満州引揚が大変だったとよく聞くが、その際出てくるのは「ソ連兵がひどかった」という話ばかりな気がする。そこには「満州は五族協和の楽園だった、みんな仲良くやってたところに憎いソ連が来たのだ」という(意識的なあるいは無意識の)情報操作や願望がこめられているのだろう。
ではあまり語られることの無い満州人(中国人)はどうだったのか。
以下並べてみる。

対蘇作戦記録 第二巻(其の一)
昭和二五、一〇
復員局調製

第一篇 関東軍総司令部の状況
第一章 蘇連参戦前の状況
三、満州国軍の処理
有事に際する満州国軍の取扱に関しては、関東軍作戦計画に於て、反乱防止と兵器の日本軍転用の見地より其の兵力の減少と工兵及輜重部隊への転換を図るべく定め、之が為新募兵の中止、古年次兵の除隊、重火器及火砲の日本軍移管を図ると共に満州国軍の使用に方りては日本軍の中間に位置せしむる如く第一線兵団に要望し且築城促進の意味に於て満州国軍は之を全部各兵団に配属せり。
斯くして満州国軍は蘇連参戦前既に統一ある国軍としての存在を失ふ如く処置されたるも、蘇軍の満州侵入を見るや十年余に亘り育成し且多数の日系軍官を有し又要所には日本軍人の顧問を配置せられありたる満州国軍隊は其の大部反乱するに至りたり
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C14020825500(4画像目)

 終戦後から、段々と満人は日本人をいい目で見なくなりました。「ざまあ見ろ、お前たちは、満州に来て、畑や牛や馬を取り上げた報いがきたのだ」と言っていました。怒るのも無理はないとも思いました。
 しばらくたったある日のこと、団長さんが開拓団のお金とピストルを持って、開拓団本部から逃げましたが、逃げる途中で満人に襲われて殺されたそうです。(296頁)
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 九月一日非番の夕方欠勤者の代わりに出番を頼まれ出勤、翌朝異状なく交代し六人で帰宅、途中東関町の広場に大勢の中国人が集まっていたが、何も知らないので群衆の中へはいっていったら、日本人だと襲いかかって来たが相手は大勢であるし、とっさに今来た道を引き返したら銃声とともに前の一人が倒れたので近寄ろうとしたら、後ろから押された感じと共に背中に熱い激痛が走った。友人は足を撃たれて歩けないから早く行けと言う。・・・中国人数人が石を投げつつ追って来て事務所の硝子戸に投げ付け破片が飛散し、もう逃げ場もなく机の下にもぐって観念した。そのときはじめてワイシャツが真っ赤になり呼吸すると、ジュクジュクと泡が吹き出るのに気づいた。机の下から引きずりだされ手を逆手に取り登山ナイフで切りつけ外に連れ出された。首実験でしょう。十数人で色々と問いかけられ中国人街を
一周、十メートルほどの橋を渡ると日本人住宅、やっと来たと思ったら背後から棍棒で頭部を一撃、腰を槍で一突きその場にバッタリと倒れ真っ暗だったが橋さえ渡ればと必死で這おうとしたが動けなかった。
 またガヤガヤと人の気配がしたと思ったら、路地に引きずられ棍棒で体中たたきつけられた。(24・25頁)
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 八月二十二日から二十五日の間、暴民が発生、日本人に対し「我々中国の地において得たものは一切持ち出すことは許さない。速やかに物資財産を放棄し撤退せよ」罵りながら鍬、鎌、熊手などを持ち、爆竹を鳴らして日本人を包囲した。
 私は無我夢中で日本刀を振りかざし暴徒の真っ只中に突っ込み、満州国警察隊の発砲などで五人の日本人犠牲者を出したのみで大暴徒を撤退させた。・・・
 その後、日本人に対し何千人という暴徒が襲ったので屋外に着の身着のままで難を逃れ、公園や小、中、女学校に逃れ不安そのもので、暴徒は日本人の家庭に侵入し食糧や物資を奪い放題の実情を見せつけられた。(165頁)
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ほとんど着のみ着のまま赤ん坊を背に、あるいは子の手を引く集団に暴民が鎌や棒を持って迫りくる。途中、全員手をとり合って腰までつかる川を必死で渡る。のに婦女子を目がけて略奪が始まる。犠牲者は出なかったが、子らはおびえて泣き出す、みんな恐怖に包まれ、黙々として歩き続ける。(172頁)
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寮の裏門を出た二人は、たちまち五〜六人の中国人に囲まれつかまった。腕時計などを略奪され、待機中の荷馬車に乗せられた。・・・私は山内五郎君と小声で打ち合わせ、機を見て逃げることにした。馬車を飛び下りた二人は、一気に走った。満州人二〜三人が後を追ってきた。(146頁)https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/hikiage/08/H_08_145_1.pdf

もう何日もどこを歩いているのかもわからずに、泥水を飲み、畑でカボチャを見つければそれをかじり、満人に追いかけられては無我夢中で逃げたりしました。もう日本人のほかは、全部が敵でした。
 草に伏したり川柳の下に潜んだり、夜、敵が近づいてくれば息を殺し、「子供を泣かすな!」と言われ、泣けばその口をふさいでじっとして過ごしました。あ
まり長い時間そうしていたので、子供をそのまま死なせてしまった人もあり、悲惨なことばかりでした。(42頁)
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 満人に襲われることが度々あり、持っていたわずかばかりの荷物も次々と奪われてしまい、悲惨な避難行となってしまいました。
 部落の近くを通るときは、「子供を泣かすな! 子供の口を押さえて早く歩いて部落を通り抜けろ!」と言われて、懸命に通り過ごしました。・・・
 満人部落の前を通るとき、部落の人に気づかれると鎌や梶棒を振って追いかけてきて、逃げ回る人をたたき殺して着ている物をはぎ取り、持っている荷物を奪ってゆくのです。そんなことを繰り返しながら歩いているときに(72頁)
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八月二十三日泰平部落襲わる。
無条件降伏後、わずか八日ほどで、本部より一番遠い十四キロばかり北西の泰平部落が最初に襲われたのであった。この泰平部落にはさいわい中年以上の男が多かったので、苦もなく満人を撃退して全員傷つくことなく済んだのであったが・・・

八月二十六日頃、夏目幸夫さん惨殺さる。
・・・總本部より自分の部落へ帰る途中に土地接収したところの満人に襲われて体中傷だらけになって創傷十八か所、全身蜂の巣になって死亡したのであった。(43頁)
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そこをしばらく歩くと、満人部落があり、部落の近くに来た時に、後の方で銃声が聞こえたので、振り向くと満人が五、六人大きな棒を持って追いかける姿が見えたのである。逃げ回る日本人を叩き殺し、着ているものや、荷物を取るのです。(106・107頁)
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マッチや塩がなくなると、満人の部落を探して二、三人で押し込み盗んではまた山へ帰っての生きざまだった。
 夜の行動と昼の行動は同じくらいだった。八月九日に山に入り、十月四日の最後の襲撃を受けて手を挙げて里へ下りるまでの二か月の間に大小八回ほどの満人達の襲撃を受けたが、その都度何人かづつ殺された。(62頁)
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先頭である私達は六時間ぐらいで奉天に着きましたが、あとで話を聞くと、後続のグループは現地人による暴徒が、大きな鎌等で襲撃して物を取り上げたりして、また数人の人が殺されたとのことでした。(26頁)
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街で立売りをしていると、満人の子供が「日本人の馬鹿野郎」と馬鹿にして屋根からどんどん物を投げるのです、悔しいけれど、負けたのだから仕方ないと思いました。(21頁)
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この人達が東満から逃避するときは、二十人以上だったそうだ。四台の馬車で部落を脱出したが、途中馬車を奪われてバラバラになり、八人で山野をさまよい続けた
が、再び満人に襲われて命からがら逃亡中、鉄道線路に出たので一休みしているうち、この貨車が通ったので夢中で飛びついたそうだ。(46頁)
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一週間ほどかかって、ずぶ濡れになりながら五常に着きましたが、避難民でいっぱいで、どこの宿舎に入るか決まらないのです。その間にも、鉄砲を持った満人に襲われ、私は飯盒一つ残して、持っているものは全部失くなってしまいました。(122頁)
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 私の家は、撫順市の西一条通りで、支那町に一番近い所にあった。会社の社宅で、六十戸いっぱいだった。敗戦によって満人の態度が一変し恐ろしい暴動が、起きた
 私どもは、社宅の屋根裏の梁の上に息をひそめ腰かけて、何時間も何時間もかくれた。飲まず食わず、こどもたちの口をふさぎ、小便はそのまま屋根裏でした。ひょっと見ると、この社宅目がけて、ワーッと五、六百人の満人が暴動に出た。大事に大事に持って来た全財産をひったくっていく。ふとんが出る!ミシンが出る!箪笥が出る!ラヂオが出る!洋タンスが出る!満人の心の浅ましさ、しまいには、畳、フスマ、障子、床板までとりこわした。こんどは命が危ない。飲まず食わず裸一貫で本社のある松岡町の独身寮へ夜中逃げ出した。・・・
 びっくりびっくり社宅の入口には、日本刀を持った満人がはり番している。裏口からそっと入ったら我家はどこかという見当もつかず、畳も床下もない。ピーッと笛が鳴った。私ども日本人をみつけて追っかけてくる。日本刀をふりかざしもうすぐもうすぐ。そのときの恐ろしさと足のはやかったこと。プイと日本人社宅へ隠れた。その後同僚は逃げおくれ、一太刀を首にまた一太刀は腹をつかれ近くの防空壕へほうりこまれていた。私どもは、皆で首へガーゼをつめ腹へ白布を覆い奥さんの所へ運んだ。こども二人を抱えての生活は残された者の苦労はどんなに、みじめで、あったろうか。
 独身寮の生活は、みじめであった。日本人に米よこすな、食料品を売るなという命令で毎日毎日馬の飼料そっくりの高梁と、じゃがいもとにらだけの食事の連続だった。・・・
 とうとう撫順炭鉱の露天掘りへ働かされた。米一升と一か月の給料は同じであった。生活苦のためコークス(石炭の燃えかす)を少し持って帰り燃料代わりにしようと思った所を満人の検査にあい銃剣で頭をたたきのめされ、九死に一生を得た。(37・38頁)
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そんな状態の中で開拓団は、満人の集団掠奪を受けた。目ぼしい物は持っていかれ、私も軍服、軍靴、背嚢と無くなっていた。(7頁)
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この間、満人、満軍の暴動、暴行が発生し、日ソ開戦と同じに満人たちの家屋の軒々にはたちまち赤旗がひるがえった。満人たちの過去の歴史からの処世感覚からだろうか。とにかく、変心の速さに驚くと同じに、憤りを覚えた。(97頁)
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十八日未明、暴動がおきてわあわあと云う声が聞えてきます。そのうち、鉄の棒を持った満人、子供も女も一緒になって何千人とやってきました
 社宅をこわし、中の品物、食糧を次から次にと持って行きます。最後は、天井裏、床板まではがして持って行きます。・・・
 途中、梅河口の駅より乗った日本人は持っている物はとられ、着ているものははぎ取られ、男はパンツ一つ、女は腰巻一つでした。(121頁)
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日本人避難民が国境の各地から新京に宿を求めて歩いてきたところを、中国人の暴民が襲いかかり、少しばかりの着物を引きはがすやら、中国人同士でその着物を奪い合うありさまは、まさに地獄でした。(150頁)

ある中「満州事変で中国は日本に侵略され、土地家屋は没収され、中国人は流浪し、あるいは戦場に、罪もない婦女子までも刑場に、肉親とも引き裂かれて、満州国の十三年間を苦しみ生きてきたのだ、今の日本人以上だ」と言っていました。敵愾心を持って快く思わずに危害を加えてくる暴民の言い分でした。(154頁)
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途中、二組の日本人引揚団体が、暴民に持ち物を取られているのを助けながら歩きつづけ、重慶軍と八路軍が対じしている第一線を突破して安平に到着しました。安平駅には何十とも知れない引揚団体が持ち物を全部取られ、空のリュックサックを背負って列車を待っていました。
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駅に汽車が止まるたび銃を持ったソ連兵、暴徒の満人が扉を開けさせて押し入り、現金や貴重品などを強奪する様子は、戦国時代の昔はこんなだったのかと思わせる状況でした。(10頁)
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八月十二日朝、家で使用している満人の馬車に親子四人で乗る。・・・弥栄駅には次々に村の人たちが集結してきた。一方では早くも満人が農協倉庫に入って、物品を持ち出す事件も起きた。(7頁)

毎日空きっ腹を抱え、虱にせめられていて、満人の子供に石を投げられても何も抵抗できない私たちは、哀れそのものであった。(136頁)
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綏稜出発から四日目の十月二十一日、私たちを乗せた貨車は、ようやく新京駅に着いた。駅から難民収容所までの街路は、見物の満人の群れで一ぱいであった。貨車到着ごとに、哀れな姿の引揚者に浴びせる罵声や冷笑の中を、私たちは屈辱に耐えて、ただ黙々と歩いた。(141頁)
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(敗戦の)翌日には早くもソ連兵が侵入して来たとの噂もあり、研究所で働く満人たちも集団で事務所へ押し掛けるなど、不穏な空気が高まってきた。
 夜になって、奉天駅付近に群衆のざわめきが起こり、一部に火の手が上がるなどするので、不審に思って偵察に出ていた同僚の話では、武装解除した日本軍の武器弾薬が貨車に積まれて駅に集められたのを、暴徒が全部持ち去っているとのことであった。その夜から方方で銃声が起こり、銃弾がうなりをあげて飛び交うようになった。・・・
 翌日からは、銃弾が宿舎の窓硝子を壊すようになり、何者かが私たちに挑戦していることがはっきりしてきた。・・・満人の呼び声がするので、窓から外を窺ったところ、宮田教官と相談に行った研修生三人が後ろ手に縛られ、軽機関銃と小銃を持った二人の満人暴徒にうながされて防空壕の土盛りの上に座らされていた。暴徒は我々に向かって何やらわめいているが、何を言っているのかさっぱり分からない・・・
 その翌日、ソ連軍の使役として奉天駅近くの糧秣倉庫から米を運ぶことになり、大車を引いて部隊を出発した。・・・糧秣倉庫についた途端、暴徒の一斉射撃を受けて(164~166頁)

日本兵士の中に岐阜県出身の人がいて、常々励ましの言葉をかけていただいた。いよいよ別れというときに「無事日本に帰国できたら、これを家族に渡してほしい」と写真に住所氏名を書いて預けられた。名刺入れにはさみ肌身放さず持ち歩いたが、うかつにも奉天市内で満人に取りかこまれて上着もろともはぎ取られてしまった。(168頁)
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チャムスの街から、北へ六キロほどのところに、日本人の経営する農事試験場があった。ある日そこを通り抜けるため、四千人ほどの隊員が試験場にさしかかったら、素裸の日本婦人八人、年令三十代の女盛り、顔は真っ青になって泣きながら助けを求めて来た。皆を毛布で巻き、落ちつかせてから事情を聞いた。すると、男一人もいない日本人婦女子ばかりの開拓村へ満軍兵士と一般人男子が数千人やって来て、生きたまま婦人や子供たちを手当たり次第に井戸の中へ放り投げている、それに時分〔ママ〕たちも人の面前で何十人もの中国人に暴行を受け、すんだら向こうへ行けと日本人部隊を指して追い払ったと、がたがた震えながら語った。
兵隊さんたちこの姿を見てくれと、泣き叫ぶ彼女たちを見て、血気盛りの日本軍人はたちまち血の気が逆上、隊長から「あの部落、一軒残らず焼き払え」との命令
が下った。兵は一斉に行動開始、藁葺きの家に石油をかけて次々火をつけてまわる。中から住民が、男女子供と飛び出す。それを追いかけ、とっつかまえて、燃
える炎のなかへどんどん、二人一組になって投げつける。炎の中で曲がりくねって人は燃えて行く。血も情もないこの惨状をなんに例えよう。(340・341頁)
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南満州国奉天駅で、八月十五日午後一時頃に、駅長さんに(敗戦を)聞きました。それで下車し、奉天在住の親切な日本人の方のご厚意で、五日間、百人ほどの東安組がお世話になり、食事は交替で給食センターのような所へ毎日取りに行きましたが、駅前で満人の暴動が起り危険なため中止いたしまして、各自持参の食料を出しあって食事をいたしましたが(149頁)
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私の妻は、敗戦時には牡丹江高等女学校の一年生に在学中だった。義父幸吉は、特高(特別高等警察)勤務だったため、敗戦後間もなく、満人の密告によってソ連兵士にら致されてしまった。(250頁)

過去四十年にわたって植民地支配者として君臨してきた日本人と、従順な僕としてあごで使われてきた満人との立場が、敗戦を契機としてまるっきり逆転した。彼らは手のひらを返したように豹変し、我々に対してことあるごとに高圧的な態度をとるようになった。
 街中では人民裁判と称して、一人の日本人男性を大勢の満人たちが取り囲んで、戦時中の彼の行動を異口同音に口汚く誹謗して集団報復の暴行を加えていた。(251 頁)
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/hikiage/10/H_10_246_1.pdf

北満の吉林省老来駅下車し、左に二十四キロの地点が三頭山開拓団の位置だ。・・・団員は教養のある者が少ないので、理想開拓団の設立など考えていなかった。自分の利欲のためにだけを追求していたので、円満な運営ができていなかった。満人を馬鹿にし、侮辱するのにはおどろいた。私は、満人と協調しつき合っていたので、「先生先生」と信頼された。(31頁)
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新京はソ連軍の侵入後、関東軍の後退と満軍の反乱、政府機能は無力化し、無政府状態におちいり、暴動の街新京になってしまった。・・・
 翌(1945年8月)十八日、社宅に満人の暴民が集団で押しかけてきた。ソ連兵は機関銃の実弾で社宅の錠を壊して、土足で侵入、金品の見さかいなく取上げる。婦女子は辱められた、これを制止した我々が射殺されかかったので悲憤の涙をのんでとり止めた。(30頁)

当時市内は物情騒然たる有様で、奥地から着のみ着のまま荷物を背負い、幼児の手を引き在留邦人が引き揚げて来る姿、満州国軍の反乱、民衆の暴動、殺人強盗、食糧飢餓、火災発生など戦々恐々の状態であった。(56頁)

貨車の上で、終戦のお言葉を聞いた。ハルビン駅では満軍の反乱があり、遠く山岳地帯には銃声がこだまし、駅の構内は満軍に占拠されて近寄れないとか、大変な混乱ぶりだった。(28頁)https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/yokuryu/10/S_10_027_1.pdf

(1945年)八月十四日の夜半、「直ちに所期の任務を決行せよ」との命令が下った。任務とは十五日夕か十六日早朝に南新京でソ連戦車を攻撃することである。翌十五日未明、班員三十人は悲壮な見送りを受けて粛々と営門を出発し、爆雷受領のため新京市内にあった満州映画株式会社の社庭に向かった。・・・夜になると満軍の反乱が起きたとかで、新京市内から火の手があがった。・・・
 八月二十二日、部隊は范家屯という部落で武装解除を受け日本兵は丸腰になった。この部落には砂糖大根を原料とした大きな製糖工場があったが、中国人はこの工場の高い塀の上に登り、手に手に「青天白日旗」を打ち振り、万歳を叫び、武装解除を受けた我々を罵倒し熱狂していた。(232・233頁)

上品な日本の老婦人が毎日立ち読みに来た。「すみませんねえ、買いもしないで」と遠慮がちに言いながら、実に楽しそうに読んでいた。その老婦人が十日ばかりしてぱったりと姿を現さなくなった。後で分かったことだが、その老婦人は金歯をしていたので、中国人の暴徒に襲われて三つに斬られて金歯を奪われたそうだ。(240頁)