日本軍の実態 体罰・私的制裁(1)
日本軍の実態 体罰・私的制裁(2)
日本軍の実態 体罰・私的制裁(3)
の続き

 小生が軍隊に入って満州に渡り初年兵教育を受けた最初のころで、まだ右も左もわからず毎日ピ〔ママ〕ンタの雨が降りおたおたしているころ、・・・入隊早々目をつけられてしまい、それからはとても厳しくなり、ビンタどころか、帯剣のさやのついたまま頭部を数回殴られるなどされた。(200・201頁)
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 昭和十八年七月十日、久留米陸軍病院へ転属、下士官に引率されて、歩兵第四十八部隊に、「さようなら」をしました。久留米師団管下の各兵科諸部隊より選抜されてきた衛生兵要員の集合です。(313頁)
 夕食後の古兵の私的制裁は誠に厳しく、二列に並ばせての「対向ビンタ」です。戦友対戦友で、少しでも加減をすると「こらーそのようなことでは駄目だ。力いっぱいだ」と言って、目の前の戦友を殴り飛ばします。互いに心でわびながらの殴り合いでしたし、古兵は得たり顔で立って眺めています。そして「腕立て伏せ、五十回だ」と、いろいろ考え出してやらせます。(314頁)野田

 我々初年兵を教育するのは、自称歴戦の三年兵とか、満州帰りの四年兵とかで、鼻息の荒い古強者であった。毎晩の日夕点呼の鉄拳、ビンタ、時には営内靴さえも飛んできたこともいくどかあったが、話に聞き、本で見知っていた私には別段苦痛とも思わなかった。六条志願兵は、下士官志願兵と見なされていた頃なので、我々志願兵には特にきびしかった。ふた言目には「将来の幹部がそれでよいのか」と声と共に飛んで来る鉄拳には、さすがに頭に来ることもあった。
(鈴木卓四郎「憲兵下士官」208頁)
 
 三月中旬の北京の風は骨身にしみるほど冷たく、枯葉をすっかり落とした東長安街の合歓(ねむ)の並木は寒々としていた。その並木の下で中年の女をともなった三人の若者と二人の少女がたちどまって私たちの教練をながめていた。きれいな姑娘(クーニャン)だなァとうっかり見とれていた丸田二等兵の頬にいきなりビンタがとんだ。
 「こら!何をみとるんなら。今年の初年兵は態度が太い、まったくたるんどるんじゃけん」
 初年兵係の岡崎智上等兵が、岡山弁でどなった。初年兵のなかの一人がヘマをやると、共同責任だというわけで、夜の点呼後に初年兵全員がビンタをとられる。今夜がまた恐いな、と思うと、午後五時に近く教練を終えて帰営する足が重かった。(17頁)
(井上源吉「戦地憲兵 中国派遣憲兵の10年間」)

 そして東京市葛飾区にあった晴第一九〇一部隊航空隊に入隊、陛下の御馬前ともいうべき宮城前で敵機を撃滅する名誉ある任務に就かさせられたのです。
 入隊したころは冬の時季で毎日の学科や訓練の教育は厳しいものでした。また内務班においても古年兵殿より日々の厳しいビンタが飛び交う毎日でしたが、自分は青年学校で四年間の軍事教育を受けていましたので少しは余裕がありました。(306・307頁)三條

 昭和十八年三月三十一日、私に待ちに待った召集令状が届きました。四月十日、大村市の歩兵第四十六連隊に入隊せよとの内容でした。・・・
 翌十日十時、みんなそろって大村第四十六連隊の営門をくぐり入隊しました。私は第六中隊に配属され、班の人員は初年兵十三人でした。
 入隊当日は古兵から歓迎され、いろいろ親切に教えてもらいましたが、二日目からは朝六時の起床から夜九時の就寝まで忙しいこと。ぐずぐずしていれば怒鳴られる。返事が悪い、質問に返事がないと叩かれる。軍人勅諭の暗唱、兵器の手入れ、古年兵の世話、朝昼夜の飯上げ、内務班の掃除、軍事教練の厳しさ、夜の点呼時には叱られ、叩かれる毎日という男同士の生活が始まりました。軍隊の厳しさは事前に聞いていたが、こんな厳しいのなら志願までして来るのではなかったと思うこともありました。一人間違えれば連帯責任だと全員が叱られ叩かれたり、対抗ビンタで向き合って叩き合うことなどいやな思いが度々しました。(294・295頁)木下

 翌年の昭和十九(一九四四)年六月十三日、群馬県の沼田の迫撃砲第一連隊に「入隊すべし」と教育召集令状を受け取った。・・・
 新兵の教育係は優しくて理知的な人だったが、軍隊のしきたりがあり、時には注意して殴ったり、またこんなこともあった。班内の防火用水に煙草の吸い殻が捨ててあり、初年兵を集めて「誰が捨てたか名乗り出よ」ときつく言われたが、誰も返事をしない。そのうち一人が「私が捨てました」と申し出た。「よし、お前は列外に出よ」と言い、残った全員に「歯を喰いしばれ」と、革のスリッパでビンタを取られ(殴られ)たこともあった。(267頁)村井
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 武山海兵団より静岡県新居市の浜名海兵団にて新兵教育を終了しました。私共の教班長が人柄が良かった人で、大変助かりました。噂に聞いた数々の無情な苦痛を伴う制裁や躾は行われず、今から考えても苦労の種は無く、有難い事と感謝をするばかりです。
 勿論、海軍特有の精神修養棒はありましたが、直径が大きく、尻に当たった時の衝撃も緩和され助かりました。(500頁)小檜山
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 名古屋に伯父・伯母がいて一泊、松江市内の八束町というところに父と弟に送られ入隊しました。・・・
 夜の一品検査、兵器の検査等少しでも落度があれば、スリッパ(皮)でなぐられ、消灯ラッパでようやく寝かせてもらう毎日毎夜でした。松江に入隊三か月で、軍隊の厳しさが本当にわかり、心身ともに一人前の軍人になる基本が身につきました。(125・126頁)天野
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 私は大正十一年十一月十九日生れで、三人共昭和十七年徴集です。・・・初めから独立山砲第五十一大隊要員と決まっていました。部隊の通称号は呂五五一三部隊で第十一軍直轄でした。・・・
 漢川へ着いて各中隊に分かれたのですが、三人共第二中隊で、兵舎は廟でした。そこで初年兵の教育を受けたのですが、内務班も酷しいもので、十五年徴集の人たちの時には、逃亡者や自殺者が出たと聞いています。九州は特に酷しいですから。(303・304頁)山口
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 私は大正八年七月九日生まれ、昭和十五年一月十日、東京・世田谷の東部十三部隊野砲兵隊に現役兵として入営しました。・・・満州国最北端の法別拉陣地に到着したのは一月二十五日の夜半だったと記憶しています。・・・
 それから初年兵教育が始まりました。零下三〇度という寒さと厳しい教育によって、日ならずして体の故障を訴えた同年兵が「貴様はたるんでいるんだ」とビンタを食ったのでした。(288・289)末木
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三月二十五日招集解除して帰宅したのです。・・・
 昭和十六年七月十七日、臨時召集で山砲兵第五十五連隊に応召、同日山砲十一連隊整備隊要員充用として満州派遣、八月四日坂出港を出発して、七日釜山上陸、九日釜山出発、十三日東安省虎林到着、同日山砲第十一連隊第三中隊本部編入と同時に虎林付近戦時防衛勤務、と軍隊手帳に書かれています。
 部隊はこれまで少数の現役兵の部隊だったのですが、いわゆる「関特演」で大勢の召集兵が入ってきたわけです。そのため、準備も不十分だったのか半年ぐらいは食事も充分でなくて、戦友の中には厩使役に行って馬の主食の豆粕を割って食べ、日夕点呼の時、口から豆粕が飛び出して週番下士官に見つかり「馬の上まえをはねた」とビンタを受けることもありました。(285頁)相原
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私は大正十年生まれですから、昭和十六年徴集ということになるのだが、昭和十七年八月、福岡の西部四十六部隊、今の平和台球場の所ですが、八月補充兵として入隊しました。教育を受けずに直ぐ出発です。・・・
 南支へ来ての初年兵教育、苦労話といったら本当に苦労しました。全部は覚えていませんが、私の所は九州の部隊でしょ、初年兵一か月の教育を受ける時は、小隊長が駈足行軍をやる、広東の夏でしょ、ものすごく暑くて、道路のアスファルトに軍靴の跡が付く。それを走っていって広東神社の階段を登って、また降りて部隊まで帰る。落伍すると、皆の前で物凄いビンタの連続です。よく続いたと思う。九州の人達だからひどいもんだよ。(256・258頁)石井
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 鹿児島県知覧飛行教育隊に着いたのは一九四三(昭和一八)年九月三〇日であった。入隊予定日は一〇月一日であったが、駅には隊からの迎えのトラックが着ていた。・・・飛行機操縦訓練は一〇月一一日から始まった。・・・
 一九四四(昭和一九)年三月末満州北部にある奉天の北陵飛行場に配属された。同じ知覧教育隊の者もいたが、各基本学校の教育隊から来た者の集まりである三〇数名が同期生であった。・・・
 四ヶ月の奉天での訓練が終わった七月末、本隊での卒業式に参加するため、汽車に乗って白城子まで行った。白城子は地平線まで殺伐とした心の乾燥する雰囲気が続いている場所であった。
 何かの都合で二日間、卒業式が延期された。何もすることが無く退屈し、内務班では禁じられていたがベッドに横になり、皆思いおもいに時を過ごしていた。前田さんは写真の整理をしていた。厳しい訓練が終わり、これからの運命を案じ、恐らく行く先には、否応なく直接対決の決戦場が待っているだろうと思い、しばしの自由気ままな過ごし方を気にしなかった。そのとき整備兵の中尉が回ってきた。「先任者は誰かッ」と言われ、向かい合って立つと整備中尉の力まかせの拳骨で何回も殴られた。軍隊に入って殿られたことは後にも先にもこの一度だけであった。しかも自分の隊の上官でなく、他の部隊であり、飛行隊でもない整備の中尉にであった。軍に入っている以上、先任として仲間に規律を守らせなかったことに反省したが、前田さんはその中尉の表情に学生上がりである特別操縦見習士官に対する憎しみのようなものを感じたという。(55~57頁)
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/25985/1/kakyo3_1.pdf

そして一九四三(昭和一八)年二一月一日に彼は静岡県磐田陸軍航空情報連隊に二等兵として入隊した。・・・
 しかし、朝、晩の「しつけ」と呼ばれるいじめには苦労した。品行は悪くなかったので、数多くの仕打ちは受けなかった。朝、起床ラッパが鳴ると起きて五分以内で寝具をきちんとたたみ、トイレに行って整列しなければならなかった。ある日トイレに縄が張ってあり、使用禁止と書かれていた。そこで、青木さんは縄の外からトイレをした。それを当番兵が見ていて「貴様」と言って殴られた。口の中が腫れ、一週間ほど食べ物を食べられなかった。・・・
 一九四四(昭和一九)年二月の末に前述の適性検査に合格した三八人と共に栃木県宇都宮陸軍飛行学校に入校し、 陸軍特別操縦見習士官の第二期生となった。・・・グライダー訓練では、地上滑走中に翼を破損し、教官に殴られて失神したことがあった。(32~34頁)
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 彼は一九四四(昭和一九)年四月大万洗陸軍飛行学校甘木生徒隊に入校して、四ヶ月間の初年兵教育を受けた。毎日の訓練や生活は厳しく、最年少の一五歳のものは夜中に泣いていたが、一ヶ月もすれば泣かないようになっていた。この四ヶ月間の生活で適性を見られ、七月二八日熊本県隈庄飛行教育隊に転属された。甘木から基山、宇土で同期生が列車を降りていき、彼も隈庄基地の近くの駅で降りて、四列徒隊で隈庄基地まで歩いて行った。・・・
 八月一日から飛行基本操縦訓練が始まった。生徒六人に対して教官一人であった。一ヶ月で離着陸ができなければ整備兵への異動をしなければならなかった。どうしても飛行機乗りになりたかったので、必死に習った。
 教育方法は実に軍隊式であった。教官は木刀を持っているので、飛行操縦など、できなければ、殴る、突く。五、六発殴られて寝たままでいると、「能力がない」とみなされた。殴られても跳ね起きて、教官のほうヘ向かい、そしてまた殴られているうちに「お前は根性がある」と言われ、最敬礼をして地上訓諌を再び行った。このような訓練方法を外圏さんは「命を賭けていたんだからそのくらいは当然でしょう」と語った。そして今の教育について「今は先生が生徒に手取り足取りでしょう。本人が真剣でなければいくらいい先生がついていてもだめですよ。生徒にもやる気を持たせなくては」と語る。(14・15頁)

