戦前日本人の海外売春(1)
戦前日本人の海外売春(2)
の続き

八代英雄「秘密爆露裏面之南洋」1915年

五 爪哇(ジャワ)に於ける日本人の勢力
ひとり爪哇のみならず、南洋の諸島に於いて活動してゐる日本人は甚だ僅少である、精密に調査をする事は不可能であるが、新嘉坡(シンガポール)を中心として南洋方面に活動してゐる日本人は約一万六千人ほどある。年々渡航する者は絶えないが、渡航後直ちに病を得て斃れたり、或は日本へ送還されたり、或は行方不明になりなどして、渡航免状の許可数に依って、在南洋の日本人は何人だと云ふ事は出来ないと同時に、渡航免状も何もなく、特種の手段に依って流れて来た密航婦―即ち日本の恥を海外に曝してくれる女達や、何か重大なる犯罪のために、五尺の身体の置きどころなく、この南洋へ逃げて来た者などがあるから正確な邦人の数を調べることは不可能である。
『嗚呼淫売国』と誰やらが嘆息したが、事実に於いて日本から海外へ発展してゐる女は、十中の八九まで色香を売って口に糊する売春婦である。日本の女はエライものだ。結氷堅く吹く風剣の如き北満洲、シベリヤの果から、南は遠く南米の天地に到るまで、この奇怪なる娘子軍の足跡を残さぬ処とてない。殊に、南洋は彼等の最も得意(?)の場所で、新嘉坡を振出しとして諸々方々に散在してゐる。
 南洋に於ける、日本人の発展の跡を調べて見ると次の通りになる。
 第一、娘子軍がまづ遠征を試みる。
 第二、根拠を作った娘子軍の後を慕ひ、其繊手に抱かれ甘い汁を吸ふて安逸を貪らんとする性質の悪い男が乗出す。
第三、その売春婦及び無頼の徒を目的として売薬、雑貨の行商人が集る。
 斯うして次から次へと発展して行くのである。して見ると娘子軍は海外発展の先導者とも云へるから、余り悪く貶されない訳だ。
 次に『裏面より見たる南洋』を説くに当っては、特筆大書せねばならぬのが、重大犯人の海外逸走事件である。
 恐るべき殺人罪を犯した者、其他重罪を犯して、日本の内地にまごまごした時には、直ちに警官の手に捕縛されて、赤煉瓦の別荘へ送られ、重ければ死刑、軽くとも無期徒刑を免がれる事の出来ぬ兇漢悪人が、まんまと海外に逃れ出で、この南洋に高枕で威張ってゐる。無論内地に於て重罪を犯した奴等だから、南洋へ来ても相変らず悪事を働いてゐる。売春婦の寄生蟲となってゐる無頼の徒は多くこの連中である。
 こゝろみに色街を―色街と云っても掘立小屋にアンペラの紺簾を釣した家が、四五軒若しくば七八軒並んでゐるのっだ―逍ふて見ると刀痕のある奴や、眼の凄く光る一癖も二癖もある奴が、彼方此方にうろうろしてゐるのを発見する。何かと云へば腕力を用ひ、酒と女に腐爛したる半生を送ってゐる彼等も、又憐れむ可き輩ではないか!
 爪哇にも此種の男が大分来てゐる。・・・

六 南洋名物の日本娘子軍 
 前項に述べたるが如く、売春婦たる日本娘子軍の勢力は、甚だ驚く可きものであるが、今一層詳細く説明を加へやう。
 新嘉坡日本領事館管轄区域内に、在留してゐる邦人は約六千人で、その内過半数は新嘉坡に住居してゐる。処でこの中で何者が大多数を占めてゐるかと云へば、矢張り娘子軍と夫等憐れむ可き女の生血を吸うて生きてゐる寄生蟲である。汁粉屋、すし屋、料理店、天婦羅屋、蕎麦屋、按摩、医者などが、同じく娘子軍に付随してゐる。
 按摩は彼方からも此方からも引張凧になって、繁昌する事する事。中には馬車に乗って得意先を駆け廻ってゐる者もあるくらゐで、何故に按摩が斯くまで引張凧になるかと云ふに―つまり女達が所謂『お疲れ筋』ために体を揉ませるからだ。それに続いて、ぶらぶら遊んでゐる寄生蟲が、所在なしに按摩をして貰いながら昼寝をすると云ふ寸法なのだ。 
 飲食店の繁昌する事と、医者の有望なる事は説明するまでもあるまい。断って置くが医者は外科医である。此処まで申せば、あゝ成程と合点が出来やう。
 新嘉坡の色街は、爪哇よりも数等上である。掘立小屋にアンペラを釣した家でなく、粗末乍らも二階三階の木造の洋館で、細い道路を隔てゝ左右に軒を並べてゐる。夕方など此街を通れば、二階の窓から胸を露し半身を突出してゐる女を見る。頭はでこでこの大廂髪に結び、派手なリボンなどを飾り、身には日本製の浴衣を着、真赤な細帯をぐるぐる巻きにして、横手で猫ぢゃらに結び、顔には白粉を壁の如くに塗ってゐる。恥を知る日本人は、知らずして此街を通りかゝっても、二階の窓に行列して、きゃアきゃア不座戯たり、淫らな歌を歌ってゐる女の姿を見ると、我知らず顔が赧くなり、足もおのづと早く、急いで逃げ去るさうである。
 爪哇バタビヤ日本領事館管轄区域内―即ち蘭領印度諸島に散在してゐる日本人は約四千人で、此処でも娘子軍及びこれに付随して衣食する者が多数を占めてゐる。爪哇に於ける娘子軍の事は、前項『南洋に於ける日本人の勢力』中に述べたから略すとして、此処に驚くのは、英領北ボルネオに於ける娘子軍だ。 
 英領ボルネオは沿岸地方に五六ケ所の港―それも小さな―があり、稍町らしい町を組織ってゐるのみで、内地は未だ蛮界の開けてゐない土地である。然るに、大胆にして敏捷なる日本娘子軍は、ドンドンと乗込んで盛んなる活動振りを示してゐる。新嘉坡の色街で、彼女等の醜態を眺め、
『あゝ日本の恥曝しだ、同胞の面汚しだ。』
と感じた人も、此処では再考して
『怖ろしい奴だ、男子でもなかなか及ばない。』
と驚かねばなるまい。
 娘子軍の大部分は、天草を中心としたる九州人で、熊本、長崎の両県から嗾出してゐる。これは海外に出稼ぎに行く事を自ら希望してゐるもので、顔の方はあまり感心しない連中だ。土人でも支那人でも、助平根性は同じ事で、醜婦よりは美人を好み、費消する金高も相違して来る。従って淫売屋の主人も上玉を欲しがり、四方八方に手を廻す。此処を例の無頼漢が付込んで、ある密約を結んで日本へ戻り、純潔無垢の良家の子女を誘拐して行く。
 上玉であれば楼主も千や二千の金を惜まない。
 斯うして、多くの悪漢のために南洋の天地へ誘拐されて行く女は、可成り夥しい数に上り、新嘉坡の日本領事の手に取押へられ、内地へ送還される不幸中の幸ひなる女も又多い。それから誘拐中に、警官に観破されて悪漢が取押へられたり、今や船に積み込まうとして発見されたりする実例は、各新聞紙上で往々見受ける。又、誘拐されて南洋に亘り、捨鉢になって遂に悲惨なる最後を遂げたと云ふ、哀れな実話を耳にした事もある。楼主の命を奉ぜぬとあって、厳しい折檻をうけて悶死した一層可憐な実話も聞いてゐる。―自ら好んで出稼ぎに行くのはそれで可い、面白い目をしやうと困らうと自業自得であるから構はぬが、悪漢に欺むかれて南洋へ売られて来た女は、何んとかして救ふてやりたいものだ。
 今や南洋には無慮数千の娘子軍が、硝煙蛮霧の域を恐れず活動してゐるけれど、静かに彼等の前途を考へて見ると、竦然として身の毛がよだつやうである。故郷を出る時は、
『人間は汚なく働いて奇麗に喰へと云ふから、他人の知らない処へ行って、何をしたって構う事はない。二三年でウンと金を蓄めて日本へ戻り、好いた事をして面白可笑しく此世を送らう。』
 と虫のよい空想を画いてゐたのであらうが、一度向ふへ乗出せばオイソレと帰れるものでない。少々儲けた金は寄生蟲に奪はれて了ふ。借金はふえる。新嘉坡からバタビヤへ売られる。それから又外へ売られる。転々した結果は、マラリヤに罹って死すか、悪性の梅毒に犯されて狂人になったり、乞食になったりして路傍に窮死を遂げ、猛獣毒蛇の餌食となる。それが違ったら、土人の女房になるか、支那人の妾になるか、どうせロクな事はないのだ。最初の目的を貫ぬいて、仮令僅かでも金を握り、無事に日本へ戻るものは、百人に一人あるかなしである。
 英領北ボルネオのサンダカンと云ふ処に、二十八歳の時渡航して今年六十一歳になるまで、全三十三年間此地に飛躍をしてゐる女があるさうで、今では一二万の金を蓄め、十人あまりの娼婦を抱え、練えし腕によりをかけて、老て益々盛んなりとばかり活動を続けてゐるさうだが、これなどは千人中唯一の幸運者だ。此婆さんを標準には出来るものでない。
 娘子軍の弗箱は矢張り土人で、支那人、印度人などこれに次ぎ、欧米人は向ふで危んで近寄らず、日本人は女の方から敬して遠ざける。日本の男は禁物と云ふ定めになってゐる。其理由は、一二度馴染になると遂情にほだされて、無理な苦面もして金を貸したりする。貸すまいと思ふても、男の方で借りずに置かない―これが寄生蟲である―そして深間になればなる程ロクな事はない。こんな事から一般日本の男子に対しては敬遠主義を取ってゐる。 
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954821/24

元田作之進「善悪長短日本人心の解剖」大正5年7月10日発行 ※1916年

十五、日本の醜業婦
 曾てビルマのラングン市を訪ふたことがある。同市の青年会幹事より馬車を命じて市内見物を案内せんとの招待を受け、隅から隅まで駆け廻ったが、最後に小さな街路に馬車を入れ二町程の処を徐行した、意外にもこれは日本婦人の遊廓であって、白粉臭い小女等が通行人に向って頻りにカム、インを連発して居る。青年会館に帰り、幹事より此実験上の感想を聞かれた時は、返答に困ったのである。こんな処まで日本の醜業婦が出稼に行って居るかと思へば、実に国家の為めに痛嘆せざるを得ないのである。

世界を股にかけた娘子軍
 近年麻尼刺(マニラ)を訪ふたが、此処にも醜業婦が入り込んで居る、三井物産の某君が予に告げて容易に自分の妻を外に出されぬ、偶々一人で町でも出でようものなら、醜業婦に取違へらるゝのである。と、日本の婦人を見れば直に醜業婦であるかの如く土地の人をして思はしむるに至ったのは誰れであらう矢張り日本の醜業婦である。
 東洋沿岸地の浦塩、大連、上海、香港、シンガポール、ペンナ、コロンボ等いづれも日本婦人の醜業地である。航路を太平洋に取れば先づ布哇を始めとして太平洋沿岸の米国には日本の類似醜業婦が出張して居る、沿岸だけではないやうである、支那、印度、南洋諸島、または米国にても奥深く進入して居ると云ふ。・・・(233~235頁)

 此等の事実に徴しても日本人は男女間の道徳に関する観念が強くないと云ふことは疑はれない処である。吉原と芸者の名は世界に知れ渡って居る。西洋人から日本は醜業婦の輸出地であるの、美しい芸者の国であるの、妾を持ってもよろしい国であるのと思はれ或は言はれて居る、・・・
(237・238頁)
 
之と共に北満州の一部と西比利亜(シベリア)に居るものを算すれば、少なくとも五千人に達する。日本の男性が一人も住居していない小村落にも、支那人のとなり、酌婦となって四、五人は住んで居る。一般に料理店と云ふのは娼家を指し、酌婦とは娼妓を指すのである。唯だ慣例上、料理店又は酌婦なる名を冠するに止まり、日本内地に於ける如き料理店又は酌婦ではない。純然たる女郎屋と女郎のことである。」(布川静淵「日本婦人の面よごし―海外に於ける日本醜業婦の近況」、『婦人公論』、三巻二号、一九一八年二月)
(倉橋正直「従軍慰安婦と公娼制度」p126)

真継雲山「行け大陸へ 満蒙遊記」

一八 発展の先駆者売春婦
 釜山や京城には日本人の車夫がゐるけれ共、満洲へ行くと全く支那人ばかりで日本人の車夫は一人も見当らない処、大いに人意を強うするに足るが、労働者としては日本人は到底支那人の敵でない事を証拠立てる一つである。併し日本人の売春婦に至っては、能く支那婦人と覇を争ふに足りると見えて、如何なる地方へ行っても其影を認め得るのは幸か不幸か。体面論から云へば、売春婦の跋扈は日本人に取って汗顔の至りと申すべきだが、帝国の世界的発展の先駆を為す者は彼等売春婦であるとすれば、言語不通の西伯利亜の奥、椰子の葉茂る南洋の里をも怖ぢず恐れず分けて行く其気魄は慥かに有髯男子をして顔色無からしむるものがある。併し此の売春婦も流石に日本国民としての体面論の前には、多少の懐疑無き能はずと見えて、支那人の客を取るべし取るべからずの議論が可なり盛んなやうだ。大連では平気で支那人の客を取って居り、記者が逢阪町を見物した折なぞ支那人が同胞の女に揶揄ってゐるなど余り好い感じを吾々に与へない。奉天では表面上の原則としては支那人の客を取らない事になってゐるさうだが、内実は保証の限りでない。哈爾賓では曾て各楼主は其妓供に対して「お前は金を溜める為に遠い外国まで来てゐるのだから日本人のお客は取るな、同胞を相手にすればツイ情が深くなる」とて日本人に近付くことを警戒し若しくは禁止したものだといふが、昨今では形勢一変、苟しくも一等国民の体面に関するからとて断然外国人を客に取ることを官憲の力で禁止してゐるさうだ、然うなれば情は深くなる、金には行詰るで哈爾賓は情死が名物となること請合なり。併し外人客を取るといふも取らぬといふも畢竟机上の空論、金儲け仕やうとて命懸け、国辱なんぞは何のその、何とかの何とかを股にかけ―といふ際どい唄が総てを説明してゐる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960792/49

