以下に挙げる行動様式は、日本軍発祥かどうかは分からないが、従軍手記によく出て来るものである。そしてその内の幾つかは、現代でもよく見られるものだろう。

挨拶第一(敬礼)
あちらもこちらも身の回りは全部が上級者ですから、上級者に対しては敬礼をしなければなりません。内務班の中は家族と同様なので敬礼の省略を許されていますが、兵舎の外に出たときは全く困りました。片手だけでは足りなくて両手で左右を見て敬礼しなければならないほどでした。欠礼をしようものなら「コラッ!そこの初年兵待てッ!」ハッと気付いて敬礼してももう遅い「何中隊の何班の者だ。官姓名を名乗れ」とくる。「第一中隊第二班陸軍二等兵河村廣康であります」「ウン、貴様の中隊では上級者に敬礼せんでもよいと教育されているんか」「違います」「そうか教えられているんか、そんならなぜ敬礼せん」などといじめられます。用を足して班に戻ると、初年兵係上等兵が「河村!ちょっと来いッ!」と睨みつけて呼び付けます。もう既に先程の欠礼の通報がきているのです。そこでまたこってりと油を絞られます。(79頁)河村

 三歩以上は「駆け足」、上級者(どっち向いても皆上級者)には敬礼しなければなりません。初年兵はどこを向いても上級者ばかりですから敬礼の手が上りっぱなしです。(415頁)上原

それから野砲・小銃・帯剣・軍靴の手入れをします。手入れ中にもし古参兵の一等兵が通ると、手入れを止めて起立、拳手の敬礼をします。何度会ってもしなければなりません。(232頁)猪俣

 日曜の外出には上装被服着用、徒手帯剣、巻脚絆、水筒携行、八時舎前に整列。週番下士官の検査を受け出発。鳥取市内にて喫茶店、映画、市内ぶらぶら。何時でも上官に出会えば敬礼、欠礼すれば大変、初年兵は外出しても敬礼演習のようなり。暑くてもホック、ボタン一つはずすこと許されず、汗だくだく早々帰って洗濯。(160頁)岩本
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/04/O_04_157_1.pdf

軍旗歩哨に立哨中一歩遅かった捧げ銃、無念や要注意の一声が連隊中の回報に載り、中隊の名誉を汚したと苦汁の難に落涙した。(34頁)山下

またいずれを見ても上官ばかりで、班内を一歩出れば敬礼づくめで、目まぐるしい日課である。(116頁)竹内

私が初めて興安嶺で見たソ連軍の兵隊は、敬礼もせずに将校に近づき煙草の火を借りて「シバシイーバ(有難う)」と言って去って行った。(82頁)清田

 ある日昼食を終わって休んでいると、S地区司令官の「将校おらぬか」という怒声が聞こえる。ちょうど居合わせたY将校が挨拶に出た。敬礼が…と何か怒っているようである。その時、何時もの定期便が来た。マナゴックの爆撃のためである。途端、彼が叫んだ。「動くな見つかるぞ」私は噴き出したくなった。この薄暗い密林の中で空飛ぶ飛行機に人の動くのが見えるものか。また怒声がする。「誰だ大声で話をする奴は。聞こえるぞ」。ますますおかしい、空飛ぶ飛行機にこの林の中の人声が聞こえるものか。少々頭がおかしいようである。この指揮官の下で生死を共にするのか。真に張り合いのない次第である。(115頁)松井https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/04/O_04_097_1.pdf

山浦瑞洲「一兵卒乃告白」大正元年11月18日発行 1912年

軍隊の敬礼(46頁~)
 凡そ礼儀なるものは社会の何れなる分界にも当然行はるべきものなれども、殊に軍隊と云ふ所は礼儀なくては、一日も治り行くものに非ず。然れば軍隊には「陸軍礼式」「海軍礼式」など特別の制式あり。其の具体的に定めたる礼法は数百条の正文法となりて一冊の書籍となり居れり。若し軍人にあらぬ人之を見ば如何に其の礼法の面倒なるかを感ずるならんも、軍隊の秩序統一と云ふものは、実に此の礼法の厳格に行はるゝに依りて成り立ち行くもの也。
 余等新兵の身分は軍人の最下級なれば、東へ向きても西へ向きても、軍服を着けたる人を見たらんには必ず「パッ」と活発に正しく挙手注目の敬礼を為さざる可からず(新兵同士即ち同僚間に於ては敬礼の交換を為す)されば余等今日の身分にありては敬礼々々で時には窮屈至極の思ひなきに非ずと雖も、少し軍隊の生活に馴るれば此の敬礼の制度が誠に痛快に感ぜらるゝ也。普通世間の礼儀ならば、人に逢ふて先づ帽子を取り、頭を下げ、埒も明かぬ冗長の言葉などを取り交はさねばならぬものを、軍隊に於ては、たとへ大将閣下に逢ひたりとて、鳥渡停止して、パッと頗る活発に、無言の儘挙手注目せばそれで宜敷、閣下は之に対し威容徐ろに矢張り挙手注目の答礼を為さるゝなど実に此の上なき愉快を感ずるなり。
 而して此の敬礼は、一級上の一等卒に対しても又大将閣下に対しても同じ心持にて同じ動作に於て為さるべきものにて、元来軍隊礼式の精神は、其の個人に対して敬礼すると云ふ心持よりは寧ろ軍人たる制服、其の星章、其の肩章に敬礼するもの、換言せば 大元帥陛下の統率し給ふ軍隊の権威ある秩序なり、礼法なりと信ずべきものなるが故也。
 海軍礼式は余等陸軍兵の未だ詳かにせざる所なるも、陸軍礼式は常に之を詳かに知了し居らざる可からず。其の礼法の詳細に亘りて言へば限りもなけれど、例へば軍旗に対する敬礼、将官に対する敬礼、直属上官に対する敬礼、一般上官に対する敬礼、部隊の敬礼、歩哨の敬礼、教練中或は勤務中の敬礼、陣中に在りての敬礼、営外に在りての敬礼、室内に在りての敬礼等の如き、其の叮嚀と簡略との種々なる区別及び其の細目に渡りては却々に繁褥なるものなりと雖も、要するに軍隊は上述の如く礼法の厳格に行はるゝに依りて秩序統一を維持され行くものなれば、軍人として此の礼法に反するものあれば、是れ当に違反の罪に座すべきものなり。殊に軍人の精神と云ふものより解釈しては、時に迂濶して此の礼法に反したりと云ふが如き、寧ろ過失に属すべきものと雖も、当然之を詰責すべき価値ある位厳格のものたる也。
 然れど余の近頃思ふ様、軍隊の礼式は寔に尊重すべき性質のものにして、且つ寔に痛快なるものなりと。但し

大声第一
内務班から一歩外へ出る時は、必ず大きな声で「小林二等兵!厠(便所)へ行って来ます!」と叫ぶ。帰って来た時も「同じく帰って来ました!」と叫ぶのです。すべて大きな声で復令、復唱することです。(202頁)小林

自分は声が大きくて子供の頃から両親に「もう少し小さな声で話せ」と言われる位の大声でした。これが軍隊では幸いしました。班内から一歩外に出る時は必ず「茶木二等兵、厠へ行って来ます」また入室の時は「茶木二等兵、入浴より戻りました」と大きな声で発表します。声が小さいと古年兵から「今なにか虫の声がしていた、今一度官姓名を名乗れ」と再度申告させられました。(254頁)茶本

 宮崎県、高鍋陸軍飛行場大隊、西部第一〇一部隊で初年兵教育が行われました。自分は軍隊のことは何一つ知りませんから、一から十まですべて勉強でした。まず、一番に大きな声を出すことでした。これは人一倍大声でしたから完了で、二番目に行動の迅速が要求されました。そして軍人勅論の暗記暗唱・次に戦陣訓・典範令・操典等々の記憶の外に、日常勤務の規則、喇叭音にいたるまで、朝の起床から夜の消灯喇叭まで、初年兵はちょっとの休みもなく、頭と体を酷使して、はじめて一人前の兵隊になるのだと実感しました。昔々、村の古老が兵隊に行って来たら二人前だ」と言われたが事実でした。(329頁)大久保
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/08/O_08_328_1.pdf

「河村二等兵!厠に行って参ります」。意地の悪い古参兵が「聞こえんぞー」「河村二等兵!厠にいって参ります」「声が小さいッ!どこへ行く!」「河村二等兵!……」三、四回大声で叫ぶようにすると「よーし」。(84頁)河村
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私は、軍隊へ入る前、撫順の会社にいる時、軍隊経験のある一年志願の将校である先輩から、機関銃の名称や部品の名を教わったり、分解、組立てまでも教わり覚えていたし、軍隊では大きな声を出すことが大事だ、とも教わっていたので、中隊長は、私が幹部候補生になるので注目していてくれたのだろうと思う。(229頁)安井

教育が始まりますと父親から聞いた軍隊の厳しさが身にしみてきました。「すべて大きな声ではっきりと」を主眼の教育でしたので、東北弁で大声で答えると間違って受け取られ、ビンタのお見舞を受ける事もしばしばでした。(20頁)佐藤

何をするのも大声で「やります」「行ってきます」「帰りました」と叫ぶのである。(87頁)前田

ただ私は大声で下士官室に出入りするので、下士官の間では好評だったようです。(439頁)石橋

さあ翌日より「関東軍」特有の内務班教育が始まった。「起床が遅い」「声が小さい」「動作がにぶい」「飯の盛りつけ動作が悪い」「銃の手入れ不備」「整頓がなってない」などと、次から次へと気の休むひまもない。(76頁)山田

点呼の際、声が低いと何回でもやり直しを受ける。(436頁)熊谷

内務班の出入時は「どこに何しにゆく」と大きな声で申告、報告が実行されました。(22頁)堺

第一に大声を出すこと、そして早飯と早糞だ。などなどで少しの時間的余裕もない、現地での初年兵教育でした。(174頁)小川

何日いかなる時も水兵さんは「大声」で言葉を発すべしでした。(553頁)久保

暗記第一
自分達も日常教練の外に、特に軍人勅諭の暗記が第一で、歩兵操典、作戦要務令ほか典範令集から日常勤務守則、例えば不寝番・各当番勤務・厳格な衛兵勤務等々の守則を全部丸暗記しました。現在の頭脳では到底出来得ないことでした。(254頁)茶本
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古参兵の意地の悪いのがちょっと来い」と呼び付け「不動の姿勢の要領を言ってみよ」「ハイッ」と典範令に書いてあることを言うのですが、なかなかきちんと言えません。そこで、ああでもない、こうでもないといじめられることになります。軍隊では、実行できても典範令に書かれている通り暗唱できなければ駄目なんです。(77頁)河村

