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タイは親日という主張をたまに一部でよく聞くが、では戦前はどうだったのだろうか。ちょっと詳しい人でも「日本とタイは当時同盟を組んでて」ぐらいの知識だろう。以下当時の実情に関する資料。
十二月二十七日第三回連絡懇談会 ※1940年
泰及仏印に対し採るべき帝国の措置の件

一、出席者 総理、平沼、陸、海、外相、総長、軍令部次長
二、外相発言
1,松宮大使の意見に依れば対仏印施策には武力的威圧を必要とす強硬態度を採るべし
2,泰勢力英米七割、日本三割、強力施策の要あり
3,仏印は松岡アンリー協定にて我を馬鹿にして居る爾後若干強硬態度を採るべし
経済交渉は案外まとまるかも知らず

四、総長発言
対仏印、泰強硬態度を採るに於ては南方施策全般に就き確乎たる腹を前提とす腹決定せざる場合は慎重なるを要す
軍令部次長同意を表すhttps://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C12120245900
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一月十九日第五回連絡懇談会の概要 ※1941年
(泰、仏印紛争調停に関する緊急処理要綱の件)

其一
四、松岡(洋右外相)曰く
(イ)本案は考慮研究すべし
(ロ)英米に対し大なる刺戟を与ふることなきや果して可なるや
(ハ)本案の見透は疑問なり或程度の得することあるべし
(二)泰に対する効果は同国が英国と深い関係ある故期待し難い
(ホ)(以下省略)

其二
二、松岡発言(ロバン元仏印総督との会談内容説明)
三、ロバンとの右会見状況を説明したる後松岡更に発言し・・・ピブン(タイ首相)に対し義務付けとなる様な軍事協定は従来の如き(タイへの)援助の程度を以てしては成立不成功と思ふ次第なり
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極秘進展 昭和一九、五、二六
電報 五、二四 二二三〇発 二五、二二二一着 二五、二二四〇受付 二六、〇一〇〇提出
通電先 次長、次官、威 義部隊参謀長
義参電第一八一号

最近に於ける泰国の情勢判断
判決 
泰国は最近の情勢に刺戟せられ日泰同盟を基調とせざる独自の国防計画を樹立し逐次其の実行を促進しあるものの如し

説明
一、泰政府大臣は最近屡々重要会議を開催日泰同盟を基調とせざる独自の外交方針を樹立し泰の独立保全、防衛並に外敵に対する攻撃計画を立案し着々其の準備を進めつつあるの情報を得たるのみならず日本軍に対する偵諜は益々執拗となれり。時偶々緬甸及ニューギニヤ方面に於ける日本軍の情勢を謀知し枢軸側勝利の前途に疑懼を懐けるものの如し。
又折柄在泰日本軍の大部が挙げて緬甸方面に転進し其の兵力微弱なることを知れる為か一層右計画を促進しつつあるやの感あり。

二、親英米派の巨頭アドン警察大将は落下傘諜者訊問に名を藉り英米との秘密連絡あるものの如く親日派に対する圧迫対日政策妨害等特に最近活発となれり。
泰今後の動向には深甚の注意を要するものあり。

三、今回のワニットの怪死事件は其の死因に就て泰側と争ふ事の得策ならざるは前電の如くなるも坪上大使より再三取扱に就き申入ありたる彼を死に至らしめたる責任を追及するの要ありと考ふるも之に依り日泰関係を明朗化するか又は一層紛糾せしむるかは予断を許さざる所なるも日本軍の目下の情勢を知れる彼は或は反抗的態度に出ずるなきを保し難く右強抗態度を採らんとする時は相当の実力を準備するを要すべし。
又ワニット怪死事件と同時に駐日大使ウィジットの召喚を発電せしことは時局柄重大意義を有するものと考へらる。
之を要するに最近に於ける泰国の動向は予断を許さざるものあり。
軍は最善を尽して之に善処し対泰国施策に遺憾なきを期しあり。以上参考迄(終)

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発来電綴(写) 其6 大本営 自昭和19年1月至昭和19年12月(3)
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大本営陸軍部戦争指導班「機密戦争日誌」

昭和15年12月27日
二、泰及仏印に対し取るべき措置連絡会議に於て決定す
右席上外相松宮大使の意見として左の如く説明す
1、武力的威圧を必要とす
2、泰勢力英米七割日本三割速に交渉を必要とす
(以下略)
総長発言
対仏印、泰強硬態度を取るに方りては南方施策に確乎たる肚を必要とす未だ肚決定せざる場合は慎重なるを要す