一九四五(昭和二十)年五月鳥取県空五四二部隊に配属、湖山飛行場に転出した。外園さんはことで特攻隊員編成されることになる。七月の半ばであった。・・・それから三日たって四六人の第一次特攻要員命令が発表された。呼ばれた者は「はい」と言って前に出た。それを見ると癪にさわり、同時に悲しい思いがしていた。しかし四五番目に自分の名前が呼ばれた。大きな声で「はい」と言い、誇らしく前に出た。嬉しかった。・・・
 次の日から体当たり訓績が始まった。この訓練は大変怖いものであった。目をつぶると目標からそれるので「当たるまで目をつぶるな」と言われた。急降下の角度は四五度が理想であったが、どうしても三〇度でしか降りることができなかった。隊長は定規を持ってきてその角度を図り、「O号機はよい。O号機はだめだ」といったチェックをしていた。それを四、五回繰り返していると隊長から「お前のはO度だ。命が惜しいのか」と言って殴られた。「どのみち殴られるのなら五O度で突っ込んでやれ」と思いながら訓練していた。(17・18頁)
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 上海から船で揚子江で蘆山の横を通って南昌へ。そこの工兵第三十四連隊(椿部隊)に転属して、そこで初年兵教育を受けたのです。・・・
―工兵の教育訓練中のようすを話してください。
教育中漕舟行軍があった。四キロ漕ぎあがり、舟を陸へ揚げて、それをかついで部隊にもどる。途中、部隊へ四〜五百メートルぐらいになると、「早がけ」となる。体力ある者は早く進むが、体力無い者は「なみ足」となる。かけられないものね。すると、うしろから心身鍛練棒(樫や青竹)でなぐられる。青竹の方は割れてしまうからよかった。(356頁)森口
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新京陸軍経理学校時代
・・・また夕食後は就寝まで約二時間の自習が課せられていたが、昼間の訓練の疲れから居眠りをする生徒が多くいた。その際、間髪を入れず区隊長の竹刀による洗礼を受けたが、今にして思えばよくぞかかる試練に耐え得たものと我ながら感心している。(104頁)村橋
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 自分は元の第三十一連隊であった北部第十六部隊第二中隊第五班に配属された。中隊長は金野中尉であった。新兵教育は翌日からであった。起床ラッパと同時に一日の軍隊生活が始まり、消灯ラッパで一日の生活が終わるのであった。鳴り響く起床ラッパ。起床、寝具の整頓、班員の整列、点呼を受ける。点呼の際、声が低いと何回でもやり直しを受ける。
 点呼が終了すると共に乾布摩擦があった。十二月になると本土の北限、青森の寒さは想像以上の寒さとなる。その中での乾布摩擦は身に堪えるが終わると汗ばむ。意気軒昻、兵舎の部屋に帰ると寝具等の整理、整頓、悪いものは、全部木銃でひっくり返されている。驚いた。整理、整頓は教えるものではなく、覚えるものであることを知った。特に毛布は耳を揃え真四角に畳んで上げなくてはならなかった。(436頁)熊谷

 昭和十八年十月一日(第十三期・前期)、美保空には一、二〇七人が入隊した(土浦空など合わせ全国で一〇、八八九人が入隊)。美保航空隊司令は『月月火水木金金』の作詞者・高橋俊策中佐である。
 「将校練習生」なる名のもとに、待ち受けていたものは厳しい海軍精神教育だった。吊床訓練、駈け足、ビンタ、バッター罰直が続いた夜、ハンモックの中で、ここへ送り出した父の顔が浮かんだ。親父を睨みながらいつの間にか眠ってしまう夜があった。(500・501頁)矢部

その兵舎が第三百六部隊でありました。久留米の兵舎と違い、酷寒零下三、四〇度に耐え得るような構造であるのが目についた。・・・
 そのころは満州の内務班の方は物凄く気合いが入っており、毎晩ビンタを張られておりました。私は事務所勤務でお蔭様で逃れました。(92頁)岸川

 私は昭和十九年一月に佐世保海兵団主計科に入団しました。海軍部隊の主計科は庶務、経理を掌る主計科事務室と、衣糧を掌る被服倉庫と烹炊所に分かれていますが、新兵はすべて烹炊作業です。
 入団して間もなく新兵教育のため、鹿児島県の出水海軍航空隊主計科に転属しました。・・・
 烹炊については、魚肉のさばき方、野菜の切り方等基本的なことをたたき込まれました。また夕暮れ近くになると次第に憂うつになってきます。それは毎日の吊床(ハンモック)訓練です。吊床は寝気持は満点ですが、その吊り下ろしには艦隊勤務を基本に、敏捷な動作が要求されていました。たしか、吊りに四〇秒、下ろしに一分程度だったかと思いますが、毎日一時間ぐらいの訓練には泣かされました。吊り下ろしの早い者から整列で、遅い者は毎日、例の海軍精神注入棒でなぐられ方です。(108・109頁)村上

 私は昭和十六年徴集の現役兵として、昭和十七年二月一日篠山連隊へ集合して十日後に出発しました。その時、第六十八師団第五十七旅団第六十一大隊第三中隊より初年兵受領として軍曹が来てました。・・・初日一日だけお前ら内地から来たのだとお客様扱いされ、やれやれと思って寝た。翌日の起床のラッパで途端に大雷です。初年兵モタモタするな、支那風の厳しさを教えたると。何をするのも早駆けでやれと点呼の時からバンバンとビンタが飛んでくる有様です。整列が遅いと早駆け営庭五周と朝の一瞬にして全員度肝を抜かれました。(187・189頁)

(幹部候補生の)試験は合格して上等兵になり、学校が内地だから、ひとまず、(中国の)武穴より久留米の陸軍予備士官学校へと帰ってきました。・・・また各自で反省録に少しでも違反したことがあれば記入し、それを区隊長と中隊長に報告するのです。「自心に違反と感じ悪いと思ったことは細大漏らさず申告す」、これが校則です。また報告、忠告すると必ず鉄挙が顔といわず頭といわずブッ飛んで、目の前が真っ暗になって倒れることもあった。・・・ある時、私が反省申告に行った時、一人の下士官が報告して殴られ、それで脳震とうを起こし倒れ、窓ガラスを割ったがムクムクと立ち上がって分はただいま窓ガラスを割りました」と申告をした。まあそのように厳しいものでした。(192頁)

 私は子供のころから剣道をやっていた関係で現在もやっている。銃剣術は得意でした。区隊対抗試合で優勝し、その他も良かったので総監賞の第一候補でした。ところが衛兵勤務で司令の時に前哨が居眠りをして週番司令の見回りに気付かず欠礼した。この件で一日謹慎を言い渡され、もちろんその前哨の男は三日間謹慎だった。このことで総監賞はお流れになりました。まあ当然のことでした。
 また同僚の一人が衛兵勤務の動哨中に腹が減って辛抱できず、酒保(売店)で饅頭の餡があったのを指ですくって口にいれたところを見つかり、即免官降等で軍曹が一等兵になって現〔ママ〕隊復帰させられた。(193頁)嵯峨
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 私は大正四年生まれで、昭和十年徴収で、第一乙種だったが、支那事変が始まると直ぐ、十二年八月に召集になりました。十一師団の歩兵は、丸亀・松山・徳島・高知ですが、司令部と特科隊(騎・砲・工・輜重など)は全部善通寺です。・・・
 当時の編成は、現役兵と召集を併せての部隊で、直接の教育訓練等は、主として現役下士官があたり、内務班でも激しい粗暴な私的制裁が横行していました。
 兵の態度が悪い、行動も鈍い、服装が、掃除が、整理整頓が、銃剣の手入れが悪い等々、ことごとに、なぐる、ける、竹刀や棒で打つなど、日常茶飯のことでありました。
 日常は起床から就寝まで詳細に決められており、兵は下士官の監視のもとで、瞬時も気を抜くことができず、分刻みの内務生活を強いられておった。
 なお、実習訓練等も計画通り厳しく、暴力的な制裁のもとで強行されることが多かった。(286・287頁)