 教練の後は久留米と同じく軍歌の練習で大変でした。初めて歌う軍隊歌は「露営の唄」「愛馬行進曲」「日本陸軍」「戦陣訓の唄」「麦と兵隊」他にまだありましたが、今でも哀愁のある「綏芬河小唄」は忘れられません。最初古参兵殿が歌って、直ぐ後を歌わせられ、何回も何回も繰り返して、大声で歌わんとこれまた気合を入れられ、覚えが悪いとカッポでした。(22頁)堺
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 入隊後、馬に次いでの思い出は、軍隊手帳に記されている「軍人勅諭」です。入隊すると一週間以内に暗記せよとのことでした。私は夜の消灯後、便所で軍隊手帳を持って努力したので、三日で成功し、班長さんにほめられました。(317頁)川上
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 入隊早々、週番士官が私に「軍人勅論を言うてみい」と言うので、私は入隊前に勉強していたので、直ぐにつまらずにスラスラと答えました。週番士官は喜んで班長に対して、「今度の補充兵は優秀である」と申されました。(348頁)篠原
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/04/O_04_347_1.pdf

親父から入団前に軍人勅諭を覚えるよう言われましたが、海軍は五カ条の御誓文をたまに言わせられた程度で、陸軍とは全く違いました。(494頁)梶本

 覚えていて良かったことは、軍人勅論の暗唱だ。中隊長の精神訓練には「忠誠・礼儀の項、暗唱できる者あるか」と必ず質問がある。それを指名され、班名・氏名を大きな声で言って、暗唱出来れば、班長も全部いるし、以後の学科は、一応及第である。(65・66頁)岡

教育の内容の第一は、覚えなくてはならないということです。「軍人に賜った勅語」「五箇条の御誓文」などで、便所でも暗記をするという状況で、頭の悪い人も良い人もいますが、絶対覚えなくてはならないということでした。(287頁)安藤

軍隊へ入り先ず覚えなければならぬのは「軍人に賜りたる勅諭」である。これは必ず暗唱しなければならなかった。軍隊には教育資材がある。教範・教典などの書籍がある。(225頁)青山
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/10/O_10_225_1.pdf

 入営し、まず覚えなければならないのは上官、特に直属上官の名前であります。即ち連隊長、中隊長であり、更に大切なのが連隊長の方針であります。・・・
 連隊長の方針は、「忠―君に対し二心なきこと」「節―節制が正しく其の操を守る」「吾々軍人は名が命である」「軍人勅諭を覚えることは、軍務に精励することである」具体的には一、軍人精神ノ鍛錬二、団結の鞏固 三、必中ノ信念(砲兵は特に) 四、実戦的訓練 五、馬匹車輛ノ愛護 六、正シク強ク朗ラカニ」であったと記憶します。(233頁)谷川
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/07/O_07_231_1.pdf

 学科は軍人勅諭と戦陣訓。広島当時一年余、朝の青年学校を経験しただけなので学科で頑張らねばと、以前より勉強していたので大いに助かった。入隊間もなく「勅諭と戦陣訓言える者は手を挙げよ」と言われ、躊躇せず手を上げたが、自分一人だったので鳥肌が立った。(61頁)大原
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/04/O_04_057_1.pdf

 三カ月の検閲が終わると近衛本来の教育である。守則の教育です。大宮御所七〜八カ所、宮城に十四カ所ほど、それぞれ勤務の守則が違う。この違う守則は全部暗記し動作も修得しなければならない。どこへ立哨戒してもよいように教育を受けねばならない。・・・
 いろいろなことを想定して全部教育を受ける。どこの守則を、どこの守則は、と問われる。覚えられない人もあったが、だんだんに覚えた。(385頁)小林
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/07/O_07_384_1.pdf

山浦瑞洲「一兵卒乃告白」大正元年11月18日発行 1912年

 次は新兵さんの学科なり。余等は是迄学校に於て多少六ヶしき学問をし、又憖なる理論を口にして偉がることも知り居れど、軍隊の学科は是亦全く別なり。差当り新兵さんの習ふ学科とは、上官の官姓名、軍隊の編成、勲章の区別、兵種の識別等の課目なれど、要するに軍隊の学科は、一々諳唱的に覚えざる可からず。突然中隊長などより「お前連隊長の官姓名を言って見」などゝ問はれたる時は「ハイ、歩兵第五十連隊長陸軍歩兵大佐長谷川達海殿」と、声張り揚げて語尾明晰に即答せざる可からず。又「経理部員の襟票は何色か」などゝ問はれたる時は、「ハイ、銀茶であります」と高声に即答せざる可からず。総て軍隊の言葉使は、出来る丈高声に、而も語尾明晰なるを要す。若し忘れたる時は「ハイ、忘れました」と高声に活発に即答すればよし、考へて愚図々々などし居れば、直に大目玉を頂戴す。・・・「お前日本の勲章の種類を言って見い」「はい、大勲位菊花賞、菊花頸飾章旭日章、瑞宝章、宝冠章、終り」と云ふが如き質問と答解とは即ち目下余等新兵の学科也。(明治41年12月5日)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/947773/15

松本香州「兵営観」1906年 ※明治39年

 勅語の暗誦
精神教育は軍隊教育の真髄にして又首脳たり故に当路者の苦慮実に茲に存す、由来我国には千古不磨の大和魂ありて正大の気、普天の下卒土の濱に充塞すといへども、砿鉄は未だ兜を断つの利刃たる能はずして、百煉精鉄して始めて蛇尾の剣たるが如く、大和魂亦大いに鍛煉せざるべからず、これがため精神教育には全心全力を濺ぎ、先づ勅語に就き暗誦を勉めしむ、故に新兵が余暇に於て軍隊手帳を繙き、恰も坊主が読経するが如き、一心千年、千百万遍、繰返し々々々精読するの結果、仮令其意義は諒解せざるにせよ、暗誦丈は一ケ月以内に成功し、昏愚の輩すら二三ケ月内には必ず記憶す、此記憶こそ新兵が最も脳裡を痛(や)むるところにして、一丁字なき輩には頗る無理の注文たる憾なき能はず而して此解釈は主に新兵掛将校の担任にして種々の例談を引証し、熊本籠城の死者谷村計介の如き、長篠陣の使者鳥居強右衛門の如き、武勇の権化として、忠義の化神として、賞揚し、彼等に膾炙せしむ、この啓発的教育手段や可也、然れども吾人門外漢をして、若し斯る暗誦を慫慂し督励する隊ありとして忌憚なき評論を下さしめなば、大いに同意する能はざるものあり。曰く学力の程度幼稚にして記名だも自由ならざる輩に強て暗記を逼るはかたきを攻むる也、其愚や宛も旅費を給せずして米国に航せしむるが如く、燃料なきに機関を運転せしむるに等し医者の匙加減は強がち医者にのみ用ゆべき語にあらず、座を見て法を説くは強ち僧侶にのみ望むべき諺にあらざるなり、よしや幸いにして記憶し得たりとするも、彼等果して会得したるや否や、恐らくは一行たりとも満足に理解する能はずして、一種の蓄音機に外ならざるべし、若しある一部分に於て会得し大部分に於て暗誦するも、これぞ克く兵を談ずる趙括に過ぎざるやの憂いなきにしもあらず、
 茲に於て予は恁る形式的教育(若しありとすれば)を全廃し、勅諭の大本に因り充分咀嚼し嚥下し徹底する如く、活用主義に出づるあらんことを
翹望して歇まざる也。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/843223/23

五分前行動
 昭和十七年五月一日、入団祝もそこそこに鹿島駅にて多数の見送り人の歓呼の声に送られて、佐世保第二海兵団相の浦分団に無事入団しました。第二十四分隊第八教班に配属されましたが、知った者は一人もいません。そして志願兵ばかりですから十七、十八歳の若者揃いでした。
 私達は兵科でしたので、寝るも起きるも、すべて「総員起床五分前」のラッパの合図で釣床降ろし、釣床納め等です。数回一番後にでもなったら平手打ちを食らうのです。(100頁)山上
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/18/O_18_099_1.pdf 

・・・昭和十四年六月海軍を志願し佐世保海兵団に入りました。
 海軍の一員となるや「早朝総員起こし五分前」に始まり起床以後、食事から休憩就寝に至るまで総て「五分前精神の涵養」でしたし(368頁)櫨元
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/09/O_09_368_1.pdf

 いまでもフッと「ドンガメ」乗りのころを思い出すが、「急速潜航ベーント開け」「急速浮上メーンタンクブロー」、活気のある総員配置についた行動号令。人港用意、前部ハッチ開け、何事にも「五分前」精神は風化なく、今も懐かしい教訓である。(142頁)
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/01/O_01_138_1.pdf

連帯責任
 翌年一月十日に呉海兵団に入団せよと通知がきました。私は海で泳いだことがないのに、海軍とは大変なことになったと思いました。・・・陸軍との差異は海軍には軍人精神打ち込み棒というものがあり、ちょうど野球のバットを大きくしたような木製の棒で、一人の失敗は全員の責任だと言って、連帯責任を負わされることでした。そのような事故、失敗者、守務違反者が出た時は全員の尻が精神打ち込み棒の洗礼を受けました。三打罰・五打罰といって力いっぱい叩かれました。(341・342頁)片桐
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/10/O_10_340_1.pdf

 私は、昭和十七年志願兵として、九月一日、大竹海兵団(呉海兵団は満杯のため)に入団した。・・・少しでも過失があれば、連帯責任で、樫の棒(バット)で臀を古参兵に叩かれる。従って初年兵の我々の臀にはいつも紫色の「あざ」が消えることがない。(389頁)池田
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/11/O_11_388_1.pdf

 昭和十七年六月十二日、教育召集令状が届けられ西部第五三部隊へ入隊したら、無線通信隊だった。・・・
 内務班に帰れば古兵から「お前達は昼間楽をしているから」と叩かれる。自分では納得出来ない、連帯責任だと叩かれる。しかし、可愛想に思ってくれる古兵もいて、内緒で菓子を食わせてくれた時は、本当に嬉しく今でも忘れられません。きつくされた兵隊、優しくしてくれた兵隊、ともに忘れられない。・・・他の者との連帯責任で、食事当番に間違ったら古兵ばかりでなく班長にもやられる。(211・212頁)橋川

下級者が上級者の、後輩が先輩の世話
それから古年兵の銃剣の手入れ、軍靴の手入れと、これこそ初年兵の泣き場のひとときでした。特に北満の赤土は軍靴にくっついて離れず、これこそ初年兵の大きな苦労の種でした。(21頁)堺

 十一月三十日、ルンガ沖海戦(夜戦)切り込み、艦砲射撃(ガ島輸送の駆逐艦八隻と敵有力部隊と交戦し、そのとき揚陸は不成功)のたたかいだったが、新兵は夜眠くても眠られぬし、うえの人の洗濯もしなければならない。(407頁)渡辺
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/02/O_02_406_1.pdf

上級者の兵器及び被服の手入れ、洗濯などが全部完了した後で、自分の武具や被服の手入れです。(205頁)小林久

我が班の悩みは、上等兵二人が班長より軍隊歴即ち飯の数が多いので、班長が遠慮しているのをいいことに教育係と称して「しごき」にかかる。やれ「声が低い」「整理整頓が悪い」「上級者の靴の手入れが悪い」等々。その都度全員に連帯責任と称してビンタが加えられました。(484頁)竹下

