久間(ひさま頁)健一「朝鮮農政の課題」昭和18年12月25日初版発行

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著者略歴
大正十二年 水原高等農林学校農学科卒業
同年 江原道農事試験場勤務
大正十五年 水原高等農林学校助教授
昭和五年 朝鮮総督府道小作官補
昭和八年 朝鮮総督府道小作官

著者略歴
宇都宮高等農林学校卒業
同校助教授を経
現在、朝鮮総督府小作官
京畿道庁農政課長
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以下抜粋
「第一篇 朝鮮農政の展望」
第一章 農業機構の基底を流れるもの
一、はしがき
二 権力的なもの(6~13頁)
 朝鮮農業に関する官庁的指導が、組織的に開始せられたのは併合以来のことであるが、それは当初より極めて権力的であった。朝鮮総督府を始め、道、郡、面と系統的官庁に配置せられた、数多の農業指導者の活動は、国権主義的意識に極めて旺盛な人々を以てせられたが故に、農民に対する指導は恐ろしく権力的であった。次に掲ぐる繁野秀介氏の談話は、その間の消息を物語って遺憾なしである。2)

「其の当時の我々技術者は、銃及びビストルを携帯して……尤も比の銃器は官給品であります……指導奨励に従事したのであります。何故銃器を携帯したかと申しますと、其の当時は暴徒の横行が盛んで有りまして、何時暴徒の襲撃を受けるか判らないからでありました。(中略)少し遠距離になりますと頗る危険でありますから、昼は終日指導に従事し、夜は農民を集めて講話を致し、就寝する時は里長の宅か、又は酒幕で銃を抱へて壁に寄り掛った儘、転寝をして暴徒の襲撃を警戒し乍ら宿泊したのであります。」

 優良品種の普及を初め、耕種技術の改善、肥料の増施、堆肥の造成等々の凡百の農産増殖的な指導の数々は、知識と資力なき農民に直ちに強制せしめられた。之等の農産技術的な指導の凡ては、民度を顧慮する暇もなく、個々の経済を吟味する余裕もなく、官庁的画一性を以て、統一的計画の下に遂行せられたのである。
 例へば、之等の権力的な農事指導の最も集中せられた米作農業について考へてみる。今日に於てこそ、朝鮮を旅する人々の眼には、水利組合地区内は固より、相当奥地に至るまで、優良品種が普及し、改良苗代が作られ、正条植が徹底し、稗抜きが励行せられて、朝鮮稲作の躍進的発展に、驚異の眼を見張るであらうが、その発展の裏には、官憲の驚くべき強行軍的な農業指導の歴史が織り込まれてゐるのである。指導者の正しい指示に従はざる苗代は踏み破られ、正条植に応じないものは、苗を抜きすてられて再植を命じられる。稗抜きは幾回となく統一的な計画の下に、農民を動員して強行せられる。これらの所調「官の指導」に従はざるものは、警察の説論を受け、或は時に強制力を以てしても強行せしめられる。栽培品種に就ても同様一定の奨励品種が定められ、之が年次的普及更新の計画が立てられると、最下級の行政単位たる面に至るまで、年次計画が系統的に整然と確立せられて、定められた品種以外の栽培は禁止せられ、農民の意欲に闘せす強力的に実行せしめられる。更にまた、収穫期に就ても適期刈取が喧かましく強行され、刈取れば乾燥に就て、乾燥すれば調製に就て、脱穀機の使用や筵蓆使用が強制せられる。稲の脱穀調整に筵を敷かないものは、道令を以て科料に処すとい簡単な法令を以て之が実行を強要し、違反者を処罰した事例は米作地帯の各道が既に経験せる所である。3)之を要するに、苗代に下種すべき種子から脱穀に至るまで、微細なる生産過程の隅々までも、指導の触手は浸み渡って、専ら強行的に実施せしめられたのである。この意味に於て、今日まで斯る強行的な指導を、執拗に絶間なく繰返して来た、技術指導者の努力は大いに評価されねばならない。今日朝鮮の米作農業が躍進的発展を遂げ、商品債値高き米が滔々として内地に送られ、ために内鮮米作農業対立の危機を産むに至ったのは、他の理由もあるが、斯る強力的な増産的開発が執拗に繰返された永年の努力の結果でもある。
 まことに朝鮮の米作農業の開発は、それが膨張する内地人口に対する食糧供給といふ、国防経済的自給政策の必要のために、何よりも先づ開始さるべきものであったが故に、しかも指導の対象たる農民は、技術に於て、資力に於て、何物をも有せざりしが故にこそ、最も極端な権力的指導が加へられたのである。しかも斯る権力的開発は日本人的な性急さを以て行はれたが故に、農民の理解といふことなどは願慮せられなかったし、顧みる暇もなかったのである。農民は唯官庁的指導の命するまゝに、配給された種子を、教へられた苗代に播き、与へられた田植縄によって正条植を行ひ、定められた日に肥料を施し、除草を行ひ、命ぜられた日に稗を抜き、刈取を行ひ、示された方法に従って乾燥調製を行ふのみであった。そこには唯監観と命令のみがあった。若しありとするも農民の創意の如きは全然存在しなかったのである。
 人々は、今日朝鮮に於ける米作農業に対する、官庁的指導の体系を子細に吟味せられるがよい。それは凡て農民に対する権力的な強制に終始して居る。それはまた、食種の国防経済的自給政策を貫徹するために、必要欠くべからざる槓杆であり、それ自身の必然的要請でもある。而して斯る権力的な官庁的指導は、大正九年産米増殖計画の実施せらるゝに及んで、益々拍車をかけられたことは云ふまでもない。
 権力的な農業開発は啻に米作農業のみではない。他の一例を棉作に就て見る。朝鮮で棉の奨励を始めたのは明治三十九年頃であるが、この新来の作物を農民に栽培させることは容易でなかった。之がため当時は憲兵や巡査までを動員して、強制的に栽培せしめたのであった。のみならず棉を栽培しない農家にして、麦や大豆を作ってみるものは、強制的に、大豆や麦を足で踏み倒してしまったことも一切〔ママ「再」の誤字か〕ではなかった。そして最後には、官憲の意を体して棉を作るものには奨励金を交付した位であった。4)その最も極端な場合は、笞刑を以て綿花栽培を強制した次の一文によって、如何にその開発が強力的であったかが知られるであらう。5)