佃光治, 加藤至徳「南洋の新日本村」1919年 ※大正8年

一 馬来半島に於ける日本人
海外発展の先駆たる娘子軍

一等国の皮肉な事実 一歩海外へ踏み出した者の眼に、奇異に映ずる者は到る処に醜窟を構えたる我が賤業婦人の活動振りである。東に亜米利加より北シベリアの曠野に到り、南は濠洲より西は亜弗利加の涯まで、津々浦々綿密に彼等の白粉の香は撒布されてゐる。弾丸と血肉に依って贏得たる一等国たるの栄誉は、おぞくも彼等賤業婦の紅裙に依って汚されて終ってゐるのである。日本娘子軍が如何程莫大なる送金を母国に致さうとも、彼等が帝国の体面を汚したるの罪を贖はれるものでない。更に人道に叛きたる恐るべき賤業、奴隷となれる哀れむべき無垢の少女を救はんとて、在外官憲乃至宗教家が、彼等を殲滅せんと努めつゝあるは当然であり又感謝すべき事である。而も今日海外で活動しつゝある我が同胞の草分けとなり、基礎を築き、海外発展の先駆者たるの栄誉を担ふ者は実に此娘子軍である事は何と云ふ皮肉であらう。

日本人の草分け 此好適例は馬来半島に於て見る事が出来る。日本人が馬来半島に現はれたるは何時頃からであるか、娘子軍の入り込んだのは何年頃からか分明せぬが、娘子軍が各地に侵入して行く後から五尺の男子が追随して行ったのは事実である。阿仙薬の栽培と錫鉱とに引きつけられて支那人が馬来半島に瀰漫した如く、日本人は娘子軍に誘はれて各地に撒布した。異人種の真只中に日本の髪を結び日本人のキモノを着た彼等は全然其土地の風習に慣れる事は出来なかった。彼等は日本製の食物、日本製の飲者、日本製の衣類其他多くの日本製品を必要とした。其処には呉服類から缶詰類まで商ふ変な日本の雑貨店が開業されて彼等の需要を満たし、同時に異人種をも顧客とし日本商品は漸次拡って行った。今日南洋貿易の殷盛は三井其他二三大商賈の賜ではなく、実に此等雑貨小商人の開拓したものであり、其影には娘子軍の勢が潜んで居ったのである。斯くて漸次在留邦人の数を増し、其土地の事業にも携るものも出来、馬来半島在留邦人は徐々として地盤を作り行き、現在にては如何なる辺陬の地に行くも必ず一二の邦人を見るに至った。売淫国として異人種より侮辱されながらも相当の地盤を作ったのは全く我が娘子軍の功労と云はねばならぬ。之れを馬来半島に於ける日本人発展の第一期と見る事が出来る。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960807/61

河東碧梧桐「支那に遊びて」大正8年10月25日発行 ※1919年
四 醜業婦
 私は曾て肥前の島原あたりをあるいた時、百姓の家にしては妙な窓のつけ具合や、立派な倉庫に等しい壁の塗り方などを、田甫の中に発見した。それは島原天草辺をかけて特殊の産物として聞えてゐる醜業婦の建てた家だとの事だった。巨万の富を擁して帰って来た醜業婦が、物質的な虚栄の真似をそこらぢうにヒケラかしてあるく、其のヒロインの照り栄えもしない、放射線のホンの微光の一端が、それらの建築物になったのだ。けれども土地の空気に融和すべき可能性の少ないそれら虚栄は、長つゞきはしない、其の建築物は長くて二年、早ければ一年経たないうちに大方所有主が違ってしまふ、さうしてヒロインの一時的の眩しい光りも、いつとはなしに掻き消されてしまふ、と土地の人が言った。私は異様な百姓家の来歴を聴いて、そんなことなら聴かんでもよかったと思はんでもなかった。たゞ島原付近には、変った百姓家がある、と呑気に眺めてゐる方が罪がなくていゝやうにも思った。私のあるいたのは夏の初めで、そこら田甫には、実になった菜種や、穂の垂れた麦がもう大分黄ばみかゝってゐた。強い光線に照らされて、総てが発動の気を漲らしてゐる初夏の光景の中に、菜種の実殻と熟れかゝった麦とは、ある淋しみを伝へるものだ、それを背景にしてゐる異様な百姓家の作りは、たゞそれだけで、切支丹の昔をも想像せしめる島原気分であったのだ。が、一歩其建築物の内容にはいって行けば、もう門口を素通りすることも出来ない。私は其の醜業婦の遺物、虚栄の残骸をあさましいとも何とも思はない、それが島原の風教上いゝことであるやらわるいことであるやらも考へない、たゞもっと醜業婦といふ者の生活内容にブツかりたいやうな心持で一杯になった。土地の人は、どれ程海外渡航を禁ずる法律が微細になっても、それを易々として潜り得る醜業婦手段を話して聞かせた。醜業婦にも親もあり兄弟もある、それらが其の子や姉妹の密航について、大抵は何の考へも持ってゐない、長崎や熊本辺へ石炭担ぎに出かけたり、下女奉行に住み込むのと同一に取扱ってゐる様子を物語った。一旦病気で帰郷した醜業婦も、健康が回復すれば、きっと二度も三度も出かけて行く、よくよく病身である者も、別に定った家庭を作るでもなく、往々惨めな死に方をする二三の実例をも挙げた。たゞこれだけの梗概を耳にしたゞけでも、彼等が生れ落ちるとから死んで行くまで、醜業婦として、運命づけられてゐる、人間の力ではどうすることも出来ないやうな或る法則に縛られてゐる、寧ろ不思議な生活が思ひやられるのだ。仮りに私が其の醜業婦の兄に生れて、さうして今の私が出来上ってゐたとしたら、その程度に其の生活内容にヂカに接触し得たとしたら、そこにどのやうに変った世界、どのやうに別な情緒が展開し廻転するだらうか。菜種の実殻と黄ばんだ麦の中に、力ない夕日を、其の痩せこけた頬骨の尖った蒼白い顔一杯にうけて、何のあてもなく遠くに視線を向けてゐる絶望的な姿がしょんぼり立ってゐる、そのやうな幻影が、又してもありありと私の眼の前に浮ぶのだった。
 淫売、醜業婦、密航、不健康、低級な虚栄、そのやうな暗い重くるしい陰影を与へるものゝみが、私の頭に一杯になって、島原といふ土地に一種の色彩を感じて去ったことは、いまだに忘れられない私の印象であった。
 馬尼刺に上陸した夜、三井物産の自動車に乗せられて、これからガルヂニヤ見物に出かけようとした時、私はまだ生ま生ましい島原の印象を思ひ出して、けふは其の出稼地にある醜業婦にヂカにブツかるのだ、と妙に胸の躍るのを覚えた。彼等の生活内容に一歩近づいて行く、それが何だか恐ろしいものでも見るやうな、好奇心と冒険とさうして一種の危惧心と疑惑の念をそゝるのだった。アスハルトの滑らかな大道をすべる自動車の中に、不快な夢に襲はれて手足の筋肉までが堅くスクんじゐるやうな私を見出さねばならなかった。
 案内をした人は、これがナンバーセブンチーだと言って私達を導いた。鉄の格子のはまったおっぴらいた窓の処に、真白な女の顔の並んでをるのを、ずっと下から見上げる、何だかそれが飼はれた白兎のやうだった、其の十七番の階段に私の靴の片方がかゝった。この階段を踏む意義、といふ程にはっきり纏ったものではなかったが、これを踏む以上には、踏むだけの用意をしなければならない、と言った妙に冷やかな理智がむらむらと私の胸に湧いた。さうだ、私は私の眼に映ずる総てを十分に見ねばならない、私の耳に響く総てを残らず聞かねばならない、と私は強ひて私を落着けた。
 私は先づ女の服装を見た。総てが西洋式で、絵葉書や雑誌の挿絵で見る踊子のそれに似てゐた。肩も腕も露出した半裸体の派手なスカートをぞろと垂れてゐる。かういふ光景に馴れない私は、それが日本人であるのか外国人であるのかも区別がつかない位だった。私はハヽア南洋の醜業婦は、かういふ扮装をするのだなと思った。中には長襦袢にしかしない派手な友禅を浴衣にして著てゐるのもあった。それから座敷に上れといふので、靴を脱がせられた。そこは十畳と八畳位の二間の居間と座敷になってゐる。立派な日本風の間であって、床の間も違ひ棚も正式に作ってある。この床柱はと言った風に、黒柿か何かの艶々しい光りが、横柄にひん曲ってのさばってゐた。床の間には花も活けてあり、山水の軸も掛ってゐた。一方には焼桐の目も鮮やかな琴が二つも立てかけてあり、こちらには三味線が三挺も吊ってあった。其中に、米国出来の版画が、もう幾年掛け通しにして置くのだらうと呟いてゐるやうに、かしぎながらつらくってあるだけで、別に外国らしいトンチンカンな取り合せもない。何だかデブデブに太った婆さんが私等の前に坐って、皺枯れたドーマ声をして挨拶した。十七番の誰さんを知らないでは南洋通ではないとまで言はるゝ、其の誰さんがそれなのださうな、女達が「ねえさん」と呼ぶと、其の婆さんが「アイヨ」と返事する。尤も婆さんと言っても、私達よりはずっと若いのだらうが、頭や眼元に刻みつけた深い皺が、婆さんと言はなければならない余儀なさを語ってゐる。筒ッぽの白地の浴衣を著て、細帯で胸の処をぐっと締めつけた出張った腹の恰好は、根から生えたやうでもある。額の汗を幾度撫でるか知らないが、それが小やみなく玉になって行く、私は姑らく其の手のやり場に困って、もう汗がぽたぽた落ちても構はないでゐる、この婆さんにとっては、手のつきかたが甚だ不自然に見える恰好を眺めてゐねばならなかった。「ねえさん」「アイヨ」の応答が其の間にも幾度も繰り返される。とても動かされさうにもなかった婆さんが手軽に立ってすたすた部室を出て行く、戻ったかと思ふと又た立って行く。不図女の声で、ぢっと聴いてもゐられない露骨な事を投げ出したやうにいふのが聞えた。それまでは、別に長崎弁以外変った心持ちもしなかったのが、まるで裏切られてしまった。醜業婦を一つの職業と見れば、彼等が業務上の話をすることを人に憚かる所以はない筈だ。けれども我等の羞恥心が露骨には言明し得ないことを、いくら業務上のことだって、忌憚なく言ってしまはせる醜業其のものが、こんな場合に案外呪ひたくなるものだ。玉露製のいゝ茶で、渇いた喉を湿ほして、女の部屋の見学に出掛けた、一方に脚の高いベッドを置いて、一方に抽出しつきの鏡台が寄せかけてある。鏡台の横には衣装箪笥やトランクのやうなものが整然とあって、中央には小さい卓子と椅子が三四脚もバア式に陣取ってゐる。これも総てが西洋式で、日本臭い処は、とてつもない柱かくしの豊後簾が窓の横にぶら下ってゐる位のものだ。一行はそれぞれに椅子を占め、椅子のない人はベッドに腰かけたりした。何だか罪のない花やかな話が口々にとりかはされた。これが醜業婦たるヒロインの城塞であることも胴忘れして、バアの一卓を占領した茶話会のやうな気分が、この室に漂ったのだ。案内に立った人は、女達は昼間は琴や三味線を習ふのだ、といふことを手始めに、内地の公娼のやうな拘束のない生活ぶりをかいつまんで話した。御覧んなさい、彼等の肉体の発達を、腕でも何でもぶくぶくしてゐるでせうとも言った。彼等が月月本国へ送金する額は、驚く許りです、この家に七人女がゐますが、それが月々三千円を下らないのですからとも言った。このガルヂニヤには日本人を客にしない家がある、といふことから、醜業婦としての女の心理や習慣や、果ては民族的な人種論にまで議論の花が咲いた。日本人を客にすれば、同民族の情愛が濃くなる、其の為めかかへ主が迷惑しなければならない、といふのは醜業婦を知らない浅い管見だ、醜業婦はそんなものぢゃない、自己の職業に対する心理は、自己の趣味性になずむ人間の弱点と、キッカリ区別がついてゐる、それは男性には出来ない女性的特徴だ、けれども民族的な愛は、単に異性に対する愛とは違ふ、民族的愛の為めに、異性的愛が何等か圧迫をうけるといふやうな場合は、外国人にあっては甚だ稀れだ、そこになると日本人の愛はより強く民族性愛に制肘されてゐると言ってもいゝ、つまり日本人位民族的に排他の観念に富んでゐる者はないといふことになるのだ、それはこれらの醜業婦が、外国人の客を一個の弗入れの物質として取扱ってゐる習慣にも現はれてゐるといふのだった。
 民族的な心理や習慣は余りに問題が大き過ぎる。私は始めに想像するともなく考へてゐた醜業婦の生活が、暗い閉ぢ込められた、炭酸ガスの停滞した中にうごめいてゐる冷たさと堅さを感ずるものでなくて、却って明るい押ッ開いた、柔かな暖か味のあるものにしか思はれない、其の矛盾を、あちらこちらと帰納しては考へて見ねばならなかった。彼等は光明をのみ見て生きてゐる、自己の運命に何の危惧をも感じてゐない、とまではどうか、生きてゐるやうであり、感じてゐないらしいのかも知れないが、其のやうにらしく見えることすらが、既に私には意外な事実なのだ。彼等の安心立命が確立してゐるとはどうしても想像されない、それとも無自覚な彼等をさういふ境涯に導く制度とか習慣とかに、どんないゝものがあるのか、私はそこに大きな疑問を挟まねばならない。
 私達が尚ほ他の二三軒の醜業婦の家を見て廻ってゐるうちに、かういふ巷の空気は次第にそれらしくざわついたものになって来た。さうして私達の気分も、いつか観光の外客が、日本の公娼制度を素見する為めに、吉原の遊廓を訪問してまはるやうな、たゞの好奇心に過ぎなくなってゐるのを見出した。其夜三井物産の合宿所のマニラ臭い蚊帳の中に横はりながら、私は始めて見た日本の娘子軍の実際、それに纏はる彼等の心理、そんなことが絶間なく頭の中を往来した。さうして彼等が其の運命に安じてゐる疑問を繰り返した。
 香港の●仔街といふのは、馬尼刺のカルヂニヤの更に規模の大きいものである。が、日本の醜業婦は、馬尼刺に比して遙かに経済的であるとのことだった。私は馬尼刺で抱いた疑問に、尚ほ何等かのヒントを得られるかも知れない希望を持って、一度は其の暗い階下を上下せねばならなかった。
 日本の勢力の波及の稀薄な植民地では、何処でもさうであるが、畳を敷いた日本間と言っても、もと煉瓦建ての西洋間作り、若くは支那作りに或程度の加工をしたものだ。座敷を出た廊下は土足で往来せねばならない、自然座敷の敷居の外には下駄や靴やがゴッタに脱ぎ放してあるやうな光景は、一向に珍らしくない。亜米利加製のブリキの盆に日本の盃を載せて、支那箸で物を食ふやうな食膳の雑居的雰囲気も、日本の外を知らない漫遊客を驚かすに足るものだ。殊にペストの予防の為めに、室内に天井を張らせない香港では、それがどれ程手のかゝった贅沢な日本間であっても、一度頭上を仰げ・・・
 海外出稼の醜業婦は、日本の恥辱である、といふ正人君子の説を強ちに排斥するのではない。醜業婦の存在の可否は、単なる風教上の問題ではない。徹底的に
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960908/55