昭和19年5月16日火曜
一、秦次長南方出張間に於ける各軍司令官連絡要旨
3、泰(※タイ)軍司令官(中村中将)
(イ)、泰は過度に圧迫せば重慶に趨(はし)る虞(おそれ)あるを以て適当に手心を加へあり
(ロ)、泰国駐屯軍は師団よりも独混を可とす(防備体制には有利)
(ハ)、遷都に関しては空襲に対する恐怖以外他意なきを以て懸念の要なし
(二)、海軍は陸軍と対等に要求す中央にて考ふること

6月1日木曜
一、泰国駐屯兵力は目下二ケ大隊なり、泰の政情にも鑑み有事の際即応する為仏印マレーに対し準備を命じあり

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サンホゼ州立大学教授E・ブルース・レイノルズ博士「帝国陸軍と日泰同盟」(新藤裕之抄訳)防衛省防衛研究所 戦史研究年報 第2号(1999年3月)

ピブーン(タイ首相)は、日本と交渉しながら併行して英米にも対日抑止行動を密かに要求し続けていた。十一月二五日という遅い時期に至っても彼は英国公使ホザイア・クロスビーを相手に、タイが侵略を受けたら英米が対日宣戦を布告する、と英米が共同で声明するように要請し、あるいは英国の単独声明でもいいと訴えた。(74頁)

十二月八日の日泰交渉において、タイ側は防守同盟及び全面的軍事同盟の両提案を拒否した。そして、日本側の最低限の条件しか認めない姿勢を取った。つまり、日本軍の領内通行権の承認と、日本軍への便宜供与である。(75頁)

日本がタイにおける軍事支出をタイ政府からの借金で賄ったこともあって、様々な品不足が発生し、物価も急上昇した。(77頁)

とうとう(1942年)十二月中頃に日本軍兵士がタイ人僧侶にビンタを加えたことが原因となって、タイの一般市民の間にいわゆるバン・ポン事件という暴動事件が発生し、日本兵六人を含む死傷者が双方から出た。・・・南方軍はバン・ポン事件の処理についてピブーン政権と交渉を始めたが、僧侶の処刑という南方軍の要求を巡って両者は対立し、交渉は難航した。(78頁)

(1944年)新しく成立したクアン・アバイウォン政権と良好な関係を築くために、日本は大東亜省次官山本熊一を、新大使としてバンコクに派遣した。・・・しかし、クアンが日本側の機嫌を取っている間に、(元内相、外相、財務省など歴任した)プリーディは連合国との接触を秘密裏に開始していた。一九四四年秋に英国及び米国の諜報機関と接触し、連合国の協力を得て自由タイ地下組織を作り始めた。(80頁)

山本が一九四五年五月二四日付けで本省に宛てた電文において、日本の軍事行動をタイが経済的及び物質的に支援したために、タイは高度のインフレに苦しんでおり、またこれが一つの原因となってタイが対日協力を渋っていることを指摘した。タイを武力で制圧しようとすればタイ側は抵抗するであろうし、他の戦線で必要とされている日本の兵力がタイで消耗されてしまうであろうことも述べ・・・山本の意見は受け入れられた。七月十七日、最高戦争指導会議は「現下の情勢に於ては泰国に対する武力処理は之を行はざるものとす・・・」と決定し、さらに現地に、武力の行使がやむを得ない場合はその規模・範囲をできるだけ制限するようあらゆる努力をするように、という指示も出された。(80頁)

一九四五年の七月から八月にかけて、自由タイ組織が極秘裏に建設したとされる数個の飛行場を巡って、日本側とタイ側は対立した。日本側はタイ側に地下組織の活動を察知していることを知らせ、現地査察、あるいは飛行場の破壊を申し入れたが、タイ側は時間稼ぎをしながら、問題の地域からゲリラを撤退させた。痺れを切らした日本側は飛行場を八月上旬に襲撃する計画を進めた。(81頁)

(八月)十四日になると、日本の敗北はバンコクで公の話題になっていた。一部ではお祭り騒ぎが始まる一方で、タイ指導部は日本の出方を不安な気持ちで見守っていた。タイ側は、日本軍が敗北を大人しく受け入れるとは限らず、「不忠な」同盟国タイに対して鬱憤を晴らすための暴動を起こす可能性があると見ていた。(82頁)
http://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/199903.html

