。しかし、このようにして海軍は鍛え上げられるのである。(144頁)

・・・スラバヤへは昭和十九年十月、第二十一海軍通信隊へ着いた。スラバヤは平穏で通信隊はオランダ人の家であった。現地人が雇われていて、掃除・食事の用意などは私等通信隊員が直接することはなかった。
 そんな生活も三ヵ月で、私は第二分遣隊勤務となり山の中に入ったのだが、・・・第二分遣隊で一度だけ空襲があったが、非番で眠っていて記憶がなかったため、上官から皆への見せしめのため、ひどく叩かれたことがあり、一週間ぐらい体が動けぬほどであった。もし、本隊だったら進級停止というところであったであろう。(146・147頁)渡辺
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/10/O_10_143_1.pdf

 鮮満国境―満州―山海関―北京―包頭への鉄道(京綏線)で、張家口に我々の入隊する自動車第二十三連隊がありました。・・・張家口には連隊本部と材料廠と私の入隊した第二中隊、宣化には第三中隊が駐屯していました。初年兵教育は各中隊毎に行われました。・・・
 こうして初年兵教育が終了して、中隊の班内に復帰と同時に初年兵いじめが始まりました。制裁が始まると「洗面器を持って集まれ!」と命ぜらます。鼻血を受け止めるための洗面器です。営内靴、帯革、そこらの手当たり次第の物で殴られました。駈け足が命ぜられ、力いっぱい走らないと、遅れた者は「もう一度走って来い」と命ぜられます。(146頁)永瀬
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/11/O_11_145_1.pdf

・・・その三日後、熊本県水俣の暁第一六七六〇部隊に入隊した。
(中略)
 古兵達は上官の制止も聞かず、アメリカ兵が来る前にサッサと帰ってしまった。今までは絶対服従でいたが、昨日まで思う存分我々を痛めつけ人間扱いしていないので我々が恐かったのだ。我々は血の気の多い兵ばかりで今までのお礼をさせてもらおうと、相談したものだ。(129頁)米重https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/11/O_11_124_1.pdf

橋本中尉 タタキ上げの分隊長。「お前たちが一生懸命やっているのを見ると後光がさしているように見える」。下士官達が棍棒で殴るのを見かねてのことと思う。この後しばらくの間、棍棒を振るわれることはなかった。(117頁)

召集で来ていた一等兵(三十七歳) 「ゆうべは十八位の上等兵に、棍棒で十発ずつ殴られた。これでも家に帰れば、一家の主人ですよ」召集で来た人達が若い兵に殴られるのを見るのはつらかった。(117頁)

召集で来た下士官(四十歳ぐらい) 舟で移動中、船酔いで吐いてしまった。たるんでいると殴られるかと思ったら「俺の息子も予科練に行っている」と言って背中を撫でてくれ、大変気持ちがよかった。(117頁)

S練習生兵長(十六歳) 病室を覗いたら尻に包帯を巻いて寝ていた。膿が滲みでている。どうしたのかと聞くと、「外出した時、農家に立ち寄りアラレをもらって来たのを見つかって、S分隊士に八十六発殴られたが気絶してしまった。後いくつやられたか分からない」。S分隊士は常にステッキを持ち歩き、練習生のアラを探しては殴っていた。士官の中で練習生を殴る人を他に知らない。(117・118頁)

Y先任教員上等兵曹 夕食準備中、突然棍棒を持ってきて「I練習生(十七歳)、出てこい」とどなり「貴様ら、飯のおかずがまずかろう。班長は人を殴るのは飯よりも好きだ。これをおかずにして飯を食え。軍人精神五箇条を言え」と怒鳴る。一箇条を言うと一発殴る、五発で済むと思いきや十八発もやられて倒れてしまった。倒れた者をなおも殴り続ける。その度にぴょんぴょん跳ね上がる。死んだようになった者を振り向きもせず、教員室へ帰ってしまった。皆しーんとなってしまい、ものも言わずに食事を始めた。こんなまずい食事は初めてだった。(118頁)

個人的にやられたことはなかったが、「総員バッター」は時々やられた。昭和二十年三月頃、夜中に「総員起こし」で飛び起きるとなんだかんだと文句を言われて「総員バッター」が始まった。皆見つからないように腹巻を尻の方まで下げる。私は股引きだったので、そのままやられてしまった。後で腫れているかと思い、そっと撫でてみたらへこんでいたのでびっくりした。一度やられると十日ぐらい経たないと元通りに治らない。幸い治らないうちにやられたことはなかった。
 舞鶴の定員分隊では毎晩のようにバッターの音が聞こえてきた。中学三年生ぐらいの少年兵がいたが、かわいそうで仕方なかった。(118頁)杉浦
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/11/O_11_113_1.pdf

 私は中学時代に軍隊宿泊五日ほどで見聞したが、軍隊の私的制裁がはげしく、ために不具になったり、甚だしきは自殺する者や逃亡者も出るとあった。私は学業も芳しくなく学校教練もお情けで合格させてもらい、幸いにも現役を逃れ召集忌避で軍属を志願してきたのであるから、軍人社会の矛盾や凄絶さを論ずる資格はないと思っている。(106・107頁)矢野
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/11/O_11_101_1.pdf

・・・同じ町内から三人が歩兵第四十八連隊(久留米)に入隊。所属は第四中隊第四班に定まった。・・・
 入隊後一週間経過した日、私は物干し場監視の任に当たって、来合わせた同年兵と談笑していたのを古兵に見られて、同年兵の一人がいきなりビンタを食ってブッ倒れたので吃驚した。軍隊はすべてが全体責任である。私達も歯を食いしばり足を開いて姿勢を取ると同時にポカリと殴られた。倒れはしなかったが目から火が出るとは本当のことである。
 教育中誰かがごく小さな銃の部品をなくした。初年兵一同十数人が横一列に並び、四つん這いとなり、自分の視野四〇センチ幅を凝視して前進して遂にこの小さい部品を発見することが出来た。教育二ヵ月目に入って、私が入隊以前に機械工であったためか兵器修理の教育を受けることとなった。中隊からは私達二人が選ばれた。朝食が終わると食器洗いもせず班内から出て昼食に班内に戻ってまた教育に出向いた。
 修理と言っても困難な修理でなく、時には編上靴などの修理もあった。二班に行った時「松尾二等兵入ります」の声が小さいと古兵に叱られ自転車乗りを命ぜられた。自転車乗りはテーブル間に両手で足を浮かせペダルを踏む要領をせねばならない。右上官と言われれば右手を上げて挙手の敬礼をせねばならぬ。当然足が床に着く、そうすると古兵から叱られる。元の姿勢に戻ってペダルを踏み続けなければならぬ。十分間も続けると参ってしまう辛い制裁であった。
 ある雨の日、私は兵器修理のため班を出て行った。他の初年兵は雨のため班内に残って兵器の手入れをやっていた。私の小銃も誰かが手入れしてくれたのである。消灯後古兵が私の銃口蓋がついていないのに気付き起床を命ぜられた。前に述べたように全体責任であり、初年兵全員上靴でビンタを取られた。上靴のビンタは痛さがひどい。銃口蓋は古兵が拾っていた。私は皆に対し気の毒でならなかった。
ある日消灯後、古兵が銃の引き金を調べていたところ、カチッと引き金が鳴って、初年兵一同起床「腕立て伏せ」を長時間にわたり実施され涙を流したこともある。
 私の班では結婚していた初年兵が私ともう一人いた。この初年兵の奥さんが六歳年上であったので古兵から結婚生活についてよく試問が繰り返された。
 たたかれることでは木銃の銃尾の太い方で尻を強打される時の痛さ、また銃の薬室掃除棒の大きい方で頭をたたかれることもあった。いずれも全体責任のためであり、時には何のためたたかれているのか不明のままたたかれた時もあった。(67・68頁)
 六月からは夏の服と交換であり、冬物の袴下を返納するため洗濯して、監視つきの物干しに干しておいたがいつの間にか盗まれていた。さあ大変、服の交換日まで幾日もない、報告すればビンタぐらいでは済むまい。兵器修理の帰り道、他の中隊の物干し場で監視兵にでも見付かった場合どうなっていただろうと思うと縮む思いであった。(69頁)松尾
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/11/O_11_067_1.pdf

 豊橋駅で両君と別れ、篠田の大塚賢一君及び小坂井町三人、蒲郡町二人と一緒になり、名古屋駅にて県出身者全員集合して出発。加古川駅にて乗り換えて部隊近くの民家に一泊し、十日に中部第四十九部隊(戦車第六連隊教育隊)に入隊した。大塚君は即日帰郷とのこと。
 翌日から初年兵としての訓練を受けた。歩兵銃の実弾射撃にてその初年兵教育は終わり、次いで戦車教育に移る。他の者が戦車操縦訓練中、青野ヶ原の松一本を倒したので、晩に教育上等兵より陸軍地図に記入してある松だから注意せよと叱られた。また、朝点呼の集合が遅いと総ビンタを受けた時もあるが、教育隊なるが故にあまりなかった。(58頁)日比
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/11/O_11_058_1.pdf

 八月○日、東山の本部より西村の野戦倉庫に配属となり、訓練と作業に精を出すことになった。
 ある日、古参兵殿より、いきなりビンタを取られ驚かされた。また「初年兵、集合!」の声で営外に整列、二列横隊で前列は一歩前へ回れ右、向き合った者同士の右と左からの対抗試合だとのこと。また内務班では隣にいた古参兵殿から、夜中にはよく鼻をつままれた。いびきが高くて寝られないと。(51頁)成守
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/11/O_11_047_1.pdf

軍隊履歴
昭和十(一九三五)年十二月一日
現役兵として歩兵第三十三連隊入隊(1頁)

軍隊経験のある人なら、誰でもご承知のことであるが、入営後一番鍛えられるのは、一期の検閲前の三ヵ月である。そして鍛えられるのは、野外で行われる訓練だけではない。内務実施と言って、兵室内での起居動作全体が訓練の対象となる。しかも営外居住者の将校達がいなくなった朝晩と夜間に集中して行われる。この時間は、伍長や新米の軍曹が中隊の殿様で、下士官室に君臨しており、内務班の兵室は、柄の悪い二年兵の天下である。新兵にとって、一番待ち遠しい消灯ラッパが「兵隊さんは可哀想だなあー、また寝て泣くのかよー」と夜の兵営内に響き渡って、皆寝台にもぐり込み、班内が一斉に暗くなると、彼等悪魔たちが行動を開始する。
 「第一内務班の初年兵、起床!」初年兵は、飛び起きて襦袢袴下の寝ていたままの姿で、各自の寝台の前で不動の姿勢をとる。「山崎二等兵、貴様は銃の手入れを行ったか」「やりました」「ここへ来い。引鉄の用心金の裏に埃がついている」「手入れしました」「文句はいらん」パン、パーン。両ほほのビンタが始まる
 「軍靴の裏に土がついている」「たんつぼの掃除が不十分だ」「今日の行軍で落伍した奴がいる」悪魔たちの目から見れば初年兵をしぼる種はいくらでもある。「今年の初年兵は、気合が抜けているぞ」「初年兵全員二列に整列。前列回れ右」「対抗演習始め」。対抗演習というのは、向かいあった者同士が、相手のほほを交互に殴りあう懲罰動作である。営内での私的制裁は、正式には禁じられていたようだが、このようなことが毎晩繰り返されて、初年兵の動作もだんだんと機敏になる。(3頁)山崎
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/11/O_11_001_1.pdf

・・・昭和十八年十月一日付で松山海軍航空隊へ入隊となりました。(576頁)
 このようにして松山航空隊に入り、最初からバットをどれだけいただいたろうか、数え切れないほどでした。陸軍は殴ることですが、海軍は外国との交流もあるということで、外から見えるところはあまりたたかない、見えないところをたたく。海軍ではバットより少し大きい棒で尻をたたくのです。まだ松山航空隊では本当の基本訓練でしたが、それでもだいぶやられました。
 そのような基本訓練を終わり、入隊した三〇〇〇人のうち一二〇〇人が搭乗員で、あとの一八〇〇人が偵察員、その搭乗員一二〇〇人のうち一八〇人が台中航空隊へ転勤を命ぜられたのが昭和十九年五月十八日でした。・・・
 訓練は、初めは離着陸訓練をしながら、さらには編隊飛行、特殊飛行、夜間飛行、計器飛行などでした。戦局がだんだんきびしくなって、台湾も第一線基地になろうとしていた時期で、私は台南の航空隊に転勤を命じられました。その飛行隊では、さらに苛酷な訓練をしたのですが、それこそ毎日バットをいただきました
 一機に対して六人が専属でその飛行機を使うのですが、一人でもへまをすると六人が連帯でたたかれ、本当に苦労しました。(577頁)小峠https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/12/O_12_575_1.pdf

 私が入隊したのは新京航空第十五連隊第二整備隊でした。すぐにチチハル教育隊に移ることになりました。教育隊は百人ほどの初年兵でした。
 教育内容は徒手教練や体操、拳銃操作等でしたが、耐寒気合入れのためかよく叩き殴られました。それも個々にやられることなく集団ビンタが多かった。おかげで寒さを感じる暇がなかったと思います。(565頁)陶山
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/12/O_12_564_1.pdf

 昭和十四年十一月一日、卒団と同時に、軍艦「長鯨」(潜水母艦)に配属されました。生まれて初めての大艦生活で、艦内で迷うこともありました。乗艦すれば最下位の兵で、指導は半年古参の三等兵で、二等兵以上とは会話もできない程の階級差でした。機関当直勤務の他に、食事当番や先任者の見回り〔ママ〕品の世話や洗濯等で、新兵は朝洗顔するのは贅沢だと言われる程に追いまくられました。
 停泊中は十時の消灯後、釣床より起こされ、艦底の機械室へ呼び出され、「貴様等は気のゆるみがある」と、一人の失敗も団体責任で全員が、海軍独特の軍人精神注入棒(樫の棒で野球バットのようなもの)で数回殴られ、尻が紫色になることもしばしばありました。特に厳しいのは半年間だと我慢で通しました。しかし上陸した際一人が絶〔ママ〕えられず帰艦しませんでしたが、その行方は不明でしたが可哀想な同年兵でした。
 八カ月後の翌年に、横須賀海軍工機学校(電機科)を受験し入校しました。名に負う厳格な学校とは聞かされておりましたが、まさにその通りでした。入校時、貴重品は全部預けるよう指示がありましたが、翌日一人が五円玉〔ママ〕一枚を所持しているのを見つけられ、規律違反と、分隊総員の前で軍人精神注入棒を受け、その場に倒れるとバケツで水をかけ、立ち上がると再度の制裁、見せしめであろうが、余りにも極端な仕置きであることを感じました。
 勉強(学業)の方も同様で、休日の外出時も下宿で自習を強いられ、テストの成績によっては覚悟すべきでありました。(530頁)今泉https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/12/O_12_529_1.pdf