鳥井三鶴「世界徒歩十万哩無銭旅行」大正8年6月30日発行 ※1919年

一二 娘子軍と土民化せる女
 南洋へ航した人は誰しも一様に言ふところであるが、彼等売春婦及土民化せる女の不快さである。口には毒々しく紅を染め、額の小皺を厚化粧に隠して、身には華奢な模様の着物を着込んでゐる女郎。嚙む檳榔樹に人の生肉を啖ふたかと思はれる口した馬来人、南国の夕の気分に耽溺の血に暍えたる紅毛の出稼人 道行く人をも鼻をそむけて過ぎ行かしむる悪臭の支那苦力、蛇の肌を思せるやうな皮膚のざらざらした漆黒の印度人、それらを相手選ばず、金さへ持てば手招きしてその肉を鬻ぐ日本の女郎。それが南洋には六千人を降らない。「日本の姉さん」それが南洋名物の一つであるのだ。
 南洋に於ける日本の姉さんを分けて三種類とすることが出来る。その一は定まった家を持って朝に夕に、張三たると李四たるとを問はず、求めに応じて情を売る娼婦の類である。其の二は主に欧米人の荒んだ生活の慰藉にとてその妾に囲はれて洋妾(振り仮名ラシャメン)になった手合である。其の三は所謂土人化せる女であって、正式或は半ば正式に異国人の妻妾となってゐるもので、その主なるものは馬来人、支那人、蛮族等である。
 馬来半島に於ては第一種の手合及び第三種の「マソ、マライ」となったものが相半ばしてゐ、蘭領の各地及び北〔ママ〕律賓には第一種の娼婦が最も多く、印度支那には第二種のものが最も多くその大部分は仏蘭西人の妾となってゐる。スマトラのデリーなどにもこれが多い。
 これらの女の大部分は始め密航業者の手によって南洋へ向ふのである。密航業者で誘拐者を兼ねてゐるものが多い。先づ巧辞を以て四五の少女を誘拐して巧に日本の官憲の目を晦まして港をぬける。第二関門である上海をも無事に通過すればも早や彼等の天下である。官憲の異なった香港で一先づ船から降りる。そして其処で売買されるのである。玉によってその売られて行く方面が違ふ。かうして売られた無垢の少女は自棄気味から酒をのむ、男をたらす、そして次第々々に倫落の淵に沈んで行く。売られた金は殆ど全部、密航業者或は誘拐者の収入となってしまふ。
 私の会った女だけでもかなり多い。その二三の例をこゝで言はして貰ふ。
 土人の巡査の妻になったものに会った。それは最も「マソ、マライ」を代表した女であった。心も身もも早やマライの血で爛れてゐた。耳に穴を穿って金環をさげ、手足の首にも金輪を穿めてゐる。サーロンと称する馬来の衣服を来て素裸足である。言葉も馬来語である。日本人に会っても日本語を話さない。否、話すことが出来ないのだ。
 支那の苦力の嚊となって、護謨山や、錫鉱山に苦役に服してゐる女を見た。も早や手足は荒れて、顔つきまで獰悪になってゐる。中には美人と思はれる容色の艶な女もないではない。
 或時はコーラランボで菊子といふ女の面倒を見てやったといふ日本の紳士にも会った。その女は一人の馬来人に誘拐されて遂に其の妾となってしまった。然し人情を知らぬ馬来人は彼に三度の食事をすら与へることをしない。そして夜となく、昼となく、肉に飢えた眼をして彼女を挑む。遂に居堪らずこの紳士のもとへ逃げて来て救ひを求めた。が、その女は日本語は殆ど話せなくなってゐて、馬来語で話をする。サーロンを着て素裸足でゐた。行儀作法といふことは一向知らない。一ケ月も居堪らずにまた元の古巣へ帰って行ったといふ。その紳士は「こんな女の末が思ひやられる」と言って悲痛な顔つきをして話してゐた。かうした馬来の風習に染まって回教を奉じ、割礼まで行ふ女はどれだけあるかしれない。二千人に降らないであらう。私はこの種の女を購買市(振り仮名バザー)でよく見ることがある。人を呼びかくるにも「トアン」と言ふ。日本語は話せない。馬来語である。
 人の首を切り、人の肉を啖ふと言はれてゐるボルネオの山深くに住むダイヤ族の巣窟で、欧米の探検隊すら這入ることを恐れた深山幽谷の中を先年日本の娘子軍の二人が横断したといふ。その無謀なる大胆さには一驚を喫しない訳には行かない。そして彼等はその無智より来る大胆さ、故国を離れて何等精神的慰安なく、夜も昼も肉欲に飢ゑたる男を相手に枕をかはす、彼女等の自棄から来る大胆さには男も及ばない。その大胆さを以て今や印度からアフリカにまで手を伸ばしてゐる。
 私が先年印度で実見したが、マドラス港には邦人の商人すらまだ一人も居ないのに、三人の女で巨万の金を貯へて栄耀栄華に耽ってゐるものがゐた。この種の女が印度には六七百もゐる
 そして支那人や馬来人の嚊になった日本の姉さんも、寄る年波に容色が次第に衰へて行けば彼等は彼女等を惨殺する。それは硝子の切片を何処からか得て来てそれを細かい粉末にする。そして少量づゝ彼女が珈琲をのむ折或は酒をのむ時その茶碗の中へ竊に入れて置く。知らず知らずにのんでしまふ。透明であるから解らない。かうして一月、一年、二年とやって行く中に彼女の胃の腑は硝子の粉末のために爛れて来る。腸が次第に破れて来る、顔色憔悴して遂に斃れる。死ねば深林に持ち運んで椰子の根元を掘って埋めてしまふ。彼女のふるさとには白髪の父母が彼女の帰るのを門に凭れて待ってゐる。何時までたっても帰って来ない。彼女の死体は椰子の木蔭にも早や白骨となってゐる。南国の月は何事もなかったかのやうに静かにその白骨を照してゐる。偶には日本人の護謨園などで髑髏なども掘り当てることがある。然し誰の骨とも解らない。と、苦力は忌なものでも見たやうに「畜生」と呟いて再び谷底目がけてドサリと投げ棄る。
 あゝ爾、土民化せる二千の女よ、お前達の行末は果してどうなることであらう。
 彼女等はどうして「マソ、マライ」などになったかと訊く人があったら必らず土人に惚薬をかけられたと答へる。椰子の葉に夕日が縺れて黄昏れる頃、ほの闇い小屋の隅に色黒い手で拵へる惚薬とはどんなものであらう。彼は黒い顔に白い眼を輝して製薬に余念がない。時折それをかけられた時の恋しき女の様子などを思ひ起しては物凄く笑ってゐる。呪の笑みよ――
 あゝ恋の南国よ、魔の南国よ、何とした神秘をこめて大空高く星は何時でも瞬いてゐることよ。
 維新以前平戸や長崎が海外文化輸入の根源であっただけに長崎県沿岸一帯の地には、早くから海外思想が盛であった。而して海外へ出稼ぎに行くことを何とも思ってゐないばかりでなく、外人とは決して嫌ふべきものではない、親しむべきものであり、愛すべきものであるとさへ考へるに至った。此の思想が時代の進むにつれて発展して遂に海外へ飛び出して肉を鬻いで稼ぐといふ醜業婦といふものが出来るやうになったのである。道徳の上から、宗教の上からこれを論議すれば価値は絶無であらねばならない。無価値であるばかりでなく罪障であらねばならない。とは言へ、彼等が国民的発展の導火線となって海濤万里の外に平和的戦争の頭取役を勤めてゐる点から見ればまた必ずしも忌避すべきものではない。
 一般に島原(島原女といへば娼婦を代表してゐる)地方は人口の増加が盛であって、食物の如きも、魚肉と薩摩芋と麦が主要なものであるといふ関係もあらうが、人口は非常な勢ひで増加する。ドシドシ海外へ出稼ぎしても一向人口が減少したと思はれないほどである。この天与の人口増加といふことも島原、天草地方の女子をして海外へ発展せしめる原因の一つであるとも言へる。
 島原天草地方では出稼ぎ醜業によって大に成功し、所謂女郎成金の連中が少なからずある。出稼先から親元に送金して蔵を建て田地を買入れて堂々と大地主、富豪となってゐるものが多い。そして此の顰に倣って吾も吾もと出掛けるのである。即ち彼等の目的は個人の利益一点張りではあるが、別に何等の意識もないけれども、知らず識らずの中に国民的発展の先駆といふ大使命を果してゐる日本の威信と期待とを落すこと尠くはないけれども、それもまた一つの勢力であると思ふ。結果から見て三つの使命(?)があると思ふ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960871/98

東郷実「植民夜話」1923年

 然し今日南洋の有様を観ると、曾て男計りの植民が非常に発達して居た昔とは大反対に、女に依って、南洋発展の一のプログラムが盛んに遂行されて居る。然も其女は正業者ならぬ「醜業婦」である。西洋人の植民史は宗教家が先駆者となって居る例が多いけれども、日本の最近に於ける南洋発展は宗教家ならぬ醜業婦に依って草分けされて居る。「宗教」と「醜業」とは国音唯々一字の清濁あるの差に過ぎぬが、実質に於ては雲泥の相違である。斯の如き女性に依りて代表されて居る南洋発展は是亦甚だ憂ふべきことである。
 何しろ南洋在留日本人の統計が示す如うに、或地方にては、男よりも女の方が遙かに多いのであるが、是れは醜業婦の勢力如何を物語るものであって、南洋到る処日本男子は居なくとも「日本の女」の影を見ない処はない。最近南洋各地の政庁に於て之等醜業婦の営業を禁止するものあり、又所在日本領事館等の尽力に依り之等醜業婦の解放を見たる結果、非常に其数を減じたが然し之れが根絶は容易のことではあるまい。
 ・・・植民に必要なるは、島原乃至天草出身の「娘子軍」にあらずして、実に堅実なる「家庭の女」である。(231~233頁)

高島高文「蛮人の奇習」1928年 ※昭和3年

シンガポールに於ける日本娘子軍の盛衰の今昔
 欧洲戦争が始まって物資は戦地に吸収せられ船舶は徴発せられてしまった此時猛然として押し寄せて来たのは日本人である旭旗をかゝげた軍艦に護衛せられて色々の物資を満載した商船が何隻ともなく入港して来て其船からは無数の男女がはき出される様に上陸して来た「メードインジャパン」のマークある商品は其精粗を論ぜず羽根が生へて飛ぶ様に売りさばかれた戦前には僅かに台湾銀行、三井物産、乙宗商店位しかなかったグダンの商業町にも大小二十数軒の会社商店等があらわれた、それがため戦前にはほんのニ三軒しかなかった日本料理店が雨後の筍の如く●出して十数軒となり数人の真似芸者しかなかったものが香港や大連、天津から流れて来た者やさては内地の浜辺や田の畦から鮭の様に飛び出して来て私こそは芸者で御座いと云ふ様な顔付きをしてすまして居る連中を混ぜれば驚く勿れ四十有余人しかも其料理屋の壁と壁との間にチャブ台が据えてあるだけのとても人間が飲食するとも思へぬ場所がいつ行っても大入満員………特に隙間が明けてあるのかと思はれる………白粉と白粉との間から黒い生地をあらわして原品と加工品とを一目瞭然たらしむると云ふ凄い芸者が何時も箱切れの盛況、入口際の薄暗い座敷を加へて三座敷の料理屋が一ケ月の営業高九千ドルを越えたとは聞いたゞけでも棲愴の感禁ずる能はず況んや料理屋の営業振りたるや酒は折れに廻り料理は折れて曲って又折れて曲り芸者の線香は二割を刎ねしかも綿の入った様な畳の上で絞り上げることなればボロきこと言語に絶し更に怖るべきは芸者の奮闘振りである浴衣掛けで
五ツ七ツの座敷へ転戦するさへ凄まじき武者振りであるのに都々逸でさへもお客と他流仕合でもするかの様に調子の合はぬのはお客が悪いのだと澄して居る度胸のよさは、かくあるに尚ほ且つ箱切れの盛況とは以て日本貿易隆昌の反影と知られる。
 欧洲の戦雲は黄金の雨となって日本商人の頭上に降り日本商人の懐中よりは洪水となって花柳界に氾濫し料理屋を浮し芸者を浮し空前の繁昌を呈して栄華の夢を貪ったのである当時マレイ人支那人を客として居た日本娼婦の如きは切符を発売し各順次一列側面縦隊に列をなして其列の長さが長い軒端にあまって道路上にまで達したと云ふ、然るに戦後形勢は一変しさすがの娘子軍も英国官憲の日本娼楼撲滅方針に追ひ立てられて日一日と其影を薄らめて行った今日では一人の公然の娼はなくたゞ官憲の目をぬすんで居る私娼があるばかりである然し今日でも尚料理屋とか宿屋とかには大略二十人ばかりの私娼は居る彼等は昼とか宵とかは普通の仲居として店のためにのみ働き十二時頃から更に自己の職業に取りかゝるのであるオールナイトが普通十五円位である、(大正十一年三月)
マライストリートに栄月と云ふ料理屋がある其店の仲居に君枝と云ふ二十三才のやゝ愛くるしい女があった其女がかつて私に云ふには「私も早くどうにか身の振り方をつけたいと思ふんです、そりゃこゝでこうして居ても、あちらやらこちらやらかに嫁に来てくれないかと云ふ人は何人もあるのです、けれどそれらは店員なんかでとても末の見込もつかないしどうかして日本へ帰へってお嫁に行きたいと思ふんですそれで今日まで何回旅費として千円近くも纏ったお金を用意したかわからないんです然しじきに使ってしまっていつも駄目でした。私だってラシャメンになって居た頃は月八十弗からの金をもらって其上色々の物をも買ってもらって其頃は両腕に金の腕環をはめ手にはダイヤのリングを三つもさして又首には金の首かざりに五十ドルの金貨をつけて居たものでした。とうとうすっかり好きな男に入れ上げて皆質に流してしまったのです私ももう二十三になりました十八の時始めて上海へ来てそれから流れ流れシンガポールにまで来ました、そうして上海へ来た時と同じ様にからだ一つになってしまったのです国へ帰へると云っても船賃だけでも二百円以上は入りますし親にも相当な土産を買って行ってやりたいし此まゝシンガポールに居てはとても終生駄目ですからジャバへ渡らうかとも思って居るのですよ」と以て娼婦の一斑をうかゞい得られむ。