吉川利治「タイ国ピブーン政権と太平洋戦争」東南アジア研究19巻4号1982年3月

公使館付武官、田村浩大佐は1941年4月16日に、「(1)タイ国における日本の影響力はあてにならない。(2)大英帝国が敗れるだろうとは、タイ人は一般に信じていない。(3)(タイ・仏印)国境紛争調停の日本の努力にタイ人は感謝していない。(4)日本側からの軍事同盟の申し出は可能な限り延期すべきである」という内容の報告書を陸軍省に送っていた。(370頁)

(1941年)11月26日の閣議では、ピブーン(タイ首相)が「日本人自身がタイ国内で悶着を起こしているのです。円の札びらで支払ったり、女性の胸元にタバコの吸殻をつっ込んだり、日本人は尊大ぶるのです。日本の天皇の映画をタイ国で上映しようとすると、日本人は自分たちの崇拝の対象であるから、駄目だというのです。日本の大使でさえ、日本人はどこへ行っても日本にいるような態度をとり、他国民の文化を認めようとしないといっているほどです。いまやタイと日本とのincidentはずい分増えました」。大使館の田村報告もこれを裏付けるように、調停後の日本への感謝の気持は急激に冷え、1941年秋には日本人は非常な嫌悪感を持ってみられていると伝えた。・・・ピブーンは7月31日にひそかにイギリス公使Crosbyと会見して、日本からの圧力を語り、8月9日にはアメリカ公使Grantと会見し、日本に対抗して積極的な行動を期待すると語った。(371頁)

11月20日には(ピブーン首相は)イギリス公使と会見し、イギリスがタイの防衛にあたってくれるかどうか打診し(372頁)

(開戦前日の12月7日)坪上(大使)は、今日、日本は米英に宣戦布告することを決定したと告げ、日本の敵であるビルマとマラヤのイギリス軍を攻撃するため、どうしてもタイを通過させてほしいと述べた。ディレーク(副外相)は、タイは中立国であるから、どちらの側も支援できないと答えたが、坪上は、陸、渇、空路をどうしても通過しなければならず、許可を求めたいのだと答えた。

(開戦当日の12月8日)首相官邸にピブーンが入るや否や、日本側はピブーンを取り囲み、日本軍の通過を認める回答を即刻ほしいと訴えた。ピブーンは、国の存亡にかかわることであり、閣議で審議して、国王陛下の政府として、返答すると答えた。すると浅田領事はドアを足げにして閉め、提示する協定文の写しを床に投げ付け、日本軍はぐずぐずしておれぬ、と威嚇し、どちらかにサインせよと迫った。(タイの国際貿易局長)ワニットは気が動転し、日本人はタイ首相に敬意を表さない、と泣き出した。そして日本軍がこんなことをしておれば、全ての企てが烏有に帰すと叫んだ。ピブーンが階段を上がろうとすると、守屋がピブーンの腕をつかんだので、ワニットはそれを離そうとした。すると守屋は軍刀に手をかけた。プラユーン・パモーンモントリー大臣とチャイ・プラティープセーン大佐は階段のかたわらにたって拳銃を用意すると、坪上が中に割って入り、ピブーンに30分の時間を与えた。(375頁)

(日泰攻守同盟条約の)の条約調印後、バンコクを初め日本軍の駐屯する地方都市には、日タイ合同委員会とその支部を設けて、日タイ問の連絡の窓口とした。日タイ合同委員会はその後、友邦連絡事務局と改称したが、日本兵の乱暴狼藩の訴えを処理する局となったからであろうか、皮肉にも本来の意味とは全く逆の“抗日局”と一般に呼ばれるようになった。(377・378頁)

1942年10月以来、カーンチャナブリーに司令部を置いて、タイ・ビルマ(泰緬)間鉄道建設に従事していた鉄道第9連隊の一隊が、12月19日、同じ県のバーンポーン郡警察と銃火を交えるに至った。ことの起こりは日本軍のタイ僧侶に対する不敬事件であった。(381頁)

1943年11月5日、東京で大東亜会議が開催され・・・タイ国ピブーン総理の出席が懇請されたが、ピブーンだけは心臓病があり医師のアドバイスがあるためと、出席を固辞した。・・・ピブーンはワンワイ親王を代理として出席させた・・・ワンワイ親王は・・・「日本は『大東亜共栄圏』なる政策を推進しているが、一体何を意味するか誰にもわからぬ。まして日本語で『八紘一宇』といって、同じ屋根の下にいるのだといわれても、ますます何のことやらわからなくなる」と、すでに日本の抽象的な政策スローガンのわかりにくさを批判していた。(383頁)