 海兵団で三ヵ月間の訓練教育を終え、現地入隊は朝鮮鎮海海軍航空隊でした。毎日、烹炊事作業に精を出すが、農家―製缶―旋盤工という体験・職種の私にとり、料理の割烹、包丁や煮炊きのことなど、まったくの無経験、無知識ですから、毎日のように先任者に叩かれる。耳の鼓膜も破られ、毎晩、バットという樫の棒で尾底骨を叩かれ、しりは青紫になってしまう。軍医には「コケた」と言わなければならない。「叩かれました」など、本当のことを言ったら、腕立て伏せの上に六〇キロの「かます」を乗せられる。一人でも悪いことをすると連帯責任、「気合いが抜けている」と言って軍人精神を叩き込まれる。例の樫のバットで叩かれるのである。(509頁)志坪
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/12/O_12_507_1.pdf

 私の入営は、昭和十八年三月一日でした。丸亀の西部第三十二部隊でしたが、実は第五十五師団第一一二(壮八四一五部隊、在ビルマ)補充の要員でした。約三ヵ月後の六月二十日、丸亀を出発して門司港へ向かい、ビルマの母隊を追及するため、外征の途につきました。内地の丸亀在隊中噂に聞いていた、内務「気合入れ」は私的制裁の禁止ということで影をひそめていましたが、初年兵同士の対抗ビンタは盛んで、これには閉口し弱った思い出があります。(492頁)玉地
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/12/O_12_491_1.pdf

 十二日、零下十余度の満州牡丹江省寧安県愛河の満第五七三部隊戦車第五連隊着、第一中隊第一班に配属されました。・・・
 内務班は二、三年兵が約半分いて、ノモンハンの生き残りですから気合が入っていて、少しでもマゴマゴするとすぐビンタが飛んできました。(439頁)
 古兵のシゴキはけた外れで、例えば軍靴の手入れでも紐を通す鳩目の回りをつまようじで擦り、先に付いた黒いゴミを種にビンタをする。また小銃の床尾板と木部の境の隙間につまようじを入れて擦る、先についたゴミを初年兵の目の前に示して叩くなど、それは並外れのシゴキでした。(440頁)石橋
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/12/O_12_437_1.pdf

 昭和十四年五月に十四年徴集兵として徴兵検査を受け、甲種合格となり、昭和十四年十二月十日、現役兵として鳥取歩兵第四十連隊第二中隊に入隊と決まりました。当時は陸海軍共に多くの人に見送られ、元気よく衛門をくぐりました。
 どこの連隊でも同じようなことをやっていたようで、入隊して十日間は、お客様扱いで何事も親切に教えられ、十日が過ぎ第一回の給金が支給されると「お前等は、これで一人前の二等兵だ。教練はこれからだが、内務班の事はすべて教えた。今まで教えられた事を良く守り切磋琢磨し共に助け合い、一人の落伍者もないように。一人でも間違えば皆の責任だ」と言われました。このことが後々の苦労の種でした。
 昭和十四年十二月二十日から翌十五年三月十六日まで、第一期の教育が完了するまで、初年兵は一人として「今日は殴られずにすんだ」という日はありませんでした。木銃が折れるぐらい殴り、重傷を負わせたために軍医が怒り、重謹慎の罰を受けた事件がありました
 同じ第四十連隊でも昭和二年兵は一度も殴ったり殴られたこともないとのことで、こんな時代もあったのかと夢のような話もあります。(388・389頁)衣川
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/12/O_12_387_1.pdf

・・・翌十日、鳥取中部第四十七部隊第二機関銃中隊へ入隊しました。
さて昨日までの娑婆とは別世界の「人の嫌がる地獄の軍隊」へ。入隊以前から町内の先輩から種々と聞いていたが、予想を越える苦労の連続でした。内地部隊での新兵教育の、就中内務教育の厳しさ、残酷さ、非道さは、既に多くの口伝や文書で語り尽くされているので、本文での重複は省略するが、そのなかでも二つのひどい仕打ちについて述べます。
 その一つは、営内で夕食後のこと。若い下士候の伍長が新兵に、「機関銃は兵器。軍衣袴は被服。兵舎は?」との質問に対し新兵は誰一人として答えられる者がないと言うことで、一晩中一睡もせず立ち通しの罰。途中で週番下士官が来たが見て見ぬふりで立ち去った。
 その二は、午後の演習から帰営して内務班へ帰ると室内に綱を張って旗のように軍衣袴、襦袢その他の被服も吊り並べて、整頓棚はひっくり返してある。中村上等兵が「貴様等! 何度言っても整頓をやらん。今日はその罰でこのようにした。○○と××と□□と◇◇と△△はここへ来て一列に並べ!」と。私もその中の一人で横に並ぶと上靴の踵でビンタ。顔が紫色になるまで続いて叩き殴る。そのため歯が折れて口から出血する。それでもやめない。最後に他の上等兵が注意して止めた。軍隊内には歯科医はないので、町の歯医者へ行った。「これは顔の紫色といい、歯の骨折といい、叩き殴られた傷である」との診断書を隊内へ提出。ようやく残酷非道の私的制裁が明るみに出た。中村上等兵は取調べのうえ、営倉入りとか。とにかくひどいことでした。(384頁)守本
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/12/O_12_383_1.pdf

昭和十五年
二月二十一日 現役兵として独立工兵第二十二連隊入営のため広島市内へ集合(377頁)
 満州時代の最も嫌な思い出はビンタでした。夕食後、手でなく上靴(上履き)で叩かれます。今思いだしてもゾッとするくらい。なんのための制裁か?目的も意味も無かったように思いました。あまりの苦しさ、嫌さのためか冬期夜間に逃亡者が出ました。営舎の外は一面の荒野、凍死があるだけです。結局は舎の近くに隠れているのを捕らえられて営倉とか、お隣の中隊でした。助教、助手、古参兵までおしかりがあった由です。(379頁)本窪
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/12/O_12_377_1.pdf

 昭和十八年八月二十三日、この日に、私・田中菊治という、三十二歳の背の低い初年兵が誕生したのです。・・・そして、命によって「重砲兵第三連隊、満州第一二一五部隊」に転属となりました。・・・
 私は、現役兵より十年遅れて入隊した体格も丙種という、身長の低い召集の未教育の初年兵でした。しかし、軍隊は、そのような差別もしない、容赦もない厳しい教育訓練をします。しかも、昼の訓練で疲れ果てていても、夜は夜で内務班の訓練が繰り返される。それは、学科の勉強ばかりでなく、古参兵からの厳しい内務の「しつけ制裁?」も繰り返され、初年兵時代の辛さや苦労を誰でもなめ尽くしていました。(367・368頁)田中
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/12/O_12_365_1.pdf

我々は、中支軍(第十一軍―呂集団)の独立山砲第五十二大隊の要員であるため、武漢大学にある兵舎に入隊しました。当時、本隊は常徳作戦参戦中で、留守部隊でした。当時、本隊は常徳作戦参戦中で、留守部隊でした。常徳作戦は十一月二日から十二月二十九日まででしたので、私達、初年兵は、正月、部隊が帰って来た一月五日に正式に入隊しました。(354頁)
 私達の教育は、青年学校だけで、山砲の教育は初めてでした。初年兵は各隊の内務班に編入させられました。班内での私的制裁のため凍傷になっていました私は、今でも右手の付け根の所に跡があります。(355頁)福島
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/12/O_12_353_1.pdf

 兗州で、冬服に防寒具をもらい、野砲兵第三十二連隊へ転属ということで申告、青木部隊長の訓示も夢中で、すぐに山東省の新郷に行き第二中隊小池隊に入りましたが、同年兵八十余人が六個班に分けられ、私は第二班でした。
 入隊してから十一日間、日本を離れてからわずか四日間、中国大陸での軍隊生活が始まるのですから覚悟はしていても、不安と緊張の初年兵第一日目が始まるわけです。初年兵に対するお客様扱いは初日のみ、二日目からは腰など掛けていられない。次から次へと動き回るだけ、慣れないので、何から何をしていいのか分からない。また、夜は夜で悩みの一つ、点呼後、馬の手入れの状況や日常の動作に、何やかんやといちゃもんをつけ、初年兵を並ばせて整列ビンタ。平手はまだいい方で、はなはだしい時、平手では音が出るからと言って、げんこつとなる。一つの班が始めると、隣の班もビンタが始まる。
 聞きしにまさる内務班での制裁である。数年後には私的制裁は禁止されましたが、私の初年兵当時は、まだまだ盛んに行われていました。しかし、この制裁も反面では体で覚えさせる、痛められた経験を忘れさせないための一手段であるとも言われておりましたが、直接被害を受ける初年兵にとっては、肉体的にも、精神的にも苦痛でした。気の弱い者の一部には自殺や、逃亡を考えた体験を持ったと言っていました。
 我々の野砲兵隊は、砲は馬に引かせて作戦に出る。馬こそが機動の主体であるため、馬に慣れないというより、馬に触ったこともない都会育ちの人は一番可哀想でした。馬扱いの者は、朝食前に馬の手入れをするのだが、まず寝藁乾場に広げて、天日に当てて乾かさねば、小便臭さが抜けない。誰一人でも手を抜いたらば、古兵さんに「お前等は一銭五厘(葉書一枚の値段)で来るが、お馬は、百円以上出さねば来ないのだ」と怒鳴られる。
 私は農家の出身だから馬の扱いはできたし、隣部落の人が被服係下士官であったので何かと助かりました。新しい服に交換してもらって班内に帰ると、古兵に取り替えられるが、制裁のある時は、「用事があるから」と下士官室へ行って、甘味品をもらって来ました。班内では、同年兵同志の対抗ビンタが一番いやでした。加減をして叩くと古兵に「こうやって殴るのだ」と殴られる。(316・317頁)
 昭和十九年になり、やっと初年兵が来ましたが、その頃になると私的制裁は禁止ではあるし、自分の体験からしても、初年兵を殴るようなことはしませんでした。北支の戦場へ来た初年兵の心情や立場を考えると、私的感情で殴ることはできませんでした。(319頁)佐久間
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/12/O_12_315_1.pdf

 行先は、朝鮮平壌に駐屯の第二十師団歩兵第七十七連隊(朝鮮第四十四部隊)第一大隊(半島出身の伯少佐)第一中隊で、初年兵受領の下士官が来ていました。た。神戸出港、釜山上陸、ニンニクの臭いが鼻につきました。汽車で北上、平壌に着き部隊に入りましたが、本隊は北支に出動中で留守隊で教育係しかおりません。軍曹が班長で伍長勤務上等兵と上等兵が初年兵の教育係でした。
 初年兵は名古屋、岐阜その他全国からの寄せ集めで一期の六ヵ月間にわたる教育が始まりました。生まれて初めての北鮮は零下二十度の寒さがこたえました。「兵隊と背のうは叩かなきゃ直らん」のたとえがあるそうで、何かにつけてビンタが飛んできました。古年兵が居なかったのが、せめてもの救いでした。(286頁)嶋田
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/12/O_12_286_1.pdf

 工兵の道具では円匙(シャベル)、十字鍬があるが、作業後、少しでも泥が付いていたら大変です。ビンタを食らうのは当然、大切な工具だからです。(268頁)
 工兵は土工が多いので、以前の職業から入れ墨をした者が多い。その者には、「親からもらった大事な体に彫り物をするとは何事ぞ」と叩かれます。しかし軍隊で教育されますと、まじめ人間となって帰って行きました。(269頁)松崎
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/12/O_12_264_1.pdf

 昭和十八年十二月二十日、現役兵として独歩第二十大隊歩兵第一一五連隊(高崎市)第七中隊に入営しました。翌年一月七日、屯営を出発、博多港より出港、釜山、鮮満国境、山海関を通過し、原隊の駐屯地である山東省諸域に到着、追及しました。
 中隊は第四中隊と定まり、中隊の中に一個分隊だけ機関銃が所属された編成であったので、私はその機関銃隊員と定まりました。・・・
 特に機関銃隊は一丁の機関銃を中心に十数人の隊員が運命を共にする集団である点が強要され、一心同体の精神涵養のため、叱責は分隊全員で受けることが通常であった。時には素裸でふんどし一つになって帯革で力いっぱい叩かれたこともあった。(249・250頁)小林https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/12/O_12_249_1.pdf

昭和十八年九月十五日、海軍第二百十八設営隊は新井少佐を部隊長として呉軍港を出発したが、・・・「宇洋丸」の中の隊員達はすごい船酔いに苦しんだ。甲板へ上がる事は禁じられて、舟底の隊員達は前後左右に転がされて半病人になってしまった。たまりかねた私は密かに甲板へ上がりマストの陰で風を受けていた所、監視員に見つかり吹っ飛ぶほどはり飛ばされ、何日も顔がゆがんでいた。(152頁)中矢https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/12/O_12_151_1.pdf

 私の隊は朝鮮第二十三部隊(第七十九連隊)第六中隊(高橋隊)第三班(麻田班長)。(139・140頁)
 新兵生活の中で困ったのは歯を磨く時間さえないことである。起床から就寝まで、上等兵の声に追いまくられて、そんな事をしていたら、びんたで頬が歪むほど打たれるに決まっている。(141頁)上津原
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/12/O_12_137_1.pdf

