日本軍の実態 体罰・私的制裁(1)
日本軍の実態 体罰・私的制裁(2)
日本軍の実態 体罰・私的制裁(4)

 そのため第一乙種の私に、本人の思惑に関係なく現役兵徴集の通知があって、翌年二月、予想もしなかった金沢市の山砲兵第九連隊に入隊するよう通報があり驚きました。私は兵種の持つ意味の深さは知らなかったが、軍隊経歴を有する父は非力な私が山砲隊入営の羽目になったことでショックを受け、私の前途を危倶してか、涙を流していたことが今でも思い浮びます。・・・
 こうして兵力増強の過渡期に徴兵された私の初年兵時代は、実に悽愴でした。
一、体力的な劣り
分解した砲身(代用)が両腕で持上がらず罰として昼食が抜かされることがしばしばあり。
二、大和魂の欠除
やればやるほど、疲れて砲身上げは駄目、「大和魂が入っていない。」と、どなられ。「魂だけなら誰にも負けません」と、いったら目から火玉が出るほど、撲られた。(190・191頁)

 だが泊りがけの演習の野営地で古兵に呼ばれ「二・三年兵の神様、仏様(古兵のこと)が徒歩で馬を挽いているのに、ド新兵のキ様が馬上で居眠りをしていた」と、気合を入れられ、口元が裂け血がほとばしるほど叩かれた。これは初年兵の私が馬に乗っていることに対する「いやがらせ」の最たるリンチだったと思う。
 こうして、何かというと「天皇に代って…」を口実に、苛責なき私的リンチを加えられた私達初年兵も、一期の検閲を終え、・・・(191・192頁)新田
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行先は熱河省承徳の第九独立守備隊の歩兵第十三大隊で、関東軍で唯一の実戦部隊で八路軍相手だと教えられ武者震いした。・・・漸く興隆に着いた。各中隊から初年兵係が新兵受取りに来ていた。夕食後、いろいろ注意や指示があった。目を閉じて聞いていると突然「眼鏡の兵隊眠っているな」「いいえ眠っていません目をつぶっているだけです」これがいけなかった。「貴様、文句があるか」ビンビン往復ビンタ第一号のお見舞いだ。軍隊生活で何百発と受けたビンタの始まりだった。・・・落後第一号でビンタ第一号の私は特に目標にされ、何かにつけ先ずビンタである。平手ビンタ、ゲンコツビンタ、上靴ビンタ、帯革ビンタ等ビンタオンパレードである。口の中は裂け、唇は分厚く腫れ上がって治るひまがない。歯はガタガタになり顔は腫れて変形した。
 射撃の成績が悪かった罰として「踵を上げ、膝を半ば曲げ、棒け銃をして腕を前に伸ばせ」をやらされた時が一番こたえた。一分間も過ぎると油汗が出て膝がガクガク体全体が震え出して悔し涙が流れ出す。腕が疲れて下がると上等兵が待ち構えて撲る蹴飛ばす。兵長はそれを見てせせら笑って上等兵に「モットやれ」とけしかける。入隊前に抱いた愛国心。帝国軍人の誇りとあこがれは無残にも打ち砕かれ新兵は哀れ私刑に戦く奴隷に過ぎなかった。(168・169頁)椎原
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私は二十一歳、臨時召集。一片の赤紙にて昭和十七年四月一日鳥取中部四十七部隊に入隊、連隊長沢貫一大佐、中隊長山根光夫中尉である。・・・
初年兵は飯上げ、兵器の手入れ、古兵の身の廻りの世話などで大変である。生水を飲み下痢が続き、皆困り、入院兵も出る始末である。私は水を飲まず、煮沸湯を飲み、何とか倒れずにすんだ。戦闘教練には毎日気合が入り、厳しさが増し、毎日のごとくビンタがとぶ。兵隊と背嚢は叩けば叩くほど良くなると言い、教育された。(87頁)小林
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甲種合格で、昭和十七年二月十日関東軍要員として西部三十三部隊(徳島)に入営の日を待ちました。・・・
 十日午前九時入隊、第二機関銃中隊福見隊に編入され陸軍二等兵となる。いよいよ兵隊としてのすべての基本教育が始まりました。銃器の分解、組み立て操作、内務行事などに秒を争う毎日で一日の日の長さ。十日も過ぎる頃には整列ビンタもそこここに始まる。
 四月、一期の検閲を終え、満州百六十六部隊二十大隊一中隊に轉属のため、思い出深き徳島三十三部隊を後にする。時に四月二十八日。五月五日前記中隊藤隊)に編入された。三年兵石川県、二年兵山形県、初年兵愛媛県という編成の中、同郡同町の者等おらず、愛媛県東宇和郡では私ただ一人という有様で、現役ばかりの部隊(独歩)でありました。
 編入の記念写真を撮り、中隊全員の会食となり、終って気長く一服しておりましたところ、急に古年兵の悪さが始まり、「初年兵さんよ南国四国から来て南方ぼけするなよ」との口上と共に食器もろとも机がヒックリ返され、内地よりまだまだ酷い仕打ちを受ける。(66・67頁)中川
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 私が入隊したのは、昭和十八年十二月一日。水戸東部第三十七部隊第三機関銃中隊であるが、私は、十五名の者と共に、大隊砲教育班であった。ここでの初年兵教育は想像以上に過酷なもので、教練はもとより、内務班では、禁ぜられているはずの私的制裁が堂々と罷り通っていた。後で判ったが、私達はいわゆる学徒出陣組がほとんどで、幹部候補生要員だったために、「貴様等は半年もすれば見習士官になって帰って来て対面するんだ。焼きを入れるのは今のうちだ。」という。
 上等兵や古年次兵の羨望のような感情が、憎しみになっていたようである。中隊長の精神訓話の時間に、居眠りをしたという廉で、一月中旬の、十センチ位も氷が張り詰め、背丈以上も深い防火用水槽へ飛び込まされたようなこともあったが、とにも角にも苦しかった一期検閲も終わった。
 翌十九年五月一日、一装用の上衣の襟に、伍長の階級章と座金をつけ、甲種幹部候補生として、豊橋第一予備士官学校に入校した。歩兵砲中隊、大隊砲第四区隊である。『鬼の天伯、涙の高師』といわれた練兵場での訓練は、初年兵教育にも増して酷しくはあり、時として、対向ビンタを課せられたりはしたが、同列同級であるので、私的制裁は全く無いので、水戸の部隊よりは、遙かに気が楽であった。(62頁)猪瀬
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 昭和十六年五月勤務地(旧満州国撫順市)での徴兵検査で甲種合格の言い渡しがあり、同年十二月十日朝鮮第四十三部隊に入隊した(北朝鮮咸興市)。
 演習を終え、ひとたび内務班に帰ると、精神教育と称し、古参兵の初年兵いじめにあった。些細な過失、失敗(①銃の手入れ不充分、②班内の掃除不良、③動作の緩慢等)でも初年兵の連帯責任として全員が罰をうけ(対向ビンタ、長時間の腕立て伏せ等)精神的肉体的な苦痛を味わった。(35頁)上田
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 入隊は丹波篠山の旧歩兵第七十連隊の跡で、中部第一六八部隊だった。教育は六ヵ月程だった。当時は私的制裁撲滅運動中だったが、昔から篠山連隊は健脚部隊として訓練の厳しい所だったので私的制裁も厳しかった。容赦なくビシビシやられたため、兵役免除になった者もいた。中でも私の第一機関銃中隊長は松実中尉といって、士官学校出身の現役バリバリで、特に教育は厳しかった。(386頁)後藤
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 昭和十八年一月十日、第四十五次補充員として第十三師団第六十五連隊第二大隊第七中隊(鏡六八〇五部隊)
連隊長   桜井 徳太郎
中隊長   熊谷 健弥
教官    越智 慎吾
の隊へ配属され、武功輝く伝統を誇る白虎部隊の健児となりました。・・・
 戦地において初年兵の教育を受け、一期の検閲も無事終わり、その間、各地の作戦に出動した部隊を転々と追及して沙市、涴市、老城等へと移動しました。第一小隊分哨一三名全員戦死、その他小さい損害も区々に生じたが、間もなく一選抜上等兵に入るという幸運に恵まれ、希望に燃えて毎日の軍務に精励しました。
 ところが好事魔多しとか、思いもかけず悪性の下痢病と熱帯熱に冒されて、その上、古年兵から前歯を折る等の暴行制裁を受け、苦しく悲しく辛い地獄の日夜を送り、遂には自殺を思いたつこと二回に及びました。(334・335頁)若林
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 その間に、若い補充兵が入って来て、私は擲弾筒分隊員となっていた。補充兵に対して古参兵は随分厳しくしていました。「食事後の飯盒などの洗い方が悪い」などと言って、我々に「補充兵を叩け」という。私は叩くのはいやなので、いやいやながら叩く。古兵は今度は私たち同年兵に「そんな生半可な弱い叩き方では駄目だ、こう叩くんだ」と逆に叩かれたこともある。(286頁)

 ある陣地で警備していた時、後方から食料が補給されないので、民家から米や鶏・家鴨・黒豚などを徴発する。しかし野菜が全然ないので栄養が偏り、私も顔が浮腫んでお多福のようになり、眼も見えなくなり陣地を降ろされた。その時、また古参兵に怒られ帯革で叩かれた。経験者でないと判らないが痛いですね、とにかく帯剣や弾薬盒を通す太い帯革ですから。特に体が弱っている上にマラリアにも患っているのだから本当に辛かった。(286・287頁)岡田
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 一週間たったら満州第一三一三一部隊(第一一二師団工兵隊)に転属となり、・・・新兵を迎えて、お客様扱いも二日間だけ、そのあとは事あるごとに「貴様らは一銭五厘でいくらでも補充がくるが、馬の方が貴様らよりも大切なんだ」と怒鳴られてビンタの嵐で鍛えられましたよ。・・・
この部隊は沖縄に転用された部隊の残留者を基幹に最近編成されたものらしく、あちこちの寄せ集めの兵隊ですから気合の点では今一つでしたが、何といっても関東軍の気合は未だ残っていましたからビンタは凄かったですね。私は入隊する時は眼鏡の予備共に三ッ持って出たんですが、酷寒零下二〇度の琿春ですからセルロイド製の眼鏡枠が凍って折れ易くなっている所へビンタですから、たちまち一つだけになってしまいました。(265・266頁)森重
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 昭和十九年十月一日、やっとのことで陸軍雇員(判任官待遇)、営外居住となった。三年余に及ぶ外地勤務者への軍のせめてもの罪滅ぼしといった感じである。しかし、それは僅か十日間で終わり、惨めな初年兵教育が待っていた。十月十日、今までは扱いは最下級でもメンコの数で威張っていた私達も、初年兵となってはどうにもならない。なまじ同じ部隊であることが気持ちの切り替えに災いし、何と哀れなことかという思いばかりが先に立った。
 教官は歩兵予備士官学校で島嶼守備隊長になるための特訓を受けた見習士官で、いざ南方に来てみたら、守備すべき島は既になく、思いもかけず気象隊に配属になり、書いたことなど無い天気図を書かされ、雇員に笑われていた矢先、オハコの軍事教練の教育である。班付は(全員ではなく中には大変人間味溢れる人もいたが)軍隊大好きの下士候上がり上等兵は、こんな民間人の集団のような部隊は快く思っていない。皆んな水を得た魚のように張り切ってシゴいてくれた。蝉(柱にしがみついてミーンミーンという)、鶯の谷渡り(長椅子間の腕立て伏せ)、各班回り(どうして気合を入れられているのか大きな声で申告して回る)等一通りの教育はして貰った。救いは、そんな教育が僅か二十日そこそこで済んだことである。(247頁)森
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正式に申せば、横須賀海軍通信学校第六十二期普通科電信術練習生として入校したのである。・・・
 練習生入校中で忘れられないのは、同県出身者の先輩に世話になったこと。辻堂演習で民家に宿泊し、江の島までの追撃戦で走り、足を痛めたこと。通信演習中一月の寒中で富士の裾野に雪が降り続く夜、教員の洗濯物が紛失して取調べられ、全員褌一つの裸になり木刀で尻を存分に殴られたこと、連帯責任での制裁である。尻の皮が紫色にはれ上がりやがて黒くなって行く、軍人精神注入棒で徹底的に叩き込まれる。
 学校より実施部隊の方がまだまだひどいと聞かされる。先任兵長が整列をかけ説教のあと古い兵隊より順次に殴られる。これは海軍の伝統的な制裁であり総ての者がこの制裁を受け耐えてきている。(207~209頁)

 内地を出て五十日の長旅であったが、心配された敵潜水艦の攻撃もなくて無事六月二十八日、第六十二警備隊に入隊する。所在地は、ヤルート環礁内のイメージ島である。・・・
 初当直は放送電報受信と、電報取次ぎである。取次ぎの仕事は受信した電報を暗号室にて翻訳したものを司令以下各科長に届ける仕事である。当直者以外は各種訓練、整備作業、陣地構築等の毎日であり、夜の巡検後は毎晩のように先任兵長による整列がかけられ、説教のあと精神棒(バッター)をくらう。古い兵隊より順次に行われ若い兵隊になるに従って数が増す。これは海軍の伝統的なしきたりというものであり、それも入隊後の平穏な時期のみであった。(212・213頁)根津
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昭和十八年五月十七日、待望のダバオ入港。ダバオは緑の中にある街だ。日本人も二万人ぐらいいてマニラ麻の栽培やラワン材の切り出しなどやっていて小学校も幾つかあった。市街の北方二〇キロのテブンコ小学校に着き、そこを兵舎として厳しい初年兵教育が始まった。・・・
 答えがまずかったり態度が悪いと、厳しく気合をいれられる。軍隊はとくに機敏な動作が要求されるので、のろいとビシビシとビンタを食らう。起床から消灯まで息つくまもなくしごかれる。(121・122頁)大矢
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 十二月一日、西部第三十二部隊に入隊し、歩兵砲中隊に編入され(中支那派遣軍要員)、・・・寒風吹き荒れる丸亀練兵場で、敬礼に始まる徒手訓練は緊張の連続、おまけに慣れぬ軍服に編上靴に巻脚絆、まるで田舎の蓮根畠に足を突っ込んだ感じで、友も同じだろうが身の動きままならずで歯がゆく、特に丸亀一周早駈けは顎を出し、教官の見えない裏側で呼吸を整え、示し合わせて走った。並んで走る駈け足では遅れたり私語を発する者には遠慮無く教官の鉄拳が飛んだ。(60・61頁)