「全南珍島は古来難治の地方でありまして、とても陸地棉栽培など承知しませんので、(中略)郡庁に郡守を訪ねて御願致し、栽培者を物色して呼び出し、必ず播種するやう厳重に申渡して貰ったのです。処が頑固で中々応じない。そこで郡守は之に笞刑を命じ、始めは軽く打たせてをりましたが、依然として承諾しないので、段々と強く打たせ二十回臀部を打たせ大分局部が赤く腫れ上った頃になりますと、愈々兜を脱いで播種することを承諾しました。(後略)」(千葉喜千彌氏談)

 今日でも棉作奨励に於ける斯る強制は、その態容こそ異れ依然として存在する。所請「棉花増産計画」は道、郡、面、と系統的に樹立せられ、部落に於ては適地選定の名の下に、個々の農家の耕作地に、棉の裁境面積と氏名を記せる棒杙(原文「木」偏に「戈」)が半強制的に立てられ、一たび下種せられるや、摘心、摘芽、施肥、除草、等々の裁培技術の細部に亘って濃厚な強制的指導が加へられ、そこには農民の自主的行動の影は殆んど見出されないのである。それは恰も南部アメリカの棉栽培地方に於けるクロッパー(Corpper)〔綴りママ〕のそれにも類するものである。
 斯くして生産された棉花は、販売市場に強制せしめられる。官憲は栽培面積と作柄によって、収穫量を予定し、販売すべき数量を定め、と云ふよりも予め定められたる年次計画に随って、予定販売数量の実現に並々ならぬ努力が払はれ、目的の貫徹に懸命の活動が行はれる。そこには時に管轄を異にする両官庁の間に販売棉花の争奪に就て争を醸し出すことさへある。そして勢の赴く処、予定販売数量実現のため、指導者は栽培農家の家屋を点検して、隠匿せる棉花の捜索を強行することさへもある。
 更にまた、棉作に於ける権力的強制に関連して注意すべきは、繰綿器の使用禁止収納である。自給を抑制し棉花を販買市場に強制動員せしむるためには、このことは必要欠くべからざることであった。当局は種々なる手段を以て農民の繰綿器の使用を禁止した。こゝに農民の自然経済に対する強力的な破壊作用の一断面が見られる。
 朝鮮の棉作、就中、外来的な陸地棉は、農民にとっては未知の作物であり、之が栽培は経験せざることであった。しかも自給経済に慣れた農民経済にとっては、棉花の如き販売作物の経済上に於ける地位を理解することは困難であった。茲に辛うじて自然経済的な孤城を守る農民経済に対する、外来的な貨幣経済の侵入が展開せられる。すべてのものは理解を必要としなかった。否そんな間どろかしいことは、日本人的性格の許す所ではなかった。そこに必要であったものは唯強制のみであった。今日の棉花増産の結果は一に此の強制によると云ふも過言ではない
 朝鮮に於ける棉花増産計画は、昭和三年を以て第二期計画を終ったが、昭和八年に至り、新規に棉花増産計画が樹立せられ、最近の国際情勢に鑑み本邦棉花の自給を図るため、棉花増産は益々拍車をかけられつゝある。「南棉北羊」の宇垣スローガンの喧伝これである。斯くて朝鮮に於ける綿花栽培は益々農民への強制を強めて行くのみか、最近に於ける国防経済的自給政策の強化は、益々棉花の強力的増産へと加速度を増しつゝある。 
 人々は朝鮮総督府の統計表に現はれた、棉花の作付反別及び収穫高の始政以来の発展程度を注意深く見なければならない。それは、農業生産体系に於ける資本主義的分化の編成替であり、自然経済の解体による商品経済への転化である。朝鮮の農民経済の斯る解体転化は、啻に棉花のみならず米、繭等の販売作物の強制的増産政策の結果にもよるものであるが、斯る権力的な官庁的農産開発の触撃が、農民経済の貨幣経済化の一線と併行する所に、権力的開発の持つ反面の意義を見出し得るのである。