藤田敏郎「海外在勤四半世紀の回顧」昭和6年7月21日発行 ※1931年

醜業婦の輸入及裁判事件(32頁~)
 明治廿二三年の頃、桑港(サンフランシスコ)に於ける日本無頼の徒は種々の工夫を凝らし、醜業婦の輸入をなせり。米国官憲は数人の探偵を使ひ是が事実を探り、不正者の上陸を阻止し、日本領事館は真正なる渡米婦人は極力保護上陸せしむるも、不正者は米官憲の所為の任すよりも、寧ろ官憲を補助し上陸を拒絶せしめたり。然るに無頼の徒は、地方の悪弁護士と一致し、人身保護律に依り上告をなすを例とす。米合衆国裁判所は之を審理するに、言語習慣其他を異にし不便なれば、屡々領事館に交渉して便宜を借り、遂に裁判毎に、館員も判事の傍らに坐せしめ、種々の解釈進言を求むるに至れり。或時某新聞紙は、日本領事館員は裁判に干与し、恰も立会裁判の如き体裁にて自国醜業婦の上告を拒絶せりと記載したり。其翌日午後余等帰宅せんとせし際、三人の在留者来館、領事代理たる余に面会を求め、大に興奮して曰く、汝は日本の領事にあらずして米国の領事なり、我々日本人に不利益を与ふる者なり。昨日の裁判の如きは、汝の意見にて善良の日本婦人を帰国せしめたり。仍て我等汝の生命を貰はんとす、覚悟せよと、各自隠し持ちたる「ピストル」を出し事将に重大に至らんとするや、隣室より雇外国人「ダニエル、エス、リチャードソン」氏太き洋杖を携へ入来り曰く、領事貴下余に乱暴者の向脚を折り三階より往来に放出することを許せ。余曰く善しと。リ氏将さに最先の無頼漢を打たんと身構へたれば、三人其剣幕に恐れ帽子其他を遺棄し倉皇として逃げ去れり。リ氏は容貌魁偉なる小丈夫なれ共、性温厚篤実、平素人を打つ如き人にあらず。然るに此時は半ば恐喝し、半ば激昂し余を救はんとせしものなり。氏の心情と頓智は感謝に堪へざるなり。
 当時我醜業婦は八十余人ありて、無頼漢の食ひ者となり、市内に半公然醜業を営みしかば、在留者中有志者、市の官憲に迫り営業を禁止せんと請ひしも、独り日本人のみに限り禁止する能はず、宜しく諸君其家々に赴き営業を防〔ママ〕害すべし、余等は見て見ぬ振をなすべしと。於是有志者二三十人、毎夕交替に醜業者の多数住居する街に赴き、盛んに防害を試み、他方幼者逆待防止会と一致し、十六歳以下の醜業婦人の救助に努めたり。

醜業婦の送還(71頁~)
 明治廿九、卅年頃新嘉坡(シンガポール)在留日本人は約千人にして、内九百余人は女子にして其九割九分は醜業婦なり、其多くは誘拐されたる者に係る。彼等姓名を偽称するが故に、外務省より取調べ帰国せしむべく命ぜらるゝ毎に多大の困難を感じたり。新嘉坡政庁婦女保護官と協同し、漸く名簿を調製したるも、馬来半島「スマトラ」瓜哇等に至りては、到底之を知るに由なし。偶々被誘拐者を物色し呼出すも容易に実情を吐かざるを常とす。或時小西氏と被誘拐者及主婦を呼出し取調ぶるに、曰く父母の許諾を得て香港に来り、更らに当地に転航したるものなれば誘拐されたるにあらずと主張す。或時余其挙動の不審なるを見たれば、主婦を帰宅せしめ、徐ろに訊問せしに、女泣て誘拐され且可驚虐待に逢ひつゝある実情を告ぐ。盖は主婦の面前にて実情を告ぐれば、後日如何なる憂目に逢はんかと気遣ひ、反対の言辞を云立つるなり。依て再び主婦を呼出し、早速帰国せしむべきを申渡す。主婦は紋切形の如く、千幾百弗を出し抱へたる者なれば、六ケ月の猶予を請ふと歎願す。余之に歎願の謂れなきを告げ、旅費の支出を命じ、次便にて長崎又は神戸に帰らしむることを命ず。新嘉坡の法律に人を誘拐し且醜業を余儀なくする者には大なる刑罰あり、余より之を告発する時は乍ちに罪人となるが故に、彼等之を恐れて承服するなり。斯くして主婦より旅費を支払はしめ、領事館より日本船の船長又は事務長に保護を依頼し、神戸又は長崎の官憲に引渡すなり。中には誘拐者にして全然旅費の貯へなく、又は其出所なきものあり。其場合には船中の食料代として、五弗乃至十弗を私嚢より事務長に交付し送還をなしたり。之は外務省に斯る資金なければなり。其後船舶法制定せられ、領事は日本船船長に対し此類の臣民の為め送還命令を発することとなりたり。
 海峡殖民地総督「サー、チャーレス、ミッチェル」氏婦人(レデー、ミッチェル)は、醜業婦の哀れむべき境遇に同情し、屡々余に可及丈の方法を講じ、新嘉坡港に来ることを制止せんことを以てし、又保護局長「エヴァンス」氏と協議せしめ、十六歳以下の者は随時停業せしめ、余の手より本邦に送還することに尽力せられたり。或時婦人曰日本人の在留者は千人内九割以上は醜業婦人にして、其割合を失し、其多くは英国より来る無邪気なる兵士の誘惑者なり。しかも其夫人は自由意志にあらず、他人より強ひらるゝ醜業者なり。何とか方法を講じ、最少限度迄減少したしと。余の在任中或事情の為め、禁止案採用せられず、唯二年半の間百五六十人を送還せしのみ。而して余が暹羅に転任を命ぜられ出立せし日、彼等一大祝賀会を催ふせしと云へり。
 大正九年余「サンパウロ」赴任の途次同港を通過し、山崎領事より醜業婦退去の顛末を聞き、時勢の進歩、外務省の態度の変化と、在留日本人中多数の紳士出来、同領事に協力し、此大事業を遂行し、今や同港には一人の日本醜業婦無しと云ふ、喜悦に堪へざるなり。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1268579/44

沢田順次郎「姦淫及び売笑婦」昭和10年3月17日発行 ※1935年
第三節 南洋及び東洋に於ける売笑婦―日本娘子軍の発展
 ・・・面白いことは、此れ等の集まり売笑婦の国分けで、南洋と東洋とに多く発展せる者は、日本の売笑婦で、支那の売笑婦は之れに次ぎ、欧州の売笑婦では、独逸、仏蘭西及び露西亜の女が多く、其の次ぎは米国の売笑婦である。・・・然るに日本の娘子群は、之と反対して、東洋と南洋とに大勢力を占め、欧洲及び南米等は微弱である。此の事実は、外務省の統計に徴すれば明かで、我が海外に於ける娘子軍は、支那を第一とし、次ぎは新嘉坡、浦塩、バタビヤ、ホノルヽ、香港及びマニラの順序で、其の他を合せ総数二万三千である。其の内訳を示せば、次の如くである。
地名     売笑婦の数
支那      16,424
新嘉坡(英領) 2,086  ※シンガポール
浦塩(露領)  1,087 ※ウラジオストク
バタビヤ(蘭領) 970
ホノルヽ(米領布哇) 913
香港(英領) 485
麻尼刺(米領) 392 ※マニラ
桑港(北米合衆国) 371 ※サンフランシスコ
柴棍(仏領)   192 ※サイゴン
孟買(英領印度) 147 ※ムンバイ
晩香坡(英領加奈陀) 83 ※バンクーバー
シドニー(英領濠洲) 74
シカゴ(北米合衆国) 35
ポートランド(同上) 27
墨西哥(北米) 24 ※メキシコ
秘露(南米) 23 ※ペルー
盤谷(暹羅) 8 ※バンコク、シャム
倫敦(英国) 7 ※ロンドン
独逸     4
仏蘭西    4
 これは大正三年の調査で、少し古いが、此の総数は二万二千三百六十二人で、此の内支那は、過半を占めて居る。支那で最も多いところは、関東州の八千三百八十八人次は牛荘の一千九百二十四人、奉天の七百九十人、安東の七百七十一人、上海の七百四十七人、哈爾濱の六百五十六人、長春の五百七十三人、斉々哈爾の四百五十一人漢口の三百八十四人、遼陽の三百人、鉄嶺の二百八十九人、天津の二百五十一人、芝罘の二百二十一人、間島付近の百九十八人、其の他百人以下の各地方を合せて、一万六千四百二十三人の大数に上って居る。尚、此の統計以外に、密売淫に従事する者の約三割はある見込みといふから、日本の海外売笑婦は三万は下らないと思ふ
・・・斯くの如く、海外に於ける日本の売笑婦は、世界第一と言はれて居る。故に日本の売笑婦に対しては、欧米人も一歩を譲り、何れの地に於いても、日本の売笑婦を向ふに廻して、競争する者はない。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1442404/109

満洲事情案内所編「まんしう事情」昭和11年5月25日発行 ※1936年

先駆者娘子軍
辺陬の地が拓かれるとき、同時に、いや時には前以て地を占領してゐるといふ素早いのは娘子軍。たゞ此等が対象とならないのは農業移住地だけだ。熱河挺身隊が一日一城を陥れる早さで、トラック隊の列が南下した。その後輜重トラックが通る、商人のトラックの荷物の中には生物もゐた、どうもこれは兵隊さんの引力もあらうといふ、将校が思ひやりで黙認するらしい。
 鉄道建設の為に現業本部が出来る。其処は家らしい家は見えないが人の混雑する、バラックの都会が出来る。板張り間口三間くらゐ、奥行これに準ずる何々ホテル。棒杭の上に板を渡した―高い方がテーブル、低い方が椅子といふカフェーなどが出現する。ビール一円は廉い方といふ次第。北満といっても哈爾濱は別として、こんな新開地若くは小さい町の宿は原則として兼業である。要求の然らしむるところなのであらう。何の兼業かは読者の第何感かで分る筈だ。
 斯うした町でも芸者といふものはやはり髪は国粋派である。髪結女なんてゐないが誰かゞ恰好をつけるらしい。道は凸凹でも、土埃が何寸の中でも、夜は街燈一つ無からうが招きに応じて出てゆく、若し夫れが雨が降らうなら、其日とあと二三日はゴム長靴を穿いて、褄をまくって泥を渡りなさる、正に壮観である。随分酔払うがなかなか帰りに泥漬にはならぬといふ。此頃は田舎でも日本人が居るが建国以前は北鉄沿線の小駅の宿など一年の投宿者何人もない、そんな地にも女は朝鮮人が多いが内地人もまた相当居た。これ等は偶に見る日本人には力めて会はせないやうにしてゐた。低級なのを対手だから恥しいだらうと思ふとさうではない、業主の政策の然らしむる所で、女等に郷国をなつかしめさせないといふ深謀遠慮の次第だ。

南洋及日本人社「シンガポールを中心に同胞活躍 南洋の五十年」昭和13年6月3日発行 ※1938年

一八、娘子軍時代
1、明治維新以後の日本人の発展
・・・随って明治維新以来日本人の海外発展が亜米利加海岸の外、至る処婦女子の賤業を先駆とせざるを得ざる一種変態の発展であったことも、怪しむに足らざる事実であった。
 米国海岸は労銀高く日本男子が甘んじて出稼したのであって、敢て婦女子の賤業を先駆に発展する必要はなかったのであるが、然も満州、支那、南洋地方は労銀低廉で劣等生活に甘んずる労働者が多いのであるから、特別の事情なき限り日本人の労働者を必要とせず、随って婦女子の賤業が発展の先駆になったのも是非なき次第であった。蓋し徳川時代の鎖国政策と武士制度の下に数多の人を飼ひ殺し、自営奮闘の尚ぶに足らざるを教へてゐた祟りは、工業の海外に誇るべきものなく、商人といへば御用達類似の狡猾漢のみを作りだし、一旦開国しても海外に貿易する物もなく、勇気もなく却って九州地方の冒険女子が相率ゐて西南に色を売りつゝ発展したのである。人或は日本の婦女子が海外に賎業した事実を国家の醜恥と為し、極めて之を排斥せんとするが、そは海外に於ける日本賎業婦の横流を顕著ならしめた裏面の実情を知らず、日本が此方面に貿易品を有せず、商人の多くが此地方に来ても仕様がなかった為めで、寧ろ当時の日本商工界の無能力、無気力を間接に証明したものとして、それをこそ日本の恥辱といふべきであったのである。一賎業婦を南洋及び其他の海外に出さゞる謹厚の朝鮮が遭逢した運命を思ふ時、個人としても団体としても敢為大胆なる者でなければ到底世界競争に堪へ得ないことを会得せずに居られないのである。
 易の泰の彔に曰く「暴荒憑河」と、暴荒は清濁併呑の意、憑河は冒険の謂である。論語に孔子が憑河暴虎を斥けたのはともすれば蛮勇を振ふ子路に対する一片の投薬に過ぎなかったのである。

2、娘子軍の元祖
 明治の初年、横浜より日本女子を妻とせる一英人の新嘉坡に転勤し来り、幾もなく死去せる者あり、その妻断髪男装して欧羅巴ホテルのボーイとなったが、容色なほ衰へず遂に人に誘はれ陋巷に賎業を始めたのが、実に南洋に於ける日本賎業婦のお祖師様だと伝へられて居るのである。然も需要は必然的に供給を誘ふのである。其類の集る者月に年に漸く多く、男子の之に寄生する者も続出し、爾来これ等の男女は輔車相依って或は馬来半島に、或は蘭領諸島に、或は濠洲方面にその羽翼を伸ばし、隠然として南洋の豪を以て自任する者を出し、高潔好きで然もお祭り騒ぎ癖ある日本人社会から何かと云へば、金銭の相談を是等豪傑仲間に持ち掛けしめるに至ったのである。然し斯くナブられつゝあった賎業婦も一部落を成せば必ずそこに日本雑貨を売る店舗を生み、花街の娘と所謂旦那持ちが競ふて日本雑貨を外人に購買せしむる機縁を作ったのであった。
 明治維新以降の邦人南洋発展史は之を娘子軍時代、護謨事業勃興時代、欧洲大戦の好況時代、戦後の不況時代、満洲事変後為替安時代の五項に分けて記述するのが便利である様に思ふのである。