 訓練の厳しさは、実戦の時に役立つものですが、内務班での私的制裁は厳しく禁じられていたはずですが、質の悪い古参兵などは、初年兵をいじめることを日課にしていたようでした。
 この悪習が次から次へと申し送られたわけですが。これは、戦友愛を強くするものではなく、かえって反発を強くして、団結を弱めていった場合が多かったと思います。戦闘で苦しむのでなく、内務班の馬鹿げた制裁で辛い思いをした初年兵も多かったことでしょう。(288頁)平井
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 大正十年十月十二日生まれですから、昭和十六年徴集で、十七年の十二月に本籍地の富山の第三十五連隊留守隊へ入営しまして、一週間後に舞鶴出帆で仏領印度支那(ベトナム)のサイゴンに上陸、第二十一師団(討兵団)歩兵第三十五連隊に入りました。
私は廐当番をして、寝ていた時に放馬(馬が廐舎から逃げ出す)したので、編上靴でなぐられて顔が穴だらけになった。そのため一選抜の上等兵になれなかった。(337頁)稲積
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 私は帝国海軍軍人として、昭和十六年五月一日横須賀第一海兵団へ志願、入隊しました。・・・昭和十六年五月一日、海兵団入隊後、四か月間を、横須賀で新兵教育で過ごし、九月より支那方面艦隊(上海にいた)へ配属され、特設砲艦「第一〇雲海丸」に乗船、支那方面沿岸、杭州湾の舟山列島の警備につきました。・・・
 回顧して軍隊にいた間のつらくて悲しいことは、やはり第一にお説教、制裁です。私は一番多くやられたのは一週間に三十あまりです。
 「気合いがたるんでる」との理由で、精神修養棒と称する野球のバット状の棒で尻を思い切りたたかれます。それも上級者から順次に下級へと来て、一等からまた二等からというわけで階級がかわる人からそのつどやられました。もうたまりません。
 洗濯はたいたい夜の十時ごろからで、室内へ干しておくとよくぬすまれます。上級者のものをぬすまれるとまたやられる。海軍の善行章は三年無事に勤めあげるごとに一本あたえられる。昔の職人の年期のようなものです。最初の三年の間は各種の作業をする間上級者の指導監督が一つ一つあります。
 三年へて善行章がつくと監督なしで仕事が出来ます。私は善行章一本でした。しかもつぎつぎと新兵があとから入隊してくれば楽になれるけれど、私の場合はあとからくる新兵がおらぬので終始なぐられ放しで、ぎゃくになぐったことがない。
 つらかった、つらかった。あまりつらいので自殺をはかったことが二回もあった。その第一回目は砲艦の新兵時代、風呂場で首つりを考えたが、親のことを考え、一期早い古兵にはげまされて無事にすんだ。第二回目は工機学校へはいり二等兵となり、休暇で自宅へ帰り食べすぎ、帰校後下痢がつづいてかくりされた。そのため教育ぎ、帰校後下痢がつづいてかくりされた。そのため教育は受けられず受験もかなわず、「隊へ帰れ」といわれていくらあやまっても許してくれない。もうたいへんつらくていっそ死んでやろうと思いつめたことがある。代表的な思い出としてのこっている。
 そのほかにも艦内の勤務でのしんくは、古い人ばかりで自分より下の新兵がいない。年中いつもどこでも監視がつづいて、少しものんびりできないこと。食事等も汁かけ飯(小さい食器の飯を、大きい食器の汁の中へ移してかきまぜて、急いでかきこむ)を中腰の姿勢で早く早くと食べる状態である。うえの人が茶がなくて、パンパンと湯のみをはたこうものならそく罰である。あるいはぶれいこうと称して酒をのませよわせて、あとで甲板洗いやら各種の仕事を命ぜられる。苦しいことこのうえない。それも何回かやって要領がわかったから、あとでは楽になった。(402.・404・405頁)大山
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「駆逐艦薄雲に乗艦を命ず」昭和十七年五月二十日、横須賀田浦海軍水雷学校の卒業式のことであった。・・・艦内の空気はますます悪くなる。人の心もいらだって「罰直」も多くなる。たださえ自分の体を維持するだけのところへ、そのうえの「罰直制裁」はまことに地獄の餓鬼道のようでした。(227頁)佐久間
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 私は昭和十六年一月十日、帝国海軍の一員として呉海兵団に入団しました。わずか四か月間の教育ではありましたが、それはきびしい訓練でした。教育をおえて三等水兵となり、一等巡洋艦の「古鷹」に乗り組みました。
 私は高角砲左方位盤の伝令として勤務しました。艦内勤務は非常にきびしく、すこしでも動作にたるみが来ると、総員制裁として甲板整列で直心棒の洗礼も受けました。(216頁)松田
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 昭和十六年兵の現役兵として満州第二九八部隊(戦車十連隊)に入隊が決まり、・・・幹部候補生の座がねをつけてからは、周囲の目が今までと違いすこしでも不注意なことがあれば下士官室へ呼ばれ大目玉です。ビンタの制裁もたびたびありました。・・・一番脳裏に残っていることは正月の三日、朝の点呼の集合が遅いとの理由で上半身裸で、気温零下二十度、雪の降るなかを二時間かけ足をさせられたことです。腕は血の気がなくなり、臘のような白い色にかわり感覚はありません。かわいたタオルで摩擦するとやがて感覚はありません。かわいたタオルで摩擦するとやがてには現わせません。しかしこれをやらなければ凍傷になり、最悪の場合腕を切断するようなことになります。(208頁)鈴木
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 私は吉林省敦化の部隊に現地入隊した。「酷寒零下三十度」と実にきびしい寒さであった。こんな寒さのなかで初年兵の訓練は言語に絶するきびしいものであった。訓練ばかりではない。内務班における言語・行動・一挙一動・すべてが古年兵の目のなかにあった。常往座臥の間、ビンタの恐怖にさらされていた。これも国のためと思い耐えて来たのである。ビンタが国のためになるわけはないのだが、無理やりに自分にそういい聞かせていた。
 私は前述したように現役志願兵として軍隊にはいったのであってどんな苦しみも耐えるのが当然でなくてはならないはずだったが、やはり人の子、なま身である以上、たたかれて痛くない者はない。かわのスリッパで力まかせになぐられたのである。初年兵は一人残らず顔がイビツになったといえばおおげさ過ぎるように思われるが、それはまぎれもない事実であった。(205頁)寺西
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 満州第五百十四部隊派遣法別拉陣地第二中隊斎藤隊であった。
 各班に配属され一日はゆっくり休むことが出来たが、翌日からはきびしい軍隊生活が始まった。観測、通信、砲手、馭者と配分され、小生は通信であった。
 日ならずして二、三年兵の怒号が各班でおきた。気がゆるんでいるというビンタの私的制裁である。
二年兵の戦友を一人受け持ち先輩のすべての面倒をみた。順番のことで初年兵の役目であった。枕等よごれていると金魚の絵と水がほしいと赤いチョークで書かれ、洗濯せよとの意味であった。百メートルもはなれたくぼ地の水のたまりで氷を割っての洗濯、そとは零下三十度の寒さ、耳も手もちぎれる寒さであった。(200頁)末木
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 満二十歳、甲種合格、北支派遣百十師団百十連隊に現地入隊した。・・・
 訓練は三八式歩兵銃に五発の実弾をこめ、背中に九十発、両方の腰の帯革に六十発の実弾、それに二発の手榴弾、背嚢は三十キロあります。足のずりこむいばらの生えた大陸の曠野の戦闘訓練は、実に地獄以上でした。夜は銃、軍靴、衣服の手入れ不十分と古兵に指摘され、なぐられる。頬へピンタ、さらに蹴られる者等続出、いつそこの兵長を殺して自分も死のうかとなんども思いました。軍靴の手入れがすむと、翌日きまって古兵が講堂に六尺机を一メートル間隔に並べてうぐいすの谷渡り「ホホゥケキョ」といってとばせました。
 銃の手入れが悪いものは、三八式歩兵銃に着剣して「捧げ銃」をさせて膝をなかばまげと号令します。そして「三八式歩兵銃殿、自分は大行山脈の風にふかれてモサーットしていて、あなたの手入れをおこたりました。許してください」と十遍、五十遍といわないともとにしてくれません。衣服の洗濯が悪かった十人は、昼の休みの時間に全員丸裸にさせられ、南洋の土人のおどりをさせられました。このときは週番士官が通りかかって兵長はしかられました。
 士官は兵長に、歩兵操典の兵営生活の一項の暗唱を命じましたが、忘れた兵長は答えられませんでした。その後その兵長はこうたいさせられて、どこかの戦場で戦死しました。(121・122頁)河原
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 昭和十八年三月からの現役兵時代は、旧制高専卒で幹部候補生を志願したため、内務班ではとくに古年兵の私的せいさいの対象とされた。
 ある夜点呼のあと、初年兵全体への「みせしめだ」と称し、革のうわばきによって顔面を七十数回にわたっておう打されるというせいさいを受け、あごがはずれた。しかし、医務室ではあごをつるのみのしょちで、練兵休はあたえられず終日演習に参加させられた。もちろん食事はぬきであった。(113頁)江崎
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 昭和十七年十月一日、現役兵(甲種合格)として入営することがきまった。・・・駅からは役場の兵事係が山口の歩兵第四十二連隊(当時西部第四部隊といっていた)へ引率してくれた。私は正面の兵舎の七中隊へはいった。
 二等兵の教育は、どの隊も皆同じだ。毎日がビンタの連続であった。考えてみると人殺し業の教育だからこの方法が戦争要員養成には一番簡単だったとも思われる。兵舎には南京虫が多く、はじめは大変なやまされた。私の初年兵教育は軽機関銃だった。したがって、私には軽機と小銃の保管と手入れがあったため、ビンタの原因がしばしばおこった。親にもなぐられ経験がないのに、毎日、気あいを入れてやると古兵が舎前、舎後に集めて、ビンタをとった。山口の冬は寒かった。(91・92頁)小川https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/02/O_02_091_1.pdf

徴兵検査では第一乙種で、十七年一月十日大竹海兵団入団です。・・・
 海軍の訓練は特に厳しかった。バッタという樫の棒、一メートル位の太い木刀というか鍬の柄のようなもので「軍人精神直入棒」と墨で書かれた棒で尻を叩く、というより殴るのです。殴られぬ日もあったが、大体平均的に殴られる日が多かった。他の班で音がすると「うちもやるか」と古兵がいって始める。これは個人のミスばかりでなく、班で一人でもあれば団体の共同責任で制裁をされるわけです。(421頁)吉岡
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 ある日、総員整列でバッター(軍人精神注入棒)で尻を三回殴られたことがありました。海軍に入って始めてのバッターであり、その時は褌一枚でした。整列した順に殴られるのだが、自分のところまで来る間は気持ちが悪いが、いよいよ自分だ。駈足で教官の前に行き敬礼をして、上半身を四十五度に傾けて尻を出す。最初の一発で尻に火が着いたような痛さだった。三発殴られて敬礼して「有難うございました」と礼を言って席に帰る。全員終ってひと文句いわれて解散後すぐ寝床に入ったが痛くて寝つかれなかった。(408頁)中江
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 私は大正十四年一月十九日生れ、甲種飛行予科練習生の第十期生です。・・・
訓練は文字通りの「月月火水木金金」でした。前ささえ(腕立て伏せ)、ビンタ、軍人精神注入棒(樫の木刀の太めなもの)で、それが折れるぐらい殴られる。「総員制裁十本」とか十五本とかで、尻が最初ははれ、黒くなり、蛸になる。それに耐えられなくなって、鉄道線路で手をとばした人もあった。飛行機に乗って「しもうた」では遅いから訓練も厳しく、体で覚えさせるためか、分隊長も黙認していた。(401・402頁)重政
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 翌十五年二月十日、徳島歩兵第四十三連隊に現役入隊しました。・・・目的地虎林第七百十二部隊に到着し、中隊長は張間中尉、小隊長は砲井少尉です。・・・基本訓練、各個演習、戦闘訓練はとくに厳しく、古参兵の中には支那事変や対ソ連とのノモンハン事変に参戦した猛者もいて、よくビンタ(殴る)を取られました。(390・391頁)松田
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 私は、同時に昭和十七年十二月、現役兵として入隊し、第百十六師団(嵐兵団)第百二十連隊での教育訓練・戦闘・転属・捕虜・復員までのことを忘れることが出来ません。・・・
 初年兵は一・二班に各二十名。いよいよ兵舎での初年兵教育が始まった。起床六時、消燈二十一時までの日課で、其の間初年兵は一分と休む時間はない。起床と同時に厩(ウマヤ)に走り馬の寝藁を出して馬の手入れ、水飼い、飼い付けで約一時間。其の後朝食前のリンチ、初年兵は馬より価値が無いと上等兵は言う。馬は兵器、兵隊は消耗品である。
 日課は、朝、馬の手入れ、四十一年式山砲の手入れ、三十八年式歩兵銃の手入れ、兵舎外の清掃、訓練学課、食前・食後・消燈前のリンチ、夜は不寝番と全く寝る時間が少ない。その上四六時中空腹である。夕食時は毎日の如く飯を前に飾って正座でリンチである。点呼五分前位にまたリンチである。やっと食事にありつく、喰う時間は一分位。
 点呼後やれやれと思っているところへ上等兵が、舎後(兵舎の後)の整列を呼び掛ける。就寝前で服は着ていない、襦袢袴下(シャツとズボン下)一枚で震えながらリンチをうける。三月とはいえ雪がちらつき非常に寒い、訳のわからぬ事を言って消燈までリンチである。滅私奉公の覚悟で入隊したが、余りのリンチで消燈後初年兵一同は毛布をかぶって男泣きに泣く。
 日本帝国の軍人精神を育てるためとはいうが、半分は上等兵の私的感情での行き過ぎで心身共に疲労困憊である。
 五月、一期の検閲も終え、ここではじめて二等兵として認められ各班に配属されるが、此処でも初年兵は生意気だと、またリンチである。(346・348頁)稲井田
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 私は、昭和十六年九月二十日、臨時召集令状により、京都府伏見区深草中部第三十七部隊に応召。擲弾筒班の所属でした。これが軍隊の飯を喰った初日で、どの様な苦労が待ちうけているか、またどのような裏があるか、何の予備知識もないまま連隊区司令部の赤紙令状の命令通り消耗品の一員として入隊しました。
 この日から年令に関係なく、あとからの入隊者がなければ召集解除の日まで初年兵として服務し、一日でも在隊日数の多い者が先輩となり幅を利かすという特異の社会に身を置きました。
 入隊すると理由の如何を問わず命令は絶対服従の社会で、生命のある限りこの目的達成のためには毎晩のビンタは日毎に有効でした。従って同年兵が命令違反と思われる過ちをした時は、内務班が別でも同年兵の共同責任との理由で大変なビンタを受けた、当時の苦労は今日に至るも忘れたことはありません。若し妻子が見ていたならばなさけなくて生きる気持ちも失せる思いで耐えねばならず、之が生きる男の世界かと思いました。
 従って自由な時間といえば、くさい便所にいる間しかなく、初めはどうにもならぬ思いでしたが、これしか方法がなければ辛抱して雑用は便所にいる時間を利用したものでした。内務班内におれば班長の分も古兵の分もせねばならず、自分のことは何も出来ず、午後八時の点呼後のビンタが待っているため、このようにして難を免れた次第でした。(245・246頁)秋田
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山浦瑞洲「一兵卒乃告白」大正元年11月18日発行 ※1912年

