中国共産党は日本と戦っていない、というウソ
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の続き
十一月十三日からは陳凸鎭に一個小隊が八路軍の討伐に服務した。ここで初めて実戦に出遭った。敵は小高い木立ちの間からパンパンと攻めるので応戦した。ピュンピュンと頭や顔の間を弾丸が飛んで全く生きた心地はなく、戦争の恐ろしさ、人間の殺し合いの恐ろしさを味わった。
 無我夢中で前進するうち、いつしか我が軍は山の頂きに上り、敵は反対に下から撃ってきた。狙い撃っても当たらないのに、運悪く戦友の一人が腹部に貫通銃創を受け手当てもできず即死。戸板に乗せて原隊に運び、直ちにその夜火葬。(77頁)奥野
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十一月七日から十一月十九日まで予東道南部掃討作戦に参加。我が軍有利に展開し八路軍を撃破して開封の連隊本部に戻る。

 昭和十八年一月大隊本部(大毛塞)勤務、某日一個分隊で糧抹輸送を命ぜられ軽機一、擲弾筒一、一二人で行動中寒さのため輸送自動車が停止した。にわかに薮の彼方より敵の声が聞こえ、およそ道程八〇〇㍍の地点を多数の八路軍が進軍してきた。直ちに下車、準備、対戦に備える。そのうち、自動車快調となり乗車するが初年兵二人乗り遅れそのまま走る。安否を心配して任務を終えて帰ったが、二人とも銃剣を奪われ無残な屍となって残っており合掌する。

 二月早川隊分遣隊、東漳鎮警備。三月、三劉砦警備、五月大黄河渡河、第一線中牟県後毛庄警備、敵地区の砦と分遣隊の距離約六〇〇㍍、八路軍の歩哨交替が肉眼でよく分かり、夜間匍匐にて手榴弾がよく飛ぶ。電線工事中、古年兵が狙撃され名誉の戦死をされる。(64・65頁)萱野https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/01/O_01_063_1.pdf

 我々の毎日の勤務は、粛正討伐である。日本側につく北支住民の情報により部落に八路軍進入の報告を受け、便衣隊の服装に替えて敵の少ない時は小銃、または私は拳銃を持って夜間攻撃に出動する。(46・47頁)北口
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自分たちはそこを無事通過して娘子関に到着。鯉登りの滝が何も知らずに美しい流れを彩っています。そこは八路軍が山岳上に常駐していて獲物を狙っている場所です。汽車が速度をゆるめねば車両の側面がえぐり傷つく狭さです。(26・27頁)柿島
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治安は悪く住民の大部分は逃亡し、ゲリラがどこから出てくるかわからない。特にこの地域は、共産軍が勢力を盛り返し、盛んに住民工作をやっているので、夜間の宿営の間は警戒を厳にする必要があった。(200・201頁)西村
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准陰付近は八路軍の拠点で治安悪し。(170頁)杉江
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十月にはいると秋期山西粛正作戦に参加。これが最初の作戦参加で、八路軍との戦いで、一日十数里の昼夜なき行軍がつづいた。
・・・最前線で日中は銃剣術の猛練習、夜になると八路軍の襲撃をたびたび受けたが、われさきに走って敵を追い、捕虜としてつかまえることたびたびに及んだ。(132頁)大下
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猛訓練中、歩哨中の同年兵土井二等兵はわずか入隊一か月目に八路兵にうたれ戦死しました。(122頁)河原
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・・・奉天の通信学校で無線教育を受け、十一月中頃卒業したのです。それから熱河省の承徳へ行き、山の中へ入り、万里長城の南満側で、八路軍(共産軍)と戦闘を繰り返していました。(324頁)菅野
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戦闘帽の下士官が満州から初年兵受領に来ていた。行先は熱河省承徳の第九独立守備隊の歩兵第十三大隊で、関東軍で唯一の実戦部隊で八路軍相手だと教えられ武者震いした。(168頁)
 うちの中隊長は戦争上手で、八路から懸賞金付きで狙われたが、朱鞘の軍刀を杖に急な山路を大股でサッサッと登っていく頼母しい大尉だ。班長は若い軍曹で温和だったから兵長等を押え切れなかったと思う。
 村の周辺には八路軍の工作員が出没するから油断をすると拉致される。ある時古年兵が行方不明になった。部落へ遊びに出たらしい。早速狩り出されて探したがついに判らなかった。後日、部落民の話によると夜間八路兵に戸板に乗せられていったそうである。
・・・扁平足を恨んだ時、既に遅しである。八路軍相手の独歩だから山登りの練習はきつかった。八路は両足に砂袋をくくりつけて山登りの練習をやっているそうだから速い。こちらの古年兵も負けずに速い。独歩が攻めると八路は長城越えて北支軍の方へ逃げる。北支軍は山地に不馴れなので八路に叩かれることが多かった。(170・171頁)