3、草分と其頃の新嘉坡
 維新前後、尤も古い時代に新嘉坡に来てゐた人と云へば元ローヤルシヤターの母親さんと云ってゐた松田うたさんであったらう。何んでも御維新の三四年前大阪で支那人の細君になり、一所に新嘉坡に来て店を開け仕入れに帰朝中台湾征伐が始まり、便船がなくて帰星を遅らした事があったと云ふ話をしてゐた。サーカスに加って来星其まゝ居残った傳多の婆さんと共に、井上外務卿の署名ある旅券を持って威張ってゐた。俗に神戸新と云ってた淡路島の家老の家に生れたと云ふ稲田新之助爺さんも御維新前外国船に乗ってゐたので既に一度新嘉坡に来た事があるが、其後米国に渡航しマカオから新嘉坡に来て腰を落付けたのは明治十七八年頃だったと云ふから、馬来のお豊婆さんは勿論来てゐたに相違ない。更に現存してる人では米屋の婆さんと云ってる小川しのさん(七八歳)が来たのは明治十年だと云ふから恐らく今居る人では一番古顔なんだらう。小川の婆さんが来た頃はまだ新嘉坡に二階建はなくアタップ葺きでカトンに行くと馬来人ばかりであったそうだ。ビーチ路から花街までずっと湿地でマライ街あたりの丘に支那人の墓場があったのだそうだ。随って邦人娼家の発祥地は所謂花街といった馬来、マラバ、ハイナム街辺りではなかったのである。日本街は後に澁谷銀治の細君になった九番のお安が大道で芭蕉果を売ってゐたからつけられた名だといはれて居る。米屋の婆さんもお安といふのが長崎で支那人の船乗りと馴染になり、自分よりずっと前に来てゐた。其頃廿歳前後で大変別嬪でしたと話してゐた。清水たつ後に十三番の腹ぼての婆さんといってゐたのは、最初米屋の婀媽をしてゐた、異人について来を〔ママ〕のだが其異人が香港で死んだので欧羅巴に行く筈だったが、此処に上陸って仕舞ふたのである。しの婆さんよりは少し遅かったそうだ。兎に角明治十年頃には既にマライ街に二軒の邦人娼家があった。軈てそれが十軒になり五十人も六十人も娘が居る様になったのである
 蔦田歯科医が廿四年に来た頃でさへタンヂョンパカーやカンポンバル方面は皆山で、ラフルスホテル辺マングローブが茂ってゐたさうだ。
 バンダが出来たのは一八九九年で支那人ばかり最初は邦人の娼家はなかった。華民保護局が出来たのは一八八八年で支那苦力が奴隷的に輸入され、殊に売られて来る女が余りに可愛想だと夫等を保護するために出来たのであって、インスペクタ・ピッカリング氏が最初の局長で、誘拐されて来る哀れな日本娘も亦其処で保護されてゐたのである。
 新嘉坡に日本の名誉領事が置かれたのは明治廿一年四月で、今のAPSが居るビルディングの処に事務所を持ってゐた支那人胡施澤氏が開祖だった。そして廿二年一月廿二日中川恒次郎氏領事代理として着任、ソフィヤ路に始めて帝国領事館が開設されたのであった。
 当時女郎屋には二木氏を始め銃後版の澁谷初五郎夫婦など云ふ確りした者もゐたが、店らしい店を開いてゐたのはハイストリートに國井藤兵衛と云ふ人が開けてゐた大和商会位のもので、三井物産が廿四年バッテリ路の今のチャタード銀行のある所に支店を開設したのが、日本貿易業者の南洋に発展する抑々先駆であったのである。・・・

8、日露戦争時代(143頁~)
 それから日露戦争の大勝に依って形勢は更に又ガラリと一変した。・・・娘子軍の全盛時代も恐らく其頃が絶頂であったらしく思はれるのである。明治卅九年華民保護局への登録数実に六百二十人に達し、まだその外に登録洩れの所謂モグリが相当ゐたのであるから、花街と女郎屋の繁昌振りの如何に物騒いものであったかゞ創造されるだらうと思ふのだ。

9、其頃の在留邦商
 娘子軍に寄生して南洋の邦人商店が発展したと云ふのは余りに気の毒な様であるが、全く事実であったから仕方がない。・・・其他馬拉加芙蓉、カラン等苟も日本娼妓の部落をなせる処雑貨或は呉服を鬻ぐ者之無きはなく、更に娘等の需要に応ずべく至る所に行商が入込んでゐたのである。

10、娘子軍時代の末路
 然も流石に我世の春と全盛を旺歌してゐた娘子軍時代にも漸く衰調が明かに見えて来た。大正二年暮れ白人娼婦一斉に退去を命ぜられ、夫々尤も近い領事館の所在地まで送還されて、昼をあざむく軒燈に不夜城の栄華を誇ってゐた花街にも時ならざる暴風の襲来を思はすものがあったのである。斯くて愈大飛躍の気運に遭遇した我南洋在留同胞社会は先づ其腐乱した毒血を絞り出して、愈真剣に戦闘準備を整へる為めに突如一種の血清療法を受けねばならぬのであった。それは時の領事藤井實氏の英断と政庁当局の荒療治に依ってゞあった。アンシャマトワンだとかニーサンなぞ云ふ聞きづらひ称乎を半島の山奥、蘭領の島々のはてに至るまで聴かされねばならなんだ当時の有様で、何うして在南邦人は世界大戦と云ふ千載一遇の大舞台に乗り出す事が出来たゞらうか。開国五十年に近き努力を以てして尚且つ婦女子を海外に輸出し、甘んじて賎業に従事せしむる以外殖産工業を以て世界人類の生活を向上せしむることに資すべき何者も無いとすれば、寧ろ日本人の存在は呪ふ可きであったかも知れないのである。然も難きを避けて易きに就くのが人情の常である。まさか可愛い自分の娘を南溟の瘴癘に苦しませ肉を鬻ぎ血の涙を絞らせて唯一身の安逸を貪らんとする程の極悪無道の親も無かったらうが、田舎娘の無智を喰物として比較的同義観念の薄い海外殖民地の不義の享楽にふけらうとするが如き者は少なくなかったのだ。先づ内に之等徒輩を殲滅し努力奮闘自らの汗に依って新天地を開拓して行かふと云ふ元気ある者ばかりにならねば、折角の機運をとらえても真に日本の南洋発展は確実な基礎を築く事は出来なんだのである。況んや全盛を極めて醒むる事を知らない歓楽に酔ふてゐた花街にも裏面の暗闘は絶ゆる事なく、ニ三有力者が新たに手を染め出した護謨栽培事業に投下された資本に対しても怪しむ可き風聞が切りに伝へられ、在留同胞の親睦和衷を標榜して廿年の歴史を有する共済会の内部も腐敗し切って、最早や表面の糊塗ではどうにも遣って行けない処まで形勢は切迫しつゝあったのだった。而して卅五六年頃から既に其落伍者や不平党に依って如何はしい珈琲店等云ふものが営まれ、当時北橋路にあった五六軒のそれ等の店を圧倒し尽さんとした事が動機となり、此処に嬪夫狩りの大活劇が商売がたきの密告猜排に胚胎して突如颶風の如くに所謂密航者の頭上に襲来したのであった。暗闇の恥をさらけ出す事位はものかは降りかゝる火の子は何うしても払はずには居られないと互ひに訴へ、陥入れんとして藤井領事の大英断により大正三年の春から五月頃までに追放された者、海峡殖民地と馬来半島を通じて殆んど百に近かったらう。然も身の程を弁へずに何処へでも出娑張るそれらの男は斯くて一挙に駆逐されて仕舞ふたのであった。そしれラヽんが苅取られてから護謨の若樹がスクスクと延び育った様に、花街方面から如何はしい男が影を消して同時に堅実な在留邦人の発展が真に目覚ましい程の活躍を見せて来たのだった。

11、藤井領事嬪夫追放
 英領の法規は男子の女郎屋経営を禁じて居る。敢て表面のみならず裏面に於ける関係も許さない。然も日本人と云へば昔は直ちに売笑婦を連想せしめ帝国領事をすらアニシャマ・トワンと呼んだ者さへあるのである。随って当時妓楼に男子の寄生を已むを得ずと看過し嬪夫も亦怖るゝ政庁当局の寛大に狎れて終に世上に跳梁跋扈するに至ったのである。然し在留邦人の素質も変り地位向上して政治的にも商業的にも果た栽培事業方面にも目立って発展して来て国違ひから邦人男子の総てが女郎屋のアニシャマと思はるゝ如きは到底忍ぶことの出来ない侮辱であり、甚だしく邦人活動の支障となるものと認められ彼等の一掃が焦眉の急となって来たのである。
 大正三年四月或日の早朝特別命令を帯べる数名の刑事は青天の霹靂的に邦人遊廓を襲撃して嬪夫の頭目四名を捕縛せんとした、内一名は早くも風を喰って逃走せしも三名は逮捕されて監獄にぶち込れて仕舞ふた。彼等は護謨園主、歯科医、雑貨店主と表面を繕ふてゐたが政庁のこの英断に全く手も足を出す事が出来ないのであった。遊廓は上を下への騒動で当の嬪夫はいふ迄もなく多少の関係を妓楼に有する者は蒼くなって倉皇行李を収めて縄目を避け姿を隠して仕舞ふた。有志の奔走となり領事の活動となり遂に政庁当局をして「彼等が確に退去するならば強ひて投獄せずといふことになり一々写真(正面、横、背面の三面撮影)を警察に残して英領土を追放されたのであって其数四十余名に及んだ。
 新嘉坡嬪夫退治の報四方に伝はるや半島各地の恐怖一方ならず、良心のまだ麻痺せざる者は直ちに業態を改め、逃げ足の早き者は何処へか姿を晦まして仕舞ふた。更にこの嬪夫征伐と同時に新嘉坡では以後新に娼妓の鑑札を下付せざる方針を決したのであった。

12、廃娼問題断行
 邦人の護謨栽培事業勃興、欧州大戦開始と南洋の天地にも時代の変調は滔々として押寄せて来つゝあった。如何に女ならでは夜の明けぬ植民地と雖も、財産が出来れば体裁を飾り度くなるのである。大戦好況の絶頂時一夜に千金を蕩尽する遊興子もあったが、既にそれは女郎屋でなくして料理屋の二階で芸者を揚げての散財であった。然も大正八年の暮れ頃から景気逆転の兆候漸次歴然たるものがあったが、よもや急転直下全盛を極めてゐた日本の南洋発展が根底から覆へされ様と誰が果して予感し得たであらうか。戦後愈々堅実なる在留民の発展を期する為めに九年正月、新嘉坡総領事館管下各地の在留民代表は山崎総領事代理より招集されて新嘉坡に集まり、断乎年内に自発的廃娼を実行することを決議したのであった。三十年の歴史と猛烈なる彼等の活躍は到底容易に其絶滅を強ふ可くもあらずと、ツイ数年前までは思はれてゐたのであったが、欧州大戦に依る堅実なる在留同胞の発展は内容の改善と面目の向上を痛感する事一層痛切なるものあり、到底彼等の存在に依って受くる軽侮に甘んじ、為めに着実なる発展がともすれば動揺せしめらるゝ如き事あるを忍ぶ能はざるに至った結果であったに相違ない。各地代表は当時進んで此至難なる事業に当らん事を何れも欣然として決議したのであった。尤も彼南は既に其前年度末廃娼を断行して居り、新嘉坡も亦各地に先達ち同年六月一杯で断然廃娼を決行する事を声明し兎も角も二百有余の公娼を全部撤退せしめたのであったが、支那人の排日貨運動に依って惨憺たる悲境に陥入れられた上、護謨価無前の暴落に逢ふて極度の不景気に襲はれつゝあった半島各地の実情は、断乎たる態度に出でし約束の廃娼を決行するには余りに甚しい惨状を呈してゐたのだった。
 新嘉坡と彼南は開戦と同時に白人娼婦の撤退に連れて一切新規の開業を承認しなかったのであるから、さしも全盛を極めてゐた其醜業区も漸次衰運の顕著なるものあり、殊に在留同胞の財力が充実してゐたから比較的絶滅は容易であったが、何しろ尚千五百に余る娼婦を擁してゐた馬来半島では斯如簡単に一挙解決すると云ふ訳には行かなんだ事情があったのである。娘子軍の全盛を極めてゐた頃は蘭領スマトラのメダン付近等を加へて、当方面一帯に活躍しつゝあった彼等の実数は六千に余り、年優に一千万弗からの稼ぎがあったのであるから其財的勢力侮る可からざるものあり、殊に四十年近い歴史を有して居るのだから経済関係の錯綜せる事実殆んど想像以上であったのである。然も彼等の奮闘は要するに不健全であり、収入の大部分は当然浪費さる可き性質のものであったから、其目覚ましい活躍に顧みて何等残された事業の無かったのみならず、寧ろ莫大な債務を彼等は所謂チッテなる印度人の金貸業者等から負はされてゐたのであって、容易に動かれない内情がそんな処にもあったのであった。だから醜業婦其者の駆逐は単に在留民の態面を修飾すると云ふに止まらず、経済方面にも直接痛痒を感ずることさして深くはなかった筈であったが、間接に其収入を融通して貰ふてゐた方面―殆んど半島在留邦人の大部分が為めに蒙むる影響は実に甚大なものがあったのである。支那人のボヰコット、護謨価の暴落、極端な不景気にかてゝ加へて廃娼の断行と来たのであるから、将に半島在留同胞の多数は全滅の悲況に直面させられてゐたのだった。

廃娼断行代表会の出席者
 大正九年一月四日山崎総領事代理の招請に応じ、廃娼問題を協議すべく新嘉坡に集った各地日本人会代表は廿九名で
 彼南 会長岡庭喜惣治 副会長長田利明 理事荒木竹三
 マラッカ 会長彦坂正義 理事筒井信吉
 ケダ州アロスター 会長田邊吾一
 ペラ州タイピン 会長内田鉄吉 理事佐藤源次郎
 同 一保 会長水上庄太郎 副会長下山均 理事遠藤良助
 同 テラカンソン 代表諸戸末松
 同 チッテワン 代表川原忠吉
 セランゴール州吉隆坡 会長佐竹逸蔵
 同 コーラクベ 支部長長谷川義男
 同 カラン 支部長桑山定省
 ネグリスミラン州芙蓉 副会長朝永誠三 理事山田政記 理事小岩井靖
 同コーラビラ 支部長松永麟五郎
 柔仏バル 会長野村勇 理事明坂安治 理事濱口友彦
 同 バトバハ 会長佐々木亦二 理事安田隆治
 同 モア 代表谷由輔 代表山崎政吉
新嘉坡川は同会長宮下龍蔵、副会長中川菊三、理事大塚伸二郎、古藤秀三、高木復亨、竹内精一、木村増太郎、星崎武夫及び佐藤栽培協会幹事の九名でバトバハの佐々木氏を座長とし四日に亘る論議の結果尤も円満に自発的廃業を決議したものであった。