殺伐たる武的制裁(25頁~)
 少しは愚痴も出でざるを得ず、世人が一口に「軍隊は辛い処だ」と云へど、事実宜なる哉だ。
 入営後既に一ケ月に垂んとす、然し今日迄は古参兵の新兵に対する態度も、幾分お客分扱ひの処ありしに似たり。不案内なることは教へもし、間違ひありても嘲笑されて済む位なりしが、最早今日此頃は古参兵の態度も一変し、「そんなことで新兵の勤が済むか、少しは軍隊の要領を示してやらうか」と云ふ様な調子にて、四囲の物情は頗る殺伐を示し来れり。罷り間違へば鉄拳も飛ぶ。是も非公式的の制裁法、否な軍隊の教育法ならんには、腕力の存する処主権ありで仕方なし。只だ軍隊は軍紀を以て治まる所、一切上官或は古参兵の命令、叱責、制裁には露程の反攻も、遁竄も出来ず、直立不動、眼の球も動かし得ずして、見事に制裁を受くべきは、是れ痛快と云へば痛快なるも、其の制裁を受くる地位の身にありては、聊か感慨骨肉に徹せずんば非らず。
 然れど軍隊なればとて、理由なき蛮風荒ぶ為に、鉄拳の飛ぶに非ず。新兵は新兵たるの心持にて耐任勤励せば、更に其等の心配なきこと無論なり。
 入営早々ビシビシと急劇なる軍隊感化法を行ふは非なりとて、従来の例はあるならん、然れど新兵生活の四ヶ月間に於て、「軍隊は斯の如き処なり」と云ふ観念を吹き込ましむるは、是れ軍人精神を作るに、最も必要の基礎なりとは、兼て某将校の談にも聞けり。さは云へ今日此頃の余等新兵は、何やら只だ殺伐たる空気に囲まれたるが如く感じ、・・・
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/947773/21

古兵となった晩(105頁~)
 一年間鬼の如くに思はれたりし古兵は、愈々今朝満期除隊となりて帰り去れり。されど人情と云ふものは妙なものにて、其の新兵当時「頬ッペタ」を遣られて心煮ゆるを覚え恨の焔何時消ゆべくもあらざりし古兵さへ、今朝「永々お世話になったぞよ」と挨拶されたる時は、遉に懐かしさ名残り惜しさの情も起りたりき。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/947773/62

尾上新兵衛, 鵜崎一畝「陸海軍人生活」1897年

 元より広からぬ処に少からぬ人数を詰め込んだ事であるから、其の窮屈も一方でない、中には容易に這入れないやうな処もあったので、一人の新兵が、「こんな所に這入れるものか、馬鹿々々敷」と呟やいた。
 それと聞いた上等兵の一人は、グルリと向き直って大喝一声「誰だッ?」と睨め廻しながら、チョッと舌打して、「えィ生意気野郎奴出て来い!」と手荒く其男の襟頭を引つかんで、明るい処へ引き出した。これを聞きつけた、吾が大隊区付の上等兵、ごく穏やかな上等兵は、「生意気な奴は、ドシドシぶんなぐれ!」と言い乍ら飛んで来た。
 自分は呆気に取られて見て居ると、三人の上等兵で、思ふ存分打据へて、手帳に名前を扣へた挙句に、漸く許してやった様子、此処で初めて、陸軍はなかなか怖敷わいと思ひ初めた。それは自分許りでなく、全船の新兵は皆かう思ったに違いない。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/843346/9

第四 学科
入営した翌日から、練兵もあれば学科もある。・・・朝の学科はよいが、午後は夜であるから、誠に閉口する、終日の練兵で、充分疲れて居るから、ぢっと坐わって居ると、何時か上瞼と下瞼が仲好く成て来る。すると、
「コリャ貴様は何を今乃公(おれ)が問ふたか云ってみろ。元より乃公は約(つま)らん者だ、貴様のやうな学者と比較者には成らんが、新兵から目を盗まれたとあっては、天皇陛下に対して相済まん。貴様は其処に学科の終るまで立っとれッ!」
と、此の位で済めば上乗だが、大概は横面を三ツ四ツ撲り飛ばされて、揚句に
「銃を持て来い!
銃を持て恐々やって来ると、衆人の正面に立たせて、
「気を付けエ……付けェ剣、捧げェ銃、其処でいーと云ふ迄立て居ろ!
こんな工合(ぐあい)で。随分辛ひ事もあるが、
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/843346/14

 食事がすむと一時間の休憩だ。だが新兵には、却て一番つらい時間だ。なまじ腰を掛ければ横着だとなぐられ、話をすれば生意気だと罵られ、室を出ればずるいと云って、一層こき使はれる。故兵共は火鉢を取りまいて、面白をかしく話して居るのに、新兵はその側へもより付けず、柱にもたれて震えて居るか、食台によりて手紙でも書く。此の二より他に所作はない。
・・・又午後の練兵が始まり、それが三時半に済んで、まづ一日の実科は終となる。が、此後の時間が、又、新兵に取っては頗る骨だ、故兵の為に、銃の掃除、靴磨、洗濯、小使と遠慮なく使ひまはされて、揚句の果に、褒められでもするとか、ヤレ鈍馬だの、ヤレぼんやりだのと、云ひたい事を云はれて居る。それも黙って聞いて居ればよいが、出様によっては直ぐに、「生意気だぶん擲れ」を喰って、酷い目にあはされるか、左もなければ、官物棚の下に立たされる。官物棚といふのは、高さ胸にも充たない位な棚であるのに、大男が、其下に首を縮めて立て居る苦しさ。
 故兵といはれる者、軍曹と呼ばれる者も、皆一度は経歴した処だから、少しは思ひ遣りがありさうなものなので、彼奴等は順々に苛責めて得意に成て居る。これを「陸軍の申送」といふ。無教育な者が多いのだから、仕方が無いやうなものヽ、実に情ない弊風だ。尤も中には、此位にして漸々一人前に働けるやうに成る、生来の鈍物も少くはないのだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/843346/35

 けれども又いやなのは、「左翼集れエ」の号令だ。之は前年兵が、所謂「申送り」なるものを云て聞せるのだ。解り切た事、馬鹿々々しい事を、さも尤もらしく云って聞かせるのを、ハイハイ云って聞いて居る下らなさ加減。―これも新兵の不肖だ。
 例へば、
「今日誰であったか、麺量(めんつを食卓の上に置いて食って居った。あんな事をして見い、己達(おれたち)の新兵の頃には、貴様左の手が無いのかと云って、痺れる程打(ぶ)たれたものだぞ。あんな事があっては、己達の教育の行届かん事になる」
とか、又
「誰か先刻、君だの僕だのと云って居った。故参兵なら兎に角、初年兵の癖に生意気だ。矢張り誰さん何殿を云った方がよい」
などヽ、実にたわいもない事でいびりちらす。まるで意地の悪い姑が、嫁をあつかふ様なものだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/843346/37

小野武夫「戦後農村の実態と再建の諸問題 啓明会研究報告」

第三、絶対服従の強要
  軍隊に於ては上官の命令は絶対的なものであって、これに服さない場合には抗命の罪として処罰せられるのである、命令に対しては命令以外の行動も以内の行動も許されない、命令せられたゞけのことをやればよいのである。其の間に自己の意志や判断を交へた行動は絶対に禁止せられてゐたのである。命令の絶対服従は個人意志の抹殺である。批判や意志の働きを持たない命令のまにまにに動く兵隊が模範兵である。例へば中隊の玄関の掃除を命ぜられた兵隊が、ついでに営庭まで掃除することは余計な行動として叱責せられる。しかも其の際一言の抗弁も許されないのである。正当の理由ある言い訳と雖も『それは文句だ』との一言のもとにはねつけられる。軍隊に於ては道理は常に上級者にあり、そこでは常に意志なき人間が養成されつゝあるのである。従って長い軍隊生活を送ったものは積極的行動の意図と批判的精神とを喪失してしまふ。最近軍関係の学校から一般学校に転入学した生徒に就て見ても判るやうに、彼等は命令せられたことだけは忠実にやるが、それ以外のことを自主的に積極的に行ふことが出来ないのも、此の間の事情を物語るものである。かゝるところに進歩があり得る筈がなく、独善と保守とが全軍隊を支配するのであった。

第四、敬礼の強制
  軍隊に入って先づ第一に教へられるのは敬礼の仕方である。軍人勅諭にも、『軍人は礼儀を正しくすべし』との一項があげられてゐる。人間社会に於て礼儀が尊重さるべきことは言ふ迄もない。週番の任務につく士官と下士官はきまった様に敬礼の厳正を説く。それ程迄に敬礼がやかましく注意せられるのは、其の反面に於て敬礼がなかなか励行せられないことを意味する。軍隊に於ては敬礼は上級者に対する服従心の現れであると教へてゐる。従って欠礼することは不服従を意味することになる、下に記する欠礼に関する一兵長の挿話は此の間の事情をよく語ってゐる。ある日、彼のゐた兵営で、下士官の引率する部隊が帰営の途中営門近くにさしかゝった際、師管区司令官の乗ってゐる自動車に出遭った。そこで下士官は『歩調取れ、頭右』の号令をかけたが、最後尾にゐた兵長はそれが聞えなかったゝために欠礼して通り過ぎ、其のまゝ営門内に入ってしまった。これを認めた司令官は自動車を疾駆して其の跡を追って営内に入り来り、自動車から降りるや否や、該兵長を捕へてなぐった後、重営倉二十日を言ひ渡して引上げた。欠礼によって彼等の威厳が毀損せられたと感ずることの如何に大であるかゞ此の一事によっても窺へよう。軍隊に於ては敬礼は上下垂直の階級制度を維持する手段として最厳格に行使せられてゐたのである。

第五、階級的差別の行き過ぎ
  軍隊に於ける階級的差別の厳格さは他の社会に於て其の比を見ない程はげしいものであった。将校と下士官と兵との間には越すべからざる限界があり、いかに打解けた時と雖も対等の言葉で話をすることは許されない。便所の如きも将校用、下士官用、兵用と判然と区別せられてゐる。同じ兵の間に於ても星一つ違へば、主人と使用人の如き差異が存ずる。一等兵から二等兵に対しては『おい貴様』と呼ぶが、二等兵から一等兵に対しては『古兵殿』としていとも叮重なる言葉遣ひが要求せられる。食事に於ても古兵から先に盛りつける、其の盛り方も二等兵よりはずっと多く盛らなければならない慣習になってゐる、所が演習其の他の使役で実際に腹のすいてゐるのは二等兵であるが、二等兵は自分の空腹を抑へても古兵に沢山の飯を盛るのである、そして二等兵は御飯もよく咬まないでそこそこにかき込んで古兵等が食事の終るのを待ち構へ、其の食器を我先きに取り下げて洗滌しなければならない、古兵が食べ終っても尚食べてゐようものなら、早速お小言が飛ぶのである。二等兵は食事すら落着いて食べられないのである。
  古兵に対してすら此の様であるから、下士官の飯の盛付に就てはおこげとか、御飯の上つ面になって固くなったところの入らない様、又香物の入方も三切は縁起が悪いから四切入れろと云ふやうな点にまで注意をくばり、下士官室に御膳を運ぶには呼気のかゝらない様にとマスクを掛け、膳を目の高さに持って行かなければならない。マスクもかけず、口より低く御膳を持って行くと、こんなきたない飯は食べられぬと突き返されるのが常である。
  食事以外に於ても古兵の兵器の手入、身の廻りの世話は二等兵の義務とせられてゐた。演習から帰ってきても古年兵は煙草をふかして無駄話をしてゐるが、二等兵は疲れた体を休ませる暇もなく、自分ののと共に古兵の銃や帯剣の手入、泥靴の手入をしなければならない。兵器の検査が行はれる際でも、古兵の兵器の手入が悪いとの注意を検閲官から受けると、古兵か其の後で必ず二等兵の手入が悪いからだと激しい私的制裁が加へられる。かうして軍隊に於てはすべての責任が部下の者に負はされるのである。従って長い間軍隊生活を送ってゐると、自分のことを自分でする二等兵時代のよい習慣すらもいつしか忘れ果てゝ、自分のことを人に命じて平然として怪しまない悪い習慣を身につけて家庭に帰るのである。
  日常生活に於て右の如くであるが、営外の作業に於ても実際に働くのは上等兵以下の兵卒であって、兵長以上は指揮監督者である。陣頭指揮は文字通り指揮であって陣頭に立って兵と共に十字鍬をとり、円匙を持って働くのではない。之は終戦後に於て目撃したことであるが、米国進駐軍が或作業に於て兵下士官は勿論、将校すら一緒に作業に従事してゐるのを見て感心した。日本の軍隊にはついぞそんな和やかな共働的光景に接したことがなかった。軍の一致団結が強調せられながら、其の成績の挙らないのは上下の階級的差別が余りにも厳格に過ぎるところにある。日本の軍隊では将校と兵とが打解けて話すといふことは特殊な私的関係のない限り存在しない。いつも裃をつけて接してゐるので、其の間に人間的な親しみといふものは涌いて来ない、そこに真の団結心の起らない原因がある。