一期検閲は雨のそば降る長城線近くで行われた。満州側の長城付近では八路軍の工作員対策として住民の居住を許さず、無住地帯とし住民は集団部落に強制移住させられていた。
・・・内地から来た時通った盤道岑の険しい峠を登り始めた。八路軍の待伏せが時々ある難所である。(172頁)椎原
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明け方前線へ向かって出発、先発の本隊、自分たちの小隊も路安城へと行動す。戦闘部隊一三五連隊、一〇九連隊と合流、敵兵八路軍を撃退する。(82頁)

一二三号車の加志摩上等兵と自分は中島第一分隊に派遣になり、浦州城内に直行、自分達の任務はコオガハ方面に退去している支那兵八路軍の閉め出し任務に就く。数時間後、山の中腹にて待機すること数分、午後七時頃前方を敵兵がコオガハ方面に向かって退去しているのを発見、銃撃をしながら中隊本部の宮下上等兵、中島上等兵が前より井畑上等兵が崖より後に続くようにと言われ、全員で突撃、敵兵側の迫撃砲の破片で重傷、衛生兵が担架を持ってくる。まるで丸太で叩かれたような痛さを感じた。自分は野戦病院に送られ入院する。
 ○日あの戦闘で宮下上等兵、森島一等兵戦死と聞く。(84頁)

・・・線路に地雷が伏せてあり爆発、貨車が転覆、右側に傾きドアーが開き、振り落される。敵兵だと思い貨車に飛び乗り日本刀を持ち出す、片岡分隊長初め三十五名、銃もなく短剣だけでどうすることも出来ず、隠れる事数分、貨車に火が回り昼のように明るく動くことも出来ず。
 八路軍の敵兵はチャラメラを鳴らして進撃して来る。その内、砲撃の音が警備隊に聞こえたのか鉄道隊の装甲車が山の方角を砲撃してくれたので八路軍はチャラメラを吹いて退去する。片岡分隊長始め○名がシユフン駅まで走る。駅にて点呼、二名いない、森一等兵と山本二等兵である。明け方警備隊と共に捜査、森一等兵が戦死、戦死者を貨車に乗せユージ駅へホームに山本二等兵が笑って立っている、一同驚く。(84・85頁)若杉
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済南周辺も都市部を除き、八路軍の進攻が激しくなり、前線部隊の分遺隊が襲撃されて全滅したり、撤収を余儀なくされたり、治安は次第に悪化していたので集荷は困難を極めた。(75・76頁)

 昭和十九年の春、山東省の八路軍の掃討作戦が実施され、旅団長を長とする部隊が編成された。・・・
 部隊本部が夜露営中、八路軍の包囲攻撃を受けた。ちょうど、すり鉢の底のような地に露営を張っていたため、四方の山より激しい銃撃にあった。・・・幸いに近隣にいた部隊が救援にきてくれたので全滅はまぬがれたが、旅団長以下十数名の戦死、日本馬四、五頭の死廃、輜重隊馬四十頭余の四散逃亡により、戦闘続行が不可能になり、中止して駐屯地に引揚げる結果となった。(76頁)黒崎
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沁源に大隊本部があり、大隊長は赤星中佐だった。昭和十八年の正月までそこにいて砲監視をやった。何しろ八路軍の真只中だったので、抗日や厭戦ビラがどんどん撒かれた。(278頁)湯上
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 当時、單県周辺には約四万の八路軍がおり、ゲリラ戦術を以って次々と分屯隊を陥落した。
 第二大隊の兵力は八〇〇名近いが、宇賀神中隊一〇〇余名が配属された。装備も第一線級から第二戦級に低下したので、四万の敵に対する兵力差は大きく、敵の宣伝も派手であった。(269・270頁)

 新家楼二キロの地点には有力な八路軍が進撃し、我が芳桂集の危機は一段と高まり、敵はその余力を以って県域を攻略せんと大々的に発表していた。(270頁)

 八路軍第九団、第十団の精鋭部隊は昨日新家楼(七路軍)の友軍を包囲、目下激戦中で、その数三千有余名。敵は必勝を期して新家楼を陥落させ、以後芳桂集、單県城を攻略せんとしている。(271頁)

 総てを観念し戦友の安否を案じながら漸く北門についた。城壁の上から北方を監視すると敵八路軍の行動が手に取るようにはっきり見える。約一キロの地点には数千の騎馬隊が活動しているようだ。近接する兵力もなだれのごとく寄せてくる、城門を一〇〇メートルほど出たが戦況を考え引き返す。
 六千余名の九、十団正規軍は魚釣り戦法であった。・・・八〇〇名の中国保安隊も隊を乱してゼロとなり、ますます八路軍の独壇場となる。
・・・数千人の八路軍と入り乱れて数時間の決闘で十数名が名誉の戦死をとげられた。
 嗚呼、忠勇なる宇賀神中尉以下二二名の将兵を失い、心から冥福を祈り中隊員一同哀悼の念で一杯であった。(272・274頁)竹原
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新兵でないと見せかけるため偽装の階級章を付けていたが、途中共産八路軍に襲撃も受けた。(384頁)

 その当時の思い出は、絶えず八路軍のチャルメラのようなラッパを聞いたり、同年兵で手や足を引っ張られたりし危うく拉致されそうになった者もいた。(384頁)

 北支の閻錫山軍や共産党八路軍の討伐行で挟み射ちになったこともあり、(385頁)

 八路軍にやられて一個中隊が全滅したこともあった。その時、私たちは援軍に行ったが、擲弾筒を抱えたまま殺されている兵隊もいた。。馬は凹地の一箇所に入り、やられていた。中隊長の泉館中尉は戦死していて、兵器は殆ど略奪され持っていかれた。(385頁)藤尾
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最初の陣地は五條鎮という所でした、分哨勤務や討伐が任務でしたが、主な敵は共産八路軍、夜襲して来たのを撃退したり、逆にこちらが討伐作戦に出たりしました。八路軍はこちらの兵力が少なく弱いと攻めて来る。我が軍が強いと逃げるという戦法でした。(298頁)

 その時兵隊がやられた。隊長は山頂占領のため「第三小隊軽機射て」と命ぜられ、私が射撃の号令をかけたら、八路軍は軽機関銃発射の光を目当てて射って来た。初年兵の千葉射手が「やられた、天皇陛下万歳」と叫んだら中隊長は「馬鹿野郎、天皇陛下万歳ととなえて死んだ奴はいない、大丈夫だ」と大声で励ました。
 八路軍は射撃だけでなく、手榴弾(柄付きの)を投げて来た。・・・
 次の山にも八路軍は陣地構築をしていたが、この山を占領したので我々の任務は完了したわけであります。占領しても、占領しても敵は次の陣地を構築してあるので、共産八路軍との戦闘は止まることのない戦闘でありました。(299・300頁)

対手は蒋介石軍は少なく、ほとんどが毛沢東の共産八路軍でした。八路軍は手強く、また戦闘馴れして上手だった。(300頁)伊藤
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当時北支方面の敵はすべて八路軍でした。(291頁)清水
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熱河省・西〔ママ〕南付近での共産第八路軍討伐作戦は、最強の敵部隊であったためにわが軍も苦戦の連続でした。戦闘概略を書きますと左記のようです。(82頁)岩城
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 ある日、共産軍の襲撃を受け、初めてチェコ機銃の軽快な発射音を聞き、緊張と同時に激しい撃ち合いに無我夢中でした。古年兵の指図に従い、二階の銃座に弾薬を上げたり、射撃をしました。分哨長の兵長は、トーチカの背後に迫る敵に手榴弾を投げました。夜明けまでこの撃ち合いは続きました。救援にきた中隊が、二手に分かれて攻撃、敵は遺棄死体五を残して退却、ほっとしました。(349頁)渡邊
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 後に話す「オ号作戦」で本隊が出動中、留守隊の小範鋲では朝の点呼時に敵襲があり(八路軍は我が軍の小兵力の所を突いてくる)、一個分隊が全滅し、二人は西安まで連行されたが帰隊し、軍法会議にかけられたという気の毒な事件もあり、治安の悪い地域でした。その時の中隊長は負傷入院中でしたが進級は遅れ、中隊長代理は他へ転属させられました。この戦闘は十月十七日、早朝で一個分隊が約千名という敵から包囲攻撃を受けたもので、奥田分隊長は百倍の敵と戦って玉砕したのですが、二人が一時捕虜になったということで、責任問題が出たわけでしょう。(287頁)