・・・広東駅で下車して広東市内を通過して、鳳兵団の所在地へ向かった。師団司令部で現地到着の申告を済ませ仏山の第四野戦病院への配属を命ぜられる。・・・広三鉄道の仏山駅で下車、部隊に到着、営庭に整列、村上部隊長に着任の申告、教育隊の宿舎割り当てを受けて入所する。(115頁)
 我々同期の桜は年令の差こそあれ初年兵としてすべて平等である。班長の指導で「同期の兵の会」を結成することになり、互選で会長の選任が行われ、私が選ばれたが反対も出来ずやむなく同意、大役を引き受けることになったが、何かスッキリとせず嫌な予感がした。引き受けるのではなかったと思ったがあとの祭りだ。多数の初年兵の中には失敗も多い。予感のとおりで、ほんの些細なことでも、同期兵の代表で古兵の内務班にお呼び出しである。とくに行李(輜重兵)の班が多かった。大なり小なり毎日、私的制裁の連続である
 「初年兵諸君よ、しっかりしてくれよ」と言いたくもなる。革スリッパで頬を、時には銃の尾板で体をたたかれ、よく顔や体が変形しなかったと不思議な気がした。考えれば本当に悪い回り合わせかと思い、自分だけがなぜこのように殴られなければならないのか、殴られ役の会長なら「もうご免だ」と思った。しかしこれが部隊のルールならば致し方ないし、誰かが当たらなければならないならば、何事も運命だとあきらめることにした。(116・117頁)
 作戦は終了し、動員兵力は仏山の本隊へ帰還し、私は居残りとなり常時の状態に戻り、静かになる。古参兵あるいは上官は初年兵と交代し内地帰還である。目の上の瘤がいなくなってホッとした途端に、一発ガンと食らった。古参の一等兵に殴られてしまった。「貴様、古参兵が満期しても、まだまだ上があるんだ、たるんでおるぞ」とまた一発。すごく強い鉄拳で目がくらむ。(118頁)
 ・・・私も折れて現役志願のみを辞退して納得、広東陸軍病院の下士官教育に行くことになった。西南における自分の私物も整理できず直行である。
 しかし、きつい教育であった。体力を鍛えるのか、足を鍛えるのか知らないが、毎朝点呼前に往復八キロの行程を駆け足である。営庭に整列、点呼時に行動について反省させられ、竹刀でたたかれるのは嫌なことである。一番嫌に思ったのは、看護婦に欠礼した時、婦長に直立不動で叱責されたことである。これも軍隊かと従うことにした。(121・122頁)竹内
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/12/O_12_108_1.pdf

 金華には師団司令部、工兵隊、そして第三大隊の第十中隊及び第十二中隊が警備駐留していた。連隊本部は遠く道盧という第一線の街にいた。自分は第十中隊の軽機班第一班に配属され、初年兵教育を受けた。・・・演習は午前三時間ぐらい、帰隊して昼食、午後の演習と毎日繰り返しであった。何と言っても演習に出ている時が我々初年兵にとっては一番の憩いの場であった。演習から帰ると班長、助手の巻脚半を取ってやり、靴下または下着の洗濯などをしてやらねばならない。へまをすれば全員の責任とされ、たちまち回りビンタである。責任を他人になすりつけたりすると青竹でたたかれ、その丸い竹も割れるほどたたかれたものだ。軍隊生活の中で忘れられないのが、この内務班のしごきであった。今思えば人間扱いではなく動物扱いの仕ぐさであった。(103・104頁)大竹

 一期の教育が終了し、人事係の准尉さんに勧められて下士官候補教育隊へ進むことを承知したが、入隊してみると教育は小銃教育ばかりで、砲隊出身者はお呼びでなく最低の成績だと思った。だから班長や助手に痛めつけられ悩んだ。考えてみれば、当たり前の結果だ。砲教育中には全々触れない軽機関銃や、擲弾筒の分解、結合等で、出来る訳が無いのだった。砲隊員は三八小銃すら持たないのだから。(75頁)稲垣https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/12/O_12_074_1.pdf

 昭和十九年六月二日、私は高知市朝倉の西部第三十四部隊第二中隊第三班へ入隊を余儀なくされ、以来終戦、復員まで私は軍隊の消耗品となった。・・・
 入隊翌日から、六時起床に始まり、班内掃除、点呼、飯上げ等で、我々初年兵は「早駆け」で少しでもモタモタすると二・三年の古兵殿より過分なる手厚いおもてなしをたくさん頂いた。私は当時二十一・二歳だったので幾分は良いものの、三十余歳の戦友は大変な苦労だった。(65・66頁)大西

 歩兵の基本訓練はそこそこに、通信兵の基本ともいえるモールスの特訓が開始された。・・・
 先生は通信学校出の色白の下士官であった。この訓練は体が楽なだけに、眠くてどうにもならない。コクリとやると、すぐ剣道の竹刀が飛んでくる。隣の仲間がカチンとやられても、一分ももたないうちに今度は自分がコクリとくる。(51頁)大森
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/12/O_12_047_1.pdf

 私は昭和十七(一九四二)年二月に新潟県高田市の歩兵第三十連隊に入隊しました。部隊長は後にアッツ島で玉砕された山崎保代大佐でした。 
 班内には満州から内地へ帰還された古年次兵が同居しており、この古年兵が夜になると我々陸軍二等兵の両頬に強く刺激を与える役を勤めており、まるで暴力団の事務所にでも連れ込まれたようなものでした。(38頁)舞嶽
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/12/O_12_037_1.pdf

一月十日に各務ヶ原の航空教育隊へ入り、隊には第一中隊、第二中隊とありまして、私は第二中隊の第八班というところへ入らせてもらいました。(569頁)
ところが、私らの第二中隊の方は良かったのですが、第一中隊の方は何をしているのか初年兵ですから分かりません。大体のことをいいますと自動車の運転とかが第一中隊の関係でした。後で分かったのですが、飛行場大隊というのがございまして、設営とかその方面の人たちは第一中隊で、第二中隊は無線だとか技術関係でした。第一中隊の方では同期の兵が逃げたという噂がありました。よっぽど辛かったのでしょう。私らの方は良かったのですが、第一中隊の方はビンタが多かったので逃げたということでした。(570頁)藤原
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/13/O_13_566_1.pdf
 
 昭和十七年の一月末、呉鎮守府より、「五月一日、広島大竹海兵団に入団せよ」との、待ちに待った令状を受け取った。・・・このように新兵教育も一つ一つ覚え、一、二カ月と過ぎていったが、カッター訓練は特に厳しく、少しでも力を抜けばバッタで叩かれる。(555・560頁)
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/13/O_13_554_1.pdf

 昭和十八(一九四三)年一月末、岩国空において予科練の教程を卒業した私たち水上機選抜の六十人は、水上機の練習航空隊である茨城航空隊に移動をした。・・・
 私達が衣納袋をデッキに下ろすや否や、早速「練習生整列!」の声が掛った。三人ほどの教員は「海軍精神注入棒」と書かれたバッターを持って私達の整列を待っていた。
 「当直」と書かれた腕章の教員はいわく「ここは地獄の一丁目。二丁目のない飛練である。貴様達がお世話になるのはこのバッター棒である。よく礼拝しておけ」と。
 早速、一人に三本ずつバッターの洗礼があった。この時の尻の痛みは仲々消えなかった。(537頁)
 十日間位は瞬く間に過ぎていった。徐々に訓練には馴れたが、相変わらず飛べば怒鳴られ、降りれば罰直の駈け足、デッキでは常時バッターが、釣り床競技という地獄の毎日。夜間は練習室で教員より「飛行機操縦教科書」により、操縦操作の講義も勉強となった。「頭で覚えようとするな、体で知るのだ。殴られて痛ければ、体自身が覚えてくれる」と、意味不明な教訓もよく言われた。こうして、毎日が必死の飛行作業であった。(542頁)
 一方、飛行訓練も終わり夕食が済む頃になって当直教員より「練習生、全員がよく聞いておれ」その日の連絡事項についてよく話があった。
 だが時折「練習生全員集合」の号令一下、練習生全員は廊下に並ばされる。「貴様らの最近の動作は何だ、弛んでいる証拠だ」と理由をつけては、バッターで尻をブッ叩く、罰直を楽しみにしている若い教員が何人かいた。罰直の苛烈さにおいて伝説的なK教員には驚いた。この罰直の語源は定かではないが、肉体的苦痛を与える海軍用語であるそうな。
 罰直には個人の場合と連帯責任とがある。個人の場合は規則違反などであり、この種の罰直は多くない。むしろ全員を対象にした罰直の方が多かった。よく何らかの理由をつけては全員集合。そして、ただバッターを振るう。そんな感じのする罰直であった。
 結局、このようにお尻に痛い教育を受けながら、大いに気合の入った練習生ができ上がっていく。これが猛訓練という海軍軍人としての型に塡め込むための試練でもあった。いずれにしろ、面白半分にやる罰直も数えきれない位あった
 その後、特定教員による制裁は分隊長によって止めさせられた。「罰直や制裁を止めよとは言わないが、練習生に怪我をさせるようなことは好ましくない」との注意があったそうである。陸軍においても、私的制裁は厳しく、改善されていったと聞いているが、私情を挟んだ行動が公に許されることはあってはならないし、その制裁が軍の団結を破る結果となったこともあった。(544頁)榊原
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/14/O_14_537_1.pdf

 昭和十七年一月十日、広島第六連隊野砲兵隊に入隊、三月二十日、一期の検閲(満州行きのため間に合わせの検閲)を終え、三月二十七日宇品出港、釜山から北上し満州国に入り、牡丹江から虎頭に到着、第四国境守備隊(第八七五部隊)第七中隊(隊長・斉藤中尉)に初年兵四十三人が配属され、四月七日入隊式を終え、一期の検閲に向けて訓練を始めました。・・・
 内務班は初年兵、二年兵、三年兵の混合で、召集兵も若干いました。二年兵は大阪出身者、三年兵は愛媛県出身者が多かったのですが、どの隊でも初年兵のうちは何かにつけて叱られることばかりで、毎晩ビンタの無い日は正月と二月十一日の紀元節だけだったと思います。靴の手入れが悪いとか掃除の仕方が悪いとか、整列ビンタは年中行事の一つでした。いま振り返ってみますと、あの苦しい初年兵の体験は六〇年経った今でも懐かしく思われる貴重な体験だったと思います。
 現在の青年にあの体験の三分の一でも良いから体験させることが大切で必要だと思います。とくに斉藤中隊長の訓示は「人間はまっすぐな道を歩め」「他人には絶対迷惑を掛けるな」の二つを教育方針として、兵隊に常々教えられたせいか、理不尽な私的制裁はなかったと思います。(536・537頁)渕崎
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/13/O_13_536_1.pdf

 我々の海軍の管区は舞鶴で、区内は山形・新潟・富山・石川・福井・滋賀・京都でしたから、海兵団は舞鶴であります。入団は、昭和十七年五月一日、松任出発は四月三十日で、数人の者が入団するので、海軍の人事部の方から引率者(下士官)が来ました。その時から、もう気合をかけられましたし、入団の晩から臀を叩かれました。その棒には「軍人精神注入棒」と書かれ、樫の棒でバッタと言うのでした。
 入団してから、一五センチ平射砲を射つ練習(空砲砲は八門)がありました。ある新兵が放屁をしたら、一個班十六人が、湾に入って泳いで「丸〔振り仮名「たま」〕を拾って来い」と言われ、約二時間泳がされました。班長はカッター (ボート)に乗っている。放屁のガスが水の中に有るわけが無いのだから拾えるはずがない。「何でこんなことをするのか」と思ったのですが、これが、海軍の教育だと思いました。(530頁)

また、海軍占領のキスカ島の第三十二防空隊に編入され・・・一個小隊、三十数人、我々は二等水兵ですから、どこへ行っても一番下の新兵、下がいないのです。下が入らなければ万年新兵ですが、その反面、海軍の給与は最高でした。それでも毎日、毎晩のバッタに変わりなく苦労の連続でありました。(531・532頁)

 大湊では進級して上等水兵になったので、初年兵当時より幾分楽になりました。それからは、バットで叩かれなくなりました。あの痛いバットは教育の手段であったわけです。それだから、これからは、バットを振る立場になったのでした。
 石川県の人間の一般は、バットを振る者が多かったのですが、私は、下の者に対しバットを振らず、言って聞かせるようにしたので、「石川県の人でも、優しい人もいる」と、下の者から言われました。(533頁)伊藤
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/13/O_13_528_1.pdf
 
 「臨時召集令状 部隊名日時
 松江西部六十四部隊 昭和十七年三月二十五日午前八時ニ同部隊ニ入隊スベシ 松江連隊区司令部」(486頁)
 昭和十七年春頃、満州より満期で帰って来た兵隊が居ましたが、彼らは気が荒く、誰彼かまわず暴力を振るい、私的制裁を行い「興安嶺嵐を見せたろか」と怒鳴ってた。思えば哀れな先輩達だった。(488頁)藤原
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/13/O_13_484_1.pdf

昭和十八(一九四三)年一月十日、臨時召集で西部第五十二部隊第三中隊に入隊したのです。部隊は、支那事変で有名となった「爆弾三勇士」の出身隊、久留米の工隊であります。・・・
 初年兵教育は三カ月間、星一つでも、一日でも早く入隊すれば先輩であり、上級者、古兵、先輩たちに毎晩叩かれる。同年兵の一人は、一人の上等兵から三カ月間に一〇〇〇回叩かれたと言いますが、彼は毎晩手帳に「正」の字を書いて記帳していたのでした。私は叩かれない方でしたが、一〇〇回は叩かれました。(467頁)久世
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/13/O_13_467_1.pdf

所属は近衛歩兵第二連隊(富永恭次大佐)第三大隊(吉田嘉久少佐)機関銃中隊(新井隆夫大尉)で・・・「近衛は皇軍の模範たれ、名誉を傷つけることなかれ」をモットーに、ビンタは強い兵隊を作るために必要だと言われました。(302頁)原
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/13/O_13_301_1.pdf