起床ラッパで起こされて営庭で点呼、天突き体操、厩舎へ突撃、軍馬の手入れ、寝藁の取替え等、目の回る忙しさ。総てが終わると、我々の朝食であり、この食事もだれよりも早く終わらせて、先輩の食器洗いや掃除などを済ませて演習という日課の連続でありました。(42頁)小林詮

軍艦「千歳(水上機母艦)」乗組みを命ぜられ張り切る。八月十八日、大分県佐伯で乗艦以後、「月月火水木金金」の早朝から夜間まで連日の猛訓練に加え、港での夜は毎晩のように「整列!」がかかり、ビンタとお説教は、軽い、軽い、ほとんど軍人精神注入棒で尻をかなりの力を入れて七~八回、尻の痛さで仰向けに寝られず、何の因果で海軍に入ったと、同年兵と並んで上級者の靴を磨きながらヒソヒソと泣き言を……。(510頁)橋本
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/16/O_16_509_1.pdf

そして、新しい新兵が入ってくるまでの約一年間は、新兵は自分の戦友となった古兵の衣服の洗濯、軍靴の手入れ、銃剣の手入れ、食事の用意など一切の面倒をみることになるのです。ですから、古兵は本当に軍隊用語の「神様」で、新兵はただ古兵となる日を思いつつ一年間、じっと辛抱するのです。(262頁)柏木

大別山作戦も終わり、昭和十八年一月十六日、本隊が帰って来たその日より毎日忙しい初年兵時代が始まりました。古兵の衣服の洗濯、食事の準備、後片付けと本来の任務以外に初年兵特有の仕事が山積し、それはそれは忙しい毎日で嫌になってしまいました。とても私には軍隊は向かないと思いました。(28頁)吉田
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/13/O_13_027_1.pdf

昭和十八年一月十六日、大別山作戦より帰隊した戦友の衣服の洗濯、食事の世話、後片付けの繰り返しであった。・・・寒い間の江北作戦も終われば、三十一日に応山本部に帰着、馬の手入れ。翌日は古参兵の被服の洗濯、その夜は衛兵。体の弱い兵は皆病院行きです。(66頁)吉田 https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/07/O_07_065_1.pdf

 初年兵教育が終わり、十月に一等兵に進級しました。こうなればしめたものです。星一つの差は天と地の差です。テレビでよく見る入牢者の差別のようなものです。食事は上げ膳、据え膳、洗濯はいつの間にか初年兵がしていてくれる。一般世間とは全く異なった世界です。今考えると、いい習慣とは思いませんがね。(260頁)西畑
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/06/O_06_260_1.pdf

 また、つらいことといえば、内務班(指揮班)のことでした。内務班はそれぞれの中隊の中枢でした。その業務については、古参兵は一切手を出しませんので、初年兵の私たちが三人程度で、兵器、軍靴の手入れ、班内の清掃、食事の世話、水汲みなどをし、とくに水汲みは、数百メートル隔てた井戸まで醤油ダルに釣り手を付け、それを天秤棒の前後に吊して、毎日五、六回汲みました。(52頁)都築

大きなスコールがくるときは手あきの全員に洗濯用意の号令があり、新兵はとくに上官の身のまわり品からさきに洗濯にかかり、その後自分の物を洗う。大変なことであった。スコールのあと、上甲板の水取り清掃は毎日であった。艦隊生活の毎日は、この世の地獄のように思われた。(224頁)鶴見

二年兵の戦友を一人受け持ち先輩のすべての面倒をみた。順番のことで初年兵の役目であった。(200頁)末木
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/02/O_02_200_1.pdf

 内務班での教育も精神教育を通り越した初年兵泣かせの所でもありました。古年兵の洗濯や食事の世話なども義務付けられていました。(199・200頁)辻原
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/06/O_06_199_1.pdf

班付下士官が班長の他に十人もいて、飯上げの時は何回も下士官室を往復せねばならず、腰を下ろしてゆっくり飯を食う暇がなく、ようやく食べられる時には残りの食事も少なくなっていて、空腹を抱えて演習整列に駆け出すことは常時でした。(439頁)石橋

そして教育演習や討伐から帰隊すると、初年兵は、われ先にと班長や助手の脚絆を解き、小銃、軍靴の手入れをしてやるものです。班長や助手はまるで神様扱いで楽でよろしかったでしょうが、初年兵にとっては大変な仕事でした。そして班内に戻れば、古参兵の銃の手入れから洗濯物を、そして自分の物と、まったく手が廻らぬ超多忙でありました。その為自分の銃の手入れや点検、被服の手入れなどには落ち度が出て来ることもあります。(210頁)和田

教育が済めばまた内務班の勤務が続く。先輩殿の衣服を洗濯し、干し、演習から帰り、取りに行けば洗濯物は無い。盗られたのだ。それを上官殿に訴えると「馬鹿もん、ボサッとしとるけん盗られるのだ」と反ってどなりつけられる。(200・201頁)小宮

演習が済むと、古参兵の靴四・五足を磨く。それが終われば洗濯だが、手が凍傷で痛い。今でもまだその跡が残っている。(137頁)有門
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/08/O_08_137_1.pdf

 要領を本分とすべしの連中が大勢いて、班長、古兵と演習から帰ると、巻脚絆取りから、洗濯物まで先を競ってやったが、秋葉班長だけは何故か自身でやるか、私のみにやらせた。少しは他の者にも頼めば良いのにと思ったこともあったが、教育がそろそろ終わりに近い頃、班長はポツリと言われた。「日置お前は感心だ、誠意があって良い。他の者は員数で駄目だ。濯ぎが悪くって石鹸が残っておって靴下はぬるづく、下着は臭い、衿など特に残っておるでなあ」と。(94頁)日置
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/05/O_05_087_1.pdf

 当時、島では雪などみたこともないのが、松江に入隊したらとつぜんの寒さ、毎日雪か雨で夕方演習終了後、古参兵の下着、靴等の洗濯と掃除に頑張りました。本当に風邪などひくひまもなく、お国のためとつらい毎日でした。(125頁)天野
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/02/O_02_125_1.pdf

初年兵は飯上げ、兵器の手入れ、古兵の身の廻りの世話などで大変である。生水を飲み下痢が続き、皆困り、入院兵も出る始末である。私は水を飲まず、煮沸湯を飲み、何とか倒れずにすんだ。戦闘教練には毎日気合が入り、厳しさが増し、毎日のごとくビンタがとぶ。兵隊と背嚢は叩けば叩くほど良くなると言い、教育された。(87頁)小林https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/03/O_03_086_1.pdf

 入営したとき、軍隊とは、なんといっていいか言葉に言いつくせないところだと思った。「古参兵、戦友の面倒をみるように」と言われた。一班に二十二人、真中にオンドルがある部屋だった。片側に十一人か、そのなかに、神様などという一等兵(二〜三人しかいないが)がいて、班長の言うことも聞かぬ、いわゆる万年一等兵で、進級されない、その人たちが一番恐かった。(420頁)渡辺

 私も歩兵の初年兵一五名の中の一人として、古参兵、初年兵、と交互の寝台が住まひで六時起床・・・夕食、食後より教育係上等兵の内務班教育があり、上官の官民名や軍人勅諭の暗唱、一品検査、一問一答方式により貴様ら扱ひの意地悪質問の連続で、それはきびしいものであった。
 私は教育係上等兵の隣の寝台で、洗濯から靴みがき銃の手入や身のまわり一切をやっている関係から、比較的当りは良かった。

演習から帰ると班長、助手の巻脚半を取ってやり、靴下または下着の洗濯などをしてやらねばならない。へまをすれば全員の責任とされ、たちまち回りビンタである。責任を他人になすりつけたりすると青竹でたたかれ、その丸い竹も割れるほどたたかれたものだ。軍隊生活の中で忘れられないのが、この内務班のしごきであった。今思えば人間扱いではなく動物扱いの仕ぐさであった。(103・104頁)大竹

教育、演習、討伐から帰隊すると、われわれ初年兵はわれ先にと奪い合って班長、助手の小銃を貰い、帯皮を貰い、巻脚絆を解き、軍衣袴のほこりを払い、「御苦労様でした。お疲れでしょう」と言っては班内へ帰って貰います。この模様は全国一律の麗しい情景であった。
 ところが班長や助手は楽でよろしいが、初年兵はもう大変である。上級者の兵器、被服の手入、食事、洗濯と自分のことまでは手が廻らぬ超多忙を極める。そのため時として兵器、被服の手入れなどに落ち度が出てくることもある。私が一度小銃の手入れに不都合がありました。(282頁)加藤
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/05/O_05_280_1.pdf

 初年兵教育の一端を記すと、班長吉田陸軍伍長、起床号令と共に跳ね起き、服装を整え、寒風吹き荒む丘の上の広場に我れ先にと整列、この時の順番が後日の昇進に関わる。山脈の峰がようやく白み始めるころ祖国の空に向かって遥拝、点呼が終わると同時に班内へ帰る。早速、各自分の分担にて下士官室及び班内の掃除、飯上げには炊事場より食事を運ぶ。班長古年兵の分は何事にも優先し、洗面する間は無い。飯に汁をぶっ掛けて一気に食べる。(250頁)

 夕刻、兵舎に戻ればさらにてんてんこ舞い、その忙しさは体験者のみ知るところ。一日中黄塵を被り、兵器、被服はもとより、顔から口の中まで砂でジャキジャキである。兵器、被服の手入、洗濯、飯上げ、さらに班長、古年兵の分も初年兵がやらなければならぬ。身体がいくらあっても足りない。(251頁)岩崎

早く食事が終わったものが班長の膳を下げに行く。私は三度に一度は下げに行った。早く班長に顔を知ってもらうためだ。
 夕方になれば軍靴の手入れだ。これも班長、古年兵分と一人で三足ぐらい磨いた
。夜間の不寝番には三日に一度は立たされた。一日中休む暇とてない。休めるのは日曜日であるが、これも班長、古年兵の下着や私のものを洗濯して盗難防止のため乾くまで番をする。しかも操典を勉強しながらである。(266頁)小椋