13、新嘉坡の女郎屋と嬪夫の引揚を送る
 南洋娘子軍なる名を何時の頃誰が称へ出したかを知らないが、二六新報に黒龍会や参謀本部や洲崎の大八幡楼の主人公であった中村伝蔵氏等から材料を貰ふて「南洋娘子軍」なる題目で当方面の娘さんの事を連載してゐたのは明治三十三年秋から三十四年の夏頃までの事であった。当時既に馬来半島からメダン地方にかけて約四千の娘子軍あり、年々五百以上の補充が何うしても必要であると云ふ様な事まで書いたと覚へてゐる、殊に其頃は南海先生の康有為が新嘉坡に抑留されてゐた為に宮崎滔天が態々逢ひに行く、福本日南も亦出掛けると云ふ騒ぎで、私の若い血汐を沸き立たせた事は頗る非常なものであった。遂に孫逸仙の挙兵に参加すべく用意をしてゐたのであったが目的を達しなんだ等が原因で結局今日までブラブラ浪人生活をする事にもなったのだけに、私の方から云ふと随分久しい南洋娘子軍とは馴染であったのである。其後更に長崎の出雲街にゐた侠客丹波屋の親分と懇意になり、益々当方面の詳細な実況を親しく聞く事を得て愈々一度は自分も渡南して見やうと云ふ気になってゐた折りから、妙な事で此処とは特殊な関係を持ってる岩本千綱氏は宇都宮太郎中将や梅屋庄吉氏らと交際する様になって、遂に大正四年の春南洋まで流れて来る事になったのであった。
 然し私の新嘉坡に来た時は既に娘子軍の勢威はとくに盛りを過ぎてゐたのだった。最も前年所謂ピンプ退治があり、醜業関係の男が全部逃出した為に残った女将は勢ひ途方に暮れて居ると云ふ有様で、澁谷や二木等云ふ頭株は死んでゐたし、十三軒からの女郎屋を持ち百人も娘を抱へてゐたと云ふ一保の山田すらもう見る影もない程寂漠に帰してゐたのであった。然し外観から見る景気はまだまだ素晴しいもので、昼を欺くナンバー入りの軒燈輝くカキリマに友仙モスの派手な店晴着の胸を張り、黄い声を振絞って盛んに通りすがりの漂客を呼立てゐたのであって、勿論其時はまだ白人の娼家も軒を列べてゐたし、其繁昌振りは確かに新渡航者の目を驚異せしむるに十分であった。然し事実はもう其頃から花街は既に魂を抜かれた抜殻であったのだ。私に云はすれば藤井領事のピンプ退治其場が既に南洋一帯の娘子軍をまとめて行く事が出来る人間を失ふた結果であったのである。丹波屋が死んでも多田亀が生て居りさえすれば勿論南洋娘子軍は一糸乱れず勢威を失墜する事なくして今暫くは繁昌を続けて行くことが出来たかも知れないのであった。然し時勢をどうする事も出来ないのだ。丹波屋死んで一年もたゝない中に多田亀が西伯利亜で非業の最後を遂げたのは結局運命であったらう。多田が死んではもう丹波屋の後を継ぐべき腕のある者は何処にもゐなかった。喧嘩力の強いのや相当理屈の言へるのならゐない事もなかったらうが、前途が見へて居るのであるから目先きの見へる者は来はしない。随って私は現在残って居る女将や蔭に隠れて居る二三の男を知らぬでもなかったが、心密かに撤廃が何時誰の口から呼ばれるかを待ってゐた、然も其時は思ふたよりも案外早くやって来た、誰の力と云ふよりも私は時勢の力―欧州大戦に影響された日本の南洋発展がこの要求を齎したのだと信じて居る。同時に山崎総領事代理が機運の熟した事を鋭敏に観取して機会を失する事なく、各地代表会議を召集して一気に自廃決議をさせて終ふた果断を心から讃仰せないで居られないのであった。或は其遣り方に就いて異論をはさむ者があったかも知れぬが、大勢には抗す可からず、内輪を云へば苦しい事は各地とも山程有ったに相違ないが、一言半句も代表者会議席上では不賛成を唱へ得る者はなかったのであった。女郎屋の存廃を道徳問題や国家の体面から論ずるのは野暮の骨頂である。現代は何事も先づ資本家の利害関係を基として計算されねばならないのだ。日本が一等国民として堂々土庫に事務所を開設し馬来半島でドシドシ護謨園を経営して居るのに、同胞である女が素足で通ふ国違いの玩弄物となって居るのを其儘に放置して居る事は出来なかったに相違ない。今引揚げて行く女将とそして抱娘に対して私は万斛の同情を持って居る。諸君多年の営業が奪はれ世智辛い日本に帰って行かねばならぬのは全く情ない事であらうが、国家の発展に伴ふ必然的結果であるとあきらめて欲しいと思ふのだ、御国の為めだ諸君はしほしほと追はるゝ者の如くに帰って行く事は無いのである。過剰な国民は何れ何処かに掃き出されねばならないだらうから、例へ南洋一帯が諸君の生存を拒絶しても人間至る処に青山あり、自分がゐた土地が益々同胞の活躍に依って繁昌して行く為めであるから諸君も勇み喜んで引揚げて貰はなければならないだらうと思ふのである(大正九年六月記)

一九、花街の思ひ出
 欧州戦争前には南洋で女郎や旦那持ち(洋妾(振り仮名「ラシャメン」)と云った所謂醜業に従事してゐた日本娘がざっと四千人程もゐたであらう。新嘉坡の花街(マテイ街、マラバ街、ハイナム街)及びバンダだけでも四百以上の娘がゐた。殊にスマトラの煙草耕地として有名なデリー地方には千近い旦那持ちが婉然女護の島の観を呈しつゝ肉に飢えた外人の要求に応じて其貞操を切売し、或は年期をきめて仕切られてゐたのである。其他馬来半島各地は勿論の事、蘭領の島々から蘭頁、盤谷、西頁、トンキン、マニラと殆んど彼等の影を見ない処なく南洋の至る処に日本人の女郎屋町が立派に出来てゐた。そして長崎の丹波屋とか長田亀なぞ云ふ親分に依って統卒され年々五六百人も新しい娘が補充としてロの津や門司の港から香港、新嘉坡へ誘拐されて行きつゝあったのであった。
 香港渡し二百五十弗、新嘉坡渡し三百弗乃至三百五十弗が相場で、旅費雑用一切を差引いて一人頭二百弗近く儲かったと云ふから少くとも十万内外の金が年々誘拐者の懐中に這入った勘定だから、当時彼等の仲間が如何に活躍してゐたかは蓋し想像に難くないだらう、のみならず長崎郵便局が取扱ふ南洋から彼女等が郷里に仕送る金だけでも年額二十万円以上に達してゐたと云ふから其全額に至って必ず更に幾倍したに相違なく、その大部分を送りだしてゐた島原、天草がためにどれ程霑はされてゐたかは中々今頃話しても一寸真実とは思へぬ程であったのだ。
 随って誘拐とは云ふものゝ娘自身も親達も寧ろ進んで南洋へ連れて行って貰ふことを彼等に懇願してゐた程だった。殊に旦那に死別れたとか或は万以上の纏まった手切金を貰ふた彼女等の成功者が光り輝くダイヤやルビーの指輪を五六本も嵌て突然帰って来る様な事実が時にはあったのであるから、其評判は忽ち狭い部落の空気を極度に昂奮させて我れも我れもと南洋行きを若い娘に志願させる様になるのだった。
 勿論可愛い娘を遠い南洋へ身売りさせる彼等の家庭が物質的にも精神的にも恵まれてゐよう筈はなかった。天草の或る村で大胆にも公然娘の旅券下付を警察へ出願した者があった。吃驚して懇々その不心得を説諭させようと態々巡査をやったのだが、余りに惨憺たる其家庭の実情を見ては流石に巡査も同情に耐へず、却って自身南洋行を世話して遣らねばならなんだと言ふ話さへあったのだ。 
 何しろ両親とも病身で思ふ様に働けない上、ヤッと十八になった其娘を頭に七人の弟妹が破れ果てゝ雨露をしのぐことさへ出来ない小屋に飢えと寒さに顫へつゝ辛うして生てると云ふ有様だったのだ。紡績女工等ではとても追着かない内地の女郎屋へ身売したって果して半年支へることが出来たらうか。恥や外聞なぞ云って居られる場合ではなかった。巡査が同情して南洋行の世話をしたと云ふのだから余程惨憺たるものであったに相違ない。然も其娘は間もなく新嘉坡の花街で全盛を唄はれ月々欠かさず七十弗からの仕送りを六年も続け、スグの弟は汽船に乗って運転手の免状を取ったし、其次の弟も電気学校を出て相応の給料を貰ふまでになったのだった。
 然しこんなのは勿論南洋でも珍らしい事で、出稼の娘は寧ろ一時の虚栄心に煽られ浮々誘拐的の口車に乗せられて来たと云ふのが多かった。だから中には相応な家に生れた娘もゐたし、女学校の卒業近くまで行った者さへ間々あった。現に彼南では貴族院議員の妻君だった人が女将をしてゐたし、仮名書の名家として有名な○○氏の姪が馬来○○番のお職で特に海軍の将校連に持囃されてゐたなぞ云ふ話は恐らく今でもまだ忘れてゐない人が居るだらう。
 斯くて新嘉坡を中心として南洋の島々、山の奥まで入込んで素足の馬来るや不潔極まる支那苦力、さては真黒な印度人さへ相手にさせて若い娘に血の涙を絞らせつゝ不義の栄華に耽ってゐた。日本人の女郎屋家業も遂に大正九年の正月、時の総領事代理山崎平吉氏の勇断で新嘉坡に召集された在留民代表者会議の協議に依って、断然自発的に撤廃することに決定した。そして彼南は其前年十二月限り、新嘉坡は其年の六月、馬来半島と英領ボルネオ一帯は同年一杯で兎も角も表面同胞の公娼は全部南洋から影を没して仕舞ふた筈だった。
 猶蘭領では大戦の前年既に公娼は全然禁絶され、其後更に私娼の取締を厳重にし、特に日本婦人の渡航を監視することになってゐたので僅かにメダンやパレンバンやボンテアナ等に昔の名残を辛うじて存する位に過ぎなんだ。然し国家の体面とか人道上から論ずればもとより問題にはならないが、端的幾千と云ふ醜業婦を一時に内地へ追返すと云ふことは到底経済上不可能な事だった。例へ自発的に公娼は廃業させても生るために或は性の必然的要求に余儀なくされて、遂に私娼の跋扈を如何ともする訳には行かなんだ、況んや旦那の名で彼等が国違ひについてる者を今更ら引離して追帰すと云ふことは到底出来ない相談でなければならなんだ。
 
出稼女の草分
 維新以降我国の海外発展が繊弱(かよわ)い女を先駆としてゐた事実は、甚だ日本男子に取って残念千万だったが今更ら幾ら悔んだ処が追着かない、淡路藩の稲田新之助は家老職の家柄に生れながら身を持ちくづしてマドロスの群に入り、御維新前亜米利加へ渡って探索方等になってゐたこともあったが、後厦門を経て新嘉坡へ流れ込み一かどの顔役となって神戸新の名を売り七十四まで長らへてゐた。
 「先で俺等が日本人の草分けさ、御維新前にも一度新嘉坡に来た事があった、其時分は毛唐だって今の様に偉張っちゃゐなんだぜ」と老人よく自慢話をして居った、神戸新が実際腰をすえて新嘉坡に落着いたのは何でも明治十六七年頃のことであったらう、彼は井上外務卿の発給した旅券を持って居た。
 古い仲間の太神楽一座で居残った博多の婆さんもだから恐らく同時代であったらう、サンダカンの名物女と有名だった木下くに婆さんが始めて南洋へ渡航したのも女盛りの二十八だったと云ふから、今から数えて四十七年前、矢張り其頃であった筈である、更に馬来のお豊婆さんなぞと現存してる連中がまだ二三人は確に居るであらうからとても男は偉張れない。
 然し新嘉坡に初めて日本娘が出現したのはまだそれよりも一昔前だったらしい、新嘉坡の丸の内とも云ふ可き土庫に近いジャパンステレツは彼処で後年澁谷銀次の妻君になったお安さんが芭蕉果を大道で売ってゐたから出来た名だと伝へられて居る。だから日本婦人がそんな古くから新嘉坡に渡航してゐたとしても彼等は決して最初から醜業を目的で来てゐたのではない事だけは確かに想像されるのだ、つまりは弱い女の境遇が余儀なく肉を切売りせねば生ては行かれなんだがためであったに相違ない。
 娘子軍の草分け横浜のお安が後年澁谷の妻君となったお安と同人なのか或は全く別人だったのか甚だそこらは朦朧たるものである。
 祖国を去って三千浬、東西全く知らぬ者ばかりの異郷に来て頼む良人に死に別れた若い未亡人が遂に陋劣な男子の誘惑に引摺込まれて醜業婦の群に陥ると云ふ事実は、必ずしも今でも珍らしいことではない。斯くして弱い女は外に生て行く方法が無いために遂に余儀なく貞操を売って惨忍な男子の玩弄物たる事を甘んじて居たのだった、況んや爾来同胞の誘拐師や嬪夫を生じて愈々浮ぶ瀬の無い淪落の深淵に幾万といふ哀れな娘が突落されてゐたのだった。而して、今や国威の宣揚と資本家の活躍に彼等の存在が甚だしく差障へるといふ、酷薄極まる理由に依って犬の子の如くに南洋から追払はれて仕舞ふたのだ。
 何れは弱き者、汝の名は女である、せめて蹂躙られた彼等の遺体に一片の香華を手向けてやるだけの同情があっても好いだらうと思ふのだ。人間の運命は境遇に左右される場合が多いのだ、善悪を論ずる前に我々は更に一層運命に柔順であらねばならぬだらう。
 我南洋娘子軍も斯くて五十年の歴史を残して淋しく消えて仕舞ふたのであった、枯骨空しく既に苔蒸して余りに古い話は今更ら尋ねるよすがもない、明治十七年の朝鮮事変に遅るゝこと二年、新造軍艦浪花、高千穂が堂々旭日旗を檣頭高く翻へして英国から回航の途、新嘉坡に寄港した頃にはもとより日本人街なぞ称すべき処はまだなかったが、紀州沖で難破した土耳古軍艦の遭難者を乗せて軍艦金剛、比叡が寄港した時には既に五六軒の女郎屋がかたまってゐたと伝へられて居る、
 時の金剛副長上村大尉が後年日露戦争で浦鹽艦隊を撃滅して威名を轟かせた提督が、当時一夜の契りを惜しんで態々彦之亟と署名した写真を置いて行ったのを、後生大事と持てる古い古い娘がスマトラの田舎にゐたそうだ。巴里の平和会議に特派さたれ〔ママ〕西園寺老公について行かれた若い近衛公爵にふられたと、彼南の女郎でいせといふのが泣いて悔しがったのと好一対、無智で世間知らず娘気質は何十年といふ時の流れを超越して少しも変らず保持れてゐたのだった、だが王公大将の尊貴さへ知られない天草や島原の百姓娘をして、誰でも男は卑しいもの、女の一顰一笑に靡かぬ者は無い筈だと自惚れさせるに至ったのは抑々誰の罪だったらう、其処にすさみ切った男の植民地気質の一片がありありと暴露されて居る様にも思はれるのであった、結局廃娼問題の根本は若い女の渡南禁絶に非ずして、男自身の覚醒に待たねばならないのだ、根本から新規蒔直しの南洋発展も確かりせねば危い。

花街の全盛時代
 何と云っても花街(ステレツ)の全盛は日露戦争直後であったらう、新嘉坡のハイナム、マレー、マラバの三街とバンダを加へて七百人に近い娘が店張着の晴手を競ひ、軒燈輝やくカキリマルバンコを持出し黄色い声を振り絞って盛んに客を呼び込んでゐたものだった、勿論白人娼家も軒をつらね卑俗な手風琴の騒音に足どりたどたどしく世の更けるまでマドロス連の唄声とダンスの音で賑ふてゐたのである。
 そして蘭領も其頃は瓜〔ママ〕哇、スマトラ、ボルネオと到る処に邦人の女郎屋が公許されてゐて等しく全盛を極めてゐたから幾ら娘を連れて来ても足らない程で西は蘭貢、カルカッタ、暹羅の盤谷から仏領印度支那の西貢、トンキン、ハイホンそれに新たに米領となったマニラが又盛んに日本娘を歓迎する、濠洲のブルームまでも遥々乗込んで行ったのであったから如何に当時誘拐団が活躍してゐたかは想像するのに難くないのである。
 戦勝気分に酔ふてゐた同胞は随分山奥の片田舎にまで売薬や雑貨の行商に出掛けたし、吹矢と云ふのが非常に流行ってボロイ儲けもあったのだが、やっ張り女郎屋の景気には到底勝つことが出来なんだが、スマトラのジャンビは漸く叛乱平定して討伐軍の将士続々引揚げつゝあったからでもあったらうが、アタツブ葺の掘立て小屋に過ぎなんだ邦人の女郎屋が順番の来るのを待切らない兵隊の群に遂々引ツ繰り返へされて仕舞ふ程だった、一晩に一人で五十人六十人と云ふとても信ぜられない程の客を取った当時の全盛振りを未だに忘れ得ない古い娘だって或は居るかも知れないのだ。
 馬来半島でも錫で賑はふ一保付近の好景気時代と来たら全く凄じいものだった。
 殊にメダンの煙草園が栄え石油坑が続々開発された当時の景気と云ったら実に素晴しいものだった。ロマテン氏の繁昌のみならず、若い白人に仕切られる彼の界隈一帯に所謂旦那持ちが瞬く内に千人を突破したのであるから、其等を顧客とするメダン在留邦商の鼻息と云ったらなかったのだ。だから女郎と云っても馬鹿にはされない、彼等娘が直接需要し或は客や旦那にすゝめて買はせる日本雑貨が即ち当時の対南洋貿易で、九州の或村の如きは全く南洋へ送る桜紙ばかりを年中漉てゐたのだった。
 然し全盛時代の馬鹿々々しいまでに栄えた景気のことを回顧して見ると全く夢の様な気がするのだ、スエズを越え印度洋を乗り切って幾週間振りかで新嘉坡に上陸したマドロスの群がすはるゝ様に花街の紅い灯に引付けられたのは決して無理ではなかったらう、然も彼等は殆んど一度や二度の登楼で其目的を達することは出来なんだ、それ程当時は客も詰掛けたし娘気質も荒かった、五弗の揚代金は必ず段階梯を上る前に取られるのだ、而して漸く寝かされたと思ふと大概は林檎の一個も食はされたばかりで追払はれるのが常だった。だからたまさか洋袴のポケットから光りまばゆい金貨でもつまみ出して見せ様ものなら態々朋輩女郎まで呼んで来る。女将までが乗出して卓子の下にバケツを忍ばせ片ツ端から麦酒をあけてはグデングデンに盛り潰す位は何処でも普通にやってゐた。揚代金は娘と山分で飲物の利益は総て楼主が取るのであったから、勢ひ客に沢山飲ませる娘が働き者として可愛がられてゐたのである。
 又彼れ程金銭に穢い南京も女にかけてはのろいもので、幾ら到る処の花街が彼等支那人から多額な金銭を絞り上げたか殆んど想像すらもされぬ程であったに相違ない。軈ては身受けの金を存分捲上げるのみならず、せっせと通ふ間でも結局娘の身のためには東家が一番好い客であったのだ。
 馬来人は持ってるだけをパッパと使ふ性質だけに田舎の客としては寧ろ日本娘に比較的好かれる素質を持て居るのだが、例の恐ろしい惚薬を使用すると云ふので兎もすると危険がられてゐた様だ、特にバレンバン人は尤も物騒千万で、先年三人も同地の花街で日本娘が殺害されたが遂に犯人は逮捕されず其儘になって仕舞ふたのである。それから一番嫌がられてゐたのは体格の図抜けて大きいバンガリー、裸足のキリンを客に取るのも最初はツクヅク情けなく思はれたと云ふのは蓋し偽らざる告白であったに相違ない。
 日露戦争の結果浦鹽から西伯利亜の奥深く入込んでゐた娘が全部内地に引揚げたのであったが、南洋の景気を耳にしヂッと田舎にくすぼって居ることが出来ず、今度は熱い南洋へと河岸を変へて流れ込んだのも沢山ゐた。然も煙管一本あればどんな荒くれのロスケが酔ッ払ってもビクともしなかったと云ふ。胡沙吹く風に鍛え上げられ火の様に強烈なウォツカでたゞれ切ってる彼等の侵入した事は、確かに素朴その物で温順しかった南洋の娘気質に大なるショックを与へないでは置かなんだ。然もこの暴君にも等しいアバズレの侵入がいやが上にも新嘉坡花街の景気を引立て番号入りの軒燈にどれ程光彩を加へたかも知れなんだ。白馬や三ツ星印のブランデーをあほっては腰つき怪しい露西亜ダンスを踊る日本娘の狂態を、印度洋の怒涛にもまれ抜いて来たマドロスが如何に喜び迎えへたかは、想像するだに笑止千万の沙汰だった。
 一人の客で一晩に四打の麦酒をあける位は珍らしからず、揚代以外に十弗や廿弗の小使を娘に呉れて行くのも少なくなかったから、月々郷里へ七八十円づゝ送る娘はザラだった。斯くて南洋へ南洋へと島原、天草辺の娘等の心をあほり立てたのも思へば悲しい昔語りとなって仕舞ふた。

娘気質と女郎屋の内輪
 英領では華民保護局、蘭領でもスカオと云って極く下層賤民の営業を取扱ってる役人に依て日本の女郎屋も亦取締られてゐたのだった。だから花街即ち在留邦人の全部だった時代には一等国民だなぞと威張った処で追着かなんだ。
 花街には一切電話を引かせない。若しも彼の界隈で暴漢に襲はれ負傷した処で、卑しくも紳士たる者が立入る可き処でないと云ふので警察は取上げないのである。それ程英領では醜業婦を公許してゐても特殊部落とみなして居たのであるから、日本人街即ち花街と云はれた時代は情なかった。然し流石に蔑視されつも衛生状態は勿論のこと家の廻りに到るまで邦人街は何時も掃除が行届いてゐたのを保護局の役員も認めてゐた。
 黒繻子の襟の掛った半纏を羽織、下はサロンをはった一種珍奇な風俗をした娘等自身が往来の溝まで毎朝掃除してゐたのだった。一体に南洋の邦人女郎屋は娘の稼高の半分を毎日毎日取上げるだけで、後は殆んど何等の干渉もせなかった。外出も勿論自由、食事は大概五六人で一人の南京コックを傭入れめいめい自炊であったのだ。病気に対する施設もやっ張り自弁で、それは花街全体が共同して経費を負担し、一人の外人ドクトルに委〔ママ〕頼し一週二回づゝ診察を受け、必ず其証明書を所持して居らねばならぬことになってゐた。
 其上在留邦商と楼主の関係上絶えず着物や化粧品等も無理に買はされるのだから娘は中々小使がかさむのだった。殊に田舎に行けば随分法外な値段で押付けられるのであるから耐らない。先づ三年で前借を皆済して自前になるのが普通だったが、必ずしも男に入揚げずとも病気にかゝれば到底借金は抜けなんだ。而して前借と云ふのは誘拐師へ支払ふた以外、店張着はもとよりベッドから室の道具一揃ひも必ず買はされたのであるから、初店のそもくしから既に千弗近い借金を全部の娘が背負はされてゐた勘定であったのだ。それにしてもまだ其前借を返すのに三年が普通だったと云ふのが不思議がられてゐたのである。
 随って南洋の女郎屋稼業ほど呑気で儲けの荒い商売は一寸外には類がなかった。それだから例へ国賊と呼ばれても悪魔外道と罵られても一度手を染めたが最後もう決して泥田から足を引抜かうとはせなかった。
 嬪夫と睨まれたら直ちに退去を命ぜられた。更に政庁の目をかすめて舞戻ってると知れたら有無を云はさず終身懲役と云ふ峻烈極まる法律がある事を承知で、彼等は図々しくも可憐な娘の生血をすゝって果敢ない栄華の夢を貪りつゝあったのだ。領事夫人に向ふてさへ姉さん幾らかと冷かした土人があったと、醜業婦問題を口にする人の総ては憤慨するが、それよりも太い金鎖をこれ見よがしにダラリとさせ、大巾縮緬の帯をゆるく腰に巻きつけた嬪夫野郎が豪然一等車内にフンぞり返ってゐた当時の事を思へば冷汗覚えず背中を霑すものがあったのだ。無智文盲な彼等に良心の有りや無しやを問ふのは或は無理であったかも知れないが、尤も国家の威信を傷つけたのは哀れむ可き娘等にあらずして、実に是等女郎屋の寄生虫であったのである。
 然し幾ら田舎娘だと云っても余りに物がわからな過ぎると確かに涙が出るほど腹立たしい事実もあったのである。親の貧苦を救ふ可く吉原へ身売りするのを孝行だと教へ込まれた徳川時代の考へが何時になったら果して拭洗されることだらう。踏まれても蹴られても主人に対する義理だけは断じてそむく事が出来ないと思ひ込んでる奴隷根生〔ママ〕から解放されねば日本に遊廓制度はなくならないのである。英国の法律は醜業婦中の借金は総て足を洗へば消滅すると規定されて居るのである。然も誘拐されて来た上に不条理極まる借金を背負はされ、泣いて其日を暮しつゝ猶且つ政庁吏員を偽っても偏に楼主に対して義理立てをせねばならぬと思ひ込んでゐたとはよくよく南洋女郎は因果な生れつきであったのだらう。
 モアの或る女将は死んだ良人の良心へ十何年も仕送りを続けてゐた。実に感心な婦人であると写真まで掲げて郷里の静岡新聞が書立てゝゐた程であった。処で愈々廃娼断行の時期も到来したから店をたゝみ娘等も連れて一所に引揚げたらと勧めたが、女将は怎うしても聞かなんだ。女郎屋を廃めたら老先き短かい両親を誰が果して養ふて行くだらう。死んだ良人に対しても廃めて帰る事は出来ません。殊に良人の郷里では真逆女郎屋をして、金を送ってるとは知るまいから、愈々以て今の場合は帰れない怎うかも少し見逃して呉れと云ふて聞かなんだそうである。節婦か妖婦か、寧ろ記者は彼等を生んだ社会を呪ひ度くならざるを得ぬのである。
 一保の仏人技師に仕切られ何不自由もなく暮してゐたみさをと云ふ美人、彼南から遊びに来た柔道教師に口説かれ、無理に主人に暇を貰ふて男の道場へ行って見たらチャンと妻君が控へてゐたので、ツクヅク日本人の軽薄さに愛想を尽かし、折柄廃娼断行で朋輩の多くが引揚げるのを幸ひと一所に郷里の天草へ帰った。処が両親は非常に怒ってまだ幾らでも稼げる身体を持ちながら何のために今頃帰って来た。そんな不孝者は家へ入れない。殊に女郎屋が無くなったとすれば是れから月々仕送る事も出来ぬだらうから、一度に纏めて三千円だけ工面して送らねば承知しないと怒鳴りつけたそうである。
 仕方がないからみさをは又一保に舞戻り、親切な旦那の家へ帰ったのであったが、然し三千円をすぐ送る工面は怎うしてもつかなんだ、怎うなるものかと遂に心を鬼にして恩義ある旦那にピストルを差つけ自棄糞になって三千弗を強奪して国へ送り、捨鉢になって馬来の遊び人と一所になり、姉御気取りで果敢ない其日を送って居るのだった。一途に醜業婦をのみ国辱だ、同朋の態面に泥を塗るものだと罵る前に記者は其親、其男の面皮をひんめくって遣り度いと思はずに居られないのであった。

女郎屋に残る怪談
 春秋二度の競馬に花街の娘が舞込んで出掛けるなぞ云ふことは殆んど昔はなかったのだ。琵琶とは義太夫とか浪花節とかたまには遥々旅芸人が廻って来る様なこともあったが、それも到って珍らしい事だった。だから三味線、生花扨は習字の師匠まで相応繁昌して退屈な暇潰しにあらゆる芸事を習ふことが流行ったが、そら猪鹿ですばい。にむろですたいと俗に六百券と云はるゝ長崎花をやるのが彼女等にとっては何よりの楽しみであり、又憂さ晴しでもあったのだ。実に南洋各地邦人の居るところ英蘭領何処へ行っても六百券はよく流行った。必ずしも花街ばかりでなく雑貨店や散髪店等の二階でも世のふけるを忘れて毎夜の如くに戦はれてゐたのである。然し娘の部屋で器用に巻て呉れる象印の煙草の煙を濛々と立籠らせつゝ、ビールを煽り男も女も無〔ママ〕中になってそら小三光だ。鉄砲だと一生懸命になることが如何に常夏の南洋に相応しい楽しみであったかは、親しく其場に臨んだことのない人には話した処が到底判らう筈はないのだった。
 還〔ママ〕境其物が非常に単調であったのみならず、何時も変らぬ気候では自然と人の心も苛つかざるを得ぬのである。だから花街の娘はだらし無い生活に飽き果てゝ絶へず恋の相手を漁って居るのだった。然し初手から馬鹿にし切ってる南京や印度人では物足らない。例へ若くて金使の綺麗な白人でも種族的障壁は怎うしても撤廃することが出来なんだ。だから楼主が特に日本人の客を警戒すればする程娘等は一層勤気はなれて持てなす様になるのだった。尤も古い時代には男の数も少かったし花街関係以外と云っては殆んど居らなんだのであるから客として上る様な者もゐなかったであらう。唯除外例として寧ろ却って歓迎されてゐた寄港船舶の乗組員が特に新嘉坡の花街に尤も濃厚な印象を残してゐた所以も或は即ち其為めであったらう。
 実際お客として彼女等が同胞に接することが珍らしく思はぬ様になったのは、邦人の護謨栽培事業が漸く盛んになって以来のことであった。而して

拓務省拓務局「海外拓殖事業調査資料第三十七輯 サラワック王国事情」昭和13年7月発行 ※1938年

第十六章「サラワック」に於ける邦人活動事情
第一節 邦人発展の経緯
 「サラワック」に於ける邦人発展の起源は詳かでないが、他の南洋地方にける〔ママ〕と同様娘子軍の進出を以ってその嚆矢とする。而して邦人活動に一転期を画した日沙商会の創始者たる故依岡省三氏の渡サした当時、在留邦人は約六〇名でこの娘子軍を中心とし、多少商業に従事する者があった模様である。(195頁)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1144362/116
 