 北支軍の対戦相手は、共産軍八路軍)が多く、こちらが強いと見ると逃げる。弱いとか兵力が少ないと攻めて来る。地域住民を手馴づけたり、脅迫したりして情報を取ったりしていました。我が軍の隊が地雷にかかると、撃ってくる。どこかで監視しているのです。正規の服装の者も、便衣で住民に混じっている者もいる。日本軍にとってはどこを向いても敵であることが多かったのです。(289頁)宮崎
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十一月十二日、清涼店では八路共産軍の急襲に遭遇しての戦闘でした。夜、撤退する時は、進む時よりいやでした。(282・283頁)上山
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小部落に一個分隊で治安警備に就きました。いつ蒋介石軍、共産八路軍が襲撃してくるか不明です。敵は地の利を得ている。その上、部落民が内通しているから断大敵でした。(309頁)増渕
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 教育が終了し、直ちに第一線に配置された。北支には蒋介石軍の閻錫山軍と中共の八路軍がいる治安の悪い所です。閻錫山軍は太原作戦で我が第五師団にやられ逃げて日本軍の西側に、東側には八路軍が幡踞し、我が方の治安を乱していました。
 部隊からは警備のため、主要鉄道線や道路沿いに分遣隊が配置されて、我々は太原―蒲州間の南同蒲線を守備していました。鉄道線の西側は全部敵です。先ほど申し上げたように西方は閻錫山の山西軍、東側は共産八路軍です。しかも、敵である蒋介石軍と共産軍が利害を異にしながらも国共合同で日本軍をねらっているから、油断も隙もないのです。
 占領地は面ではない。点と点であり、その間を結ぶのが鉄路であり道路です。従って日本軍の拠点は大きい城のある都市、治安の悪い所には一個小隊、他は分隊単位の分遣隊が配置されています。山西省平遙、霍県などが我が大隊の警備地域でした。小さい敵襲は度々ありましたが、私が行く前、大鉄橋の分哨が八路軍に襲撃され全滅しました。八路軍はこちらが弱いと攻撃し、強いと逃げるという常套の戦法です。(291頁)福田
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 部隊は教育隊を残して編成替えをやり、八路軍の巣窟である安東衛の敵陣へ進軍して行ったのであるが、数日後、部隊は数多くの戦死者を出して引き揚げてきた。
 第一中隊、第三中隊が第一線であり、山岳戦のため特に犠牲が多く、准尉以下多数、下士官と兵など中隊の中枢を失った第一中隊長の遺体にすがり号泣をしていた。誠に痛ましい姿であった。これが運命というものであろうか。私と交代して元気で出陣して行った第一小隊の分隊長も腹部貫通銃創で戦死。山東省安東衛の露と消えた。これが我ら青春時代における紙一重の運命であった。
 教育隊は教育どころではない。皆川班長自ら屍衛兵司令となり、こんなに大勢の戦友の塚穴を掘ろうとは。懇ろに亡き戦友を茶毘に付し、部隊長の広瀬観学大尉も、分隊長の毛利天正もお坊さんであり、常に袈裟を携行していた。二人の読経の流れる中に、しめやかに懇ろに弔いを終わり、骨を拾い合ったのである。
 その後、作戦の本分に戻り、第三中隊は保安山の山の中の陣地構築を、八路軍の敵襲を受けながらの悪戦苦闘の連続が始まったのである。我ら北支軍は八路軍に散々悩まされながら、本国の情報など知るよしもなく負けるなどとはゆめゆめ思わず、常に士気は高揚していた。(96頁)皆川
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澳頭港地区は共産新四軍の支配下の真っ只中にありました。(337頁)浅江
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左前方五〇〇メートル、青い軍服の八路兵五十が散開して走りながら山の斜面を駆け降りてくる。山上よりの敵の援護射撃は一段と激しさを増してきた。三五〇メートル、三〇〇メートル、二五〇メートルと近づいてくる。(267・268頁)山田
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 六月に一選抜で進級し、四月北京を出発して石家荘空京漢線の警備につきました。引き続いて河南省武安にて初めて強力な八路軍の正規部隊と遭遇しました。自分は擲弾筒手でしたが、頭を上げて敵陣を見ることができず、ただ一生懸命に敵陣方向に弾丸を発射していました。夜になっても敵弾は飛んで来ました。暗夜には鉄砲での被害は少ないものでした。敵は地理に詳しいために友軍は大変苦戦しました。この戦闘が自分の初陣でした。(253頁)大塚
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 常徳作戦は常徳を占領後、これを確保、維持するだけの兵力がないので、占領と同時に反転に移ったわけだが、この反転に新四軍が追尾して攻撃を繰り返すので、多大の犠牲を払っての反転となった。(333頁)飯塚
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