 以上、米作及び棉作の代表的事例に就て、朝鮮農業の強力的開発の如何なるものかを述べた。それは云はば「監視と命令」によって行はれた開発であり、自発的なものの全く認められない外来的強制である。随って、農民自らの観点に立って考へるときは、凡ての経済活動は、彼等の創造を許されないし、(又その力もないが)だと云って、停滞的な父祖伝来の旧法を踏襲することも許されなかった。そこには監視と命令とによって強制せしめられた近代的開発の軌道があるのみである。この軌道に従ふものは、善良な農民であり、進歩的な農民であった。言葉を換へて云へば、農民が曾つて有した経済的自動性は一挙にして破壊せられ、新たに与へらるゝを余儀なくされたものは、外在的な強制による他動的な経済活動の軌道であった。この急激な経済活動の変革は、彼等自らに、之に順応する知識も資力もなかりしため、そこに恐ろしき撹乱が巻き起されたのである。朝鮮農民の膨大な貧農暦への顛落は、斯る経済活動の他律的強制的変革による撹乱に、打克ち得ざりし一の現はれでもある。
 まことに、朝鮮農業の近代的開発は、祖国日本の国権主義的意識の下に、権力的に行はれたのであった。しからば、斯る権力的な開発は何れの方向を採ったか? それは取りも直さず、近代的農産開発であり、自給自足経済から商品経済への強力的な編成への方向を執ったのである。農民経済の貨幣経済化こそは、植民政策の第一の定石であり、これを通じてのみ初めて近代的農業務展の可能性が約束せられるのである。随つて朝鮮農業の基底には、極めて国権的背景の濃厚なる資本制的なものが、流れつゝあることは、吾々の容易に想像し得るところである。
 朝鮮農業に於ける権力的な官庁的触撃の如何なるものかは、以上によって知られ得るであらう。然し午ら、斯る編撃は、本質的には企業者的な編撃と解することによってのみ、真の意義を求め得られるのである。開発途上に於て官庁の演じた企業者的役割こそは、権力的な触撃の奥深くに秘められた核心である。吾々は斯る権力的そして企業者的な官庁的触撃の典型的なものを、組織ある国家資本の動員によって遂行せられた、彼の所謂「産米増殖計画」に見るのである。
 権力的な官庁的触撃は、それ自らが企業者的触撃であるのみならず地主、資本家の行ふ企業的触撃との間に、本質的な共通点を求め得られるのである。きればこそ地主、資本家による所謂「農事経営」の開発的触撃は、それ自らに於て官庁的な強力を以て行はれた許りでなく、多くの場合官庁の権力的触撃と提携することによって、より多くの企業利潤を獲得したのである。言葉を換へて云へば、官庁は時に地主、資本家に代って企業者的役割を権力的に行ひ、地主、資本家は時に官庁に代って、または官庁的権力の背景の下に、強力的な触撃を農民に加へることによって、企業者としての利益を確保したのである。朝鮮農業の基底を流れる権力的なものは、かくて資本制的なものと緊密な結合関係にあることが知られる。7)然らば、資本制的なものとは如何なるものか?

2)朝鮮農会報(第九卷、第十一号)始政二十五周年記念、農事回顧座談会号、四〇―四一頁
3)前揭書、二〇頁
4)前掲書、九、二〇、三六頁
5)前掲書、四四―四五頁
6)朝鮮總督府、朝鮮の農業(昭和九年頁)、七一頁
7)矢内原忠雄、帝国主義下の台湾、七〇頁

(以上「二 権力的なもの」全文抜粋)

 外来の企業的地主は、明治三十年代の未だ韓国の国情騒然たる時代に於て勇敢なる進軍を開始した。当時生命の危険を冒して土地の買収に従事せる内地人地主は、主として土地経営の有望なる南鮮に集中せられ、年と共に次第に北上したのであった。吾々は当時全南にあって土地の買収に従事せる兵頭一雄氏の経験談を掲げて、以て国権意識に燃えたる内地資本進出の状況の一端を説明せしめたい。9)

「当時この全南に開拓のため来て居った内地人農場の空気は、今の満州の武装移民を思ひ出すのであります。私共が土地の買収に出ますには、腰にピストルと望遠鏡を下げまして、而して二里三里の田舎に出掛けて農場としての有望なる土地がどこにあるかを探しに行くのですが、その時にはどこの山で内地人が殺されたとか、人質に日本人が何人も拉致されたとか、必ず耳にしたものであります。」(兵頭一雄氏談)(14頁)