1943年12月、ピブーンはチラ・ウィチットソンクラーム陸軍中将を北部タイ方面軍司令官に任命し、雲南国境での重慶軍との連絡を指示し、その結果、数回の接触が行われた。司令官が替っても連絡は続けられ、タイ側は重慶軍に、連合軍にも連絡して、タイ側の意向を伝えてほしいと要請した。(384頁)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tak/19/4/19_KJ00000133800/_article/-char/ja/

泰作戦記録
昭和二十六年九月調製
復員局
「註」
本記録は元第三十九軍(第十八方面軍)参謀陸軍大佐小西健雄が主として本人の記憶に基き記述した資料を基礎とし復員局資料整理部に於て編纂したものである

第一章 日泰両国の関係
第二節 太平洋戦争開戦前後に於ける日泰両国関係の概要
開戦直前に於ける泰首相ピブン氏の動向には微妙なるものあり。対日感情は前節に述べたる如く、友好てきなるものありと雖も、太平洋戦争に於て日本が果して英米に勝ち得べきや否やの判断に迷ひ、過早に日本側に加盟することを躊躇せるは蓋し弱国の立場として当然ならん。対英米開戦に先だち日本より泰国政府に対し外交折衝を行ふことは開戦企図を暴露するを虞れ、開戦劈頭、一兵団を首都バンコックに無血進駐せしめ一挙に我が陣営に加盟せしめんとする方針を確定せられたり。
第二十五軍司令官の隷下に在りし近衛師団を一時第十五軍司令官飯田中将の指揮下に入らしめ、陸路泰仏印国境を突破して泰国に進入したるは概ね第二十五軍主力のシンゴラ上陸と時を同じくせり、即ち十二月八日〇三〇〇頃進撃を開始せる近衛師団は直路バンコックに急進し、途中殆んど抵抗を受けることなく同日夕刻までに首都に進駐せり。南泰に奇襲上陸せる第二十五軍主力は同日未明より正午頃迄に亘り、泰国軍警との間に局部的衝突を惹起し、彼我共に若干の損害を出したるも、遂にピブン首相をして、我が要求を全面的に承認せしめ、次いで十二月十一日坪上大使とピブン首相との間に意見の一致を見、所要の手続きを終り十二月二十一日午前十時、日泰同盟条約を正式に調印発表せり。

第四章 第三十九軍の作戦準備
第二節 昭和二十年初頭策定せる軍作戦計画の大綱
昭和二十年一月策定せる泰就中中部泰を安定確保し手南方軍の兵站基地たらしむ。
五、泰国軍警の背反に対する措置
日本軍の戦績不振に伴ふ自由泰系の策動は漸く活発化し来れり。就中警察局長アドン中将は窃かに下野中のピブン元首相と気脈を通じあるの情報に鑑み、泰国の背反を予期して左の如く準備す。
(一)泰国政府要人に対し、その行動を厳重に監視す、(憲兵及諜者をして終始尾行せしむ)
(二)隷下、指揮下各部隊長に対し、万一の場合は各々所在の泰軍警を武装解除すべく、情報収集に遺憾なからしめ、為し得れば背反に先だち機先を制してその武装解除を断行する準備を整へしむ。
(三)泰国軍特に空軍と英米軍との密楽を防止するため、秘密飛行場の捜索、無線探知を強化す。