・・・昭和十九年九月五日、山形東部第五十九部の検閲を無事に終了しました。
 回顧すれば、入営前在郷時代さんざん隊内の内務班の生活のきびしさ、制裁の苦しさを予備知識として耳にたこの出る程聞かされていましたが、私共は入隊の以前より個人制裁の禁止が厳重に叫ばれていて、私共はその恩恵を蒙り大変ラッキーでした。とは言え、全然皆無ではなく伝統の足を開け、眼鏡を外せ、歯を食いしばれ、その上痛烈な鉄拳制裁、初年兵同士の対抗ビンタ等は数回受けました。でも時代の移り変わりか、我慢できる程度でまあまあ、やれやれでした。(257頁)鈴木https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/13/O_13_256_1.pdf

その日の内に、新潟県高田市にある第七錬成飛行隊第一中隊第一班に配属され、翌日からしごかれた。一般の人は青年団で各個教練をしてきていたのですが、私は電気専門学校ですので、演習に行ってもいつも一人だけ叩かれ顔が腫れ上がっていた。また夜になると航空隊だから急降下をやれと、時々内務班の壁に向かって逆立ちをさせられた。しかし演習は僅かだった。(176頁)小野
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/13/O_13_174_1.pdf

十一月二日、横須賀海軍通信学校第六十三期生として入隊した。・・・「皆聞け、あれほど言ってあるのに遅刻した奴がおる。気合いを入れてやるから出てこい。両足を開き両手を挙げ、拳を握り歯を喰いしばれ」とバットが飛んだ。幾つかで倒れる。兵舎の隅に空気乾燥防止のために桶水がある。「水持ってこい」と水をぶっかけ、気付き、立ち上がればまた叩く。と「あと気を付けろ。元の位置、解散」。教員の瞼がうるんでいた。このような時でも休業とか入院とか聞いたことがない。
 夏の一日、各分隊長交替で久里浜海岸へ水泳に出た。私らの尻が皆、紫色に血がにじんでいた。終わって校庭に教員整列があった。約七百人、校長から「あまり手荒なことをしないように」と注意があったが、変わらなかった。(171頁)
 ・・・ある朝、朝礼に大喝一声「佐世保の海兵団はちよっと違うぞ。見とけ……出てこい」と善行章二線の上等兵曹が壇上へ、横に将校三十人ぐらいが居並ぶ。「兵隊を指導すべき立場にありながら……」と言うなりバット一つ二つ三つ……厳しいと聞いていたことを見た。(172頁)武村
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/13/O_13_165_1.pdf

 お客様扱いも三日までで天下に名高い鯖江連隊の内務班教育が始まった。毎日の私物検査と整理整頓、班員の一人の不始末は直ちに全員整列ビンタ、対抗ビンタの連続である。(204頁)松塚
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/07/O_07_204_1.pdf

役場から入隊せよとの通知が届いたが、それには「昭和十七年四月十日午前十時、福井県鯖江歩兵第百三十六連隊連隊砲中隊」と記してあった。・・・日が経つにつれて古兵達の一品検査と、それに伴う私的制裁が度を増して来た。入隊前より先輩から聞いていた勇猛果敢な第百三十六連隊の内務班の教育は、毎日私物検査、整理整頓で、班員の一人の不始末による全員整列ビンタと相手同士の叩き合いと聞いていた。(127頁)

職業は蹄鉄、鞍工、炊事、喇叺、衛生その他である。衛生を希望し中隊の人事係准尉に申し出た。連隊からは各中隊より一人で十五人が朝八時に医務室に集合し陸軍病院へ通学、連隊と病院合わせて三十五人の教育が始まった。・・・私は夜の点呼が終わると薄暗い厠に入り、股木の所に新聞紙を敷き、暗い電灯の下で毎夜十一時過ぎまで予習や復習をした。病院は看護婦が共に勤務しているため、女性厳禁の病院では脇見をしたと因縁を付けられ、連隊の者はどれだけ叩かれたか分かりませんが、頑張った甲斐あって卒業は三番で、連隊の医務室では事務室勤務となった。(128頁)

「松塚衛生兵、実は廊下の片隅で一人が頭から血を流し顔面を両手で覆いながらしゃがんでいるから見てくれ」とのこと。早速跳んで行くと、両手を真っ赤に血で染めていた。・・・原因は夕食後お風呂から帰り道、古兵から「貴様は態度が悪い」と言われ、突然木銃で前頭部を叩かれ五センチ近く割れたとのこと。その日は患者の事が頭に浮かんでなかなか眠れなかった。(129頁)松塚
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/13/O_13_126_1.pdf

 私は満州一一八部隊内の第十二中隊に属し、初年兵の一等兵。クラスノヤルスク収容所では何組もの作業班に編成された。(81頁)
 入隊当初、鈴木伍長に「清田、前へ出ろ」とスリッパで往復ビンタ。口の中は傷だらけ「貴様のような奴がおるから皆が悪くなる。皆の代表だ。今日はこれで良し」と。これで「天皇陛下万歳」と笑って死ねるか……。ああおれは非国民か……。何のお世辞も言えず口下手な俺。だが最初の戦闘で弾の来る中、鈴木伍長が「清田、しっかりしろ。上等兵候補だぞ」と励ましてくれた時、万年一等兵と覚悟していた私はこれが軍隊か、よしやるぞと戦った。ここで別れ別れになったが一番会いたい人だった。帰って最初の戦友会でシベリアで亡くなったことを初めて聞いた。(82頁)清田
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/13/O_13_080_1.pdf

 中部二十二部隊(元歩兵第八連隊)に入隊。(69頁)
 この大阪の二十二部隊におること十一日間。昨日「明日は原隊のある満州に出発する」と知らされた。原隊名は「満州第一九三部隊」という。(70頁)
 病院で、岐阜県郡上八幡出身の二年兵で高垣一等兵に出会った。気安く話しかけたというので初めて気合(ビンタ)を入れられました。(73頁)

 点呼・体操・うがいをする。その後班長が、歩兵操典の中からの質問をする。これに答えられないと竹刀でポカリとくる。(74頁)

 食事が終わり食缶を洗って、週番上等兵に引率されて炊事場に返納に行きます。出入口に食缶をおいて帰りかけますと「コラッ!第一中隊マテーッ!」。きれいに洗ったつもりの食缶に一粒の飯がついていた「貴様ら、これでも洗ってきたか、みんな並んで尻を出せ」とくる。そもそも炊事係という者は、中隊で嫌われ者の荒くれ者がなっています。大きな釜から土掘り用のスコップで飯をすくいますが、そのスコップを持って二、三人の炊事係が駆けてきて、力いっぱいひっぱたきます。痛いこと、頭のてっぺんまでピーンと響き、くらくらします。炊事場は鬼門でした。(75頁)
 寝ている古参兵たちに煩がられるから、不寝番も押し殺した声で怒ります。拳骨で頬に一発ずつもらって解放されます。(77頁)

 ・・・夕方点呼のとき、我が班長の鬼軍曹殿は、墨黒々と「軍人精神涵養」と書いた木刀をもって来る。週番士官の点呼が終わると、班長が今日の教練成果について話すが、成果が悪いとただでさえ赤い顔が、ゆで蛸のように真っ赤になって怒る。教科についての質問をする。答えられないと木刀で頭にたちまちコブができる。質問はほとんど初年兵が対象とされるのです。
 教練等は厳しいのですが、休憩時などは大きな声を出して駄酒落を言い、愉快で思いやりのある班長でしたから、班長を悪く言う兵隊は一人としておらなかった。班長が「解散!」を宣言して下士官室に引き上げると、初年兵係上等兵殿が「初年兵待てッ!貴様らは班長を困らせるのは、貴様たちがたるんどる証拠だ。足を開け、歯をくいしばれ」でサザエのような拳骨で片っ端からほっぺたを思いきり殴るのです。その痛いこと、眼から火花がピカピカと光り散ります。「よしッ!作業にかかれ!」と言います。(77・78頁)
 それぞれの部隊で違っていたでしょうが、私は入隊する前に「関東軍は軍律が厳しいぞ」と聞いていたのですが、一挙手、一投足いちいち文句をつけられていました。消灯後、幾度となく毛布を被って悔し涙を流したことか、今では、辛かったなあと懐かしく思い出されます。(79頁)河村
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/13/O_13_065_1.pdf

 私はどうも酒の上の失敗が多いようである。ある外出日、帰隊時刻も来たので、一升瓶を肩に小唄を唄いながらの帰り道、前方より年若い少尉が来たので敬礼をしたところ、態度が悪いとかで一発くらったので、私も何気なく持っていた一升瓶で殴ってしまった。少尉は「上官暴行で、憲兵隊に訴える」と怒った。私も負けずに「私的制裁が禁じられている今日、訴えられるものなら訴えて見よ、初年兵のくせに生意気だ」と反論して帰隊してしまった。酔いがさめてから、自分の軽率な行動を反省したものであったが、どういうことか何事もなく、いまだに不思議に思っていることの一つである。(42頁)竹内
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/13/O_13_038_1.pdf

 私の父は群馬県前橋市で建築請負業をやっていましたが失敗して、大阪の港区に引っ越しましたので、兵隊検査は群馬県前橋市で受け、昭和十八(一九四三)年二月十日、群馬県高崎市の第十四師団歩兵第十五連隊の大隊砲小隊に入隊しました。・・・(481頁)
 一期の検閲が終わると、それぞれが特業教育に就くのですが、私は人事係准尉から衛生兵教育を受けるように言われ、チチハル陸軍病院で衛生兵教育を受け、中隊付き衛生兵となりました。・・・(482頁)
 衛生兵は進級が早いといわれた通り、私も一選抜の上等兵になれましたが、前に申した通り補充がなく、あとが入ってこないので、内務班では一等兵の古年兵から「上等兵になったと思ってデカイ態度とるな!」とビンタとられる始末でした。(484頁)和久井https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/14/O_14_481_1.pdf

 昭和十八年四月一日、福井県敦賀市の歩兵第百十九連隊へ現役兵として入営しました。・・・
 その日は名古屋市内で一泊して勢揃いし、翌日、敦賀ヘ出発、入営を致しました。第二中隊第二班へ編入された。今まで生活していた娑婆とは一別し、今日よりは軍隊という新しい社会生活に切り替えた。入隊前に聞いていた非道、陰険、残虐に制裁は一先ず無く、我々新しい初年兵も少しは安堵した様子でした。が、四月一日入営、四月十日の軍旗祭が終わると、それまでの様子は一変して鬼の内務班と化した。ここ敦賀は福井県、我々初年兵は愛知県人。言葉が違う。愛知の我々は継子扱いされて、手荒な仕打ちを繰り返し受けた。こうして軍人精神、何くそ、攻撃精神、内務の規律が確立されていった。一人前の軍人が錬成されて行く。(438・439頁)横井
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/14/O_14_438_1.pdf

顔もゆがみ、歩くのもやっとの態でもあった幹部候補生受験の前夜の試練、いわれなきビンタの横行、嘲笑や憎悪、偏見と屈辱にも耐えさすことが、はじめて「軍人精神」の神髄を体得させ得るものかは疑問である。(49頁)田中
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/14/O_14_048_1.pdf

 翌十日朝、西部第八十四部隊の営庭は新入隊者の群で埋っていた。・・・
 第六中隊第五内務班は、歩兵・衛生兵の初年兵が約二十人、古兵は兵長殿はじめ二十五人位、合計四十五人程であった。朝礼、点呼、銃剣術、朝食、食缶返納、掃除、銃剣手入れ、通修整列、つまり、早飯、早糞、早走り、他の者より一秒でも早い者が勝ちである。朝食当番が飯・汁をつぎ終わり、週番上等兵殿が「よし」と合図がなければ食器に手をふれられないし、盛付けの多いのを注目している。
 そのすきに、雑巾七枚のうち一枚を素早く軍衣の下にかくしおき、合図と同時に飯に汁をかけ一気に呑み込んだ。直ちに廊下を駈け足で雑巾がけ、折り返している時、二番手が五班を出発している。私は、五班到着と同時に「よーし、中島交替せよ」の掛け声で、ドロドロの雑巾を次の戦友に渡す。ホウキかバケツ、塵取り、何でも握っている者はよいが、手ぶらな者は古兵殿よりビンタが飛ぶ
 銃剣術の間、稽古も、木銃は充分あるが防具が七組だけで、防具取りの争奪戦はすさまじい。半分防具を付けていると、古兵より直突き一本でひっくり返され、起き上がれない程痛い目に会う。
 ちょっとでよいから足りない防具を貸してもらい、型の訓練をしなければならない。ゆっくり着ていると、一人も居なくなり整列点呼が始まっている。このような行動により、機敏で、困苦に耐える兵隊が仕上がっていく。軍隊へ入った殆どの者が体験するのである。(564・565頁)

部隊長殿よりのお呼び出し
 一期の検閲前の頃、ある日、班長殿が「中島、部隊長殿がお呼びだぞ」「直ぐに本部へ行け」と言われ本部まで急ぎ行った。「衛生兵、中島富夫参りました」部隊長殿は「以前馬より落ちて腰が痛い、治るか」「ハイ、治るであります。寝台に伏臥して下さい」と、腰背部を触診して軽く按摩を施した。「できれば鍼治療をしたらよいと思います」部隊長殿のお顔を真っ直には見られない神様級の方の腰痛治療を頼まれて光栄である。鍼灸師の免許は本当に有り難く貴重な資格であった。
 「では鍼をせよ」である。「鍼灸治療具を取りに佐賀へ行きます」と答え、公用腕章と外泊許可証が用意してあった。班内の古兵は勿論のこと中隊事務室の係官まで「中島用件は何か、単なる按摩のみでない。何かがある。あるいは部隊長殿の親類か」「鍼治療具を取りに参ります」。何回説明しても聞いてくれないが、個人的な制裁のゲンコツが班全体激減した。
 その後も部隊長室を再三訪問した。ある日、班長が私に静かに近づき「中島、今日もお部屋へ行くか、今直ぐ行け」とのこと、今日部隊長殿は出張不在を私は知っていたが、班長殿の声が、何かあると、サッと班を出て便所に一時間以上も入っていた。やっと臭い所から解放され内務班に戻ったら、嵐の跡であった。古兵一同から、初年兵全員往復ビンタの後は、手箱、整頓棚は木銃でひっくり返され、班全員、沈黙の真っ只中の時、「只今、中島帰りました」シーンとしている。腫れ上がった顔を部隊長殿に見られては内務班の恥、気合を入れるのに内務班のしきたりであるが、班長殿の私に対する思いやりであったと感じた。部隊の規則には「私的制裁の禁止」と大書きされているだけである。(567・568頁)中島
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/14/O_14_559_1.pdf