第六、私的制裁の公認
  戦時中の連合軍俘虜虐待者が戦争犯罪者として裁かれつゝあるが、其の判廷で挙げられてゐる虐待と同じ行為が平素軍隊内で同胞軍人に対して加へられ、しかもそれが当然のことゝして何等怪しまれてゐなかったといふことを、私は証言し得るのである。些細な過失に対してもビンタは当然の報酬と考へられてゐた。軍隊では気合ひを入れるといふ言葉が使はれてゐるが、上級者によく仕へないものは、何かのきっかけをつかまへて思ふ存分の制裁が加へられる。例へば帯剣のバンドの金具のついた方で顔をなぐるとか、裏に金を打ってある革のスリッパで顔をひっぱたくとか、野蛮極まる方法が行はれ、其のため耳の鼓膜を破られたり、歯を折られたりした兵も尠くなかった。ある二等兵が炊事場へ茶をもらひに行った処、其の態度がよくないと言ふので、炊事当番の兵隊が、いきなり煮え湯を其の二等兵にひっかけ、それが二等兵の眼にひっかゝって両眼失明するに至った。大分問題になった様であるが、有耶無耶の裡に終ってしまった。上級者に対して絶対服従の軍隊に於てはかゝる蛮的行為に対しても殆ど一言の抗議すらも許されない。従って蛮的行為に堪へ切れずして逃亡する兵も尠くなかった。逃亡者が多くなると軍の威信に関するので、上官は逃亡者の続出を防止しようとして、私的制裁を禁ずる方針に移りつゝあったが、このやうな弊風は容易に抜け難いものであった。腕力を以て威嚇せねば自分の思ふ様に動かせない指揮官は、最も低劣な指揮官と云はねばならない。

結び
  以上項を分って述べ来ったところによっても分る如く、日本の軍隊に於ては兵隊は全く其の人格を認められていない。人格の認められない兵隊は如何程兵技に長じてゐても、立派な兵隊とは言ひ得ない。軍規厳正を誇る日本軍隊の南京に於ける、或はマニラに於ける数々の蛮行が、世界の人々から指弾せられてゐるが、其の根本的原因はかうした兵営内の誤れる兵隊指導に存在してゐたのである。(53~59頁)

山田北洲「新兵の生涯」1908年 ※明治41年

厳罰
・・・軍隊に於ける厳罰とは上官の其部下に対する制裁で、俗に之を厳罰と称して居る、以前は随分残忍な厳罰が流行したさうだが、近年は余程其弊を矯めて来た、是れも教育の進歩した結果で大に慶すべき現象である、然れども我輩は此制裁の必要なることを感じて居る、即ち国際法に厳罰なる規定のあるが如く、軍隊に於ても一般軍人の軍紀を引緊むる上に必要欠くべからざる良剤である、故に厳罰を以て一概に蛮風として排斥する訳に行かぬ、茲に我輩が軍隊に於て従来演ぜられた厳罰の如何なるものかを述べて見やう、
 厳罰には共同厳罰と各箇厳罰とがある、是れは我輩の区別した私物で、詰まり中隊若しくは班内の兵に対して同一に科する制裁が共同厳罰で、特定人即ち一人々々に対し下士上等兵の科する制裁が各箇厳罰と云ふのである、而して共同厳罰は数人の罪科が原因となりて全体が厳罰を受くるので、一見甚だ不公平なるが如きも、我輩は此厳罰の大に必要にして且其結果の頗る見るべきものあるを信じて居る、余の新兵時代班長から軍紀が弛緩して居るとの理由で班内の兵全体に対して厳罰を科せられた、蓋し軍隊は凡て共同一致が必要だ、若し此決心が欠如して居れば、外観如何に精鋭を装ふも事に臨むでは烏合の衆と等しいのである、而して共同厳罰は即ち此一致の精神を要請する手段となるので、各兵に於ても互に相警戒する様になる、然るに之に反して各箇厳罰は往々蛮風に流れ易く、又弊害の之に伴ふことがある、今日に於ては中隊長以下の者は仮令将校と雖も部下に対して紊りに厳罰を科することが出来ない、然れども実際に於ては上等兵や古兵共が、新兵教育の一手段として各箇厳罰を科して居る、此厳罰も或程度までは新兵の悪性を懲戒する上に頗る利益がある、殊に新兵時代は未だ固有の性癖を持って居るので、随分軍紀を紊乱する兵も雑って居るから一層厳罰の必要を感じて来るのである、然し此厳罰も適度に施してこそ効果もあれ、若し其度を過すに於ては見るに忍びざる蛮風を演ずるに至るのだ、而して斯る厳罰は多く日夕点呼の際行はれて居る、故に日夕点呼とあれば何れも皆戦々兢々として其喇叭の一瞬でも遅からむことを冀ふ程である、其厳罰の捧銃か膝姿ぐらゐなれば極めて寛大なるところなれども、人に依りては殴打る、蹴る、踏む、甚しきに至りては班内の兵をして廻り打ちの蛮風を演ぜしむることがある、其他私物棚の下に中腰の捧銃等種々なる厳罰がある、中には上等兵や古兵が其威力を利用して無防御の港湾を砲撃することもある、是れは明に国際法の禁ずる所であれば、軍隊に於ても或程度以上の厳罰は之を根絶する様にしたい、思ふに当局者は断然之を禁止したつもりであれども、班内の出来事は一々上長の耳朶に達せざる事情もあり、旁其蛮風の尚今日に存する所以であらう、然れども我輩は或人の如く全然之を廃止せよとの説には反対だ、之に依りて新兵の悪癖を矯正し且軍紀を厳粛ならしむる上に非常なる力を有して居るので、厳罰も亦新兵教育の一手段である、
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/843069/113

軍隊教育研究会「六週間現役兵の教育」1913年 ※大正2年

第六節 六週間現役兵に対する将来の希望
一 軍隊に対する地方の噂は不正当なり。
在郷軍人中軍隊の噂を針小棒大恰も地獄の如く吹聴する者あるを認むるは頗る遺憾とする所なり。嘗て之が調査をなしたるに其噂数十に達せり。例へば
 食物の不足。   四角四面な所。
 古兵の残酷。   水吸がつらい。
 古兵が仕事を命ずる所。 名誉高等監獄。
 規則の八ケ間敷イ所。 ツライ所。
 暇のない所。   寒い所。
 受診すれば成績が悪い。 演習の時倒れる。
 窮屈な所。    口答ひが出来ぬ。
 小供扱にされる。 上官が恐ろしき処。
 外出すれば成績が悪い。 体裁よき監獄。
 支給品の手入が悪しければなぐらるヽ
 新兵が酒保に行けばなぐらるヽ。
 マゴマゴすれば飯は食へぬ。
 昼の悪いことは夜寝てからやられる。
 入隊時は御客様だが十五日も過ぎればつらい。
 欠礼すれば営倉に入れられる所。
 新兵が金を持てば古兵に借りらるヽ。

国民の大学校たる軍隊が果して斯くの如き所か宜しく其真否を質し噂の原因を研究し世人の誤謬を解かれんことを望む。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941331/16

二月五日情報会報時に於ける師団長注意事項 垣部隊本部

一、私的制裁絶滅に就て
爾今上下を問はず如何なる理由に基くものと雖も之を恕せず仮借せず断乎懲罰又は刑法に依って処断すべし。
私的制裁は総て聖旨に副ひ奉らざるの行為にして大元帥陛下の股肱を遇する道に非ざるものなりとの観念を徹底し之が絶滅を切望す。
従来諸種の理由の下に幹部に於てさへ陰に陽に私的制裁を是認するものあり又士官学校区隊長等にして生徒を殴るもの多く此の慣習を受けて帰隊せる年少将校が悪弊を醸成しある事実に鑑み監督指導を徹底するを要す。

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レファレンスコードC13071402000
防衛省防衛研究所>陸軍一般史料>比島>防衛>第16師団(垣)情報記録綴 昭和18年度


陸密第三七七六号
私的制裁絶滅に関する件陸軍一般へ通牒
昭和十六年十二月七日 陸軍次官 木村兵太郎

私的制裁が軍隊の団結を破壊し対上官犯或は逃亡離隊等の重なる動機を醸成し又軍民離間の素因となることに関しては敢へて贅言を要せざる所なるも近時特編部隊の増加に伴ひ私的制裁悪化の傾向を看るは寔に遺憾に堪へざる所なり。
時局の進展は軍の負荷する任務を益々加重し軍隊は兵力増加に伴ふ兵員素質の低下其の他一切の悪条件を克服して其の団結親和を強化するの要愈々切なるものあり。近く初年兵の入隊を迎へんとするに際し幹部特に下級幹部の内務指導能力の向上就中兵員兵室に親炙して行ふ周密なる監督指導を透徹せしめ信賞必罰と相俟って私的制裁の根絶を期せられ度依命通牒す。追て別冊私的制裁に関する観察を参考の為別途添付す。

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レファレンスコードC01007773600
防衛省防衛研究所>陸軍省大日記>陸密・陸普>陸密>陸密>陸密綴昭和14年


陸密第二六六号
軍紀風紀の振粛に関する件陸軍一般へ通牒
昭和十九年一月二十八日 陸軍次官

従来軍紀風紀の振粛に関しては機会ある毎に強く要求せられ各級幹部亦夫々の職分に従ひ大に努力せられある所なるも悪質軍紀犯の発生は依然其の跡を絶たざるのみならず一部に於ては犯行長期に亘りて隠蔽続行せられある事実あり。又私的制裁の弊害は虞るべきものあるに拘らず此の弊風の刷新せられざるや極めて久し。而して最近兵備の増強に伴ひ幹部以下素質の変動著しき現況に於ては唯軍に訓示注意のみを以ては到底軍紀風紀の振粛の成果期し難きものあるを痛感せざるを得ず。
決戦下皇軍の精強を最高度に発揚すべき秋上級将校以下軍紀風紀の振粛に関する決意を新たにし具体的施策を樹立し且之を強力に断行し以て精鋭無比の皇軍の本領を如実に発揮する如く監督指導相成度依命通牒す。

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レファレンスコードC01007840800
防衛省防衛研究所>陸軍省大日記>陸密・陸普>陸密>陸密>陸密綴昭和19年

六、懲罰状況
昭和十一年以降懲罰の年度総数、同人員に対する比率(挿図参照)を見るに・・・

4、地区別に就て
内地、満洲、支那の総人員と比較し特異なる犯状の種類を挙ぐれば
A、内地
イ、下士官の週番勤務上に於ける処罰多し
ロ、将校、下士官及兵共私的制裁に依る処罰多し

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レファレンスコードC12120671400
件名標題(日本語) 昭和16年度犯罪非行懲罰観察資料 (軍記風紀に関する資料 其の2)

一、私的制裁及私的制裁に起因する主要犯罪(自昭一八、一〇 至昭和一九、三)

所属 楓 四二五五
官等 一兵
氏名 黒塗り
罪名 殺人未遂
事件の大要 
三年兵たる吉澤一等兵は平素より初年兵に対する取扱酷に過ぎ屡々私的制裁を為し当日も増田は演習間行動敏速を欠くとて十数回殴打せられ且帰営後同年兵が私的制裁を受くるを見て初年兵の為吉澤を殺し事故も自殺せんと就寝中に小銃にて射撃したるも果さず自己は咽頭部を射撃自傷す。
判決 懲役二年
責任者の処分 不明
所見 私的制裁の弊此に至りて誠に大なり

所属 二飛師八八飛大
官等 伍長
氏名 黒塗り
罪名 傷害
事件の大要
演習中初年兵教育助手の命に反し初年兵一が厠に到りたる件に関し同助手が注意しあるを初年兵教育助教たる今林伍長目撃し其の注意を頼りなく思ひ手拳を以て初年兵の頬部を殴打下顎部に治療三週間の傷を負はしむ
判決 不明
責任者の処分 中隊長及初年兵掛教官=譴責
所見 教練実施中此の種犯行尠からざるべし。私的制裁絶滅に関し一段の努力を要す。

所属 二飛師八八飛大
官等 伍長 上兵 上兵
氏名 黒塗り
罪名 傷害
事件の大要
兵器、被服の取扱不良内務の不履行に基因し初年兵教育助教たる井出伍長同助手たる伊藤、弘瀬上等兵は初年兵一を殴打下顎部に全治四十日の傷を負はしむ(制裁を実行したる日は各々別なる為何時受傷せしや不明なり)
判決 審理中
責任者の処分 中隊長二名譴責 初年兵係教官軽謹二日 大隊長譴責
所見 将校等の監督を徹底せしむるを要す

所属 独歩五八大
官等 一兵
氏名 黒塗り
罪名 殺人
事件の大要
班内に於て班長より身上に関し二、三質問せられ之に応答したるが其の態度不可なりとて二宮上等兵より自己の手拳を以て自己を殴打すべく命ぜられ数分間連打し居たるを同班の兵見兼ねて一旦制止せしめたるが更に些細の事より上靴を以て殴打せられ一旦就寝せしも憤激遣る方なく翌早朝就寝中の二宮を射殺す
判決 懲役十三年
責任者の処分 中長重謹二日
所見 本件全く私的制裁に原因するものにして速に絶滅を要す

所属 十飛中
官等 大尉
氏名 黒塗り
罪名 凌虐傷害
事件の大要
中隊長として服務中軍紀風紀の刷新内務の向上に藉口、自昭一八、三至昭一八、八の間言語、態度不良内務履行不十分等の理由に依り前後十回に亘り円匙手拳等を以て打衝又は殴打或は足蹴に或は冷水を浴せる等の凌虐行為を敢行し内数名に対し傷害を与へ同隊少尉高野二郎をして隊長の惨(?)虐極まる制裁に対し痛く憂慮し興奮の余隊長に対し上官脅迫の罪を犯さしむ
判決 懲役一年六月
責任者の処分 飛行団長重謹いつか 航空地区司令官重謹七日
所見 中隊長の悪質極まる私的制裁は特に厳重に処分するの要あり

所属 歩兵第二十九連隊第一機関銃隊
官等 大尉
氏名 黒塗り
罪名 軍務執行妨害
事件の大要
連隊長及び大隊長の招宴次で大隊長宿舎にて会飲後更に同僚と共に知人の宿舎に於て強か飲酒中燈火管制下巡察に来れる独守歩十二守備隊予中尉左利が遮蔽なき電燈に点燈しあるを発見注意したる処同中尉の態度不遜なりとし顔面を数回殴打之を顛倒せしめ足蹴にし全治約二ヶ月の傷害を与ふ
判決 審理中
責任者の処分
所見 責任者先づ率先して私的制裁を絶滅するを要す

所属 台湾歩兵第一連隊
官等 曹長
氏名 黒塗り
罪名 上官脅迫
事件の大要
中隊長中尉伊藤六士の言動に対し不快の念を抱きありしも自己の下級の身境を顧み一意悪感情の発動を抑制しつヽ隊務に精勤しありたるが下級者二名が外出帰営後俗歌を歌ひたる故を以て当時週当司令なりし中尉より殴打せられたる旨を関知興奮前後を弁へず脅迫文を郵送し同中尉を脅迫す
判決 審理中
責任者の処分 不明
所見 中隊長自ら私的制裁をなすに於ては他は想像に余りあり

所属 独立歩兵第二百五十六大隊
官等 一兵
氏名 黒塗り
罪名 殺人
事件の大要
対空監視哨服務中西田票等兵が一兵中谷實に守則の教育を実施しあるを傍見し中谷の理解乏しき為西田上等兵が立腹同人に踵を上げ膝を中は曲げの制裁を為しあるを見るや藤井一等兵は古年兵たるの優越感と酔余自己も制裁を加へんとし中谷の踵の下に紙片を入れ「踵を著けば判るぞ」と嘲笑しつゝ成行を監視中中谷が許を得て不動の姿勢に復するや藤井は不動姿勢の正しからざるに著目「そんな不動の姿勢があるか殺してやる」と怒号し三八式銃を以て遂に射殺せり
判決 審理中
責任者の処分 不明
所見 極めて悪質私的制裁にして西田上等兵及関係責任者も厳重に処分するの要あり

所属 工兵学校
官等 中尉
氏名 黒塗り
罪名 傷害
事件の大要
休養日に際し週番士官より襦袢二枚を重ね著用しありたる為注意を受け之が為事故報告を為さんとして区隊長室に到りたる自己区隊候補生吉川夏苗外三名に対し幹部候補生として気合を自覚に欠如せるものなりと注意訓戒を与へ更に其の際志気を緊張せしめんとし側にありし竹刀を以て両肩を一回宛殴打し吉川候補生の左肩鎖骨に骨折を生ぜしめたり
判決 審理中
責任者の処分 中隊長軽謹二日 幹候隊長譴責
所見 厳重処分の要あり

所属 中部四八
官等 兵科見士
氏名 黒塗り
罪名 空欄
事件の大要
竹井見習士官は敬礼の動作悪しとて特別志願兵助教某軍曹並に特別志願兵七名等を便所下に集合せしめ「対向ビンタ」の私的制裁を行はしめたるが其の際某軍曹は特別志願兵を殴る事は中隊長より厳禁せられある旨申出で見習士官より殴打せらるるも其の強制に応ぜず
判決 審理中
責任者の処分 中隊長重謹三日
所見 本件は詳細調査中なるも軍曹と兵とを互に殴打せしむるが如きは誤れるも甚しく厳重処分の要あり

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レファレンスコードC12120747700
防衛省防衛研究所>陸軍一般史料>中央>軍事行政>法令>軍紀風紀上等要注意事例集 昭和18年陸密第255号 別冊第7~9号 昭和19年6月~9月印刷

三、私的制裁
要旨 私的制裁の根絶に関しては昨年十二月内地軍参謀長会同席上陸軍次官より其弊害を指摘の上旧来の観念を一新して各級幹部に対する教育指導を適切にし且刑懲罰の実施を厳正ならしめ以て画期的に弊風を刷新すべく
厳に強調せられたる処なるが其後に於ても猶依然として行はれあり。即ち本年一月以降四月末迄の間内地部隊(朝鮮、台湾を含む)に於て犯罪として取扱ひ又は問題化したるものは

陸軍軍人軍属に対するもの
件数152件 制裁者数168名 被制裁者数288名
海軍軍人に対するもの
件数5件 制裁者数5名 被制裁者数5名
常人に対するもの
件数33件 制裁者数34件 被制裁者数190名
計 件数190件 制裁者数207名 被制裁者数483名

の如く多発し且其中には
●被制裁者を致死せしめたるもの(2件)
●被制裁者に裂傷、鼓膜穿孔或は打撲傷等傷害を負はしめたるもの(33件)
●被制裁者を激昂せしめ為に対上官犯を誘発せしめたるもの(6件)
●被制裁者をして自暴自棄に陥らしめ又は軍隊生活を嫌忌し遂に逃亡離隊するに至らしめたるもの(15件)
等忌むべき派生事象を続発しあり
斯の如く上司の意図不徹底なるは恂に遺憾なるを以て私的制裁の絶滅に関しては厳に省察を加へ更に格段の労力を払ふの要ありと認む
(中略)
4 原因動機
制裁者に就き其原因動機を観察するに制裁者の性格上の欠陥、或は兵種の特質、部隊の伝統的弊風乃至は環境等に支配せられあるも之等は暫く措き直接の動機は

○内務不良
兵器、被服其他物品の入手不良 11件
物品を紛失し又は員数外品を所持す 5件
規定時間外に酒保品等を所持す 2件
其他一般内務不良 14件
○態度不良
注意(指示)時に於ける態度不遜 28件
単なる態度不良 10件
学術科不良又は熱意なし 16件
敬礼不良又は欠礼せり 13件
集合(来室)を命じたるも之が履行悪し 5件
勤務怠慢なり 4件
勝手なる行動をなした 4件

等主なるものにして何れも内務の振粛、学術科の向上鞭撻を制裁理由となしあり、然れども真に部下教育指導に対する熱情の迸り出でたりと認めらるるものは極めて僅少にして其の大部が感情に走り訓戒の程度を超越して私刑化しある状況なるが就中左記事例の如く上級者、古参者の横暴又は誤れる優越感或は私憤に基くもの尠からざるは監督取締上厳に注意を要する所なり。

事例
●中部第三十一部隊「補」上等兵某は三月十二日外出を許可せられざるに不満を抱き営内に於て飲酒酩酊の上所属隊裏門より不正外出せんとし歩哨ある一等兵某より制止せられたるに憤慨し罵言を弄し手拳を以て同人を殴打したる上更に靴にて蹴る等の暴行を為す
●東部第六部隊「現」少尉某は代々木練兵場にて指揮官となり演習実施中同付近に於て演習を指揮しありたる東部第○部隊見習士官二名が屡々自隊に接近し来れるを演習を妨害するものなりと曲解憤慨し休憩時を利用該見習士官二名を呼寄せ練兵場使用に関し謙譲の徳義なしと殴打制裁を加ふ
●東部第四十四部隊「予」少尉某は一月三十日夜教育班に於て演芸会実施中他中隊の隣接班が日夕点呼準備のため喧噪且点呼二十分前連続数回番号を掛けたるを故意に演芸会を妨害せりと誤解同班に赴き下士官三名兵一名を殴打す
●東部第四十一部隊「予」上等兵某は二月十日外出先より帰隊後週番士官引率の下に営内駈足を実施し十八時頃帰班したる処自己の夕食を準備し非ざるに憤慨同班初年兵七名を整列せしめたる上木銃にて殴打し内五名に障害を与ふ
●迫撃第三連隊「現」一等兵某は一月十六日不寝番上番の際下番者たる「乙幹」上等兵三名が過早に起したりと憤慨顔面を殴打す

5 手段方法並発生場所
制裁の手段方法を列挙すれば
○手拳(掌)にて殴打せるもの 130件
○竹刀、木銃にて殴打せるもの 8件
○汁杓子、食缶蓋にて殴打せるもの 5件
○指揮刀、銃剣にて殴打せるもの 4件
○胸倉を突き顛倒せしめたるもの 3件
○相対せしめ相互に顔面を連打せしめたるもの 2件
等が主なるものなるが其の中苛酷なる事例を挙ぐれば左の如し

事例
●船舶病院船第五六班「補」衛生上等兵某は船舶衛生隊教育部に分遣を被命教育係助手として服務中三月七日初年兵一が通信物を内務係准尉の面前にて開披せざりしとて内務班に於て笞を以て臀部並に前額部を殴打全治二日の傷害を与へ次で三月十一日日夕点呼後初年兵四名が隊長訓示を記憶しあらずと叱責二名宛相対せしめ約七分間に亘り俗称「対抗ビンタ」を連続せしむ
●中部第二九部隊「予」上等兵某は四月十二日中食の際初年兵四名が恣に先に食事を開始せるを憤慨食缶蓋を以て頭部を強打し中二名に約二週間乃至三週間を要する傷害を与ふ
●京都陸軍病院高野川臨時分院に入院加療中の兵二名は三月二日同僚患者(兵)一が整頓を実施せざるに憤慨五名共謀の上前後二回に亘り竹刀又は手拳にて該兵を乱打し因て全治四日を要する打撲傷を与ふ
●工兵第六連隊補充隊「予」兵技伍長某は一月十五日兵器手入検査の際初年兵一の銃剣に発錆しあるを発見所持せる銃剣柄にて頭部を殴打全治一週間の傷害を与ふ

次に制裁の発生場所は
(中略)
等にして比較的幹部の監視薄き場所に於て発生したるを窺知せらる
特に一般民衆の環視下或は被制裁者より下級者多数の面前に於ける制裁は往々にして被制裁者をして所謂「面子」に駆られ反駁心を激発し対上官犯の如き不祥事犯を誘発する所大なるのみならず一般民衆をして軍隊生活に対する悪感作を与へ延ては反軍思潮を醸成する虞あるを以て注意の要あり

事例
比島派遣第一〇二教育飛行連隊「現」大尉某は高雄より枋寮行列車中に於て同乗しありたる中尉一、少尉一を欠礼(事実は欠礼しあらず)せりと一般乗客多数の面前に於て殴打し之を現認せる地方人をして軍隊内に私的制裁横行し殊に将校同志にも行はれありとの悪認識を与へ軍の威信を失墜す
●中部第一一〇部隊「予」上等兵某は週番上等兵に服務中四月一八日某一等兵が面会に際し所定の場所を離れ面会せりとて面会中の同隊員の父兄、知人等多数の面前に於て殴打し著しく銃後の対軍感に悪影響を及ぼす

6 犯罪との関係
各部隊長並に憲兵は情死の方針を体し私的制裁の根滅に資すべく従来の観念より更に一歩を進め悪質なるものは容赦なく捜査処分に付するの如く処置しあるが本期間司法事件となりたるものは

(イ)制裁者側
傷害致死 2件
傷害 13件(司法処分に付せざるもの20件あり)
上官暴行教唆 1件
哨兵暴行 2件
(ロ)被制裁者側
上官暴行、侮辱 5件
逃亡、離隊 15件
傷害 1件

計四〇件にして総件数の訳二四%なり。
就中飲酒酩酊者に対する私的制裁は徒らに被制裁者を激昂せしめ対上官犯を誘発し又入隊早々の意思薄弱なる初年兵に対する私的制裁は痛く軍隊生活を嫌忌せしめ或は自暴自棄に陥らしめ遂に逃走せしむる等其の弊害著しきものあり。
主なる事例を挙ぐれば左の如し

傷害致死
●中部第三一部隊「現」一等兵(三年兵)某は二月二日営庭に於て同隊初年兵某が平素の動作緩慢にして且応答鈍重なるを注意すべく「坂田は此の頃俺が呼んでも一度で返事したことがないじゃないか」と詰問したる処「返事はして居ります」と言葉を返したるに憤激同人の胸部を左拳にて突きたる上両顎を各一回殴打し其場に仰向に昏倒せしめ因て脳底骨折により死亡せしむ(懲役五年)
●中部第二七部隊「補」上等兵某は随時検閲準備の為の軍装検査に於て分隊長某軍曹の馬装品たる釘袋二個紛失しあるを知るや同軍曹の鞍置当番たる初年兵某を糾問すべく帰班したる処折柄被害者(元来身体虚弱にして当日も午後より演習を休み班内に於て毛布の乾燥に従事す)が舎前に赴かんとせるを廊下にて現認之を呼止めたるが被害者は之に気付かざるものの如く其儘舎前に出でんとしたるに因り更に激怒し大声にて「五代内務班に帰れ」と叱咤し自ら先行帰班し来れる同人に対し「呼んだのに何故来ないか分隊長の釘袋の足らないのをお前は知らないか」と詰問したる処「全部厩に置いてあります」と答へたるため「古年兵でさへ馬具は完全に掌握して居るのに何故お前は馬具の掌握が出来ないか」と叱責前後三回に亘り手拳を以て両頬を殴打其場に転倒せしめ因て外傷性蜘蛛膜下腔出血の為後刻死亡せしむ(懲役五年)

傷害
●第十四軍野戦自動車廠第三中隊「予」准尉は肩書部隊仮編成後金沢市外廠舎に宿営中二月四日同隊第三分隊長(伍長)が被害者たる「補」上等兵の非行を捉へ叱責殴打したる処同兵が憤激し上官たる右伍長に暴行せる事件発生したるを以て同日二十二十分頃自己の職責上其真相を究明可然処置を為すの要ありと思惟し該兵を自室に招致伍長に対する暴行理由を訊問したるに直ちに返答をなさざりし為憤激し両手を以て同人の両頬部を約二十回殴打し全治一週間を要する口腔内左頬部粘膜裂傷並に上下口腔腫朖(?)を負はしむ(禁錮一年六月、罰金五十円)
(註)右伍長並に兵も夫々事件送致す
●工兵第四三連隊「現」上等兵(二年兵)は初年兵係助手として服務中四月四日班長が初年兵全員に対し内務教育を実施したる際幹部候補生某の態度不良なりしを以て之を矯正すべく学科終了後廊下に連行平手を以て頬部を殴打し因て全治十五日を要する左鼓膜穿孔を負はしむ(不起訴)
●歩兵第四二連隊補充隊「予」上等兵某は三月三十一日中隊初年兵の大部分が演習出場不在中残留初年兵十名と中食せんとする際初年兵四名が演習出場下士官一の不要食事を勝手に分配喫食したるを痛憤し「今日は飯が少いのにお前達ばかり腹が太ればそれでよいのか」と叱責し上竹製汁杓子を以て右四名の頭部を一回宛殴打し内三名に全治一週間を要する傷害を与ふ(罰金八十円)
●船舶病院船第五五班「補」衛生兵長某は船舶衛生隊教育部に分遣を被命同部第二内務班教育係助手として服務中二月二十八日同班の二等兵(二国兵)一が欠礼したるを憤激し班内に於て手拳を以て同兵の左頬部を強打し全治一週間の打撲傷を与へ次で三月七日同班の二等兵(二国兵)の態度不遜なりとて同じく班内に於て手拳にて左頬部を殴打全治二日の打撲傷を負はしむ(懲役四月)
●歩兵第七四連隊機関銃打中隊「予」伍長(乙幹)某は補充兵係として服務中四月二十六日より五月一日迄の間補充兵の敬礼並に動作不良なりと常習的に十数名を殴打し五月一日十時頃教練実施中某二等兵が大隊砲車輪操作を誤りたるを認むるや所持せる鉄製標桿を以て頭部並に臀部を数回強打し全治二週間を要する傷害を負はしむ(審理中)

上官暴行
●歩兵第一五四連隊「予」見習士官(幹候)某は三月十一日十一時四十分頃所属隊便所に赴きたる処偶々演習終了帰途にありたる他中隊特別志願兵教育係助教(軍曹)他助手、特別志願兵(半島出身)等十名が自己中隊の便所を使用し且敬礼不良なりしに憤慨し之を注意すべく全員を便所通路へ二列横隊に集合せしめ他中隊便所使用の不可並に敬礼不確実なる点を指摘したる上相対せしめ俗称「対抗ビンタ」の私的制裁を命じたるも助教(軍曹)と相対せし某特別志願兵(二等兵)が上官を殴打するに忍びず躊躇しあるを見るや「斯うして殴るんだ」と自ら二等兵の顔面を殴打模範を示し強ひて上官を殴打せしむ(降等、禁錮十月)

哨兵暴行
第百四教育飛行戦隊「現」曹長某は他隊より転属服務中のものなるが予て転属者が上司より継子扱にせられありとの偏見を有し常に不満を抱きありたる処より三月二十六日公用外出の帰途飲酒酩酊し之が鬱憤を晴さんと所属部隊営門歩哨並に軍旗歩哨に対し手拳又は抜刀して暴行し更に之を制止せんとしたる同隊週番副官に対し抜刀して脅迫す(禁錮一年)

上官暴行
●教育総監部付「現」少佐某は二月二十一日千葉県下船橋駅構内に於て飲酒酩酊しありたる東部第○部隊兵科見習士官に対し其の醜態を注意したる処「何を言ってやがるんだい」と反感的態度に出でたるを以て之を殴打制裁したる処同見習士官は激昂の余り上官暴行の挙に出づ(禁錮十月)
●第一四軍野戦自動車廠第三中隊「予」伍長某は所属部隊が仮編制後金沢市外に舎営大気中二月四日日夕点呼終了後所要の注意事項を与へんとする際「補」上等兵某が隊伍を離れ急ぎ自室に立戻らんとして事故に追突したるを以て之を注意せる所其態度不遜なりしを以て更に之を矯正すべく平手にて同兵の頬部を一回殴打したる為同兵は激昂し伍長に対し暴行を為す(懲役六月)
●西部第二七六二部隊「予」軍医中尉某は四月十日風邪の為受診に来室せる同隊「補」二等兵某の態度不遜なりしため叱責手拳にて頬部を殴打せる処同兵は憤慨し軍尉〔ママ〕の顔面を殴打軍衣襟元を掴み押倒さんとする等の上官暴行を犯す(懲役四月)
●西部第八〇六二部隊「予」少尉某は今日かんとして服務中平素内務、演習等に於て屡々兵を殴打凌虐行為を為したる為之に憤慨し反感を有しありし下士官以下七名が偶々一月一日軍隊全員祝宴ありたる後酒気に常時党与の上少尉に対し上官暴行同傷害の不祥事犯を惹起す(何れも懲役二年六月)

傷害
●輜重兵第四三連隊初年兵某は行軍中大休止の際指揮官の許可を受け実家に立寄り飲酒酩酊帰来し帰隊途中屡々隊列を離れたるを戦友某が注意せるを不快とし帰隊後同戦友に対し詰問しありたるが偶々之を現認せる「補」一等兵某が注意の上二、三回殴打したるに激昂酒勢に乗じ三十年式銃剣を以て同人の下腹部を刺突全治二十日を要する傷害を与ふ(罰金四十円)

逃亡離隊
●歩兵第四一連隊衛生上等兵某外三名(上兵一、一兵二)は自己中隊の初年兵某が淋病再発し頭痛の為勤務に堪へ難く二月十七日所属隊医務室に入室せるも翌日「熱なし」との理由にて退室を命ぜらるるや同日夕刻班内にて「貴様は熱があると嘘を言って入室した不都合な奴だ」云々と叱責交互に七回乃至十二、三回顔面を殴打せるため同兵は軍隊生活を畏怖し遂に逃亡す(懲役一年二月)
●歩兵第一三連隊補充隊「現」伍長某は自己班初年兵某が演習中小銃の安全装置を為し非ざるに不拘虚偽の応答をなしたる為叱責殴打したる処同兵は之を苦慮遂に逃亡す(懲役三年)
●第六航空教育隊「補」一等兵某は日夕点呼前自己内務班に於て初年兵の貸与被服の一品検査を実施したる際某初年兵の軍衣襟部汚垢しあるを認め注意せるも態度不遜なりし為同兵の胸部を殴打せる為軍隊生活を嫌忌離隊す
●東部第四〇部隊「補」兵長某は一月七日自己支給の編上靴紛失したるを以て捜査中同隊初年兵が使用しあるを現認詰問したるも頑強に否認したる為激昂し七、八回殴打し因て同兵をして逃亡するに至らしむ(未就捕)
●朝鮮軍独立高射砲第四一大体本部「予」兵長某は五月五日同隊初年兵(特志半島人)某が集合の際略帽を腰に挟み居るりたるを他の上等兵より注意せられたる事実を関知し同兵に対し「お前は精神状態が良くない」と叱責平手にて顔面を殴打し為に同兵をして同夜脱柵離隊せいSむ

7 其他要注意事象
他部隊員に対する私的制裁により左の如く被制裁者側部隊を憤慨せしめ紛議を醸したる事例あり

事例
四月三日名古屋幼年学校生徒二名が外出先にて飛行第十七戦隊整備隊兵長某より「何故敬礼せぬか」と注意を受け左頬を一回宛殴打せられたるも帰校後其事故を上司に報告せざりし処後日上官の知れる処となり右生徒二名を各謹慎二日に処すると共に学校側より飛行部隊側に抗議を申込みたり、部隊側にありては当時航空事故発生し其処理に忙殺され何等処置せざりし為学校側に於ては不満を持しありし折柄再び四月二十九日同校生徒四名が外出先より帰校途中右飛行部隊兵長二名に遭遇両兵長より敬礼を要求され口論の結果生徒二名が両兵長より殴打され生徒は之に反撃格闘を演じたる事件発生せり。
為に学校側に於ては再度の不祥事に憤怒し訓育部長某中佐より飛行部隊長に直接電話連絡し解決方要求したるも部隊側の前後〔ママ〕措置遅延せる為益々紛糾せんとしたるも部隊側よりの陳謝に依り円満解決す

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防衛省防衛研究所>陸軍一般史料>中央>軍事行政>法令>軍紀風紀上等要注意事例集 昭和18年陸密第255号 別冊第7~9号 昭和19年6月~9月印刷

一、私的制裁を受け自暴自棄となりたる兵
○○部隊現役一等兵一は所属部隊本部将校当番として勤務中日本酒及支那酒約八号を飲酒外出し城内飲食店数ケ所に於て更に日本酒七合「ウイスキー」二合を飲酒酩酊の上帰隊時刻に遅刻せるを当番長たる上等兵に注意せられたるに酒勢に乗じ不遜なる態度を示し更に殴打せらるゝや逆上し上等兵を殺害すべく当番室にありたる三八式歩兵銃に実包を装填したるを同僚に取押へられ未遂に終りたるが翌日前記上等兵外四名より報復的に暴行を受け且将校当番勤務の交代を命ぜらるゝや自暴自棄となり遂に逃亡を決意し某中尉の不在を奇貨とし宿舎に侵入「コルト」式拳銃一、同実包五発を窃取したる上部隊本部に到り平静を装ひつゝ当番勤務の交代申送を為し同日夕刻本部を出発したる儘逃亡し此間逃亡を容易ならしむる為着装しありたる三十年式銃剣、同帯革、襟章、巻脚絆等を投棄し途中華人駅員宅に侵入し鉄道マークの付着しある略帽を窃取着装し●●駅に至る間数回に亘り従業員を欺き無賃乗車を為したり。
◎本件は固より一等兵の思慮浅薄に基因するも上等兵等が党与私的制裁を加へ逃亡など兵をして自暴自棄に陥らしめ更に犯罪を累加せしめたるは遺憾なり。最近上官乃至上級者の過度に叱責又は私的制裁に起因する犯罪殊に逃亡、上官暴行等忌むべき事犯を犯すに至るもの多発の傾向あり。教育指導上厳に注意を要すべし。

昭和18年9月、戦雲急を告げる気運に、血をたぎるのを覚え、学業を放棄し、勇んで志願し、同年10月第15期陸軍少年飛行兵として、東京都北多摩郡東村山村所在の、所沢陸軍航軍技術(整備)学校、立川教育隊に入隊した。・・・班員はいずれも若干14才から16才までで構成されていた。
 訓練に明け暮れる日々は始まったが、内務斑では、軍隊精神を培う名目での「鉄拳制裁」が日常茶飯事的に行なわれており、些細な行動や理由をこじつけ、毎日全員が往復ビンタの洗礼を受ける羽目になった。
 一個斑は建物内を縦貫する1本の廊下を挟んで両側に分かれており、何れかの斑での制裁が始まると、こだまする鉄拳の音に和すかのように、鉄拳の嵐が吹き荒んだ。
 木銃制裁もあり、これは背丈程もある木製銃の台尻で、喉や胸部を廊下の端まで突いて行く方法であり、その間班員一同は恐れをなし、息を潜め、始まるのを待つしかなかった。
 私の斑に栃木県出身の森井昭次という、丸い童顔リンゴの頬の様な、美少年がいた。
 仲間ですらそう感じていたのだから、召集された、古参の班長らには、格好の餌食であったことを後日知らされた。
 入隊2ヶ月くらいしたある日、就寝前のことであった。熊さんが狂ったように森井の頬を打ちのめした。
 それも鉄鋲付の編上靴を改装したスリッパの踵部分を使う、往復打ちとなったからたまらない。見る間に両頬は膨れ上がり、かぼちゃのように変形、紫色へと変化し、ついに耐え切れなくなり、転倒するまで、あれよあれよと傍観するしか手がなかった。
 遂に身動き出来なくなった森井を、熊さんは下士官室担ぎ込んでしまった。
 やがて始まった週番士官の、就寝前の点呼は、巧妙な報告で難なく通り抜けてしまった、そのしたたかさは見事というしかなかった。
 下士官室の一室には、数名の班長らが入室しているが、悪事に対しての結束ぶりもさすがであり、死にさえしなければ、上官への報告は何とか回避しようとする雰囲気がありありと窺われた。
 回復するまで約2週間を要したが、この間班員が交代でする班長当番を通じて、熊さんが軍務の閑をみては、それこそ必死に濡れ手拭で森井の頬を冷し続ける状況が洩れ伝わって来た。古参の班長らが、朝夕の人員点呼をかばい続ける絆の強さも見えて来た。
 このような度重なる鉄拳制裁に耐えかねたのか、別斑の吉村班員が、寒風吹きすさぶある日、突如脱走してしまった。
 憲兵にこのことが知れたら一大事である。そこで毎日選りすぐりの古参班長らが、交代で捜索に出動して行った。
 数日を経た日、営庭に全員が集合していた脇を、連れ戻された吉村が通り過ぎるのを、垣間見たが、憔悴し切っており、営倉入りのことを考えると、哀れでならなかった。
http://www.city.yamato.lg.jp/koucho/virtual/kioku/kioku11.htm   

 私は昭和十七年の徴集現役兵で、旧満州第三六一一部隊工兵隊要員として、現地入隊のため昭和十八年一月十五日広島集合の命を受け、十七日に引率指揮官により牡丹江省東寧県東寧の部隊に入隊しました。・・・
 次年度の昭和十九年一月からは、自分が教育班の助手の任務を受け新兵の教育に当たりました。部隊長は武田定蔵中佐で、私的制裁についてはなるべく穏当にとの通告もあり、当時の新兵の中には人種の異なった者もおり、軍隊のけじめはそれと知りつつも、できうる限りの温情を旨として教育を実施したつもりであります。(85頁)松本https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/01/O_01_085_1.pdf

 昭和十九年一月十日、私は新京の満州第二六七八部隊第一大隊第三中隊に入隊いたしました。・・・
 毎日毎日目から火の出るように叩かれ、蹴られて、まるで生地獄、格子なき牢獄の中にあっても、思いを故郷に馳せ、苦労している母親や、弟や妹たちの姿を思い浮かべ、歯を食いしばり辛抱しながら、毎月の五円を送金しました。(173・174頁)元島
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/01/O_01_173_1.pdf

 昭和19年5月5日、宮城県石巻市の陸軍船泊工兵第34連隊に入隊することになった。・・・
 前に戻って、内務班生活だが、今の仕事をしているうちに次の仕事を考え、その用意を他人に遅れないようにしなければならない。それを出来ず、ボサッとしていたら、その時になったら道具も無くなっていて、何も出来ない。それが、夕食後になってのビンタになって帰ってくる。「ちょっと来い」と言われて前へ行ったら、直立不動で立つ。次に「歯を食いしばれ」「足を横に開け」打たれても口が歯で切れないように。また、倒れないようにしておいて、何発も来る。力一杯なので、3発までは痛いが、その後はグワン、グワン言うだけで、痛みはあまりない。終わったらほてることほてること。手ぬぐいを水に浸して押さえる。それでもまだ、手なら良いが、手が痛いからと物で殴られ怪我したなと思ったら、薄暗い藩内で週番士官が夜の点呼に回ってくる時には、後列に立たせて見えにくくしておく。そして、「人員異常なし」を申告する。
 起床ラッパが鳴ったら、4、5枚の毛布を畳み、服を着て短時間で整列しなくてはならない。古年兵に遅れるようではこれもビンタの種。食事ともなれば、大きな樽のような容器で持ってきて、茶碗に入れるが、皆、毎日の演習で腹が減る。当番が飯を盛る。自分のは、少しでも多く盛りたいが、皆の目が見ているので、茶碗に押し込む。他人のは、ふわっと盛る。しかし、なかなか苦労する。お膳に入れた班長さんの食事は、自分の鼻の高さよりも高く、捧げるようにして運ぶ。鼻の息がかからないように。それでも、班長さんも人間、一生懸命やれば分かってくれて、俺だけ悪い時は別だが、全員で受けるビンタの場合など、良く「理塀、お前何をしているんだ。あのことをしておけと言ったのに早くしてこい」と言われ、そんなことは聞いていなかったのにと思いながら終わらせて帰れば、皆、ビンタの後だったことも何度か。

教育期間に練習に気合が入って、上官に何も言わず、突き落とされることもあった。手旗を持っているので、これを2本丸めて殴られるとすごく痛い。これよりいいと思っていたが、泳げない者はかわいそうだった。何としても舟から離れるのをいやがった。また、上手な漁師などは、手足をしばって落としても、心で笑っているようだった。
https://aviation-assets.info/column/memory-of-great-east-asia-war/

日本の敗戦の色濃くなった昭和二十年一月に、所沢陸軍航空整備学校で、特別幹部候補生として重爆撃機の整備技術を修得。台湾に転属となり、門司港から出航することとなった。
 当時、年令は満十五才、中学三年の途中から応募、約十か月間、一人前の下士官に仕上げるための厳しい訓練で体力の限界までしごかれ、精神力で耐え抜いた。親にはとても見せられない凄惨を極めた鍛え方だった。
 「足を半歩開け。」 「歯を食いしばれ。」 の怒号と共に、両手に強く握りしめた厚い皮のスリッパで両頬を打ち据えられ、脳震盪で倒れた。気がついた時は戦友達に寝台に運ばれていた。頬からは血脂が湊み出て固結し、ハンバーグを両頬に貼りつけたようで、口が開かなかった。食べなければ訓練に耐えられないので、戦友に味噌汁だけ流し込んでもらったが歯の当たった口内は裂け、訓練で流れる汗が頬に滲みる痛さで人間の形相ではなかった。
 訓練半ばの頃、教官の一撃でコンクリートの床に後頭部から落ちて失神、ふと意識が戻り、自分は今、何をしているのだろうかと、周囲を見廻すと、整然と隊列を組んで飛行場に向かって走っていた。駆足の震動で脳が正常に戻ったのだろうか、無意識下でも、叩き込まれた訓練通りに体が反応して、集団行動が出来るまでになっていたのだと思う。
http://www.pref.mie.lg.jp/FUKUSHI/heiwa/17456018280.htm

 かくして試験に合格、卒業前には早々と採用通知がきて『大竹海兵団』に入団が決定された。・・・
 やがて私も待望の海兵団に入った。だがそこは、まさしく地獄の一丁目。かねて覚悟はしていたものの、シャバでは想像もつかぬ厳しい訓練(基礎教育)が待ち構えていた。夜は夜で、兵舎の中は鉄拳とバッター(木刀で尻を叩く)の嵐が吹きまくった。理由なんかどうでもよい、『海軍魂』を入れてやる、という鬼教班長の暖かい思いやり?あれもこれも、総て一人前の水兵になるためと、少年達は歯をくいしばって必死に耐えた。
http://www.pref.mie.lg.jp/FUKUSHI/heiwa/17456018280.htm

私は昭和18年(学校 6 年生より)栃木市立(戦後県立となり男女共学となる。)栃木商業学校入学(男子中等学校5年制)、次年度からは工業学校となり、商工学校生でありました。・・・その後、学徒動員として両毛線で小俣(足利市)駅で降り工場に行く。・・・時には学校に行くと軍事教練(大正時代より男子中等学校以上には軍事教練が義務付けられていた。)陸軍現役配属将校の指揮で校長はサーベル(簡易な刀)を捧げ壇 上に立って学生の隊列行進をするのを観る。先頭には進軍ラッパを吹いて行進する。威厳のあること。あるとき私たちの隊列(足並)が合わず笑ってしまった。後で横ビンタ(向かい合ってやる。)先輩に殴り役がいる海軍の精神棒と言って6尺棒で尻を殴りつける。私もやられた痛みと悔しさは忘れられずこの記事に載せました。(91・92頁)

軍人勅語あり暗記した。一つ軍人は忠節を尽くすを本分とすべし。五か条あった。言えないとビンタあり。丌動の姿勢もよろける。(93頁)

上級生は上官である。道であった時は手を上げて敬礼すること、忘れたらビンタあり。(94頁)
https://www.city.tochigi.lg.jp/uploaded/attachment/7450.pdf

私は昭和9年生まれで、旧岩舟村に住んでいました。昭和16年、尋常小学校が国民学校と名を変えたその年に、今で言う小学校1年生になりました。・・・夏の炎天下の集会などでは、不動の姿勢で聞けと言われ、汗を拭うだけでも怒られました。冬は10センチメートルもの霜柱ができていても裸足で立たされ、泣いている子もいました。

学校生活は戦況と共に厳しくなり、軍隊方式の教育となりました。例えば、クラスの一人が若干の「行いが悪い」ことが生じると、クラス全員が、教師から「ビンタ・ゲンコツ」をされたことは日常的であり、生徒の中で耳の鼓膜が破れたとか、ケガをしたとかよく覚えています。(97・100頁)
https://www.city.tochigi.lg.jp/uploaded/attachment/7450.pdf

日本軍 リンチ 暴行 いじめ 暴力