蘭印事情講習会編「蘭領印度叢書 下巻」昭和15年9月28日発行 ※1940年

満洲、支那、南洋の如く労銀廉き地方には男性移民よりも寧ろ長崎出島の和蘭屋敷、或ひは唐人屋敷を通じてその生活に慣れた長崎、熊本地方出身の賤業的婦人の進出をみることゝなった。
 日本人婦人賤業者の南進も倭寇と同様、漸次南下を辿り、その基地は上海、香港、新嘉坡(シンガポール、彼南(ペナン)に達し蘭領東印度に彼女達の群が這入って来たのは明治二十年前後ではあるまいか。尤も明治の初年横浜より英人に嫁せる日本婦人が未亡人となり、陋巷にて賤業した事実はあるが明治十年前後の実数は微々たるものであったであらう。
 これら娘子群は日本男性さへ未知の土地に進出、聚落を為しては日本商品、日本事情の宣伝をも兼ね現在南洋に於ける日本商権の開拓功績は実に彼女等に負ふところが重大である。明治四十年代にはスマトラのメダンに五、六百名バタビヤ百余名スマラン六十余命スラバヤ二百余名遠くロボには実に四、五百名の紅裾が活躍し後輩日本男性は彼女等の支援の許に今日の発展の基礎を開いたものであるが、当時の情況を想起するに最も参考になると思へるスマトラ島メダン日本人会創立記を摘抜してみよう。

 マラッカ海峡を押し切ってラブアンの旧港から上陸した娘子群達は牛車に乗ってメダンに聚り相当数に達する頃、彼女等相手の雑貨商林商店が出来、次いで澁谷、小西等の商店が進出、これ等店主店員の娯楽機関「日曜会」と称する在留民最初の団体が出来たのが明治三十年正月である。其後邦人渡蘇(スマトラ)の数も漸増し、日曜会も漸次民団の色彩を帯び、遂に男子三名女子三名の委員が選出されて成立会の創立をみ、創立委員婦人部は主として寄付金募集に努力したるなど女性の存在が重視される。
 降って明治三十二年七月の筆記には、内地雑居(日本に於ける)の制が実施せられ、治外法権撤廃の公報に接するやいかばかり当地邦人等が喜びを緒にしたかゞ窺ふことが出来る。即ち、
「内地雑居、条約対等と相成りしに就ては日本人に於ては無論これ迄と違ひ、一層権利を振ふべき今日、他より嘲笑を招く事なからんことを決議し、以て後来の参考に供せんとす。」
などと云ふ趣旨の下に常に相寄り相会し、今迄支那の属国的冷視を受けてゐたものが、こゝに一躍欧米先進国と対等の国運隆進を見たのに狂喜してゐる。更に九月二十五日の同記録には、「在島日本人申合せ風俗を紊さゞるやう協議したるも充分の決議とゝのはず。」とある。これなどは当時の娘子軍の勢力が如何に強かったかを物語るものである。
・・・特に女性の多かりし当時とは云へ、バルチック艦隊がマラッカ海峡を通過北上すると伝はるや娘子群は競って寄金しては男子を要所々々に見張らせる等、大和女性の気性を海外に出ても飽迄も堅持してゐるのは面白い現象で、当時の記録には左の如く愛国の至情に燃えた文が書きつらねてある。
「旅順陥落祝勝会によって溜飲を下げたる在留邦人は一層緊張の色を見せたり。殊に或る者はサアバン岬頭に月余を過し、バルチック艦隊の出動を今日か明日かと凝視したるものなり。遠く印度洋の水平線上を警戒して眺め暮したる憂国の志士も生ぜしなり。」
とある。日露戦捷は、実に彼等在留邦人に驚くべき進境を与へ、在留欧洲人の長き侮蔑的態度を一掃すると同時に、奥地土人にまでも新たなる脅威の目を見開かせてしまった。
 恁うして娘子群相手の雑貨屋は時勢に目覚め日本美術雑貨を輸入販売するや羽が生えたやうに売れ出し、澁谷、松崎商店などは完全な地盤を作り、各地に支店を盛んに設けたものである。明治四十二年二月バタビヤに領事館が開設せられ、初代領事染谷成章氏が赴任するや自然この地の日本人協会もバタビヤとの交渉が頻繁となる頃、対岸の馬来半島方面では邦人の護謨栽培熱が勃興して来たのであったが当地の邦人商店はそんな事には目も呉れず、専念各自の業務に努力して、年額五万盾の商取引を為す者さへあった。
 ◇   ◇
 斯くの如くメダン地方は矢張り女性群が先行し男性が漸次増加して日本人の地位は国力の伸張と共に発展向上を辿って来たが、東印度の他の地方では如何であったであらうか。
 バタビヤの娘子群の最盛期は明治四十年前後の百余名を最高とするが、ケルト街の共同墓地には明治卅八年卒云々の日本式墓地がある点から考へても日清戦争前後から相当数の同族が居たものと察せらる。
 これ等女性相手に雑貨商兼旅館兼女郎屋を開業したのが明治卅四、五年頃創立の日本館であるが、日本館には常に多数の日本男性が漂着しては売薬、雑貨の行商に出かけ、更に同館は後年活動写真館の経営に着手、西部爪哇邦人間では飛ぶ鳥を落す勢であった。日本館に世話になって現在爪哇で成功せる者はバタビヤの久保辰二氏、植竹眞吾氏、玉木茂市氏、バンドン市の木田氏、トロアグンの矢部氏、建源公司日本支店長大橋亀太郎氏、ケデリの中村福松氏等である。
 ◇   ◇
 スラバヤ地方に於ては、依然女性の渡来が男性に先行してゐるが、その数はバタビヤに比し約倍の二百余名に達してゐたのは商都スラバヤの好景を物語るものであらう。
 之等日本人の渡航は新嘉坡、香港経由により当時は南洋郵船が未だ開始されぬ時代で真珠貝採りで黄金境を現出した濠洲、ロボー地方への中心地に当りボツボツ男性の到来もあったやうになったが、日露戦争直後新嘉坡経由で西村某なる者が初めて売薬行商員を連行し来って原価四仙の千金丹が一盾で飛ぶやうに売れたと嘘のやうな実話があるが、明治四十三年代に後ると市川直太郎氏が博愛堂病院を開業し無職新渡来達の梁山泊と化し或ひは長崎医専第一回卒業生の高橋保氏は本職を放棄して雑貨商を開業、女郎相手にチリ紙呉服太物を売り、官憲、華僑方面に絶大の信用を得て名誉領事の観あり、更に濠洲新嘉坡、爪哇にかけての大親分上田丑松氏の如きは雑貨、女郎屋を開業するなど男子のみでも既に百五十名の多数に達してゐた。
 さてスラバヤに於ける当時の娘子群の勢力を物語る次の如きエピソート〔ママ〕がある。
 大正三年には和蘭独立百年祭が東印度各地でも催されたが、在スラバヤ法人は之を奉祝すべく、準備七十五日もかけて百余命の武士行列を為したがその実費四千盾を日本共済会でどうしても支弁せぬ。そこで当時の顔役北元隆、奥山英次郎、安田馨、上田丑松の四氏が檄を飛ばして寄金にかゝったら即座に六千盾も集まり四千盾の実費を差引き残りで、大型ランチを借り切り豆灯堤の満艦飾を施し在留邦人男女三百五十名を乗せて終日マズラ海峡に清遊を試み一日にて二千盾を消費したとの豪華な思ひ出もある。
 また同奉祝祭に和蘭人側より日本の剣道を市民に観覧せしめたしとて出場を頼まれたが、その呼名がサムライ、ダンスとの申込みでは、吾々武士道精神を理解せぬも甚だしいと即座に拒絶するなど、女郎屋の連中にも仲々よいところを持ってゐたものである。
 ロボ地方の如く、爪哇より遙か遠隔の地に明治末期既に四、五百名の娘子群が活躍してゐた事実は奇異の観がある。同地方は真珠貝の産地として有名なところで邦人漁夫相手に半年はロボに暮し、漁夫が沖に出漁した半年は周囲の島々に出稼ぎに行ってゐたやうである。

三、商業移民時代
 明治以後に於ける日本人の南洋進出が上海、香港、新嘉坡を経て東印度各地に発展いしたのは前述のとほりである。特に娘子群のそれをみると別嬪は先づ上海、香港に留まり、若干見劣りするのが新嘉坡、彼南に渡ったものである。東印度で最も早く多数渡来したメダン地方への娘子群の殆んど大部分は、偏目か跛かの片輪者が新興農企業地に働く白人達の相手となった事実があり、男性にしても北で食ひつめた連中が邦人の尠い南方へ漸次落ちて行った傾向があった。斯る意味から東印度に渡来せる古い時代の男性邦人中には若干他の地方に比較して娘子群同様見劣りする点が当時の活躍状態で察せられる。
 それが今日に於てみるとき南洋各地の在留邦人中爪哇に在留する者の質が一番向上してゐるから面白い。
 この原因の一つとして先づ挙げねばならぬことは、爪哇人口の稠密さと物産の豊富さ、更に明治四十二年二月にバタビヤに創設された日本領事館に赴任せる、初代領事染谷成章氏の努力と在留邦人のこれに対する協力を想起せねばならぬ。
 即ち染谷領事は赴任以来在留邦人の将来的発展性を考察して、娘子群依存より堅実な商業的発展を為すべしとの慧眼の許に之等関係者の自廃を要求し、再渡航又は呼寄せを厳禁した為め新嘉坡より十数年早く娘子群の姿が爪哇スマトラ其の他より漸次没し去り、替るに商売人が陸続と現れて来た。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1160111/137

入江寅次「明治南進史稿」唱和18年3月15日発行 ※1943年

四 娘子軍進出事情
 新嘉坡帝国領事館開設以後の、前掲管内在留邦人中、女性の数の多いことはどうであらう。而してその殆んど全部が、謂ふところの娘子軍なのだから、驚くばかりである。このやうな状態が、ずっと第一次欧州大戦の後まで続く。単に南洋ばかりでなく、支那でも、満洲でも、同様な行方を見せたことがある。特に上海だの、香港だのは、初めからさういふ彼女らの基地であって、従ってその旺んなること、前記新嘉坡在留者数の比ではなかった。
 たゞ彼女らの活動のあとを見て、特に心引かれるものがあるのは、シベリヤ、沿海州のそれと、南洋一帯、濠洲の方まで含めてのそれとであった。
 彼女らが初めて新嘉坡に現はれたのは、明治三、四年頃だといはれ、それに当嵌る二三女性の名が伝へられるのであるが、これらは何れも初め外国人に連れられて上海に渡り、香港に着き、いつかその主人とも分れて、こゝまで流れて来たことである。
 幕末から明治初年にかけて、わが開港場に在留してゐた外国人は、大抵日本の女性を雇ってゐた。媬姆、子守、召使といふやうなのがそれであるが、純然たる娼妓、芸妓の類を、その抱主と契約の上で、期間をきめて身辺に置くものも少くなかった。当時これを呼入れといったのだが、このやり方は特に長崎在留のそれに多かった。そしてこれらの女性もまた、其の外国人と共に、海外にでることが出来たのである(第一章一参照)。
 長崎の女性達は、出島の蘭館時代から、異国人に対する一種独特の親しみを持ってゐた。支那人に対しても同様で、これら異国人と長崎女性との間に繰りひろげられた情艶物語が少くない。彼女達は親切でよく勤めたし、これに対する異国人の手当もまた悪くなかった。
 上海には明治元年に、早くも田代屋なる日本商店の開店を見、本来陶器商であるこの店に小間物類を取扱はせる程、本邦女性が在留してゐたといはれるのだが、果してどの位の女性がゐたものか判然せぬ。しかし何しても同地はわが長崎と相対して、本邦対支輸出貿易の門戸であり、且つ横浜、長崎からの外国船航路も早くから開けてゐた。
 而してわが輸出品の大宗が石炭である。明治元年、佐賀藩と英国がラバル商会(ゴロウルともいひ、実はGloverである)との共同で、高島炭坑の経営が始まり、その石炭が多く上海に向けられたやうである。これに次では海産物、茶などであるが、一方上海から日本に入って来る外国品も多く、このやうな関係からしても、長崎、上海間の内外人の往来は、当時既に相当賑かであった。
 わが政府は、七年、商用で頻繁に上海に往復するものに対し、特に一ケ年間有効の旅券を渡すことにした位である。この上海渡航手続きの大きな省略は、やがて雑多な人間をこれに介入させ、いろいろの手を用ひて、目的の曖昧な女性の進出を多くした。外国人に伴はれての合法的な渡航でなく、或は妻と称し、妹と称し、または全くこれを秘して船底に置いたりして上海に送った。後になると、石炭輸送船によるものが多く、船で汚れた女性たちが人眼を忍んで上海に上る様子が、何ともいへぬ風景だったと伝へられる。
 かくて香港の女性も殖え、シンガポールも殖えて行った。日本基督教婦人矯風会が、初めて太政官に対し海外に於ける本邦醜業婦に関する建白書を提出したのは、明治二十一年のことであるが、これは十九年二月、同会創立後間もないこと、大阪浜寺の石神亨といふ医師が、海外旅行からの帰途、新嘉坡に立寄り、同地の本邦女性の状況を見て心を痛め、帰来矢島輯子に対し、これについて何等かの措置あるべき必要を説いたに基く。(日本基督教婦人矯風会五十年史)
 しかし彼女等の進出は、必ずしも醜の一面だけではないのであって、その邦人の、特に南洋発展に寄与するところ大なるものがあったことは、蔽ふべくもないのである。ハノイ付近で、明治十八年死没女性の墓を見たものがある。ボルネオのおクニ婆さんで有名な、サンダカンの木下クニ、これは天草の女性だが、実に明治十八年にボルネオに渡って以来、一生を同地邦人の草分けとして、特に娘子軍の大元締として、異色ある活動を続けたことである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1281112/95

十二月十日
在朝鮮釜山元山両港の貸座敷及娼妓営業の者自今新に営業出願を禁ず。又従来営業者と雖も一旦廃業せしものは再び請願するを許さず。

矢内原忠雄編「新渡戸博士植民政策講義及論文集」(1943)

南洋に今行って見ると、日本の女が多い、皆さんが御承知でありますけれど子供を産む女はどうか是は別問題でありますが、子どもを産まない女が男より余計行って居ります。けれども二百五十年前には彼の種類の女は行って居なかったであらう、歴史を見てもああ云ふものが行って居ったと云ふことは見えないから男許りであったでありませう、

 南洋植民地視察復命書・台湾総督府警務官梅谷光貞

(二)、「マニラ」警察の実況
(7)風俗警察
表面公娼は認めざるも「ガルデイニア」に於ける醜業婦の巣窟は堂々たる一廓をなし華麗なる建築軒を並べて櫛比す。醜業婦は比律賓婦人及日本婦人とす、日本醜業婦の数は約二百に近かるべし
51画像目

日本人 第一次統計の二百八十七人より第二次統計の七百六十六人に増加したるを見るも此当時に於ける在留邦人の多くは彼の女子軍及此に付随する浮浪の徒輩にして欣ぶべき増加にあらざりしも最近護謨栽培事業の発展に連れ資本の投下に伴ひ着実なる邦人の増加を見大正六年新嘉坡本邦人口は三千五百余人を算するに至れり左に本邦人口を表示すべし。