第三節 情勢に即応する作戦準備促進の概要
四、秘密飛行場掃蕩計画
昭和二十年五月初頭緬甸方面軍はラングーンを失陥し今や泰は直接第一線に暴露せんとし泰国政治経済交通の中心たる盤谷周辺地区は敵空挺兵団の直接攻撃に対し厳戒を要するに至れり。
泰国内の敵側秘密飛行場の設定も亦進接しつゝあるを以て最悪の場合に於ては、敵空挺の進攻を受くるものと判断し、軍は、幕僚をして偵察せしめたる所略々その所在を確認し得たるを以て、泰国側に通告し、同盟条約の誠実なる履行を迫りたるも、泰軍首脳は、その所在を否認せり、(果して関知しありや否やは不明なるも少くも泰空軍の一部少壮将校が之に連絡を有することは確実と判断せられたり)
此に於て、万一の場合を考慮し、日本軍独力を以てする掃蕩計画を立案せり。その要旨左の如し。
(1)先づ確認せる主要飛行場(サコンナコン西南方約五十粁付近)を南北両方面より奇襲占領す。
(2)為之近く仏印より増加せらるべき第二十二師団の一部(歩兵一連隊砲兵一中隊工兵の一部)を以て、タケクよりメコン河を渡り、西南進せしめ、盤谷付近駐屯兵力の一部(歩兵第六十一連隊の約一大隊)を鉄道によりウボンに輸送し、ロイエト方面より北進して策応せしめ、企図を秘匿しつゝ一挙に九州して秘密飛行場を覆滅す。
(3)軍主力は、これを契機として起り得べき泰軍警の背反に備へ、大群警の武装解除に対する準備を周到ならしむ。
(4)掃蕩実施は、南方軍全般の企図に重大なる影響を及ぼすべきに鑑み、その時期は南方軍の指示を待ちて発動するものとす。
(5)その他の未確認飛行場に対しては捜索を続行す。

六、情勢切迫に伴ふ作戦準備の促進
昭和二十年六月上旬に於ける軍の作戦準備は単に兵団を、所望の地点に配置し、主として国境方面に於て軽易なる防御陣地を準備するに過ぎざりしが、情勢は急速に悪化するの徴候あるに鑑み、六月上旬末、左記の如く作戦準備を促進せり。
(一)盤谷周辺及内部の防衛設備を強化し、泰国軍の背反を未然に封殺し、最悪の場合に於ても盤谷防衛隊は、優勢なる敵の包囲に対し孤立して少くも約三個月間盤谷市の要点を確保し、軍攻勢の支撐たらしむ。

第五章 第十八方面軍の作戦準備
第二節 昭和二十年七月中旬策定せる方面軍作戦計画大綱左の如し
作戦方針
二、泰国軍に対しては為し得る限り同盟軍として我に共同せしむるに努むるも、最悪の場合に於ては機先を制し、背反の意図を破摧す。
第三節 作戦計画に基づく作戦準備促進の概要
一、防衛促進に伴ふ泰国側の態度
昼夜兼行にて七月上旬までに概成せる陣地設備を引続き増強せる結果、泰側に於ては、一部に不安動揺の兆を認められたるにより、軍は七月中旬泰側軍政の指導者及民間の一部に最も堅固に設備せる鉄道連隊の陣地を後悔見学せしめ、日泰同盟の精神により泰側に於ても米英軍の進攻に対する準備を促進することを示唆せり。
その真意は、飽くまで同盟の信義を守り敵をして窺窬するの虚隙(?)ならしめ、泰国をして戦禍より免れしむるに在る旨を強調せり。その結果は、泰国側の誤解を一掃すると共に背反を企図しありし一部の軍人に恐怖の感を与へて断念せしむるの効果を収めたるものの如し。
七月上旬泰国首相アバイオンは日本軍憲兵の尾行を感知して激怒し軍司令官及山本大使を官邸に呼び日本軍が尾行を付したる不信義を難詰し、辞職せんとせしが、情勢切迫の危機に於て政変を惹起することは、それを契機として泰国軍警の背反を誘発するの危険あるに鑑み、軍は虚心垣〔ママ〕懐にその非を陳謝して漸くアバイオンの辞職を翻意せしむるを得たり。

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市川健二郎「第二次大戦下のタイ社会」1971年

(1941年)7月には大蔵事務官愛知揆一(前外相)らが渡タイし、資源買付けのための3500万バーツ借款(在外日本責産凍結直後のため)を要求した。これに対してアドゥンAduL副総理、ディレク外相らの反日派閣僚はその買付け協定が特命全権大使の調印を経ず、ワニットVanit Ponanand貿易局長(親日派)の調印によるものだと称して引延し作戦に出た。また政府は10月にバンコックを無防衛都市として宣言し厳正中立国の立場を表明したが、部内の親日と抗日の意見は開戦当日までまとまらなかった。(82頁)

当時日本側をいらだたせた問題は日本軍のタイ領内通過作戦についてタイ 政府の態度が判明しない事であった。タイ政府は表面では友好親善を唱えながら、他方ではロプブリ陸軍基地、サタヒープ軍港、コラート、ウポン、ワーリンチァムラプ、プラチェンブリ等の東部基地を強化し、国土を日本軍の侵略から守る姿勢をとっていた。(83頁)

12月7日夜、日本人の老人、婦人、子供は秘かに市内の映画館へ集合し、 日本人の在郷軍人が運転するトラックに便乗して河岸停泊中のガンジス丸に乗移り帰国した。残った男子民間人はメーナム下流へ通ずる電話線を切断し、海路上陸する輸送船団の日本軍を迎えた。かかる日本側の行動は組織的かつ計画的な作戦活動だった。これに比べてタイ側は日本軍進撃に対するなんらの統一見解もまとめるに至らず開戦を迎えた。

2太平洋戦争期
1941年12月7日午後10時30分坪上大使はピブン首相の官邸を訪問し、対米 英宣戦布告の事実を伝え、作戦上日本軍がタイ領土内を通過するための承認を求めた。ピブン首相は東部タイ国境を視察中であったため、ディレク外相が首相代理として応待し、タイ国は厳正中立政策をとっているから、いかなる国とも組することはできないと拒絶した。しかし同席していた大使館付武官田村大佐は日・タイ両軍の武力衝突を避けるために即刻決断するよう強硬に要求した。(83頁)

1943年春になると戦局は連合軍側に有利になってきた。・・・そもそも この抗日運動は開戦直後から米英両国ではじまり、米国はセニSeni Pramoj 駐米公使が、英国ではスパサワットPrince Subasvasti殿下とブエイPuey Ungphakorn(現タイランド銀行総裁)がタイ人留学生を主体とする自由タイ運動を指導し、王宮内にいたプリディ摂政と秘密連絡をとっていた。在米タイ人留学生は1942年4月から、在英留学生は同年6月から連合軍に参加して、1年間の軍事教練を受けた。73名の在米留学生の中の21名は1943年3月に教練を終了し、重慶経由で雲南省昆明へ移動した。(88頁)

首都バンコックでも反日気運が表面化して、従来地下組織を通じて流布し ていた抗日華字新聞の『警報』、『真話報』に加えて、1943年から新らしく『泰華商報』が現われた。この抗日宣伝紙の発行者はピブン首相の女婿のプリチァPhraya Prichaであり、その刊行資金は自由タイ運動支持者のアドゥン副首相(1944年7月辞任)が拠出していた。(89頁)

日本タイ協会の奥村鉄男氏の回顧談によると、ディレク(駐日)大使の公式の挨拶文等はタナート書記官 (現外相)が起草しその文中に日本一辺倒の印象を与える字句を慎重に回避していた。かれらは大東亜共栄圏の思想に賛成するような首質を決して与えなかった。(96頁)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sea1971/1971/1/1971_1_79/_article

東京朝日新聞 1941.9.24 (昭和16)
英の包囲圧迫強化
岐路に迷う泰
親日派に不利の情勢

殊に十月中旬に催されるカンボジヤ平原における皇軍の大演習に対して非常に神経を高めつつある
泰国としてはもし東部国境に事ある場合には直に南部および北西部より英軍を引入れ、南泰における米、錫、ゴム、北泰におけるチーク材、鉱産資源などを提供することによって、英軍と共同戦線をはるという戦術を立てているといわれているが、何れにせよまず泰国に侵入せる軍を泰国の正面の敵として戦う旨伝えられている
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00501807&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA


東京朝日新聞 1941.10.17 (昭和16)
横行する抗日映画
根強い華僑と英国の勢力
岐路に立つ泰国を観る
特派員サイゴンにて 西島発

わが出先当局が、抗日宣伝の横行に憤慨して、泰国政府にねじこんだら『まことに仰せの通りですが、われわれとしては取締りようがない、その代り貴国の方でもドシドシこれに対抗する映画を持って来ていただきたい、いつでも上映の御便宜を計らいます』という返事だった。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00501811&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

台湾日日新報(新聞) 1941.10.30 (昭和16)
泰の動向を検討する (上・中・下)
(上) 注視すべき中立策 英の煽動で対日感情悪化

最近チェンマイの在留邦人が泰人の日本人に対する感情が急激に悪くなって来たといっている以前親しくしていた泰人が最近は敵意を持つように変って来たそうだ

大阪朝日新聞 1941.12.7-1941.12.8 (昭和16)
泰国の近情 (上・下)
前盤谷特派員 青木真

本年七月下旬以来泰国の対日感情は次第に変化して行った、日軍の南仏印進駐以来一線を尽した如く判然と泰国人は日本人から遠ざかって行った
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00501850&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA