「秘」印
昭和十四年一月
特輯第六号
内田定槌氏述 
在勤各地ニ於ケル主要事件ノ回顧
外務省調査部第一課

略歴
内田定槌氏は慶応元年福岡県に生れ、明治二十二年外務省に入り、上海、京城、紐育に在勤し、特命全権公使兼総領事として「ブラジル」国駐箚、特命全権公使として瑞典国駐箚、特命全権大使として土耳古国出張を経て大正十三年四月退官せられたり。

 在職中私の経験した事柄で、世間に余り知られず、又後世に歴史として残されないやうなこともあるので、それ等に就て若干追憶を語って見ようと思ふ。
 私は明治二十二年に外務省に奉職し、翌二十三年には副領事として上海在勤を命ぜられた。当時は上海も未だ日本人の発展する地とはならず、邦人商店の如きも僅に五指を屈するに過ぎなかった。
 明治二十六年、領事として京城在勤を命ぜられ、同地在勤中日清戦争が起ったが、戦争終結後所謂王妃殺害事件なるものが勃発した。

一、京城在勤当時 王妃殺害事件
 日本は朝鮮の内政改革の緊要なるを思ひ大鳥公使をして朝鮮政府に勧告せしめたが、同国政府は容易にそれを実行しようとしない。それは当時勢力を恣にして居った閔氏一派が内部から妨げて居ったからであるが、他の大臣は大鳥公使の勧告を受け容れても、閔氏出身の大臣がどうしても承知しない。其の上日清戦争前猖獗を極めた東学党が地方では未だ勢ひを逞しうして居ったりして、朝鮮の内政改革は到底日本の思ふ通り行はれず、大鳥公使も大いに弱って居るった。ところが日本内地では、朝鮮の内政改革の行はれざるは政府の方針が悪いからだと政府を攻撃し、大鳥公使をも非難する声が挙って来た。時の外務大臣陸奥氏は大変憂へて、是はどうしても日本から第一流の人物を公使として朝鮮に送らなければならぬと云ふことになり、内務大臣井上馨(当時伯爵)を特命全権公使として大鳥公使に替らしめた。
 井上公使が着任して色々事情を研究した結果、朝鮮の政治は総て王妃が中心になって行はれて居るから、王妃を抱込まなければならぬ、王妃が日本に味方をするやうになれば自然内政改革も行はれるやうになるだらうと云ふ考へから王妃の御機嫌を取ることに努め、朴泳考等の日本党を重用して改革を行はしめようとしたが矢張りうまく行かず、三浦子爵と替った。
 私は其の頃領事館に住んで居ったが、或る朝(明治二十八年十月八日)けたゝましい銃声に眠りを破られた。窓を開くと未だ夜は明け切らぬ。館内には警察署があったので、何事が起ったのかと巡査に訊いたが、知らぬと言ふ。荻原警部を起しに行ったが、其の室に居らぬ。厩舎へ行くと私の馬が見えない。どうしたのかと巡査に訊くと、警部が乗って行きましたと言ふ。其の中に銃声が止んだ。近くには新納少佐と云ふ海軍の公使館付武官が居ったので、そこへ行って訊いて見たが、何のことか分らぬと言ふ。又当時の外交官補日置益君も近くに居ったが、矢張りちっとも知らぬと言ふ。
 さうして居る中に、血刀を提げた連中が帰って来て新納少佐の所へ報告に行った。私もそこへ行って話を聞いたが、其の連中は昨夜王城に侵入して王妃を殺したのだと言ふ。どうして行ったのかと尋ねると、最初は大院君(国王の父で王妃とは犬猿の間柄であった人)が朝鮮人を率ゐて王城に侵入し王妃を殺す筈だった。それに就ては前から種々策謀があった。例の岡本柳之助氏が参謀で大院君を引っ張り出すのが一番宜からうと云ふことになり、岡本が大院君に勧めに行った。其の時一緒に勧めに行ったのが領事官補の堀口(九萬一)君。同君は朝鮮語は出来ないけれども漢文に通じ文章が達者なので筆談をした。其の結果大院君もそれでは君側の奸を倒す為に起たうと承諾した。最初の計画では夜半に日本の兵隊と警察官が大院君を先頭に立て、王城に入り朝鮮人が王妃を殺害する筈であったが、愈々今夜決行すると云ふ時になって大院君が躊躇し出した。京城郊外の大院君の邸へ岡本や堀口君が夜中に行って促さうとしたが、大院君は仲々出て来ない。愚図々々して居ると夜が明け始めたので、多勢の日本人の壮士等も一緒になって無理矢理に大院君を引っ張り出し真っ先に守り立て、王城に向った。王城侵入の際護衛兵が発砲して抵抗したけれども日本兵が之を追ひ散し城内に入った。ところが王妃の室には宮女が沢山居るので、どれが王妃か分らない。それと云ふのは王妃は決して外国人に顔を見せなかった。だから日本人で王妃の顔を知って居る者は一人も居なかった。けれども或る日本人は其場から逃げ出す或一人の婦人を他の女達が頻りに庇護する様子を見てそれが王妃に相違ないと断定し之を殺害した。其死骸は王城庭内の井戸へ投じたが、それでは直ぐ罪跡を発見されると気が付いたので、又それを引上げて王城内の松原で石油を掛けて焼いた。それでも未だ気がかりなので今度は池の中へ放り込んだが、仲々沈まないので又其の翌日かに池から取出して松原の中に埋めた。
 さう云ふ死骸の始末に付ては関係人から後で聞いたのだが、兎に角私は非常に困った。公使に会って話を聞けば万事分るだらうと思って公使館へ出掛けたが、公使は、一寸待って呉れと云ふことで直ぐに会はない。公使は二階に居り、私は下の待合室で待って居ると、二階で頻りに鐘の音がする。妙なことだと思って居ると、二十分ばかりして二階へ通された。すると公使は床の間に不動明王の像を飾って燈明を上げて拝んで居る。そこで私は「大変な騒ぎになりましたね」と言ふと、公使は「いや、是で朝鮮も愈々日本のものになった。もう安心だ」と言ふ。それで私は「併し是は大変なことです。日本人が血刀を提げて白昼公然京城の街を歩って居るのを朝鮮人は素より外国人も見たに相違ないから日本人が此事変に関係したことは隠すことは出来ませぬ。併し日本の兵隊や警察官、公使館員、領事館員等が之に関係したことはどうにかして隠したいと思ふが、それに就てはどう云ふ方法を講じたら宜いでせう」と言ったが、公使は「俺も今それを考へて居るのだ」と言はれた。
 公使と話して居る中に露国公使が血眼になってやって来たので私は席を外したが、露国公使が帰ってから再び二階へ上って見ると、公使は非常に悄れてしまって居る。そこで私は、日本人が関係したことだけは何としても隠蔽しなければなるまいと繰返し言って公使と別れたが、偖てそれからどうしたら宜いか考へが付かぬ。外務省へ知らせようと思っても電信は公使館の命令で差止められてしまって居る。公使館以外の者は一切電報を打つことを差止められてしまったので私も無論電報を出すことは出来ない。後で聞けば「昨夜王城に変あり王妃行衛を知らず」と云ふ電報を公使館から外務省へ送ったさうだが、それ切り止めてしまったので私はどうすることも出来なかった。
 其の中に堀口君や警部が帰って来たので堀口君に「君は大変なことをやったが、あとはどうする積りか、僕には此の始末は出来ない」と言ったら、何とも答へないで黙って居る。矢張りどうして宜いのか分らないのだ。そこで私は「僕の考へでは是はどうしても日本政府に始末を委すより他はない。併しそれには日本の外務省が事実を能く知らねばならぬ。ところが外務省から何を言って来ても公使館からは返事もやらないやうな状態では外務省でも真相を掴み得まい。君は最初から事件の真相を知って居るやうだから、すっかり其の末を書いて本省に報告して呉れ」と言った。すると堀口君は達筆なので直ぐ長い報告書を書いて、特使であったか郵便であったかはっきり記憶しないが兎に角本省に送った。