 朝鮮農業に於ける資本制的支配の最も顕著なるものは、外来の企業的地主経済の小作農民に封する資本支配これである。上層から注入された多額の資本が、最下層に於て、毛細管的接触を、農民経済に作用しつゝ、再び利潤を内包し、上層へ復帰上昇して行く過程こそ、まさに吾々の注目を必
要とする所である。
 今慈に、企業的地主の農民支配を考へる。地主は先づ所属小作人に対して、極めて地主主義的な精細厳重なる耕作方法を強制する。彼等は先づ農民に対して栽培すべき品種を指定する。この品種の指定は初論販売市場に於ける有利性によって決定せられる。こゝに農民の生産過程に於ける資本の支配の第一歩が始まる。品種の指定が行はれるや、一切の栽培技術は間断なく秩序的に命令せられ監視せられ、その埒外に一歩たりとも出づるを許されない。農民は唯労働者の如く柔順でなければならない。定められた時期に植付をし、定められた時に草を取り処方箋の如くに肥料を施す。許されたる部分は資本の利益に闘係なき、極めて軽微な監視と命令に値せぬ些事に限られるのみである。
 施用すべき肥料の種類も用量も、使用すべき農具も、凡て地主によって決定配給せられ、之に従はざるものは不良小作人の烙印を打たれて放逐せられる。地主はこれらの生産技術を凡て小作人に代って決定し配給する。これがために、多額の低利資金が官庁によって地主経済に幹旋供給せられる。曰く、肥料資金、曰く、農其資金……。
 作物が成熟期に達すると、収穫の時期が制限せられ、地主は単独に小作料を決定通告する。打租制の如き場合には、刈取、脱殻に一々監視人が付けられる。愈々収納となれば、小作人の運搬せる小作籾は、乾燥、調製、容量、重量、包装の細部に互って厳重な検査が行はれ、それに合格せるもののみが受領せられる。若し品質にして不良なれば、契約によって再選を命ぜられ、或は逆に補償金を取られる場合すらある。斯くして品種の統一せられた、規格の整一なる籾の大量が、地主の倉庫に積み上げられ、地主自身の手によって製玄されるか、或は時期を見て精米業者と大量に取引せられる。
 然し乍ら、地主の収得する籾は単に小作料籾のみではない。小作料籾の納入告知書にはこれに付随してもろもろの前貸資本の請求が行はれる。曰く肥料代、曰く農具代、曰く貸付金、曰く農糧籾、曰く種子代、と、……これらのものは出来秋に於て換算せられ、すべて籾を以て余す所なく回収せられる。随つて農民は、全収穫籾の七割乃至八割を地主の倉庫に納入するを余儀なくされる。斯くて流通過程の起点に於て、すでに資本は自らの支配を迅速周到に完了するのである。
 小作農民に対する斯る資本支配は、単に自らの属する地主の資本のみに限らない。地主とすべてを決済し、幸ひ剰余籾を存するも、それは地主以外の資本によって更に支配せられる。農村に於ける商業資本、高利貸資本の支配これである。斯る資本の支配を受けざるとしても、食糧不足のために零細なる剰余籾は換価せられて、市場に流出して行く。朝鮮米の著しき内地移出は、まさに斯る強力な資本支配の結果であり、農民から云へば、これこそ正に「飢餓移出」の現はれでもある。それは決して三餐に飽き尚剰す所を移出するのではない。斯くして農民経済の隅々にまで、毛細管的に浸透せる資本の触手は容赦もなく生産過程と云はず、流通過程と云はず、全面的に支配し、農産物を商品市場へと強制動員して行くのである。
 斯る農業に於ける資本制的機構は、何れの植民地農業に於ても見受けられる所である。それは資本主義と非資本主義との接触に於ける当然の結果であり、それが常に収奪的傾向を帯ぶることも亦当然である。而してその収奪性は、農民の経済が貨幣経済を距たること遠き程、顕著にあらはれることも亦絮説するまでもない。10)
 朝鮮農業は曾つて、主として南鮮を対象とせられた米作農業を中軸として、極めて資本制的な開発が弾力的に行はれて来たのであるが、今や斯る経済機構の変動は、次第に西北鮮へと拡大し、全鮮を席巻せんとしつゝある。所請「北鮮開拓」の経済的意義も亦斯る観点よりして把握せらるべきであらう。
 朝鮮農業の基底を流れてゐる、資本制的なものの実相は右の如くである。朝鮮農民の近代経済生活に於ける、深刻な困窮も亦茲に胚胎する。これは協力的にその生産機構を、資本制的に触撃変革せしめられ、しかも自らをこれらの新しい生産体制へ適応せしむることも、ましてや自らをこれらの資本支配から共同防衛することもなし得なかった朝鮮農民にとっては、不可避的な運命とも云ふべきものであらう。(17~20頁)