 私は昭和十七(一九四二)年二月一日、中部第六部隊騎兵隊に現役兵として入隊しました。名古屋で育った私には、騎兵隊などと言った馬のお世話をしなければならないなどとは、不安でなりませんでした。ここ中部第六部隊にいたのは入隊後約十日間位で、二月十一日には第一線要員として名古屋駅を出発、門司港より朝鮮釜山に上陸、さらに鮮満国境を通過し、北支の平地泉と言う所へ向かいました。北支のこの地方の二月頃の気温と言えば零下三〇度、用便をすると終わらないうちからツララとなってしまう程の寒さでした。内地では到底考えも及ばぬ光景でした。列車から下車した私達は隊伍を整え、原隊のある平地泉へ、歩いて約一時間で駐屯している部隊に到着しました。直ちに編成となり、私は第二大隊第三中隊第一班に編成されました。
・・・ある時、演習より帰隊し、銃の手入れをして、銃口を研く放槍口の差し入れ方向が間違って差し込んだままにして銃架に立てて置いたことがあります。明朝演習に出て、「休暇」「組め銃」となったのですが、放槍口がないので、我が分隊だけが「組め銃」ができない。教官から「一分隊、どうした」と言われました。助手の方は「ハイ!放槍口が悪いので修理に出しました」と言って、その場は教官も察して「了解」となったのですが、演習が終わって帰隊したら早速全員訓示となり、点検と言う事を忘れた罪でビンタのお見舞をもらったのでした。(209・210頁)和田
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/15/O_15_209_1.pdf

 明けて昭和十七年一月十日、兵隊として関東軍の一員となった。現地入営との事で待っていた。戦車兵なので隣のあの部隊ではないかと思ってい たら、入隊地変更で千葉の習志野戦車部隊入隊とのことだった。・・・
 千葉では一カ月で満州に派遣となり、満州はどこだろうと思っていると、なんと宝清の部隊だった。こんな事なら開拓地から入隊すればよいのにと思った。いつも開拓団員としてこの戦車部隊の前を通っていたのに、見ると入るとは段違い、朝から晩まですごい訓練であった。夜は夜でビンタの嵐、良くても悪くてもビンタの連続。特にノモンハン帰りと初年兵が恐ろしがっていた万年一等兵が朝から晩まで睨みつける。特に二階は神様(古年兵)が両側におり、初年兵は下で朝から晩まで睨まれ通しである。・・・
 目の前で殴られるのを見て止める事もできない。血だらけになって、それでもまだ止めない。可哀想だが手を出せばやられる。神様や兵長、上等兵は見ているだけ、伍長も万年一等兵には歯が立たない(年功が古い)、伍長にも手を上げる事もある。そんな中で初年兵は「良し、今に見てろ、除隊までに必ず仇を取ってやる」と、私も思っているので、皆も思っているに違いない。(77・78頁)菅野
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/16/O_16_068_1.pdf

この日から、私の嵐第六二一二部隊歩兵砲中隊(第百十六師団歩兵第百二十連隊歩兵砲中隊)での戦務が始まった。・・・ここで初年兵教育が始まった。演習教育担当者の西村弥寿男軍曹は体格抜群の人で、演習中標悍で頭を叩かれた兵隊は沢山いる筈である。(30・31頁)柏谷
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/16/O_16_030_1.pdf

霞ヶ浦航空隊に入隊してからは、約一年間霞ヶ浦で実戦訓練を受けました。その時は若い志願兵の上等兵から腕立伏せをやらされたり、尻を叩かれたり、それはそれは大変な苦労でしたが、これはすべ〔ママ〕が訓練であり頑張りました。(644頁)藤原
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/17/O_17_644_1.pdf

・・・横須賀第二海兵団に入団する者は五人で、多くの方々に見送られて「万歳!万歳」で出発しました。
 海軍の訓練は厳しいぞと、話には聞いていましたが、入団して三カ月間の教育訓練中は、海軍魂を叩き込んでやると、古年兵達が棒で尻を殴るなどの厳しい訓練に、時には涙を流すこともありました。(603頁)佐藤
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/17/O_17_602_1.pdf

私は熊本市にある歩兵第十三連隊歩兵砲中隊でした。・・・ある時、戦友が許可なく売店(酒保)に行って饅頭を食ったと言って上等兵から全員呼び出され、木銃で叩かれ、立ち上がれないほどでした。全員震え上がった思い出があります。(87頁)坂井
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/17/O_17_086_1.pdf

第一海兵団の日課は戦争中にもかかわらず平穏な毎日でした。・・・佐世保は軍港の町でどこへ行っても海軍軍人の先輩ばかり、敬礼することを怠っては欠礼をして罰が与えられた。特に巡邏は厳しかった。(503頁)塩田
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/18/O_18_502_1.pdf

久留米第四十八連隊は戦争に強い歩兵連隊として有名だと先輩から聞かされておりました。・・・私は第一大隊第二中隊に配属され機関銃班に所属しました。そして三カ月間の一期の検閲が済むまでの内務班教育と訓練は予想を上回る激しく厳しい毎日でした。・・・厳しい訓練に昼食、午後の訓練でくたくたになって夕食の準備と後片付け、古兵の手伝いと身の回りの整理、点呼の時の軍人勅諭の暗誦。古兵の叱声とびんたで目から火が出るような思いでした。貴様達は「たるんどる前支えだ」と初年兵一同「前支え」をさせられ油汗が出ました。(437・438頁)野田
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/18/O_18_437_1.pdf

 昭和十八(一九四三)年四月一日、広島県福山市の歩兵第一四一連隊補充隊第三中隊第一班へ入営しました。(335頁)
 入営第一日目はまあお客さん待遇で、すべて古参の人を見習って、内務班教育や躾のあり方を見聞して兵の第一歩を踏み出しました。
 二日目からはもう新兵としてミッチリと仕込まれ鍛えられます。歩いていることはない。皆走っている。その間にビンタがとぶ。対抗ビンタも初めて経験しました。とにかく軍隊とは敵と戦争をして勝たねばならぬ。無駄、隙、漫然、冗長等一切やめて、正確に最短時間に、他人よりも優秀な成果を挙げなくては、生存競争の烈しさは言葉では言えない位だ。しかしその中にも戦友愛という暖かい感情、連帯感、かばい合い等のプラスの面も芽生えてくる。それが時間、歳月の経過と共に、精鋭な部隊に仕上がって行くのです。
 一方、野外の訓練は、芦田川の河川敷を練兵場代わりにして行われました。とにかくきつかった。班長殿は「悟りが悪い。一度言ったら悟らにゃいかん」とビンタも時々ある
 軍人勅諭の暗記の時、詰まって言えぬと即ビンタ。とにかくビンタは多かった。(336・337頁)谷本
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/16/O_16_335_1.pdf

 十九日、広島駅に到着、指定の宿屋に集合しました。山形県出身者が四十三人、宮城県出身者が七人で、合計五十人が集合しました。行先は満州ハイラルの第三二一部隊で、正式名は関東軍ハイラル第一陸軍病院でありました。(346頁)
 初年兵は古年兵の身の廻りの世話もしなければなりません。古年兵は九州出身者が多く、気の荒い人が多いのでビンタを相当もらいました。(347頁)島貫
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/16/O_16_346_1.pdf

 部隊は満州国黒河省第六国境守備隊第二中隊(中川隊)に入隊。私は速射砲隊に配属され、砲の口径は一七〇ミリ、五人で一門で三人で牽引する。時に馬で引く場合もある。ノモンハン事件で「ソ軍」の戦車に苦しめられたことから、速射砲隊を設けたようです。
 内務班の生活は朝六時起床、点呼、三十分の銃剣術の稽古、教練、演習、各種当番等で、午後九時に消灯である。ビンタは時には喰らったが予想していたより少なく、と言っても要領の悪い初年兵は度々やられた。やられる者は決まっている。(349・350頁)小林
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/16/O_16_349_1.pdf

 大阪で身体検査を終わり、服を着ながら我々の仲間の一人が小さな音で口笛を吹いたのを居合わせた憲兵兵長に聞き咎められて、いきなり殴られ、上官の憲兵軍曹に「犯罪を構成しますか」と問うと、その下士官が勿体ぶった物腰で「態度不遜なりと認める」とやりとりしているのを見て驚きました。はじめて家族と離れ、どこへ連れて行かれるか不安な初年兵に、どうしてもっと軍隊の先輩らしく注意してやれないのだろう、と思いました。(2頁)川村
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/15/O_15_001_1.pdf

 昭和十四年八月頃、徴兵検査を石家荘で受け、甲種合格しました。どこへ入営するのかと案じておりましたら、金沢騎兵第九連隊へ、昭和十五年一月十日入営すべしとの通知を受け取りました。(310頁)
 騎兵へ入営する二人は金沢駅で下車して十一屋町で一泊して騎兵隊の門前で父と別れ入営しました。
 あっけない別れとなりました。その晩は赤飯で祝ってくれました。次の朝より古兵達に毎日のように打たれ、初年兵のつらさを初めて知りました。(311頁)渡邉
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/16/O_16_309_1.pdf

 昭和十八年四月一日、舞鶴海軍防備対勤務を命ぜられました。・・・そして舞鶴湾の喉口に当る博奕衛所で二十四時間体制の聴音所勤務に就きました。・・・
 同年兵同志の学校生活と異なり、階級の厳しい実施部隊の明け暮れ、日常作業態度が悪いと先輩による夜の罰直が待っています。覚悟はしていたものの殴られる尻の痛みはまた格別でした。(133頁)

 よく先輩から「潜水学校は殺される目に会〔ママ〕う所」とその厳しさを冗談話しでおどかされましたが、正に入校第一日目から難問に会ったのです。入校してくる者を二十人ぐらいを一くくりにして当直教員の説明があります。「一種軍装を事業服に着替え、衣嚢に入れ、衣嚢を棚に納める、テーブルに並べてあるハンモックをビームにかけ、ほどいて内部を点検、再度くくり直して元に戻す。以上三分以内に終った者から中央通路に整列。かかれ!」ピーの号笛一声あり、必死に旅装を解き事業服に、衣嚢を棚に納めてハンモックの調整にかかる。中々網がもつれたりして気が焦れど思うように進まない。夢中で最後の網をくくりつけて終了、パッと中央通路に飛び出す。トップ整列。
 瞬間を置いて次の者は何と舞防から共に入校した山形出身同年兵の梅津雄三君ではないか、「はい、これまで!」と時計を手にしている当直教員の声がある。以下の者は全員時間切れで後に厳しい罰直が待っています。自分のハンモックを担いで駈足、校庭一周です。青息吐息で戻るとさらにそこには鉄拳制裁の二、三発が待っていました
 そして最後には教員の訓示が「いいか!潜水学校は出来ないことをせよとの難題は言わぬ。現に二人の合格者がいる。今後覚悟して校風に従うよう努力せよ」との話があり、(133・134頁)小川(米持)
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/18/O_18_131_1.pdf

 回顧すれば昭和十八(一九四三)年十二月、現役兵として朝鮮第八五〇六部隊に入隊を命ぜられ、歓呼の声に送られて、会津坂下の駅をあとに、我が親愛なる友は南方方面へ、あるいは北方へと。その日は、大粒の綿雪が降る日だった。・・・(171頁)
 零下二二度を下がると演習は中止となり、内務班において学科です。軍人勅諭の説明、「真綿に首」という言葉の通り教育され、実行されて行きました。自分の意志など述べることできず、実行しなければならず、少々のことでもビンタを取られ、平手打ちならまだしも、スリッパまたは帯革ビンタです。口腔粘膜が切れ三日間も味噌汁が吸えないこともありました。このように私的制裁が一般的に行われており、入隊前より話は聴いておりましたが、これが新兵教育かと思いました。
  肉体制裁に加えて精神的苦しみも、またひどく、疲労と睡眠不足で、学科中に手に持っている教科書が、あちらこちらで落ちる音、はっとして顔を上げ、自分も握り直す。ここでまたビンタが飛ぶ。このような毎日なので私の班からもこの精神的苦痛によって、昨日まで一生懸命やっていた同年兵が、夢遊病者のようになってしまい、その監視をさせられた事もありました。気の弱い者は、そのようになるのかと思いました。忍びがたきを忍び、耐えがたきを耐え、一億奉公に務めざるを得ませんでした。
  部隊長の検閲があり、一人一人を巡視されて「お前、その顔の傷はどうした」と言われても、「私的暴行をうけました」とは申せませんで、「夜は灯火管制で、舎内は暗かったので机に当たりました」と言っておりました。初年兵の哀れな姿です。疲れて演習から帰って来ると、自分の整理棚の物品、衣服等が散乱しており、古年兵が「今日は地震があったぞ」とそしらぬ顔です。また敷布の上には赤いチョークで大きな金魚が書かれており「金魚が水を呑みたいと言っていたぞ」、何をされてもそむくことができませんでした。(172・173頁)
  戦地に赴く戦友と二日の間、酒保で懇親の宴が催され、戦友は「俺達、南方に行くんだ」と話しており、前日には実弾が渡されたようでありました。その時は中隊長も同席して「本日は無礼講だ」「何でも話をしろ」と言われました。
  今まで何事も上官に対して、物申す事などできませんでした。恨み骨髄に徹すると言う言葉がありますが、一人の初年兵が立ち上がり「自分は今まで奴隷のように使われ、私的制裁を受け、脱走まで考えて参りました。弾は前よりばかり来ないのだ」と皆の前で話しました。皆「しーん」となり、私的制裁のひどかった事が一気に爆発したという状況でした。鬼班長と言われていた伍長が、皆の前に正座して「誠に悪かった。私は皆を強い兵隊に育てたい思いで行った訳であった。しかし度を越してしまった、悪かった」と、両手を付いて幾度もお詫びをしました。その姿はあわれそのものでした。中隊長も「誠に申し訳ありませんでした」と詫びられ、その初年兵も納得して戦地に向かったことと思います。(174頁)加藤
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/15/O_15_171_1.pdf

 さて揚子に上陸して行軍する。中支は雨が少なく、半年も雨らしい雨が降らない。土が軽く地埃は黄塵万丈、天に沖す。内地では想像もできない大陸である。一週間位、行軍して一月九日、沙洋鎮と言う大きな町に到着した。ここで鏡第六八〇五部隊熊谷隊に入隊する。一カ月も入浴しないため虱が自然発生し初年兵全員が虱だらけの兵士である。入隊式も終わり、大隊本部の在る十カ城を経て、第七中隊は五カ城に到着。まず入浴する。(36頁)
  さあ三日目から始まったものは何?言わずと知れたビンタの連続である。明治以来の変わらざる軍隊教育まさに筆舌に尽くし難きビンタビンタの明け暮れに耐える。戦後出版された「聞けわだつみの声」「人間の条件」等が映画化されたり、現代のドラマ「おしん」の名場面は世界中の人々に深い魅了をあたえかつ大いなる感動をもたらしたもの、軍隊教育と全く同じなり。軍隊のみならず一般人も「人間の条件」以上の中に在り、某県では娘を売ったと言う事実もあった。
  娑婆にある人間関係の諸々と何ら変わらず軍隊には軍隊の風紀があり、下級兵は絶対服従であるべし。これまた筆舌に尽くし得ぬ初年兵の「運命」、惨めなものである。早く言えば古参兵の「玩具」と言うも過言ではなかった。例を上げるのも今更口惜しいが柱に抱き着いて蝉の鳴き真似をせよ、汚れた軍足を喰えてオットセイのように分隊全員して各班を廻って来い等々、それを楽しむ気悪な先輩もいた。(36頁)

  全快、原隊復帰への喜びはほんの束の間、数日後に待っていたものとは思い出す毎に、当時の悪夢のごとく、私を待ち構えていた物とは、分隊長の命令。「若林来い」。ビンタビンタ、またビンタの仕打ちの連続。何発やられた事だろう、理由もないままに。分隊長の平手が痛くなったのか、拳骨で殴るは、殴るは、鼻血は出るは、前歯がぐらぐらになって歯茎からの鮮血がしたたる。今度は鉄鋲スリッパで叩かれ、その中、失神状態の狭間の中ふと脳裏をよぎったものは両親の顔、顔、こんなことを両親に見られたくない。
  見せたくない。兄弟、姉妹の顔が目の裏を掠める。親が見たらどんな思いに悲しむだろうと――。地獄絵図のヒーローさながらの思い。全く身に覚えなきこの仕打ちが判明したものとは。――同年兵のいわき出身の船員に、特に悪質な兵がいた。
  彼も入院し一足早く帰隊したらしい。当時そんな事は全く知る由もない私、会った事もない兵なのに一選抜上等兵の決まる直前である私を誹謗中傷の結果と知った。その内容は、若林の野郎は病院の神様になり、病院に長くいる事を喜び、後送されることを望んでいる、云々と。これを中隊中に悪宣伝したのを小隊長はじめ分隊長も、それを信じ、不心得者にされ、半殺しにあったのである。軍隊とはこんなものと泣き寝入りせねばならなかった。(37・38頁)

  中支揚子江の中流、宛市という小さな町の事だ。この地で敵襲は三回位あった。初年兵のT君は分哨勤務中の立哨時に居眠りをしたことが見つかり、またまたビンタビンタの繰り返し、あげくの果てに一晩中(明朝)の立哨の命を受けた。他の兵は三十分おきにTを監視する事になった。同郷の会津坂下町出身の戦友が見に行った時は、手榴弾の安全ピンを抜いて自決しようと思ったが思い止まり、元に戻すのにどうしても針穴のように小さな穴に安全ピンが戻らないので、一晩中骨折ったと語っていたという。
  夜明け方「ビューン!」という爆発音がした。それ敵だとばかり歩哨の位置を見る。揚子江堤防の下の廃屋の瓦が散乱している窪地でT戦友はのた打ち廻っていた。腹に抱けば一発で自決できるのだが、足元に投げたので破片が無数に軀にめり込んだため半狂乱の態だった。自分の分隊長を呼び捨てにし「星伍長、早くタンカを持って来い」とどなっていた。夜は明けた、タンカで五里位後方下流の大隊本部に輸送した。軍医は大隊に一人いるだけである。輸送または手当の甲斐も空しく命果てたと後で知った。(39頁)

  いわき市出身のM君は私より半年遅く遅く入隊し、年令は三十歳、未教育補充兵で妻子もあったとか。炎天下の南支の行軍、進軍中に赤痢に冒され、小便一丁、糞八丁、と追い着くには時間を要する。彼は軍袴に包んだまま進軍した(湘桂作戦中)。草木も眠る真夜中十二時頃に大休止(三十分〜一時間)。その時悪臭がする、「誰だ!」と分隊長の大喝一声にM君はさすがに「自分であります」と言えなかった。「全員軍袴を解き、下げろ」と後に廻って臭いを嗅ぐ。「貴様!」と怒鳴って、M君の下顎を銃把で一撃、赤痢患者であるその上に下顎複雑骨折で食事できぬまま、あれこれと苦しんだ結果に亡くなった。私は半殺しから復帰したがM君は殺されたと言う、この事実は悲しさ苦しさの中に私が証人となり証言するのである。コレラ、チフス、赤痢等々の病を救う薬剤もないのが戦場なのである。
  続いてまたまた三人目の半殺しの事実を。広西省の奥深く潜入した峠の分哨に、福島市駅前近くの常連寺という寺の住職、T氏。彼はM君と同年兵である。同じく分哨についた時、顔面ひょっとこ面のごとく腫れ、歪み、蒼白疵だらけにされた。彼は動作が緩慢だと、それのみの理由にての半殺し同様。体は小さく、所詮はお坊さんであり兵隊の勤務に馴れるまでは少々無理だったのかも知れないが、一生懸命に人並みな兵隊になろうと努力しているにもかかわらず、毎日がビンタビンタの明け暮れにつぶやいた言葉は「これでは、教育とは言わないよ」と。
  分隊長入院が報じられた。私も半殺しにされたが一度病院に見舞った時は兵隊をいためつけた時の面影はどこへ、見る影もなくやつれて哀れ至極だった。戦後の戦友会にも一度の参加もなく消息不明である。(40頁)若林

 寒いために飯盒の飯は凍っており、口の中でざくざく音を立てて食べることもあり、飯の味はまったくない食事をしたこともありました。班対抗で負けると「貴様達に食べさせる飯はないぞ」と飯盒を豚小屋に投げ込んで、食事はお預け、で食べないこともありました。
 このように余りにも私的制裁が厳しいので、制裁を注意する命令が出たこともありました。一期の検閲までの三カ月間は大変な苦労で、その厳しい訓練は今でも忘れ得ません。苗陽で訓練を受け検閲は陽泉の本隊で実施されました。(154頁)富安
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/19/O_19_151_1.pdf

 私の軍歴は、昭和十九(一九四四)年三月十五日、補充兵として教育召集で会津若松の歩兵連隊東部第二十四部隊へ入隊しました。二十八歳でした。・・・
  さて、若松の歩兵部隊へ入隊した私が、最初に苦しめられたのは、対抗ビンタでした。軍隊へ入るまでの私は、およそ犬畜生でもない人間がホウベタを無抵抗で連打されるなんて言う事は想像もしていなかった。しかも新兵同士、相手に多少の遠慮をして力を加減していると、横で監視している古年兵が「メガネを外せ、歯をくいしばれ、脚を肩幅に開いてふんばれ」と要求し、それこそ力いっぱいになぐりつける。新兵はそれを見習って叱られないようにする。こんな野蛮な制裁が横行するなんて忌まわしい限りでありました。しかも手で殴るより帯剣のベルトでやられるともう地獄でした。流血。歯の折損。口腔内の挫傷。耳の鼓膜の破損等々。まれには兵営外の地方専門医の治療を受けた悪例もありました。今思い出してもおぞましい限りです。しかも同じ会津地方の郷土部隊内でのこと。
  ビンタとともに新兵が苦しめられたのは下痢でした。新兵は御承知の通り分秒を惜しんで動かされます。食事もゆっくり噛んでなんて駄目。おまけに精米も不十分な玄米に近いもの悪い条件が重なり合っての下痢でした。数も多かったようです。
  朝の中隊の舎前での点呼のとき、下痢が続いて体力の弱い者が何かとのことで、「一歩前へ!営庭カケ足○周!」は苦しい。汗をかく。ところが全身ビッショリの汗かきで、これで下痢が治ったと。とにかく苦しみの連続で毎日の日が暮れて終わるまで日が長いこと。三カ月の教育召集は長かったです。(235・236頁)鈴木
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/15/O_15_235_1.pdf

 昭和十四(一九三九)年十二月十日、世田谷野砲第一連隊における一カ月間の軍隊教育が終わり、東京の戸山町にあった第一陸軍病院に衛生兵として復帰した。
 昭和十五年一月十二日、私達同年兵百三十五人には、これから三月三十日までに衛生兵となるための教育が始まった。この教育は、軍隊の訓練・教育と違い、衛生教科書、エンピツ等を持って講堂に集まる。そして午前の教育は朝八時三十分から十一時まで、昼休み後は午後一時より四時三十分までである。
 そして毎日は起床五時三十分、保健、体操、朝食につづいて班内整頓と目が廻るような忙しさである。そして夕食後は班内で班付上等兵の講堂での教育の繰り返し、その日の教育の復習で、ちょっとでも違うとビンタが来る。私達にとっては長い二カ月間だった。(180頁)福原
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/15/O_15_180_1.pdf

 私は大正十二(一九二三)年三月一日早朝、西村山郡大井沢村で一農民の三男として誕生しました。(242頁)
 父は平和時の軍人でしたので外地勤務は無く、現役除隊し、また召集もありませんでしたが子供のころよく軍隊生活について聞かされました。その内容は理由の分からぬ私的制裁のことでした。
 拳を握っての往復ビンタの真似、ベッドの下に潜っての「鴬の谷渡り(ベッドはないので座机の下で)」柱へ昇っての蝉の鳴くまね、満水のバケツを両手に持って不動の姿勢等、自分で実際まねして家族を笑わせていました

 そしてその後、このような私的制裁で涙を流した夜が多くあったが、自分たちはこのような制裁を受ける何ら理由は考えられないのになぜだろう。軍隊特有の先輩からの申し送りだろうか、それとも自分たちが受けた仕返しだろうかと思う。その反面、しかし全く理由のないはずがない。初年兵同士で欠点探しをしたが見出せない。ちょっとしたことでも話せば分かるのに、言葉が体罰に転化したものと考え、二年兵になるまで我慢また我慢で耐える気になり、決して先輩を恨んだり、また変な顔つきもしなかったと聞かされ、お前らも大きくなって軍隊に入ったら必ずあることだから参考までに話しておくという父の言葉でした。(243・244頁)
 五月一日付けで陸軍兵長に進級すると同時に召集兵の教育係助手を命ぜられましたので、私なりの内務班教育をすることにし、同年兵にも協力をお願いしました。それは私的制裁のことです。このことについては入隊前に父からよく聞かされたことで、前述のとおりですが、父の言葉通り、否それ以上の制裁を、盛岡、満州での初年兵当時に受けました。しかし私は痛さ辛さに耐えるよう努力しました。
 軍隊は戦争に勝つために教育する言わば軍人養成学校であるのになぜ、殴る蹴るをしなければならないのか。私はじめ皆同じ意見だと思いましたので、このことを先輩にもお願いしたところ、先輩曰く「私的制裁は日本軍人の明治時代からの申し送りだ、弛んでいる者には幾ら言葉で言っても駄目だ。お前は今直ぐ任官する。もしフニャフニャした軟弱な兵隊にしたら、必ず日本が負ける。生意気なこというな」と怒鳴り声が返ってきました。
 これに対して私は「世代が違います、今の人間は話せば分かります。どうか私に任せて下さい。もし先輩が心配されるような気配が見えたら考え直しますから」と懇々とお願いしますと、「この馬鹿者、好きなようにやれ」と言い去りました。このことは班長の了解も得ると共に、逆に激励の言葉をいただきました。
 次の日、夜の点呼が終っても初年兵と召集兵がベットに入ろうとしない。床についても毎晩恒例の「起床!」と怒鳴る声に起床させられ、説教と同時にビンタ等の私的制裁を予期してのことだろうと思いました。そこで「今晩からは点呼が終って、班長からの伝達等が無い限り、直ぐベットに潜り込むように」と話したら皆妙な顔して就寝しました。翌日からの点呼では、今まで縮みこんで整列していた彼らは伸び伸びとし、しかも笑顔がみられ安心しました。(248・249頁)阿部(渋谷)
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/19/O_19_242_1.pdf

 徴兵検査は昭和十七年で、甲種合格となり、翌十八年四月十日に大分の歩兵連隊第七中隊に入隊、その後、西部第十七部隊に転属となりました。 (319・320頁)
 またある日の「飯上げ」の時、空腹に耐えかねて盗み食いしたことが見つかり、炊事場の上官から、炊事場の大きなシャモジで散々殴られたことが今でも忘れられません。
 さらに初年兵の務めでもありました先輩の靴磨きに因縁をつけられ、靴を首にぶら下げて各内務班巡りをさせられ、万年一等兵にこっぴどく悪態や罵声を浴びたことがありました。(320・321頁)広瀬
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/19/O_19_319_1.pdf

 「味噌汁を沸騰させる奴があるか!」と殴り飛ばされ、「切り身の魚に水をかける奴があるか!」と張り飛ばされる、というように、いつとはなしに海兵団で、うろ覚えではあるが教育されていた料理の基本のようなものを思い出していました。(341頁)藤井
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/19/O_19_340_1.pdf

 私は海軍機雷学校を志望して第十期普通科水測術練習生として八カ月間の教育を受け、特に電波探知機による電波信号教育の訓練を受けた。少しでも信号が間違ったりすると、「海軍精神注入棒」で、全員の尻が真赤になるまでやられるのであった。このような厳しい訓練を昭和十九年一月下旬まで続け、卒業することができた。(357・358頁)阿部
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/19/O_19_357_1.pdf