 軍隊にはこうした替え歌が沢山ありました。新兵と言えば入隊して一年間は家の事や兄弟の事など思い出す暇もないほど忙しく、初頭に書いたように、早飯、早糞、早駈けでなければとてもついて行くことはできなかったのです。これが、当時の軍隊の本当の姿であります。いかにして要領良く一日の業務をやり遂げるか、また如何にして勉強の時間をとるか、これは、人それぞれの考え方により異なりますが、とにかく、洗濯をする暇の無いほど忙しかったのです。
 これはあくまで初年兵に限ったことであり、二年兵や三年兵には当てはまらない。二年兵はモサと言って新しく入隊してくる新兵が、今までやっていたことを全てやってくれることになり、従って二年兵はすることがなくなり、唯モサーとしている事から、このモサと言う言葉が生まれたと聞いています。所謂二年兵になると神様のようになって、ただ箸を持って飯を食べるだけになってしまうのであり、後の事は全部新兵が女房役となって、下着まで洗濯をしてくれるので、戦友となった二年兵は、こうした事から神様と呼ばれるようになったのである。
 従って、古兵になると兵器から下着に至るまで新兵がやり、そのためにやることが無くなり、ただボサーッとしているしかないのである。こうした事はあくまで兵舎内に居る時だけで、演習や戦闘に出た場合は二年兵も三年兵もなく、あくまでも指揮官の指示に従って行動をしなくてはならない。かと言って軍隊は運隊とよく聞くが、そんなに旨い訳には行かない。忙しい中からもやはり暇を見て勉強をしなければ進級は難しいのであり、また上司からも認めて貰えない。(571・572頁)堂前

 軍隊というところは、一日の生活合図がラッパである。起床ラッパから一日が始まり、食事、訓練、また演習、内務班に帰れば古参兵の世話、洗濯、靴磨き、銃の手入れ、食事の用意、食後の後片付け等、休む暇もなく立ち働かなげればならない。(271頁)越智

各自毎日実施する事項
一 個人に貸与されている兵器の手入れ
二 襟、靴下の取り替え洗濯、編上靴及び営内靴の手入れ
以上の事は下士官の物も皆で手分けして行い、決して下士官に行わせてはならない(246頁)阿部

尾上新兵衛, 鵜崎一畝「陸海軍人生活」1897年

 いでさらばこれから、新兵の起居の大略を順序的に書て見やう。
 まづ午前の一時二時三時四時、此等は寝台の上に送る時間で、故郷の楽しさを夢に繰り返しつヽある。云はヾ懐かしい時間である。さて四時が打って、烏が一声二声鳴やうになると、廊下にゴソゴソゴソゴソといふ音、それにまじってアーといふ欠伸の声が聞える。これは新兵共が、寒風吹き通しの廊下の片隅に、水鼻を啜り啜り、上等兵や故兵の靴を、一生懸命に磨いて居るので、自分も此の靴磨には、余程勉強したものだが、野外演習の翌日や、雨降の翌朝などに、泥だらけの奴を五六足引受けると、実に泣き度くなる。いくら力を入れて摩っても摩っても、なかなかに光沢は出ず、其中に腕がぬけさうになるから、此位でよからうと、其まヽ列べて置くと、やがて上等兵の起きて来て、
「尾上、貴様は鼻の先にばかり白粉をつけておけば、顔へはぬらでもよいと思ふか。
何をいふのかと思って、気を付けェの姿勢を取て、ビクビクもので立て居ると、
「何もそんなに固くならんでもよいが、此の靴を見い!爪先許り光って居ても、踵は泥だらけぢゃないか。
と、又磨き直させる、骨折損の草臥もふけとは、真に此事だ。
 やっとの事で靴も磨き、ボタンも磨き、ホット一息つくと五時がなる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/843346/34

・・又午後の練兵が始まり、それが三時半に済んで、まづ一日の実科は終となる。
 が、此後の時間が、又、新兵に取っては頗る骨だ、故兵の為に、銃の掃除、靴磨、洗濯、小使と遠慮なく使ひまはされて、揚句の果に、褒められでもするとか、ヤレ鈍馬だの、ヤレぼんやりだのと、云ひたい事を云はれて居る。それも黙って聞いて居ればよいが、出様によっては直ぐに、「生意気だぶん擲れ」を喰って、酷い目にあはされるか、左もなければ、官物棚の下に立たされる。官物棚といふのは、高さ胸にも充たない位な棚であるのに、大男が、其下に首を縮めて立て居る苦しさ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/843346/35

橋亭主人「兵営夢物語」1899年

其内の一人赤羽義三という兵卒は東京の某学校に通学し、教育を受けた男であるから、物の理屈も能く解り、字も能く書ける、先づ兵隊中では学者として大に名声を博する方であった、君も御存知の通り、兵隊といふものは大概は百姓や町人さもなくば漁師や職人で、読書にかけては余り縁の近い方でないから、少しでも書生の生涯を経たものは「何に下等社会奴が、無教育の奴等が」といふ気が出で、「此んなものらと一所に居らねばならぬとは実に残念だ、此んなやつらと同等に言葉を使はねばならぬとは実に忍びないことだ」と、思うものなれども、能く考えて見ると自分が生意気なのだ、赤羽も始終其気があって、設へ何時でも外へ現はして居るといふのではないが、言へば己れの才気や学問を負うて、「何に上等兵が何を言ふが何にも知らない癖に乃公(おれ)に命令しやアがる、乃公は相当の教育を受けて居る、ソンナ下らぬ理屈や講釈は皆んな知てる、勅諭の理解や読法の講義なんぞを耳新らしく言はんでも、千も百も承知だ、然るに他の無学文盲の奴等と同一視しやがる失敬の奴だ、食事番や、庭掃や、板間の掃除などは下等社会のやる事だ、靴を磨いたり茶碗を洗ったり夫れも自分のなら兎に角、生れ処も知れない上等兵とか古兵とかいふ連中の靴を磨くなんて、人を以て穢多視するも甚しい、我輩だって天下の学生であったのだ、失敬ながら英語も読む、文章も書く其素養に至ては中尉や少尉に劣らない積りだ」。

青木竜陵「兵営生活」1903年

一四、新古兵の関係
 古兵は新兵に命じて、己の床をとらせる、銃掃除をさせる、靴を磨かせる、自ら腰をかけて居って、その被服の取り出し、整頓までさせる、酒保に使にやる、何もせずに新兵を小使同様につかふ、そして新兵の仕様が、少しでも悪い事があると、直ちに「油を取る」・・・

覆面の記者「兵営の告白」1908年 ※明治41年

 朝は未明に起きて喇叭の鳴らぬ前に、チャンと自分の武器被服は勿論、上等兵や古兵の分迄手入をせねばならぬ、是れが一日や二日なれば兎も角、半歳の長き間だから堪らない、折には寝遅れて喇叭と共に起ることもある、其の時の極の悪さ、急ぎ跳起きて先づ洗面にと飛行かむとすれば、

 一般に軍隊は兵営内では厳しく、古参兵はいばって、新兵は何でもやらなければいけないが、作戦中は古兵も新兵も全員協力して戦闘すると思っていたのです。ところが、兵営内と変わらないので、新兵が何から何まで全部やらなければならない
 宿営の時は炉を作り、その周りに藁を敷く、夕食を作る(民家の釜を利用して)。副食を探して調理する。食事の後片付けをし、全員の水筒に湯をつめる。古兵の多くは上げ膳、据え膳で手伝ってくれない。・・・
 昼は行軍、戦闘、夜は平均二〜三時間しか眠れない。靴下へ詰めた米は古兵のから使用するから新兵の装具はいつまでも軽くならない。(239頁)小林

 翌朝営庭で、各連隊(第六、七、一〇)に配属された。・・・我々は豆タン(タンクー戦車)と呼ばれながら可愛がってもらった。関東軍は優秀だと聞いていたが、初年兵は使役や衛兵要員、二年兵は内務班で酒と花札。どうなっているのかと思った。(271頁)弓井

 私は昭和十七年の徴兵で、大竹海浜団に入団、きびしい新兵教育を受け、同十七年のくれ、新兵教育を終了した。みな各艦船に配属になり、私は巡洋艦「阿賀野」だった。・・・
 毎日毎日のくりかえしであるが時々スコールがくる。大きなスコールがくるときは手あきの全員に洗濯用意の号令があり、新兵はとくに上官の身のまわり品からさきに洗濯にかかり、その後自分の物を洗う。大変なことであった。スコールのあと、上甲板の水取り清掃は毎日であった。艦隊生活の毎日は、この世の地獄のように思われた。(224頁)鶴見

早飯、早糞、早走り
 三歩以上は「駆け足」、上級者(どっち向いても皆上級者)には敬礼しなければなりません。初年兵はどこを向いても上級者ばかりですから敬礼の手が上りっぱなしです。(415頁)上原

 従軍中の思い出は、まず、内地のことです。善通寺の輜重兵連隊では馬がいます。朝起床すると、食事の前に厩舎へ行き、両手いっぱいに藁を抱えて舎外へ出して天日に干して乾燥します。藁には昨日の馬糞の新しいのや、牝馬の出した血の交じった月のものの出しものやら、小便類と排泄物一切があります。手も服も汚れてきます。馬体の手入れもします。上等兵が「何をトロトロしているか! 早く飯を食って演習の支度をせんか!」と怒鳴ります。
 急いで水で手を洗い、服を掃除します。ところが時として水道が故障で水が出ないことがあります。哀れなこと、馬糞や汚物のついたままの汚れた手で、とにかく飯を食います。普通の食事ではなくて、ただもうがむしゃらに口の中へ押し込んでは飲み込む、一秒でも早く。口いっぱいに飯をホウ張って足には巻脚絆を巻き、軍装をしてできるだけ早く整列する。すべて三歩以上駆け足だ
 新兵はとにかく用事が多く忙しく競争である。整列も後尾の方になるとまた別の制裁がある。以上のような日常生活に男の魂が負けて脱走兵が出る。新兵を除く全連隊の人員総動員で探す。他の中隊の者に見付け出されない内に、脱走兵の出た中隊で発見しようと懸命である。捕らえるともう、まともに見ていられないくらいの制裁で、その上、営倉入り。この悲しい経歴は一生涯ついて回る。(372頁)野田
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/08/O_08_371_1.pdf

 我々の任務は負傷者の収容、治療。・・・その間食事はおろか、煙草一本も吸えない。歩いていてはもどかしい、三歩以上は駆け足、止血している間に死亡する者もいる。(356頁)森田
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/06/O_06_354_1.pdf

訓練は熾烈を極めた。然も凛冽の酷寒である。そして食缶洗いや洗濯の水の苦労は大変なものである。煙草一本吸う時間さえない、二個以上は整頓、三歩以上は駈足だ。(46頁)須藤
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/04/O_04_045_1.pdf

早食い・早糞・早走り」は初年兵の必須条件だ。演習中の食事ときたら、有りっ丈のものを飯盒にぶち込んで、フォークでガァーッと口中へ押し込む。噛んでいたら暇がかかるし、早く腹がへる。これも戦闘間における給食の訓練である。初年兵は忙しい。たまに書く葉書一枚も消灯後便所へ行くふりをして、暗い電灯のなるべく近くを選んで、立ったままの走り書きである。(243頁)畠嶋

翌十日朝、西部第八十四部隊の営庭は新入隊者の群で埋っていた。・・・ 第六中隊第五内務班は、歩兵・衛生兵の初年兵が約二十人、古兵は兵長殿はじめ二十五人位、合計四十五人程であった。朝礼、点呼、銃剣術、朝食、食缶返納、掃除、銃剣手入れ、通修整列、つまり、早飯、早糞、早走り、他の者より一秒でも早い者が勝ちである。朝食当番が飯・汁をつぎ終わり、週番上等兵殿が「よし」と合図がなければ食器に手をふれられないし、盛付けの多いのを注目している。 そのすきに、雑巾七枚のうち一枚を素早く軍衣の下にかくしおき、合図と同時に飯に汁をかけ一気に呑み込んだ。直ちに廊下を駈け足で雑巾がけ、折り返している時、二番手が五班を出発している。私は、五班到着と同時に「よーし、中島交替せよ」の掛け声で、ドロドロの雑巾を次の戦友に渡す。ホウキかバケツ、塵取り、何でも握っている者はよいが、手ぶらな者は古兵殿よりビンタが飛ぶ。 銃剣術の間、稽古も、木銃は充分あるが防具が七組だけで、防具取りの争奪戦はすさまじい。半分防具を付けていると、古兵より直突き一本でひっくり返され、起き上がれない程痛い目に会う。 ちょっとでよいから足りない防具を貸してもらい、型の訓練をしなければならない。ゆっくり着ていると、一人も居なくなり整列点呼が始まっている。このような行動により、機敏で、困苦に耐える兵隊が仕上がっていく。軍隊へ入った殆どの者が体験するのである。(564・565・567頁)中島 https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/14/O_14_559_1.pdf

 隊内生活では、騎兵隊は起床、消灯時刻とも他の兵科より三十分ほど早くて遅い。馬を連れているからである。朝夕の点呼が終わると直ぐ厩へ走る。世話する馬も自分独りの馬だけでない。古兵、上等兵、班長、教官、隊長の馬と一人で数匹の馬をもつ。忙しいことこの上ない。三歩以上は常に駆け足である。朝一番に水をやる。次に餌、寝藁出し、馬体の手入れ、馬糧の受け取り等々。いつも駆け足だ。(244頁)金子
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/07/O_07_243_1.pdf

居住区(兵舎)内でも三歩以上あるく時は駆足で行かねば何が飛んで来るかわからない。とにかく厳格です。これに耐えきらずに脱走した者も何人かいた。
 上等兵以上は雨具をもって整列の号令が出ると、また逃亡かと不思議におもった。(408頁)中江
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/03/O_03_406_1.pdf

昭和十九年六月二日、私は高知市朝の西部第三十四部隊第二中隊第三班へ入隊を余儀なくされ、以来終戦、復員まで私は軍隊の消耗品となった。・・・ 入隊翌日から、六時起床に始まり、班内掃除、点呼、飯上げ等で、我々初年兵は「早駆け」で少しでもモタモタすると二・三年の古兵殿より過分なる手厚いおもてなしをたくさん頂いた。私は当時二十一・二歳だったので幾分は良いものの、三十余歳の戦友は大変な苦労だった。(65・66頁)大西
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/12/O_12_065_1.pdf

 私は昭和十六年徴集の現役兵として、昭和十七年二月一日篠山連隊へ集合して十日後に出発しました。その時、第六十八師団第五十七旅団第六十一大隊第三中隊より初年兵受領として軍曹が来てました。・・・初日一日だけお前ら内地から来たのだとお客様扱いされ、やれやれと思って寝た。翌日の起床のラッパで途端に大雷です。初年兵モタモタするな、支那風の厳しさを教えたると。何をするのも早駆けでやれと点呼の時からバンバンとビンタが飛んでくる有様です。整列が遅いと早駆け営庭五周と朝の一瞬にして全員度肝を抜かれました。(187・189頁)嵯峨https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/01/O_01_187_1.pdf

数日後、役所から通知があり、「昭和十六年一月十日、近衛歩兵第一連隊に入隊すべし」でした。・・・

内務班・初年兵教育・第五カ条
第一 早めし・早がけ・早ぐそ
第二 軍隊は「メンコの数」食事の事で、長年勤務した者が一番偉い
第三 要領を旨とすべし、員数の確保
第四 地方弁不使用。大声の軍隊語で話する
第五 兵器、衣服は陛下からの預かり物だ。兵隊は一銭五厘(ハガキ一枚)の消耗品だと心得よ
 右の五ヶ条は、初年兵の最大厳守事項でした。(506・507頁)吉田

第一に大声を出すこと、そして早飯と早糞だ。などなどで少しの時間的余裕もない、現地での初年兵教育でした。(174頁)小川

盗みの横行、盗られたら盗り返せ
教育が済めばまた内務班の勤務が続く。先輩殿の衣服を洗濯し、干し、演習から帰り、取りに行けば洗濯物は無い。盗られたのだ。それを上官殿に訴えると「馬鹿もん、ボサッとしとるけん盗られるのだ」と反ってどなりつけられる。娑婆では人の物を盗った者が悪いのに、ここでは盗られた者がどなられる、困ったところだ。員数をつけるため自分も盗って来なければならない。員数員数の厳しきところである。(200・201頁)小宮

 鏡第十三師団山砲兵第十九連隊の初年兵現地教育が始まった。アンペラの壁で土間の板の上で勉強し、カンテラの明かりで、朝鮮兵と共に、月月火水木金金の叩き込みの連日である。支給品は員数と言って、無くすれば戦友のものを盗んでも合わせなくてはならない。無二の親友でもあり泥棒同志でもあった。(93頁)佐藤
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/06/O_06_092_1.pdf

 馬一頭に四人で、前足後足と責任を持って爪を切り、足合わせの金鉄を焼いて叩いて加工し、出来上がったら班長の検査を受けなければ部屋には戻れないし、食事も喰えず、次の馬を曳いて来てまた仕事にかからねばならない。釘は金靴の内側に二本、外側に三本、計五本で取り付けねばならない。中には釘を打って取り付けているうち右に左にと曲がり使用不能になると隣の相手の釘を盗んで来なければ自分の任務が果たせない。まるで泥棒の集まりのような職場でした
 軍隊と言うところは、支給された物品の員数観念が徹底していて、常に数だけは整えて置かなければならないと教育をされた。だから数が足りなくなったら、よその隊に行って盗んで来ても数を揃えると言うのである。
でも班長の身の廻りのことは誰もやらず、ひたすら自分の事で精いっぱいでした。
 釘が足りなくなるとやはり班長殿(浅見軍曹)にお願いすると「もし敵が目の前に来たら見て見ぬ振りをしてしまうのか」と、罰として真っ赤に焼けた蹄鉄を火箸で挾み、装蹄場を三回、熱をさまさず廻って来いとの事。夏の熱い時に上半身丸裸なので汗が流れ、そこに火花が飛んで軽い火傷、風呂に入っても体をこすることができない。(233・234頁)小笠原

早く食事が終わったものが班長の膳を下げに行く。私は三度に一度は下げに行った。早く班長に顔を知ってもらうためだ。
 夕方になれば軍靴の手入れだ。これも班長、古年兵分と一人で三足ぐらい磨いた。夜間の不寝番には三日に一度は立たされた。一日中休む暇とてない。休めるのは日曜日であるが、これも班長、古年兵の下着や私のものを洗濯して盗難防止のため乾くまで番をする。しかも操典を勉強しながらである。(266頁)小椋

 洗濯はたいたい夜の十時ごろからで、室内へ干しておくとよくぬすまれます。上級者のものをぬすまれるとまた(制裁を)やられる。
洗濯物をよくぬすまれたり、ぎゃくにぬすみかえしたりしましたが、海軍ではぬすんだ者をドロボーといい、ぬすまれた方をベラボーといったりしました。(404・405頁)大山
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/02/O_02_402_1.pdf

前述の衣類のほか、丸首で後にボタン一つの下シャツと袴下、靴下などが支給され、これら身に付ける支給品には、すべて分隊名、兵籍番号、氏名などを墨字で書き入れておく。でも洗濯後、なぜかよく支給品が紛失するから不思議で、我々は員数確保が大変である。(557頁)榊原
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入隊前日の夕刻、二年先輩の吉田さんと私のために、松永坑長をはじめ六十人余の人々が、仕事の疲れも見せず、出征祝賀の酒宴を盛大に催して下さいました。
この席での話題は主として新兵時代の心得の指導でした。
一 軍人は要領を本分とすべし
二 発声は大きな声で
三 支給品は盗まれたら盗み返せ
と軍隊のOBは経験談を話してくれました。(483頁)竹下

その外に洗濯物を盗まれるという苦労もありました。自分の物以外に古兵の物、班長の物いろいろです。靴下一枚無くなっても大変。周知のことながら、員数合わせは恐ろしいこと。
 盗まれたら盗み返せとは言いますが、皆盗まれぬよう警戒しているし、もし見つかればただでは済みません。あれやこれやの難関を乗り越え、悪条件を克服して行かねば。とにかく洗濯物では毎日必死の綱渡りの気分です。(353・354頁)清水

営内生活で一番苦労したのは支給品の員数合わせである。軍靴がいつの間にか紛失していたのには本当に参った。これもビンタをもらって班長指導で解決。(76頁)山田

 私は銃の手入れ器具の一つを手入れ終了後紛失したことがある。誰かが一緒に自分の袋の中に入れていると思ったけれど、その事の詮議はなく紛失したことを間抜けだと厳しく叱るのである。一度支給した物は二度とは支給しない、自分で工面して来いという。盗んで来いと言わんばかりである。・・・ある日入浴場で略帽を盗まれてしまった。上等兵の叱言を思い出し、早速工面して帰って来た。悪い事をしたと思いながら。兵器の手入れ器具は、後で班内の一人が二つ持っているからと言って渡してくれた。(141頁)上津原
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/12/O_12_137_1.pdf

そのような厳しい十三日間の班内生活の中で頭に残っているのは掻っ払いが多いことです。夕刻に入浴に行くのですが、私の隣に寝ていた人も、二日目の晩に編上靴を盗まれてしまった。代わりがないかというと、自分の足に合わない靴が残っている。それを上官に話しますと、次の日にどこからか貰ってきてくれたと、こういう泥棒のやり取りです。こういう生活が甲府に入隊した十三日間でした。(286頁)安藤

 その中で一つ困ったことがあった。それは、飯盒、帽子、靴下などの官給品が頻々として盗られることだった。誰にも公平に支給されるものだが不心得者がいて、自分の物が汚れたり壊れたりした時、他人の物を失敬する。すると盗られた者がまた他人の物を頂戴するという具合で、これが果てしなく繰り返されていくわけだ。俺も隊内の入浴場で顔を洗っている隙に帽子が無くなってしまった。しかし若い兵隊の様に他人のものを失敬する勇気も無く、無帽で班内に帰ってその話をしたところ現役の若い連中が、
「じゃー俺たちが取り返してやる。」
と言って飛び出して行ったが間もなく真新しい帽子を持ってはぁはぁいいながら戻ってきた。まるで他人のものをうまくせしめることに無上のスリルと歓喜を覚えている様子だった。
http://war.komagata.org/

山田北洲「新兵の生涯」1908年※明治41年

貴重品の監視
 如何に帝国の軍隊と雖も、之を組織して居る軍人は全国各種の方面より徴募したる者の集合で、中には不心得の白徒も混って居る、従って軍隊には是等の物品には一定の目標が付着して居らぬゆゑ、被害者は之を証明するに難く、窃取者は之を使用するに手易いからである、他人の物品を窃取する如きは素より言語道断の所為で、、明に刑法の罪人である、斯る罪人は素より論外として、自己の物品を盗まるヽが如きは、実に不注意の甚しきもので、畢竟斯る呆然(ぼんやり)の兵が軍隊に居るため犯罪も其間に起るので、従って軍隊では却て是等懈怠者を処罰する場合もある、物を盗みて罪あるは素より当然のことであるが、盗まれて罪ありと云ふは甚麼(いか)にも奇怪千万に感ずるであらうが、軍隊で之を罰する所以のものは只之を盗まれたと云ふ簡単なる事実を罪とするのでなく、寧ろ其精神即ち自己の物品を盗まるヽまで心付かざりし其不注意を罰するのである、蓋し戦時に於ては僅一人の不注意が延いて全軍の勝敗に関することがある、故に平素斯る頓馬の呆然漢(ぼんやりや)に注意を喚起せしめ置くには、相当の制裁を加ふること寧ろ至当と信ずるのである、
 次に物品は如何なる場所で多く紛失するかと云ふに、大抵浴室や私物箱に置き忘れたり、或は衣の隠(判読困難。振り仮名「ポッケット」)に入れた儘就眠したる場合等である、故に貴重品は成るべく身辺を離さヾる様に注意せざるべからず、若し入浴に出掛けるならば之を戦友に預けて行け、夜分は必ず寝具の下に敷いて就眠せよ、物を置き忘れするが如きは、不注意も亦甚しき次第なれば、最も気を引き緊めて置かねばならぬ、何れにしても貴重品は必ず肌身を離さヾる様注意すれば、決して盗難に罹る虞はない、若し多額の金銭を所持し居らば必ず中隊に預け、入用の度毎に請求せよ、然らば第一盗難の虞なきのみならず、無利子の銀行に預けたと同じく至極便利である、余は此点に殊に注意を与へて置く、盗まれて後泣かむより、盗まれぬ前に防御工事を施さば、如何に敵の奇襲に際しても能く之を掩護し、且利を将来に占むることが出来るであらう、俚諺に云はずや転ばぬ先の杖と、

死の間際に天皇陛下万歳
(実際には天皇陛下万歳と言った者はいない、という主張が歴史修正主義者から出ているようなので、ここではあえてその事例だけ挙げる)
・・・三、四機のグラマンが飛び交い赤い曳光弾を発射し、盛んにこの器材小屋を目標に打ち込む搭乗者の顔がはっきり見えました。
 柄の無いスコップの取り合いをして自分の身辺に置く、頭や背中を負傷する者が増えて「天皇陛下万歳」の最後の声も聞こえます。「この攻撃がいつ終わるかと時間がとても長く感じられました。(391・392頁)堀池・ミンダナオ

と私の腹の下からしぼり出すような声で「天皇陛下万歳」といっているようです。ハッとして下を見たか見ないかさだかではありませんが、一瞬のこと小塚上等兵の臀部は砲弾のため左半分ズボンごともぎ取られておりました。それでもうめき声で「天皇陛下万歳」を唱えています。「お母ちゃんとかおやじ…」とかの言葉はないのでしょうか、その当時としては当然の言葉かも知れません。私もこのような時期がきた時、いわなければと心の隅でチラッと思ったものです。が今体験文を書きながらあふれる涙をどうすることもできません。(191頁)渡辺
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その時、前方で「天皇陛下万歳」の声がした。しかし、その姿を確認することができなかったのです。私達の応射と手榴弾戦の中にあったからでした。・・・
 応援に来てくれた隊が、突撃をして敵を撃退してくれたのです。四囲には敵の死体や、不発手榴弾や、兵器なども散乱していました。私はすぐ前の陣地に走りました。そこに新村分隊長が倒れていたので「新村班長」と言って抱き起こしたけれど、既に名誉の戦死をとげておりました。先程のとげておりました。先程の最後の声だったわけです。
※よく「天皇陛下万歳」と唱えた人はいない「お母さん」だった。というけれども、新村班長をはじめ、何人かの人の「万歳」は現実に聞いていたし、実際に唱えた人が九死に一生を得て生還した実例は、我が部隊ではありました。(380・381頁)大島
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分隊長は私しの身体に覆い重なってきましたので分隊長と呼んだが返事がありません。やられたなと感じた瞬間、突然、上半身を起し両手を挙げて「天皇陛下万歳」と二回叫んで再び私の上に倒れてきました。私は悔しくて涙が流れ声も出ません。
 こうして何時間ぐらい経ったのか、私もぼんやり意識が戻り、途切れ途切れに思い出せるようになって周りも薄暗く、人影も分からなくなりました。そして何だか身体の上が重いのでよく見ると。分隊長が私の上で息途絶えていました。(377頁)高橋・マレー半島

その戦闘で初めて「天皇陛下万歳」を三回唱えて、庄内の難波上等兵が戦死した。この耳ではっきり聞いた。(277頁)小山田
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まちまち生死をさまよう兵士、マラリアの熱病、水、水をくれの連呼、あの声、いまだに忘れ得ぬ。力尽き、「お母さん、お母さん!」、最期の声は「天皇陛下万歳!」と、かすり、やむ。嗚呼、軍人の哀れさよ、まぶたが涙で浸みる、死して護国の楯となる。(356頁)福島・中国

中隊に二人しかいない衛生兵も走ってきて応急の手当てをしたが、その甲斐もなく、「お母さん、お母さん」と幾度か叫び、最後に苦しい息の下から「天皇陛下万歳」と叫んで壮烈な戦死を遂げたと、後になって聞いた。(173頁)安達・バターン

私は星上等兵を抱きかかえ、「星しっかりしろ、頑張れよ」と勇気付ける以外はなかったのです。星は私に抱かれ悲痛な力のない声で「天皇陛下万歳!」としっかりした口唱〔ママ〕で二回絶叫し、三回目の「天皇陛下万歳!」はかすかな声と共に壮烈な戦死を遂げられたのでした。(56頁)加藤・中国

指揮班の松尾上等兵が胸部貫通銃創。中隊長に抱かれて「やられてすみません……だんだん見えなくなりました……もう何も見えません」と虫の息。最後に声をふりしぼって「天皇陛下万歳!」と唱えて息絶えた。感激されてか中隊長は「よし、金鶏勲章だ」と大声で叫ばれた。(308頁)川島・中国

このようにして私は無事帰ることができたのですが、上海から乗船した人が、帰る途中、船の上で「天皇陛下万歳」と叫んで海に飛び込んだ人がいました。(325頁)井上

 死に直面し天皇陛下万歳と叫ぶ者、悲壮な声でお母さ-んと母を呼びながら死んでいった者、それは今でも脳裏から離れません。


薬莢など紛失厳禁
私は特に真面目にやっていたので認められていたようであったが、一期の検閲の時、薬莢を演習場に落としてしまった。その時、中隊長も一緒になって捜してくれた。本来なら、相当強く制裁されるのだが・・・(137頁)和田

五月十日に久留米第一陸軍予備士官学校へ入学しました・・・演習で薬莢一つ亡失しても、広い演習場を這いずり廻されました。(371頁)河村
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いく日かたったある日、忘れもしない事故が発生した。二月中旬のころだったと思う。同僚の者が訓練中に三八式歩兵銃の一発の薬きょうを紛失したのだ。これを探すため一列横隊に並んで、薬きょうを雪の中へ足で踏んだものと判断して、雪を掻き分けながら探し続けたが見つけられなかった。時はもう夕方に入っており、手指は冷え切って真赤になり感覚はなくなりそうな状態だった。私は初めての苦い経験であり、なんと軍隊とはあんな小さな消耗品一つでも大事にしなければならないということをつくずく思いしらされた。(57・58頁)平野

空砲の小銃弾十五発ずつを支給され、「これから夜間演習をする。終了後、空の薬やっ莢きようは必ず返納するため紛失しないように」と言われ、近くの演習場まで月明かりの雪原を行軍する。ゾクゾクして寒さで体が震え伏せたり、走ったり、匍ほ匐ふくしたり、その間に空砲を撃つ。東の空が白みがかったころ演習は終わり帰隊する。寒さと教練にくたくたに疲れた。空薬莢を返納したが、初年兵の一人が「十四発分返納が一発足りない」と、班長が怒り、古参兵はうんざりした顔をする。どうなるかと思った。他の班は解散となり、第二班はそのまま演習場に引返しました。朝食抜きです。一列横隊に並んで演習場の雪を両手でかき分けながら午前中探しましたが出てきません。寒さと睡眠不足と空腹、それに疲れが重なりフラフラになって隊に戻りました。やっと昼飯にありつけると思っていましたら、「班長以下全員食事なし」さすが午後の教練はなかったが、初年兵の自分たちは班の仕事や使役に駆り出されて、休むことができなかった。たった一発の空薬莢のためとはいえ、軍律は厳しかった。(76・77頁)河村

擲弾筒で思い出すのは部品のリング(転輪)を落して、夕暮まで全員で捜すことを命ぜられたことであった。広い練兵場の中で、夕暮まで捜したが見付けることはできなかった。私はこれに懲りて面会にまた父に頼んでリングを作ってもらい、それからは常に予備を持つとともに、リングを二つずつ全部の擲弾筒についたことを思い出す。(397頁)田上

軽機関銃の部品が紛失して、演習場を一列になって這って探させられた経験がありました。これも教育の一つの方法だったのです。(241頁)手塚
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私は旅順で生まれ、終戦後に大連に移動させられるまで、旅順で育ちました。・・・訓練終了後に、空薬莢を真剣に探している姿を見たものでした。空薬莢を真剣に探すようでは、戦地で実戦のときはどうするのだろうと、子供心にも不安な思いをしたものです。(73・74頁)冨山

日本の歩兵銃はどうだ。三八式といって、明治三十八年の日露戦争のときの制式銃である。以来、大東亜戦争中まで使用し、一発ずつ弾倉から送り込む方式で、しかも弾倉にはたった五発しか入らないシロモノで、薬莢は回収しろということだ。たった一つ紛失しても営倉モノで、こういう教育しか受けてないから、(25頁)澤田
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新兵は古兵のお古
 入営した姫路の部隊は、第十師団歩兵第三十九連隊の留守部隊で、本隊は既に満州へ進駐していました。(307頁)
 季節は二月。厳寒です。入営する時に着ていた私物の被服一式を脱いで、小包便で留守宅へ送り返す。新しい越中褌一つとなり、その上へ官物のジバン、コシタ、靴下を着用し、さらに軍衣(うわぎ)、軍袴(ズボン)を着る。すべて官給品であるが、新兵に与えられるものは古兵の着古した程度の悪いもの。乞食に近いもので、これでキッパリと娑婆と縁を切り、軍隊という別世界の人となった覚悟を否応無く自覚させられました。(308頁)松本