8)東畑精一、日本農業の展開過程、八二頁
9)朝鮮農会報、前掲書、四二頁
10)矢内原忠雄、植民及植民政策、二一四頁

 昭和九年の農業統計に依れば、、朝鮮農民三百一万戸中、小作農民は二百二十八万戸、即ち全農家戸数の七五%強を占めてゐる。之等の圧倒的多数の農民は、夫々地主との間に一定の小作関係の下に、農業経営を営んで居る。斯る膨大な農民層の土地離脱は、遠く李朝時代の土地制度の紊乱に胚胎するとは云へ、之を著しく促進したものは極めて資本制的な近代的農業開発の必然的結果である。とまれ七五%の小作人は、貸付地主の土地を耕作してゐるのではあるが、之等の地主小作人間の関係は、地主によってその内容傾向に著しき差異が見られる。
 朝鮮の地主を大きく分けて二つの型に分ける。一は企業的地主であり、他は封建的地主とも呼ばるべきものである。前者は主として内地から渡来した営利的な土地投資家であって、前述せる如く、官庁的開発と提携して朝鮮農業の近代的開発に貢献した「先駆者」であり、極めて営利衝動に充満せる地主である。東洋拓殖株式会社を初めとし、全鮮各地に散在せる所調「農場」「土地会社」等は凡てこのタイプである
 これらの近代的地主の小作関係は前述せる如く、極めて資本制的であって、地主と小作人との間には、封建的な従属関係は左程濃厚ではない。そこに現はれた小作条件は、極めて精細厳重で著しく階級的であつて、営利德動に充満せるものである。
 後者は所請在来型地主とも云ふべきものであって、李朝の両班貴族を淵源的主流とする土地所有者群である。(22・23頁)

 この極めて原始的な、技術の低劣な、而もその故に発展なき静態的な旧来の農業に、改良増殖といふ技術的変革を巻き起さんとすることは、それ自体まことに至難なことであった。動かざるもの、動き得ざるものを動かさんとするには、到底内務的なものを期待することは出来ない。随って、これを他動的に動かすより以外に方法はなかった。この動かす力こそ指導に必然的に加へられた強制である。言葉を換へて云へば、農民に封する強制的指導である。これが当時に於ける指導精神に内在せる一つの重要なる特徴であったことは云ふまでもない。一例を当時の棉作奨励に闘する、松井房次郎氏の回顧談に採れば次の如くである。7)

「僕が全北に居る時橘君が農務課長だったが、その時棉の奨励をやったところが面白い。農家に対して、お前の家は来年棉を作るかいくら作るかと云ふので、その作り次第で金を貸してやったものです。さうしてその年行って見ると棉は一つも作って居ない、皆麦を作って居るからその変を全部踏み倒して終った。随分強行軍をやったものです。」

 斯くの如く、当時の農民指導者のイデオロギーには、一種の国権的意識が強く、随ってその指導上に強制が著しかつたことは、国情騒然たるこの時代としては、治安の不充分なる点と相俟って、止むを得なかったことと考へられる。当時の事情の一端として、明治四十二年頃の棉作指導の状況を示せば 8)

「当時の各地棉採種圃の職員は真に生死の巷に身を置いて、之が奨励に当ったものである。即ち指導の為出張する場合は銃(官給品)を持ち望遠鏡を肩にする等、全く武装に身を固め、又少しく遠隔の地の場合は守備兵又は警察官を護衛に付し昼は終日指導に従事し夜は農民を集めて講話をなし、就寝する時は里長又は有力者の宅或は酒幕等にて、銃を枕に靴をはきゲートルを巻きたる儘、暴徒を警戒しつつ、仮睡したと云ふ。明治四十二年一月三日、全羅南道珍島に蜂起した暴徒は、警察署、財務署等に弾丸を浴せ農事経営者の家屋を灰燼に帰し、或は毒手に斃す等基の惨状見るに忍びざるものありたるも、幸に棉採種圃及其の職員は災害を免るゝを得たが、次で三月二十四日、全南霊岩採種圃は数十名より成る暴徒の襲撃する処となり、所員は備品の銃を執って防戦大いに努めたが、衆寡敵せず、途に事務所其の他の物品等悉く焼失せらるゝに至った。唯比の間に在りて五名の職員何れも身を以て逃れ得た事は全く天祐と称するの外は無い。」(67・68頁)

7)朝鮮農会報(第九巻、第十一号、九頁)
8)前掲(※日満棉花協会朝鮮支部)、朝鮮の棉花事情(一八六頁)

 昭和の当初頃より、その萌芽を示しつゝあった今次の農業恐慌は、昭和五―六年に至って愈々その深刻の度を深めた。農産物の急激な暴落は、農民の生活を悲惨なものにした。この世界的不況に於て、朝鮮農業は云ひ様のない様々は苦悩に逢着した。そしてそれをどう切抜けるかが最も切質な問題であった。それは言葉を換へて云へば、農業に於ける指導精神の暴風雨時代であった。そして到る処のヂャーナリストは、声を大にして、農民生活の底知れぬ窮乏を伝へて来た。今その一つの描写を掲げる。10)