 ある日短艇訓練で私たちの分隊はビリになった。教班長に「第一教班長、食事用意よろしい」と報告したのですが、他教班は食事をしているのに私たちの教班長は食事にこないのです。「ビリになったので飯を食わせんのと違うか」とこそこそ話していると、教班長がしかめ面でやって来て、「短艇がビリだから夕飯抜きだ」といって帰ってしまった。他の教班長はニコニコしながらこちらを見ている。腹はグウグウ、しかし夕食でよかったと思いました。(389頁)
 夜になり玄界灘は大時化となり、右にゴロリ、左にゴロリ。翌日はおだやかになり、揚子江を上がって一月三十日上陸、上海海軍特別陸戦隊に入って現地教育を受けました。気候は、三寒四温で寒い朝は弱りましたが、訓練は学校の教練の時間に習ったことばかりで、陸軍と同じで苦にはならなかったのですが、対抗ビンタや風呂場からの匍匐前進などもさせられ、四月十五日で新兵教育は終わりました。(390頁)谷口
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/19/O_19_389_1.pdf

 昭和十八(一九四三)年五月一日、横須賀第二海兵団へ海軍二等整備兵として入団しました。・・・
 国家のためと気負い込んで、また憧れての入団でしたが、翌日からの新兵教育の厳しさには驚きました。どこまでが教育で、どこからが私的制裁か区別無く殴られながらの毎日でした。・・・
 九月二十二日、第二十四期普通科兵器整備術練習生として千葉県館山の近くにある州崎海軍航空隊に転属を命ぜられました。・・・こちらへ入隊しても、また殴る蹴るの制裁がひどくなりました。(440・441頁)中村
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/19/O_19_440_1.pdf

 中部第四十九部隊の留守部隊で、兵庫県青野ケ原にある「戦車部隊」でした。入隊翌日に全員に任務部署が割り当てられました。そして第一番に戦車搭乗員が選出され、自分は自動車免許証所持者でしたので一番先に指名されました。次いで自動車要員(歩兵訓練)及び後方段列(弾薬・糧秣輸送)等々でした。
 戦車搭乗者教育を受けることになり、あの鉄の箱の中で、身動きひとつできない状態での訓練は、大変厳しいものでした。自動車組も大変厳重な教育で、夜間内務班にて涙を流している戦友もいました。それは古年次兵の私的制裁によるものでした。その点、自分のように戦車乗りには比較的寛大(依贔屓)だったと思われました。三カ月の教育期間だけだ、「辛抱」して帰るのだと戦友達で話し、一生懸命訓練に精励しました。(295頁)藤田

 部隊名は満州第九四四部隊で、部隊長は高森大佐、中隊長は堀中尉、私の内務班長は徳永軍曹で、五十人は五人ずつそれぞれの内務班に配属されました。・・・(310頁)
 寝台に坐らされた私達に、内務班勤務の上等兵から班長殿はじめ古兵の紹介があり、種々の注意や説明が行われました。こうしていよいよ軍隊生活が始まりました。この日から炊事当番、不寝番、昼間の軍事訓練、夜は軍人勅諭の朗読、暗誦が始まり、間違えればびしゃり、返事の声が小さいとまた殴られ、古兵の怒鳴る声、八時からの点呼の時間の厳しさが毎夜続きました。私は青年学校で訓練を受けておりましたので仲間の人より叩かれることも少なくてすみました。私達は三カ月間山砲の特別訓練を受けました。
 軍隊の厳しさは覚悟して来ましたが、訓練の厳しさと古兵の厳しいしつけには、男涙を流すことも度々ありました。(311頁)八山

 大村の歩兵第四十六連隊は、日露戦争時代から今日まで、歩兵部隊として、その精鋭さは評判の名門部隊でした。
 昭和十一年には満州東部国境に移駐し、関東軍の最強歩兵部隊として名声を博した部隊だから、訓練は厳しいぞと先輩から聴いてはおりましたが、入隊翌日から一月の寒い中、広々とした練兵場での教練は実に厳格でした。内務班での初年兵の大きな声での返事。一回、一回の申告。軍人勅諭の朗読。「馬鹿者!」と古年兵の叫ぶ声。次にはパンパンと叩く音、まさに男の世界でした。覚悟はして入隊はしましたが、その厳しさは予想以上でした。(318頁)田浦

 馬舎より二百メートル位を早駆けで、点呼に間に合ったと思ったら服装検査、最後に軍靴の点検です。馬舎の作業後なので靴底に馬糞の付着しているのが見付かり、その軍靴を首に吊り下げ、各班を廻って申告してこいと命令で、三個班を廻って報告することもありました。
 食事当番は飯を盛り付けをする。下士官、班長、古年兵の順に盛り付けてゆくと初年兵の分が少なくなり、朝から腹ペコです。そして食事後はすぐ初年兵集合の命令が来るなど、これが毎日の繰り返しでした。(370頁)三浦

 昭和十八(一九四三)年四月十日、戦争が激しくなる中で、福岡市の旧福岡城跡にあります歩兵第一一三連隊の補充隊に召集され入隊致しました。当時は南方作戦の激化の中でありましたために一期の検閲は三カ月期間が普通でしたが、私達は二カ月に短縮されました。それだけに訓練も厳しく、毎日二列に向かい合っての対抗ビンタで叩き合いました。入隊する時から覚悟して来ましたが、軍隊生活の厳格さは予想以上でした。叩かれ、男涙を流し、二カ月はあっと云う間に過ぎました。(384頁)末吉
 
 自分は元の第三十一連隊であった北部第十六部隊第二中隊第五班に配属された。中隊長は金野中尉であった。新兵教育は翌日からであった。・・・
 三発を射った後何の指示もなかったので残りの二発をすぐさま撃った。撃ち方終わりと立つと「ビンタ」を二つ喰らった。往復ビンタである。突然のことで驚いた。五人が全員終了していない。自分が終了したら良いということは許されないと注意される。連帯行動が重視されるのが軍隊であると知った。しかし話より先にビンタとはこれも教練の一方法であると理解する以外になかった。(436~438頁)熊谷

 私が軍隊に入ったのは、昭和十八(一九四三)年四月十日、久留米の野砲兵連隊へ初年兵として入営を致しました。(416頁)
 次は内務班のことです。巷間伝えられるような苛酷な制裁、いじめはなかったが、内地にいる約三カ月の間、数回の対抗ビンタと称する初年兵が横一列に並んで向かい合い、前の者のビンタを取り合う悪い習慣を経験した。隣町出身の二年先輩の人で、中隊長の当番をしている、私を大事に可愛がってくれた人が、「ちょっとこい。あれを手伝え、これをせよ」と適当に隊内から外へ出してくれて、制裁、体罰、しごき等から外してくれて大変助かりました。何しろ、中隊長の当番が庇ってくれるので、誰も文句のつけようがない。(417頁)久富

続私的制裁
 前に私的制裁を書きましたが、ビンタについては簡単でしたから少し詳しく書いてみます。まずビンタは手ばかりではありません。上靴ビンタ・帯たい革かくビンタ・編上靴ビンタ・銃じゅう床しょうビンタと、よくもまあ考え出したと思うくらいビンタの種類がありました。
 平手ビンタは頬がヒリヒリするくらいで軽いもの、ほとんどありませんでした。
 鉄拳(拳骨)ビンタ「足を開き、歯を喰いしばれ」と言われるとまずこれです。目から星が飛び散るほど痛かったです。ひどいと口の中が切れ血がでます。数あるビンタの中で一番多くいただきました。
 上靴ビンタ、上履きで叩かれるのですが、これが革でできていますから、頭がクラクラッとくるほど痛いです。
 帯革ビンタ、これは鉄拳ビンタ・上靴ビンタの上をゆくものです。上着の上に絞める厚い皮でできたバンドで叩かれますが、帯革の端が頬に当たると全身に激しい痛みが走り、頬はたちまち真っ赤に腫れ上がります。
 編上靴ビンタ、これはビンタの王様ですね。私は殴られたことはなかったが、気の毒で見ていられないほどです。体が横に飛ばされ、頬には靴底の鉄鋲(十三個)でへこみ、大抵口の中が切れ出血します。酷いと歯が折れます。
 銃床ビンタ、これはやられた同年兵から聞きましたが、銃の床尾板でゴツゴツとこづかれるそうです。勢いがつくと額が破れて血がタラタラと流れます。これは酷いと厳禁されました。
 対抗ビンタ、初年兵が二列横隊で向かいあい、お互い相手と殴りあうのです。寝食を共にし苦楽も共にしている相手ですから、自然に殴るのに力が入りません。すると監視している古参兵が「コラッ?きさまたち、お姫様やお嬢様のような殴り方をしやがって、殴ると言うことはこうするんだ」と、そばの初年兵を目の玉が飛び出るほど殴って見せます。そこで自分たちはお互い相手に「すまぬ」と心の中で謝りながら、力いっぱい殴るのです。対抗ビンタは精神的にも残酷なものと思っていました。
 とにかく私的制裁といってもこうして鍛えられて、一人前の兵隊になってゆくのです。古参兵たちも同じ道を経てきたものですから、苛めを主とした制裁は少なく、早く「やる気」を起こさせようとしてのことですから、相手の体に傷をつけないよう気を配っているように自分は思っていました。
 実は、自分はたった一度だけ鉄拳制裁をしたことがあります。部隊から九カ月間の通信関係の教育を受けるため派遣され、終了後部隊に帰ってきました。教育を受けているときは厳しい中にものんびりしたところがありました。自分の隣には初年兵がおり洗濯や掃除などをやってくれ、自分の初年兵のころを懐かしくも思っていました。
 班内は、のろまな初年兵に初年兵係上等兵が怒鳴り散らす。召集兵のおっさんがうろうろする。まったく騒々しい。その中で自分より半年後に入ってきた補充兵が上等兵になっていて、怒鳴り、殴るを毎日繰り返している。自分の隣の初年兵が殴られている姿を見てから、我慢の緒が切れ、わざと初年兵や召集兵が多くいる前で「おい、上田上等兵ちょっと来い」と呼び付けました。同じ上等兵でも自分が先任ですから威張ったものです。最初はおとなしい声で「おい上田、おまえな、ちょっとやり過ぎじゃないのか、見ちゃおれんぞ」といいましたら、「いやぁ、このくらいせんと如何んのですわ」との返事に、自分は声を荒げ「俺は見るに見かねて言っているんだ生意気言うな」と拳骨で往復ビンタを喰わせました。それから彼はおとなしくなりました。そのただ一度だけ。(74~76頁)

 自分たち初年兵の衣服や手箱の整理整頓は特に厳しく、教練に出た後、週番下士官が銃剣術の木銃で、棚に整頓してある衣服や手箱をひっくり返していきます。そしてなお、敷布が少しでも汚れていると赤いチョークで大きな金魚の絵が書かれています。(金魚が水を飲みたい、つまり汚れているから洗濯せよの意味)こんなときは、もう大変です。ただでさえ忙しいのに余分な仕事が増えます。就寝して、しばらくしてからそっと起き出し、敷布をもって洗濯場に行きます。井戸からつるべで水を汲み上げ洗面器に入れて洗うのです。厳寒期の二、三月は鼻水をたらしながら洗うのですが、揉んでいるところ以外の水はたちまち薄氷が張って来ます。
 手は冷たさで、ちぎれるように痛み、アカギレの指からは血が噴き出して来ます。一分位するとたまらなくなり、股に濡れた手を挾んで強く揉み暖めます。それを繰り返しながら洗うのですが、やっと洗いは済んでも乾かす所がありませんから、寝台の藁布団と毛布の間に入れて、自分自身の体温で乾かすのです。寝られたものではありません。物乾場で干したものを盗まれて、員数合わせに泣かされたりで、どうしてこんな苦労をしなけりゃならぬかと、悔しい思いをしたことでしょうか。(77・78頁)

 初年兵は時々、伝達ゲーム(当時は伝令といっていた)をさせられました。「本日我が軍は夜間、敵陣地に向かって切り込み突撃を敢行する」と一列に並んだ初年兵の小声で最初の者に言う。それを次々と伝えて行くのです。最後の者が大きな声で報告するのです。しかし最初の言葉とは全く違った意味の言葉になっていたり、違う言葉になっていたりで、対抗ビンタということになります。何回しても、きちんと報告できませんでした。(79・80頁)河村

 私は、十七歳になったばかりの時に松山海軍航空隊第一期生に入りました。
 私の行った予科練、甲飛では、かなり叩かれ、かなり気合いを入れられております。予科練に入って還ってくるまでに三四〇~三五〇発、尻っぺたを叩かれております。それは海軍に行った人はよく分かると思います。ちょうど今の野球のバットと同じような棒が当たっております。ところが腰が脱臼したり、骨が折れたりしますか、と云うと、人間は気分が入ったら、それはしないのです。十六~十七歳の若者は、そういう訓練をしております。(166・167頁)寺田

 南京から三千トン級の船に乗せられ、三日間で武昌へ着き、待っていた初年兵受領の下士官につれられ武昌からエツ漢線で汀泗橋に到着、鯨第二百三十四連隊第一大隊第四中隊に入隊致しました。正確には、第四十師団(鯨)歩兵第二百三十四連隊(連隊長戸田義直大佐)第一大隊(大隊長山崎幸吉少佐)第四中隊(中隊長山出政樹中尉)でした。・・・
 内地で受領した新品の被服は全部脱がされ、古いよれよれの物と取り替えられ、編上靴もピカピカの新品は取り上げられ、代わりに支給されたのは皮のザラザラの靴の中に釘が出ている古い靴でした。そこで毎日釘を叩いて、ひっこめて演習に参加していましたが、二週間位たつと左足の平と腿が腫れて痛くなり、大隊本部の医務室へ二週間の入室となって、漸く痛みもとれ退室して中隊へ帰りました。早速、班長から「気合が抜けている」とビンタの嵐でした。(233・234頁)
 たまたま連隊本部から試験官が来て大隊から十五人の候補者が試験で選ばれ、さらにその中から五人の選抜の中に選ばれ、華容で二カ月の教育を受けることになりました。
 暗号教育の始まりです。いよいよ師団司令部へ出発するという前夜、申告をする段になり擲弾筒分隊長から注意を受けたことを私の小銃班長が怒り、イヤというほど地下タビでビンタをはられ、口惜しくてその夜は眠れませんでした。普段からビンタつりで有名な小銃班長でしたけれどあんなに叩かなくてもと腹が立ちました。(235頁)菅野

 私は、大正八(一九一九)年、厚木市戸室に生まれ、昭和十四(一九三九)年十二月、甲府第四一九連隊第九中隊入隊しました。直ちに同年十二月二十三日、北支派遣により二十九日塘港上陸、河南省陽武にて初年兵教育を受けました。以降、冀南討伐作戦等に参加しました。(284頁)
 六カ月の教育の間、同年兵にはいろんな人がおりました。博打ちもいるし沖の仲仕の人もいますが、これらの人とはすべて同列で、中で一人でも悪いことをすると全体責任として十三人全員が殴られる。それで気をつけないといかんということは、いつも心の中にあった訳です。ところが十三人の内務班の中で、班付上等兵が一人、班長が一人います。私の班の班長は、山形の魚屋さんで召集兵で、班付は一年先輩の上等兵、この二人が班についています。その二人の内一人は非常に育ちが良く温厚な方でしたが、ほかの一人、原田という上等兵は、地見屋をしていた人でした。
 殴るのはいいのですが、本人は笑いながらの教育をして、つい釣られて笑ったこともあるのですが、するとピンタが飛んで来る。酷い時には鋲付軍靴をスリッパにしたもので殴る。だから軍隊へ入るのだから歯を治しておかなくてはと治して軍隊に入って来た人も、ピンタで歯が飛び出したこともあると聞いていました。(288頁)安藤
 
 昭和十五年六月二十五日、兵庫県加古川町の高射砲第三連隊に応召、入隊しました。・・・入隊前に噂に聞いた内務班の厳しさはそのままに健在で、私共新兵は苦難の毎日でした。当時はノモンハンの戦場帰りの古兵が威張っていて、毎晩上靴のカカト部分を握ってのビンタです。また洗濯物を干している間によく盗まれることがあり「よし!取り返してこい」と叱られるので、洗濯干場で盗みかえしたところを隣の班の見張りに見付けられて大失態。あっちで怒られこっちで叱られもう散々でした。本当にもう無茶苦茶な世界に入ったものだ。「とにかく辛抱辛抱。これを乗り越えること。一人前の兵隊になるのには並大抵ではない」と戦友同士いたわり合ったことを思い出します。(420・421頁)吉川

 下関、釜山、山海関、杭州を経由して船や鉄道を乗り継いで中国浙江省金華に駐屯している第二十二師団歩兵第八十五連隊第三大隊第十一中隊清水隊に入隊しました。内地を出てから一週間目の一月十三日です。(425頁)
 軍隊につきもののビンタは相当もらいました。初年兵で入った時には内務班には四年兵の一等兵がたくさん居りましたからシゴキは相当なものでした。学科の教育で軍人勅諭や各種操典の暗誦のできない者に対する罰は多種多様で目を覆う程でした。戦場における一致団結の精神を涵養する一方法だとの説もありますが相当疑問のある教育方法だったと思います。対戦車肉攻、対空射撃演習でも激しく鍛えられました。竹竿の先に凝製の手榴弾を縛り付け、古兵が天幕で造った戦車の模型に向かって砂利道に伏せて待ち伏せ、近づくと飛び起きて突っ込むのですが、タイミングが悪いと古兵に軍靴で蹴られる事もしばしばでした。(427頁)長谷川

 私は山林業を主とした農家で八人家族の長男、徴兵検査官から「お前は泳げるか?」と聞かれたときに「浮かぶ位はできます」「そうか」と言われたので、あるいは海軍かなと予感した通りになりました。そして当時としては珍しく、大竹海兵団が創立されたばかりの時で、その大竹海兵団の第一期生として、まだ兵舎の壁が半乾きでした兵舎に入団しました。親父から入団前に軍人勅諭を覚えるよう言われましたが、海軍は五カ条の御誓文をたまに言わせられた程度で、陸軍とは全く違いました。
 一教班十八人が十教班で一分隊となります。新兵だけが教練を受ける三カ月間は想像以上にきびしく、特にカッター訓練は掌と尻に肉ま刺めができてつぶれるまでやらねば海軍精神注入棒が遠慮なく見舞ってきました
 海兵団の対岸にある宮島までのカッター競漕は一位になった班だけが食事にありつけるもので、他の九班には欠食という罰が待ち受けていました。それで月一回のカッター競漕は恐怖の的になりました。精神注入棒の他にロープを海水に浸したやつで尻を叩かれると棒以上に痛くて、愛知から来ていたお寺の息子は、そのロープで叩かれ、動けなくなって病院に入院してしまいました。「歯を喰いしばっれ!いくぞ!」の声と共に叩かれ、終われば「有難うございました」を言わねばまた叩かれる。風呂では青黒く腫れた尻の陳列で異様な光景でした。(494頁)梶本

 私は、昭和三(一九二八)年一月五日、香川県さぬき市津田町津田で生まれました。海軍少年兵に志願して、昭和十八年七月一日、佐世保の「相の浦海兵団」へ入団しました。当時十五歳でした。そして十カ月間、特別教育を受けました。
 海軍の軍隊生活は予想以上に厳しい毎日の連続でした。何と言っても朝早く起こされるのが一番つらかった。叩かれることは挨拶と一緒で叩かれました。海軍はバッタでやられました。「軍人精神注入棒」で皆さん一緒だと思います。苦しい毎日を生き抜いて、一人前の軍人になれると信じて懸命に頑張りました。(452頁)風呂
 
 昭和十九年五月十五日、多勢の見送りの人々に見守られながら、「御国の為に頑張って参ります」と勇ましく郷土を出発し、相浦海兵団に入団した。
 入団前から海軍の規律の厳しさと言うものは先輩の方からも聞かされていた。何事も絶対服従だと、びくびくせずに腹をきめて入団第一夜を過ごした。第二日目の昼頃だった。一人の兵隊が「ガラス」を破ってしまった。この者は「自分が破りました」と素直に言わなかったため上官の気分をそこね、そこにいた兵隊八人に「ビームにぶら下がれ」と言われた。「ビーム」とは吊り床を吊る鉄の鍵である。
  ぶら下がっている者の中で腕の弱い兵士が一番先に落ちた。「貴様はたるんでいる」と言いながらバッターを取り出し、「向こうをむけ!」「両手を上げろ!」と命じて、バッターを持って尻を二回程打った。打たれた兵士は、うなるような声を出して痛そうであった。そして上官は他の者に向かって「よーし下りろ、みんなようく聞け、お前達はこれから言うことを聞かないとバッターで思う存分打ってやる。一人二人たたき殺しても一銭五厘のハガキ一枚で来ているんだ。言う事を聞かないとたたき殺すぞ」と威嚇した。あとでそのバッターを見ると「海軍精神注入棒」と書かれていた。(445頁)渡部

 同年十二月一日付で西部第五十一部隊、姫路第十師団野砲兵連隊・第四中隊四班(中隊長片山中尉)に入隊。一〇センチ榴弾砲の挽馬部隊であった。・・・
  内務班教育は舎外訓練以上に初年兵には厳しい。自分の身の廻りは勿論、二年兵(モサ)の世話、銃器の手入れ、班内の整理整頓、何一つ欠けても古兵殿の「イビリの対象」となる。それを軍隊では「気合を入れる」といって幾通りもの「ペナルティーの手法」がある。「ミンミン」「自転車」「寄っていらっしゃい」「三八式歩兵銃殿」「対抗ビンタ」と名称が付いていて、二年兵のリードで毎晩各班で競って行われるのである。
  一番矛盾を感じたのは「対抗ビンタ」だ、初年兵同士が向かい合って頬べたを張り合うが、二年兵が監視していて、良い加減にはできず、段々と真剣に殴り合いになる。奥歯を嚙み締めて眼をつむりながら(心の中では共に赦せると)まるで喜劇であり、かつまた悲劇そのものだった。脱落者のほとんどは、これらの制裁によるもので、我が中隊でも、一人放馬(営内から脱走)、一人自殺者が出たのである。(476頁)柏井

 昭和十七(一九四二)年四月、私は現役兵として福井県鯖江歩兵第百三十六連隊砲中隊に入隊しました。鯖江歩兵第百三十六連隊と言えば、古くは日清・日露の戦争でも日本国に鯖江第百三十六連隊有りと名を轟かせた強力な連隊です。その平素の訓練教育の厳しさは入隊しなければ分からない。
 初めて経験するその無情の私的制裁、それは個人の失敗が結果的に全員の責任となり、思わぬビンタが飛んでくる。そして二、三カ月は一体何が原因で叩かれるのか悔しくて、床に入っては何度も泣き腹が立ちましたが、ただ我慢また我慢でした。(116頁)松塚

  昭和十五年一月十日、京都深草の第十六師団の野砲兵第二十二連隊(現在、跡地は警察学校になっています)第十中隊に入隊しました。
  当時の師団長は有名な石原莞爾中将でした。私的制裁については特にきびしく禁止するよう命ぜられていました。
  三カ月後の一期の検閲めざして教練が開始されると同時に、内務のきびしい「しつけ」が始まりました。古年兵は奈良、兵庫出身が三年兵、三重、滋賀、奈良出身が二年兵でした。石原師団長の私的制裁禁止も表向きで、初年兵は教育という「しつけ」に泣かされる毎日でした。「鶯の谷渡り」「対抗ビンタ」「軍人勅諭の暗誦」「戦陣訓の暗誦」等々でした
  ある日の朝食を前に、二年兵が「ちょっと待て!」と二人で食卓を持ち上げて引っ繰り返し、私たち初年兵は欠食の上、跡片付け掃除をやらされ、食缶返納を駈け足でやり、教練整列の上、空腹抱えての早駈けには全く参りました。
  また食事当番で、炊事場前で食缶返納のための食缶洗いの最中に、残飯を手ですくって食べた初年兵が見付かり、炊事兵(万年一等兵がいた)にビンタをとられた事もありました。
  一番困った事は古年兵の洗濯物を洗って、乾かし場に乾かしていた洗濯物が誰かに盗まれた時は本当に困りました。古年兵に「盗まれました」と報告すると、ビンタを五、六発喰らったあと「盗られたら盗り返してこい」とどやされました。散々いじめられた末に員数外の物で補充してくれましたが、軍隊の不思議な一面を思い知らされたものです。
  また、ある日、陣営具倉庫(兵営生活上の用具を格納する)の掃除の使役に出ましたが、掃除の仕方が悪いと係の上等兵が怒り出し、初年兵を並べて台の上に立ってホーキの柄が裂けるまで兵の頭を叩くのです。台の上から叩くので兵の後頭部に当たり、その痛さに悲鳴が出るほどでした。洗濯物乾し場で盗られますと員数が不足で内務検査が通りませんので、他から盗んでこなければなりませんが、盗むところを見付かったらそれこそまた大変なことになります。初年兵では何とも策がありません、死ぬ程叩かれて勘弁してもらう以外ありませんでした。
  酒保には甘味品等が売ってありますが、そこは古年兵が占拠していて、初年兵が入っても売り切れで買う物がありませんでした。(353・354頁)西村
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/15/O_15_352_1.pdf

 入隊先は満州国の新京(長春)にある部隊で、固有名は関東軍第十二特殊無線隊で、秘匿名は満州第四九四部隊でありました。大連経由で新京に到着、南嶺にある部隊に着きました。
 部隊長は松岡隆少佐で工兵出身の方でした。部隊は二個中隊編成で、兵隊は三年兵が九州の炭坑夫上がりが主で、ノモンハン帰りの兵隊もおり、筆舌につくせない私的制裁に泣かされました。同年兵は皆、高等学校卒以上で理工科や通信技術者がほとんどでした。(334頁)平野
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/15/O_15_333_1.pdf

 父は福島県郡山駅まで見送るとのことで同乗しましたが、これまで二人共働きづくめで、旅に出ることも無かったので、父と別れてからどのようにして乗り継ぐのか分からなかったのですが、多少の予備知識が役立ち、「指令」通りに東部第五十二部隊(第九連隊)第三中隊(隊長小林貞治大尉)に無事入隊、陸軍二等兵となりました。
 体格が貧弱でしたから通信、駄馬隊の教育ではほめられたり叱られたりで、ビンタを喰うのが日常茶飯時のことでした。(279頁)松川
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/15/O_15_278_1.pdf

  十二月十二日、山海関通過、途中、班長から気合をかけられました。南京浦口から揚子江(長江)を遡航、船中で下士官ばかりの部隊と同乗しましたが、欠礼したとかで初年兵が下士官からビンタの洗礼を受けました。班長から「内地から来たばかりの新兵で、敬礼の仕方も教わってない状態なので何とぞ勘弁して欲しい」と謝ってもらい、一件落着したこともありました。(274・275頁)上野

  昭和十七年十月十日、広島から中国呉松に上陸、十一月中旬、湖南省京山県に駐屯する迫撃第一大隊(永田部隊)に到着しました。・・・
  過去を振り返ってみて兵隊の時代に一番苦労というか切なかった事と言えば、私が一選抜の上等兵になって間もなく熱帯熱マラリアになり、四〇度の熱が出たので班長に「清水上等兵、熱発のため診察をお願いします」と頼んだところ、班長が「清水!貴様一ペンでも俺の所へ食事を運んだことがあるか!洗濯をした事があるか!」とビンタを喰わされました。勿論診察の申請は却下されました。余りの口惜しさに便所に駆け込んで泣きました。
  実は同年兵の一人が、班長への点数を上げようとして、班長の世話を独占していたので、他の兵隊は「班長の世話はあいつにまかせておけ」という状態になっていたのでした。私の診察はそういうことで班長には断わられましたが、衛生兵(六年兵)が申請してくれたので、そのお陰で診察を受けられ、入院し、大事に至らず治りました。班長は「えこひいき」が激しいので評判は悪く皆から敬遠されていました。(234・235頁)清水