 行軍中は休憩時よく「ボテ」た兵を見る。ビンタを張られる兵(主に同年)を見て涙が出る。(65頁)大原
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この列車の中で初めて我々の行先が北支大原電信第九連隊であることを知らされた。・・・内務班での生活は、話では聞いていたが、人間的な扱いはほとんどされず、僅か一年先に入隊した者が教育の名のもとに、僅かな間違いでもいろいろな方法で傷めつけ、全く人絹〔ママ〕を無視した行為を楽しみのようにして行っていた。
 こんな行為を見て見ぬ振りをしていた、将校、下士官、こんな行為が真に軍人精神向上に役立っていたのであろうか。・・・
 昭和十八年六月末頃、一期検閲も終わり、星二つの一等兵となったが、初年兵の標識は引き続き剥がされることなく、内務班での生活は相変わらずではあるが、多少要領も覚え、使役の合間を縫って鉄拳より逃げる方法を考え、夕食後は内務班に残らないようにした。(374・375頁)長谷川
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 五月十日に久留米第一陸軍予備士官学校へ入学しました。・・・短期間に、多くの大切な兵の命を預かる隊長に仕上げねばならぬ。教官側としては、訓練にも自然と熱が入り、我々はよく殴られましたがよく耐えて、昭和十八年十二月、同校卒業の日を迎え、晴れの帯刀姿の見習士官になりました。(371頁)河村
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・・・徴兵を待たないで海軍に志願し、昭和十八年四月二十日大竹海兵団に入団しました。
 海兵団の訓練は当然厳しかったが、皆新兵でしたので水兵としては、銃剣術などの戦闘基礎教練など一般的な教育は約三か月で、内務では精神注入棒で叩かれたのは当然でした。(357頁)末宗
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軍隊は昭和十五年徴集で、昭和十六年一月十日徴集兵(後に志願兵)として、舞鶴海兵団に入団したのです。
 入団して海軍四等水兵となり、昭和十六年三月十日、横須賀の通信学校へ入校しました。・・・
 私は青年学校に籍を置いていたが、海軍のことは九九%ほとんど教育を受けなかった。だから、海軍についてはまるっきり判らない。海軍用語は独特なので、陸軍の用語を使うと上級者から叱られる。
陸軍では「○○殿」、海軍では呼び捨て、陸軍では「○○閣下」というが、海軍は「○○艦長」と呼び捨てだった。そのようにあらゆることが、狭い艦内で生活するので簡単にしてある。敬礼でも、顔近くに掌を着けてやる。陸軍式に肘を張ってすると叱られる。私は子供の時から陸軍を見ていたので、中々矯正出来ませんでした。
 体罰では、精神注入棒という「バッタ」というので叩かれると歩けなくなる。しかし、叩く方が上手に叩く。こつがあって、無茶苦茶に叩くと内出血をおこす。ビンタは必ず拳骨、平手でやると鼓膜を破ることがあるから。
 しかし、ビンタを徹底的にやられると食事も出来ない。海軍は徹底的に鍛える。毎晩のように制裁の時間帯がある。就寝前約三十分ぐらい、烏の鳴かぬ日はあっても制裁をやられない日は無かった。(348・349頁)井沢
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 昭和十三年の徴集兵、四月の検査で甲種合格、入営は昭和十四年五月一日、歩兵第四連隊留守隊(仙台)へ入営し、一期検閲は七月末でした。八月上旬、同年兵の主力は中支の歩兵第一〇四連隊(第十三師団)に転属したが、私は原隊に残りました。
 原隊での初年兵教育は厳しかった。飯が食えない程でした。古参兵は満州帰りの歩兵第四連隊の人、朝鮮の羅南、関東軍帰り及び後備兵と何段階もいた。内務班は辛い、毎晩ビンタは消燈後で、何処かの班で始まると「あの音聞いたか」と、ビンタが始まる。その時はまだ私的制裁が多かったです。(330・331頁)加藤
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召集令状には「東部第六十七部隊(新潟県高田)入隊」とありました。
 当日、高田連隊から軍曹が一人見附駅まで迎えに来てくれ、部隊入隊は十一時過ぎであり、見附町からは二名でした。私は第五中隊(潮田隊)配属で第三班に入ったが、お昼に班付兵長から「今日お前たちの入隊日であるから赤飯と尾頭付のご馳走でお祝いする」と言われた。夕食時に初年兵がマゴマゴしていると、古兵の目が光り「何時迄お客でない、夕食からお前達初年兵の番だ」と言われた。
 翌日から古兵の目が光り、ビンタが始まった。当時私は初年兵の中で一番年輩者だった。また、班内には連隊一番の質の悪い一等兵の古兵がいたので、初年兵には毎日ビンタが飛び、辛い毎日であった。(320頁)

 私達初年兵は、十二月二十四日午後営庭に集合させられた。部隊長より「教育召集を解除し、同日臨時召集、同日附東部第六十四部隊(千葉県佐倉)に転属」の命令が出た。・・・我々初年兵は「今日からは原隊と違ってビンタ無しで眠れる」と思ったら相変らず、佐倉の週番上等兵にビンタを貰って眠るということで、軍隊という所は何処へ行ってもビンタが付いて廻ると思った。(321頁)

 南京から漢口の部隊本部までは中国の大きな船で揚子江を遡航し、三日ぐらいで到着した。・・・我々は対岸の武昌で一か月位の現地教育を受けることになった。・・・翌日から教育が始まったが、内地と違い気も荒い、下士官も古兵も野戦経験者であるから張り切っている。特に古山兵長は厳しかった。ビンタは力一杯、また軍靴の底で顔を捻る。軍隊生活ではどうしようもない。(322頁)

 昭和十九年九月、高山茂中尉以下初年兵が入って来たので、私たちは一か年の初年兵生活を終わって、古兵になったので大変楽になった。しかし、今度の初年兵は三十過ぎの年配者が多かった。私は自分の一年間の初年兵時代を思い、初年兵の面倒を見てやろうと決意した。同年兵の中には「申送りだ」とビンタを毎日とる者もいた。私は仲に入り初年兵を何度も助けたので感謝された。私は班内でビンタをやったことは一度もない。(323頁)長谷川
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 七月一日、天津、保定、聞喜を経て安邑(運城の東)着、歩兵第二二六連隊(第三十七師団―冬兵団)に着いたのです。・・・
 安邑には連隊本部があり、教育は黄河の方へ移動しての訓練でした。私の中隊は暑い盛り、風の無い畑ですから相当厳しいものでした。私は軽機関銃班でしたし、戦闘に行く前の訓練故、夜間を想定して、黒い眼鏡をかけさせられ、軽機関銃の部品を放り出し、それを捜させる。捜せないとビンタを張られ、夕飯を食べさせられない。軍隊の訓練は厳しいことは知っていても、理屈なくてもやられる。無茶苦茶だ。(302頁)伊藤
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 「重機には力の強い兵隊だけだ」と十一月中旬河北省南部、深県第二大隊第七中隊に配属になりました。現地教育ですから毎日が緊張の連続で、心身共に疲れました。
 昭和十九年一月十五日付にて大隊本部勤務を命ぜられました。この時点で中隊内における私的制裁(殴る)である上級者が下級者に対する暴力行為から開放され「ヤレヤレ」でした。(291頁)清水https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/05/O_05_289_1.pdf

 転属先は春二部隊第四中隊(北支派遣 独立混成第八旅団独歩第三二大隊第四中隊)であります。・・・初年兵教育の掟として、曹長は「兵は叩いて鍛えよ」との方針で、もう徹底的に鉄拳制裁を受け、一日に何十回も殴られた。今思えばよく耐え忍んだものとぞっとする(次年度兵より制裁禁止となった)。こうして毎日毎日叩かれ叩かれて自殺を何回も考えた程苦しみつつ、初年兵教育を受けました。(281頁)

 ちょうど黄砂に出会って帰隊、上級者の分を先にやり、その後自分の兵器等の手入れを終わった際でした。突然班長が来られて、班員の銃の検査を始めました。運悪く私の銃の黄砂が一部拭き残っているのが発見され、銃を班長室へ取り上げて私に返して呉れません。私はもう大変なことになり心からお詫びをしましたが、班長は一向に聞き入れてくれません。上等兵、古兵から気合を入れられたことは申すまでもなく、私は到頭泣きながら謝ったことです。でも聞き入れて呉れません。
 二日間食事もとらず、一生懸命に謝り続けました。しまいにはもう、どうしてよいか判らず、自殺も考え始めました。憎い班長を殺して自分も死んでやろう。物騒な考えです。また短い人生の生活の一駒一駒がとくに入営時の家族の、町長の、会杜の上役の激励の様子等が走馬灯のように頭をよぎります。食事もとっていないので、もう瀕死の状態で正常な判断力もない時点でした。
 お隣の班長の仲介でやっと許して貰いました。私の軍隊生活で忘れることの出来ない辛い辛い思い出です。(282・283頁)加藤
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衛生兵の勤務について話をしてみるが、歩哨、不寝番、使役などの一般勤務は無い。点呼の時は、週番士官、下士官の後について兵隊の健康状態を見る。一日の業務内容を衛生日誌につけて中隊長、人事係准尉に提出する。それが私の日課である。その間、兵隊で弱い人、頭の弱い兵隊にかさにかかっていじめる古兵もいた。緊張したり、叩かれたりすると小便を漏らす者もいた。(264頁)西岡
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 私は昭和十七年四月十日、福知山歩兵第一三五連隊歩兵砲中隊に教育召集の目的のために入隊しました。大正十年五月七日名古屋で生れたのですから、入隊は現役とほとんど一緒でした。
 厳しい訓練が毎日続き、夜は夜で野戦帰りの古兵が、なんらかの理由を付けて「弛んでいる」と総ビンタ、対抗ビンタなどいろいろやらされました。また、鴬の谷渡りなど、寝台の手摺りにつかまり、次の寝台へ渡る。体重を腕で支えての連続で「ホーホケキョ」など鳴き声までして、家の人には見せられぬ姿でした。
 これが軍人魂を鍛える方法とか言われておりましたが、古兵の人によって違い、教育のための人と、個人的なものと、あるいは家に帰れない腹いせや、自己顕示したいのもいたのです。しかし、その後の苦しい戦場での経験、終戦直後の物資の乏しい生活において、耐えることができたのは、この初年兵時代の屈辱に耐え得た試練克服のお陰ではないかと思っております。(221頁)奥村
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 昭和十七年五月十七日付で私も教育召集を受け、善通寺の輜重連隊、騎馬隊に入隊し、馬の扱い方を教えられました。・・・
 初めての日曜日に舎内休暇があり、分隊長は午前八時過ぎ外出しました。班内は兵隊だけ三十一名いたが、誰となく煙草を喫い出しました。午後五時前、分隊長が帰り、班内に入るなり「誰がこんなに煙草を喫ったか、全員廊下に整列」という。皆向かい合いになって並ぶ、右側一番の兵のビンタを叩き「軍隊のビンタはこういう要領だ。ビンタ始め」と言っておいて私は分隊長に呼ばれました。
 班内に入ると「原田、何故皆が煙草を喫うのを止めさせなかったか」といわれましたが「私には止める権限はありません」とはっきりいいました。分隊長は「よろしい」と言い、全員夕食を食べることを許され、全員班内に入り、分隊長に謝りました。全員、美味そうに煙草を喫っていました。(20頁)原田
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(陸軍兵器学校を)卒業が間近になった昭和十九年二月、開通して間もない関門トンネルを往復して佐賀市の北にある通信連隊で五日間、内務班で一般の兵隊と起居を共にした実習が行われた。軍隊の内務班の実態はこういうものなのだとの実習である。教練には参加しなかったが実習中に雪が降り、広い営庭が真っ白になる大雪だったとのことでした。
 軍隊では殴られると聞いていたが、その実態を見て、なるほど別世界だと感じました。夕食が終わると古参兵が、何かと理由をつけて殴る。素手ならまだしも、木銃で殴る。けがをしないかと心配しました。これが毎晩あるわけです。一番奥の窓際にも古参兵がいました。この兵長は現役の外、二度も召集されて弾丸の飛び交う実戦の場を何回も体験した歴戦の兵隊で、教練はすべて相済みだと、日中でも班内にいました。
 私たちとその兵長だけで懇談しました。いろいろの話の中で、毎晩だれかが殴られていることに質問しま「古参兵が毎晩だれかを殴っている。昨夜殴られた者には殴られるほどの理由がなかったと思うのに、最古参兵の貴方は見て見ぬ振りをして止めようとしない。何故か」と「叩き上げた兵隊でないと、弾丸の飛び交う戦場で使いものにならない。おとなしく教えただけでは撃ち合いの戦場で腰が抜け、犬死にしてしまう。国のためにも、本人のためにも、度胸のすわった、戦場で立派に役立つ兵隊に仕上げるために叩くのを止めないのだ」と言う。「戦場は殺すか殺されるか、勝つか負けるか、命がけの戦場であるぞ」と戦闘の模様を話された。年配兵長の風格からも、この説明を納得したのである。軍隊は一般社会とは違う別世界であります。(423・424頁)飯野
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 昭和十九年十月十五日、沖縄守備軍である第三十二軍、與那原の重砲兵第七連隊(球四一五二部隊)に入営しました。・・・初年兵のうち十二人が選ばれ、連れて行かれた部隊が重砲連隊でした。将校は北村少尉で大変かわいがられた。初年兵が古参兵に制裁をされるとき、私は通信室勤務に行かされた。通信室は秘密で、部隊長・通信将校・下士官しか入れない。制裁しようと古参兵が追い掛けてきても室には入れない。(403・404頁)島袋
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 入営は昭和十八年九月一日、九州太刀洗の第五航空教育隊でした。・・・
 教育は一般の兵科も一週間に二回ぐらいやるのですが、その他は主に航空写真機の修理の教育です。第五班だけが特殊技術の教育で、鎗(やすり)の使い方から教育を受けます。私は鉄工場で既に修得していて、内務班でも技術は右翼(上位)でしたし、班長の受けも良く、下士官当番でした。
 そのため厠(便所)当番や食事当番もやらずに恵まれました。これがかえって古参兵の意地悪というか、私的制裁には随分あいました。「急降下爆撃」というのは、足の爪先を整頓棚に載せて頭は下に下げる。そのため頭に血が下がって、五分もしたら目眩みがする。連帯責任で戦友と対抗ビンタをやらされる。戦友の頬をこちらが打つ、戦友が私の頬を打つ、戦友同志だから手加減すると、古いのや先輩が「こうやるのだ」と、力一杯叩かれるのである。古参兵は案外やらぬが、半年前に教育を受けた前期の者から消灯後やられました。私的制裁に対しては部隊長はやかましかったし、中隊長も温和で、禁止になっているのですが、陰ではやられたのです(将校は営外居住で、週番士官しかいない)。(381・382頁)

 (病院での)食事はお粥茶碗一杯に梅干二個で二食、他の副食は何もなし、私の軍隊生活では一番苦しかったのです。そのとき、班長が病室まで来て「貴様たるんでいる」と私的制裁のビンタを随分くいました。(384頁)澤田
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 昭和十六年徴集、兵隊検査では第一乙種合格、十七年一月に現役兵として呉海軍兵学校へ入団しました。・・・
 入団は海軍工作兵とし四等水兵でした。海軍の訓練は厳しいことと覚悟していましたが、初年兵のときはえらかった。苦しみました。毎日のように精神緊張棒というバットで尻を叩かれる。自分はなんぼ良くても、戦友との連帯責任だから毎日叩かれるのです。(364頁)本田
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 私は昭和十八年八月七日佐世保第二海兵団へ、現役兵として入隊しました(甲種合格)。・・・軍人生活最初の苦しい思い出は短艇漕ぎ訓練です。・・・先ず第一に手に豆ができる。オールがバラバラで揃ってないと気合を入れられて叩かれる。・・・そうして入隊五カ月余りして今度は横須賀の海軍航海学校へ入校を命ぜられて横須賀へ移りました。通信教育です。・・・双眼鏡で相手の信号を読みとる。文章にして報告する。間違っていると上官から叩かれる。(359・360頁)石川
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 昭和十八年六月一日、新発田の歩兵第十六連隊に入隊、下関から朝鮮にわたり、貨物列車に乗せられて着いたのが上海近郊の浦口県城駐屯の中支派遣軍原第七九三六部隊第三中隊(小野大尉)です。古年兵は長野、群馬、栃木出身の現役兵で二十二歳、こちらは新兵だが三十一歳の召集兵、軍隊でもの言うのは飯の数ですから、イヤーやられましたね。酷かったですよ。一期の検閲まで毎日毎日演習で、着弾筒扱いの教育ですが、途中で足を負傷して小銃班に変わりました。演習が終われば銃剣術の練習で絞られました。
 内務はピンタの連続、苦痛の連続ですが、強い兵隊になるためだと自分に言い聞かせて辛抱しました。(349頁)渡邉
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「中支派遣第二十二師団第八十四連隊よりお前たちを引率する○○曹長だ。今後は班付佐々木上等兵の指導を受ける、よいな」と言い残して班内より去って行きました。・・・
 日が経つにつれ兵営の生活にも忙しさとともに馴れてきて、毎日実戦を想定しての厳しい訓練が続く。夕食後の学科は毎日のようにビンタ、くどくどと班付の文句、その後はビンタ。ようやく床に就いたころ、週番上等兵が木銃を持って班内を見回る。整頓棚の整頓が悪い、編上靴の手入れが悪い、兵器の手入れが悪い、毎日何人かがビンタの材料になる。二カ月、三カ月ころには「今晩もビンタか」と諦めの状態が毎日続く。(325頁)千葉
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昭和十三年四月、徴兵検査で甲種合格となり、昭和十四年一月十日に横須賀重砲連隊第二大隊第三中隊第六班に入隊しました。・・・誠に過酷な訓練で、疲労困値の極に達し、隊に帰る毎日でした。夜は古参兵の精神訓話とびんたを食う明け暮れでした。
 また、横須賀地区の「米が浜」砲台では、二十八センチ榴弾砲の操法及び海岸より侵入する敵艦艇の射撃を想定して、観測法一点図解の測定法の訓練です。班長に頭を叩かれ生傷が絶えないほどの厳しい訓練を受けたものです。(217・218頁)川島
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 昭和十七年徴集の現役兵として昭和十八年四月に各務原の飛行師団第一航空隊に入隊しました。・・・入隊後間もなく加古川の第二航空教育隊整備中隊に転属。ここで九月まで初年兵教育を受けました。教育内容は一般歩兵の初年兵教育と共に整備兵としての教育も加わりなかなか大変でした。
 また内務班の扱き(しごき)の厳しさは並大抵なものでなく、ビンタは第一日目から始まり、編み上げ靴で顔面殴打で顔面変容するすさまじさです。およそ内務教育の範疇を超えた仕業で、古参兵の日々の気分次第で扱き内容も日々変化がつけられました。
 編み上げ靴が損じたため修理に出した際、「貴様は新しい靴欲しさにわざと靴をこんなに壊してしまったのだ。そんな奴は営倉行きだ」と激しく叱責され、「そんなことはありません」と最後まで主張を曲げず頑張りました。お陰で身上調書に「強情者」と記入され、除隊まで軍隊生活の終始、この身上調書が私と行いを共にしました。(359・360頁)大野
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 昭和十四年四月、現役兵で和歌山の歩兵第六一連隊補充隊歩兵砲中隊に入隊、昭和十八年十月に宇品からスマトラに向け出発、スマトラ島の警備に従事し、終戦の年の一月タイに移動しました。・・・
 今の若い人には想像もつかないでしょうが、往復ビンタ、対面ビンタ、長時間の腕立て伏せ、鴬の谷渡りなどなど想像を絶するような体罰がありました。(260頁)西畑
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 昭和十八年徴集兵としては一番最後の三月二十日、現役兵とし東満州の東安省半載河、第三国境守備隊第五十部隊入営のため連隊区司令部の指示で集合、入隊手続をし、広島駅より軍用列車の鎧戸を下ろしたまま博多に向かいました。・・・内務班での教育も精神教育を通り越した初年兵泣かせの所でもありました。古年兵の洗濯や食事の世話なども義務付けられていました。私的制裁の禁止は強く指導されておったのですが、実際には、戦友同志の対抗ビンタ、帯革、上靴(革スリッパ)などで殴られることは始終ありました。(199・200頁)辻原
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・・・年明け後、現役兵現役兵(徴兵検査は昭和十七年兵)として昭和十八年九月十日入隊、千葉県柏第四教育隊(航空兵整備兵)として教育を受けました。・・・
 初年兵教育は内務班生活など、今思うとまるで毎日毎日が地獄、話のしようもなく、二年半も後の新兵が続かず、毎日よくぞ殴られたなと、よくぞ生き延びたと思います。(155頁)唐津
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 鏡第十三師団山砲兵第十九連隊の初年兵現地教育が始まった。・・・
 ビンタと言ってよく頬を殴られたが、奥歯を噛み締めているので、痛いと言うよりも痺れるが、頬の色が充血したり、唇が切れての後遺症が恐い。普通は往復ビンタである。・・・
山砲兵は本科、観測、通信の三部門で私は通信兵となった。電話線の架設、敷設、埋設と電線の結び方と解き方、トツートツーのモールス信号と、イロハの手旗信号などの基礎訓練で、少しでも違えばビンタである。(93頁)

 路口の土地塘に滞在中、命令受領の戦友が連隊本部の様子では、日本は降伏したらしいと、秘情報を聞いた。秘密情報が次々と波紋となって、小隊長の耳に入ったのである。すぐ呼び出されて殴る蹴るの暴行で、瀕死の状態となり入院した。神国日本は負けるなど絶対に有り得ないと言う。(95頁)佐藤
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 私も家は貧乏農家であったので昭和九年、満州事変中に軍隊志願、「数え歳十八歳」まだ子供だったと思うが図らずも合格し、昭和九年十二月一日、満州独立守備歩兵第一大隊第二中隊に入隊。所在地は奉天と新京の中間で開原というのみです。
 だが入隊して見ますと軍隊という所は大変なところだと思いました。先輩から聞いてはいましたが、これ程のところとは思いませんでした。夜になるとアチコチでビンタの音、何と申しても満州事変の二、三年兵がいたから私なども二年兵の罠にかかり、帯皮でたたかれ、鼻から血を出しました。「軍隊」は「運隊」と聞いていましたが、本当にそうだと思いました。(59頁)梶原
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 私は三九・九一度、名古屋気象台開設以来の猛暑だと言われた昭和十七年七月二十五日に中部第二部隊(歩兵第六連隊)に応召、第三中隊に入隊した。連日の酷暑の中、日中は猛訓練、夜は「ビンタ」教育三カ月半の後、名古屋市郊外本地ケ原陸軍演習場での七日間で第一期の検閲を終えることができた。(7頁)加藤
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 昭和十七年七月、現役兵として宮城県玉浦の東部第一一一部隊に入営しました。そこで初年兵教育を五カ月間受けました。この部隊は飛行部隊の整備大隊であって、整備関係の学術科が午前中の訓練であり、午後が一般の歩兵の訓練に充当されていました。
 起居は内務班で、どこの隊とも同様に厳しいビンタの繰り返しと、所持品の員数合わせに頭を痛める毎日であり、現在の若い世代の方々の想像もつかない苦難を重ねる毎日でした。(399・400頁)後藤
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 その時、一〇二期の練習生に決まっていて、神奈川第二相模野航空隊に入りました。詰め込み教育でエンジンの構造、修理を徹底的に仕込まれました。・・・一〇二期の同期生には上等兵も兵長もいました。私の階級はその下の一等兵でしたから、上級者の上等兵や兵長に随分叩かれました。(368頁)山本
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 昭和十三年九月十五日に第一補充兵召集で豊橋歩兵第十八連隊の補充隊に入隊しました。一カ月間歩兵としての基礎訓練を受けた後、衛生兵要員として一年間の陸軍病院における衛生兵教育を受けたのです。(329頁)

 病院での教育は軍隊ですから厳しかったですね。朝八時から夜五時までの教育でしっかりしごかれました。んか、疲れてコックリでもしようものなら同じ二つ星の先輩から鋲つきの上履きでビンタをはられ、頬が一週間くらい腫れ上がり、飯も満足に食べられなかった時は同じ階級の者にやられただけに癪にさわったね。

 出征間近になったころ、連隊演習が行われました。防毒面着装で夜間から翌朝まで走らされました。一時間もすると汗が防毒面のアゴのところにシッカリ溜るんですね。息は苦しくなり、たまらずアゴを浮かすと汗がドッと抜けて息が少し楽になるんですが、伴走している古兵がすぐゴツンと叩く、全く苦しかったですね。
 翌朝、隊長の講評があったんですが、その途中バタバタ倒れる者が続出し、一八〇名の中隊で、三分の一の六〇名が倒れる始末でした。私は直ちに背嚢を外して手当をしましたが、水を頭からぶっかけたのが一番ききました。体格の良い幹部候補生でも訓練が厳しいせいか胸膜炎になる者が多かったですね。(330・331頁)木下
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昭和十七年徴集兵で甲種合格となり、朝鮮平壤の高射砲隊へ入営しました。(308頁)

 平壤での初年兵教育は、内地の部隊同様内務班では当然バリバリやられました。内務班は六個班あり、先任の助教や班長が厳しい所は余計やられる。ビンタはほとんど毎日で、食事台の上に乗った古参兵が、上靴で頭を叩く。(309頁)石井
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昭和十八年五月二十九日、三島九部隊に入隊しました。・・・それから間もなく、朝鮮の釜山港へ上陸、貨物列車に乗って、どんどん奥へ。下車したところが満州。整列、行軍して着いたところが九二九部隊輓馬十五榴でした。

ある日、少年兵の馬が蹄鉄を落としてしまった。班長は自分の靴下を脱ぎ、馬の足にはかせて、靴だけをはいて馬屋へ帰った。そこで皆、制裁をくわされました。そんな日々の繰り返しでした。
 あるとき、自分は夜食をすませて入浴に行く時間だったが、行く振りだけをして、酒保へ入ってうどんを食い、タオルだけを濡らして帰りました。「自分は入浴に行ってきました」と言うと、「お前は入浴にはこなんだ」と上等兵に言われ、ビンタをもらいました。「お前はそんなに腹がへるのか?」と聞かれ、「はい、自分はひもじい」と言いました。そうしたら、次の日から戦友が自分の飯は減らして私にくれました。その時は涙が出るほど嬉しかった。(257・258頁)桂川
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 昭和十六年徴集兵で甲種合格、入営は昭和十七年一月十日、久留米の歩兵第四八連隊留守隊でした。本隊は満州の城子溝(牡丹江省東寧県)にあったので、初年兵教育は久留米の留守隊で行ったのです。・・・
 内務班ではノモンハン帰りの古兵がいるのであまり叩かれない。しかし、馬の飼いつけのとき、古兵が初年兵を連れて行き、帰りの凹地へ来ると叩かれる。手ではない、地下足袋の底だけので叩くのです。昭和十八年兵あたりになると体力がなく、召集兵は弱兵だから、我々現役兵と違って叩かれ方は少なくなりました。我々が三つ叩かれるのが一つくらいになりました。(251・252頁)

 馬部隊は、歩兵砲(後に連射砲も)、機関銃(大隊砲を含む)三個中隊、行季、通信隊などである。城子溝は傾斜の高原で、厩の行き帰りで凹地の他から見えない所である。動作が鈍い、馬糧のやり方が遅いなどと叩かれる。口で言われるより「こんな動作では一線に行かれぬ」と気合を入れられる。いざという時、このような厳しい訓練をした兵や隊の方が早かった。馬部隊は連帯責任ですから。(253頁)

 次に冬期演習のことですが、ウラジオストック近くの山の鞍部の下の谷間に戦車壕を掘ります。ソ連側から見えないように幅四メートル、深さ二メートルで長さ五〇メートルのものを各隊受持ち、一カ月間の訓練期間で大体完成する。どんなにつらくても、ノルマはやりとげなければなりません。兵隊は交代・交代で作業する。交代しないと軍手、毛糸手袋三枚でも凍傷になってしまいます。
 この作業も期間と作業が決められてあるので、各隊競争ですから一番気をもむのが分隊長クラスです。したがって、兵隊は気合が入らぬと叩かれる。結果的には叩くことが必要になる。叩くことは鍛えることで、それで強い兵隊ができた。特に我々九州の人は気性が激しい、「九州の兵隊は強い」とだれからも言われていました。(254頁)白川
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 昭和十六年徴集兵で甲種合格、昭和十七年一月、現役兵として、兵庫県の篠山連隊に入営しました。・・・関西の人とは言「関東のボンクライ」などと言われたり、内務班は厳しい、毎日ビンタを食らっていました。やはり県民性の違いもあり仕方がないのかもしれません。(239・240頁)

 初年兵のとき「背嚢と初年兵は叩けば叩くほど良くなる」と叩かれました。演習から帰ると、枕に赤いチョークで金魚が書いてある(金魚は水が欲しい=枕カバーを洗えという意味)し、整頓棚の衣類が木銃で落とされていたときが度々ありました。軍隊は階級ではなく、メンコ(食事の数、年数)の数です。したがって古い兵隊に言われれば、初年兵を叩きたくなくても叩かねばならぬときもあります。しかし、私は初年兵教育を何回かしましたが、叩いたのは三回だけでした。軽機関銃の部品が紛失して、演習場を一列になって這って探させられた経験がありました。これも教育の一つの方法だったのです。(241頁)

当時は伍長で責任者になっていましたが、中隊長は候補生の時叩いた人でした。その時は候補生が返納した衣服にシラミが付いたままだったからです。(242頁)手塚
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 下関から関釜連絡船に乗船。釜山より列車で朝鮮半島を北上、平壤、新義州、鮮満国境を越え、満州国東満総省東寧の満州第二九二部隊に転属となりました。・・・
 初年兵の心境は経験者でなければ分からない。勤務、演習ばかりか、軍隊の家庭ともいう内務班の生活、私的制裁は禁止されてはいても、人間性を欠如した、私情にかられビンタを取る古参兵や上級者もいます。教育、鍛錬の名を借りて、暴行する者もいます。特に満州はひどかったと、戦後述懐している者も多いのです。
 あるとき、冬の凍てつくような零下三〇度の異国の夜、同年兵がいじめに耐えきれず逃亡、外庭の鉄棒にタオルを巻きつけ、首をつって死んでいた。終戦後もそのご両親には本当のことは言えぬ悲劇もありました。(229頁)酒井
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 昭和十七年一月十日、現役兵として、香川県善通寺の西部第三十七部隊へ入営です。・・・善通寺では工兵連隊第一中隊第一班へ編入されました。・・・新兵も大工、鳶職、土方、漁師たちが大部分です。(217・218頁)

 内務班内では古兵が新兵にゴボウ剣を投げつけてくる。危険この上ない。とかく工兵とはやくざと暴れん坊の集団と知らされる。スリッパ(上靴と呼ぶ)の踵の部分でビンタをはられる。十五回くらいまで分かっているのですが、それ以上になると倒れて意識も不明になります。もう死んだほうがましじゃと戦友同志慰める言葉もなく涙を流すのです。もちろん口の中は切れて腫れて食事もできない。初年兵のあの頃の辛さ、きつさを思えば、人生何一つ恐れるものはない。一生涯生き続けて行く上の尊い試練であったと思います。それでないと気持ちの納めようがありません。
 虎林では教育訓練のみで、作戦討伐はなかったのです。警備というが実戦はなく、それだけに演習も内務もきつかったのでしょう。
 また、同年兵の戦友に私が金を貸したという誤りの事件が発生、私は班長、古兵に半殺しにされるほど叱られましたが、最後まで黙って耐え忍び、後で事の真相が判明して私の無実の罪がはれました。(222頁)福井
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「昭和十八年一月十日、佐世保相ノ浦海兵団に入隊すべし」との命令書を受け取りました。(169頁)

私たちは佐世保の兵隊でありながら横須賀の部隊に混合されたので、借りてきた猫のようにしていないと恐ろしいという。所轄が違うと犬と猫のように仲が悪い。階級が下だと直ちにバッター制裁。何か悪いことをしたとか理由があるなら仕方ないが、気合が抜けているからと言って叩かれていては哀れというしかありません。ですから目的地など聞くことはできないのです。(171・172頁)

ここはラバウルの本島より少し離れているので飲料水に不自由するので大型トラックで水をドラム缶輸送です。そのため時間給水だが意地の悪い下士官がいて、時間外に「水をもらって来い」という。行けば主計科の先任兵長に大きなシャモジでいやと言うほど叩かれることは分かっています。ですからだれ一人として行く者はいない。下士官は立腹して、全員に「前ささえ」を命じられました。焼けた玉石の上に手の平で体を支える。痛さと熱さで汗は流れる。下士官に対し随分憤りを感じたのですが、当時は階級の差は如何ともなりません。ある兵長が代わりにあやまってくれて、やっと立てることができました。(179頁)佐々木https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/07/O_07_169_1.pdf

  三、N君の脱走
 某大の文学部卒のN君は、全く軍隊には不向きの性格であった。のろい動作、言語の不明瞭、内向で女性的な気合のなさ等々で、教育隊のなかで常に最後尾の存在で、気の毒なほど古参兵のいじめの目標にされていた。軍隊は嫌だ、不向きだと口癖のように漏らしていたようだ。
 ある夜その彼の姿が消えていった。兵営の外はすべて敵地である。その後彼の姿はついぞだれも見ることはできず、話題にすることすら許されなかったが、重なるつらさに耐え切れず脱走したのではないかと囁かれていた。
 彼こそは帰営しても命の保証はないし、敵中に迷い込んでも救いがあったかどうか、振り返る余裕のない軍務の中、時折彼の運命を思い起こしながら殺伐たる兵舎の眠りにつくことがあった。
 中支に向かう輸送船が支那海にさしかかったばかりの敵情の極めて悪い海路の船中で、学徒兵それぞれ望郷の念止む難き心情のとき、突如、船内スピーカーで、「対米和睦交渉が成立した、軍は速やかに戦線を撤収すべし」の命令下達の放送が流れた。みんな一様に我が耳を疑って聞き入ったが、伝達が相違なきものだと確認ができるや、船内のあちこちから、どよめきが起こり、やがて一つの歓声となって船内に轟き渡った。
 「平和になった。みんな帰れる」の喜びが若者たちの頬を紅潮させていった。しかし次の瞬間、「ただ今の放送はデマ放送であった。大御心の期待を受けた諸君学徒兵の戦意の覚悟を試した所だ、残念ながら諸君の本心は見届けることができた。ただ今から入魂の鉄槌を加えるから覚悟を決めるように」と。
 二列に向い合っての対抗ビンタの無制限の懲罰が続き、何人かが失神した。N君はおそらくこの時も失神組に入って真っ暗な心で泣いていたのではないだろうか。(71頁)土網
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 いよいよ軍隊へ入隊です。元来、私は愛媛県人ですから松山か四国の他の部隊かとの予想に反して、台湾へ、しかも愛媛県人は私ただ一人です。心細さでいっぱいでした。思えば貧乏くじを引いたもの。松山は江戸時代は、徳川の親藩、松平(久松)家でした。台湾歩兵第一連隊には薩摩とか肥後とか九州人が多い。同じ愛媛県でも宇和島の伊達、高知の山内家は皆勤皇派だが、私は松山の親藩で佐幕派(賊軍)ということです。
 はるか昔の幕末、明治維新当時の勤皇、佐幕の対立を根に持って「伊予の人間の通った跡は草も生えぬ」と、そんな極端なことまで言われ、こんな無茶苦茶なことでこっ酷い目に遭い、殴られ続けました。失敗や不都合もないと思うのに制裁を受けました。つらい、苦しい、情けないの毎日でした。
 郷里を出るときの村長さん以下皆さんの激励の言葉を思い起こして頑張りました。
 軍隊の消灯ラッパは
  新兵さんは かわいやなー
   また寝て泣くのかよー(節をつける)
歌の文句が事実を何よりも雄弁に証明しています。次のようなこともありました。
 内務班で新兵は全員横一列にならび、順次ビンタを張られます。私の隣に土佐の高知出身者がおりました。土佐人は殴らず、と私を殴ります。ひどい差別です。日曜日は外出もなく、朝から古兵の肌着、揮まで洗濯します。やれやれと思う間もなく集合です。営庭に台湾松があります。その木に地上二メートルくらいの高さまで上って、ミーン、ミーンと声をあげて蝉のなく真似をさせられます。私は声がちょっと甲高いので、「和田!もっと鳴け」と長々とやらされました。それを古兵たちは煙草を吸いながら笑って見物していました
 この嫌なつらい古兵の制裁は台湾から南支へ移ってからも、上等兵になってからも続きました。昔の軍隊の初年兵の一期の検閲までのひどい苦労は、現在の若者には到底辛抱叶わぬこと。私のみでなく、軍隊生活をした者は皆同じ思いでしょう。「玉磨かざれば光なし」。
 教育訓練演習についても思い出は尽きません。広い土地に草いっぱいの練兵場での夜間演習のとき、初年兵の一人が薬葵を一個落としました。全員横一列になって長い時間捜したが発見できず、その兵は帰隊後、歯が折られ、面相が変わるほど殴られました。
 また規則を破り、便所内で喫煙しているのを、週番上等兵に見つかり、隊内に「火災呼集」がかけられてバケツで水を浴びせられ、その上、口いっぱいに二〇本くらいの煙草をくわえさせられ全部に火をつけ、煙草の火で上下の唇を火傷して、泣いて謝ったこともあり、大変厳しかった。

・・・以後、班長は深く感謝してくれて、何でもかんでも「和田!和田!」と声をかけてくれ大事にしてくれました。一選抜もその所為かも。ところが禍福はあざなえる縄のごとしとか。私の栄誉ある一選別入りもまた災いのもと。隊内に私より先任の上等兵一人、昭和十二年兵の一等兵
(営倉入りの経歴ある古参兵)が一人、二人揃って私には意地悪この上ない私的制裁です。隊内では階級もさることながら、最後の決め手はメンコの数です。私より二年も古参の性悪一等兵、同じ上等兵でも先任古参の上等兵、どちらにも頭が上がりません。週番上等兵勤務中もあれこれと私用の強制、果ては殴る蹴るの暴行。作戦行軍中に豚の片足の重いやつを背中に乗せられ、その重さと南支の暑さにはもう苦しくて、落伍寸前の苦しみも数多く、つくづくと軍隊がイヤになり呪わしく思ったものでした。
 それを救ってくれたのは、南方特有のスコールでした。雨に打たれると萎れた植物が蘇生するように、私の身も息を吹き返し元気を取り戻しました。また古参の一等兵は炎天下の行軍中自分の三八式小銃を私の肩へ乗せて、自分は手ぶらです。私は十一年式軽機を担いでふうふうと汗を流しているのに、自分の小銃を手から離す歩兵が信じられますか。とにかくひどいものでした。この期間の私の部隊は第四十八師団でした。
 以上のような状況で私もホトホト軍隊がイヤになり、将来を考えヤケになり、自殺でもと考えました。この苦況を救ってくれたのは米満班長です。私の様子にどうも合点がいかぬので一夜私を呼び、じっくりと心境
を聞いてくれました。じゅんじゅんと私の心の弱さを説き、「頑張るのだ!攻撃は最大の防御であることを忘れず軍人精神を充実せい!」と指導してくれました。(428-430頁)和田
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昭和十六年十二月二十五日に長崎の公会堂で海軍志願兵の採用試験があって、翌十七年二月に合格通知がきて、九月一日に佐世保第二海兵団に入団するようになっていました。・・・
 海兵団の教育は精神棒で尻を叩かれました。理由が分からんのに叩かれるのです。太い棒は意外に痛くはないのですが、細い方が痛いのです。特に痛かったのはストッパーと言われたロープを水につけたやつでやられると、体に巻きつきますから余計に痛かった。
 班長は滅多に叩かないのですが、短艇競争で他班に負けたら大変でした。食事の用意が終わって、いざ食べようとしたテーブルを引っくり返して食べさせないのです。そのまま教練の継続ですから腹が減って、ふらふらでした。班長は外出して食事するのですから、ひどかった。
 巡検後、寝てるところを叩き起こされて制裁を加えられました。入団して一年半くらいたって水兵長になると今度は自分が叩く立場になるが、それまでは叩かれることを覚悟せねばなりませんでした。(414・415頁)酒井
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・・・甘い新婚生活も夢のうち、翌昭和十九年一月の正月気分もまださめやらぬある日、和木村役場の兵事係が「二月一日、呉海兵団ニ入団スベシ」との海軍の召集令状を持ってきた。(408頁)

  海軍生活について
「スマートで目先がきいて几帳面、負けじ魂これぞ船のり」とは海軍伝統の言葉ですが、どれを取ってみても私に当てはまらんことばかりで、スマートとは縁遠く、ひょろひょろで青白く、動作はボヤボヤ、マゴマゴしてルーズで諦めが早く、いつも甲板整列には自慢じゃないが一番先に直心棒を食ったもんです。あの痛さは今も忘れられません。
 訓練は厳しかった。釣床訓練、手旗、カッター、駆け足、陸戦、銃剣術、寒い冬の最中でも汗をかかない科目はなかった。
 やがて四月になり、海軍式シゴキのバッタ、ビンタ、前に支え、毎日鍛えられて、ビンタの一発や二発を食らうのは屁のカッパになったころ、分隊長に呼ばれて「横須賀の海軍通信学校へ入校するように」と言われた。どうして私が選ばれたのか今もって分からない。

  海軍通信学校
桜花らんまんの昭和十九年四月、横須賀通信学校「横通」に入校、電波探知機を取り扱う電測術講習生となりました。海軍最新兵器だと仲間は喜んだけれど今考えるとアメリカのレーダーに比べるとチャチなものだった。やたらと真空管ばかりならんでいて、それ「Tの三一一」など符号をつけて呼んでいた。入隊前に多少知識はつけていたので学科は難しくなかった
が、相変わらず古年兵にはシゴかれた。抵抗できない下の者を一方的に殴りつけて、これが日本海軍の大和魂だと、こんな馬鹿な野蛮なことがあるもんかと憤慨したことも何度かありました。(409頁)野村
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 私は昭和十二年度徴集兵です。私の軍人としての略歴は大略次のとおりです。
 昭和十四年五月十日第一補充兵で善通寺輔重兵第十一連隊へ入隊、六月十日召集解除。
 昭和十四年十一月三日再び善通寺へ応召し、十一月十四日香川県坂出港より乗船、中支派遣軍へ出征。・・・(371頁)

 新兵はとにかく用事が多く忙しく競争である。整列も後尾の方になるとまた別の制裁がある。以上のような日常生活に男の魂が負けて脱走兵が出る。新兵を除く全連隊の人員総動員で探す。他の中隊の者に見付け出されない内に、脱走兵の出た中隊で発見しようと懸命である。捕らえるともう、まともに見ていられないくらいの制裁で、その上、営倉入り。この悲しい経歴は一生涯ついて回る。(372頁)野田
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第一乙種合格、幹部候補生要員として鯖江第三十六連隊歩兵砲中隊(藤岡隊)に入隊し、同期新入隊員は五〇名くらいだった。・・・
 昭和十七年七月、鯖江駅を出発、広島経由、宇品港を輸送船で中支安慶に向け出港した。・・・
 私に対する不可解なリンチは船倉へのデッキ上で再び出くわした。氏名不祥の某下士官軍曹だった。「この注意人物」とデッキ上の上がり下がりのすれ違いにおいて私の顔面を痛打した、唇を血で染めたがその後、上陸してからは会うことはなかった。恐らく初年兵一行を第一二〇連隊へ届けるための随伴要員の一人でなかったかと思われるが判然としない。現在、福井の町でそれらしき風貌の人と出会うとき、その節のことを思い出すのが常である。

  鯖江の原隊で
 幹候要員一期の演習中、班付き上等兵から鉄棒で背後からやられ頭を割られて負傷した。彼は自分の誤りを上司には私の誤りとして隠していたので、彼は営倉入りを免れ、助けられた。「お前の顔は陸軍大将の顔だ、どうみても」など訳の分からぬことで制裁を掛けた古兵ども。彼らの不当制裁に反発して翌日の私への古兵どもの集団制裁は原隊・藤岡隊内でも問題になり、表面化の寸前ともなった。(360頁)粕谷
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 蕪湖は本部所在地であり、部隊は鶏第三〇六四部隊―歩兵第一五七連隊である。われわれ初年兵の集合教育は蕪湖の本部で、教官は梶上少尉で、九月まで教育を受け、十月に第九中隊に配属となった。その間、だいぶ絞られ、ビンタもだいぶ食らった。(355頁)本吉
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 昭和十二年一月十日、新潟県新発田の歩兵第十六連隊第二大隊第七中隊第六班、軽機関銃班への入営でした。私は生来、機械物の修理が好きだったので軽機関銃の分解、組立てなどは早く覚えることができました。しかし、一期の教育中の内務班は苦しいものでした。軍隊は団体行動であるので、一人悪いと連帯責任となる。折角寝たというのに「起きろ」という。毛布の中に入っても安閑としてはおられない。いつ、起こされるか分からないのだが、疲れているからいつの間にか眠っているのです。
 私は、私的制裁であっても、教育的なものであっても、自分の落ち度はなくとも、指導的な目的のためならいいが、どこか落ち度はないかと見付けて叩かれる。これは厳し過ぎるのではないかと心の中では思っていました。
 食缶当番で、冬は飯べらが凍ってしまう。それを洗い方が悪いと起こされる。週番上等兵は備付け物品や衛生管理を見、何か落ち度を見付けて自分の威厳を表わそうとする。しかし、上等兵の個人差もあるし、人情のある人もある。(297・298頁)茂岡
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 大正九年生まれは、昭和十五年徴集ですから、十五年に入営なのですが、私は十三年徴集者と一緒に昭和十四年一月十日、姫路の第十師団輜重兵第十連隊で、初の自動車隊に入営しました。私は、長い剣を下げ、馬に乗るのかと思っていましたが期待外れでした。
 自動車のことなど何も知らぬので、大部殴られました。父が面会に来たとき、叩かれた瘤を見せたくないので帽子を深く被り、まともに父の顔を見ることができませんでした。(276頁)村本
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 入営は昭和十五年二月、北海道旭川連隊であった。・・・旭川から乗った兵員はほとんど初年兵で、満州第八〇三部隊から受領に来られた軍曹に引率され、羅津から列車輸送で鮮満国境を越え東安省密山へ着いた。(268頁)
 我々の兵舎は苦力小屋に等しい十坪にも満たぬ小さな建物で、その中に一個班二十人くらいが入っている。そのうち半分は古参兵だから、初年兵は毎日ビンタをとられるから顔の皮も厚くなるぐらいである。(269頁)大川
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・・・その上風呂当番となると水槽を牛車に積んで、ガタガタの坂道を運び、毎日降るスコールに濡れた根枝を拾い集めて風呂を焚きます。時間までに沸かないと週番下士官などに気合を入れられるなど、今思い出せば懐かしく、二度とないよい人生勉強になったと思います。召集兵の仲間では私が一番年上だったので整列ビンタは必ずもらっていましたが、私個人のビンタは一度もなかったことは大げさに言えば、天運か神助のお陰と思っています。(252・253頁)小坂
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 昭和十六年三月一日、東部第五二部隊(金沢の特科隊)で、山砲隊は四、五、六の三個中隊、野砲は第一、二中隊、第三中隊は一〇センチ榴弾砲であった。・・・班の中では、砲を扱う者も通信も区別はないが、砲本科の古兵や上等兵は、我々通信や観測は「弛んでいる」と、ビンタも結構やられる。ビンタはスリッパでやられることもある。砲扱いの者は労働が激しく、キビキビやらねばならぬから、通信や観測は、弛んでいるように見えるのかもしれない。人数的にいっても砲の方が多い。(240・241頁)水口
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演習整列前の忙しい中、炊事場への食器返納と整列がほとんど同時で、すべて駆け足の連続でありました。一日の日課、訓練が終了すれば直ちに内務班の掃除整頓をしなければならない。これが終われば日夕点呼の時間になり、整列、作戦要務令、歩兵操典、陸軍礼式令(近衛は特に厳しい)、直属上官の官位、職氏名の暗唱。質問に答えられなければビンタである。(214頁)千野
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 私は昭和十九年六月十五日、仙台市東部第二十二部隊(第二師団歩兵第四連隊留守部隊)へ入隊しました。臨時召集です。(150頁)

 入隊後五カ月間、隊内で教育訓練されましたが、この間は徹底的にきつい、いやな新兵教育でした。正に歌の文句通り、「人のいやがる軍隊」でした。毎日毎日ヒッパタカレました。特に私は人の倍以上やられました。その理由は「お前はタルンデオルとのこと」でした。新兵同士の対向ビンタのとき、相手が新兵同士の戦友というので、自然と手加減をしてブツことにな「なんだこのハタキは!」と上等兵が「このようにやれ」と力いっぱいブチ直す。新兵は教えられたとおりにやらぬと、今度は自分がより一層叱られてハタカレルから、強くブチ直すことになる。それでも新兵同士のブチ合いでは気分も楽だ。上等兵は毎日同じように小さい細かい事に目を光らせて文句をつける。最後はいつもおきまりのビンタで終わる。話に聞くと、軍隊では昔から古兵が新兵を鍛えると、その新兵が次の新兵には順送りとして鍛えるという。
 鍛えるとは耳当たりがいいが、訳の分からぬ私的制裁も多い。編上靴の上部を切り取り踵の鉄鋲を除いたやつ(上靴)を逆手に持って、頬を力いっぱいハタク、勿論、眼鏡は外せ、歯をくいしばれとの注意をしておいてやる。我ながら情けなく、よく辛抱したと自分を褒めてやりたいくらいである。
 新兵さんは消灯後、毎夜枕をぬらして泣くとの話もある。また年齢的にもわれわれ召集兵は大半は年配者で、私のように妻子あるものが多い。それが一つ星であるために、年下の若い二つ星、三つ星からコッピドクハタカレルとは!、軍隊たるゆえんである。現在の若者には合点ゆかぬし、また辛抱もできないで脱走しかねないと思う。(151頁)
 こんなこともありました。私たち野戦へ出征する直前のこと。その日も例により、上ばき靴で思いきりハタカレた。顔がはれて歯がグラグラしてた。そこへ面会が衛門へ来ているとのこと。急いで駆けつける。電柱の上にほの暗い電灯がついている。私の顔を見て、「よーく肥えてきたの」だなんて。夜間のことで肥えているのか、腫れているのか暗くて分からないのだ。(152頁)尾形
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・・・その日のうちに釜山上陸、入営先は京城府竜山の歩兵第二十二連隊である。私は第二大隊、第二機関銃中隊である。(137頁)

昭和十九年五月まで、朝鮮で初年兵教育をしたが、宮崎県の初年兵に気合を入れ、頭をぶち割るほどの厳しい教育をしたものである。厳しくなければ戦地では生きられないからだと思ったので心を鬼にしての教育だった。(138頁)有門
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 昭和十九年一月十日、私は満州の新京に駐屯しておりました満州第二六八七部隊(高射砲隊)の通信兵として入隊しました。この部隊は九州の下関重砲兵隊、佐世保重砲兵隊、厳原要塞重砲兵隊員によって編成されておりましたので、とても気合の入った部隊でした。
 真っ白い銀世界の雪の中で、零下十度くらいのときでも、雪にまみれて訓練が続けられ、毎晩毎晩、目から火が出るように叩かれ鍛えられました。軍隊の厳しさは話には聞いておりましたが、予想外でした。現役兵の私たちはまだ若いし、少々叩かれても蹴られても辛抱できましたが、気の毒なのは召集兵の人たちでした。
 三十五歳くらいの人たちが軍人勅諭を暗誦していないからと、若い二十二歳くらいの一等兵、上等兵から皮のスリッパで殴り倒され、涙を流しておられる姿を見るにつけかわいそうでなりませんでした。次は連帯責任だ、横一列に並べと、並ばされ、「足を横に開け」と開かされ、「貴様たちはみんなたるんでおるぞ」と、皮のスリッパで両頬を殴られるし、向かい合い同士で殴り合いをさせる。まさに格子なき牢獄でした。
 消灯ラッパが鳴り、五尺の寝台兼布団にもぐり込むと、だれだかわかりませんが、すすり泣きが聞こえてくることも度々ありました。(129頁)元島
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・・・朝鮮を鉄道で北上、鮮満国境通過し満州のチチハル着。そこは第十四師団司令部等があり、私は歩兵第五十九連隊へ入隊し、四月から正式な初年兵教育が開始されました。・・・内務班は内地より満州部隊の方が厳しいのですが、古参兵の戦友は、私的制裁がある時は私に用事を言いつけ外へ出してくれました。私の留守中に対抗ビンタなどが行われ、私が帰って来た時はもう制裁は終わっていました。(397・398頁)笹沼
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間もなく鎮守府から本採用通知書が届き、五月一日、舞鶴海兵団に入団、兵科は水兵と記されていました。・・・
 いよいよ入団して三ヵ月間の新兵教育でしごかれ、ビンタ、精神棒をしこたまもらいましたが覚悟の上であり、生命は国に捧げるつもりだったので少しも後悔する気はありませんでした。(364・365頁)山中
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 昭和十八年一月四日、佐世保海兵団へ入団ということになりましたから、昭和十二年入社から十七年暮れまで朝鮮鉄道で一人前の運転、機関士として勤務したことになります。・・・海兵団機関科の同年兵は約三〇〇人の教育が終了し、私は昭和十八年四月、機関士であったので一等駆逐艦「涼月」に乗員を命ぜられました。・・・
 しかし、艦内では、朝晩、古兵や上司から樫の棒(バット)で尻を叩かれます。自分の責任でなくとも連帯責任でやられるのです。初年兵同士はお互いに紫色になった尻のあざを見せあったものです。夕食を食べた後、寝るまで叩かれます。同年兵は、機械、汽罐(かま)、電気、保機とあり、各一人の初年兵で、五人は同罪です。艦は一人の過ちでも艦全体が沈む、一蓮托生ですから、初年兵の時から徹底的にしごかれ、体全体で覚えさせるのだとは判っていても、辛い毎日でありました。言い訳はしない海軍魂は、日と共に養成されていくのであり、このようなことが、戦闘に入るまで毎日続きました。(353頁)牧
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 昭和十九年五月二十日、十九年前期の水兵として舞鶴海兵団へ志願兵として入団しました。・・・
 私は幸いというか、教班長係を命ぜられていたのでバットによる制裁は受けずに済みました。毎日叩かれるので尻には紫色のアザが絶えず、お互いに見せあって教育の厳しさを語り合っていました。(347・348頁)江目
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 呉鎮守府の管轄が中国、近畿両地方の南部、東海の一部となっているので私は呉鎮の大竹海兵団にようやく入団できました。早速、兵種の決定で、号」「水測」の三つの中から一つ選べといわれ、訳が判らぬままに「水測」を希望しました。直ちに神奈川県三浦半島久里浜にある海軍機雷学校へ向けて汽車で出発しました。ここで三ヵ月間の新兵教育が始まりました。
 内務班は陸軍と異なって、新兵だけ三十人で一個班を作り二曹が班長で教員と呼ばれていました。新兵だけの内務班ですから、古い兵隊に対する気遣いは要らない代わりに、教員に「たるんどる!」「やる気がない!」と、杉や桧では折れるので、桜や樫の棒でバンバン尻を叩かれ徹底的に絞られました。・・・
 ご存知の海軍独特の精神注入棒を使っての尻叩きは全員揃って喰らいました。私的制裁はありませんでしたから、現在思い出しても恨みに思うことはありません。叩くには叩くだけの理由があるんだと納得できましたから痛かったが我慢できました。(341・342頁)

 鎌倉への行軍、冬の兵舎を何回も駆け足で走らされ遅れると「もう一回」と走らされたこと。整列ビンタでも上曹ビンタは順番に下級ビンタに移り、何回もビンタをはられたこと等々、当時の辛さは今では懐かしくなっています。現在の若い者にもあの団体生活は一度体験させたらよいと思います。(347頁)衣川
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 私が入隊しましたのは、福岡県小倉市北方にあった歩兵第一二三連隊でありました。毎日激しい訓練が行われました。叩かれ殴られ、大きな声で叱られ、これで戦争ができるかと、それはそれは死に物狂いの訓練でした。そのうち南方に行くらしいという噂がたちはじめました。(327頁)宮崎
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 昭和十五年五月一日、第十一師団松山歩兵第二十二連隊第九中隊に陸軍歩兵二等兵として入営。・・・
 入営日十日目に、今日は上等兵殿、古兵殿の態度が少し異なっているとの気配のあった夕方の点呼前に、上等兵殿が「皆聞け、お前たちは本日恐れ多くも陛下より軍人としての俸給を賜れることになった。だが貴様たちの気のゆるみはどうだ、己の気合を受けてから俸給を頂け」と一兵ずつ、前で拳を振り上げての頬打ち、一瞬目が光り歯がうずく。「まだ足らんな」と、今度は二年兵殿に、両側に立ち並びお互いの頬を打ち合う「対抗ビンタ」を命ぜられた。
 まず「やってみろ」と列の端の二人が命ぜられたが、同年兵はお互いの遠慮もあって少し弱かったと見るや、二年兵殿は「手ぬるい、こうやるのだ」と後ろへふった拳でその両人の頬を大きくバシッバシッと殴り、たちまち両人の目から涙が溢れ出た。「さあ、皆もこのようにやれ」との命令でお互いに心で許し合いながらの対抗ビンタ。やっと私の在職中の日給の一日分に相応する一円五十銭の十日分としての俸給を頂くことができ、以後俸給支給の十日目ごとにこの状態であった
 その夜、消燈ラッパ。隣に臥せていた巡査出身の召集兵がシクシクとむせび泣いていた。いくら軍の内務の厳しさを在郷時耳にしていても「こうして鍛えられて一人前の兵になるのだな」と自覚しながらの眠れない一日であった。よく「貴様らの一人二人が耐えられずに死んだとて、一銭五厘出したら、いくらでも替わりがいるのじゃ」との言葉も、どの連隊でも皆同じだなぁと後日人から聞いた。(295・296頁)

 また、どの連隊にも同様の話があるが、三八式歩兵銃の手入れを完了して、安全装置をしたまま(必ず引き金を引いてバネを戻して伸ばしておく)銃架に収めておくと、私どもが夜の床に就いた内務班を週番下士官が巡回して、その銃架の銃のコーカンをサラサラ撫でていく。「カチッ」とコーカンが戻り部屋中にその音が響くと、上等兵、古参兵が頭を持ち上げる。
 「この銃は誰の銃ぞ」と週番下士官が、その番号を声大きく呼び上げる。その間の初年兵の顔面のひきつり、けいれん。「ハッ!それは私の銃であります」と、その持ち主が飛び上がって下士官の前に立つと、「貴様、陛下から賜った銃に仕事させながら、自分は大きな顔をして寝とるのか」。「気を付け」の命令でその銃を「立て銃」にした兵に「捧げ銃」の命、そして「銃様におわびのご挨拶をしろ」、「ハイ、三八式歩兵銃殿、私が悪いばかりにアナタに御迷惑おかけいたしました。以後かようなことは致しません。何卒お許し下さいませ」と、そのまま「捧げ銃」。見ている私どもまで冷や汗が出てきた。
 目もくらみそうなしびれを感じ出したころ、他班も見て回ってまた入ってきた下士官が「よし立て銃、以後気をつけろ」と帰るが、その後がまた大変「○○上等兵、よくもわしの内務班にキズをつけたな」と上等・古兵の制裁を受ける。
私は小銃も持ち、当時の十一年式軽機関銃も持っており、両機の手入れだったので本当に辛かったが、こ「捧げ銃」は免れた。銃剣の溝の挨、銃孔の挨なども厳しく検せられ、それによって兵の姿勢も大いに上達し、「これで日本軍人だ」との感もまた恐ろしさも感じた。(297頁)

 内務班の教育というか、私的制裁をも含めた日々は、大の男が寝台の毛布を被り消燈就寝後、声を殺して泣いていた。この苦難に耐えることも一人前の兵隊になる前提でもあったかもしれない。(298頁)森本
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 昭和十六年一月に東京世田谷の東部自動車隊に召集になりましたが、その時二十七歳でした。中隊長は伊藤大尉で第一中隊の班長は吉野新太郎軍曹でした。四月に召集解除となりました。三ヵ月の教育召集でも初年兵同士の往復ビンタが絶えず、古兵が後方でけしかける始末。今考えると、あの私的制裁が初年兵に忍耐と反抗心と敵愾心を育てたと思います。(288・289頁)長坂
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 私は昭和十八年四月の徴兵検査で甲種合格となり、歩兵十八番と書いた紙の札をもらいました。入隊は八ヵ月後の十二月二十日です。入隊先は新潟県の新発田市東部第二十三部隊(第四十二師団歩兵第一五八連隊第三中隊)でした。・・・私ら三百人は第六十八師団独立歩兵第一一五大隊に転属となり、残り六百人は第十三師団歩兵第一一六連隊に行きました。(272頁)
 新兵当時ビンタは喰ったけれども、私はすぐ鼻血が出るたちだったので、古年兵が驚いて叩くのを止めたので他の者にくらべると叩かれるのは少なかったと思います。(275・276頁)朝倉
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 このように十七歳から十二年間、製糸工場にいたが、二十六、七歳になるまで十年以上も皆勤し、昭和十三年四月自宅へ帰った。ところが昭和十四年八月、召集令が来て金沢の第九師団輜重連隊へ入隊した(ノモンハン要員)。
 初年兵の時は物凄いビンタを張られたことがある。他班の下士官が来られた時、誰かが間違ってかその人の営内靴を履いたので、帰る時靴が無い。私が見付け届けたところ「お前が履いたのか」と、廊下の端から端まで両頬にビンタを張られた。見付けた者が責任をとらされたのだから、他人の手落ちでずいぶんひどい目にあったことになる。
 また、私ではないが、厩当番が古兵に馬の鐙で殴られたり、長い手綱で叩かれ、綱が首に巻きついてしまうのを見たが、鐙の時は兵隊にけがをさせたので古兵で罰になった者もいた。(246・247頁)榎坂
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 翌十一日は中隊全員(初年兵ばかり)で久留米市内にある高良神社に参拝。そうしてその翌日十二日に入隊式があった。
 西部軍司令官 藤江恵輔陸軍中将
 西部第四十九部隊(戦車隊)長 川島修陸軍中佐
 中隊長 泰 十郎陸軍大尉
それぞれの訓話があった。(220頁)

 二月一日、第二次初年兵入隊で、この中隊でも多数が配属になった。
 この日の夜であった。班長の指示で内務班で戦友同士のビンタ張り(対抗ビンタ)、これには参った。罪科もない隣の戦友と向かいあって殴りあい、はじめは遠慮がちだがしまいには思いきりブン殴る始末。班長はやめよとはいわなかった。なかにはぶっ倒れるものもいた。男同士の殴りあい、理由も恨みもないのによくやったものだ。平手打ちが拳固に変わりかけた頃、班長は「やめろ!」と怒鳴った。互いに顔は真っ赤となりあざがところどころできていた。(222頁)伊藤
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 昭和十七年六月十二日、教育召集令状が届けられ西部第五三部隊へ入隊したら、無線通信隊だった。従って一般歩兵教育はほとんどなく、銃剣術は防具を付けて「前へ、後へ」とのほんの初歩だけ。射撃は実弾五発射っただけ。使役もなく、ひたすらに無線の技術だけで、通信を受ける、打つだけ。それを打つのは一分間に八〇字、受けるのは一〇〇字を出せるように猛訓練された。肉体的な教練はないのだが、暑い最中、講堂に約一二〇人がいて教育を受けました。暑いので眠くはなるし、汗はダラダラ顔から垂れるから、通信紙へ書いた数字がベロベロになり、教官から椅子で頭を叩かれる
 内務班に帰れば古兵から「お前達は昼間楽をしているから」と叩かれる。自分では納得出来ない、連帯責任だと叩かれる。しかし、可愛想に思ってくれる古兵もいて、内緒で菓子を食わせてくれた時は、本当に嬉しく今でも忘れられません。きつくされた兵隊、優しくしてくれた兵隊、ともに忘れられない。・・・他の者との連帯責任で、食事当番に間違ったら古兵ばかりでなく班長にもやられる。
 これは先任兵長が軍曹に呼ばれ、食事当番全員が内務班に集められ、全員モップで叩かれた。私は兵長の隣にいたので、軽く叩かれ、「お前はどこそこへ行け」と用事を作って逃がしてくれたこともあった。寝てから「兵長殿ありがとうございました」と小声で言うと「いいよ」と一言言ってくれたので心の中で感謝していた。しかし、寝床の中に入って泣いたことが何回もあった。・・・
 昭和十八年六月、再度の召集となり、西部第五三部隊の橋本隊へまた入ることとなった。また通信隊勤務となったのだが、昭和十八年十二月、船舶通信、暁第二九五五部隊に転属となり広島へ移った。召集の六月一日付で上等兵に進級した。
 教えられた私が、今度は初年兵の教育をしたり、乙種幹部候補生の教育助手として、通信だけでなく、一般歩兵の教育もした。その頃、幹部候補生が出るので、「被服を洗濯しろ」と言ったのに、襦袢一枚を洗濯していない者がいたので、げんこつで叩いたらその候補生の歯が折れてしまった。私が衛生勤務している時、その生徒が営外へ歯の治療に出て行った。それを見て、と許してくれた(制裁で怪我をさせたわけだが)。それ以来、私はビンタをとったことがない。(211・212頁)橋川
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 一選抜で進級したとはいうものの、決して生易しく喜んでいる場合ではなかった。古年次兵からは特別の目で見られいつも注目の的にされた。中でも先の万年一等兵からは何かにつけて洗脳としごきの制裁を受け、おまけに「ありがとうございました」と不動の姿勢で敬礼。欠礼でもしょうものなら上級者(私)に向かってびんたの連打は常の例。この悪戦苦闘以上の苦さはわが身体に染み込み、永久に忘れることはない。どこの隊でもこのような豪傑が軍律に矛盾した行動をとり、自己のうっ憤晴らしをしていたが、初年兵はただ耐えるのみで、内務班の規律はすごく厳しかった。(P33頁)山下
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私が町長さんはじめ町の名士、並びに近所の方々や小学生の生徒さんたちに、日の丸の小旗を振り歓呼の声で送られて鹿児島海軍航空隊に入隊したのは、昭和十九年六月一日、海軍二等飛行兵になったのは十六歳と五ヵ月であった。・・・
 海軍ではすべての行動が全体責任であり、誰か一人の訓練生がヘマをすると、夜十時過ぎの巡検後に、廊下へ全員整列が掛かり、ビンタは常時、ときどき精神注入棒(野球のバット)で尻を力いっぱいぶん殴られ紫色に尻が腫れるのである。風呂に入った時など誰が何発殴られたかすぐ分かるし、お互いに痛かった話などしたものだ。寝る時など上を向いて寝られず、横を向いて寝た夜も幾晩かあった。(432頁)柴田
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 昭和十六年九月一日午前八時、これは忘れることのできない私の入営への旅立ちの日時である。近親者や近所の方々の見送りを受け、小雨降る中簡単な挨拶をして、一路千葉県柏の第四航空教育隊へと向かった。第三中隊永野隊鈴木班で、二、三日はお客様扱いであったが、班長の訓示では「お前達は消耗品である。一銭五厘(郵便葉書の値段)で幾らでも入ってくる。また、日に乾ききった桶である。これもみっちり締めなければ水が漏れる、水が漏れぬよう締め上げてやるから覚悟するように」と言われた。これから、いよいよ、徹底的に締め上げられる軍隊生活と訓練が始まったのである。それは聞きしに勝る苛酷なものであった。
 私は一般訓練のほか、特技訓練としてラッパの教育を受けたが、最初は音が出ず、一ヵ月後にようやく吹けるようになった。内務班に帰れば、古兵の怒鳴る声、ビンタの音を聞かぬ日はない、まさに監獄より苦しい所であった。一期の検閲を終え、一等兵の階級章をつけた頃出動命令が出た。(416・417頁)仁平
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 昭和十七年になると同級生の多くは現役兵として入隊し、私に召集令状が来たのは十月でした。入隊は十二月一日で、三重斎宮の第五航空通信隊でした。初年兵教育は三ヵ月で終了しましたが、私は体が少々弱かったためか練成中隊に入れられ、二ヵ月で一等兵に進級しました。・・・
 内務班に古参兵は一〜二人と少なく、初年兵が多かったのですが、一個班三〇人ぐらい、随分と気合がかかっていて、ビンタは毎日でした。少しでも敷布が汚れていれば、赤いチョークで金魚の絵が書かれていたり、枕カバーを頭に被せられ、食器袋を口にくわえて他の班を回らされました。各班の古参兵からのビンタもあり、頬がパンパンにはれてしまった人もいました。また、革の上靴(上ばき)で叩かれ顔の形が変形してしまう者もいました。やる人もやられる人も常習犯がいて、いつも決まった人達でした。(400・401頁)秋田
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 昭和十六年十二月二十七日、繰り上げ現役兵として姫路第五十四部隊(輜重連隊)に入隊しました。・・・
 教育訓練はなかなか厳しく、助教の上官たちに信号用手旗でピンピン打ち込まれての訓練が続く毎日でした。班内の日常起居の躾の教育も厳しく、勝手の異なった軍隊生活はなかなか馴染めませんでしたが、幸いに班内暴力は比較的に少ない方でした。(396・397頁)

 十一月の末、北京西苑にある北支軍下士官教育隊に、徐州教育隊から我々四人が選抜され派遣されました。この教育隊は北支軍の騎兵、輜重、砲兵等各兵科の自動車使用部隊の合同の下士官教育隊でした。教育訓練は厳しく、教官に竹刀で叩かれることも再三ありましたが、これも自分が立派な国軍の幹部になるためとありがたく頂戴して訓練に励みました。(398頁)尾崎
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 呉で改めて検査を受け、甲種ということになり、徳島航空隊へ転属、三ヵ月の新兵生活を送ったのです。海軍の新兵の教育は誰でも知るように極めて厳しいものでした。そうしなければ誇りある帝国海軍の水兵にはなれぬからでしょう。バットで尻のアザが消えることはなく、海軍軍人としての基礎を徹底的に仕込まれた三ヵ月でした。(391頁)保木https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/10/O_10_391_1.pdf

 舞鶴海兵団に入団して四ヵ月間新兵教育を受けました。この教育期間中の海軍魂涵養のため、海軍の伝統であり、名物とも言うべき罰ちょくをほとんど毎晩のように受けました。「甲板に整列」との号令がかかると、私達新兵は「また、やられるか!」と悲壮な覚悟で整列しました。軍人精神注入棒という樫の棒(長さ約一・五メートル、直径五〜六センチ)で尻を思いきり叩かれます。まれには棒が二つに折れ飛んだこともありました。されるままに奥歯をぐっと嚙み締めて、無抵抗で耐えなければなりません。班長さんは京都弁で怒鳴りながら叩き続けます。尻は内出血で黒く変色し痛いこと。現在の言い方にすると、まさに暴行のし放題でしょうか。海軍の伝統となれば致し方ありません。
 他の隊のことを噂で聞きました。「若い新兵が尻の上の腰椎を叩かれて骨折し、下半身不随で兵役免除になって一生不遇な生活に苦しみ泣いた」とか。この罰ちょくは四ヵ月の新兵教育が終わってからも受けました。あの精神注入棒のことを忘れることが出来ないのは、私一人のことではないでしょう。・・・
 次は普通科運用術学校入校です。学校は舞鶴にあり、入校期間は四ヵ月でした。運用術とは、常に甲板上にあって、錨の出し入れ、舵取り等を司る任務でした。この在校期間中も精神注入棒は健在で、私達も再び苦しめられましたが、どうにか卒業出来ました。(379頁)

 昭和十八年四月、飛行機でスラバヤよりシンガポールヘ。ようやく「名取」がいました。ドック入りをして敵にやられた個所の応急修理中でした。修理を終えて舞鶴へ帰り本修理をするとのことで、やっと「名取」に乗れました。ドック入り中だから勤務というものはないのですが、そこで「お前等はたるんでいる。ちょっと気合を入れてやる。艦橋のところへ整列!」ときます。注入棒ではなくビンタです。これは大したことなく助かりました。(381頁)

 不穏な相談がありました。新兵教育に引き続き、ずーっと私達に精神注入を行ってきた班長がちょうど同じ艇に乗り合わせていました。私達の恨みは深く、「あの野郎め。ただではおかぬ。報復してやれ」との同年兵の気運が醸し出され気持ちが一致しました。夜間航行の勤務中に皆でよってたかって奴をつかまえ、海へ放り込めと衆議一決。しかしなんとなく実現しませんでした。悪運の強い奴と思わざるを得ません。(382頁)矢萩
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 海軍水兵として舞鶴海兵団へ入団で、自分のように年のいった者まで必要あるとは、戦況も非常に悪化している証拠だと思い、生きて帰ることは出来ないだろうと覚悟をしていました。・・・
 食事以外に飲む水はなく、手洗い場で水を飲むのを見られると大変で罰せられました。その時は自分一人だけでなく班の者全員が制裁を受けます。同期兵以外の兵に見られぬ間に水を飲みましたが、暑い日が続くので、水と食い物には飢餓のようでした。そのため身体は日増しにやせこけていきました。・・・
 短期間の訓練兵ですから、次から次と習うことが多く、海に出てボートを漕ぐ練習に行き、生まれて初めて海を見た人も大勢いました。ボート一隻に十二人ぐらいで両方に並び、櫂で水をかき、ボートを漕ぎます。数十隻で競うこともあり、一番ビリの組は、その日の昼食が欠食となるので皆必死にボートを漕いだものです。
 また、武装して早く整列する訓練もやりました。各班競争で、負けた班は罰として上司の訓示を聞かなくてはなりません。「お前等は、娑婆のことを思っているのか、立派な軍人になっていないとは恥ずかしいことだ!残してきた親や子供、妻もいるだろうが、気合が抜けているからだ……今、気合を入れてやるから歯を食いしばれ」と言われます。歯を食いしばらないと口が切れるからです。並んだ順に頬を殴りつけられるのですが、身体が動くと再び殴られます。このようなことが、二〜三日に一度必ず実行されるので、誰もが両頬がはれあがっていました。頬が赤黒くなった者、耳が黒くなった者がいます。まるで畜生同様に扱われ情け容赦は絶対ありません。「命令だ」ばかりですので、「全員死ね」と言われたときの死の覚悟ができていきました。・・・
 青森から函館の旅館で一泊、次の日は「白洋丸」という軍用船に乗るのです。何百人か判りませんが大勢の軍人でごったがえしていました。船中では訓練はありませんが、精神面の訓練があり、軍人勅諭等も暗記させられました。時々整列の号令がかかり「お前達は、この頃気合が抜けているぞ! 気合と活を入れてやるから両手を高く上げろ! 足を開いておれ!」と丸太ん棒で叩かれます。それは痛いこと痛いこと、頭の上までジーンとなります。そのために尻から足の後ろ下半身は真っ黒になりました。そんなことをすれば全員倒れてしまうと思いますが、当時は皆精神が統一されていたから、一人として倒れる者はいませんでした。
 軍隊では、一日でも早く入隊した者が上級者ですから、訓練をつけるのは若僧で、二十歳前の小僧が私のような三十八歳の兵隊を制裁するのです。上官の命令は「朕の命令」、即ち「天皇の命令だ」と言ってビシビシと叩くのです。何事も仕方なしでした。
 一週間が過ぎ、水平線に島のようなものが浮かんできました。「目的地に着いたぞ!」と言われました。きました。「目的地に着いたぞ!」と言われました。千島列島の北端、占守島に上陸しました。
 我々の部隊名は〝第五十二警備隊〞であり上風陸戦隊、第二分隊速射砲隊で、速射砲一門。隊長は村山兵曹で次に保坂水兵長、蛸井兵長でした。二人ともキスカ島の生き残りで気性は荒く、下の者達は皆困っていました。我々は本当に苦しめられました。年齢は十六歳でしたから私とは親子ほどの差がありましたが、いつも鬼を見る思いで、今でも兵隊の当時のことが目に浮かんできます。・・・
 晩には、必ず整列の声が掛かり「お前等は気合が抜けている! 気合を入れてやる」からと、頬を殴られたり、尻を打たれました。お尻から下股の方まで真っ黒になり、なにしろ、入団以来毎晩のことですから、お風呂に入ると戦友同士で黒くなっている程度をお互い見せ合っていました。叩かれて倒れる者がいたら再び打ち直され、不動の姿勢が出来るまでやらされました。上司でも各人の気性で情け深い人もおられ、その人には今でも感謝しています。・・・
 このような時、一人の同年兵が銃弾一発を紛失し、班長にビシビシ打たれる体罰が加えられました。そのためか四日目の朝死亡しました。私はお経が読めたので戦友と二人で荼毘に付しましたが他の人は誰も知りませんでした。私は、万が一生きて帰ったら遺族の人に話してあげようと思いつつ、一生懸命読経しました。(359~364頁)松島
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 私は大正十一年三月二十七日、愛媛県上浮穴郡久万町の生まれで、昭和十八年八月十七日佐世保へ入団(現役)しました。・・・
 佐世保では、私一人汽缶の方へ、他の二人は水兵ということで別れ別れです。海兵団の新兵教育は三ヵ月間。毎夜整列してお尻へ精神棒をたたき込まれます。一人でも悪いと団体責任でやられます。お尻が黒くなって、入浴の場合はタオルを巻いて隠したものです。(353頁)

・・・そのうち、私なりに考えて、船の底の汽缶は駄目だと決めて、班長さんが沖縄出身の方でしたが申し出て、横須賀の工機学校を希望し許可され、昭和十九年一月二十七日横須賀目指して佐世保から新兵二十人同行出発しました。・・・
 従軍の全期間を通じて、工機学校の三ヵ月が最も苦しかったと思います。毎夜の精神棒は勿論、実習中に不都合があると上の人からその場にあるスパナとかハンマーとかで頭を打たれ、時として不運な学生は頭部裂傷も出る始末。とにかく地獄でした。
 昭和十九年四月やっとのことで卒業出来ました。ところが学校を出ても乗る船が無く、待機しているうちに、五月七日長崎県大村航空隊へ仮入隊と決定。大村には一ヵ月いました。
 大村では電気とカマ(汽缶)に分けられました。私はカマは嫌いだったので電気に入れられました。広い大きな配電室に沢山の配電盤その他計器類がズラリと並んでいます。「これから説明をする。よく聞いておけ。今夜から配電盤の当直だ」と言って説明が始まります。新兵ではあるし、十人ぐらいの同年兵が全員目を白黒。とにかく当直に立つ、すぐ完全に任務が出来ない。毎晩整列。精神棒。普通に立っていると棒の力で吹っ飛ばされるので、壁に向かって両手で体を支えて棒を受ける。現在の若者は辛抱出来るでしょうか。海軍魂の気合入れ。経験した者でないと判りません。(354頁)清水
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 翌年一月十日に呉海兵団に入団せよと通知がきました。私は海で泳いだことがないのに、海軍とは大変なことになったと思いました。・・・陸軍との差異は海軍には軍人精神打ち込み棒というものがあり、ちょうど野球のバットを大きくしたような木製の棒で、一人の失敗は全員の責任だと言って、連帯責任を負わされることでした。そのような事故、失敗者、守務違反者が出た時は全員の尻が精神打ち込み棒の洗礼を受けました。三打罰・五打罰といって力いっぱい叩かれました。尻の皮が腫れ上がって便所へ行っても屈むのに涙が出る程痛かったものです。個人的な私的制裁はなく、自分は青年学校を卒業していたから他の戦友より何かについて有利なことが多かったのですが、全隊責任の罰は致し方なく同罪でした。(341・342頁)
・・・自分達の乗船(艦)は最新鋭の航空母艦「瑞鶴」(五万七千トン)で、これに便乗しての出陣でした。艦隊勤務の厳格さは、海兵団にいた時以上に激しいものでした。精神打ち込み棒が一日に何回も風を切って尻に飛んできました。歩行困難なほどに腫れ上がりました。(342頁)片桐
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・・・その後私は大阪の被服廠へ徴用となったが、勤務は予想外に厳しく、点呼で対抗ビンタを取られることもあったので、進んで兵役の志願をした。
 昭和十七年十二月一日、歩兵第二三四連隊要員として歩兵第一一二連隊補充隊第二中隊へ入営。十二月十七日、転属のため丸亀を出発。以後下関、新義州で朝鮮へ入り、山海関を通過し、北支那より南下し中支へと輸送された。
 その輸送中の出来事であるが、浦口より南京へと揚子江を渡り、兵站宿舎で二日間を過ごした。同年兵戦友と三人で景色の良い所へ行ったら、歩哨に捕まり衛兵所へ連行され、衛兵司令より気合を入れられて、顔は腫れ上がり、口の中は切れて出血。ほうほうの態で宿舎へ帰り上官(兵長)に報告。兵長殿は「よし!その衛兵所へ俺を連れて行け」と新兵三人を同行して衛兵所で「前線の第一線要員として輸送中の大事な兵を、些細なことで傷つけるとはどういうことか。南京あたりの後方で楽に警備しているお前等とは大違いの大事な兵だ。何故殴ったか? 理由次第では承知せん。上級の隊長と談判する。返事は?」と恐ろしい剣幕で抗議した。同じ兵長の衛兵司令も最後には陳謝して事はすんだ。私等三人は「頼りになる兵長殿!」と信頼を高めた。(326頁)高橋
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・・・私の入隊通知が八月十五日に来て、翌月の九月五日に山形連隊(北部第十八連隊)に入隊することになりました。・・・
 内務班は生死・苦労を共にする軍人の家庭ですが、あら探しの名人の万年一等兵と言われる程度の低い古年兵が一人いて、万事文句を言っては、ビンタも手で殴られるのは良い方で帯革ビンタの雨、初年兵同士での対抗ビンタもやらされました。(282頁)今田
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 私達は槍部隊(独立混成旅団)の独立歩兵第一〇五大隊で第二中隊は杭州より自動車で所要時間約三時間離れた余杭を警備していました。
 私達初年兵はこの部隊初めての現役兵で大歓迎を受けました。翌日より班長、初年兵係による猛訓練が始まりました。毎晩、初年兵と背嚢は叩けば叩く程良くなると言って叩かれて、昼間の訓練、夜の内務と昼夜一寸の油断も許されない猛鍛錬が続きました。(274頁)山本
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 私は、徴兵検査を受けた昭和十五年の暮れに召集令状がきて、鳥取の歩兵第四十連隊に入りましたから、甲種合格になった人より早く軍隊の飯を喰ったことになります。・・・
 しかし演習の終わりで兵器の手入れの段になると、小銃の中に入った砂の除去に大変泣かされました。一小銃の中に入った砂の除去に大変泣かされました。一粒でも砂が見付かれば「手入れ不充分」でビンタか捧げ銃などが待っていました。そのころの印象は強烈に私の脳裏に残っているのか、あれから六十年を経た今でも夢を見ます。小銃を紛失した夢を見て、どうしようともがいて、目が覚めて夢で良かったと、ほっとするのです。(262・263頁)

 少しは軍隊生活に慣れてきたかなあと思い始めた昭和十六年三月十六日に宇品を出航して北支の塘沽に上陸、天津、保定を経て石家荘に着き、トラックで約一時間余り東南に向け走り、威県という小さな町に着きました。ここに私の所属する第百十師団第百四十連隊第四中隊の本部がありました。・・・
 最初、軽機手を命ぜられましたが、貧弱な体格の私では軽機が重くて走ることもできず、動作も鈍いので途中で交替してくれと文句を言ったらビンタをもらいました。戦後、伍長に会った時「あんたにビンタをもらいましたなあー」と言ってやったら変な顔をして黙っていました。(263頁)田中
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 六月一日、幹部候補試験に合格し集合教育を受ける。いよいよ将校生徒としての教育で、その責任の重を身をもって感じた。十一月三十日、集合教育終了、十二月一日付、陸軍軍曹となり北支保定陸軍予備士官学校に入校した。将来の将校としての、観測、通信、専門の指揮班の教育を受けたのである。・・・
 また、もう一つの忘れ得ぬ思い出は、消灯後、隣の戦友と笑いながら話をしていたら、そこに週番士官の巡察があり、戦友と二人週番士官室に連行され、「消灯後に話をしているとは軍規に違反する」と、下着のままコンクリートの防火用水槽に五分間首まで入れられた。何分にも厳寒二月の冬の夜であった。このように、将校生徒としての見せしめのための厳罰である。これは一生忘れられない体験であった。(227頁)青山
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昭和十七年
四月  一日 召集で姫路中部四六部隊応召
・・・旗の波と大合唱に送られて列車で姫路へ出発、無事入隊し新兵教育に励みました。周知の通り毎日の朝夕ビンタを喰らい、内務班教育の厳しさを体に叩き込まれました。・・・
 服装検査、兵器検査、軍装検査とまた気合の掛けられ通しで、在郷では味わえない苦痛に満ちた新兵期間を涙を流し歯をくいしばり、故郷を出る時の家族、友人、町民の激励を思い起し、これも御国のためと頑張ったことでした。(216・217頁)寺川
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 私達の栄光に輝くべき大学の卒業式はまた、戦争への門出でもあった、昭和十七(一九四二)年十月一日、仙台東部第二十二部隊歩兵連隊に陸軍二等兵として入隊。いわゆる初年兵の始まりであり、まさに激動の我が青春の始まりでもあった。(463頁)
 毎日の演習のつらさ、規律の厳しさ、汚れた下着を着ていると早速ビンタのお見舞、といって洗濯する時間もなく、揚げ句に上官の下着まで洗濯しなければならない。食事の用意、食後の後始末、掃除、雑用は皆初年兵の肩にかかっている。少しでも手を抜くと「セミの鳴き声」といって柱に登り、自分の鼻をおさえてセミの鳴き声をまねる。あるいは「ウグイスの谷渡り」と称してベッドの下にもぐり、隣のベッドとの間から顔を出し、またもぐって次のベッドとの間から顔を出す。こんな罰則がすぐ適用される。(464頁)
・・・そして前橋陸軍予備士官学校入校になったのである。・・・学校での生活を一部取り上げてみると

1、起床ラッパが鳴り、起きて服を着、毛布をシワ一つないようにたたみ、枕を一線に揃え、窓ガラスをど真ん中に開け、靴を履いて校庭に出て全員整列完了まで五分間、校舎の出口に下士官が剣道で使う竹刀を振り上げて待ち構えており、五分を経過した者は竹刀でいきなり頭を殴られる
2、校舎から一歩でも校庭に出たら駆け足、歩いているのが見つかると営倉(学校の留置所)一日の罰。
3、集合時間一分遅れたために一分間の時間の誤差があると戦闘機なら何キロ飛んで行くし、騎兵隊なら何キロ進行する。作戦に大きな誤差が生ずるということで、罰として校庭を三周六キロの全力疾走。
4、敵襲があったと仮定して夜中に突然起こされ、武装して整列するという「非常呼集」と称されることが一晩に十三回。寝る時間全く無し。
5、慶応卒業の男爵の息子ともう一人が、敬礼の仕方を間違えたために、「将校生徒たる者が間違えるとは何事か」と言うことで全員集合。百五十人の前でカシの木刀で尻を十回たたかれ、内出血で陸軍病院に入院してしまった。(465・466頁)森
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私は茨城県友部の筑波海軍航空隊に約百六十人の学生とともに赴任した。(448頁)
私を含め一一〇人の者は戦闘機教程に所属が決まり、それぞれの教育練習航空隊に転出していった。私は大分航空隊に行くことになった。
 その晩、集会所に集合させられ、「娑婆っ気を抜いて、海軍精神を入れてやるから有り難いと思え」と海兵を卒業した飛行学生達が理由もなく、一人少なくても十発ぐらい、中には卒倒する者が出るくらいの鉄拳の洗礼を受けた。(449頁)加美山
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 佐世保海兵団に入団し第四十六分隊であり、・・・教育中のバッタ(堅い棒で尻を叩く)を私は一度だけしか食わなかったのですが、団体としてはやられました。(430・434頁)近藤
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 私は、昭和十七年志願兵として、九月一日、大竹海兵団(呉海兵団は満杯のため)に入団した。・・・少しでも過失があれば、連帯責任で、樫の棒(バット)で臀を古参兵に叩かれる。従って初年兵の我々の臀にはいつも紫色の「あざ」が消えることがない。(389頁)池田
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・・・昭和十七年九月一日、呉海軍病院第四十九期普通科看護術練習生として入隊することになりました。・・・
 入隊後三ヵ月の教育訓練は兵科の区別はありません、一般水兵の教育訓練で終始します。起床と同時のハンモックの片付け作業は背の低い私は毎日ビリで、罰として便所掃除に回されました。特に辛かったのが毎晩の精神修養棒による制裁です。連帯責任と称して誰か何かあれば、皆で整列して、太さ六センチぐらいの六角形の樫木棒で尻を、腫れ上がり紫色に変色するほど殴られるのです。時にはブッ倒れないように初めから物に結び付けブッ叩き続ける悪質な制裁もあり、上司からは禁止されていたらしいのですが、分隊上等の不在時をねらって制裁行事が毎晩続けられ、新兵達には全く生き地獄の三ヵ月でした。(385・386頁)安井
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 満州国牡丹江省東寧駅下車、初めて踏む大陸の地、満州大平原を軍靴の音も高らかに大城子の満州第二一二部隊(野砲兵第二十四連隊)に入隊したのが十一月二十五日でした。
 満州編
 第八中隊に配属され、内地での石橋忠幸曹長の予言通り石橋登中尉の中隊でした。・・・
 消灯ラッパが鳴ると藁布団の中に入りますが、消灯で廊下の灯りだけで薄暗くなると進級遅れの二等兵が二、三人小声で「初年兵、集合」と。初年兵は素早く食台横に整列、補充兵も一緒です。「貴様等タルンどる。足を踏んばれ」と一メートルぐらいの精神棒で小突きながら二言三言言った途端、帯剱用の革ベルトが頬に空を切ってくる。革スリッパが顔へ……。翌朝は洗面は水で濡らすのみで、朝食は口が腫れて嚙むことが出来ず、味噌汁で流し込むのです。
 関東軍の私的制裁はさすがに凄いものでした。(366・367頁)馬場
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 私は昭和十四年三月二日、大阪に集合、朝鮮の清津に上陸、軍用列車で豆満江の国境を通過、九日琿春に到着、琿春駐屯隊歩兵第八十八連隊第一歩兵砲中隊に入隊しました。・・・
 関東軍名物のビンタは当然猛烈で、軍靴や上靴ビンタの嵐は初年兵を見舞いましたが、私は幸いにも戦友に恵まれ、内務班の先任上等兵が当たりましたので、夜の点呼後古年兵が「初年兵、整列!」と気合をかけると、戦友の先任上等兵が「郡司! これを洗面所で洗ってこい」とわざと私を逃がしてくれたので助かりました。
 洗濯が終わって班内に戻ると、他の初年兵は皆顔を赤くはらしていました。内務班長の小松沢軍曹も私を可愛がってくれ、当番にしてくれたので助かりました。私が初年兵の中で一番助かったと思っています。(287・288頁)郡司
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 前述のとおり、昭和十四年八月、山形連隊へ応召入隊、初年兵教育の基本は「軍人勅諭」を忠実に勉強し訓練に励むことでした。また入隊と同時に「誓文書」を書かされて中隊長に提出しました。班内へ入ると例の私的制裁がありました。初年兵が全員横一列に並ばされて、親にも殴られたことがないのに、数回力まかせに殴られました。この悪い思い出は一生忘れません。一般家庭や社会では行われない蛮行ですが、軍隊という特殊社会では、教育鍛錬の一助として広く実施れていました。(276・277頁)寒河江
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・・・二月二十三日朝鮮羅津に上陸、直ちに貨車に乗せられ、二、三日後、満州東安省虎林に到着、歩兵第七一二部隊に無事入隊をする。・・・
やがて消灯ラッパが鳴ってベッドに入ったかと思うと、教育係に起こされて精神訓話であり、班内の誰か一人がへまなことをすると、班内全員の責任だと言ってビンタが飛んで来る。軍隊という所は絶対に言い訳がきかないところである。その当時は人生の苦しみを一年間で味わったと思った。(271頁)越智
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・・・三月になったというのに満州は寒く、目的地勃利に着いのは三月六日と記憶しています。・・・
 いよいよ、独立守備隊第三十四連隊第一中隊入隊です。初年兵教育は、小銃、軽機関銃、擲弾筒、馬が五頭、乗馬と駄馬で、馬は十五頭ぐらいで飼育の世話をせよとのことです。
 初年兵教育の時、中隊には古参兵で癖が悪く進級しない万年一等兵が数人いて、二年兵からそばへ寄るなと教えてもらい助かりました。初年兵時代は古兵や上級者からビンタ(罰として頬などを叩る)をもらいましたが、私は少ない方でした。特に、鈴木部隊長が大変良い人で、今まであっ「私的制裁を禁止する」とたやかましく言われ、中隊内でのビンタは少なくなってきました。軍隊での初年兵時代の教育訓練は当然厳しいものですが、それより辛いのは内務班での私的制裁です。一期の検閲も終了し、やっと一人前の兵隊になり、満州の気候にも慣れて、二年兵になってから私は自分の体験から、可愛想だから下級者にビンタはとりませんでした。(233頁)寺本
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 翌昭和十五年四月、十五年徴集の初年兵が入隊して来たので、初年兵係を命ぜられ、三ヵ月間の教育を行う。自分達が味わった初年兵当時の苦しい内務班教育、そして演習、特に、誰しもが味わった教育時のビンタは、あのようなつらい思いは、出来るだけやりたくないと思った。しかし、どうしても教育上やむを得ず、二度ビンタをくれたことがあったが、復員後その者達と戦友会等で会った時、心から謝罪の念にかられたものだった。(224頁)熊田

私の入隊先は支那の高射砲第十五連隊第五中隊(甲一四〇九部隊梁田隊)、場所は北京とのこと。・・・
 当然ビンタは覚悟していましたが、一般によく言われるシゴキは覚えがありません。五回か、六回くらいしかビンタの覚えがありません。その点助かったと思います。(165・166頁)山内
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 四月十日、徳島歩兵連隊通信中隊に入隊し、軍人勅諭に基づく三ヵ月間の厳しい教育訓練を終了。。一期検閲を受けるため岡山の日本原へ移動しました。
 私は兵隊検査で第一乙種となった時から、「やがては必ず入隊の日が来る。それまでに一日も早く軍人勅諭を丸暗記しなくては」と、在郷軍人会の先輩からの指導もあり、毎日努力を重ね、入隊時には楽に大声ですらすらと朗詠できました。そのためか新兵教育の期間中は模範兵として取り扱われ、いろいろと楽をさせてもらいました。・・・
 また、中隊の小隊長さんの一人が野戦帰りで片足が悪く常に自転車を使用していましたが、私はその自転車も整備点検し、軽やかでピカピカに仕上げて、小隊長の将校さんよりお礼を言われたようなこともあり、対抗ビンタや、きつい苦しい制裁とかは、予め適当な理由で隊から外れて楽をさせて、もらったりしました。(160・161頁)

・・・武昌に上陸。鉄路南下。横江橋に駐屯する第四十師団第二三五連隊通信中隊に配属となりました。
ここでは初めの三ヵ月間は主としてモールス信号、五号無線機の操作の教育を受けました。この三ヵ月の間、初年兵三人で消灯後、チャン酎を飲んで深酔いしました。折悪しくその夜「初年兵集合」がかかり、三人は酩酊です。平素より要注意の○○新兵が首謀者と分かり、私もビンタの二〜三発やられましたが、○○君は徹底的にやられ、数日間は班内で臥床の状態でした。半殺しにされました。(162頁)池田
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