 是より先、井上公使は熱心に朝鮮の内政改革をやる積りであったがうまく行かず業を煮して帰ったのだが、日本へ帰ってから時の内閣に朝鮮改革の必要を力説した。是から朝鮮は日本が育てゝやらなければならぬ、内政改革なども日本の力でやらなければならぬ、朝鮮を戦場として日清両国が戦ったのだが、朝鮮はそれが為に非常に迷惑して居るのだから其の補償もしてやらなければならぬ。料亭で喧嘩をして襖を破ったり器物を壊せば幾らか弁償もしなければならぬのと同じやうに、朝鮮にも相当の金をやらなくてはならぬと言って、何百万円かの金額を明示して政府にそれを支出させる積りで其の話をして居る間に、突然昨夜王城に変あり云々の電報が来たのだ。併しそれから引続き詳報を何も送らなかったので顛末が分らなかったが、堀口君の報告書が行って初めて驚いてしまったらしい。それで其の善後策を講ずる為に小村政務局長が朝鮮に出張を命ぜられたのだ。
 私も申訳ないから進退伺ひを出さうと思ふと小村局長に話したら、君は何も関係ないからそんなことをする必要はないと云ふやうな訳で出さなかった。小村局長の考へでは、此の事件は京城では処分出来ないから日本で処分するより他ないと云ふことになり、関係者は皆日本へ帰すことになった。公使館員も軍人も関係した者は皆召還し、民間人は在留禁止、退韓を命ずることになったが、其の命令を出すのは領事たる私が言ひ付かった。其の時在留禁止を命じたのは四十七人あったと思ふが、それ等の人間を一々呼出して命令を渡した。ところが皆大いに喜んで居た。
 殊に岡本柳之助などは、私は斯う云ふことをしたのだからどんな処分を受けても仕方がないのに、在留禁止で済めば非常に有難いと言って喜び、其の他の壮士連も皆有難く在留禁止命令を御受けした。安達謙蔵氏なども矢張り此等壮士連の首領株だったが、それ等の連中は皆公使館の人々、陸軍々人等と一緒に京城を立って仁川から船に乗った。船の名前は忘れたが、皆大いに手柄を立てゝ、勲章でも貰へる積りだったらうか、喜び勇んで内地へ向った。ところが宇品へ着くや否や皆縛られて牢に入れられ、広島地方裁判所で裁判を受けることになった。
 広島で王妃殺害事件の公判が進行して居る間に、朝鮮国王は王宮を脱出して露国公使館に逃げ込んだ。それは露国公使館員が朝鮮宮内官と通謀してやった仕事であった。それから又「アメリカ」の宣教師と朝鮮人が一緒になって日本党の人々を暗殺する陰謀を企てたが、それは朝鮮政府の当局で皆犯人を逮捕し処分してしまった。さう云ふ事件が次から次に起ったので日本の方でも、露国人や米国人がそんな陰謀を企てる空気中に於ては日本人の犯罪に限り厳重に検挙する政策を執る必要はないと云ふやうな議論が起って来た。それに又一方朝鮮当局の方でも王妃殺害事件の審理を遂げたる処王妃殺害者は朝鮮人の何某と決定し既に死刑に処せられたから、日本の裁判所が本件を審理する必要はないと云ふ理由で被告人は一同無罪放免に決定した。
 併し当時私は非常に苦しい立場に在った。それと云ふのは領事たる私は広島地方裁判所の嘱託により予審判事の職を勤めなければならなかった。本件の関係人は公使館員始め壮士の連中も皆平素私の知って居る人々で、それ等の人々の犯行を一々調査しなければならぬのには私も大変困った。併し領事館巡査の中一番朝鮮語が上手で最初から事件に関係して居った渡邊鷹次郎巡査だけは内地へ帰さなかったので、広島裁判所の依頼に依って取調をする時には、其の巡査に命じ王城内の実地を調べさせて報告したこともある。
 要するに、表面は朝鮮人が王妃を殺したことになって居るけれども、実際は右に述べたやうな次第であった

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外務省外交史料館 戦前期外務省記録 諸修史関係雑件/外交資料蒐集関係 第三巻
王妃殺害