「農業恐慌のるつぼの中に四苦八苦の農村の呻吟を尋ねて忠面牙山郡温陽面を訪れた。この附近は綿花栽培に適してゐると云ふので特に忠南道庁から棉作指定郡とされてゐる。いはば産米増殖計画による米作単一農業の弊を排し、多角的農耕によって農村の向上をはからうとの試煉台上にある地方である。しかし如何せん米価の惨落を償ふはずの綿花も底なしのつるべ落しとなり、有難い総督府の方針も世界を吹き荒す恐慌の旋風の前にはひとたまりもなくけし飛んで寧ろ棉作に従つた農民は情けが仇の受難に陥ってゐる。かうなつてはさすが純朴な農民達も有利な副業であるから、大いに作れとの郡の奨励なんかに耳をかさばこそ我らはまづ食ふべきものを植ゑねばならないと悲痛な叫びをあげて、どしどし棉作をなげうつて麦、大豆、栗へと転作をなし、本年の如きは綿花耕作地が昨年の牛分に減じてしまった。指導的立場にある当局者は農民が近視眼的だといってゐるが、彼らは表面大びらに口にこそ出してはいはないけれども生か死かの岐路にあってみすみす損するやうな棉作なんかやれるもんか、少しでも自分達の口を潤す麦でも粟でも作ることが先だとの考へを誰もが抱いてゐるのだ。わづかばかりの畑に植ゑた麦でさへ成熟するまでに待ち切れずに、未だ実もかたまらない乳熟期に刈取つて精白しさらにこれを粉にして粥を作つてすゝつてゐる有様だ。それでもまだ麦が出来るやうになれば多少とも潤ふけ れども、四、五月のいはゆる春窮期には、草の芽を摘み、木の根を掘り、木の皮を剥ぎアカシヤの花を取ってヤット生命をつないでゐる。だがら四、五月ごろはだれもだれもが弾力なく膨れあがって栄養不良となり、むさ苦しいオンドルに水ばかり飲んで寝ころんでゐたものである。ある農業指導員から『農民の最も多忙な田植のいまでさへ粟飯でも三度三度戴いてゐるものはほんの僅かでせう』と聞かされて驚いた。」(76・77頁)

10)大阪毎日朝鮮版 昭和七年六月二十一日(?)〔ママ〕


 既に述べたる如く、朝鮮農業は就中米作農業に於て、偉大なる発展を遂げたにも拘はらず、農民の穀物消費量は、多くの論者の指摘する如く、漸減の傾向を示してゐるのである。このことは第十九表の示す如くであるが、それは米消費の減少と、之と代替する雑穀の潮増でなくして、両者の潮減である点に特質が見られるのである。即ち当然増すべきものさへもが減少してゐるのであって、これはまさに消費生活の乏しき暗黒面を示すものである。
 しかもこの乏しき消費生活は、勿論地方的にも差異あるが、更に重要なことは、それが季節的に極端なる偏位を示せることである。いま米国消費を米穀年度の前半期と後半期に分けて、米穀統計の示す所に従って分類すれば、第二十表の如く、前牛期に於て総消費量の八〇%を消費し、後半期に於て消費すべき量は、僅かに二〇%にすぎない。このことはまさに後牛期の食糧不足を意味するものであって、これが所請「春窮」である。まことに東畑教授の言を借りるまでもなく、「新緑の春は彼等にとっては正に春ではない」のである。春窮の民は依然として尽きない。華々しき鮮米移出量の激増の背後に、斯くの如き反面を見ることは、忘却すべからざる事柄と云はねばならぬ。憐れむべきシンドレラが大群となって、背後に横はってゐるのであって「農民は乏しきまゝに今日の生命を、明日の運命より重しとして、先づ持てるものより胃袋に入れてゆく」ことが実証せられるのである。
 かくて、春窮は朝鮮農村に於ける一つの恒常的な生活現象であって、唯それが「自然のむら気」即ち農作の豊凶と経済界の変動によって、春窮民の量とその質に変動を来すにすぎないのである。いまこれらの最も凄惨な実相を現はすために、昭和八年の早害の中心地たりし、咸南徳源郡豊上、豊下面地方の、農村の春窮描写の一例を掲げたい。7)