 内地で受領した新品の被服は全部脱がされ、古いよれよれの物と取り替えられ、編上靴もピカピカの新品は取り上げられ、代わりに支給されたのは皮のザラザラの靴の中に釘が出ている古い靴でした。そこで毎日釘を叩いて、ひっこめて演習に参加していましたが、二週間位たつと左足の平と腿が腫れて痛くなり、大隊本部の医務室へ二週間の入室となって、漸く痛みもとれ退室して中隊へ帰りました。
 早速、班長から「気合が抜けている」とビンタの嵐でした。(234頁)菅野

 衣服は下着まで全部お古。何人もの先輩が着たもので、袖の長いのもあれば、ズボンの短いのもあり、靴も大きさがピッタリなんていうことはあり得ない。自分の体に衣類を合わせて着るのではなく、衣類に自分の体を合わせるという。(464頁)森

 福岡連隊での十日間ほどは、朝晩の点呼以外大した訓練もなかったが、私に困ったことが起きた。入隊のとき古い軍服と革の軍靴を支給されたが、兵営内の履は縄緒の下駄であった。(138頁)上津原
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私達、初年兵は、正月、部隊が帰って来た一月五日に正式に入隊しました。
 本隊が帰って来た時、その服装はボロボロでした。我々初年兵は支給されていた服を脱いで、ボロボロ服と交代、服も長靴も返納させられました。今度支給されたのは古い服で、修理したのや、血痕のあるものもありました。(354頁)福島

 その日のうちに着ていた私物は全部脱ぎ、支給品と着替えて兵隊らしくなった。しかし、支給された軍服はよくもこれまで耐えられたと思われる明治時代の製品であった。この詰襟の服は毎日の演習による破れがひどく、夜になると針と糸を出しては慣れぬ手つきで繕わなくてはならなかった。そのうえ驚いたのは、初年兵には営内靴がなく、便所に行くのも裸足であった。便所から戻ると入口の水を入れた箱の中で足を洗い、横にある筵で足を拭くとそのまま毛布の中に入って寝ていた。(396頁)田上


小銃(の菊の紋章)は命より大事
(関連 皇軍実態集 兵は消耗品、武器や馬の方が大事
 昭和二十年六月八日、陸軍部隊五百人ぐらいを乗船させて移動中、バンガ海で島陰に隠れていたイギリスの潜水艦が発射した魚雷が、右舷脇に四発命中し、船が横揺れしたと思った瞬間、火薬庫が爆発し、見る見る中に沈み始めました。さあ大変「救命具を海に投げ込め」「海へ飛び込め」の大騒ぎとなりました。
 ざぶんざぶんと海に飛び込む者、「退艦!退艦!」と呼ぶ者、その退艦の声に陸軍の兵隊達も銃を持ったまま海へ飛び込む。海軍の水兵達も次々と飛び込む。先に海に投げ込んだ救命具や救命筒に捕まり泳ぐ。・・・
 陸軍の兵隊たちは銃を握り、片手で器具に掴まり泳いでいるので、目に付いた兵隊には「銃を捨てなさい!自分が死ぬぞ!」と叫び、銃を捨てさせました。菊の紋章が付いている歩兵銃をしっかり持っている兵隊さんに頭が下がりました。(423・424頁)佐藤

 早速、各連隊から敵潜水艦から発射される魚雷監視の見張りが交替でつくことになりました。我が中隊からは古年兵が指名され、初年兵は退避訓練が始まりました。驚いたことには、完全軍装で船底から縄梯子で船上に出ることでした。銃の扱いになれていない初年兵には重く、その上、安定もしない梯子を登るのだから大変でした。銃は菊のご紋章がついている兵器ですから、我々人間の命より大切な悲しい時代でした。毎日島影一つ見えない洋上を走行する船の中で厳しい訓練は続けられました。(485頁)竹下

完全武装のまま飛び込む。何時間経ったのか、東の空も白々として来た。二十数人沈黙のままだ。海にただ浮いているだけ、助かるか死か、頭の中は何も浮かばない。夏とはいえ海の中では身体中が冷え切って感触もなくなる。ちょうど太陽が赤々と輝きを見せた頃、戦友の一人が船がこちらへ向かって来ると知らせた。もうこうなれば敵も味方も無い、ただ助かりたいという気持ちが先で、銃身に日の丸の旗をくくり必死に振った。幸い海軍の掃海艇であった。「ありがとう、ありがとう」と言うのだが声にならない。(127・128頁)米重

 今回の撤収は軍人軍属だけ、兵器その他一切の持ち込みは禁止されていたので、陸軍の兵隊は本艦に乗り移る直前、持っていた三八式歩兵銃を両手で捧げ、拝むようにして海中に投棄する
 この光景を艦橋で見ていた艦長から、三八式歩兵銃だけは持ち込みを許すと命令が出た。この時は陸軍の兵隊とともに、目頭に涙を浮かべたものであった。(428・429頁)掛下

昭和二十年九月中旬、米軍特使による停戦の通達があり「ホッと一息付きました」とこれが偽らざる心境でした。正式の終戦命令が発令され陣地を後に下山しました。米兵がニコニコと笑顔で迎えてくれるのが不思議なようでした。ただ命より大切に扱った「天皇陛下」から与えられし銃火器は米軍に子供の玩具のごとく取り扱われ足蹴りにされた時は、腹が立ち顔色が変わったと思いました。(518・519頁)村田

 本隊追及の行動は依然として続く、八月二十日武昌付近で武装解除された。丸腰、無防備の状況で敵中の生活が始まった。各自所有の三八式又は九九式歩兵銃は、金物や銃剣などで完全に菊の御紋章を削り取らねばならぬ。妻や子供を銃後に残してきて、大陸の赤土に埋もれた戦友、兵器として命より大切な菊を削った。徴収した民家に住むとすぐに「宮城」の貼紙をして、目覚めには礼拝して毎日を励んできたのだ。(96頁)佐藤https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/06/O_06_092_1.pdf

  二、価値観の倒錯
 中支藤部隊の当陽における師団通信隊の候補生教育は熾烈さの重なりであったが、いつしか一応の前線指揮者の卵として態様もやや整いつつあった。野外演習のある日、先任として豊川教官に命令受領のため「○○候補生、命令受領にまいりました」と直立不動で待機の瞬間、馬上の教官が手綱の操作を誤り、突如として馬がいななきと共に馬蹄を宙に上げて蹴りかかって来た。そのままの姿勢で居続けていたとしたら肋骨か顎の骨を粉砕して重傷はまぬがれぬところ。本能的にとっさの気転で手に持った銃で、ハッシと蹴りかかって来る馬蹄を、受け止めて難をのがれることをえたのだ。血の色を失った教官は、やおら馬から降り立つと「おそれ多くも、陛下から賜った銃を盾にして身を防いだ、その不届きは万死に値する」と豪語して抜刀の上白刀をかざして切り降ろさんとした
 部隊全員が息を飲み注視する中で、鉄誅を加えるというのだ。一瞬の後、教官の手が思い止まったので事なくしてすんだものだが、このことだけは戦時の真っ只中とはいえ、命に対する条理の倒錯に際限のない噴怒を今もって禁じ得ない。(70頁)土網
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 昭和十九年二月、第一海上護衛隊司令官の作戦指揮下に入りました。月日は忘れましたがバシー海峡で南方行きの船団護送中に、ある輸送船が雷撃され沈没したので救助に行きました。このバシー海峡は鮫が多いので有名な海で、早く救い上げないと鮫にやられてしまうので、浮かんでいる兵隊に向かって「銃が邪魔で助けにくいから放せ!」と怒鳴ったら、その兵隊が「この銃は自分の魂だから放せません」「お前はどこの兵隊だ」「自分は関東軍であります」と叫んで銃を差し上げて、とうとう終わりまで銃を抱いたままでした。幸いその兵隊は助かりましたが、陸軍の教育に感心させられました。(496頁)梶本

 我々二十二名の二個分隊員は、私の指揮のもと一ノ谷から十三ノ谷までの山中へ入ったのですが、昼は敵の攻撃や空襲が激しいので薮の中にかくれ、夜行動するのでした。しかし、夜間山中を歩くので、兵隊の体が保てない。止むなく機関銃を分解して捨てようと、六分隊長に相談しましたが、彼は「陛下から預かった兵器は捨てぬ」という。私は「貴方は兵隊の苦労が分からぬのか」と反論し、「自分は自分で責任を取るから」と言って分解し、川の中ヘバラバラにして捨て、「貴方は持って行きなさい」といいました。
 第六分隊では二日間くらい機関銃を持って歩いていましたが、その後、「ああ言って悪かった」と言い、第六分隊の重機関銃も捨てました。そのとき、私は肚を決めていて、兵器を捨てたのだから、もし中隊と合流できたとき、銃殺刑になるのは確実と思っていました。我々は一ノ谷から直ちに十三ノ谷へは危険で行けないので、東側を抜けて山中に入りました。一カ月後に十三ノ谷で中隊長に追い着くことができました。私は兵器を破棄したので罰を受けると思って、拳銃を帯革に差していて、万一の時は中隊長と差し違えようとも思っていました。ところが中隊長から、二個分隊を置いて先行したことを自分から詫びられました。(183頁)丸山

階級より在籍年数
 昭和十八年二月一日付で、一選抜の上等兵に進級しました。初年兵にとっては名誉なことですが、先輩や古参兵(中には札付きの万年古参兵もいる)をさしおいての進級はなかなか大変なものです。軍隊は「めんこの数」といって、階級より年数の多い方が幅をきかせる社会であるからです。そのような苦しみも味わいながら、我慢をしながら、訓練、勤務、討伐と日々を送っていました。(258頁)山口

 一年が過ぎた。上等兵に進級した。この時ほど何よりも嬉しく思ったことはなかった。本部付として対外的には他部隊の兵や下士官と接触の機会を持つ私の立場としては、無理からぬ事と思っていただきたい。しかし上等兵の星も対外的、外出時には格好良いが、自分の部隊内にあっては古兵には全然通用しないものと、しみじみと味わされたものである。(118頁)竹内

同年十二月一日付で西部第五十一部隊、姫路第十師団野砲兵連隊・第四中隊四班(中隊長片山中尉)に入隊。一〇センチ榴弾砲の挽馬部隊であっ
た。
「初年兵の心得五カ条」
第一 早めし、早がけ、早ぐそ
第二 要領を旨とすべし、員数の確保
第三 地方弁を使うな、そして大きな声
第四 軍馬は兵器、陛下からの預かりもの。兵隊は一銭五厘(ハガキ一枚)の消耗品だ。
第五 軍隊は、メンコの数(食事の事)。
右五カ条を旨とすべし、だった。(473・474頁)柏井

 軍隊は階級がものを言うところですが、同じ中隊内、同じ班内ですとこれが通らないところです。「軍隊は飯の数」とも言われています。上等兵が一等兵に文句を言われたり、将校が下士官に叱られたり、私的制裁を受けたりしていたことは常識になっていました。「やい、伍長殿と奉っていればいい気になりやがって大きな面をするな。貴様、何年メンコ飯を食ってきたというんだ」と、任官ホヤホヤの若い伍長に一発かませるという光景はよく見かけました。(79・80頁)河村

 入営したとき、軍隊とは、なんといっていいか言葉に言いつくせないところだと思った。「古参兵、戦友の面倒をみるように」と言われた。一班に二十二人、真中にオンドルがある部屋だった。片側に十一人か、そのなかに、神様などという一等兵(二〜三人しかいないが)がいて、班長の言うことも聞かぬ、いわゆる万年一等兵で、進級されない、その人たちが一番恐かった。(420頁)渡辺

 我々の隊は、あの有名なノモンハンの生き残りの隊だと聞かされ驚いた。我々の知る限りでは「ソ連軍と戦い壊滅された」筈で、星二つの四年兵、五年兵が数人おり上等兵や兵長より威張っている。「メンコ」の数がもの言うところが軍隊だなと思う。(17頁)高橋

分隊の中に柴田上等兵と言う十三年兵がいて、位が上の村中伍長分隊長を「オイ村中、オイ村中」と呼び捨てにしているのには驚いた。(305頁)

 私達初年兵も古参兵も皆、あの暑い桂林の被服のままで、柴田古参兵が主計少尉を呼んで「冬の衣類を兵站を廻って貰って来い」と叱りつけていました。ところが全部他の隊に取られて破れた外套とかで我々小隊を乞食部隊とののしられました。それでも汚い駄馬の荷台用に使った毛布を何枚か着せあって寒さをしのいだ。
 柴田十三年上等兵は物凄い見幕で文句を言っていた。軍隊と言う所は十三年以上の年数の兵隊は階級を物ともせず、命令的に物を言っても罰せられない所だと不思議に思いました。(306・307頁)石田

南京の下士候隊卒業の新品伍長の週番下士官殿にとっつかまり、いまにもピンタの一歩手前、命の綱と頼む兵長さんが現われ、週番の伍長に「わしが連れて行った。お前文句あるか」で終わりました。階級は下でも年次が古い、軍隊とは不思議なところです。(276頁)村上

 内務は階級よりも食事の飯の数がものを言う。三年兵が神様か、二年兵の兵長より三年兵の一等兵が幅をきかせるところ。勤務は階級、内務は飯の数それが当然とし存在するところである。下士官志願の任官者より古年兵が内務では顔が広い。(263頁)信濃
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 ここでは日曜日は休日である。自分は同じ部落から召集で入隊している鈴木五郎さんという人を探しに行った。第三中隊の内務班に入って行ったら窓際のベッドの上にいて「おお、よく来たな、こちらへ来い」と言って若い上等兵に「俺と同じ郷里から来た者だ。お前、酒係に行って饅頭を買って来い」と言い付けたのだ。鈴木さんは予備役でまだ一等兵であったが、軍隊というところは、兵のうちは、階級よりも一日でも早く入隊した者が上位だと言う。このようなことも初めて知った。(100頁)大竹
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軍隊は階級ではなく、メンコ(食事の数、年数)の数です。(241頁)手塚
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行軍しながら眠る
 昭和十七年五月作戦開始。杭州を起点として正面の敵である顧祝同指揮の中国軍を金華、蘭谿で約二個師を壊滅しましたが、ちょうど中支では雨季に入り雨の降らぬ日は五十日間のうち僅か九日間でした。したがって道路は水没し、一歩誤れば水死の危険がつきまとっていました。とくに夜間行軍の連続では歩きながら眠る訳ですから、うっかりすると道だと思って水たまりの中へ入り込んで、転んだら最後、誰も助けてくれません。「○○はいないか、どうした」という者もいないのです。疲労困憊の極みになると自分を守るだけで精いっぱいなのです。それに加えて雨のため補給は絶無、栄養失調と豪雨と炎暑とで倒れる者も多かったのです。(264頁)田中

 広西省の仏印に近い辺境は日中は四〇度に近い猛暑であるが、夜間になるとさすがに気温も下がり冷気さえ感ずる涼しさである。昼間は休憩の度ごとの軍馬の水飼も、夜間はほとんど必要がなくなる。
 それとともに急に眠気が催してくる。歩きながら眠るということは平常は想像もできないことであるが、疲れきった状態の中では歩きながら眠ることができるのである。その場合の絶対の要件は、何かに掴まって歩くことである。それには馬である。馬のどこかに掴まって歩くことである。馬具の一端か、時には尻尾の一本であることもある。前方から行軍が止まる。馬も止まる。が眠りながら歩いている兵は馬の尻にぶつかって、ハッと目を覚ます。暗闇の中で苦笑しながらまた眠っている。(82・83頁)井上

 昼は行軍、戦闘、夜は平均二〜三時間しか眠れない。靴下へ詰めた米は古兵のから使用するから新兵の装具はいつまでも軽くならない。砲手も馭兵も睡眠不足になやまされた。行軍中、行進が止まると、決まって前の馬の尻に頭をぶっつけて止まる。一歩、一歩足を運んでいる感覚はなくて、無意識に機械的に足を動かしているのですよ。
 或る時など、行軍で止まっていると付近の景色がだんだんと変わり、富士山が見え(私は毎日富士山を見て育ってきた)、故郷の兄や母の顔が見えた。なんでここにいるのかなと思ったら、「前進しているぞ、何をしているか」大声にハッとしたら、二〇人ぐらい前からみな止まっている。私も大声で前へ逓伝した。皆立ったまま居眠りをしていたのです。ですから、行軍中に敵と出くわさないか、なと期待する。戦闘が始まれば伏せられるからです。・・・なりふりかまわないで、一寸した時間でも腰を下ろして眠り、歩きながらも眠れるようになる。禁じられてはいるが、みな馬の尾をつかんで行軍するようになりました。(239・240頁)小林

残飯あさり
初年兵の腹は乞食腹といって喰っても喰っても腹が空いてたまらないものですが……。飯盒の蓋に八分目しか飯がないのには参りましたね。仕方ないから早く食べて古兵や下士官のところへ行って「食器洗いに参りました」ということにして残飯にありつく有様でした。古兵に意地悪いのがいて、わざと残飯に水をかけておくのです。現地の生水は赤痢のもとですから生水は絶対の飲めません。恨めしげに水が引くのを待って上の方をさらって食べたことを思い出します。なぜ飯が小量なのかは後日判明しました。一期の検閲後、古兵と食糧受領の使役に出たのですが、船で運ばれてきた米袋を食糧庫にはこび込む時に古兵が、竹筒を米袋に突き刺して持参した乾パンの空袋に「ザー」と詰め込むではありませんか。古兵はその米を売って自分等の飲み喰いに使っていたのでした。(426頁)長谷川

しかし訓練は一般兵の倍も三倍も厳しく、その訓練に加えて学習、精神教育、相次ぐ試験などで全く多忙だった。最も苦労したのは食糧で、若い兵隊にとって腹ぺコが一番辛い。動作の鈍い者は常に可哀想だ。恥ずかしい話だが班長の残飯や魚の骨等は初年兵にとっては歓迎された御馳走だった。(219頁)山下

 初年兵には空腹はつきもの。いつもごろごろと雷のように腹が鳴る。飯上缶を洗いに行くのも役得の一つ。古兵が残す残飯が目当てである。洗い場まで行く間にきれいになっている。パンの耳なんかは食べ残ったらポケットの中へ遮二無二押し込んで持ち帰り、便所へ入って食ってしまうという案配である。
 ある時、炊事場裏の箱の中に残飯が盛り上がっているのを見つけ、手づかみでやっているところを週番兵に見つかり、強かにビンタを取られた。曰く「皇軍の体面を汚す」と。空腹に耐えるのも訓練の一つである。(242・243頁)畠嶋

初年兵は演習や運動で腹がすく。与えられた給与だけでは足りないので古兵の残飯を頂く事もあった。(263頁)信濃

 起床から消灯まで軍人勅諭、戦陣訓、歩兵操典の教育、それに教練、飯上げ、洗濯など班内の業務に走りながらの行動です。腹が空き古兵の残飯で助かりました。(388頁)菅原

 部隊はこれまで少数の現役兵の部隊だったのですが、いわゆる「関特演」で大勢の召集兵が入ってきたわけです。そのため、準備も不十分だったのか半年ぐらいは食事も充分でなくて、戦友の中には厩使役に行って馬の主食の豆粕を割って食べ、日夕点呼の時、口から豆粕が飛び出して週番下士官に見つかり「馬の上まえをはねた」とビンタを受けることもありました。
 また、下士官の残飯などを奪い合う風景もしばしば見受けられました。そんな状態だったから、休日には必ず外出して、一週間分の不足をと、腹一杯食べて満足することもしばしばありましたが、日が経つにつれてそんなこともだんだんとなくなりました。(285頁)相原

 現地入隊は同時に、戦闘訓練の猛練習が日夜続きます。百姓そだちで大麦飯を十分食ってそだった初年兵は、金の茶碗一杯の盛飯は、食後すぐ腹がすきますが、それ以外に一粒のおやつとてあたえられず、空腹をしのぎ古兵の残した残飯を犬畜生同様にあさり、我慢の連続でありました。夜、炊事のこげ飯や黒砂糖の固まりをぬすむ等、ずいぶん飢えには苦労しました。(121・122頁)河原

 本日より大日本帝国軍人として張り切る。朝の起床ラッパで始まり、九時の消灯ラッパまで初年兵は忙しい。軍人勅諭、戦陣訓、歩兵操典、教練、飯上げ、洗濯と目が廻る。走り行動で気合が入る。よく腹が空き、古兵の残飯を手づかみで食すことなどがあった。(87頁)小林

 一期の検閲までの三カ月間は例の通り昼夜を問わぬ猛訓練の連続でした。初年兵の腹は乞食腹といっていくら食べても食べるそばから腹が空いて、残飯を漁り、見つかってビンタを頂戴するパターンはどこでも同様でした。(402頁)和田

 食事は各班ごとに決めてあり、当番も順番に回ってきました。上司の分は沢山盛りっけなくてはなりません。少ないときは「今日の当番は誰だ」と怒鳴られるので、皆食事当番になったら上司の分を多く盛り、自分の分は少なくなるのですが仕方がありません。寝ても覚めても「食いたい、食いたい」の一念でした。そのためか誰も彼もがだんだんと身体が弱ってしまい、ある者は残飯の中の物を拾って食べていたと聞きました。(360頁)松島

トイレの時間が無い・行軍しながら垂れ流し
腹が減ってくるが食べ物はカンパンのみ、口の中にほうりこむ。追撃戦のため、口の中はからからだ。カンパンは団子となってのどを通らず、また小便はできるが、大便をしていると皆に遅れてしまう。そのため進撃中にしてしまうのでとても臭い。(48頁)北口