『村落に入ると丁度正午ごろである。道ばたのとある一軒に立寄って見ると、家族五人が力なげに寝そべったまゝ、ムシャムシャと頬張ってゐる。「何か」ときいてみると、稗糠に少量の大豆と、つぶし胡麻を混じたものだといふ。家人は何れも目の周りが紫色にふくれ上り、全身に水腫が浮いてゐる。話す言葉も全く力がなくて、丸で蚊のないてでもゐるやうな弱さだ。亭主らしい四十がらみの男が、物憂げにゐずまゐを直してポツリポツリ語るところによるとかうだ。―
草根木皮のあるうちはまだこんなに衰へはしなかった。それもいつか食ひつくしたので、詮方なく今は稗糠に大豆と胡麻を混ぜた粥や粟糠の粥、米糟などを常食にしてゐるが、それでもまだ上等で、時には大根のひげ根の部分や、葛根のたゝき粕を細かく砕いたもの、玉蜀季の芯の部分を包丁でそいだ粉などを、一所に煮て食って飢ゑを凌いでゐるといふのだ。そのうちに子供が腹痛を訴へて、大声に泣き出した。するとその男はチェッーと舌打ちをしながら、危なっかしい足どりで泣く子を抱へたまゝ戸外に出て行って佇んだ。
怪訝に思って彼の仕草を見てみると、尺あまりの棒の先きで、子供の尻を突いてゐるではないか、やがて子供はその男につれられて戻って来た。男はまた話をつゞけ―
粟糠を食ふと大人はさうでもないが、子供は通じが悪くなり、腹を痛めていつもあの通りに泣くし、米糠も子供は胃腸を痛めて困ると訴へるのであつた。
見、聞いてみる自分の胸はグッと押しつまって、痛いくらゐに圧迫感がのしかゝる。次の部落へ入って見た。道ばたに寝そべってみた痩大がまさに踏まれようとするまで、その位置から離れようとしない。漸くのこと自分達の一、二尺前まで来たころ、痩せ弱った脇腹に助骨の波を打たせて、道ばたまでよろめきながら身を避けたかと思ふと、そこでバタリ足を二本づつ揃へて横なげに身を投出してあへいでゐる。雑穀の屑まで貴い生命の糧とされるので、家畜や家禽の口には容易に渡らない結果、鶏も犬も骨と皮で作った剥製同様痩せ切ってしまふのも道理だ。この両部落からは鼠がとうに姿を消してしまった。多分死に絶えたのでせうと伴れの者が説明した。』
 
 以上の描写は北鮮の畑作地帯で、雑穀生産を中心とする地帯に於ける、いはば極端な典型的な春窮譜であるが、之と反対に、昭和八年の南鮮地方の豊作にあっても、穀価の下落による春窮もまた起り得るのであって、春窮が深刻となるのは凶年に限られたことではないのである。いまその一例として、稲作地帯たる忠南牙山郡温陽面地方の農村春窮描写を掲げると、8)

『わづかばかりの畑に植ゑた麦でさへ、成熟するまで待ち切れずに、未だ実もかたまらない乳熟期に刈取って精白し、さらにこれを粉にして粥を作ってすゝつてゐる有様だ。それでもまだ麦が出来るやうになれば多少とも潤ふけれども、四、五月のいはゆる春窮期には、草の芽を摘み、木の根を掘り、木の皮を剥ぎ、アカシヤの花を取って、ヤッと生命をつないでゐる。だから四五月ごろは、だれもだれもが弾力なく膨れあがって、楽養不良となり、むさ苦しいオンドルに水ばかり飲んで寝ころんでゐたものである。ある農業指導員から「農民の最も多忙な田植のいまでさへ、粟飯でも三度載いてゐるものはほんの僅かでせう」と聞かされて驚いた。
各部落をぐるぐる廻って歩いてゐる郡農会の技手さんの話によると、
「郡内のどの部落も、一年中粟さへをがめぬ者が、約一割は確実にありませう。地主から出来秋には一倍半にして返すと云ふ、話にならない高利で籾を借り、市日に粟にでも代へて、粥でもすゝり乍ら、かすかす春さきを過してゐる者は、三割以上もあります。それもこんな不況になっては、地主も貸したところで、秋になって返済するかどうか疑問だから、一斗の籾だってなかなか貸してくれなくなり、どん底の農民達は増加する一方です。地主がこんな心配するのもまた無理からぬ点があるんです。昨年の秋なんか、出来秋になって、籾を安値でこっそり買って、一夜のうちにどこにも知らさず一家をまとめて逃げてしまったのがぼつぼつありました。この秋なんかもっとふえることでせう。こんな全く形容もできないやうな、みじめなどん底生活をしてゐるのですから、金と云ふものは鐚一文だって、手にしたことのない農家だって、決して少くありませんよ。粗末な壁が到るところ落ちて、サバリが四つ五つころがってゐるほか、何んにもないと云ふ農家はざらにあります。」との話に、記者は聞きしにまさるその貧窮状態に戦慄させられた。』

 人々はこの二つの描写を比較せられるがよい。それはともすれば誇張し易き、ヂャーナリストの記事だとは云へ、若干の真実を吾々に与へるものである。そして咸南のそれは自然経済的な春窮譜であり、忠南のそれは貨幣経済的な春窮譜であり、それはまた両地方の農業経済発展の程度を示すものでもあるが、いづれにしても、その帰結する所は、生理的欲求以下に、消費生活が低劣ならしめられてゐることである。
 吾々は故らに、農民の消費生活の低劣なることに就て、表面的な消費統計を掲げ、或はその消費の季節的差異を統計的に示し、或は曾つてありし豊作飢饉、凶作飢饉に於ける、農民生活の窮乏相を、くどくどしく或は説明し或は引用したが、これらはすべて、それが直ちに肉体的な生命線の間題であり、延いては栄養欠乏の間題であることは云ふまでもないのである。換言すれば、農民は最低限度に必要とする、生理的栄養すらも充分に与へられてゐないことが分るのである。第一図は春窮を栄養的に見たる場合の、標式的な生活形態を端的に示すものであつて、斯る状態にある農民にとつては、労働力の生物学的再生産そのものすらも、困難不可能ならしむるものである。しかもこれらの農民は、昭和五年の調査によれば、第二十一表の示す如く、百二十五万戸に達し、全農民の四八%に及ぶのである。(446~451頁)

7)大毎 どん底の農村実相を描く(昭和八年六月十七日)
8)大毎 同記事(昭和八年六月二十一日)

早い話が雑穀に較べて利益の薄い棉を“土”そのものに生きている農民が植える筈はないのだ、然も棉の播種期は麦や粟に較べて最後となっている
この場合決定的な問題は価格だが、今仮りに棉花と雑穀との段収を比較して観ると、菜(七斗)-小麦(六斗)-大豆(六斗)の二年三作の収入五十一円六十銭に較べて、単作棉二作(二百斤)の手取り収入五十六円は一見有利に観えるが、実際は棉花は収棉に三ケ月からの時間を要し、その他除草とか病虫駆除などに雑穀と比較して約三分の一の手間をとる
即ち肥料などと併せて生産費がうんと高くつき、そのうえ気候病虫害などによる危険率が高かったのである
今年は幸に棉価が大幅の値上げを見、農民は大いに感謝しており、供出に対する思想と覚悟が一変して来た程だったが『綿布一尺、米一升』の昔からの通念といい、また満洲棉、内地棉に比べていま一歩の値上りが至当だろう
従来陸地棉作は全々駄目だとされていたこの道が在来棉に変えて陸地棉を取り入れたのが昭和十四年、中和郡祥原面に植えているのを見て“これなら出来る”と始めて奨励したというからまさにロマンスだ、十四年やっと総作付面積の二割ほどだったものが昨年は総面積の九割強となり、今年は殆んど陸地棉に変えられている、農民は然し自家用棉のため依然として在来棉を作りたがる相だが、在来棉の喜ばれるのは低団棉だけであり、それに僅少でもこれを許せば陸地棉との交配の問題もあるし、今や棉花の国策物資としての重要性からも道は在来面全滅の英断に出るべきである・・・

統営郡
慶南の棉花を語る以上は統営郡の存在は無視できない、それ程この郡は棉作雄郡として有名であり、反当収穫の最高記録から供出割合のよいことにおいては全鮮に覇を称えている、しかしその反面に指導者の熱意如何によっては必ず何事も達成し得るという生きた証拠を示したことでも有名である、昭和五年には道内の棉花共販成績で十四位十一万三千余斤であったのが十三年には三百万斤を突破した、その裏面には現在道農務課の棉作技手金盛華氏の血闘が秘められている、昭和六年棉作不適地と刻印を捺されているこの郡へ着任にしてから、無智な百姓を相手に棉作を奨め、或る時は自ら耕して播種し、その跡を部落民が掘起して他の作物を播く、それをまた指導者が大挙して再播種するなど力づくで棉を作らすという涙ぐましい挿話もあり

又ある時は『棉を作らせて俺達の食物を奪う者だ』として棉作技術者達を簀巻きにして海へ沈めると部落民に脅かされたなどの話もいまは昔語りになっている、・・・

南棉北羊といわれる半島で第一位の棉産地として知られている全南道は文字通り“棉の全南”の名を恥かしめない、今や全道をあげて棉花供出に大童となっているが、さすがに本年は大旱害によって播種の成長に悪影響を受けている、だが棉作は全南の生命とされるだけに熱心な当局の督励指導と耕作者の努力がつづけられた結果収穫期前に入り作柄は非常に見直されこの分でいくと可成りの良成績を挙げ得るものとみられるに至った
特に本年は棉花の開花が早かったので昨年より約一ケ月も早く共販を開始、道から各郡に供出割当を行うと同時に産業技手を初め技術指導員を先頭に、各村落連盟理事長が協力して出荷を督励し自家消費の根絶を期して目標数量○○○○万斤を突破せんとものと意気込んでいる、しかし一般雑穀に比べ余りにも棉価が安いという不平が可成りあり、供出の大きな支障となっていることはこの道として注目すべきであるが、当局としてはこの農民の不平不満に対して国策の重要性を説き、供出の国民としての責務であることを強調しつつ出荷の督励につとめている-記者は技手幸村直氏に案内され道内の視察に向った-
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00721947&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA