からゆき

戦前日本人の海外売春(3)

戦前日本人の海外売春(1)
戦前日本人の海外売春(2)
の続き

八代英雄「秘密爆露裏面之南洋」1915年

五 爪哇(ジャワ)に於ける日本人の勢力
ひとり爪哇のみならず、南洋の諸島に於いて活動してゐる日本人は甚だ僅少である、精密に調査をする事は不可能であるが、新嘉坡(シンガポール)を中心として南洋方面に活動してゐる日本人は約一万六千人ほどある。年々渡航する者は絶えないが、渡航後直ちに病を得て斃れたり、或は日本へ送還されたり、或は行方不明になりなどして、渡航免状の許可数に依って、在南洋の日本人は何人だと云ふ事は出来ないと同時に、渡航免状も何もなく、特種の手段に依って流れて来た密航婦―即ち日本の恥を海外に曝してくれる女達や、何か重大なる犯罪のために、五尺の身体の置きどころなく、この南洋へ逃げて来た者などがあるから正確な邦人の数を調べることは不可能である。
『嗚呼淫売国』と誰やらが嘆息したが、事実に於いて日本から海外へ発展してゐる女は、十中の八九まで色香を売って口に糊する売春婦である。日本の女はエライものだ。結氷堅く吹く風剣の如き北満洲、シベリヤの果から、南は遠く南米の天地に到るまで、この奇怪なる娘子軍の足跡を残さぬ処とてない。殊に、南洋は彼等の最も得意(?)の場所で、新嘉坡を振出しとして諸々方々に散在してゐる。
 南洋に於ける、日本人の発展の跡を調べて見ると次の通りになる。
 第一、娘子軍がまづ遠征を試みる。
 第二、根拠を作った娘子軍の後を慕ひ、其繊手に抱かれ甘い汁を吸ふて安逸を貪らんとする性質の悪い男が乗出す。
第三、その売春婦及び無頼の徒を目的として売薬、雑貨の行商人が集る。
 斯うして次から次へと発展して行くのである。して見ると娘子軍は海外発展の先導者とも云へるから、余り悪く貶されない訳だ。
 次に『裏面より見たる南洋』を説くに当っては、特筆大書せねばならぬのが、重大犯人の海外逸走事件である。
 恐るべき殺人罪を犯した者、其他重罪を犯して、日本の内地にまごまごした時には、直ちに警官の手に捕縛されて、赤煉瓦の別荘へ送られ、重ければ死刑、軽くとも無期徒刑を免がれる事の出来ぬ兇漢悪人が、まんまと海外に逃れ出で、この南洋に高枕で威張ってゐる。無論内地に於て重罪を犯した奴等だから、南洋へ来ても相変らず悪事を働いてゐる。売春婦の寄生蟲となってゐる無頼の徒は多くこの連中である。
 こゝろみに色街を―色街と云っても掘立小屋にアンペラの紺簾を釣した家が、四五軒若しくば七八軒並んでゐるのっだ―逍ふて見ると刀痕のある奴や、眼の凄く光る一癖も二癖もある奴が、彼方此方にうろうろしてゐるのを発見する。何かと云へば腕力を用ひ、酒と女に腐爛したる半生を送ってゐる彼等も、又憐れむ可き輩ではないか!
 爪哇にも此種の男が大分来てゐる。・・・

六 南洋名物の日本娘子軍 
 前項に述べたるが如く、売春婦たる日本娘子軍の勢力は、甚だ驚く可きものであるが、今一層詳細く説明を加へやう。
 新嘉坡日本領事館管轄区域内に、在留してゐる邦人は約六千人で、その内過半数は新嘉坡に住居してゐる。処でこの中で何者が大多数を占めてゐるかと云へば、矢張り娘子軍と夫等憐れむ可き女の生血を吸うて生きてゐる寄生蟲である。汁粉屋、すし屋、料理店、天婦羅屋、蕎麦屋、按摩、医者などが、同じく娘子軍に付随してゐる。
 按摩は彼方からも此方からも引張凧になって、繁昌する事する事。中には馬車に乗って得意先を駆け廻ってゐる者もあるくらゐで、何故に按摩が斯くまで引張凧になるかと云ふに―つまり女達が所謂『お疲れ筋』ために体を揉ませるからだ。それに続いて、ぶらぶら遊んでゐる寄生蟲が、所在なしに按摩をして貰いながら昼寝をすると云ふ寸法なのだ。 
 飲食店の繁昌する事と、医者の有望なる事は説明するまでもあるまい。断って置くが医者は外科医である。此処まで申せば、あゝ成程と合点が出来やう。
 新嘉坡の色街は、爪哇よりも数等上である。掘立小屋にアンペラを釣した家でなく、粗末乍らも二階三階の木造の洋館で、細い道路を隔てゝ左右に軒を並べてゐる。夕方など此街を通れば、二階の窓から胸を露し半身を突出してゐる女を見る。頭はでこでこの大廂髪に結び、派手なリボンなどを飾り、身には日本製の浴衣を着、真赤な細帯をぐるぐる巻きにして、横手で猫ぢゃらに結び、顔には白粉を壁の如くに塗ってゐる。恥を知る日本人は、知らずして此街を通りかゝっても、二階の窓に行列して、きゃアきゃア不座戯たり、淫らな歌を歌ってゐる女の姿を見ると、我知らず顔が赧くなり、足もおのづと早く、急いで逃げ去るさうである。
 爪哇バタビヤ日本領事館管轄区域内―即ち蘭領印度諸島に散在してゐる日本人は約四千人で、此処でも娘子軍及びこれに付随して衣食する者が多数を占めてゐる。爪哇に於ける娘子軍の事は、前項『南洋に於ける日本人の勢力』中に述べたから略すとして、此処に驚くのは、英領北ボルネオに於ける娘子軍だ。 
 英領ボルネオは沿岸地方に五六ケ所の港―それも小さな―があり、稍町らしい町を組織ってゐるのみで、内地は未だ蛮界の開けてゐない土地である。然るに、大胆にして敏捷なる日本娘子軍は、ドンドンと乗込んで盛んなる活動振りを示してゐる。新嘉坡の色街で、彼女等の醜態を眺め、
『あゝ日本の恥曝しだ、同胞の面汚しだ。』
と感じた人も、此処では再考して
『怖ろしい奴だ、男子でもなかなか及ばない。』
と驚かねばなるまい。
 娘子軍の大部分は、天草を中心としたる九州人で、熊本、長崎の両県から嗾出してゐる。これは海外に出稼ぎに行く事を自ら希望してゐるもので、顔の方はあまり感心しない連中だ。土人でも支那人でも、助平根性は同じ事で、醜婦よりは美人を好み、費消する金高も相違して来る。従って淫売屋の主人も上玉を欲しがり、四方八方に手を廻す。此処を例の無頼漢が付込んで、ある密約を結んで日本へ戻り、純潔無垢の良家の子女を誘拐して行く。
 上玉であれば楼主も千や二千の金を惜まない。
 斯うして、多くの悪漢のために南洋の天地へ誘拐されて行く女は、可成り夥しい数に上り、新嘉坡の日本領事の手に取押へられ、内地へ送還される不幸中の幸ひなる女も又多い。それから誘拐中に、警官に観破されて悪漢が取押へられたり、今や船に積み込まうとして発見されたりする実例は、各新聞紙上で往々見受ける。又、誘拐されて南洋に亘り、捨鉢になって遂に悲惨なる最後を遂げたと云ふ、哀れな実話を耳にした事もある。楼主の命を奉ぜぬとあって、厳しい折檻をうけて悶死した一層可憐な実話も聞いてゐる。―自ら好んで出稼ぎに行くのはそれで可い、面白い目をしやうと困らうと自業自得であるから構はぬが、悪漢に欺むかれて南洋へ売られて来た女は、何んとかして救ふてやりたいものだ。
 今や南洋には無慮数千の娘子軍が、硝煙蛮霧の域を恐れず活動してゐるけれど、静かに彼等の前途を考へて見ると、竦然として身の毛がよだつやうである。故郷を出る時は、
『人間は汚なく働いて奇麗に喰へと云ふから、他人の知らない処へ行って、何をしたって構う事はない。二三年でウンと金を蓄めて日本へ戻り、好いた事をして面白可笑しく此世を送らう。』
 と虫のよい空想を画いてゐたのであらうが、一度向ふへ乗出せばオイソレと帰れるものでない。少々儲けた金は寄生蟲に奪はれて了ふ。借金はふえる。新嘉坡からバタビヤへ売られる。それから又外へ売られる。転々した結果は、マラリヤに罹って死すか、悪性の梅毒に犯されて狂人になったり、乞食になったりして路傍に窮死を遂げ、猛獣毒蛇の餌食となる。それが違ったら、土人の女房になるか、支那人の妾になるか、どうせロクな事はないのだ。最初の目的を貫ぬいて、仮令僅かでも金を握り、無事に日本へ戻るものは、百人に一人あるかなしである。
 英領北ボルネオのサンダカンと云ふ処に、二十八歳の時渡航して今年六十一歳になるまで、全三十三年間此地に飛躍をしてゐる女があるさうで、今では一二万の金を蓄め、十人あまりの娼婦を抱え、練えし腕によりをかけて、老て益々盛んなりとばかり活動を続けてゐるさうだが、これなどは千人中唯一の幸運者だ。此婆さんを標準には出来るものでない。
 娘子軍の弗箱は矢張り土人で、支那人、印度人などこれに次ぎ、欧米人は向ふで危んで近寄らず、日本人は女の方から敬して遠ざける。日本の男は禁物と云ふ定めになってゐる。其理由は、一二度馴染になると遂情にほだされて、無理な苦面もして金を貸したりする。貸すまいと思ふても、男の方で借りずに置かない―これが寄生蟲である―そして深間になればなる程ロクな事はない。こんな事から一般日本の男子に対しては敬遠主義を取ってゐる。 
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954821/24

元田作之進「善悪長短日本人心の解剖」大正5年7月10日発行 ※1916年

十五、日本の醜業婦
 曾てビルマのラングン市を訪ふたことがある。同市の青年会幹事より馬車を命じて市内見物を案内せんとの招待を受け、隅から隅まで駆け廻ったが、最後に小さな街路に馬車を入れ二町程の処を徐行した、意外にもこれは日本婦人の遊廓であって、白粉臭い小女等が通行人に向って頻りにカム、インを連発して居る。青年会館に帰り、幹事より此実験上の感想を聞かれた時は、返答に困ったのである。こんな処まで日本の醜業婦が出稼に行って居るかと思へば、実に国家の為めに痛嘆せざるを得ないのである。

世界を股にかけた娘子軍
 近年麻尼刺(マニラ)を訪ふたが、此処にも醜業婦が入り込んで居る、三井物産の某君が予に告げて容易に自分の妻を外に出されぬ、偶々一人で町でも出でようものなら、醜業婦に取違へらるゝのである。と、日本の婦人を見れば直に醜業婦であるかの如く土地の人をして思はしむるに至ったのは誰れであらう矢張り日本の醜業婦である。
 東洋沿岸地の浦塩、大連、上海、香港、シンガポール、ペンナ、コロンボ等いづれも日本婦人の醜業地である。航路を太平洋に取れば先づ布哇を始めとして太平洋沿岸の米国には日本の類似醜業婦が出張して居る、沿岸だけではないやうである、支那、印度、南洋諸島、または米国にても奥深く進入して居ると云ふ。・・・(233~235頁)

 此等の事実に徴しても日本人は男女間の道徳に関する観念が強くないと云ふことは疑はれない処である。吉原と芸者の名は世界に知れ渡って居る。西洋人から日本は醜業婦の輸出地であるの、美しい芸者の国であるの、妾を持ってもよろしい国であるのと思はれ或は言はれて居る、・・・
(237・238頁)
 
之と共に北満州の一部と西比利亜(シベリア)に居るものを算すれば、少なくとも五千人に達する。日本の男性が一人も住居していない小村落にも、支那人のとなり、酌婦となって四、五人は住んで居る。一般に料理店と云ふのは娼家を指し、酌婦とは娼妓を指すのである。唯だ慣例上、料理店又は酌婦なる名を冠するに止まり、日本内地に於ける如き料理店又は酌婦ではない。純然たる女郎屋と女郎のことである。」(布川静淵「日本婦人の面よごし―海外に於ける日本醜業婦の近況」、『婦人公論』、三巻二号、一九一八年二月)
(倉橋正直「従軍慰安婦と公娼制度」p126)

真継雲山「行け大陸へ 満蒙遊記」

一八 発展の先駆者売春婦
 釜山や京城には日本人の車夫がゐるけれ共、満洲へ行くと全く支那人ばかりで日本人の車夫は一人も見当らない処、大いに人意を強うするに足るが、労働者としては日本人は到底支那人の敵でない事を証拠立てる一つである。併し日本人の売春婦に至っては、能く支那婦人と覇を争ふに足りると見えて、如何なる地方へ行っても其影を認め得るのは幸か不幸か。体面論から云へば、売春婦の跋扈は日本人に取って汗顔の至りと申すべきだが、帝国の世界的発展の先駆を為す者は彼等売春婦であるとすれば、言語不通の西伯利亜の奥、椰子の葉茂る南洋の里をも怖ぢず恐れず分けて行く其気魄は慥かに有髯男子をして顔色無からしむるものがある。併し此の売春婦も流石に日本国民としての体面論の前には、多少の懐疑無き能はずと見えて、支那人の客を取るべし取るべからずの議論が可なり盛んなやうだ。大連では平気で支那人の客を取って居り、記者が逢阪町を見物した折なぞ支那人が同胞の女に揶揄ってゐるなど余り好い感じを吾々に与へない。奉天では表面上の原則としては支那人の客を取らない事になってゐるさうだが、内実は保証の限りでない。哈爾賓では曾て各楼主は其妓供に対して「お前は金を溜める為に遠い外国まで来てゐるのだから日本人のお客は取るな、同胞を相手にすればツイ情が深くなる」とて日本人に近付くことを警戒し若しくは禁止したものだといふが、昨今では形勢一変、苟しくも一等国民の体面に関するからとて断然外国人を客に取ることを官憲の力で禁止してゐるさうだ、然うなれば情は深くなる、金には行詰るで哈爾賓は情死が名物となること請合なり。併し外人客を取るといふも取らぬといふも畢竟机上の空論、金儲け仕やうとて命懸け、国辱なんぞは何のその、何とかの何とかを股にかけ―といふ際どい唄が総てを説明してゐる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960792/49

佃光治, 加藤至徳「南洋の新日本村」1919年 ※大正8年

一 馬来半島に於ける日本人
海外発展の先駆たる娘子軍

一等国の皮肉な事実 一歩海外へ踏み出した者の眼に、奇異に映ずる者は到る処に醜窟を構えたる我が賤業婦人の活動振りである。東に亜米利加より北シベリアの曠野に到り、南は濠洲より西は亜弗利加の涯まで、津々浦々綿密に彼等の白粉の香は撒布されてゐる。弾丸と血肉に依って贏得たる一等国たるの栄誉は、おぞくも彼等賤業婦の紅裙に依って汚されて終ってゐるのである。日本娘子軍が如何程莫大なる送金を母国に致さうとも、彼等が帝国の体面を汚したるの罪を贖はれるものでない。更に人道に叛きたる恐るべき賤業、奴隷となれる哀れむべき無垢の少女を救はんとて、在外官憲乃至宗教家が、彼等を殲滅せんと努めつゝあるは当然であり又感謝すべき事である。而も今日海外で活動しつゝある我が同胞の草分けとなり、基礎を築き、海外発展の先駆者たるの栄誉を担ふ者は実に此娘子軍である事は何と云ふ皮肉であらう。

日本人の草分け 此好適例は馬来半島に於て見る事が出来る。日本人が馬来半島に現はれたるは何時頃からであるか、娘子軍の入り込んだのは何年頃からか分明せぬが、娘子軍が各地に侵入して行く後から五尺の男子が追随して行ったのは事実である。阿仙薬の栽培と錫鉱とに引きつけられて支那人が馬来半島に瀰漫した如く、日本人は娘子軍に誘はれて各地に撒布した。異人種の真只中に日本の髪を結び日本人のキモノを着た彼等は全然其土地の風習に慣れる事は出来なかった。彼等は日本製の食物、日本製の飲者、日本製の衣類其他多くの日本製品を必要とした。其処には呉服類から缶詰類まで商ふ変な日本の雑貨店が開業されて彼等の需要を満たし、同時に異人種をも顧客とし日本商品は漸次拡って行った。今日南洋貿易の殷盛は三井其他二三大商賈の賜ではなく、実に此等雑貨小商人の開拓したものであり、其影には娘子軍の勢が潜んで居ったのである。斯くて漸次在留邦人の数を増し、其土地の事業にも携るものも出来、馬来半島在留邦人は徐々として地盤を作り行き、現在にては如何なる辺陬の地に行くも必ず一二の邦人を見るに至った。売淫国として異人種より侮辱されながらも相当の地盤を作ったのは全く我が娘子軍の功労と云はねばならぬ。之れを馬来半島に於ける日本人発展の第一期と見る事が出来る。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960807/61

河東碧梧桐「支那に遊びて」大正8年10月25日発行 ※1919年
四 醜業婦
 私は曾て肥前の島原あたりをあるいた時、百姓の家にしては妙な窓のつけ具合や、立派な倉庫に等しい壁の塗り方などを、田甫の中に発見した。それは島原天草辺をかけて特殊の産物として聞えてゐる醜業婦の建てた家だとの事だった。巨万の富を擁して帰って来た醜業婦が、物質的な虚栄の真似をそこらぢうにヒケラかしてあるく、其のヒロインの照り栄えもしない、放射線のホンの微光の一端が、それらの建築物になったのだ。けれども土地の空気に融和すべき可能性の少ないそれら虚栄は、長つゞきはしない、其の建築物は長くて二年、早ければ一年経たないうちに大方所有主が違ってしまふ、さうしてヒロインの一時的の眩しい光りも、いつとはなしに掻き消されてしまふ、と土地の人が言った。私は異様な百姓家の来歴を聴いて、そんなことなら聴かんでもよかったと思はんでもなかった。たゞ島原付近には、変った百姓家がある、と呑気に眺めてゐる方が罪がなくていゝやうにも思った。私のあるいたのは夏の初めで、そこら田甫には、実になった菜種や、穂の垂れた麦がもう大分黄ばみかゝってゐた。強い光線に照らされて、総てが発動の気を漲らしてゐる初夏の光景の中に、菜種の実殻と熟れかゝった麦とは、ある淋しみを伝へるものだ、それを背景にしてゐる異様な百姓家の作りは、たゞそれだけで、切支丹の昔をも想像せしめる島原気分であったのだ。が、一歩其建築物の内容にはいって行けば、もう門口を素通りすることも出来ない。私は其の醜業婦の遺物、虚栄の残骸をあさましいとも何とも思はない、それが島原の風教上いゝことであるやらわるいことであるやらも考へない、たゞもっと醜業婦といふ者の生活内容にブツかりたいやうな心持で一杯になった。土地の人は、どれ程海外渡航を禁ずる法律が微細になっても、それを易々として潜り得る醜業婦手段を話して聞かせた。醜業婦にも親もあり兄弟もある、それらが其の子や姉妹の密航について、大抵は何の考へも持ってゐない、長崎や熊本辺へ石炭担ぎに出かけたり、下女奉行に住み込むのと同一に取扱ってゐる様子を物語った。一旦病気で帰郷した醜業婦も、健康が回復すれば、きっと二度も三度も出かけて行く、よくよく病身である者も、別に定った家庭を作るでもなく、往々惨めな死に方をする二三の実例をも挙げた。たゞこれだけの梗概を耳にしたゞけでも、彼等が生れ落ちるとから死んで行くまで、醜業婦として、運命づけられてゐる、人間の力ではどうすることも出来ないやうな或る法則に縛られてゐる、寧ろ不思議な生活が思ひやられるのだ。仮りに私が其の醜業婦の兄に生れて、さうして今の私が出来上ってゐたとしたら、その程度に其の生活内容にヂカに接触し得たとしたら、そこにどのやうに変った世界、どのやうに別な情緒が展開し廻転するだらうか。菜種の実殻と黄ばんだ麦の中に、力ない夕日を、其の痩せこけた頬骨の尖った蒼白い顔一杯にうけて、何のあてもなく遠くに視線を向けてゐる絶望的な姿がしょんぼり立ってゐる、そのやうな幻影が、又してもありありと私の眼の前に浮ぶのだった。
 淫売、醜業婦、密航、不健康、低級な虚栄、そのやうな暗い重くるしい陰影を与へるものゝみが、私の頭に一杯になって、島原といふ土地に一種の色彩を感じて去ったことは、いまだに忘れられない私の印象であった。
 馬尼刺に上陸した夜、三井物産の自動車に乗せられて、これからガルヂニヤ見物に出かけようとした時、私はまだ生ま生ましい島原の印象を思ひ出して、けふは其の出稼地にある醜業婦にヂカにブツかるのだ、と妙に胸の躍るのを覚えた。彼等の生活内容に一歩近づいて行く、それが何だか恐ろしいものでも見るやうな、好奇心と冒険とさうして一種の危惧心と疑惑の念をそゝるのだった。アスハルトの滑らかな大道をすべる自動車の中に、不快な夢に襲はれて手足の筋肉までが堅くスクんじゐるやうな私を見出さねばならなかった。
 案内をした人は、これがナンバーセブンチーだと言って私達を導いた。鉄の格子のはまったおっぴらいた窓の処に、真白な女の顔の並んでをるのを、ずっと下から見上げる、何だかそれが飼はれた白兎のやうだった、其の十七番の階段に私の靴の片方がかゝった。この階段を踏む意義、といふ程にはっきり纏ったものではなかったが、これを踏む以上には、踏むだけの用意をしなければならない、と言った妙に冷やかな理智がむらむらと私の胸に湧いた。さうだ、私は私の眼に映ずる総てを十分に見ねばならない、私の耳に響く総てを残らず聞かねばならない、と私は強ひて私を落着けた。
 私は先づ女の服装を見た。総てが西洋式で、絵葉書や雑誌の挿絵で見る踊子のそれに似てゐた。肩も腕も露出した半裸体の派手なスカートをぞろと垂れてゐる。かういふ光景に馴れない私は、それが日本人であるのか外国人であるのかも区別がつかない位だった。私はハヽア南洋の醜業婦は、かういふ扮装をするのだなと思った。中には長襦袢にしかしない派手な友禅を浴衣にして著てゐるのもあった。それから座敷に上れといふので、靴を脱がせられた。そこは十畳と八畳位の二間の居間と座敷になってゐる。立派な日本風の間であって、床の間も違ひ棚も正式に作ってある。この床柱はと言った風に、黒柿か何かの艶々しい光りが、横柄にひん曲ってのさばってゐた。床の間には花も活けてあり、山水の軸も掛ってゐた。一方には焼桐の目も鮮やかな琴が二つも立てかけてあり、こちらには三味線が三挺も吊ってあった。其中に、米国出来の版画が、もう幾年掛け通しにして置くのだらうと呟いてゐるやうに、かしぎながらつらくってあるだけで、別に外国らしいトンチンカンな取り合せもない。何だかデブデブに太った婆さんが私等の前に坐って、皺枯れたドーマ声をして挨拶した。十七番の誰さんを知らないでは南洋通ではないとまで言はるゝ、其の誰さんがそれなのださうな、女達が「ねえさん」と呼ぶと、其の婆さんが「アイヨ」と返事する。尤も婆さんと言っても、私達よりはずっと若いのだらうが、頭や眼元に刻みつけた深い皺が、婆さんと言はなければならない余儀なさを語ってゐる。筒ッぽの白地の浴衣を著て、細帯で胸の処をぐっと締めつけた出張った腹の恰好は、根から生えたやうでもある。額の汗を幾度撫でるか知らないが、それが小やみなく玉になって行く、私は姑らく其の手のやり場に困って、もう汗がぽたぽた落ちても構はないでゐる、この婆さんにとっては、手のつきかたが甚だ不自然に見える恰好を眺めてゐねばならなかった。「ねえさん」「アイヨ」の応答が其の間にも幾度も繰り返される。とても動かされさうにもなかった婆さんが手軽に立ってすたすた部室を出て行く、戻ったかと思ふと又た立って行く。不図女の声で、ぢっと聴いてもゐられない露骨な事を投げ出したやうにいふのが聞えた。それまでは、別に長崎弁以外変った心持ちもしなかったのが、まるで裏切られてしまった。醜業婦を一つの職業と見れば、彼等が業務上の話をすることを人に憚かる所以はない筈だ。けれども我等の羞恥心が露骨には言明し得ないことを、いくら業務上のことだって、忌憚なく言ってしまはせる醜業其のものが、こんな場合に案外呪ひたくなるものだ。玉露製のいゝ茶で、渇いた喉を湿ほして、女の部屋の見学に出掛けた、一方に脚の高いベッドを置いて、一方に抽出しつきの鏡台が寄せかけてある。鏡台の横には衣装箪笥やトランクのやうなものが整然とあって、中央には小さい卓子と椅子が三四脚もバア式に陣取ってゐる。これも総てが西洋式で、日本臭い処は、とてつもない柱かくしの豊後簾が窓の横にぶら下ってゐる位のものだ。一行はそれぞれに椅子を占め、椅子のない人はベッドに腰かけたりした。何だか罪のない花やかな話が口々にとりかはされた。これが醜業婦たるヒロインの城塞であることも胴忘れして、バアの一卓を占領した茶話会のやうな気分が、この室に漂ったのだ。案内に立った人は、女達は昼間は琴や三味線を習ふのだ、といふことを手始めに、内地の公娼のやうな拘束のない生活ぶりをかいつまんで話した。御覧んなさい、彼等の肉体の発達を、腕でも何でもぶくぶくしてゐるでせうとも言った。彼等が月月本国へ送金する額は、驚く許りです、この家に七人女がゐますが、それが月々三千円を下らないのですからとも言った。このガルヂニヤには日本人を客にしない家がある、といふことから、醜業婦としての女の心理や習慣や、果ては民族的な人種論にまで議論の花が咲いた。日本人を客にすれば、同民族の情愛が濃くなる、其の為めかかへ主が迷惑しなければならない、といふのは醜業婦を知らない浅い管見だ、醜業婦はそんなものぢゃない、自己の職業に対する心理は、自己の趣味性になずむ人間の弱点と、キッカリ区別がついてゐる、それは男性には出来ない女性的特徴だ、けれども民族的な愛は、単に異性に対する愛とは違ふ、民族的愛の為めに、異性的愛が何等か圧迫をうけるといふやうな場合は、外国人にあっては甚だ稀れだ、そこになると日本人の愛はより強く民族性愛に制肘されてゐると言ってもいゝ、つまり日本人位民族的に排他の観念に富んでゐる者はないといふことになるのだ、それはこれらの醜業婦が、外国人の客を一個の弗入れの物質として取扱ってゐる習慣にも現はれてゐるといふのだった。
 民族的な心理や習慣は余りに問題が大き過ぎる。私は始めに想像するともなく考へてゐた醜業婦の生活が、暗い閉ぢ込められた、炭酸ガスの停滞した中にうごめいてゐる冷たさと堅さを感ずるものでなくて、却って明るい押ッ開いた、柔かな暖か味のあるものにしか思はれない、其の矛盾を、あちらこちらと帰納しては考へて見ねばならなかった。彼等は光明をのみ見て生きてゐる、自己の運命に何の危惧をも感じてゐない、とまではどうか、生きてゐるやうであり、感じてゐないらしいのかも知れないが、其のやうにらしく見えることすらが、既に私には意外な事実なのだ。彼等の安心立命が確立してゐるとはどうしても想像されない、それとも無自覚な彼等をさういふ境涯に導く制度とか習慣とかに、どんないゝものがあるのか、私はそこに大きな疑問を挟まねばならない。
 私達が尚ほ他の二三軒の醜業婦の家を見て廻ってゐるうちに、かういふ巷の空気は次第にそれらしくざわついたものになって来た。さうして私達の気分も、いつか観光の外客が、日本の公娼制度を素見する為めに、吉原の遊廓を訪問してまはるやうな、たゞの好奇心に過ぎなくなってゐるのを見出した。其夜三井物産の合宿所のマニラ臭い蚊帳の中に横はりながら、私は始めて見た日本の娘子軍の実際、それに纏はる彼等の心理、そんなことが絶間なく頭の中を往来した。さうして彼等が其の運命に安じてゐる疑問を繰り返した。
 香港の●仔街といふのは、馬尼刺のカルヂニヤの更に規模の大きいものである。が、日本の醜業婦は、馬尼刺に比して遙かに経済的であるとのことだった。私は馬尼刺で抱いた疑問に、尚ほ何等かのヒントを得られるかも知れない希望を持って、一度は其の暗い階下を上下せねばならなかった。
 日本の勢力の波及の稀薄な植民地では、何処でもさうであるが、畳を敷いた日本間と言っても、もと煉瓦建ての西洋間作り、若くは支那作りに或程度の加工をしたものだ。座敷を出た廊下は土足で往来せねばならない、自然座敷の敷居の外には下駄や靴やがゴッタに脱ぎ放してあるやうな光景は、一向に珍らしくない。亜米利加製のブリキの盆に日本の盃を載せて、支那箸で物を食ふやうな食膳の雑居的雰囲気も、日本の外を知らない漫遊客を驚かすに足るものだ。殊にペストの予防の為めに、室内に天井を張らせない香港では、それがどれ程手のかゝった贅沢な日本間であっても、一度頭上を仰げ・・・
 海外出稼の醜業婦は、日本の恥辱である、といふ正人君子の説を強ちに排斥するのではない。醜業婦の存在の可否は、単なる風教上の問題ではない。徹底的に
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960908/55

鳥井三鶴「世界徒歩十万哩無銭旅行」大正8年6月30日発行 ※1919年

一二 娘子軍と土民化せる女
 南洋へ航した人は誰しも一様に言ふところであるが、彼等売春婦及土民化せる女の不快さである。口には毒々しく紅を染め、額の小皺を厚化粧に隠して、身には華奢な模様の着物を着込んでゐる女郎。嚙む檳榔樹に人の生肉を啖ふたかと思はれる口した馬来人、南国の夕の気分に耽溺の血に暍えたる紅毛の出稼人 道行く人をも鼻をそむけて過ぎ行かしむる悪臭の支那苦力、蛇の肌を思せるやうな皮膚のざらざらした漆黒の印度人、それらを相手選ばず、金さへ持てば手招きしてその肉を鬻ぐ日本の女郎。それが南洋には六千人を降らない。「日本の姉さん」それが南洋名物の一つであるのだ。
 南洋に於ける日本の姉さんを分けて三種類とすることが出来る。その一は定まった家を持って朝に夕に、張三たると李四たるとを問はず、求めに応じて情を売る娼婦の類である。其の二は主に欧米人の荒んだ生活の慰藉にとてその妾に囲はれて洋妾(振り仮名ラシャメン)になった手合である。其の三は所謂土人化せる女であって、正式或は半ば正式に異国人の妻妾となってゐるもので、その主なるものは馬来人、支那人、蛮族等である。
 馬来半島に於ては第一種の手合及び第三種の「マソ、マライ」となったものが相半ばしてゐ、蘭領の各地及び北〔ママ〕律賓には第一種の娼婦が最も多く、印度支那には第二種のものが最も多くその大部分は仏蘭西人の妾となってゐる。スマトラのデリーなどにもこれが多い。
 これらの女の大部分は始め密航業者の手によって南洋へ向ふのである。密航業者で誘拐者を兼ねてゐるものが多い。先づ巧辞を以て四五の少女を誘拐して巧に日本の官憲の目を晦まして港をぬける。第二関門である上海をも無事に通過すればも早や彼等の天下である。官憲の異なった香港で一先づ船から降りる。そして其処で売買されるのである。玉によってその売られて行く方面が違ふ。かうして売られた無垢の少女は自棄気味から酒をのむ、男をたらす、そして次第々々に倫落の淵に沈んで行く。売られた金は殆ど全部、密航業者或は誘拐者の収入となってしまふ。
 私の会った女だけでもかなり多い。その二三の例をこゝで言はして貰ふ。
 土人の巡査の妻になったものに会った。それは最も「マソ、マライ」を代表した女であった。心も身もも早やマライの血で爛れてゐた。耳に穴を穿って金環をさげ、手足の首にも金輪を穿めてゐる。サーロンと称する馬来の衣服を来て素裸足である。言葉も馬来語である。日本人に会っても日本語を話さない。否、話すことが出来ないのだ。
 支那の苦力の嚊となって、護謨山や、錫鉱山に苦役に服してゐる女を見た。も早や手足は荒れて、顔つきまで獰悪になってゐる。中には美人と思はれる容色の艶な女もないではない。
 或時はコーラランボで菊子といふ女の面倒を見てやったといふ日本の紳士にも会った。その女は一人の馬来人に誘拐されて遂に其の妾となってしまった。然し人情を知らぬ馬来人は彼に三度の食事をすら与へることをしない。そして夜となく、昼となく、肉に飢えた眼をして彼女を挑む。遂に居堪らずこの紳士のもとへ逃げて来て救ひを求めた。が、その女は日本語は殆ど話せなくなってゐて、馬来語で話をする。サーロンを着て素裸足でゐた。行儀作法といふことは一向知らない。一ケ月も居堪らずにまた元の古巣へ帰って行ったといふ。その紳士は「こんな女の末が思ひやられる」と言って悲痛な顔つきをして話してゐた。かうした馬来の風習に染まって回教を奉じ、割礼まで行ふ女はどれだけあるかしれない。二千人に降らないであらう。私はこの種の女を購買市(振り仮名バザー)でよく見ることがある。人を呼びかくるにも「トアン」と言ふ。日本語は話せない。馬来語である。
 人の首を切り、人の肉を啖ふと言はれてゐるボルネオの山深くに住むダイヤ族の巣窟で、欧米の探検隊すら這入ることを恐れた深山幽谷の中を先年日本の娘子軍の二人が横断したといふ。その無謀なる大胆さには一驚を喫しない訳には行かない。そして彼等はその無智より来る大胆さ、故国を離れて何等精神的慰安なく、夜も昼も肉欲に飢ゑたる男を相手に枕をかはす、彼女等の自棄から来る大胆さには男も及ばない。その大胆さを以て今や印度からアフリカにまで手を伸ばしてゐる。
 私が先年印度で実見したが、マドラス港には邦人の商人すらまだ一人も居ないのに、三人の女で巨万の金を貯へて栄耀栄華に耽ってゐるものがゐた。この種の女が印度には六七百もゐる
 そして支那人や馬来人の嚊になった日本の姉さんも、寄る年波に容色が次第に衰へて行けば彼等は彼女等を惨殺する。それは硝子の切片を何処からか得て来てそれを細かい粉末にする。そして少量づゝ彼女が珈琲をのむ折或は酒をのむ時その茶碗の中へ竊に入れて置く。知らず知らずにのんでしまふ。透明であるから解らない。かうして一月、一年、二年とやって行く中に彼女の胃の腑は硝子の粉末のために爛れて来る。腸が次第に破れて来る、顔色憔悴して遂に斃れる。死ねば深林に持ち運んで椰子の根元を掘って埋めてしまふ。彼女のふるさとには白髪の父母が彼女の帰るのを門に凭れて待ってゐる。何時までたっても帰って来ない。彼女の死体は椰子の木蔭にも早や白骨となってゐる。南国の月は何事もなかったかのやうに静かにその白骨を照してゐる。偶には日本人の護謨園などで髑髏なども掘り当てることがある。然し誰の骨とも解らない。と、苦力は忌なものでも見たやうに「畜生」と呟いて再び谷底目がけてドサリと投げ棄る。
 あゝ爾、土民化せる二千の女よ、お前達の行末は果してどうなることであらう。
 彼女等はどうして「マソ、マライ」などになったかと訊く人があったら必らず土人に惚薬をかけられたと答へる。椰子の葉に夕日が縺れて黄昏れる頃、ほの闇い小屋の隅に色黒い手で拵へる惚薬とはどんなものであらう。彼は黒い顔に白い眼を輝して製薬に余念がない。時折それをかけられた時の恋しき女の様子などを思ひ起しては物凄く笑ってゐる。呪の笑みよ――
 あゝ恋の南国よ、魔の南国よ、何とした神秘をこめて大空高く星は何時でも瞬いてゐることよ。
 維新以前平戸や長崎が海外文化輸入の根源であっただけに長崎県沿岸一帯の地には、早くから海外思想が盛であった。而して海外へ出稼ぎに行くことを何とも思ってゐないばかりでなく、外人とは決して嫌ふべきものではない、親しむべきものであり、愛すべきものであるとさへ考へるに至った。此の思想が時代の進むにつれて発展して遂に海外へ飛び出して肉を鬻いで稼ぐといふ醜業婦といふものが出来るやうになったのである。道徳の上から、宗教の上からこれを論議すれば価値は絶無であらねばならない。無価値であるばかりでなく罪障であらねばならない。とは言へ、彼等が国民的発展の導火線となって海濤万里の外に平和的戦争の頭取役を勤めてゐる点から見ればまた必ずしも忌避すべきものではない。
 一般に島原(島原女といへば娼婦を代表してゐる)地方は人口の増加が盛であって、食物の如きも、魚肉と薩摩芋と麦が主要なものであるといふ関係もあらうが、人口は非常な勢ひで増加する。ドシドシ海外へ出稼ぎしても一向人口が減少したと思はれないほどである。この天与の人口増加といふことも島原、天草地方の女子をして海外へ発展せしめる原因の一つであるとも言へる。
 島原天草地方では出稼ぎ醜業によって大に成功し、所謂女郎成金の連中が少なからずある。出稼先から親元に送金して蔵を建て田地を買入れて堂々と大地主、富豪となってゐるものが多い。そして此の顰に倣って吾も吾もと出掛けるのである。即ち彼等の目的は個人の利益一点張りではあるが、別に何等の意識もないけれども、知らず識らずの中に国民的発展の先駆といふ大使命を果してゐる日本の威信と期待とを落すこと尠くはないけれども、それもまた一つの勢力であると思ふ。結果から見て三つの使命(?)があると思ふ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960871/98

東郷実「植民夜話」1923年

 然し今日南洋の有様を観ると、曾て男計りの植民が非常に発達して居た昔とは大反対に、女に依って、南洋発展の一のプログラムが盛んに遂行されて居る。然も其女は正業者ならぬ「醜業婦」である。西洋人の植民史は宗教家が先駆者となって居る例が多いけれども、日本の最近に於ける南洋発展は宗教家ならぬ醜業婦に依って草分けされて居る。「宗教」と「醜業」とは国音唯々一字の清濁あるの差に過ぎぬが、実質に於ては雲泥の相違である。斯の如き女性に依りて代表されて居る南洋発展は是亦甚だ憂ふべきことである。
 何しろ南洋在留日本人の統計が示す如うに、或地方にては、男よりも女の方が遙かに多いのであるが、是れは醜業婦の勢力如何を物語るものであって、南洋到る処日本男子は居なくとも「日本の女」の影を見ない処はない。最近南洋各地の政庁に於て之等醜業婦の営業を禁止するものあり、又所在日本領事館等の尽力に依り之等醜業婦の解放を見たる結果、非常に其数を減じたが然し之れが根絶は容易のことではあるまい。
 ・・・植民に必要なるは、島原乃至天草出身の「娘子軍」にあらずして、実に堅実なる「家庭の女」である。(231~233頁)

高島高文「蛮人の奇習」1928年 ※昭和3年

シンガポールに於ける日本娘子軍の盛衰の今昔
 欧洲戦争が始まって物資は戦地に吸収せられ船舶は徴発せられてしまった此時猛然として押し寄せて来たのは日本人である旭旗をかゝげた軍艦に護衛せられて色々の物資を満載した商船が何隻ともなく入港して来て其船からは無数の男女がはき出される様に上陸して来た「メードインジャパン」のマークある商品は其精粗を論ぜず羽根が生へて飛ぶ様に売りさばかれた戦前には僅かに台湾銀行、三井物産、乙宗商店位しかなかったグダンの商業町にも大小二十数軒の会社商店等があらわれた、それがため戦前にはほんのニ三軒しかなかった日本料理店が雨後の筍の如く●出して十数軒となり数人の真似芸者しかなかったものが香港や大連、天津から流れて来た者やさては内地の浜辺や田の畦から鮭の様に飛び出して来て私こそは芸者で御座いと云ふ様な顔付きをしてすまして居る連中を混ぜれば驚く勿れ四十有余人しかも其料理屋の壁と壁との間にチャブ台が据えてあるだけのとても人間が飲食するとも思へぬ場所がいつ行っても大入満員………特に隙間が明けてあるのかと思はれる………白粉と白粉との間から黒い生地をあらわして原品と加工品とを一目瞭然たらしむると云ふ凄い芸者が何時も箱切れの盛況、入口際の薄暗い座敷を加へて三座敷の料理屋が一ケ月の営業高九千ドルを越えたとは聞いたゞけでも棲愴の感禁ずる能はず況んや料理屋の営業振りたるや酒は折れに廻り料理は折れて曲って又折れて曲り芸者の線香は二割を刎ねしかも綿の入った様な畳の上で絞り上げることなればボロきこと言語に絶し更に怖るべきは芸者の奮闘振りである浴衣掛けで
五ツ七ツの座敷へ転戦するさへ凄まじき武者振りであるのに都々逸でさへもお客と他流仕合でもするかの様に調子の合はぬのはお客が悪いのだと澄して居る度胸のよさは、かくあるに尚ほ且つ箱切れの盛況とは以て日本貿易隆昌の反影と知られる。
 欧洲の戦雲は黄金の雨となって日本商人の頭上に降り日本商人の懐中よりは洪水となって花柳界に氾濫し料理屋を浮し芸者を浮し空前の繁昌を呈して栄華の夢を貪ったのである当時マレイ人支那人を客として居た日本娼婦の如きは切符を発売し各順次一列側面縦隊に列をなして其列の長さが長い軒端にあまって道路上にまで達したと云ふ、然るに戦後形勢は一変しさすがの娘子軍も英国官憲の日本娼楼撲滅方針に追ひ立てられて日一日と其影を薄らめて行った今日では一人の公然の娼はなくたゞ官憲の目をぬすんで居る私娼があるばかりである然し今日でも尚料理屋とか宿屋とかには大略二十人ばかりの私娼は居る彼等は昼とか宵とかは普通の仲居として店のためにのみ働き十二時頃から更に自己の職業に取りかゝるのであるオールナイトが普通十五円位である、(大正十一年三月)
マライストリートに栄月と云ふ料理屋がある其店の仲居に君枝と云ふ二十三才のやゝ愛くるしい女があった其女がかつて私に云ふには「私も早くどうにか身の振り方をつけたいと思ふんです、そりゃこゝでこうして居ても、あちらやらこちらやらかに嫁に来てくれないかと云ふ人は何人もあるのです、けれどそれらは店員なんかでとても末の見込もつかないしどうかして日本へ帰へってお嫁に行きたいと思ふんですそれで今日まで何回旅費として千円近くも纏ったお金を用意したかわからないんです然しじきに使ってしまっていつも駄目でした。私だってラシャメンになって居た頃は月八十弗からの金をもらって其上色々の物をも買ってもらって其頃は両腕に金の腕環をはめ手にはダイヤのリングを三つもさして又首には金の首かざりに五十ドルの金貨をつけて居たものでした。とうとうすっかり好きな男に入れ上げて皆質に流してしまったのです私ももう二十三になりました十八の時始めて上海へ来てそれから流れ流れシンガポールにまで来ました、そうして上海へ来た時と同じ様にからだ一つになってしまったのです国へ帰へると云っても船賃だけでも二百円以上は入りますし親にも相当な土産を買って行ってやりたいし此まゝシンガポールに居てはとても終生駄目ですからジャバへ渡らうかとも思って居るのですよ」と以て娼婦の一斑をうかゞい得られむ。

藤田敏郎「海外在勤四半世紀の回顧」昭和6年7月21日発行 ※1931年

醜業婦の輸入及裁判事件(32頁~)
 明治廿二三年の頃、桑港(サンフランシスコ)に於ける日本無頼の徒は種々の工夫を凝らし、醜業婦の輸入をなせり。米国官憲は数人の探偵を使ひ是が事実を探り、不正者の上陸を阻止し、日本領事館は真正なる渡米婦人は極力保護上陸せしむるも、不正者は米官憲の所為の任すよりも、寧ろ官憲を補助し上陸を拒絶せしめたり。然るに無頼の徒は、地方の悪弁護士と一致し、人身保護律に依り上告をなすを例とす。米合衆国裁判所は之を審理するに、言語習慣其他を異にし不便なれば、屡々領事館に交渉して便宜を借り、遂に裁判毎に、館員も判事の傍らに坐せしめ、種々の解釈進言を求むるに至れり。或時某新聞紙は、日本領事館員は裁判に干与し、恰も立会裁判の如き体裁にて自国醜業婦の上告を拒絶せりと記載したり。其翌日午後余等帰宅せんとせし際、三人の在留者来館、領事代理たる余に面会を求め、大に興奮して曰く、汝は日本の領事にあらずして米国の領事なり、我々日本人に不利益を与ふる者なり。昨日の裁判の如きは、汝の意見にて善良の日本婦人を帰国せしめたり。仍て我等汝の生命を貰はんとす、覚悟せよと、各自隠し持ちたる「ピストル」を出し事将に重大に至らんとするや、隣室より雇外国人「ダニエル、エス、リチャードソン」氏太き洋杖を携へ入来り曰く、領事貴下余に乱暴者の向脚を折り三階より往来に放出することを許せ。余曰く善しと。リ氏将さに最先の無頼漢を打たんと身構へたれば、三人其剣幕に恐れ帽子其他を遺棄し倉皇として逃げ去れり。リ氏は容貌魁偉なる小丈夫なれ共、性温厚篤実、平素人を打つ如き人にあらず。然るに此時は半ば恐喝し、半ば激昂し余を救はんとせしものなり。氏の心情と頓智は感謝に堪へざるなり。
 当時我醜業婦は八十余人ありて、無頼漢の食ひ者となり、市内に半公然醜業を営みしかば、在留者中有志者、市の官憲に迫り営業を禁止せんと請ひしも、独り日本人のみに限り禁止する能はず、宜しく諸君其家々に赴き営業を防〔ママ〕害すべし、余等は見て見ぬ振をなすべしと。於是有志者二三十人、毎夕交替に醜業者の多数住居する街に赴き、盛んに防害を試み、他方幼者逆待防止会と一致し、十六歳以下の醜業婦人の救助に努めたり。

醜業婦の送還(71頁~)
 明治廿九、卅年頃新嘉坡(シンガポール)在留日本人は約千人にして、内九百余人は女子にして其九割九分は醜業婦なり、其多くは誘拐されたる者に係る。彼等姓名を偽称するが故に、外務省より取調べ帰国せしむべく命ぜらるゝ毎に多大の困難を感じたり。新嘉坡政庁婦女保護官と協同し、漸く名簿を調製したるも、馬来半島「スマトラ」瓜哇等に至りては、到底之を知るに由なし。偶々被誘拐者を物色し呼出すも容易に実情を吐かざるを常とす。或時小西氏と被誘拐者及主婦を呼出し取調ぶるに、曰く父母の許諾を得て香港に来り、更らに当地に転航したるものなれば誘拐されたるにあらずと主張す。或時余其挙動の不審なるを見たれば、主婦を帰宅せしめ、徐ろに訊問せしに、女泣て誘拐され且可驚虐待に逢ひつゝある実情を告ぐ。盖は主婦の面前にて実情を告ぐれば、後日如何なる憂目に逢はんかと気遣ひ、反対の言辞を云立つるなり。依て再び主婦を呼出し、早速帰国せしむべきを申渡す。主婦は紋切形の如く、千幾百弗を出し抱へたる者なれば、六ケ月の猶予を請ふと歎願す。余之に歎願の謂れなきを告げ、旅費の支出を命じ、次便にて長崎又は神戸に帰らしむることを命ず。新嘉坡の法律に人を誘拐し且醜業を余儀なくする者には大なる刑罰あり、余より之を告発する時は乍ちに罪人となるが故に、彼等之を恐れて承服するなり。斯くして主婦より旅費を支払はしめ、領事館より日本船の船長又は事務長に保護を依頼し、神戸又は長崎の官憲に引渡すなり。中には誘拐者にして全然旅費の貯へなく、又は其出所なきものあり。其場合には船中の食料代として、五弗乃至十弗を私嚢より事務長に交付し送還をなしたり。之は外務省に斯る資金なければなり。其後船舶法制定せられ、領事は日本船船長に対し此類の臣民の為め送還命令を発することとなりたり。
 海峡殖民地総督「サー、チャーレス、ミッチェル」氏婦人(レデー、ミッチェル)は、醜業婦の哀れむべき境遇に同情し、屡々余に可及丈の方法を講じ、新嘉坡港に来ることを制止せんことを以てし、又保護局長「エヴァンス」氏と協議せしめ、十六歳以下の者は随時停業せしめ、余の手より本邦に送還することに尽力せられたり。或時婦人曰日本人の在留者は千人内九割以上は醜業婦人にして、其割合を失し、其多くは英国より来る無邪気なる兵士の誘惑者なり。しかも其夫人は自由意志にあらず、他人より強ひらるゝ醜業者なり。何とか方法を講じ、最少限度迄減少したしと。余の在任中或事情の為め、禁止案採用せられず、唯二年半の間百五六十人を送還せしのみ。而して余が暹羅に転任を命ぜられ出立せし日、彼等一大祝賀会を催ふせしと云へり。
 大正九年余「サンパウロ」赴任の途次同港を通過し、山崎領事より醜業婦退去の顛末を聞き、時勢の進歩、外務省の態度の変化と、在留日本人中多数の紳士出来、同領事に協力し、此大事業を遂行し、今や同港には一人の日本醜業婦無しと云ふ、喜悦に堪へざるなり。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1268579/44

沢田順次郎「姦淫及び売笑婦」昭和10年3月17日発行 ※1935年
第三節 南洋及び東洋に於ける売笑婦―日本娘子軍の発展
 ・・・面白いことは、此れ等の集まり売笑婦の国分けで、南洋と東洋とに多く発展せる者は、日本の売笑婦で、支那の売笑婦は之れに次ぎ、欧州の売笑婦では、独逸、仏蘭西及び露西亜の女が多く、其の次ぎは米国の売笑婦である。・・・然るに日本の娘子群は、之と反対して、東洋と南洋とに大勢力を占め、欧洲及び南米等は微弱である。此の事実は、外務省の統計に徴すれば明かで、我が海外に於ける娘子軍は、支那を第一とし、次ぎは新嘉坡、浦塩、バタビヤ、ホノルヽ、香港及びマニラの順序で、其の他を合せ総数二万三千である。其の内訳を示せば、次の如くである。
地名     売笑婦の数
支那      16,424
新嘉坡(英領) 2,086  ※シンガポール
浦塩(露領)  1,087 ※ウラジオストク
バタビヤ(蘭領) 970
ホノルヽ(米領布哇) 913
香港(英領) 485
麻尼刺(米領) 392 ※マニラ
桑港(北米合衆国) 371 ※サンフランシスコ
柴棍(仏領)   192 ※サイゴン
孟買(英領印度) 147 ※ムンバイ
晩香坡(英領加奈陀) 83 ※バンクーバー
シドニー(英領濠洲) 74
シカゴ(北米合衆国) 35
ポートランド(同上) 27
墨西哥(北米) 24 ※メキシコ
秘露(南米) 23 ※ペルー
盤谷(暹羅) 8 ※バンコク、シャム
倫敦(英国) 7 ※ロンドン
独逸     4
仏蘭西    4
 これは大正三年の調査で、少し古いが、此の総数は二万二千三百六十二人で、此の内支那は、過半を占めて居る。支那で最も多いところは、関東州の八千三百八十八人次は牛荘の一千九百二十四人、奉天の七百九十人、安東の七百七十一人、上海の七百四十七人、哈爾濱の六百五十六人、長春の五百七十三人、斉々哈爾の四百五十一人漢口の三百八十四人、遼陽の三百人、鉄嶺の二百八十九人、天津の二百五十一人、芝罘の二百二十一人、間島付近の百九十八人、其の他百人以下の各地方を合せて、一万六千四百二十三人の大数に上って居る。尚、此の統計以外に、密売淫に従事する者の約三割はある見込みといふから、日本の海外売笑婦は三万は下らないと思ふ
・・・斯くの如く、海外に於ける日本の売笑婦は、世界第一と言はれて居る。故に日本の売笑婦に対しては、欧米人も一歩を譲り、何れの地に於いても、日本の売笑婦を向ふに廻して、競争する者はない。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1442404/109

満洲事情案内所編「まんしう事情」昭和11年5月25日発行 ※1936年

先駆者娘子軍
辺陬の地が拓かれるとき、同時に、いや時には前以て地を占領してゐるといふ素早いのは娘子軍。たゞ此等が対象とならないのは農業移住地だけだ。熱河挺身隊が一日一城を陥れる早さで、トラック隊の列が南下した。その後輜重トラックが通る、商人のトラックの荷物の中には生物もゐた、どうもこれは兵隊さんの引力もあらうといふ、将校が思ひやりで黙認するらしい。
 鉄道建設の為に現業本部が出来る。其処は家らしい家は見えないが人の混雑する、バラックの都会が出来る。板張り間口三間くらゐ、奥行これに準ずる何々ホテル。棒杭の上に板を渡した―高い方がテーブル、低い方が椅子といふカフェーなどが出現する。ビール一円は廉い方といふ次第。北満といっても哈爾濱は別として、こんな新開地若くは小さい町の宿は原則として兼業である。要求の然らしむるところなのであらう。何の兼業かは読者の第何感かで分る筈だ。
 斯うした町でも芸者といふものはやはり髪は国粋派である。髪結女なんてゐないが誰かゞ恰好をつけるらしい。道は凸凹でも、土埃が何寸の中でも、夜は街燈一つ無からうが招きに応じて出てゆく、若し夫れが雨が降らうなら、其日とあと二三日はゴム長靴を穿いて、褄をまくって泥を渡りなさる、正に壮観である。随分酔払うがなかなか帰りに泥漬にはならぬといふ。此頃は田舎でも日本人が居るが建国以前は北鉄沿線の小駅の宿など一年の投宿者何人もない、そんな地にも女は朝鮮人が多いが内地人もまた相当居た。これ等は偶に見る日本人には力めて会はせないやうにしてゐた。低級なのを対手だから恥しいだらうと思ふとさうではない、業主の政策の然らしむる所で、女等に郷国をなつかしめさせないといふ深謀遠慮の次第だ。

南洋及日本人社「シンガポールを中心に同胞活躍 南洋の五十年」昭和13年6月3日発行 ※1938年

一八、娘子軍時代
1、明治維新以後の日本人の発展
・・・随って明治維新以来日本人の海外発展が亜米利加海岸の外、至る処婦女子の賤業を先駆とせざるを得ざる一種変態の発展であったことも、怪しむに足らざる事実であった。
 米国海岸は労銀高く日本男子が甘んじて出稼したのであって、敢て婦女子の賤業を先駆に発展する必要はなかったのであるが、然も満州、支那、南洋地方は労銀低廉で劣等生活に甘んずる労働者が多いのであるから、特別の事情なき限り日本人の労働者を必要とせず、随って婦女子の賤業が発展の先駆になったのも是非なき次第であった。蓋し徳川時代の鎖国政策と武士制度の下に数多の人を飼ひ殺し、自営奮闘の尚ぶに足らざるを教へてゐた祟りは、工業の海外に誇るべきものなく、商人といへば御用達類似の狡猾漢のみを作りだし、一旦開国しても海外に貿易する物もなく、勇気もなく却って九州地方の冒険女子が相率ゐて西南に色を売りつゝ発展したのである。人或は日本の婦女子が海外に賎業した事実を国家の醜恥と為し、極めて之を排斥せんとするが、そは海外に於ける日本賎業婦の横流を顕著ならしめた裏面の実情を知らず、日本が此方面に貿易品を有せず、商人の多くが此地方に来ても仕様がなかった為めで、寧ろ当時の日本商工界の無能力、無気力を間接に証明したものとして、それをこそ日本の恥辱といふべきであったのである。一賎業婦を南洋及び其他の海外に出さゞる謹厚の朝鮮が遭逢した運命を思ふ時、個人としても団体としても敢為大胆なる者でなければ到底世界競争に堪へ得ないことを会得せずに居られないのである。
 易の泰の彔に曰く「暴荒憑河」と、暴荒は清濁併呑の意、憑河は冒険の謂である。論語に孔子が憑河暴虎を斥けたのはともすれば蛮勇を振ふ子路に対する一片の投薬に過ぎなかったのである。

2、娘子軍の元祖
 明治の初年、横浜より日本女子を妻とせる一英人の新嘉坡に転勤し来り、幾もなく死去せる者あり、その妻断髪男装して欧羅巴ホテルのボーイとなったが、容色なほ衰へず遂に人に誘はれ陋巷に賎業を始めたのが、実に南洋に於ける日本賎業婦のお祖師様だと伝へられて居るのである。然も需要は必然的に供給を誘ふのである。其類の集る者月に年に漸く多く、男子の之に寄生する者も続出し、爾来これ等の男女は輔車相依って或は馬来半島に、或は蘭領諸島に、或は濠洲方面にその羽翼を伸ばし、隠然として南洋の豪を以て自任する者を出し、高潔好きで然もお祭り騒ぎ癖ある日本人社会から何かと云へば、金銭の相談を是等豪傑仲間に持ち掛けしめるに至ったのである。然し斯くナブられつゝあった賎業婦も一部落を成せば必ずそこに日本雑貨を売る店舗を生み、花街の娘と所謂旦那持ちが競ふて日本雑貨を外人に購買せしむる機縁を作ったのであった。
 明治維新以降の邦人南洋発展史は之を娘子軍時代、護謨事業勃興時代、欧洲大戦の好況時代、戦後の不況時代、満洲事変後為替安時代の五項に分けて記述するのが便利である様に思ふのである。

3、草分と其頃の新嘉坡
 維新前後、尤も古い時代に新嘉坡に来てゐた人と云へば元ローヤルシヤターの母親さんと云ってゐた松田うたさんであったらう。何んでも御維新の三四年前大阪で支那人の細君になり、一所に新嘉坡に来て店を開け仕入れに帰朝中台湾征伐が始まり、便船がなくて帰星を遅らした事があったと云ふ話をしてゐた。サーカスに加って来星其まゝ居残った傳多の婆さんと共に、井上外務卿の署名ある旅券を持って威張ってゐた。俗に神戸新と云ってた淡路島の家老の家に生れたと云ふ稲田新之助爺さんも御維新前外国船に乗ってゐたので既に一度新嘉坡に来た事があるが、其後米国に渡航しマカオから新嘉坡に来て腰を落付けたのは明治十七八年頃だったと云ふから、馬来のお豊婆さんは勿論来てゐたに相違ない。更に現存してる人では米屋の婆さんと云ってる小川しのさん(七八歳)が来たのは明治十年だと云ふから恐らく今居る人では一番古顔なんだらう。小川の婆さんが来た頃はまだ新嘉坡に二階建はなくアタップ葺きでカトンに行くと馬来人ばかりであったそうだ。ビーチ路から花街までずっと湿地でマライ街あたりの丘に支那人の墓場があったのだそうだ。随って邦人娼家の発祥地は所謂花街といった馬来、マラバ、ハイナム街辺りではなかったのである。日本街は後に澁谷銀治の細君になった九番のお安が大道で芭蕉果を売ってゐたからつけられた名だといはれて居る。米屋の婆さんもお安といふのが長崎で支那人の船乗りと馴染になり、自分よりずっと前に来てゐた。其頃廿歳前後で大変別嬪でしたと話してゐた。清水たつ後に十三番の腹ぼての婆さんといってゐたのは、最初米屋の婀媽をしてゐた、異人について来を〔ママ〕のだが其異人が香港で死んだので欧羅巴に行く筈だったが、此処に上陸って仕舞ふたのである。しの婆さんよりは少し遅かったそうだ。兎に角明治十年頃には既にマライ街に二軒の邦人娼家があった。軈てそれが十軒になり五十人も六十人も娘が居る様になったのである
 蔦田歯科医が廿四年に来た頃でさへタンヂョンパカーやカンポンバル方面は皆山で、ラフルスホテル辺マングローブが茂ってゐたさうだ。
 バンダが出来たのは一八九九年で支那人ばかり最初は邦人の娼家はなかった。華民保護局が出来たのは一八八八年で支那苦力が奴隷的に輸入され、殊に売られて来る女が余りに可愛想だと夫等を保護するために出来たのであって、インスペクタ・ピッカリング氏が最初の局長で、誘拐されて来る哀れな日本娘も亦其処で保護されてゐたのである。
 新嘉坡に日本の名誉領事が置かれたのは明治廿一年四月で、今のAPSが居るビルディングの処に事務所を持ってゐた支那人胡施澤氏が開祖だった。そして廿二年一月廿二日中川恒次郎氏領事代理として着任、ソフィヤ路に始めて帝国領事館が開設されたのであった。
 当時女郎屋には二木氏を始め銃後版の澁谷初五郎夫婦など云ふ確りした者もゐたが、店らしい店を開いてゐたのはハイストリートに國井藤兵衛と云ふ人が開けてゐた大和商会位のもので、三井物産が廿四年バッテリ路の今のチャタード銀行のある所に支店を開設したのが、日本貿易業者の南洋に発展する抑々先駆であったのである。・・・

8、日露戦争時代(143頁~)
 それから日露戦争の大勝に依って形勢は更に又ガラリと一変した。・・・娘子軍の全盛時代も恐らく其頃が絶頂であったらしく思はれるのである。明治卅九年華民保護局への登録数実に六百二十人に達し、まだその外に登録洩れの所謂モグリが相当ゐたのであるから、花街と女郎屋の繁昌振りの如何に物騒いものであったかゞ創造されるだらうと思ふのだ。

9、其頃の在留邦商
 娘子軍に寄生して南洋の邦人商店が発展したと云ふのは余りに気の毒な様であるが、全く事実であったから仕方がない。・・・其他馬拉加芙蓉、カラン等苟も日本娼妓の部落をなせる処雑貨或は呉服を鬻ぐ者之無きはなく、更に娘等の需要に応ずべく至る所に行商が入込んでゐたのである。

10、娘子軍時代の末路
 然も流石に我世の春と全盛を旺歌してゐた娘子軍時代にも漸く衰調が明かに見えて来た。大正二年暮れ白人娼婦一斉に退去を命ぜられ、夫々尤も近い領事館の所在地まで送還されて、昼をあざむく軒燈に不夜城の栄華を誇ってゐた花街にも時ならざる暴風の襲来を思はすものがあったのである。斯くて愈大飛躍の気運に遭遇した我南洋在留同胞社会は先づ其腐乱した毒血を絞り出して、愈真剣に戦闘準備を整へる為めに突如一種の血清療法を受けねばならぬのであった。それは時の領事藤井實氏の英断と政庁当局の荒療治に依ってゞあった。アンシャマトワンだとかニーサンなぞ云ふ聞きづらひ称乎を半島の山奥、蘭領の島々のはてに至るまで聴かされねばならなんだ当時の有様で、何うして在南邦人は世界大戦と云ふ千載一遇の大舞台に乗り出す事が出来たゞらうか。開国五十年に近き努力を以てして尚且つ婦女子を海外に輸出し、甘んじて賎業に従事せしむる以外殖産工業を以て世界人類の生活を向上せしむることに資すべき何者も無いとすれば、寧ろ日本人の存在は呪ふ可きであったかも知れないのである。然も難きを避けて易きに就くのが人情の常である。まさか可愛い自分の娘を南溟の瘴癘に苦しませ肉を鬻ぎ血の涙を絞らせて唯一身の安逸を貪らんとする程の極悪無道の親も無かったらうが、田舎娘の無智を喰物として比較的同義観念の薄い海外殖民地の不義の享楽にふけらうとするが如き者は少なくなかったのだ。先づ内に之等徒輩を殲滅し努力奮闘自らの汗に依って新天地を開拓して行かふと云ふ元気ある者ばかりにならねば、折角の機運をとらえても真に日本の南洋発展は確実な基礎を築く事は出来なんだのである。況んや全盛を極めて醒むる事を知らない歓楽に酔ふてゐた花街にも裏面の暗闘は絶ゆる事なく、ニ三有力者が新たに手を染め出した護謨栽培事業に投下された資本に対しても怪しむ可き風聞が切りに伝へられ、在留同胞の親睦和衷を標榜して廿年の歴史を有する共済会の内部も腐敗し切って、最早や表面の糊塗ではどうにも遣って行けない処まで形勢は切迫しつゝあったのだった。而して卅五六年頃から既に其落伍者や不平党に依って如何はしい珈琲店等云ふものが営まれ、当時北橋路にあった五六軒のそれ等の店を圧倒し尽さんとした事が動機となり、此処に嬪夫狩りの大活劇が商売がたきの密告猜排に胚胎して突如颶風の如くに所謂密航者の頭上に襲来したのであった。暗闇の恥をさらけ出す事位はものかは降りかゝる火の子は何うしても払はずには居られないと互ひに訴へ、陥入れんとして藤井領事の大英断により大正三年の春から五月頃までに追放された者、海峡殖民地と馬来半島を通じて殆んど百に近かったらう。然も身の程を弁へずに何処へでも出娑張るそれらの男は斯くて一挙に駆逐されて仕舞ふたのであった。そしれラヽんが苅取られてから護謨の若樹がスクスクと延び育った様に、花街方面から如何はしい男が影を消して同時に堅実な在留邦人の発展が真に目覚ましい程の活躍を見せて来たのだった。

11、藤井領事嬪夫追放
 英領の法規は男子の女郎屋経営を禁じて居る。敢て表面のみならず裏面に於ける関係も許さない。然も日本人と云へば昔は直ちに売笑婦を連想せしめ帝国領事をすらアニシャマ・トワンと呼んだ者さへあるのである。随って当時妓楼に男子の寄生を已むを得ずと看過し嬪夫も亦怖るゝ政庁当局の寛大に狎れて終に世上に跳梁跋扈するに至ったのである。然し在留邦人の素質も変り地位向上して政治的にも商業的にも果た栽培事業方面にも目立って発展して来て国違ひから邦人男子の総てが女郎屋のアニシャマと思はるゝ如きは到底忍ぶことの出来ない侮辱であり、甚だしく邦人活動の支障となるものと認められ彼等の一掃が焦眉の急となって来たのである。
 大正三年四月或日の早朝特別命令を帯べる数名の刑事は青天の霹靂的に邦人遊廓を襲撃して嬪夫の頭目四名を捕縛せんとした、内一名は早くも風を喰って逃走せしも三名は逮捕されて監獄にぶち込れて仕舞ふた。彼等は護謨園主、歯科医、雑貨店主と表面を繕ふてゐたが政庁のこの英断に全く手も足を出す事が出来ないのであった。遊廓は上を下への騒動で当の嬪夫はいふ迄もなく多少の関係を妓楼に有する者は蒼くなって倉皇行李を収めて縄目を避け姿を隠して仕舞ふた。有志の奔走となり領事の活動となり遂に政庁当局をして「彼等が確に退去するならば強ひて投獄せずといふことになり一々写真(正面、横、背面の三面撮影)を警察に残して英領土を追放されたのであって其数四十余名に及んだ。
 新嘉坡嬪夫退治の報四方に伝はるや半島各地の恐怖一方ならず、良心のまだ麻痺せざる者は直ちに業態を改め、逃げ足の早き者は何処へか姿を晦まして仕舞ふた。更にこの嬪夫征伐と同時に新嘉坡では以後新に娼妓の鑑札を下付せざる方針を決したのであった。

12、廃娼問題断行
 邦人の護謨栽培事業勃興、欧州大戦開始と南洋の天地にも時代の変調は滔々として押寄せて来つゝあった。如何に女ならでは夜の明けぬ植民地と雖も、財産が出来れば体裁を飾り度くなるのである。大戦好況の絶頂時一夜に千金を蕩尽する遊興子もあったが、既にそれは女郎屋でなくして料理屋の二階で芸者を揚げての散財であった。然も大正八年の暮れ頃から景気逆転の兆候漸次歴然たるものがあったが、よもや急転直下全盛を極めてゐた日本の南洋発展が根底から覆へされ様と誰が果して予感し得たであらうか。戦後愈々堅実なる在留民の発展を期する為めに九年正月、新嘉坡総領事館管下各地の在留民代表は山崎総領事代理より招集されて新嘉坡に集まり、断乎年内に自発的廃娼を実行することを決議したのであった。三十年の歴史と猛烈なる彼等の活躍は到底容易に其絶滅を強ふ可くもあらずと、ツイ数年前までは思はれてゐたのであったが、欧州大戦に依る堅実なる在留同胞の発展は内容の改善と面目の向上を痛感する事一層痛切なるものあり、到底彼等の存在に依って受くる軽侮に甘んじ、為めに着実なる発展がともすれば動揺せしめらるゝ如き事あるを忍ぶ能はざるに至った結果であったに相違ない。各地代表は当時進んで此至難なる事業に当らん事を何れも欣然として決議したのであった。尤も彼南は既に其前年度末廃娼を断行して居り、新嘉坡も亦各地に先達ち同年六月一杯で断然廃娼を決行する事を声明し兎も角も二百有余の公娼を全部撤退せしめたのであったが、支那人の排日貨運動に依って惨憺たる悲境に陥入れられた上、護謨価無前の暴落に逢ふて極度の不景気に襲はれつゝあった半島各地の実情は、断乎たる態度に出でし約束の廃娼を決行するには余りに甚しい惨状を呈してゐたのだった。
 新嘉坡と彼南は開戦と同時に白人娼婦の撤退に連れて一切新規の開業を承認しなかったのであるから、さしも全盛を極めてゐた其醜業区も漸次衰運の顕著なるものあり、殊に在留同胞の財力が充実してゐたから比較的絶滅は容易であったが、何しろ尚千五百に余る娼婦を擁してゐた馬来半島では斯如簡単に一挙解決すると云ふ訳には行かなんだ事情があったのである。娘子軍の全盛を極めてゐた頃は蘭領スマトラのメダン付近等を加へて、当方面一帯に活躍しつゝあった彼等の実数は六千に余り、年優に一千万弗からの稼ぎがあったのであるから其財的勢力侮る可からざるものあり、殊に四十年近い歴史を有して居るのだから経済関係の錯綜せる事実殆んど想像以上であったのである。然も彼等の奮闘は要するに不健全であり、収入の大部分は当然浪費さる可き性質のものであったから、其目覚ましい活躍に顧みて何等残された事業の無かったのみならず、寧ろ莫大な債務を彼等は所謂チッテなる印度人の金貸業者等から負はされてゐたのであって、容易に動かれない内情がそんな処にもあったのであった。だから醜業婦其者の駆逐は単に在留民の態面を修飾すると云ふに止まらず、経済方面にも直接痛痒を感ずることさして深くはなかった筈であったが、間接に其収入を融通して貰ふてゐた方面―殆んど半島在留邦人の大部分が為めに蒙むる影響は実に甚大なものがあったのである。支那人のボヰコット、護謨価の暴落、極端な不景気にかてゝ加へて廃娼の断行と来たのであるから、将に半島在留同胞の多数は全滅の悲況に直面させられてゐたのだった。

廃娼断行代表会の出席者
 大正九年一月四日山崎総領事代理の招請に応じ、廃娼問題を協議すべく新嘉坡に集った各地日本人会代表は廿九名で
 彼南 会長岡庭喜惣治 副会長長田利明 理事荒木竹三
 マラッカ 会長彦坂正義 理事筒井信吉
 ケダ州アロスター 会長田邊吾一
 ペラ州タイピン 会長内田鉄吉 理事佐藤源次郎
 同 一保 会長水上庄太郎 副会長下山均 理事遠藤良助
 同 テラカンソン 代表諸戸末松
 同 チッテワン 代表川原忠吉
 セランゴール州吉隆坡 会長佐竹逸蔵
 同 コーラクベ 支部長長谷川義男
 同 カラン 支部長桑山定省
 ネグリスミラン州芙蓉 副会長朝永誠三 理事山田政記 理事小岩井靖
 同コーラビラ 支部長松永麟五郎
 柔仏バル 会長野村勇 理事明坂安治 理事濱口友彦
 同 バトバハ 会長佐々木亦二 理事安田隆治
 同 モア 代表谷由輔 代表山崎政吉
新嘉坡川は同会長宮下龍蔵、副会長中川菊三、理事大塚伸二郎、古藤秀三、高木復亨、竹内精一、木村増太郎、星崎武夫及び佐藤栽培協会幹事の九名でバトバハの佐々木氏を座長とし四日に亘る論議の結果尤も円満に自発的廃業を決議したものであった。

13、新嘉坡の女郎屋と嬪夫の引揚を送る
 南洋娘子軍なる名を何時の頃誰が称へ出したかを知らないが、二六新報に黒龍会や参謀本部や洲崎の大八幡楼の主人公であった中村伝蔵氏等から材料を貰ふて「南洋娘子軍」なる題目で当方面の娘さんの事を連載してゐたのは明治三十三年秋から三十四年の夏頃までの事であった。当時既に馬来半島からメダン地方にかけて約四千の娘子軍あり、年々五百以上の補充が何うしても必要であると云ふ様な事まで書いたと覚へてゐる、殊に其頃は南海先生の康有為が新嘉坡に抑留されてゐた為に宮崎滔天が態々逢ひに行く、福本日南も亦出掛けると云ふ騒ぎで、私の若い血汐を沸き立たせた事は頗る非常なものであった。遂に孫逸仙の挙兵に参加すべく用意をしてゐたのであったが目的を達しなんだ等が原因で結局今日までブラブラ浪人生活をする事にもなったのだけに、私の方から云ふと随分久しい南洋娘子軍とは馴染であったのである。其後更に長崎の出雲街にゐた侠客丹波屋の親分と懇意になり、益々当方面の詳細な実況を親しく聞く事を得て愈々一度は自分も渡南して見やうと云ふ気になってゐた折りから、妙な事で此処とは特殊な関係を持ってる岩本千綱氏は宇都宮太郎中将や梅屋庄吉氏らと交際する様になって、遂に大正四年の春南洋まで流れて来る事になったのであった。
 然し私の新嘉坡に来た時は既に娘子軍の勢威はとくに盛りを過ぎてゐたのだった。最も前年所謂ピンプ退治があり、醜業関係の男が全部逃出した為に残った女将は勢ひ途方に暮れて居ると云ふ有様で、澁谷や二木等云ふ頭株は死んでゐたし、十三軒からの女郎屋を持ち百人も娘を抱へてゐたと云ふ一保の山田すらもう見る影もない程寂漠に帰してゐたのであった。然し外観から見る景気はまだまだ素晴しいもので、昼を欺くナンバー入りの軒燈輝くカキリマに友仙モスの派手な店晴着の胸を張り、黄い声を振絞って盛んに通りすがりの漂客を呼立てゐたのであって、勿論其時はまだ白人の娼家も軒を列べてゐたし、其繁昌振りは確かに新渡航者の目を驚異せしむるに十分であった。然し事実はもう其頃から花街は既に魂を抜かれた抜殻であったのだ。私に云はすれば藤井領事のピンプ退治其場が既に南洋一帯の娘子軍をまとめて行く事が出来る人間を失ふた結果であったのである。丹波屋が死んでも多田亀が生て居りさえすれば勿論南洋娘子軍は一糸乱れず勢威を失墜する事なくして今暫くは繁昌を続けて行くことが出来たかも知れないのであった。然し時勢をどうする事も出来ないのだ。丹波屋死んで一年もたゝない中に多田亀が西伯利亜で非業の最後を遂げたのは結局運命であったらう。多田が死んではもう丹波屋の後を継ぐべき腕のある者は何処にもゐなかった。喧嘩力の強いのや相当理屈の言へるのならゐない事もなかったらうが、前途が見へて居るのであるから目先きの見へる者は来はしない。随って私は現在残って居る女将や蔭に隠れて居る二三の男を知らぬでもなかったが、心密かに撤廃が何時誰の口から呼ばれるかを待ってゐた、然も其時は思ふたよりも案外早くやって来た、誰の力と云ふよりも私は時勢の力―欧州大戦に影響された日本の南洋発展がこの要求を齎したのだと信じて居る。同時に山崎総領事代理が機運の熟した事を鋭敏に観取して機会を失する事なく、各地代表会議を召集して一気に自廃決議をさせて終ふた果断を心から讃仰せないで居られないのであった。或は其遣り方に就いて異論をはさむ者があったかも知れぬが、大勢には抗す可からず、内輪を云へば苦しい事は各地とも山程有ったに相違ないが、一言半句も代表者会議席上では不賛成を唱へ得る者はなかったのであった。女郎屋の存廃を道徳問題や国家の体面から論ずるのは野暮の骨頂である。現代は何事も先づ資本家の利害関係を基として計算されねばならないのだ。日本が一等国民として堂々土庫に事務所を開設し馬来半島でドシドシ護謨園を経営して居るのに、同胞である女が素足で通ふ国違いの玩弄物となって居るのを其儘に放置して居る事は出来なかったに相違ない。今引揚げて行く女将とそして抱娘に対して私は万斛の同情を持って居る。諸君多年の営業が奪はれ世智辛い日本に帰って行かねばならぬのは全く情ない事であらうが、国家の発展に伴ふ必然的結果であるとあきらめて欲しいと思ふのだ、御国の為めだ諸君はしほしほと追はるゝ者の如くに帰って行く事は無いのである。過剰な国民は何れ何処かに掃き出されねばならないだらうから、例へ南洋一帯が諸君の生存を拒絶しても人間至る処に青山あり、自分がゐた土地が益々同胞の活躍に依って繁昌して行く為めであるから諸君も勇み喜んで引揚げて貰はなければならないだらうと思ふのである(大正九年六月記)

一九、花街の思ひ出
 欧州戦争前には南洋で女郎や旦那持ち(洋妾(振り仮名「ラシャメン」)と云った所謂醜業に従事してゐた日本娘がざっと四千人程もゐたであらう。新嘉坡の花街(マテイ街、マラバ街、ハイナム街)及びバンダだけでも四百以上の娘がゐた。殊にスマトラの煙草耕地として有名なデリー地方には千近い旦那持ちが婉然女護の島の観を呈しつゝ肉に飢えた外人の要求に応じて其貞操を切売し、或は年期をきめて仕切られてゐたのである。其他馬来半島各地は勿論の事、蘭領の島々から蘭頁、盤谷、西頁、トンキン、マニラと殆んど彼等の影を見ない処なく南洋の至る処に日本人の女郎屋町が立派に出来てゐた。そして長崎の丹波屋とか長田亀なぞ云ふ親分に依って統卒され年々五六百人も新しい娘が補充としてロの津や門司の港から香港、新嘉坡へ誘拐されて行きつゝあったのであった。
 香港渡し二百五十弗、新嘉坡渡し三百弗乃至三百五十弗が相場で、旅費雑用一切を差引いて一人頭二百弗近く儲かったと云ふから少くとも十万内外の金が年々誘拐者の懐中に這入った勘定だから、当時彼等の仲間が如何に活躍してゐたかは蓋し想像に難くないだらう、のみならず長崎郵便局が取扱ふ南洋から彼女等が郷里に仕送る金だけでも年額二十万円以上に達してゐたと云ふから其全額に至って必ず更に幾倍したに相違なく、その大部分を送りだしてゐた島原、天草がためにどれ程霑はされてゐたかは中々今頃話しても一寸真実とは思へぬ程であったのだ。
 随って誘拐とは云ふものゝ娘自身も親達も寧ろ進んで南洋へ連れて行って貰ふことを彼等に懇願してゐた程だった。殊に旦那に死別れたとか或は万以上の纏まった手切金を貰ふた彼女等の成功者が光り輝くダイヤやルビーの指輪を五六本も嵌て突然帰って来る様な事実が時にはあったのであるから、其評判は忽ち狭い部落の空気を極度に昂奮させて我れも我れもと南洋行きを若い娘に志願させる様になるのだった。
 勿論可愛い娘を遠い南洋へ身売りさせる彼等の家庭が物質的にも精神的にも恵まれてゐよう筈はなかった。天草の或る村で大胆にも公然娘の旅券下付を警察へ出願した者があった。吃驚して懇々その不心得を説諭させようと態々巡査をやったのだが、余りに惨憺たる其家庭の実情を見ては流石に巡査も同情に耐へず、却って自身南洋行を世話して遣らねばならなんだと言ふ話さへあったのだ。 
 何しろ両親とも病身で思ふ様に働けない上、ヤッと十八になった其娘を頭に七人の弟妹が破れ果てゝ雨露をしのぐことさへ出来ない小屋に飢えと寒さに顫へつゝ辛うして生てると云ふ有様だったのだ。紡績女工等ではとても追着かない内地の女郎屋へ身売したって果して半年支へることが出来たらうか。恥や外聞なぞ云って居られる場合ではなかった。巡査が同情して南洋行の世話をしたと云ふのだから余程惨憺たるものであったに相違ない。然も其娘は間もなく新嘉坡の花街で全盛を唄はれ月々欠かさず七十弗からの仕送りを六年も続け、スグの弟は汽船に乗って運転手の免状を取ったし、其次の弟も電気学校を出て相応の給料を貰ふまでになったのだった。
 然しこんなのは勿論南洋でも珍らしい事で、出稼の娘は寧ろ一時の虚栄心に煽られ浮々誘拐的の口車に乗せられて来たと云ふのが多かった。だから中には相応な家に生れた娘もゐたし、女学校の卒業近くまで行った者さへ間々あった。現に彼南では貴族院議員の妻君だった人が女将をしてゐたし、仮名書の名家として有名な○○氏の姪が馬来○○番のお職で特に海軍の将校連に持囃されてゐたなぞ云ふ話は恐らく今でもまだ忘れてゐない人が居るだらう。
 斯くて新嘉坡を中心として南洋の島々、山の奥まで入込んで素足の馬来るや不潔極まる支那苦力、さては真黒な印度人さへ相手にさせて若い娘に血の涙を絞らせつゝ不義の栄華に耽ってゐた。日本人の女郎屋家業も遂に大正九年の正月、時の総領事代理山崎平吉氏の勇断で新嘉坡に召集された在留民代表者会議の協議に依って、断然自発的に撤廃することに決定した。そして彼南は其前年十二月限り、新嘉坡は其年の六月、馬来半島と英領ボルネオ一帯は同年一杯で兎も角も表面同胞の公娼は全部南洋から影を没して仕舞ふた筈だった。
 猶蘭領では大戦の前年既に公娼は全然禁絶され、其後更に私娼の取締を厳重にし、特に日本婦人の渡航を監視することになってゐたので僅かにメダンやパレンバンやボンテアナ等に昔の名残を辛うじて存する位に過ぎなんだ。然し国家の体面とか人道上から論ずればもとより問題にはならないが、端的幾千と云ふ醜業婦を一時に内地へ追返すと云ふことは到底経済上不可能な事だった。例へ自発的に公娼は廃業させても生るために或は性の必然的要求に余儀なくされて、遂に私娼の跋扈を如何ともする訳には行かなんだ、況んや旦那の名で彼等が国違ひについてる者を今更ら引離して追帰すと云ふことは到底出来ない相談でなければならなんだ。
 
出稼女の草分
 維新以降我国の海外発展が繊弱(かよわ)い女を先駆としてゐた事実は、甚だ日本男子に取って残念千万だったが今更ら幾ら悔んだ処が追着かない、淡路藩の稲田新之助は家老職の家柄に生れながら身を持ちくづしてマドロスの群に入り、御維新前亜米利加へ渡って探索方等になってゐたこともあったが、後厦門を経て新嘉坡へ流れ込み一かどの顔役となって神戸新の名を売り七十四まで長らへてゐた。
 「先で俺等が日本人の草分けさ、御維新前にも一度新嘉坡に来た事があった、其時分は毛唐だって今の様に偉張っちゃゐなんだぜ」と老人よく自慢話をして居った、神戸新が実際腰をすえて新嘉坡に落着いたのは何でも明治十六七年頃のことであったらう、彼は井上外務卿の発給した旅券を持って居た。
 古い仲間の太神楽一座で居残った博多の婆さんもだから恐らく同時代であったらう、サンダカンの名物女と有名だった木下くに婆さんが始めて南洋へ渡航したのも女盛りの二十八だったと云ふから、今から数えて四十七年前、矢張り其頃であった筈である、更に馬来のお豊婆さんなぞと現存してる連中がまだ二三人は確に居るであらうからとても男は偉張れない。
 然し新嘉坡に初めて日本娘が出現したのはまだそれよりも一昔前だったらしい、新嘉坡の丸の内とも云ふ可き土庫に近いジャパンステレツは彼処で後年澁谷銀次の妻君になったお安さんが芭蕉果を大道で売ってゐたから出来た名だと伝へられて居る。だから日本婦人がそんな古くから新嘉坡に渡航してゐたとしても彼等は決して最初から醜業を目的で来てゐたのではない事だけは確かに想像されるのだ、つまりは弱い女の境遇が余儀なく肉を切売りせねば生ては行かれなんだがためであったに相違ない。
 娘子軍の草分け横浜のお安が後年澁谷の妻君となったお安と同人なのか或は全く別人だったのか甚だそこらは朦朧たるものである。
 祖国を去って三千浬、東西全く知らぬ者ばかりの異郷に来て頼む良人に死に別れた若い未亡人が遂に陋劣な男子の誘惑に引摺込まれて醜業婦の群に陥ると云ふ事実は、必ずしも今でも珍らしいことではない。斯くして弱い女は外に生て行く方法が無いために遂に余儀なく貞操を売って惨忍な男子の玩弄物たる事を甘んじて居たのだった、況んや爾来同胞の誘拐師や嬪夫を生じて愈々浮ぶ瀬の無い淪落の深淵に幾万といふ哀れな娘が突落されてゐたのだった。而して、今や国威の宣揚と資本家の活躍に彼等の存在が甚だしく差障へるといふ、酷薄極まる理由に依って犬の子の如くに南洋から追払はれて仕舞ふたのだ。
 何れは弱き者、汝の名は女である、せめて蹂躙られた彼等の遺体に一片の香華を手向けてやるだけの同情があっても好いだらうと思ふのだ。人間の運命は境遇に左右される場合が多いのだ、善悪を論ずる前に我々は更に一層運命に柔順であらねばならぬだらう。
 我南洋娘子軍も斯くて五十年の歴史を残して淋しく消えて仕舞ふたのであった、枯骨空しく既に苔蒸して余りに古い話は今更ら尋ねるよすがもない、明治十七年の朝鮮事変に遅るゝこと二年、新造軍艦浪花、高千穂が堂々旭日旗を檣頭高く翻へして英国から回航の途、新嘉坡に寄港した頃にはもとより日本人街なぞ称すべき処はまだなかったが、紀州沖で難破した土耳古軍艦の遭難者を乗せて軍艦金剛、比叡が寄港した時には既に五六軒の女郎屋がかたまってゐたと伝へられて居る、
 時の金剛副長上村大尉が後年日露戦争で浦鹽艦隊を撃滅して威名を轟かせた提督が、当時一夜の契りを惜しんで態々彦之亟と署名した写真を置いて行ったのを、後生大事と持てる古い古い娘がスマトラの田舎にゐたそうだ。巴里の平和会議に特派さたれ〔ママ〕西園寺老公について行かれた若い近衛公爵にふられたと、彼南の女郎でいせといふのが泣いて悔しがったのと好一対、無智で世間知らず娘気質は何十年といふ時の流れを超越して少しも変らず保持れてゐたのだった、だが王公大将の尊貴さへ知られない天草や島原の百姓娘をして、誰でも男は卑しいもの、女の一顰一笑に靡かぬ者は無い筈だと自惚れさせるに至ったのは抑々誰の罪だったらう、其処にすさみ切った男の植民地気質の一片がありありと暴露されて居る様にも思はれるのであった、結局廃娼問題の根本は若い女の渡南禁絶に非ずして、男自身の覚醒に待たねばならないのだ、根本から新規蒔直しの南洋発展も確かりせねば危い。

花街の全盛時代
 何と云っても花街(ステレツ)の全盛は日露戦争直後であったらう、新嘉坡のハイナム、マレー、マラバの三街とバンダを加へて七百人に近い娘が店張着の晴手を競ひ、軒燈輝やくカキリマルバンコを持出し黄色い声を振り絞って盛んに客を呼び込んでゐたものだった、勿論白人娼家も軒をつらね卑俗な手風琴の騒音に足どりたどたどしく世の更けるまでマドロス連の唄声とダンスの音で賑ふてゐたのである。
 そして蘭領も其頃は瓜〔ママ〕哇、スマトラ、ボルネオと到る処に邦人の女郎屋が公許されてゐて等しく全盛を極めてゐたから幾ら娘を連れて来ても足らない程で西は蘭貢、カルカッタ、暹羅の盤谷から仏領印度支那の西貢、トンキン、ハイホンそれに新たに米領となったマニラが又盛んに日本娘を歓迎する、濠洲のブルームまでも遥々乗込んで行ったのであったから如何に当時誘拐団が活躍してゐたかは想像するのに難くないのである。
 戦勝気分に酔ふてゐた同胞は随分山奥の片田舎にまで売薬や雑貨の行商に出掛けたし、吹矢と云ふのが非常に流行ってボロイ儲けもあったのだが、やっ張り女郎屋の景気には到底勝つことが出来なんだが、スマトラのジャンビは漸く叛乱平定して討伐軍の将士続々引揚げつゝあったからでもあったらうが、アタツブ葺の掘立て小屋に過ぎなんだ邦人の女郎屋が順番の来るのを待切らない兵隊の群に遂々引ツ繰り返へされて仕舞ふ程だった、一晩に一人で五十人六十人と云ふとても信ぜられない程の客を取った当時の全盛振りを未だに忘れ得ない古い娘だって或は居るかも知れないのだ。
 馬来半島でも錫で賑はふ一保付近の好景気時代と来たら全く凄じいものだった。
 殊にメダンの煙草園が栄え石油坑が続々開発された当時の景気と云ったら実に素晴しいものだった。ロマテン氏の繁昌のみならず、若い白人に仕切られる彼の界隈一帯に所謂旦那持ちが瞬く内に千人を突破したのであるから、其等を顧客とするメダン在留邦商の鼻息と云ったらなかったのだ。だから女郎と云っても馬鹿にはされない、彼等娘が直接需要し或は客や旦那にすゝめて買はせる日本雑貨が即ち当時の対南洋貿易で、九州の或村の如きは全く南洋へ送る桜紙ばかりを年中漉てゐたのだった。
 然し全盛時代の馬鹿々々しいまでに栄えた景気のことを回顧して見ると全く夢の様な気がするのだ、スエズを越え印度洋を乗り切って幾週間振りかで新嘉坡に上陸したマドロスの群がすはるゝ様に花街の紅い灯に引付けられたのは決して無理ではなかったらう、然も彼等は殆んど一度や二度の登楼で其目的を達することは出来なんだ、それ程当時は客も詰掛けたし娘気質も荒かった、五弗の揚代金は必ず段階梯を上る前に取られるのだ、而して漸く寝かされたと思ふと大概は林檎の一個も食はされたばかりで追払はれるのが常だった。だからたまさか洋袴のポケットから光りまばゆい金貨でもつまみ出して見せ様ものなら態々朋輩女郎まで呼んで来る。女将までが乗出して卓子の下にバケツを忍ばせ片ツ端から麦酒をあけてはグデングデンに盛り潰す位は何処でも普通にやってゐた。揚代金は娘と山分で飲物の利益は総て楼主が取るのであったから、勢ひ客に沢山飲ませる娘が働き者として可愛がられてゐたのである。
 又彼れ程金銭に穢い南京も女にかけてはのろいもので、幾ら到る処の花街が彼等支那人から多額な金銭を絞り上げたか殆んど想像すらもされぬ程であったに相違ない。軈ては身受けの金を存分捲上げるのみならず、せっせと通ふ間でも結局娘の身のためには東家が一番好い客であったのだ。
 馬来人は持ってるだけをパッパと使ふ性質だけに田舎の客としては寧ろ日本娘に比較的好かれる素質を持て居るのだが、例の恐ろしい惚薬を使用すると云ふので兎もすると危険がられてゐた様だ、特にバレンバン人は尤も物騒千万で、先年三人も同地の花街で日本娘が殺害されたが遂に犯人は逮捕されず其儘になって仕舞ふたのである。それから一番嫌がられてゐたのは体格の図抜けて大きいバンガリー、裸足のキリンを客に取るのも最初はツクヅク情けなく思はれたと云ふのは蓋し偽らざる告白であったに相違ない。
 日露戦争の結果浦鹽から西伯利亜の奥深く入込んでゐた娘が全部内地に引揚げたのであったが、南洋の景気を耳にしヂッと田舎にくすぼって居ることが出来ず、今度は熱い南洋へと河岸を変へて流れ込んだのも沢山ゐた。然も煙管一本あればどんな荒くれのロスケが酔ッ払ってもビクともしなかったと云ふ。胡沙吹く風に鍛え上げられ火の様に強烈なウォツカでたゞれ切ってる彼等の侵入した事は、確かに素朴その物で温順しかった南洋の娘気質に大なるショックを与へないでは置かなんだ。然もこの暴君にも等しいアバズレの侵入がいやが上にも新嘉坡花街の景気を引立て番号入りの軒燈にどれ程光彩を加へたかも知れなんだ。白馬や三ツ星印のブランデーをあほっては腰つき怪しい露西亜ダンスを踊る日本娘の狂態を、印度洋の怒涛にもまれ抜いて来たマドロスが如何に喜び迎えへたかは、想像するだに笑止千万の沙汰だった。
 一人の客で一晩に四打の麦酒をあける位は珍らしからず、揚代以外に十弗や廿弗の小使を娘に呉れて行くのも少なくなかったから、月々郷里へ七八十円づゝ送る娘はザラだった。斯くて南洋へ南洋へと島原、天草辺の娘等の心をあほり立てたのも思へば悲しい昔語りとなって仕舞ふた。

娘気質と女郎屋の内輪
 英領では華民保護局、蘭領でもスカオと云って極く下層賤民の営業を取扱ってる役人に依て日本の女郎屋も亦取締られてゐたのだった。だから花街即ち在留邦人の全部だった時代には一等国民だなぞと威張った処で追着かなんだ。
 花街には一切電話を引かせない。若しも彼の界隈で暴漢に襲はれ負傷した処で、卑しくも紳士たる者が立入る可き処でないと云ふので警察は取上げないのである。それ程英領では醜業婦を公許してゐても特殊部落とみなして居たのであるから、日本人街即ち花街と云はれた時代は情なかった。然し流石に蔑視されつも衛生状態は勿論のこと家の廻りに到るまで邦人街は何時も掃除が行届いてゐたのを保護局の役員も認めてゐた。
 黒繻子の襟の掛った半纏を羽織、下はサロンをはった一種珍奇な風俗をした娘等自身が往来の溝まで毎朝掃除してゐたのだった。一体に南洋の邦人女郎屋は娘の稼高の半分を毎日毎日取上げるだけで、後は殆んど何等の干渉もせなかった。外出も勿論自由、食事は大概五六人で一人の南京コックを傭入れめいめい自炊であったのだ。病気に対する施設もやっ張り自弁で、それは花街全体が共同して経費を負担し、一人の外人ドクトルに委〔ママ〕頼し一週二回づゝ診察を受け、必ず其証明書を所持して居らねばならぬことになってゐた。
 其上在留邦商と楼主の関係上絶えず着物や化粧品等も無理に買はされるのだから娘は中々小使がかさむのだった。殊に田舎に行けば随分法外な値段で押付けられるのであるから耐らない。先づ三年で前借を皆済して自前になるのが普通だったが、必ずしも男に入揚げずとも病気にかゝれば到底借金は抜けなんだ。而して前借と云ふのは誘拐師へ支払ふた以外、店張着はもとよりベッドから室の道具一揃ひも必ず買はされたのであるから、初店のそもくしから既に千弗近い借金を全部の娘が背負はされてゐた勘定であったのだ。それにしてもまだ其前借を返すのに三年が普通だったと云ふのが不思議がられてゐたのである。
 随って南洋の女郎屋稼業ほど呑気で儲けの荒い商売は一寸外には類がなかった。それだから例へ国賊と呼ばれても悪魔外道と罵られても一度手を染めたが最後もう決して泥田から足を引抜かうとはせなかった。
 嬪夫と睨まれたら直ちに退去を命ぜられた。更に政庁の目をかすめて舞戻ってると知れたら有無を云はさず終身懲役と云ふ峻烈極まる法律がある事を承知で、彼等は図々しくも可憐な娘の生血をすゝって果敢ない栄華の夢を貪りつゝあったのだ。領事夫人に向ふてさへ姉さん幾らかと冷かした土人があったと、醜業婦問題を口にする人の総ては憤慨するが、それよりも太い金鎖をこれ見よがしにダラリとさせ、大巾縮緬の帯をゆるく腰に巻きつけた嬪夫野郎が豪然一等車内にフンぞり返ってゐた当時の事を思へば冷汗覚えず背中を霑すものがあったのだ。無智文盲な彼等に良心の有りや無しやを問ふのは或は無理であったかも知れないが、尤も国家の威信を傷つけたのは哀れむ可き娘等にあらずして、実に是等女郎屋の寄生虫であったのである。
 然し幾ら田舎娘だと云っても余りに物がわからな過ぎると確かに涙が出るほど腹立たしい事実もあったのである。親の貧苦を救ふ可く吉原へ身売りするのを孝行だと教へ込まれた徳川時代の考へが何時になったら果して拭洗されることだらう。踏まれても蹴られても主人に対する義理だけは断じてそむく事が出来ないと思ひ込んでる奴隷根生〔ママ〕から解放されねば日本に遊廓制度はなくならないのである。英国の法律は醜業婦中の借金は総て足を洗へば消滅すると規定されて居るのである。然も誘拐されて来た上に不条理極まる借金を背負はされ、泣いて其日を暮しつゝ猶且つ政庁吏員を偽っても偏に楼主に対して義理立てをせねばならぬと思ひ込んでゐたとはよくよく南洋女郎は因果な生れつきであったのだらう。
 モアの或る女将は死んだ良人の良心へ十何年も仕送りを続けてゐた。実に感心な婦人であると写真まで掲げて郷里の静岡新聞が書立てゝゐた程であった。処で愈々廃娼断行の時期も到来したから店をたゝみ娘等も連れて一所に引揚げたらと勧めたが、女将は怎うしても聞かなんだ。女郎屋を廃めたら老先き短かい両親を誰が果して養ふて行くだらう。死んだ良人に対しても廃めて帰る事は出来ません。殊に良人の郷里では真逆女郎屋をして、金を送ってるとは知るまいから、愈々以て今の場合は帰れない怎うかも少し見逃して呉れと云ふて聞かなんだそうである。節婦か妖婦か、寧ろ記者は彼等を生んだ社会を呪ひ度くならざるを得ぬのである。
 一保の仏人技師に仕切られ何不自由もなく暮してゐたみさをと云ふ美人、彼南から遊びに来た柔道教師に口説かれ、無理に主人に暇を貰ふて男の道場へ行って見たらチャンと妻君が控へてゐたので、ツクヅク日本人の軽薄さに愛想を尽かし、折柄廃娼断行で朋輩の多くが引揚げるのを幸ひと一所に郷里の天草へ帰った。処が両親は非常に怒ってまだ幾らでも稼げる身体を持ちながら何のために今頃帰って来た。そんな不孝者は家へ入れない。殊に女郎屋が無くなったとすれば是れから月々仕送る事も出来ぬだらうから、一度に纏めて三千円だけ工面して送らねば承知しないと怒鳴りつけたそうである。
 仕方がないからみさをは又一保に舞戻り、親切な旦那の家へ帰ったのであったが、然し三千円をすぐ送る工面は怎うしてもつかなんだ、怎うなるものかと遂に心を鬼にして恩義ある旦那にピストルを差つけ自棄糞になって三千弗を強奪して国へ送り、捨鉢になって馬来の遊び人と一所になり、姉御気取りで果敢ない其日を送って居るのだった。一途に醜業婦をのみ国辱だ、同朋の態面に泥を塗るものだと罵る前に記者は其親、其男の面皮をひんめくって遣り度いと思はずに居られないのであった。

女郎屋に残る怪談
 春秋二度の競馬に花街の娘が舞込んで出掛けるなぞ云ふことは殆んど昔はなかったのだ。琵琶とは義太夫とか浪花節とかたまには遥々旅芸人が廻って来る様なこともあったが、それも到って珍らしい事だった。だから三味線、生花扨は習字の師匠まで相応繁昌して退屈な暇潰しにあらゆる芸事を習ふことが流行ったが、そら猪鹿ですばい。にむろですたいと俗に六百券と云はるゝ長崎花をやるのが彼女等にとっては何よりの楽しみであり、又憂さ晴しでもあったのだ。実に南洋各地邦人の居るところ英蘭領何処へ行っても六百券はよく流行った。必ずしも花街ばかりでなく雑貨店や散髪店等の二階でも世のふけるを忘れて毎夜の如くに戦はれてゐたのである。然し娘の部屋で器用に巻て呉れる象印の煙草の煙を濛々と立籠らせつゝ、ビールを煽り男も女も無〔ママ〕中になってそら小三光だ。鉄砲だと一生懸命になることが如何に常夏の南洋に相応しい楽しみであったかは、親しく其場に臨んだことのない人には話した処が到底判らう筈はないのだった。
 還〔ママ〕境其物が非常に単調であったのみならず、何時も変らぬ気候では自然と人の心も苛つかざるを得ぬのである。だから花街の娘はだらし無い生活に飽き果てゝ絶へず恋の相手を漁って居るのだった。然し初手から馬鹿にし切ってる南京や印度人では物足らない。例へ若くて金使の綺麗な白人でも種族的障壁は怎うしても撤廃することが出来なんだ。だから楼主が特に日本人の客を警戒すればする程娘等は一層勤気はなれて持てなす様になるのだった。尤も古い時代には男の数も少かったし花街関係以外と云っては殆んど居らなんだのであるから客として上る様な者もゐなかったであらう。唯除外例として寧ろ却って歓迎されてゐた寄港船舶の乗組員が特に新嘉坡の花街に尤も濃厚な印象を残してゐた所以も或は即ち其為めであったらう。
 実際お客として彼女等が同胞に接することが珍らしく思はぬ様になったのは、邦人の護謨栽培事業が漸く盛んになって以来のことであった。而して

拓務省拓務局「海外拓殖事業調査資料第三十七輯 サラワック王国事情」昭和13年7月発行 ※1938年

第十六章「サラワック」に於ける邦人活動事情
第一節 邦人発展の経緯
 「サラワック」に於ける邦人発展の起源は詳かでないが、他の南洋地方にける〔ママ〕と同様娘子軍の進出を以ってその嚆矢とする。而して邦人活動に一転期を画した日沙商会の創始者たる故依岡省三氏の渡サした当時、在留邦人は約六〇名でこの娘子軍を中心とし、多少商業に従事する者があった模様である。(195頁)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1144362/116
 
蘭印事情講習会編「蘭領印度叢書 下巻」昭和15年9月28日発行 ※1940年

満洲、支那、南洋の如く労銀廉き地方には男性移民よりも寧ろ長崎出島の和蘭屋敷、或ひは唐人屋敷を通じてその生活に慣れた長崎、熊本地方出身の賤業的婦人の進出をみることゝなった。
 日本人婦人賤業者の南進も倭寇と同様、漸次南下を辿り、その基地は上海、香港、新嘉坡(シンガポール、彼南(ペナン)に達し蘭領東印度に彼女達の群が這入って来たのは明治二十年前後ではあるまいか。尤も明治の初年横浜より英人に嫁せる日本婦人が未亡人となり、陋巷にて賤業した事実はあるが明治十年前後の実数は微々たるものであったであらう。
 これら娘子群は日本男性さへ未知の土地に進出、聚落を為しては日本商品、日本事情の宣伝をも兼ね現在南洋に於ける日本商権の開拓功績は実に彼女等に負ふところが重大である。明治四十年代にはスマトラのメダンに五、六百名バタビヤ百余名スマラン六十余命スラバヤ二百余名遠くロボには実に四、五百名の紅裾が活躍し後輩日本男性は彼女等の支援の許に今日の発展の基礎を開いたものであるが、当時の情況を想起するに最も参考になると思へるスマトラ島メダン日本人会創立記を摘抜してみよう。

 マラッカ海峡を押し切ってラブアンの旧港から上陸した娘子群達は牛車に乗ってメダンに聚り相当数に達する頃、彼女等相手の雑貨商林商店が出来、次いで澁谷、小西等の商店が進出、これ等店主店員の娯楽機関「日曜会」と称する在留民最初の団体が出来たのが明治三十年正月である。其後邦人渡蘇(スマトラ)の数も漸増し、日曜会も漸次民団の色彩を帯び、遂に男子三名女子三名の委員が選出されて成立会の創立をみ、創立委員婦人部は主として寄付金募集に努力したるなど女性の存在が重視される。
 降って明治三十二年七月の筆記には、内地雑居(日本に於ける)の制が実施せられ、治外法権撤廃の公報に接するやいかばかり当地邦人等が喜びを緒にしたかゞ窺ふことが出来る。即ち、
「内地雑居、条約対等と相成りしに就ては日本人に於ては無論これ迄と違ひ、一層権利を振ふべき今日、他より嘲笑を招く事なからんことを決議し、以て後来の参考に供せんとす。」
などと云ふ趣旨の下に常に相寄り相会し、今迄支那の属国的冷視を受けてゐたものが、こゝに一躍欧米先進国と対等の国運隆進を見たのに狂喜してゐる。更に九月二十五日の同記録には、「在島日本人申合せ風俗を紊さゞるやう協議したるも充分の決議とゝのはず。」とある。これなどは当時の娘子軍の勢力が如何に強かったかを物語るものである。
・・・特に女性の多かりし当時とは云へ、バルチック艦隊がマラッカ海峡を通過北上すると伝はるや娘子群は競って寄金しては男子を要所々々に見張らせる等、大和女性の気性を海外に出ても飽迄も堅持してゐるのは面白い現象で、当時の記録には左の如く愛国の至情に燃えた文が書きつらねてある。
「旅順陥落祝勝会によって溜飲を下げたる在留邦人は一層緊張の色を見せたり。殊に或る者はサアバン岬頭に月余を過し、バルチック艦隊の出動を今日か明日かと凝視したるものなり。遠く印度洋の水平線上を警戒して眺め暮したる憂国の志士も生ぜしなり。」
とある。日露戦捷は、実に彼等在留邦人に驚くべき進境を与へ、在留欧洲人の長き侮蔑的態度を一掃すると同時に、奥地土人にまでも新たなる脅威の目を見開かせてしまった。
 恁うして娘子群相手の雑貨屋は時勢に目覚め日本美術雑貨を輸入販売するや羽が生えたやうに売れ出し、澁谷、松崎商店などは完全な地盤を作り、各地に支店を盛んに設けたものである。明治四十二年二月バタビヤに領事館が開設せられ、初代領事染谷成章氏が赴任するや自然この地の日本人協会もバタビヤとの交渉が頻繁となる頃、対岸の馬来半島方面では邦人の護謨栽培熱が勃興して来たのであったが当地の邦人商店はそんな事には目も呉れず、専念各自の業務に努力して、年額五万盾の商取引を為す者さへあった。
 ◇   ◇
 斯くの如くメダン地方は矢張り女性群が先行し男性が漸次増加して日本人の地位は国力の伸張と共に発展向上を辿って来たが、東印度の他の地方では如何であったであらうか。
 バタビヤの娘子群の最盛期は明治四十年前後の百余名を最高とするが、ケルト街の共同墓地には明治卅八年卒云々の日本式墓地がある点から考へても日清戦争前後から相当数の同族が居たものと察せらる。
 これ等女性相手に雑貨商兼旅館兼女郎屋を開業したのが明治卅四、五年頃創立の日本館であるが、日本館には常に多数の日本男性が漂着しては売薬、雑貨の行商に出かけ、更に同館は後年活動写真館の経営に着手、西部爪哇邦人間では飛ぶ鳥を落す勢であった。日本館に世話になって現在爪哇で成功せる者はバタビヤの久保辰二氏、植竹眞吾氏、玉木茂市氏、バンドン市の木田氏、トロアグンの矢部氏、建源公司日本支店長大橋亀太郎氏、ケデリの中村福松氏等である。
 ◇   ◇
 スラバヤ地方に於ては、依然女性の渡来が男性に先行してゐるが、その数はバタビヤに比し約倍の二百余名に達してゐたのは商都スラバヤの好景を物語るものであらう。
 之等日本人の渡航は新嘉坡、香港経由により当時は南洋郵船が未だ開始されぬ時代で真珠貝採りで黄金境を現出した濠洲、ロボー地方への中心地に当りボツボツ男性の到来もあったやうになったが、日露戦争直後新嘉坡経由で西村某なる者が初めて売薬行商員を連行し来って原価四仙の千金丹が一盾で飛ぶやうに売れたと嘘のやうな実話があるが、明治四十三年代に後ると市川直太郎氏が博愛堂病院を開業し無職新渡来達の梁山泊と化し或ひは長崎医専第一回卒業生の高橋保氏は本職を放棄して雑貨商を開業、女郎相手にチリ紙呉服太物を売り、官憲、華僑方面に絶大の信用を得て名誉領事の観あり、更に濠洲新嘉坡、爪哇にかけての大親分上田丑松氏の如きは雑貨、女郎屋を開業するなど男子のみでも既に百五十名の多数に達してゐた。
 さてスラバヤに於ける当時の娘子群の勢力を物語る次の如きエピソート〔ママ〕がある。
 大正三年には和蘭独立百年祭が東印度各地でも催されたが、在スラバヤ法人は之を奉祝すべく、準備七十五日もかけて百余命の武士行列を為したがその実費四千盾を日本共済会でどうしても支弁せぬ。そこで当時の顔役北元隆、奥山英次郎、安田馨、上田丑松の四氏が檄を飛ばして寄金にかゝったら即座に六千盾も集まり四千盾の実費を差引き残りで、大型ランチを借り切り豆灯堤の満艦飾を施し在留邦人男女三百五十名を乗せて終日マズラ海峡に清遊を試み一日にて二千盾を消費したとの豪華な思ひ出もある。
 また同奉祝祭に和蘭人側より日本の剣道を市民に観覧せしめたしとて出場を頼まれたが、その呼名がサムライ、ダンスとの申込みでは、吾々武士道精神を理解せぬも甚だしいと即座に拒絶するなど、女郎屋の連中にも仲々よいところを持ってゐたものである。
 ロボ地方の如く、爪哇より遙か遠隔の地に明治末期既に四、五百名の娘子群が活躍してゐた事実は奇異の観がある。同地方は真珠貝の産地として有名なところで邦人漁夫相手に半年はロボに暮し、漁夫が沖に出漁した半年は周囲の島々に出稼ぎに行ってゐたやうである。

三、商業移民時代
 明治以後に於ける日本人の南洋進出が上海、香港、新嘉坡を経て東印度各地に発展いしたのは前述のとほりである。特に娘子群のそれをみると別嬪は先づ上海、香港に留まり、若干見劣りするのが新嘉坡、彼南に渡ったものである。東印度で最も早く多数渡来したメダン地方への娘子群の殆んど大部分は、偏目か跛かの片輪者が新興農企業地に働く白人達の相手となった事実があり、男性にしても北で食ひつめた連中が邦人の尠い南方へ漸次落ちて行った傾向があった。斯る意味から東印度に渡来せる古い時代の男性邦人中には若干他の地方に比較して娘子群同様見劣りする点が当時の活躍状態で察せられる。
 それが今日に於てみるとき南洋各地の在留邦人中爪哇に在留する者の質が一番向上してゐるから面白い。
 この原因の一つとして先づ挙げねばならぬことは、爪哇人口の稠密さと物産の豊富さ、更に明治四十二年二月にバタビヤに創設された日本領事館に赴任せる、初代領事染谷成章氏の努力と在留邦人のこれに対する協力を想起せねばならぬ。
 即ち染谷領事は赴任以来在留邦人の将来的発展性を考察して、娘子群依存より堅実な商業的発展を為すべしとの慧眼の許に之等関係者の自廃を要求し、再渡航又は呼寄せを厳禁した為め新嘉坡より十数年早く娘子群の姿が爪哇スマトラ其の他より漸次没し去り、替るに商売人が陸続と現れて来た。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1160111/137

入江寅次「明治南進史稿」唱和18年3月15日発行 ※1943年

四 娘子軍進出事情
 新嘉坡帝国領事館開設以後の、前掲管内在留邦人中、女性の数の多いことはどうであらう。而してその殆んど全部が、謂ふところの娘子軍なのだから、驚くばかりである。このやうな状態が、ずっと第一次欧州大戦の後まで続く。単に南洋ばかりでなく、支那でも、満洲でも、同様な行方を見せたことがある。特に上海だの、香港だのは、初めからさういふ彼女らの基地であって、従ってその旺んなること、前記新嘉坡在留者数の比ではなかった。
 たゞ彼女らの活動のあとを見て、特に心引かれるものがあるのは、シベリヤ、沿海州のそれと、南洋一帯、濠洲の方まで含めてのそれとであった。
 彼女らが初めて新嘉坡に現はれたのは、明治三、四年頃だといはれ、それに当嵌る二三女性の名が伝へられるのであるが、これらは何れも初め外国人に連れられて上海に渡り、香港に着き、いつかその主人とも分れて、こゝまで流れて来たことである。
 幕末から明治初年にかけて、わが開港場に在留してゐた外国人は、大抵日本の女性を雇ってゐた。媬姆、子守、召使といふやうなのがそれであるが、純然たる娼妓、芸妓の類を、その抱主と契約の上で、期間をきめて身辺に置くものも少くなかった。当時これを呼入れといったのだが、このやり方は特に長崎在留のそれに多かった。そしてこれらの女性もまた、其の外国人と共に、海外にでることが出来たのである(第一章一参照)。
 長崎の女性達は、出島の蘭館時代から、異国人に対する一種独特の親しみを持ってゐた。支那人に対しても同様で、これら異国人と長崎女性との間に繰りひろげられた情艶物語が少くない。彼女達は親切でよく勤めたし、これに対する異国人の手当もまた悪くなかった。
 上海には明治元年に、早くも田代屋なる日本商店の開店を見、本来陶器商であるこの店に小間物類を取扱はせる程、本邦女性が在留してゐたといはれるのだが、果してどの位の女性がゐたものか判然せぬ。しかし何しても同地はわが長崎と相対して、本邦対支輸出貿易の門戸であり、且つ横浜、長崎からの外国船航路も早くから開けてゐた。
 而してわが輸出品の大宗が石炭である。明治元年、佐賀藩と英国がラバル商会(ゴロウルともいひ、実はGloverである)との共同で、高島炭坑の経営が始まり、その石炭が多く上海に向けられたやうである。これに次では海産物、茶などであるが、一方上海から日本に入って来る外国品も多く、このやうな関係からしても、長崎、上海間の内外人の往来は、当時既に相当賑かであった。
 わが政府は、七年、商用で頻繁に上海に往復するものに対し、特に一ケ年間有効の旅券を渡すことにした位である。この上海渡航手続きの大きな省略は、やがて雑多な人間をこれに介入させ、いろいろの手を用ひて、目的の曖昧な女性の進出を多くした。外国人に伴はれての合法的な渡航でなく、或は妻と称し、妹と称し、または全くこれを秘して船底に置いたりして上海に送った。後になると、石炭輸送船によるものが多く、船で汚れた女性たちが人眼を忍んで上海に上る様子が、何ともいへぬ風景だったと伝へられる。
 かくて香港の女性も殖え、シンガポールも殖えて行った。日本基督教婦人矯風会が、初めて太政官に対し海外に於ける本邦醜業婦に関する建白書を提出したのは、明治二十一年のことであるが、これは十九年二月、同会創立後間もないこと、大阪浜寺の石神亨といふ医師が、海外旅行からの帰途、新嘉坡に立寄り、同地の本邦女性の状況を見て心を痛め、帰来矢島輯子に対し、これについて何等かの措置あるべき必要を説いたに基く。(日本基督教婦人矯風会五十年史)
 しかし彼女等の進出は、必ずしも醜の一面だけではないのであって、その邦人の、特に南洋発展に寄与するところ大なるものがあったことは、蔽ふべくもないのである。ハノイ付近で、明治十八年死没女性の墓を見たものがある。ボルネオのおクニ婆さんで有名な、サンダカンの木下クニ、これは天草の女性だが、実に明治十八年にボルネオに渡って以来、一生を同地邦人の草分けとして、特に娘子軍の大元締として、異色ある活動を続けたことである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1281112/95

十二月十日
在朝鮮釜山元山両港の貸座敷及娼妓営業の者自今新に営業出願を禁ず。又従来営業者と雖も一旦廃業せしものは再び請願するを許さず。

矢内原忠雄編「新渡戸博士植民政策講義及論文集」(1943)

南洋に今行って見ると、日本の女が多い、皆さんが御承知でありますけれど子供を産む女はどうか是は別問題でありますが、子どもを産まない女が男より余計行って居ります。けれども二百五十年前には彼の種類の女は行って居なかったであらう、歴史を見てもああ云ふものが行って居ったと云ふことは見えないから男許りであったでありませう、

 南洋植民地視察復命書・台湾総督府警務官梅谷光貞

(二)、「マニラ」警察の実況
(7)風俗警察
表面公娼は認めざるも「ガルデイニア」に於ける醜業婦の巣窟は堂々たる一廓をなし華麗なる建築軒を並べて櫛比す。醜業婦は比律賓婦人及日本婦人とす、日本醜業婦の数は約二百に近かるべし
51画像目

日本人 第一次統計の二百八十七人より第二次統計の七百六十六人に増加したるを見るも此当時に於ける在留邦人の多くは彼の女子軍及此に付随する浮浪の徒輩にして欣ぶべき増加にあらざりしも最近護謨栽培事業の発展に連れ資本の投下に伴ひ着実なる邦人の増加を見大正六年新嘉坡本邦人口は三千五百余人を算するに至れり左に本邦人口を表示すべし。


戦前日本人の海外売春(2)

戦前日本人の海外売春(1)の続き

関連エントリ
戦前日本人の海外売春(3)
戦前の日本・植民地朝鮮の公娼関連統計
従軍慰安婦資料集(3)戦前公娼制の実態

大阪朝日新聞 1933.12.2-1933.12.7(昭和8) 
スマトラ (1〜5) 南洋を描く 
本社特派員 伊藤昇

大正元年だった。北都丸、旅順丸、万里丸の三船が集って南洋郵船組が出来、三月に一隻電気もない怪しげな船で香港、シンガポール、バタビア、スラバヤと一ケ月もかかって通った。『日本船が入るげな!』と娘子軍達が日の丸の小旗片手に港に集ったのはそのころだった

・・・そこでメダンの邦人発展史をのぞくと、日清、日露、世界大戦の三つの戦争が発展の段階を作っている。ブラワン港もなく、メダンの町も草原だった時に支那人ジヤンクでラブワンに渡って来たのは勇敢な娘子軍だった。まず南洋渡航としては早い部分、その娘子軍が蓄えた金を戦争のたびに献金したり故郷から身内の男を招いて次第に発展の基礎を作ったわけで、日露戦争当時からここに雑貨店を出している人々も数軒未だに続けている。
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満州日報 1934.4.21-1934.4.29(昭和9) 
秘境三千里を行く (1〜7・完) 
(西藤特派員発)

開魯県はもと東西札魯特旗と阿魯科爾沁旗に属する沙草の地であったが・・・在住の日本人は満洲国官吏、満鉄社員、駐屯軍を除けば十数名で雑貨商一、旅館兼料理業一である日本人の生活物資は多くは通遼から運ぶので飲食物も満鉄沿線と殆ど変らない、興安省南部の日本娘子軍の第一線は且っては林西にまで進められていたそうであるが現在では開魯を第一線としており此処から奥地へは一人も入っていない、開魯唯一の日本料亭幾代には六人の日本人酌婦がいるがその中の二人は昨年七月に熱河省から沙漠を越えて林西に巣を構えて稼業中二千の部下を擁する兇暴無比の大匪首呉芳山に襲撃されモーセル銃を両手で突き付けられながら 馬鹿野郎つ!ピストルが怖くて奥地の稼業が出来るかってんだ見損うと承知しないよ とばかり小気味の好い啖呵をきって流石の頭目呉芳山をして遂に引金を引かせなかったという秋田県生れの凄い姐御がいる 電灯のない開魯の街の冷たい土家屋のアンペラに座って二分芯のランプに照らされて聴く沙漠の蔭に咲く大和撫子の思出話はその一つ一つが血て彩られた恋と闘争の冒険小説である

神戸新聞 1934.8.14-1934.8.19(昭和9) “日本海時代”の花形 (1・3) 
本社延吉特派員 村瀬要治郎 

(1) 東満洲の国際都市『図們』の発展 一躍世界注視の交通要衝に
(3) 酷寒零下の唄は当らぬ 内地よりも凌ぎよい図們
以上のうち三万余市民の一日の汗と油の労働に桃色の慰安を提供する花柳界及びカフェー界の娘子軍の内訳は女給が内地人一七一名、鮮人八一名、芸妓内地人四九名、鮮人八名、娼妓内地人二四名、鮮人七〇名、満人四七名合計四五〇名の日、鮮、満の娘達が鎬を削って物凄い嫖客の争奪戦を繰りひろげている

報知新聞 1934.9.6-1934.9.12(昭和9) 
風雲の満露国境 
大黒河にて 松山特派員記

大黒河にいる日本人の大多数は工事関係者である、勿論県庁にも県参事以下の日経官吏もいれば税関の日系官吏もある、この外国境警察隊の日系巡査や、外務省巡査もいるが、それ等の数はいうに足りないが、六百人の中にいわゆる娘子軍が百名以上もいるから大したものである 東京会館などという洒落れたカフェーもあれば、菊屋、角屋などという料理屋もある、宿屋も三軒程あって何れも日本人の経営である、面白いことには宿屋には芸妓もいれば酌婦も抱えている、宿屋と料理屋とカフェー、食堂、待合とが同居しているのだから便利なこともあり、便利でないこともあるというもの 物価の高いのは交通不便の関係から止むを得ないとしても、日本人の商人が暴利過ぎるという話をちょいちょい聞かされた、・・・
当地には慰安機関としては何も持たない、従ってその日の活動に疲れた連中はカフェーや料理やへ行く、だからその方面は相当発展していること申すまでもない、百余人の日本娘に朝鮮娘も二三十人もいるようだが、芸妓などは前日から予約しておかないと間に合わぬというのだから東京あたりでお茶を挽いている姐御とはちょいと違うようだ、この娘子軍あるがために、遠く故国を去って国境の第一線でトーチカからのぞいている機関銃の前でも、死なば諸共の大勇猛心で活動が出来るというものだ、娘子軍こそは大陸進出の先駆者であり、勇敢なる紅子群である 彼女等は内地から直接送られて来たものもあるが、チチハル、新京、大連あたりから更に大陸を泳いで来た者が多い 大黒河は大都会だよ と聞かされてハルビンから薄暗い三等室に送り込まれて十二日間溯上して上陸する、出発する時に彼女等が抱え主からもらう金は大概三百円以下である、彼女等は佐賀弁で気焔をあげる 妾達はここまで来た以上戦争を見て帰ります、日本の兵隊さんと共に最後まで踏止まります、兵隊さんが更に進出すれば妾達も一緒に行きます、妾達これでもレッキとした大和撫子なんですもの、祖国意識は内地にいる同輩より強いんですよ 記者は彼女等のけなげな態度に胸を打たれてしまった
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満州日報 1934.11.25(昭和9) 
首都大新京水の源 浄月潭工事進む 
昼夜兼行完成を急ぐ貯水池 生れる新京の一名勝

偉いもんですぜ、誰を相手にするかこの工事の忙がしい時は日本の娘子軍の群が裾をひっからげ満州狗と喧嘩をしながら店を出していましたがね、大の男も顔負けの形でさあ、つい此間まで居りやしたが商売にならんと見えて街の方に帰っちまいましたよ
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満州日報 1934.12.23(昭和9) 
新興大黒河は伸び旅舎の一夜に十円札が飛ぶ 
交通地獄から救われる 
黒河にて 豊村特派員稿

日本人が七百に垂んとするに驚異の眼を以て市街を一瞥すれば、何と御料理、カフェーなどの看板のオンパレートだ、ジャズが、嬌声が街路に洩れてくる、シベリア出兵当時も在留邦人四百の過半が娘子軍であったといわれ、今また眼のあたり此の情景を見るに及んで、その大胆にして健気な意気に敬服すると共に幾多の哀話と情史が描く醜い明暗双曲線に面をそむけたい。
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台湾日日新報(新聞) 1935.10.22-1935.10.24(昭和10)
タワオに殖産組合設立
北ボルネオ邦人が団結
同組合理事 田中伊平

此処に日本人が発展したそもそもの元は、矢張娘子軍にありますが、今から二十年程前に、久原の護謨園(今の日産)と三菱の椰子園が時を同しうして創設されてから、本格的な発展の道程に入ったものと思われます、
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満州日日新聞 1936.6.23-1936.7.2(昭和11) 
開拓地を行く 
佐野特派員

その夜我々はチャムスの市について一番古くから知っている町の或る有力者を招き晩くまで町の種々相について聞いたが彼は"此の町で邦人が一番先に進出して来たのは何んと言っても料理店経営者で今では日本人の料理屋が七軒、カフェーが二十八軒もあり、芸酌婦が八十名、カフェーの女給が百名その他二十名、合計二百名の娘子軍が第一線に活動する男達の背後を慰めていること"などを特異の現象のように語った、

満州日日新聞 1936.8.10(昭和11) 
事変直前に比べて五十八倍の膨張 
”北進日本”の豪華図絵展開 近代都市建設に邁進

斉々哈爾はもと八旗駐坊のため建設された都市である関係上、住民の五割は満州旗人、二割は回教徒によって占めていたが、民国三年に墾戸招待所を設け移民の入植を奨励した結果、漢人が雪崩打って押寄せ、遂に実勢力において主客転倒するに至った、漢人は山東、山西、河北三省の出身者が大部分を占めている、明治三十八年に商埠地として開放せられ、四十一年に日本領事館、大正十一年に満鉄公所の開設を見た結果、事変直前には内地人百二十三名、朝鮮人三百九十名を数えていたが、東北政権四天王の一人、万福麟の圧政をうけて日本人の存在は実に寥々且惨澹たるものであった、斯くして満州事変を迎え、昭和六年十一月十九日、多門師団の精鋭は馬占山軍を江橋に撃破し、懸軍長駆斉々哈爾に入城した、多門師団の吹奏する進軍喇叭を合図に、娘子軍、御用商人たちが第二陣として進軍して来た、これを契機に斉々哈爾(チチハル)は大都市建設の黎明を迎えたのである
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報知新聞 1936.10.28-1936.11.11(昭和11) 
ダパオ踏査記(西原特派員)

当時ダバオには日本の娘子軍が九十名からも居て、一時間のショート・タイムの歓栄が六ペソから七ペソという一日の労賃よりも遥かに高価で‐しかもこれが朝から夜にかけて押すな押すなの盛況であったそうな・・・かくの如く渡航者の考え方が大いに違って来た、従って目下栽培者のふところは皆ホクホクものではあるがその割合に金を使わないので町の景気は出ない、それに渡航者としても外務省の方針として娘子軍の進出は体面上面白くないという理由から全部送還し、目下ダバオでは全然その影をひそめてしまった事も町の景気を少からず殺いでいるようだ、
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大阪毎日新聞 1940.9.16-1940.9.18(昭和15) 
現地邦人に仏印を聞く (上・下)

一九二四、五年ごろ初めて海防に日本領事館が開設され中村修(すでに故人)という人が初代領事としてやって来ましたが ・・・この中村さんが来てから例の娘子軍が跋扈することは国家の体面上面白くないとフランス人と正式に結婚したもの以外他に正業のないものは全部送還することになりました、大戦が終ると三井、三菱とも河内の店を引揚げましたが海防ではホンゲイの石炭、サイゴンではゴムと米と玉蜀黍の取引があったので三井だけはそのまま店を存置して今日に及んでいます 
末松氏 
娘子軍弾圧がはじまると海防(ハイフォン)、河内(ハノイ)におった邦人たちも次第に地方へ入って農園で働くとか、独立して雑貨店を開くとかめいめい新生面を求めて分散してしまったのです、つまり仏印邦人の一大転換期が来たわけです、
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報知新聞 1940.11.23(昭和15)
英領ボルネオを見る (上・下)
タワオにて 佐々木特派員発

日本人のボルネオ入植の由来は約四十年前にシンガポール、香港方面に居た日本人娘子軍が渡来したのに始まり、その後日本人の入植するもの漸次増加し、椰子、ゴム、マニラ麻等の栽培、その他水田、漁業に従事する者が次第に多くなって来た、
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満州日日新聞 1941.7.29 (昭和16)
我が南方の友仏印の横顔 (1〜4)

河内は紅河の下流海防と共に邦人の進出は早く娘子軍の一隊は明治三十年頃に既に既に立派に大和撫子の気を吐いていた、当時はフランス兵を相手にソウトウ派手な生活で華僑や安南人は固より相手にせず、南洋の港々を泳ぎ廻る南進女性の群れであったが、いまはここに進出した邦人は可成り多く共栄の商道にいそしんでいる、フランス人を神か悪魔のように恐れたのは白人崇拝熱の高い当時の東洋各地の共通現象で、日本女性の進軍譜も決して国辱などと軽く片づけられない、南方進出の尊い人柱でもあり魁けであった、その功績は南洋各地に残るシンガポールお花、マニラのお竜など名と共に長く邦人海外史の蔭に残されよう

日本娘子軍の進駐はこの頃からドンドン行われたのは太鼓、□味、花札がはっきり教えてくれているだがこの南方昔の共栄圏も徳川鎖国の法令で、次第に姿を薄め在留邦人は帰国の途もなく、後続部隊の渡航もなく、異境に故国を偲びつつ空しく骨を埋めたのは悲壮な発展史の終止符である、

明治の開国と共に雄心勃々たる邦人はアメリカに南洋に支那大陸にドッと乗り出した、河内、海防からつい昨年までは援蒋輸血路であった●越鉄道の沿線にまず娘子軍と行商人か入りこんだ、彼等は皮肉にも進出して来た白人の侵略戦の慰安部隊になっていたのだから世の変転は恐ろしい、だがこの人々のあとを逐って娘子軍ばかりでなく商人が多く入りこみ、一方西貢貿易、農園(コーヒー園)の開拓に、ゴムの採取にドンドン日本人が入り輸出入が年と共に増加している

東京朝日新聞 1942.1.24-1942.2.1(昭和17) 
シンガポール座談会 (1〜8)

本社 
シ港と日本との歴史的関係等についてお願いいたします 
千田氏 
古い関係は判りませんが、しかし現実の関係は娘子軍です、恐らく明治九年代に行っています、全盛時代には五百人も居ったのです 
飯塚氏 
いや、その五六倍もおったよ、私らがみるところによると日本の政府には、南へ行って適するか、南へ行く日本人をどうするかという方針は、なかったろうと思う、だから古い歴史は別として最近三十年位のところを見ますと流れ流れて偶然定住したという簡単なことでやはり華僑の行き方の一部と似ていると思う 明治四十年頃に三五公司が渡った、前に台湾で仕事をやり、対岸の厦門で仕事をやった関係から、南洋のゴムに目をつけたのです、その頃ゴムは一ポンドで三十二、三セントというのが二ドル何十セント、三ドルというような時代ですから、そこで三公司を与してはじめたのがゴム園であった、ゴム園さえ作ると、とに角企業の形になる、ゴムは失敗がないからわれもわれもと行った、そういう意味で日本が進出したのだろうと思う 
千田氏 
それは日本の資本および企業の進出だ、最初は娘子軍が元です、マレー半島に二千おった時代があった、これは九州の天草の女が娘子軍として出て行ったのです、娘子軍が行くと着物が欲しいから呉服屋が出来、百貨店ができる、病気に罹るからお医者さんが来、世話焼きが出来る、土地を買うため通弁が出来る、明治四十年には三井物産しかなかった 三井の支店がはじめて出来たのは明治二十年位じゃないかと思う、そうしているうちに今のようにゴム五園が開けた、約二億近くの資本がいった、日本人が南洋の経済上に地歩を占めたのは、この前の世界大戦で、その時に内田商事が来る三菱が来るー台湾銀行だけはその前にありました、明治三十年代でしょうーさらに鈴木が来る、あらゆる貿易商が来た、世界大戦を区切りとして、驚異的に日本人の商売上の勢力が増して、今度は第三国との貿易をやり出した、

報知新聞 1942.2.26(昭和17)
スマトラ夜話 (第一話〜第五話)
その後スマトラと日本人との関係は不明なのだが、明治も二十年代になってマレー方面に多勢いた島原女カラユキさん達が何人かパレンバンやメダンに入国し始めたことは、明治二十九年来メダンに住む邦人の長老植田益雄翁の話によって知ることが出来る、それからぽつぽつ男子群も入島商売をする者が出始めた
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00503620&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

矢津昌永「朝鮮西伯利紀行」明治27年1月13日発行 ※1894年

浦盬を出発す
八月十日快晴、朝八十四度(熊本七十六度)。当市第一流の商店なる独逸アルペルス商館に至り、種々買物をなし、又蛮子の市場に於て、物品数点を求め、夫より貿易事務館、に至りて告別す、川邊、鈴木土橋等の諸氏に送られて、支那の赤猪牙舟より東京丸に乗組めり、同船者は小森、加藤、川田の三氏、及び仏人美好(G.Bigot)氏と、共に五名とす、他等の室には。日本人二十二名、支那人凡そ百名、朝鮮人十六名乗組めりと云ふ

醜業婦
艀船に婦人の一連の乗するもの両三艘あり、諦視すれば皆日本婦人にして、即ち所謂醜業婦なり、彼等今顧客を本船に送りしものなり、其粉粧を見るに、束髪にして洋装するものあり、或は大柄縞の日本服に、細帯を締むるものあり、視然耻る色なく、揚々支那語を放ちて、舟を隔てゝ蠻子の舟子等と戯談す、醜躰見るに堪へず、然れども万里の波濤を踏んで、未知の境に入り、言語不通の異物を相手として。彼が財嚢を絞り、跋扈跳梁するに至りては、其勇に驚かざるを得ず、何れの外人も。我醜業婦には常に一目を譲ると云ふ。而して有髯男子は、却て猫額大の内事にのみ汲々して、身自ら洋波を踏んで、富を外邦に覓むるが如きは稀なり「日本男児は、終に女子の勇に若かざるや」とは、当港一般の評なりと聞く
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766904/60

岸本能武太「倫理宗教時論」明治33年9月19日発行 ※1900年

第七「日本は世界に醜業婦を供給す」
 聞く海外に一種の流言ありて、少くとも或る社会に於ては殆んど一の諺をなせるものゝ如しと。其諺に曰く「支那は世界に労働者を供給し、日本は世界に醜業婦を供給す」と。・・・
 吾人を以て之を見れば、斯の如き流言の世界に伝播するに至れるには、少くとも内外二個の争ふべからざる事実之が根拠を為さずんばあらず。何をか内外二個の争ふべからざる事実と云ふ。曰く、苟くも航通の便の開けたる処には、米国と云はず濠洲と云はず、我商人より先きに我醜業婦の渡航しつゝあること、是れ外部の争ふべからざる事実なり。曰く、我国に於ける男女間の道徳の極めて陋醜にして、外国人をして我国を淫楽国なるが如く思はしむるものあること、是れ内部の争ふべからざる事実なり。
(一)、之を広く海外を旅行せる人々に聞くに、苟くも航通の便ある処には、至る処殆んど我国の醜業婦を見ざるは稀なりと云ふ。日本商人の未だ行かざる津々は多からん、日本業婦お居らざる浦々は多からざるなり。我政府は固より醜業婦の渡航を厳禁しつゝあり。然れども元来醜業婦となる程のもの、又醜業婦渡航の周旋を熱す程のもの、如何でか奸智に長ぜざらん。されば政府の厳禁に係らず醜業婦の海外に渡航するもの日に月に其数を増加しつゝあるなり。所々方々に在る我国領事の報告は始〔ママ〕んど常に醜業婦の事を含有するにあらずや。斯くして朝鮮支那等の近き国々は云ふも更なり、印度、濠洲、南北アメリカ、又アフリカ等の港湾に至る迄、我醜業婦は至る処に群を為して返って得色あるものゝ如しと云ふ。而して此等外国の人々の多数は、日本を知り又日本人を知るに、先づ醜業婦より知り始むるが故に、彼等は自然に醜業婦てふ眼鏡を通して日本を見るなり。是に於て乎此等の人々、即ち他の方法によりて我国の事を知る能はざる人々が、日本は醜業婦を出す国なりと結論するは、強ち無理とは云ふべからず。曲は彼にあらずして寧ろ我に在るにあらずや。
 吾人は速かに適当なる取締規則の発布せられて、遅れ馳せながら、此上醜業婦の為めに我国民全体が誤解と汚名を蒙むることなからんことを欲して止まざるなり。一方に醜業婦ありて我国の面に泥を塗る以上は、如何に他方に面目を維持せんとするも、遂に難事たるを免れざるべし。醜業婦は実に我国の耻辱なり害物なり国賊なり売国奴なり。然れども翻って考ふれば、兎も角も我国は斯く多くの醜業婦を世界に供給しつゝあるに相違あらざれば、責任の幾分は、否な大部分は、醜業婦よりも寧ろ醜業婦を出だせる我社会に在りと云はざるべからず。風見は風の方向を示す。醜業婦の多きは我社会道徳の陋醜を証明するものにはあらざる乎。斯く考ふれば吾人は実に自ら省みて慙愧と慷慨とに堪えざるものあるなり。そは我社会道徳の卑劣なる、我社会は醜業婦を出だせりとの非難を免かれざるものあるを知ればなり。
(二)、我国今日の社会道徳は果して醜業婦を出す程卑劣陋醜なりや。外人あり、日本は醜業婦を出だすが故に其の社会道徳の程度も亦推知すべきのみと云ふものあらば如何。固より醜業に従事するものは日本の醜業婦のみにはあらず、野蛮国にも半開国にも又文明国にも、各々其国固有の醜業婦あることは、古今万国の定数なるが如し。故に単に醜業婦を出すが故に、日本人の道徳は悉く醜業婦的なりと云ふものあらば、是れ実に非常の誣言に相違なし。又真逆斯くの如き臆測をなす人は、少しく思慮ある人々の中には之あらざるべし。然れども日本に於ける男女間又夫婦間の道徳は果して清潔なり高尚なりと云ふを得べきや、泰西文明国の道徳に比して毫も遜色無きか。試みに外国人にして我国に在り、位置より云ふも職務よりも、道徳上責任の重き人々の私行を看一看せよ。或は諸外国公使館の役員の如き、或は諸官省諸学校雇ひの外国人の如き、或は居留外国商人の如き、彼等の本国に於ては彼等は決して敢て為し得ざるが如き醜行の屡々新聞紙上に現出するものあるにあらずや。又新聞紙上に現出するに至らずとも、彼等の醜聞は屡々吾人が耳にする処にあらずや。文明国の公使にして蓄妾するもの多しと云ふにあらずや、有名なる詩人にして醜聞を流せるものあるにあらずや、学生の模範たるべき教師にして道徳上頗る素行の修まらざる者あるにあらずや、姦淫せりとの嫌疑を蒙り本国に住み得ずして我国に逃れ来たれる美術家ありと云ふにあらずや。此等の例は殆んど枚挙に遑あらざる程多数のことなるが、此等は一方に於ては、如何にも此等の不品行なる外人の本国即ち所謂文明国の道徳が、如何に彼等を根本的に感化するに力なきを証すると同時に、又他の一方に於ては、此等の人々をして本国に於ては敢て為し得ざる程の不品行を為さしめて、而も之を咎めざる我社会の道徳の陋醜なるを示すものにあらずして何ぞや。不品行を為すは為す外人の責任なり。然れども本国に於て為し得ざる程の不品行を為さしむるは、我社会の責任にあらずや。若し此等の学問あり地位ある外国人に取りて、我日本国が宛然淫楽国たるの実あらが、其他の無責任なる不道徳なる外国人が我国を淫楽国視するは、必ずしも無理にはあらざるべし。
 今試みに我国人間に於ける男女間の道徳に就て考ふれば如何。上は大臣宰相より下は職人車夫に至る迄、夫婦間の道徳は極めて弛廃せりと云はざるべからず。我国に於ては登楼蓄妾は殆んど善悪の問題にあらず、単に貧富の問題なるが如し。蓄妾せざるものは多からん、サレドモ我国人中曾て一度も己れの正妻にあらざる婦女に接せざるもの果して能く幾何人ぞ。多情宰相あれば姦通次官あり、放蕩書生あれば遊冶丁稚あり。芸妓娼妓の跋扈するあれば、目懸手懸の横行するあり。建築物の尤も壮大にして出入者の尤も頻繁なるは遊廓と監獄とにあらずや。泰西の文明社会に於ても遊廓なきにあらず又芸娼妓なきにあらざるべし。然れども社会の道徳的制裁に至りては彼我大に同じからざる処あるなり。宜なり、久しく我国に在留せる一米人が或る外国新聞への投書中に於て実に左の如く云へるや。曰く。

日本の政治界にて最も重要なる位置を占め、愛国者として世人の許す人にして、常に不潔なる妓婦と戯れ遊ぶことあるも、何人も之を非難せざるなり。此一点に於ては日本と泰西の道徳とは大にその趣を異にするなり。ブレッキンリッヂの如き人も日本に於ては安然にその位置を保つことを得べし。女子には淫行の罪を咎むることあれども、男子は殆んど如何なる淫行を為すも自由なり。如此は開明諸国に於て決して許すべからざることなり

と。日本の社会道徳に関して此種の感想を懐くもの決して此一人に止まらざるなり。されば日本に来る道徳上責任ある外国人の稍もすれば醜行を為し醜聞を流すは、云はば其の責任の半ばは我社会道徳の陋醜なると制裁の無力なるとに帰すべしと云ふものあるも、吾人は之に対して如何に弁疏し得べきや。若し又我国が多くの醜業婦を出だすは、其責任醜業婦其者よりも寧ろ之を出だす日本の社会に在りと云ふものあるも、吾人は殆んど之が弁解の辞に究〔ママ〕するものあるべし。
 若し世界の労働に従事する支那人が憫むべきものなりとすれば、世界の醜業に従事せんとするものは如何。如何にも腕力的労働は脳力的職業に比して下等なるべく賤業なるべし。然れども共に是れ世界の進歩の為め必要なる職業にして神聖てふ形容詞を冠らしめ得べきものなり。之に反して醜業は何処迄も醜業に相違なく、遂に神聖なるもおにあらず。吾人は「世界に醜業婦を供給す」と云はれんよりは、寧ろ「世界に労働者を供給す」と云はるゝを欲す。吾人は支那人が世界より労働者供給を特色なりと思はれたるを憫むと共に、一層我国が醜業婦供給を特色なりと思はるゝを耻ぢざるを得ざるなり。若し此の流言にして無根ならしめば則ち止む。苟も内外に於て此の流言をして根拠あらしむるが如き事実あるに於ては、吾人は慙愧と慷慨とに堪えざるなり。我国の宗教家、道徳家、社会改良家を以て任ずるもの豈に自省自決する処なくして可ならんや。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/758620/32

大橋乙羽 (又太郎)「欧山米水」明治33年12月廿●日発行 ※1900年

新嘉坡
四月十八日船新嘉坡に着きたれども…(40頁)

醜業婦
われ等は背広の飾気もなく、嬉々として一卓を囲み、ビールの酔に壮語するを日本語知らぬ白人の、奇しき眼もて見詰むるもありき。食果つれば案内者の来りて誘ひ行くまゝ海岸に沿ふて進めば、支那人の家軒を並べて賑はしく、市場は戸を鎖して人無ければ、只ある横丁を曲るに、こは如何、日本醜業婦が恥を露らしつゝあるを見る。その家四五十戸もあらんか、戸々八九人を抱へ、主婦戸口にありて、遊客を呼ぶ声囂しく、娼婦多くは友染メリンスの単衣に、黒朱子の襟つけたるを着け、髪は前毛を断りて、鏝もてつゞらし、足には黒き靴下を穿きぬ、客は白人最も多く、支那人もまた打交れり。その娼婦の数を問へば、日本人殊に多くして、その数四百に余るべく、欧人も南京も顔色無しとか、その一廓の内には間々白人も交りて媚を売れども、一家三四人より多きは無く、南京娼婦亦二百人余あれども、特にこの地の名物は、日本の醜業婦なり。今は漸く蔓延して、秋風の枯草を吹くが如く、暹羅(シャム)、安南、ジャワ、スマトラを風靡して、醜業社と称する会社組織の、周旋業さへ起るに至れりと。噫、旭日章旗の力も、その百鬼の横行を打消すこと能はずや、予輩海外に遊ぶもの慨嘆に堪へざるなり、
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/888972/61

藤田四郎「清国視察談」明治35年3月21(?)日発行 ※1902年
(1頁に前農商務総務長官 貴族院議員とある)

十五 醜業婦と貿易の関係(43頁~)
次に注目すべきことは醜業婦のことである、醜業婦のことに付て私共は外務省に居る時分にも心配したことで当時の政府の方針に依り調べたこともあるが条約改正の前であるから少しでも非難されることは避ける方針であった然るに最早今日あちらに往って見ると醜業婦は誘拐されて往くものは別として自分の自由意志に依って往く所の醜業婦はひどく制限する必要はないと思ふ、日本の貿易は国旗に従ふと云ふ方針を云ふ人もあるが之は嘘である日本の貿易は醜業婦の下に従ふと云ふは実際ではないかと思ふ、先づ以て醜業婦が往って而して後に詰らぬ雑貨が出て往き下等なる日本人が続いて往く夫れから貿易の端緒が出来、領事館が出来、良い商人が往くと云ふ順序が今日亜細亜の貿易の有様である今日我国の醜業婦は多く関西、九州地方から往って居るやうであるが聞く所に依れば今より殆ど二十年前にも随分内地に迄醜業婦が這入り込んだと云ふことである、一例を挙ぐれば揚子江の鎮江の如き数十名の醜業婦が居ったと云ふことである其が今日では一人も居らぬ、其処でどう云ふ訳かと聞いて見ると即ち支那の遊女●が種々の反対運動をやって領事館に訴へる事抔をして遂に皆厳しき命令に依って之を引払はしたのである、而して其貿易如何と云ふて見たならば鎮江は今日互市場であるが其貿易は我国に依って営まれて居るものはないのである、日本人が時々あちらに往くことを聞いて居るが未だ貿易業者が居ると云ふこと迄には至らぬのである若しも醜業婦が数十年前居った儘で之を抑圧しなかったならば今の鎮江の貿易は必ず日本が一大優者となって居ったと思はれるのである、然るに今日では其地を見るに僅に英米等の商人が居るのみである、畢竟之は残念ながら醜業婦を抑圧した結果と断言するを憚らぬのである、私が十数年前印度洋を経て欧洲に往った時分にもシンガポール、コロンボ通りに既に此醜業婦が居ったと云ふことで今では亜非利加、濠洲、其他南洋諸嶋の奥に迄入り込んで居ると云ふことを聞いて居る・・・
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767012/25
 
桐友散士「夜の女界 : 暗面奇観」明治35年9月11日発行 ※1902年

十三 海外の醜業婦
 支那沿岸の各港、上海、香港、寧波から、南洋の方へ掛けて、船の着く港には、大概日本の女と広東の女が出稼ぎに行って居る。此れ等の密航婦が、此処まで密航して来るには、随分、幾多の危険と艱難に遭遇した結果、漸くに上陸し得るので、此の取扱ひを秘密に営業として居るのは、昔しなら所謂女衒と云ふ奴である。
 女衒は烏の様な眼をして、諸所方々を彷徨きまはって、無教育な女を欺して、窃に自分の所へ連れて来る。そして、船の水夫と共謀したり、或は、石炭をつみこむ時に石炭運びの女人足にしたてたり、或は荷物にして大きな行李に入れたり、あらゆる秘密の手段を案出して、兎に角に船へ積み込んで了ふのである。で、航海中は時として、非常な惨劇が演じ出される事があると云ふのは、何しろ、人間ではなく荷物になって船底にかくされて居るのであるから、蓄はへて居た食料が無くなって、飢死にして了ったと云ふ話もあれば、又は、窒息して死んだと云ふ様な話もある。幸ひに、命あって、目的地へ付くと、其々受取人が、同じく夜陰に船を出して、秘密に上陸させて、己れの巣へ連れて行き、こゝで、いよいよ醜業をさせる事になるのである。
 大体は、本国の青楼と別に変った事は無い。夕暮時から、化粧をして店へ居並らぶのである。店と云ふのは、大抵、大きい硝子窓がある、板床の一室で、其処の椅子へ腰を掛けて並んで居ると、開港場の事だから、各国の船の水夫や、居留民が其の辺の酒屋で、ブランデーとか、ウイスキーとか云ふ、強い酒を引掛けて、鬼の様な赤い顔をして、嚙み煙草をかぢりながら、其の窓を覗きに来る。
 もの馴れた醜業婦は聞き覚えの英語で、中から、声を掛けるものもあるが、まだ、馴れ無い新娘は、先づ物怖ろしさに胆を潰して了うだらう。日本人のお客でも、肌を触れるのは身を切られる程に辛いのを、まして、雲をつく様な背丈の高い、大きな赤髯が何してお客に取れるものだらうと、云って、今更、何ともする事は出来ない。・・・
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900369/75

大田彪次郎他編「欧米紀行」明治36年 ※1903年

(明治35年)十月十六日(木曜)晴 午前三時新嘉坡(※シンガポール)港外に着し・・・
日本人の商店は同社(※三井物産)を始め三四戸、在留の邦人は無慮千数百人ありといへども其の生産一家を成し領事館が上流人士として夜会等に招待する者は全体を通じて二十人を出でずと云ふ。余は紅袖羞を包み綺羅媚を売る八百の賤業婦、之に付随して衣食する走屍行肉のみ
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/760951/227

中川柳涯「秘密探偵露国の内幕」明治37年3月6日発行 ※1904年

西伯利亜の風俗(34頁~)
・・・殊に西伯利亜(シベリア)内地に於て勢力のあるのは日本の醜業婦で、到る所に露人を籠絡して其の生血を搾り取て居るとか、されば我が国商人が西伯利亜内地に往て開店する時には先づ第一に彼等を頼んで万事の引廻しを為して貰うので、それが最も安全で又最も繁昌する賢き方法であるとか。
 読者よ、日本の醜業婦が世界至る処へ出掛けて、恥を外人の前に曝す等と云ふ野暮な理窟を言ひ給ふな、彼等は一厘半銭の資本も入用ずに万里の波濤を越えて猛進し、鬼の如き髯クチャだらけの毛唐や、野獣の如き露人を手玉に取り、搾れる丈け搾り取ってはこれを本国に送るので、其の男子も及ばぬ勇気は雙手を挙げて賞揚すべき値があるのではないか、殊に日本醜業婦が至る所に於て各国の醜業婦を駆逐して独り跳梁を擅(?)まゝにするとは猶ほ更ら醜業婦万歳を嘔はねばならぬ。(39・40頁)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/988198/24

長田秋濤「新々赤毛布 : 露西亜朝鮮支那遠征奇談」明治37年3月1日発行 ※1904年

醜業婦と仕切られ(100頁~)
西比利亜(シベリア)の日本女郎屋、就中浦汐(ウラジオストク)やハゞロフスクでは日本人を客に取らない女郎屋が沢山ある、其原因は遊費が層まったり、儲けが薄かったりするからであるが、コンナ辺からして醜業婦は自然に朝な夕な露西亜或は支那の客に多く接し、其中でもより多く支那人に接する者故、従って余計支那人の方に親くなるのである、所で又チャンさんの習慣として、本国に立派な妻君を持ち乍ら之を引連れて渡航する事が出来ない、西比利亜に出稼ぎすれば金儲けは中々多いが、空閨孤枕は彼等が祖先からの大禁制、我等日本浪人の様に膝ぶしを抱いて寝る事は到底も出来ぬ、ソコには幸ひ日本の女郎屋があるから彼等は悦んで之に遊びに行く、遊ぶ事の度が重なれば互に親しくなる、チャンだと言ってホレて見れば余り悪くは無い、別けて金払いは日本人よりも好し、女と見れば可愛がる事も亦一通りぢゃ無し、コンナ人間を生擒にして置けば結構な事だと大悟一たび徹底しては女郎も亦之に向って愛嬌を振り撒かずには居られぬ。ソンナ仕儀からデレチャンは
益々デレの度を増して先き先き必ず身請けの相談を持ち出す、女郎は思ふ壺へハマったと喜んで早速之を承諾すれば苦も無く前借なんぞは払って呉れるコーして支那人の妾に行くのを彼地では「仕切られ」といふのだ、其仕切られて行く時には必ず、百円又は二百円の金を約束金として手に納め、扨万事話が済んで輿入をなせば之から先きは女郎共最得意の時代で、愈々自堕落放逸に日を送り、朝も亭主が先づ起きて立ち働けども自分は枕を高ふして床上に鼾でもかいて居て、十時過ぎにでもなら無ければ中々以て床離れをする所じゃない、ソシテ常不断着物はネダル、金やダイヤモンドの指環はセガム、若しも亭主が其請求に応じなければフテ腐れて「私は病気だから」など云って亭主を傍へも寄せ付けぬと云ふオッカない始末、又中に気の利いた連中は月々貰ふた金を諸方に貸付けて七分なり八分なり或は一割なりの利息を取って財を殖す方法を講ずるのも決して少く無い、先づ西比利亜に居て支那人に仕切られてる女に、二千や三千の現ナマを所持せぬ者は無いさうだ。

日本人の資本主
此チャン妾は段々年を経るに随って金を貯るが元々日本人であるから豚尾漢ばかりでは鼻に付いて、軈て否になると見へ、金のあるに任せて往々間夫を拵へる、男の方でも金が目的物だから早速之を承諾すると云う鹽梅式で亭主の目を竊んで妙な快楽を尽して居る、其内支那人が本国に皈ると云ふ様な時には分け前を貰ふて、其儘男の方へ走るし、或は不幸にして夫が財産を貽して死する様なる事があれば早速其の財産は悉皆遺族即ち妾の手に落つるので、死んだが最後、三ケ月も立たぬ内に忽ち日本人の間夫と結婚をして本望を遂げ安楽な世帯を立つると云ふ、夫から男は女の金を元手として何か一事業を遣って見るのもあるが失策しても男の方では元々空っ尻だから何の心配も無い、ソシテちと都合が悪くなれば女を見捨てる丈の事、又た都合が善くなれば善くなったで見捨る事がある、其処で兎や角云ふた処で元々野合の夫婦であるから、何処に持ち出して訴ふべき処もない、実に憐れむべき彼等の末路である。
西比利亜に迷い込んで行ても扨て何も取り付き場処がない、元来無一物で渡って来たものであるから、店一つ開かんとしても資本はなく、女郎屋するにも金はなしと困る場合は其の「仕切られ」に愛嬌を振り蒔ゐて甘心を買い、融通を付けて貰ふ、夫れが為めに日本人の助かったもおは年来幾許なるか分らぬ、実に日本人の西伯利亜にて事業を起したものゝ資本は、十中の八九女郎屋或は仕切られの手により融通されて居るので、特に彼の有名なる支那人「チーフンタイ」の為めに昔し仕切られて居た「おサダ」と云ふ女の為めに資本の融通を付けて貰った者は今でも彼地此地にごろごろして居る位だ。

仕切られの勢力
此の仕切られなる者が西比利亜全体に幾百人居るか判然とは分からぬけれど、誰でも知って居る丈けの大概を申さうなれば、浦汐(ウラジオストク)に於て二三年以前既に三百人から居たと云ふ事、之れは只だ支那人の妾のみであって其支那人の内でもまだ判明されないのがある。此三百人の外に露西亜人或は其他の国人に仕切られて居る人々を算入したならば少く共百位はあるであらう、如何にして三百人といふ事が判明して居るかと云へば、彼等は殊勝にも仲間の不幸なる「仕切られ」に対して夫を保護せんが為め慈善会を設立したさうだ、其の慈善会の発端と云ふは、或日本婦人が或支那人に仕切られた処が、其支那人が余り富有でもなかったと見え、女の方から同情の涙禁え敢へず縦令支那人でも之では可愛想だとの観念より、自分の所持した衣類や古道具迄一切売り尽して其の支那人に入れあげた処、不運といふものは致方がない者で其内ツイ其支那人が死んだ為に女は弥弥困窮に陥って、葬式等は兎に角無事に済したものゝ、扨其後の方法とてはドーにもコーにも考が就かぬ、止むを得ず事情を浦汐の日本人に訴へた処「仕切られ」といへば同胞人中に於て度外視して居る者であるから誰一人として其話に乗って呉れやうといふものが無い、其処で仕切られ仲間が大層同胞人の無情を立腹して、同胞全体が斯な考なら今後決して金銭上や、何かに就て御相談は申し上げぬ、と「仕切られ」中で、慈善金を募集して其の婦人を日本に還したさうだ、夫から以後は之に懲りて将来又た斯の如く不幸なる人があった時の用意にと、一人一円宛月々積み立て決して日本人同胞の厄介にはならぬと云ふ大意気込みで出来た慈善団体の加入者が丁度三百人あって今でも月々貯蓄を為し、会場を本願寺に定め、絶えず持寄りをして居る所を見ると「仕切られ」も亦中々侠骨稜々たるものである。
「ハヾロフス」に於ても「仕切られ」は十二三人も居るが、彼等は寺の寄付金でも、時々折々の募集金でも、二度返事でスグ出す程に物の分りが早い、間には非常に理解力の乏しい者も無いでは無いが之は十分一にも足らぬ位だ、ソシテ彼等は確かに西比利亜に於ける出稼ぎ人としての一勢力を有して居るから、日本人の露西亜人或は支那人の豪商に近づくには乃ち非常に便利なる媒介者である、彼等あってこそ西比利亜の日本人は今日三千計りにも繁殖したのである、「仕切られ」が常に口にする所では、憚りながら日本のお為といふ事は始終忘れませんと、然し境遇が境遇故ドーモ根性のひがむ癖が起ると見へ、一寸した事を云ふても忽ち気に障へ、我等はどうせコンナに零落して居るのだから様々悪口云はれても仕方がないが、誰某さん達でも本を洗へば皆な私の金を借りたればこそ、今日の地位に成ったのであるのに、今更立派さうな口上を吐て、途中で逢ても知らぬ振りして行き過ぎるのは余り不人情ではあるまいか」と面の当りやり込めらるゝので日本人先生大に赤面して下る様な事が沢山ある。だから大概の者は彼等の御気に障らぬ様に頻りに御機嫌を取て居るが是は如何にも止を得ない次第であらう。

醜業婦の出産地(196頁~)
西比利亜(シベリア)に渡航して行て醜業婦人と云ふ憐れむべき名称に甘んじて外国人に情を交はして、御髯の塵を払ふて居るもの共の出産地の戸籍を酔狂にも洗って見れば、大概は九州で其多数は九州の内で熊本県天草か、長崎県島原辺りの者で長崎市の内外も沢山ある、其の次は中国から中仙道に懸けてゞある、何故に長崎地方天草辺りが大多数を占めて居るかと尋て見た処で薩張り判らぬが、併し長崎と云ふ処は日本の果であるけれ共、昔から外国人が此土地へ通商貿易の為めに来て居る処より、早く外国の事情に熟して外国人に就て金儲けをしようとの観念を起し、男は料理方を覚え洗濯屋を覚へると云ふ都合で、日本で取った事のない月給に有付くのが娯しさに希望者のあるに任せ伴はれて行て見る気になり、他の地方は云ふに及ばず西比利亜の方へも渡航したものと思はれる、夫から段々尻尾に就て女も渡航する事になった処が、其の渡航した女が女郎になり夫から洋妾に抱へられ甘い汁を吸い思ひも懸けぬ主人の愛を得て、下女も使い下男も役する事が出来、又た古郷に帰る時には金剛石入りの指環は近傍眩ゆき迄に輝かせ、帯締めから頭のもの、衣物は高価なる御蚕ぐるみにて、話しは決して自分の行て居た処だから悪くは申さん、有らん限り弁舌を以て近所近辺の人に宝の山でもある様に云って聞かせる者だから、歳頃の娘さん達はトテモ堪らん、女に第一の大事のものは衣物、其の衣物が思ふ様に着れると云ひ、太平楽も云へると云ひ、朝も晩迄寝て居る事が出来ると云ふので、誰れも行く、彼れも行くと云ふ事になるが、シカシ行き度くても如何にして渡航せば善からんかと思案に暮れて居る矢先き、其事を聞き込んだる誘拐者が有らん限りの甘言を尽して之を誘ひ出し、自分の懐暖めの材料に做すと云ふ様な具合で、斯く一人連れ二人連れて行たのが今日の如く殖えたのである。

長崎人の努力
夫れであるけれ共、西比利亜侵入者の中には長崎人より天草人が多数である、然るに社会上の勢力の方に至っては天草人よりも却て長崎人の方に占めて居らるゝのである、と云ふものは西比利亜全体の日本人が日々の行事は凡て長崎風である、即ち正月元日の飾りものより、極月廿九日迄の礼なり式なりと云ふものが皆な長崎風に依て取り行はれ居る、其の上言語迄が長崎ナマリでなければ行かぬと見へ、天草人の沢山なるにも拘らず、大概自国の言葉を脱して長崎語の「アンシヤマー」「ドンケンシマスノー」「一寸ヲアガリマツセ」「ヨツテイカンノーシ」「一服ヲスイマツセー」等の言葉を上下なしに通用して居る、ソコデ夫の世人が善く歌ふ処の「オンダーイーヤ、ソンゲンシマスナ、バケエシーチヨツタイ、ドーユウコンナンナ、ヨソワシカモンジヤローカ、オンドガアワモチヤホカニアル」と云ふホーカイ節も、彼等醜業婦は出産地の何処たるを問はず、皆常に口にして居るのである、如斯き風で長崎人の勢力は極めて盛んなるものである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761167/107

岩本無縫「東京不正の内幕」明治40年3月20日発行 ※1907年

▲醜業婦輸出の悪漢
紳士風なぞ装ふた腹は鬼にも均しき人物が、よく九州辺を徘徊して、若き娘共を何とかうまく口車に乗せて、神戸又は横浜におびき出し、これを船に載せて海外に醜業婦に売飛ばすを業とする者が今の世には多くある、是等の人鬼共は其弁説のうまきこと到底尋常ではなく、田舎娘はころりと一杯食はされるのだ、故に何と言って此の連中が田舎を廻らうとも、決して其わなに罹ってはならぬ、彼等は其人を見て夫れ相応のうまいことを言ひ、年々幾百人と云ふ罪もなき少女を地獄に連れ行くのだ、先づ田舎の女子共は決して親の家の敷居なぞまたいで遠出するのは善くない、中には馬鹿娘があって、親に隠れて此の手に乗るのがある、今日海外の各開港場、即ち浦塩斯徳(ウラジオストク)、大連、上海、韓国、布哇(ハワイ)、比列賓(フィリピン)群嶋、桑港(サンフランシスコ)、其他至る処に淫売を業として居る婦女子は、これ悉とく此の手に罹って身を売られた人達である、人の振見て我が振直せで、よく警戒するがよい。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/798829/59

「五大洲探検記1 南洋印度奇観」五大州探検家中村直吉 冒険世界主筆押川春浪編 明治41年8月28日発行 ※1908年

(廿六)退屈凌ぎに偽医師の助手となる(258頁~)
 新嘉坡(シンガポール)に於ける日本の名物は、領事館員の空言壮語と淫売出稼である、由来日本の淫売婦程侵略性の激烈なものはあるまい、彼等は恰かも空気の如きものだ、地球の殆んど総ての部分を満し尽さんとして居る、而して淫売婦の行く所必ず多少の日本人が伴ふから、是を善意に解釈すると彼等は邦人発展の先駆者であるといへるし、是を悪意に解釈すれば日本帝国の体面に泥を塗るものであると言っても差閊はないのだ、若し前段の解釈をする人は、恐らく出稼ぎ淫売婦に一の正業が伴ったことのないといふ重要なる事実を知らない抜作であらう、吾輩は断言する出稼淫売婦は徹頭徹尾国家の体面を汚すものだと、文明の暗黒面には恐るべき罪悪が潜伏して居るものだ、今日世界の各方面に散乱しつつある幾万の淫売婦は、厳重なる人道と法規の網の目をくゞり抜けどうして故国を去ったのであらう、是れ殆んど一種の魔術ではあるまいか、天下唯一人の多田亀吉君を罵るのは酷だ、婦女誘拐を以て正当なる営利の事業であるかの如く、国家の大法を無視して最も大胆に振舞った彼多田亀吉の如きを出したのは、抑も社会に罪があるのだ。
 閑話休題、新嘉坡(シンガポール)とし言へば必ず日本の出稼淫売婦を連想する程有名な処である、吾輩は上陸すると直ぐ土人の人力車に乗って日本人居留地に向はんとした。支那人にしても土人にしても此地方の車夫程無意識なものはあるまい、土地不案内の悲しさ日本人居留地だと言ったつもりなのが、何でも彼でも此処へ曳込めば間違いないと思込んだ俥夫のことだから、軈てガラガラと轅棒を下したのが日本の淫売窟、と見ると二町程両側にヅラリ軒を並べたのが淫売屋で、軒下に廿五六の大年増、蝶々髷に赤の鹿の子を掛け、華美な浴衣を丈長に来て赤いシコギを腰に締めた醜態は何に比べやうものもない、是でも日本人かと思ふと吾輩急に情けなくなってきた。夕に越客を迎へ朝に呉郎を送るといふ文句は、同じながら多少の詩趣を帯びて居るが、呉郎越客どころか白人支那人印度人馬来人何でも御座れの情の切売、夜になると総勢五百人の淫売婦が喃々たる口説に外国人の機嫌気褄を取らねばならぬとは、天下是程殺風景極る悲惨事があらうか!?(263・265頁)
(廿八)暹羅(シャム)王維納に墺帝をヘコます(277頁~)
 当時在暹の日本人は百人足らずで、職業の種類は公使館員、領事館員、錺職、写真師、画家、医師、理髪職、コーヒー店等で、余り大きい声では言はれないが日本の女郎屋も二軒あった。此女郎屋に有名なやりて婆が居るさうだ、彼女は日本を出てから最う卅年にもなるそうで、最初はおさだまりの甘い舌の上に乗せられて日本を脱出で上海に着くと直ぐ売飛ばされ、其後流れ流れて盤谷府へ来たのであるが、人は呼んで上海婆といって居るそうである。此上海婆の其暗黒面には小説よりも奇なる事実が潜んで居るに相違ない!(285・286頁)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761084 

「五大洲探検記2 南洋印度奇観」五大州探検家中村直吉 冒険世界主筆押川春浪編 明治42年1月1日発行 ※1909年

(二)新嘉坡の醜業婦
 日本の醜業婦といへば世界に鳴響いたもので、甲は是を以て日本人の面汚しだといひ、乙は是を以て邦人発展の先駆者であるといふ。其孰れが真理であるかは吾人茲に暫らく措て問はないが、実際彼等醜業婦の現状と見ては、是でも日本帝国に籍を置いてる、日本人の片割れかと殆んど情けなくなるのである。
 是等醜業婦が殆んど世界のあらゆる方面に散在して居るのは、今更改めて言ふまでもないが、新嘉坡は其中でも激烈であるやうだ。吾輩の見る処では、其今日あるは日本の船乗が預って力があるらしい。
 今より数十年前、日本の船乗が此地に漂着して、其殖民地に女性の必要なる所以を看破し、竊かに案を打ち帰来甘言を以て数人の婦女を誘拐し、直ちに渡航して醜業を営ましめて見ると、殖民地の秩序なき人情の常として、恰も大旱の雲霓を望むが如く、押寄せる白郎黒客、夜毎日毎の枕は数知れず、喃々たる私語低唱、後朝の訣別に片言交りの難有う又来ますが解るやうになって、需要忽ち嵩じて供給遽かに不足となり、旨く人情の弱点を捉へた事業が当った本人は大喜び、直ぐ又幾人かを仕入れて、そも突出しの其晩より、宵の縁喜は鼠鳴きの鳴き損なく、吾から求めずとも来る赤髭南京を初めとし、馬来印度こ好色漢を手玉に取って投げても投げても、色様々の情の綾は解けつ結びつ、赤道直下の宵々、待人の畳算用更に要なく、売る枕の数に抱主の弾く算盤玉の音は日を追ふて忙しげなり。
 斯うなると見やう見真似の、我利々々亡者共が、吾も吾もと開始めた悪商売が、抑も今日新嘉坡日本遊郭の盛大をなした基礎となったのである。で、事業夫自身の性質から、固より人間並の血の通ってる輩の、あづかって居る筈もないが、現今新嘉坡日本遊郭の楼主と号する奴等は、多くは内地の喰詰者で、其身元を洗って見ると、裁判官巡査船員等のあがりそれに博徒ゴロ書生等であるやうだ。
 九州が醜業婦唯一の輸出地であることは、三歳の童子でも知ってる有名な事実だが、猶且此地方に出稼の醜業婦も、殆んど其の全部が九州出身で、長崎天草島原辺の者が多いやうである。
 以前は誘拐の口実として種々の甘言を弄したので、無智の婦女はウカと夫に乗って、新嘉坡三界迄地獄の憂目を見に行くやうになったのであるが、茲に吾人の不審に堪へないのは、比較的教育の普及した今日、尚ほ九州地方から悪漢の甘言に乗って、誘拐される婦女の絶へないことである。是は慥に不可思議千万なことで、過去数十年の間、幾多悲惨の涙を以て書れたる罪悪の歴史は、必ず是等悲惨の子を出したる地方の人々に読まれて居るに相違ない。然るに今日猶ほ是等地方から婦女誘拐の跡を絶たぬは、吾人の最も不思議とする処である。誘拐者の口実がさまで千変万化の巧妙を極めて居るとも思はれないとすればどうしても、此地方の婦女は、或程度迄吾から進んで誘拐されるのではあるまいかといふ疑問が起る。而も此疑問が疑問でなくして、多少根底ある事実ではないかと思はれる節もないではない。
 長崎を訪れた人は、稲佐のお栄の邸宅が、稲佐の丘上から全市を下瞰して、十万の甍に有意味の冷笑を浴びせかけて居るのを見たであらう。稲佐のお栄固より新嘉坡の醜業と関係はないが、彼女が西比利亜を横行して、帰来稲佐の丘に斯の如き豪奢を衒ふ所以の者は、慥に長崎付近に婦女誘拐の盛に行はるゝ事実の一面を説明するものではあるまいか!?
 女性は虚栄の最も忠実なる崇拝者である。若し此稲佐のお栄以外に、新嘉坡若くは香港地方で醜業に成功し、宝玉と黄金で其汚れたる臭骸を粉飾し、其土臭い郷土に帰り来り、純潔無垢なる村娘の虚栄心を刺戟したらどうだらうか。氷雪寒き西比利亜も鉄石熔る赤道直下も、眼前の虚栄に心狂ひたる婦女の前に何の恐るゝ処ぞ。
 斯くして九州地方の婦女が、土臭い生活から脱せんとして、恐しい焦熱地獄にと踏込むので、考へ来れば其悲惨なる運命の責任の半ばは、彼等誘拐されたる婦女が当然受けなければならないのである。
 併し中には実際健全なる職業に有付けると思って来たのも少くないので、是等が異境万里の地に於て、其鬼の如き楼主に依って醜業を強らるゝ悲惨の光景は、能く筆舌の尽し得べきことでないのである。
 日本遊郭の楼主を親方といふが、是等の親方が醜業婦を仕入れる方法は、実に都合能く出来て居るのである。新嘉坡には印度人の高利貸が沢山居るが、所謂親方共は是から借金して醜業婦を仕入れる。で、其貸借の方法なるものが極めて簡単で、若し一醜業婦を抵当として提供すれば、高利貸は大喜びで六百円乃至八百円を貸してくれる。而も其抵当たる醜業婦は自分の手元で営業させるのだから少しも差閊ないのみならず、借金の八百円位は忽ちの内に消却し尽し尚ほ優に相当の利益を見ることができるのである。
 醜業婦に対する楼主の待遇は、世人の想像するが如く残忍なものではないが唯楼主は一意借金で自家の醜業婦の体を縛することを力めるので、無暗矢鱈に煽動して無益な贅沢をさせる、而も其贅沢は必ず楼主の仲介に依ってするのだから、彼等醜業婦の負担は日日増すばかりで、目に一丁字なきもの若くは算数の観念のない輩は、楼主の手加減に依って何時までも醜業を営まさせられる。併し中には玉帳やうのものを用意し、収支の道を明らかにしてる連中は、幾年かの後には負債の全部を償却し、経営惨憺たる貯蓄で、身に綺羅を飾り得々然と故郷に帰るといふ順序になるのだ。
 彼等醜業婦の風俗は、浴衣に赤い兵児帯をだらし無く巻きつけ、頭髪は蝶々髷に紅い鹿の子などを掛け、足は紺足袋に突掛けの麻裏といふ拵、夫で以て軒下に椅子を並べ、通り掛りの支那人馬来人及び白人の水夫などを、喋々喃々と呼掛けて居る。迚も正面に見られる光景ではない、吾輩などは是でも正気の沙汰かと疑った位で、世人が是等醜業婦の存在を以て、国辱の大なるものとするのは、強ち無理でないと思った。

茲に小説のやうな事実がある。醜業婦の事を書た序だから書き添えて置かう其当時新嘉坡に中野といふ医者が居た、譚は此人に関してのことなので……。中野君が日本を出発した動機は吾輩勿論精しく知らないが、当事と何とやらさて新嘉坡で開業して見るとどうも旨く行かない、そこで暹羅に渡航した。其時の公使が稲垣満次郎君だ。盤谷府で中野君は公使の尽力で開業したが、其処でも業務は全然失敗に帰し、詮方なくなったので、又も新嘉坡へと逆戻りをした。併し此時は最早再び医者をする勇気も失せ、其隠芸の三味線と舞踏を以て旨く遊郭の楼主に接近し、其お蔭で幇間同様遊郭に出入して居た。
 前に述べた通り、新嘉坡の日本醜業婦なるものは、悉く其前身が九州地方の農夫の娘かさなくば、炭鉱付近の石炭担ぎであるために、遊芸の嗜みのあるものとては殆んど絶無の姿であるから、幸にも中野君の未熟の芸当が、日本遊郭中に非常に持囃され、夫が動機で一個の醜業婦が、深く中野君に恋するに至った。一方中野君と雖も木石でない以上遂に其恋を成立せざるを得ないので、夫からといふもの両個は最も深き相思の間柄となった。
 処が其醜業婦中々の女丈夫で、其貯財の全部と日々の稼高を惜気もなく中野君に提供し、同君をして遺憾なく医業の経営費に充てしめたのである。斯うなれば中野君と雖も一生懸命とならざるを得ないので、疲弊せる勇気を揮ひ起し幇間時代に受けたる愛顧を縁に、遊郭全部を重なる顧客として、鋭意熱心、仆れて後止むの覚悟でやったものだから、瞬く間に好評を博し、其当時既に其愛人を迎へて楽しい家庭を形造って居られた。
 秩序なき殖民地では妙な動機から成功する人がある、此中野君の如きは実に其好模型であるのだ。

(七)瓜哇珍談(60頁~)の64頁から
 日本の醜業婦が殆んど世界のあらゆる方面に発展しつゝあるは、最早掩ふべからざる事実で、吾輩は曩きに新嘉坡の処で其実状に就て少しばかり語ったが更に転じて瓜哇に入るに及び、其侵略勢力の猛烈なのには一驚を喫せざるを得なかった。ソラバヤ、スマラン、到る処多少の日本人の居ない処はないが、而も其日本人が大抵所謂女郎屋の親方なるものである。新嘉坡では此親方が遊郭内に棲むことができないので、中には親方が其副業として雑貨店などを経営して居る。新嘉坡の雑貨店では音宗商店を除いて、他は大抵是等親方の経営にかゝるものである。
 話が余事に渉ったが、要するに瓜哇でも到る処日本人が居る、而も其日本人の大部分が女郎屋の経営者であるとしたならば、外のことは兎も角、無銭旅行の吾輩としては、どうしても彼等親方達の同情に浴せざるを得ないので、事実又此種の人々は浮世の荒波と戦った人だけに、其心の奥深には実に深い熱実な同情心を有して居る。我輩も旅行中其同情に浴すること決して少くなかったので、現に汽車がバタビヤに着くと、吉坂虎吉といふ人が非常に同情を寄せられてバタビヤ滞在中は同氏の宅に宿泊するの便宜を得たことを感謝しなければならない。

(八)スマトラ島探検(75頁~)
 ・・・薄暮パレンバンに錨を投じた。で、此処ではバタビヤの吉阪といふ人から紹介されて、同じく女郎屋の親方林弘君を訪問すると同君は非常に喜ばれて下へも置かぬやうに歓待された。
 思へ!、日本人の内にパレンバンの地名を知ってるもの果して幾人あるだらう。否恐らくあるまい、而も同胞の夢にも知らざるスマトラの一角パレンバンには、例の醜業婦が偉大なる勢力を以て発展しつゝあるのだ。前記林君は遠征娘子軍を率ゐる親方の内でも、中々の勢力家であったのである。
 林君と雖も最初からの親方ではなかったのであるが、途中商業に失敗し止むを得ず女郎屋と宗旨を換えて、現今はパレンバンで大に成功して居る。併し其成功を謳歌すべきか非難すべきかは第二の問題として、同君が一種の奮闘児であったことだけは事実である。厄介になったからいふのではないが、林君の如きは女郎屋に親方として一生を終らせるには惜しい人物である。而も蛮境に醜業を営んで居るもの、是れ人の罪にあらずして境遇の罪である。(76・77頁)

(九)彼南に於ける幻燈会(86頁~)
 ラングン号は新嘉坡を出港しマラッカ海峡を抜け彼南に入港した。・・・
 彼南(ペナン)には日本人が二百人ばかり居る。併しながら例に依って其大部分は醜業を営むもので、其他料理店旅館などを経営するものもないではないが、茲に一つ珍しい商売が熱帯の彼南に行はれるといふことを耳にした。珍しい商売、然り珍しい商売である。
 此付近一帯、其支那たると印度たると、瓜哇たるとスマトラたるとを問はず日本の醜業婦の居ない処のないことを知ってる人でも、恐らく彼南に玉コロガシの行はれてることまでは、有繋に気が付かなかったであらう。

(十)猛獣の如き婦女誘拐者(94頁~)
 午前六時彼南出港の英船スマトラ号に便乗して、スマトラ北部探検の途に上った。此航海は曩きに彼南の幻燈で成功したので、左程苦しまずとも済んだのである。船客は例に依って例の如く、スマトラ、馬来の甲板客で満員、日本人は吾輩とそれに同行者の木村といふ呉服行商人で、此外婦女誘拐業者が一人と、是に誘拐されてスマトラに渡航せんとする婦人三名で、日本人全体としては都合六人であった。
 新嘉坡付近では此婦女誘拐者のことをピンプといって居る。で、此ピンプが多くの婦女を誘拐し、其悲惨なる境遇に泣かしめるさへ既に天誅に値するのであるが、彼等は是を以て足れりとせず、誘拐の途中必ず被誘拐の婦女を辱しめなければ止まない。中にな其毒牙にかゝったのを恥ぢて、自ら無残なる最後を遂げるものもある。併し又女性の身の心弱くも、其残忍なる圧迫に遇って、泣く泣く彼等悪鬼の獣慾的犠牲になるもの、殆んど十中の十であるに至っては、驚かざらんと欲するも豈に得べけんやで、実に吾輩の如きもスマトラ号の甲板に於て、其惨劇を実見した一人であるのだ。
 彼南を出帆してから幸海は平穏であった。其内に日が暮れかゝると、馬来スマトラ共が落日に向って礼拝する。夫が済むと何時とはなしに甲板の上が薄暗くなる、両舷燈檣燈が夢のやうな光りを熱帯の海に投げて、推進機の響きが刻一刻と寂しくなってくる。空は晴れて居るが星光の闇を照す由もなく、甲板客で埋められた上甲板に、僅かに朧気のランターンが二つばかり、暁の夢にも等しき淡き名ばかりの光線を浴びせかけて、夜は漸く深からんとするのであった。
 吾輩は船長の好意で船室を有って居たが、蒸熱つで堪らないので、暫時上甲板で涼まうと思って出てくると、有繋に涼しい風が顔をなでる、欄干に凭れ思ふとしもなく越し方の事を辿れば、万感胸に湧いて征途万里の行末が、何時とはなしに案じられる。
 星が一つ南に流れた。甲板客は男も女も船の上で船を漕いで居る。途端「お止しなさいよ。」と若い婦人の声が聞こえた。無論日本語で…………。
 熱帯の海をスマトラに向って南下する外国船に、夜更けて若き日本婦人の唯事にあるまじき声を聞いては、誰しも好奇の眼を見張るであらうが、吾輩は此時格別珍しいとも何とも思はなかった。といふのは彼南を出るとき誘拐者が其誘拐せる三人の婦人を伴って居た事実を知って居たからである。又一方では如何に悪魔の如き誘拐者と雖も、婦人の強硬なる抵抗に遇っては、有繋にどうすることもできまいと思ったので、格別深い注意も払はなかったのである。併し吾輩の予期は全然外れた。彼等のこと到底常識を以て判断し得べきでない。其又手続に至っては吾輩の口にすべき筋のものでない、あゝ止みなんかな、彼等は終に人間界に籍を置くことのできない輩である。
 翌朝未明、スマトラ号は無事デレに投錨した。
 デレは人口約一千位の市街で、日本人が八九十人居る。雑貨店も三軒ばかりある。人口一千に在留邦人の八九十人は少し多過るが、御多分には洩れない其大部分は例の醜業婦であるのだ。
 デレの雑貨店はかなり繁盛して居る。夫れは一大理由があるので、話を聞いて見ると成程と合点が行く。デレから廿哩ばかり内地に茫漠たる煙草の耕作地がある。其耕主は主として白人である。従って彼等はデレを通過して去来する度毎に、日本雑貨を土産物として購ふことになって居る。と今一つ重大なる理由は、日本婦人が四百人ばかり是等耕主若くは、煙草園に関係ある白人共の妾になって居るので、其日用品は自然デレの日本雑貨店から供給を仰ぐといふ風になって居るためで、さてこそ三軒の雑貨店が相応に繁盛する訳である。
 スマトラの内地に日本婦人が四百人もになって居るとは、恐らく読者には破天荒な事実であらう。而も東印度諸地方に於ける日本婦人の状態は、到底普通の想像力を以て律すべきでない。来て見れば左程にもなし富士の山といふが此方面を旅行して醜業婦の話を聞くと、実に何から何まで驚くことばかりで、来て見れば聞きしに勝ることばかり、緬甸印度も斯くやあるらん、まだ足も踏み入れないのに、既に其乱脈さが思ひやられる。
 煙草耕地に於ける妾の給料は月額三十弗乃至四十弗である。而して此等の妾連は大抵一週一回賜暇を得てデレにやってくる。といふのは要之気保養のためで何しろ煙草の耕地といふのが、漠々千里際涯なき底の境で、而も平常其主人なる白人と相対し、堪へ難い程莫寂しい生活をして居るのであるから、斯くは一週一度の休暇を得てデレに来り、懐しい日本人と相会し他愛もなく遊び暮すのである。で、彼等のデレに来る当面の大目的が気保養であるから、貰貯蓄の給料及び小遣銭は大抵デレで消費い果し、財布の底をはたきながら元の黙阿弥で再び煙草の耕地に帰って行くのである。
 然るに茲に面白い事件が持上るのは、デレに居る日本人の無頼漢が、是等妾共の来遊を待構へ語巧みに欺いて、其飽くなきの獣慾を遂ぐるのみならず、甚だしきに至っては其所持金衣類まで捲きあげる奴があることで、妾共も毛色の変った白人の旦那より、同じ種の日本人の方がいゝと見え、だまされると知りながら、不知不識深みに陥るのだそうで、中には日本人を買ったことが其主人に知れ、大騒動の末解雇される者も少くないといふことである。何と厄介千万ではないか。併し吾輩のデレに行った当時は、何等自覚なき妾共も漸く其馬鹿らしさが解ったとかで、日本人を買って裸体にされる奴が非常に少くなったといふ話であったが、夫でも吾輩の目から見ると意外に感ずる程、其お目出度さ加減が激しいのであった。而も斯の如き果敢い慰藉で辛くも其生命なき境遇に甘んずることができるのであると聞いては、吾人日本人として一掬同情の念を禁ずることができないのである。
 斯の如く煙草耕作地に雇傭されてる妾共が、新陳代謝してデレに滞在するもの、多きは十五六人少くとも七八人はあるので、是がため日本雑貨店若くは料理店は年中賑って居るのである。吾輩の見る処に依ると、彼等は日本料理店の二階で賭博を行るらしい。で、其際に相手の日本無頼漢と醜交を結ぶやうになるのであるやうだ。
 デレは一名メダンともいふ、日本人協会がある。滞在中は柏木亭と云ふ宿屋に止宿したのである。

(十一)林中の冒険
序だから此方面の呉服行商のことを話さう。東印度方面に醜業を営む日本の婦女其数幾百千、是に付随する楼主誘拐者妓夫幾百、是等が是より説くかんとする呉服行商人の常顧客である。(111頁)

(十二)馬来半島を経て緬甸に入る(112頁~)
・・・スギブセを経て陸路テレンシンに向った。此地方も錫の産出が盛大だ。併し其鉱区は大抵英国人の所有である。
 此方面の日本醜業窟は他の東印度諸地方と異り、入口に目隠しがあって、其中に入ると所謂女郎が張店をして居るのが見える。而も長煙管を構へた処は大に国粋を発揮したもので、真黒な素見の兄イ達をして、吸付煙草で魂を有頂天外に飛ばさしめる計略かと思ふと、吾輩もそゞろに物の哀れを催したのである。(114・115頁)

 ニコバル群島アンダマン群島を左舷に見て、五月一日午後一時頃イラワヂ河口を逆航し無事蘭貢(振り仮名ラングン)に入港した。(117頁)
 御多分には漏れない日本の醜業婦が、此処にも三四十人は居て、夫が相応に繁盛しつゝあるから妙だ。(119頁)

 翌日午後六時頃汽車はマンダレー駅に到着した。停車場を出て日本人の居所を訊くと、例の赤帽が親切に教へて呉れた。日本人居留地といひたいが、どうもさうはいへないから日本人の居所と書いたが、外でもない例の醜業窟なのだマンダレーに来ては其処を訪れるより外に行く処はない。日本人といへば醜業婦及び其抱主ばかりだから詮方がない。
 赤帽に教わった通り来て見ると成程日本人が居る。いふ迄もない婦人だ。路次の突当る木造の二階家を訪れると、年の頃なら卅七八、顔の白粉焼けのした眼瞼が気味悪く黒くなって、生際の薄い婦人が出て来て、是は又意外だといったやうな顔付をして入口に突立った儘、吾輩の顔を穴のあく程凝視て居る。何しろ異様な服装をした風来坊が飛込んだのだから、先方も定めし驚いたであらうが、まづ名乗りをするに如くはないと、名刺を出して無銭世界探検旅行の次第を物語ると、何は兎もあれどうぞ此方へと導かれたのが二階の応接間、丸卓を中にして吾輩と主婦とは相対して座を占めたのである。
 当時日本の無頼漢が多く東印度諸地方に入込み、夕に銅色男子を迎へ、朝に黒色の郎を送る醜業婦が、同胞の慰藉同情なきに泣いて居る矢先を見計ひ、甘い口車に乗せて衣類所持金までも捲上げつゝあったことを聞いて居たので、先づ此種の誤解を避けるために口数を尽して述べ立てると、先方も始めて安心したと見え、
「実は英国政府の命令で、廓内には日本の男子は入れないことになって居りますが、さういふお話で厶いますれば、宜敷う厶います。手前共でお宿を致しますから、どうぞお心置きなく御逗留遊ばしませ。」と早速承諾してくれて、夫からは下へも置かぬ待遇振り、直ぐ一間を吾輩の専用にあてがひ、・・・(122~124頁)

(十五)牛糞の如き印度人(146頁~)
 カルカッタの日本女郎屋は、香港新嘉坡乃至他の各地に於けるものと、大に趣を異にして居るので、其家屋及営業方法が中々ハイカラであるのみならず各楼主の経営にかゝる日本人倶楽部は、慥かに印度南洋方面に於ける遠征娘子軍中に異彩を放って居る。
 早合点しては困る、女郎屋の主人公に依って組織された倶楽部は、恐らく遊興を強ゆる一種の機関ではあるまいかと、否々決してさうでない。一体日本人で印度視察に来るものゝ不便とする処は其旅館で、多額の旅費を持って遊山三昧の旅行なら格別、カルカッタに来るものゝ多くは、仏教研究とは仏跡調査が主なる目的で、上等の旅館に頑張って贅を尽す訳に行かない。といって下等の旅館には種々なる障害と弊習があって、迚もポット出の日本人には安心して滞在することができない。要之日本人倶楽部は此不自由を救済せんとする目的で建てられたもので、いはば各楼主の暗黒なる他の一面に於ける慈善的光明面で、軽い財布を首に掛けて印度に来たものは、大抵此倶楽部から多大の便宜を得るので、其献身的設備に対して感謝しないものは、未だ一人としてあるまいと思はれる。(155・156頁)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767232/22

宮川寿美子「 女房説法鉄砲 三ぼう主義」明治44年11月20日発行 ※1911年

東洋諸港と醜業婦
 茲に、忌はしき話があります。私共が英国に参ります途中、上海及香港に上陸した時には、私共日本婦人四人が皆日本服を着て、見物に出掛けました。
 ところが明日はシンガポールに到着と云ふ前夕、船の事務長が、私共に向ひ「明日御上陸の際は必ず西洋服を御用ひなされませ」と、之れを聞いた時、あまりに異様なる為め其故を尋ねましたら、シンガポールにて日本婦人が日本服を着る時には、売笑婦と見間違へられるからとの答へであった。
 其時に日本服がかくまで、辱しめを受けて居るかと残念に思ひました。皆さまと上陸し色々話を聞けば、此処には数百人の日本人が居るけれども、三大節に(元始祭、紀元節、天長節、)正々堂々と私は日本人で御座ります。と領事館に頭を出す事が出来るものは、ほんの僅かで、他の多数吾々日本国民殊に日本婦人の名を汚すものであるとの事でありました。其被も折々は怪しげなる相乗りの姿をも見受け、一層忌はしき感じを起しました。
 私は未だ日本人の諸処の殖民地には行きたる事がありませんが、若し、其土地に宗教家のやうな精神教育者が先きに行かずに、賤しき島田頭が先きに行きたなら、英国の殖民地と、大いに趣きを異にするであらうと思ひます。・・・
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/798475/143

村上助三郎「東京闇黒記. 続編」1912年 ※明治45年

日本娘子軍の勢力範囲
▲海外に勢力ある日本醜業婦
 我邦醜業婦の出産地として最も勢力を持って居るのは南日本では九州が本場で殊に激しいのは、天草を随一として、島原付近であらふ、又北日本はどうかと見ると、越後、越中、秋田、山形等であるが、海上万里に迄暴威を振うて居ると云ふ処までは行かぬ。重に内地にごちゃごちゃしてゐる丈けである。
 扨て瑞穂の国の清らかなる大日本が海外まで醜業婦を出すやうになった一大理由とも見るべきは、天草の乱である、彼の天草が自由信仰として切支丹乃ち耶蘇教を信じた事が非常に当時の為政者の忌むところとなったのが原因で、遂に島原の騒乱となり、彼等の大敗に終ると同時に、武門富者は非常なる圧迫を受けたのである。それかあらぬか、其の子孫は富と権威の圧する所となり、人にして人にあらざる悲境に陥った。そこで如何なる方法でも左様だ、手段の如何は問はず、兎に角も金を獲ることさへ出来れば、不平を慰安することが出来ると覚へず知らず習慣は第二の天性となって、蘭人などを相手にしたのが海外醜業婦の権輿である。さア、こんな事があると、其土地では大に歓迎した、今迄の水呑百姓一躍して、美服の人となり、家には土蔵が建つと云ふ有様であるから、吾れも吾れもと醜業に進むと云ふ形勢になった、維新以後各国と交通が開けて、海外往来の自由が利く自代〔ママ〕となるからは益々彼等の跋扈を見るやうになったのである、かくて、此の風習は、日本諸国に瀰漫するやうになった、横浜、神戸等の開港場では、ラシャメン上りの婦人が一部に囃されてゐるのも、嘗ては島原天草等の風習が東漸して来た一証例である、恁那ことは決して褒めた事では無い。併し現今の日本の膨脹が奇妙に此醜業婦がさきがけとなって居る、言換れば三味線太鼓の先ぶれが日本の発達であって見ればなんともしやうの無い訳である。
 此等の醜業婦が世界に幾何の数を以て蔓って居るかを統計的に顕はすならば左の通りである。

 ▲海外醜業婦の発展地図(最近の調査)
△北方(敦賀港を出口として流出するもの)
浦鹽斯徳 208人
ハヾロフスク 154
ブラコベシチェンスク 153
ニコリスク 107
ニコライブスク 102
ハルビン 164
トムスク 10

△南方(長崎港を出口とするもの)
新嘉坡 1,600人
馬来半島諸国 65
マラッカ 65
ピーナン 450
蘭領印度 ?
ジャワ 165
スマタラ 280
ボルネオ 160
英領ボルネオ 70
セレベス ?
アル― ?
印度カルカッタ 105
同 孟買 ?
錫蘭 ?

南方にあれども以上のものと稍系統を異にするもの
上海 493
香港 163
ヒリピン=マニラ 110(此地方に在るものは香港と密接の関係を有す)

△西部(門司を出口とするもの)
満州諸地方 1,117(芸妓と称するものも算入す)
同 鉄道付属地 831(同上)

△東部(神戸横浜を出口とするもの)
桑港方面 550
シャートル方面 101
此外布哇及び米国のロッキー山以東の分は省略す

以上は各領事の報告を根拠として編成したるものだから、その実数は四五倍に上ること必定、ドウも一驚を喫せずには居られぬ、我が海外輸出品の主なるもの此等娘子軍の先方に頼りて僅かに発展して行くのである。

▲海外醜業婦の経路

 前表の如く北方の露領方面に敦賀を門口とし、南洋方面は長崎方面を門口としてゐる。最も門司からは中国辺の女も随分出る。そして長崎門司辺から出る女は多くは上海、厦門、又は香港より、比律賓諸島に連り直馳せして新嘉坡に赴く者は、馬来半島を根拠として、蘭領印度諸島より英領印度、遠くは亜米利加の東海岸に拡がってゐる、そこで其の経路を辿れば、地方に出づるのは、先づ最初に浦鹽斯徳に落着き、それから北に進んではニコライフスク、内地に入ってブラゴウイスチェスク、ハヾルフスク、遠くは、バイカル以西のトムスウ〔ママ〕まで出掛けてゐる。而して他の一隊は哈拉賓より北満洲に蔓ってゐる。又南方は一度玄界灘を越へたなら、非常に堅い決心が出来る、そして或者は上海に踏み止りて、南清一帯を侵し、香港に上陸する者は、更に比律賓諸島に転じ、新嘉坡に根拠を据ゆるものは、蘭領諸島又は英領印度亜弗利加等にまで及ぼすのである。
 彼等が初めて長崎乃至門司を出るにも、無論公然に出る訳で無い、水夫と通じて石炭や貨物の下積になって三日も飲み食はずに心棒する、そして海上遠く山陸も見ない処へ行ってから初めて人体を顕はすと云ふやうな奇抜な真似をやるので、こうなると、船中のものが聚て集って揄揶ても平気の平左衛門で最後の目的を達し、錦を着て国へ帰ることを期するのである、こんな工合であるから、船中で人の妻なども屡々之と見誤られて非常に迷惑することがあるとの事だ。

 ▲北方に発展せる者と南方に発展せる者
 北方の醜業婦は多く寒風肌を刺すと云つやうな土地に向って進むのである、日本内地の醜業婦は三ヶ年四五十円位が普通であるが、海外へ出るやうになると大抵二百四五十円から三百四五十円位になる、いや千円以上にもなる。之は南日本の女でも大抵同格である、そして彼等は郷を出る時は金さへ溜まれば国へ帰ると云ふ考へで行くのであるが、扨て行って見るとそう言ふ訳にも行ぬ、満洲などでは片遊金三円、泊込六円位で客を取るのであるから精々働きさへすれば、直き借金も抜けて帰国も出来さうに思ふが、日本人は情のために精神的捕虜となってしまふ、北国の女は随分胆剛なりと云ふ処もある、浦鹽辺の強盗は金を出せば命を助けると云ふセリフの奴等でない、命を貰ってから金を掠める手合であるが、日本醜業婦の胆力には何時も一目を置いて服従して居るとのことである、併し温い処は何処までも温かい、呼吸も氷ると云ふ宵などに醜業婦等が日本人を訪ねて、洗濯物などを手伝ったり時に爐を囲んで「おしょろ高島」も出るのである、又異郷党と云うても、向うから同情して呉れゝば一身を捨てゝもなどゝ云ふ女が居た、その女が病中に或る露人が半年も介抱した、其恩義に惚れ込んだが戦争が始まる頃であったから、日本人は皆引上げることになったが、此女はどうしても帰らない、残留日本人の捜索が初まって一度二度までは遁れたが三度目に捕まって牢屋へ入れられた。それでも進んで帰らぬ、其夫は二千円の賄賂を使って牢屋から救ひ出したので泣く泣く帰国したと云ふ実話がある。

 ▲南洋の貿易と醜業婦
 南洋で日本醜業婦の根拠地としてゐるシンガポールには、日本旅館と三井物産会社支店と愛久澤直哉〔ママ〕の護謨畑地と外に二三の石と大利商会日新商会等が行って居る、此辺我国人は約千七八百人であるが、大部分醜業婦が其勢力を占めて居る、南洋に於いて日本人の行って居る土地中醜業婦を差引いたならば殆ど零と云ふに憚らない。
 此醜業婦は前表の如くシンガポールを中心に馬来半島は勿論、ピーナン、マラッカ、南洋ジャワ、スマタラ、ボルネオ、セレベス、アロウ、濠洲大陸から亜弗利加の東岸にまで遠征を試みて居る、是等醜業婦に伴うて、大に勢力を殖して行くのは、吹矢商人である、プッと一息吹き出すと、小さな矢が向ふの土塀に当って勝った敗たと楽む娯楽的商売と相携へて到る処に調和されて居る。
 又商人としては例の米井商会で、之れは丁度醜業婦其他に日本の一般品を供給するを以て非常に利益を得て居る、其方法は丁度富山の薬売が、今年の薬価を翌年に廻って集めるやうに、色々の品物を持廻る、そして現に日本ではどんな品物が流行って居るかを巧みに観破して流行流行と追うて販売するのは実に恐るべき手腕である。此商会が商品で最も先駆に売出したのは、ボンボン時計、マッチ類で、今では三越や白木屋の衣裳までも年々の流行に伴うて販売して居る、醜業婦等が着もしない縮緬の羽織とか、光琳の帯とか、東下駄とか買って、御供物のやうに恭しく奉持して喜んで居るそうだ、勿論熱帯地方で丸帯でもしやうものなら、熱くて耐ったものでなからふ、こんな生活をして居るから、仮へ黒ん坊にても親切に絆されて夫婦になると云ふ実例もあって、最初の目的通り金を蓄めて、国へ帰るのは半数もないと云ふ事だ。
 以上の説明で世界を家とする我国醜業婦の動静一般を覗うことが出来やう、国辱と云はゞ云へ、自分は彼等遠征の意気又一点賞すべきところあるを認むるものである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/798818/193

山浦瑞洲「一兵卒乃告白」大正元年11月18日発行 ※1912年

麗水は南海岸の一小港にして、日本居留民も百余名を算せしが、此の倉村とては極めて山間の僻村にして、日本居留民は僅か五六人に過ぎず。
 さるにても奇なる現象は右五六人内の、一名は順天守備隊御用商人の出張員、一名は料理屋の主人、他は例の醜業婦なること是也兼て聞く『殖民地に醜業婦を送るは是れ植民政策の妙策なるもの也』と、其の言の適否善悪は兎に角、先づ渡韓以来瞥見したる彼の麗水と云ひ、順天と云ひ、又此の山間の倉村と云ひ、彼等醜業婦の跋扈には殆ど一驚を喫せざるを得ず
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/947773/80

酌婦を解せず。
市内松公園内、料理店、松金、抱芸者、梅八、事、西本サキは、今度、内地へ帰り、大阪府下、西成郡勝間村生れ、金沢ノエ(十九)が丁度、遊んで居れば、満州にいっては何うか、酌婦をしても、月に七八十円の収入はあると、例の調子で誘ひ出し、一日入港(の)台中丸にて来連したが、満州の酌婦は内地と違ひ、女郎と一緒と解り、這麼(こんな)恐ろしい所であったら、来るのではなかったと、頻りに悔み居るより、松金の主人も呼出され、相談の末、ノエは一先づ内地へ帰る事となる。(満州日日新聞、大正二年八月二日) ※1913年
(倉橋正直「従軍慰安婦と公娼制度」p122)
 
山根伝「現代青年の奮闘す可き南洋の新天地」

第一章 海峡植民地
新嘉坡市
 市内の商店は支那人七部を占め馬来人、欧人、本邦人此に次ぐ
 邦人経営の商店=市内に住する邦人約三千余人、其大半は婦人にして売笑婦たり、商店としては呉服雑貨を営業し、旅館、売薬店此れに次ぐ、彼等は只蝸牛角上の争に等しく、商品は重に日本人向を専らとし・・・
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/947858/15

彼南、(ピーナン)
住民=住民の六部は支那人にして馬来人、印度人、欧人之に次ぐ、本邦人の住するもの二百余人其大半は新嘉坡と同じく婦人にして他は売薬店、雑貨店、旅館とす。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/947858/17

第二章 蘭領植民地
スマトラ島
住民=本島の農業耕作に従事する労働者は実に支那人にして賃銀莫大なり、邦人にして移住する者も近時非常に多く、彼等は売薬を主とし電気機械商、呉服商之に次ぐ婦人の双影を認むるこゝにも多し
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/947858/19

佐野実「南洋諸島巡行記 : 附・南洋事情」大正2年12月28日発行 ※1913年

醜業婦の大打撃
 余は泗水滞在中に或人から左の話を聞いた。一九〇八年に交替した吧城(バタビヤ)総督は非常なる基督教信者で施政方針も前総督時代と異って居る、従て醜業も一九一〇年三月限り禁止さるゝことに為るとの事であった、然るに此三月二十七日の昼頃例の巡査が来て、今日行政長官は日本の醜業婦を役所に呼び、今月限り営業を停止し且つ此の美拿登県管轄意外に出立す可き旨を申渡したが、彼等の歎願に依り来月十五日迄延期を許されたとの事を語った。余等は別に関係ある事でもないが、此事が果してミナド丈けであるか左なくて蘭領全体とすれば、夫れこそ三千内外の醜業婦は如何なるだらう、其の職業の善悪は別論として差当り如何なる所置を取るだらうかとK君と話しをして居る時、女郎屋の主婦が突然やって来て、今日役所での一件を心配相に委細物語って、蘭領東印度全体が此様であるか、又営業を停止さへすれば立ち退く必要もあるまいと思ふが如何で御座いましょうと不平半分に役所で聞く可き事を余等に聞いて居る、余等は兎に角にも、役所と争ふては却て不利益だから船の入港も間近の事であるから、夫れ待ってば泗水地方の様子も分らうしするから、其の船を待つ方が宜しからんと諭してやったが、船が入港して瓜哇地方も同様であると分ったので、今は二軒の醜業屋も途方に暮れて居たが、瓜哇地方は定めし大騒動であらうと想像する。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950708/112

救世軍日本々営「日本の救世軍とは何乎 何を為しつゝありや」大正2年9月25日発行 ※1913年

いつぞやも、警察官が大連市中を巡回するうち、二人の少女が塵箱を探して食物を求むる有様の、如何にも憐れなのを見て之を怪み、取調べて見ると、此両人は姉と妹にて、名古屋の者であるが、芸者の見習として次から次へと売り渡され、近頃大連に来た処が。其抱主が邪見にも、芸を覚えることが鈍いといふては度々絶食を命ずるので、空腹に堪えず、果は塵箱をあさって食物を求めて居るのであると分った。民政署では其二人の少女を取りあげ、これが保護を救世軍の婦人ホームに托さるゝこゝ〔ママ〕になった。ホームの士官が少女に其身の上の事を尋ね、「お父さんは」と問ふと、「もう死んでしまふた」といふ。「お母さんは」と尋ねると、「四人あるうちの何れか」と問返した。次から次へと芸者屋の手に渡り、往く先々の主婦(振り仮名「おかみ」)を「お母さん」と呼ばされて居る故、偶々「お母さんは」と問はれて、「四人ある中の何れか」と問返したなどは、如何にもいぢらしいことではないか。此二人はまだ漸く十三歳と十一歳とに過ぎなかったのである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/922980/30

烏賀羅門「朝鮮へ行く人に」大正3年8月8日発行 ※1914年

口入業
八軒
月収 八九十円位
 口入屋の、其看板には、孰づれも皆例に依て男女云々とあるにはあるが、それこそ看板ばかりで、実に釜山の口入屋には、男を取扱ふものは一軒もない。開業以来未だ曾て男を周旋した事はないと云ふものもある。全く女専門だ。例の芸娼妓、仲居、たまに下女、而して、蔭から蔭への日蔭者も無論ある筈。需要口は、釜山にもある筈ではあるが、周旋人は成るべく、遠い土地へ遣りたがる、これには自家の利益上ニ三の理由があって存するのだ。大多数は、馬山、郡山、縣洞、蔚山と云ったやうな、邑落へ遣る。
 人間商売は薄情商売で、挙って碌なものではないが、中にも口入屋ほど非道なものはあるまい。実際罪悪を云へば女郎屋、婬売屋に優るとも劣りはせぬ。随分下等で、不浄で、何んのシャ面下げて、と憎くい。残忍、横着、舌を二枚も三枚も持ち、千枚張りの面の皮を持たなくば出来る商売ぢやないが。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952070/102

大森清次郎「南洋金儲百話 実行容易」1914年 ※大正3年

第三十話 素晴しい娘子軍の勢ひ 
 異境万里に咲き匂ふ大和撫子と云へば、実に詩的に聞えるが、晨に越客を送り夕に呉客を迎ふる浮川竹、身を浮草の根もない考へから、国の恥をも恥と思はず、有髯の男子さへ行きがてにする蛮域へも、平気の平左で押掛け行き、黒白黄銅の色を選ばず、一切平等に博愛を振撒き、衆生の色餓鬼を済度し給ふ、ても有難いと渇仰の涙を流す二本棒が、縞の財布の空になる頃は、金の切目が縁の切目との有難い引導を渡され・折角図南の雄志を抱いて踏出して来た青年が、失望落胆自堕落の深淵に沈み行くを常とする。戒しむべきは色欲の道である。
 在南日本人の統計を見ても、女子は男子の約倍数ある。其の十中八九は醜業婦であると云ふに至っては、吾々日本人たる者全く汗顔を掩はずには居られない。彼等は大抵九州天草辺の女労働者で、生活の為めと虚栄の為めからで、素より教育もなければ何にもない。生れて只大きくなったと云ふのみの野育ちで、貞操も外分もあったものぢゃない。新嘉坡のマレイステレツへ行けば、軒端に椅子を持出し、赤い模様沢山の衣服を着込んだ、正札付の売女が陳列され、淫猥聞くに堪へぬ言葉を喋り立て、頻りに嫖客を呼び込んで居る。尤も日本の醜業婦ばかりでなく、黒奴、支那人、馬来人西洋人など殆んど世界中の女を集めて、盛んに風俗を乱して居るのである。 
 植民地で金廻りの好い所から、日本の醜業婦などは頗る収益が多く、身に絹布を纏ひ、金銀珠玉を付けて贅沢な暮しを営み、已に数千金を貯へて居るものもあり。彼等が本国へ送金する高は年々七十万円以上だと云ふ。従って購買力も比較的に強く、贅沢な商品は大抵彼等が買ふのだと云ふから、何だか奇妙な感じがないでもない。で、ドコソコのホテルに日本人が新規に来て居ると聞けば、昼間馬車や自動車などでやって来ることもある。而して彼等の方で散財して遊ぶのである。又中には日本の男子を妾に置くのもある。実に素晴らしい勢ひと言はねばならぬ。

山室軍平「社会廓清論」大正3年10月19日発行 ※1914年

第六章 海外醜業婦
○日本の令聞を奈何
一年程前に在東京の英国人セシル監督は、シンガポールより受取りたる半官的の書面を添へて、一通の公開状を時事新報社に寄せ、「日本の令聞」の為めに其在外の醜業婦を取締らんことを求められた。監督が受取られたる書には、「日本国より馬来に向ふて輸入せらるゝ婦女の売買に関して、少くも教育ある日本人間になりとも、輿論を喚起することは出来間敷や」とあり、事実を証明する為にとて、左の一表を添へてあったのである。

馬来連邦人口調査報告(一九一一年)
         男   女   合計
在留日本人総数  337  1,692  2,029
内訳
ペラク在留    125  629   754
セランゴア在留  116  579   695
南セムピラン在留 71  262   333
パハン在留    25  222   247
(摘要)馬来連邦に渡来する日本人の数が、一九〇一年には五百三十五人なりしに、一九一一年には二千〇二十九人となりしは、実に驚くべき増加なり。十年前に在留せし男女の数に比すれば、現今は殆んど各四倍となれり。此劇増はセランゴアにては余り著しからず。此地にては只二百三十三人より、六百九十五人に増したるのみなれども、而かも連邦一般に其劇増すを感ずること甚しといへり。馬来(マライ)連邦に渡来する日本婦人の多くは、醜業に従事する女なり。又日本の男子移民の多数を占むる下等民中には、一定の正業に従事するもの甚だ少なし。

右の表に由て見るに、日本人は男子一人に婦人五人の割合にて、其地方に出かけて居ることが分るので、唯此一事に由りても、彼等の中に如何に多くの醜業婦が居らねばならぬかを、事実の上に示すものと言ふべく、真に汗顔の至りである。時事新報汽車が其事につき「日本人としては如何にも慙愧に堪へざる次第なると共に、道徳高き宗教家の人々が、斯くまでに懇切なる配慮を為すを見るときは、其配慮に対しても、之を其儘に打捨て置くべからず」と論じたるは、如何にも尤ものことと思はれる。

○一箇師団以上の醜業婦
然るに日本の醜業婦が海外に赤耻を晒して居るのは、唯馬来連邦だけではなく、それこそ南満洲、北清の辺りは言ふも更なり、西比利亜にも、印度にも、南洋にも、阿弗利加にも、太平洋沿岸にも、到る処彼等の徘徊しない処はないやうな有様にて、今では海外に醜業婦を輸出すること、日本の如きものは世界にないと称へられて居るのである。然らば一体、日本からはどれ程の海外醜業婦を出して居るかといふに、目下日本人の海外諸国に在るもの約参十万人にて、内雑と其一割位は醜業婦であると伝へられる。それに就て左に雑誌「新公論」に掲げられたる鬼哭生の一文を抜萃したいと思ふ。

日本から醜業婦が海外に出て居ることは聞いてゐた。しかも日本の海外発展は醜業婦から始まると云ふことも聞いてゐた。しかし其数がこんなに多いとは夢にも思はなかった。統計について其示す処を見よ。統計に現はれてゐる料理屋、飲食店、遊芸家業、酌婦、雑業、無職の女は之は大抵は醜業婦である。之を寄せたものは実に各地、左の如き数となってゐるのである。
△支那 16,424
内、関東洲 8,388
  間島付近 198
  局子街付近 50
  頭道溝付近 21
  琿春付近  65
  安東   771
  奉天   790
  新民府付近 23
  遼陽   300
  鉄嶺   289
  牛荘   1,924
  長春   573
  吉林   70
  哈爾濱  656
  斉々哈爾 452
  天津   251
  北京付近 51
  芝罘   221
  上海   747
  南京   22
  蘇洲   4
  漢口   384
  長河   6
  福州   24
  厦門   91
  広東及仙頭 53
△新嘉坡(英領)2,086 ※シンガポール
△香港(同) 485
△柴棍(仏領 192 ※サイゴン
△マニラ(米領) 392
△バタビヤ(蘭領) 970
△バンコック(暹羅) 8
△孟買(英領印度) 147 ※ムンバイ
△シドニー(濠洲) 74
△桑港(米国) 371 ※サンフランシスコ
△シカゴ(同) 35
△ポートランド(同) 27
△ホノルヽ( 哇) 913
△晩香坡(英領加奈陀) 83 ※バンクーバー
△亜爾然丁(南米) 6 ※アルゼンチン
△秘露(同) 23 ※ペルー
△墨西哥 24 ※メキシコ
△倫敦(英国) 7 ※ロンドン
△独逸 4
△露西亜 4
△浦潮(露領) 1,087 ※ウラジオストク
総計 22,362人

実に驚くべき数である。日本人の海外に出てゐるものは総数約三十万であるが、其約一割は醜業婦である。此の多くの同胞が何の為に外国まで出て恥を晒してゐるか。其多くは日本の何辺から行ったものか。主な処での彼等の生活の有様は何うであるか。

○海外醜業婦の輸出事情
斯く迄多数の海外醜業婦は、如何にして其本国を立出で、又如何にして各地に集散せられて居るであらうか。

試みに日本郵船会社の欧洲航路の汽船を見るならば、どの船にでも三等客の女で怪しいのが乗って居ないことは無い。之は大抵、香港や、新嘉坡、上海などに行く醜業婦である。月二回の欧洲航路には、毎船往き復りに必ず居るばかりでなく、社外船の如きは実に多い。三等客の幾分は、醜業婦と其関係の男である。之が取締なども厳重だとは云はれてゐるけれども、夫は形式だけで、上海でたゞ水上警察から一応見に来ると云ふ位なもの。彼等は大手を振って公然の渡航をしてゐる。中には石炭の中に隠れて密航するものも無いではないが、之は極めて少数で、大部分は官憲も見て見ぬ振り、大目に通してやるのである。これ等の醜業婦は皆門司から乗船するのであるが、其国元を調べると多くは九州もので、醜業婦輸出で有名な、島原、天草付近から出るのである。中には神戸や東京付近から、近頃では北国からまで、買はれて行くものもあるが、それは少数である。是等の女は何で海外まで恥を晒しに行くかと云ふに、彼等に取っては、海外に行って醜業を営むのが、嫁入仕度に行く位の心持で、所謂稼ぎに出るのである。故に彼等は少しく金が出来ると、日本服の晴着や帯などを買ひ調へる。彼等は全く無智の女である。街頭を行く紳士を捕へて「アンサマ」と云ふより外に、何事も云ひ得ず、語り得ざる憐むべき女である。其多くは貧家の女、百姓の娘で、渡航しては女子供の着るやうな赤いメリンスの浴衣を着て、新嘉坡のマライ街あたりに嫖客を呼ぶのである。我が同胞が海外で斯かることをしてゐるのを見ると、何とも云へぬ不快と哀愁を感ぜずには居られぬ。さて日本の醜業婦の北に行くものは大連を根拠として、これより奥に入るのであるが。南に行くものは、前には香港を中心として、新嘉坡、比律賓、柴混等に入り込んだものだ。然るに香港は近頃日本の紳士、紳商が多くなったので、自然体面を重んずるやうになり、芸妓が多くなって娼婦の方が減ずるやうになった。それが為め近来では新嘉坡が其の中心地点と変り、香港は第二位に下り、其の繁華の度も、新嘉坡は新進の気著しく現はれ、香港は稍停滞の気味がある。香港では事業をしてゐる人々の間では、醜業婦関係のあるものは、排斥されるやうになったが、新嘉坡では、表面は其気味もあれど、内部では醜業婦の助力によって成功し、其の便宜を得て仕事をするものが多く。今では日本醜業婦の南方発展の中心は、全く新嘉坡に移ったと云ってもよい。こゝを中心として仏領印度、ピナン、スマトラ等に入り、スマトラのデリーと云ふ処から、更に英領印度、カルカッタ、ボンベ―等にまで行くのである。

○日本国民の耻辱
明治三十七年の晩春、私共は間もなく英京倫敦にて開かるべき救世軍の万国大会に出席する為め、一行六人にて仏国郵船ポリネシエン号に乗り、欧洲航路にて出発したのであるが、一日船が香港を出やうといふ間際に、私共が食事をし居る最中、忽ち日本を出て以来、絶て聞き慣れぬ駒下駄の音の如きものが頭の上に響くのを聞いた。不思議なこともあるもの哉と、訝りながら尚も食事を続け居ると。そこへ狭い階段を下りて入って来たのは、白地の浴衣に細帯をしめ、団扇を片手に持った二十八人の日本醜業婦の一隊と、それに付添ふ者とを加へて合計三十三人の一行であった。彼等がカラリコロリと駒下駄の音を立て、入って来ると下等な仏蘭西人などの乗客が、拍手喝采して之を歓迎する。此有様を一目見た私共は胸つぶれて最早ナイフも、ホークも、動かなくなってしまふた故。直ぐに食事をやめて一室に退き、一行六人にて先づ涙ながらに天父に号泣したのである。「オヽ我が神よ、これ迄日露戦争の風向の好いことなどを恃み、日本人と生れて来た光栄にのみ酔ふて居ったる私共は、今図らずも、こゝに此大なる国民の耻辱を蒙らねばならぬことゝなりました。私共の区々の耻辱は言ふに足りませぬ。併し乍ら彼等に由て毀損せらるゝ日本国民の体面は、如何にして之を保持することが出来ませうか。一体私共は斯かる場合に出あふた日本人として、殊に日本の救世軍人として、どういふ処置を取ったら可いのでありませうか、神よ力弱き私共を助け給へ。彼の耻を異境に晒らす不幸なる婦人達を憐み給へ、日本国民を救ひ給へアメン、アメン」と

○淫売は日本人の耻晒し
斯くて後、私共は堅い決心を以て起ち上ったのである。「仮令此場合自分共に何程の事は出来ずとも、力に及ぶ限りの事は之を尽さねばならぬ」と。それから毎食事の後で、名を聖書研究に借り、彼等と其他二三の日本人の乗客を目当に、大声に説教を始めたのである。「なぜ、あなたがたは然ういふ不心得なことをして、日本人の顔に泥を塗り、自分では亦滅亡の道に堕ちて行くのか。なぜ今の内に思ひ直して、正しい道には帰ることをし得ないか」と。此ういった様なことを其度毎に説教して居ると。そのうち婦人達の中から私共の一行の、殊に女士官に近づき、其身の誘拐せられた顛末などを訴へて、忠告を求めるものも現はれるやうな始末。それを見て取った付添の者共は、給仕長に相談して、彼等の食事の時間を取り変へ、私共と同じ時刻には食堂に出て来ぬことにしてしまふた。のみならず亦其婦人達を追ひまはして之を監視し、一人も私共の仲間に近づかさない様な工夫をし出したのである。其為め私共は、最早食堂にて説教するともその甲斐がなく、亦彼等と対話する機会もなくなったゆゑ、これではならぬと、今度は誰か持合はせて居った一反ばかりの白木綿を六つに切り、細長い襷の様なものを作り、前の方には「いんばいは日本人の耻さらし。」後の方には「どんな難儀をしてもすぐ正業に就け」といふ様な文句を書き付け。それを肩から懸けて一行六人、朝夕絶間なく彼等の寄って居る辺りを右往左往に散歩することゝし。せめては彼等の眠れる良心に、多少の覚醒を与へんことを努めたのである。

○誘拐の事実
是に至って彼等に付添へる無頼漢の一人は、大きに腹を立て、凶器を携へて、私を刺殺さうと早やり立ったのであるが。其首領が之を押し止め、強て浴室に連れ込み、半日説得して漸く思ひとゞまらせたのださうである。後に其首領なる者が私共に会見を申込んで来たので、同行の矢吹少佐をして私共を代表して対面せしめると。彼は只管私共に詫言を述べ、「どうか新嘉坡迄目をねむって居てくれろ」といふのである。目をねむるにも、ねむらぬにも、私共とした処で、此場になって此以上に為し得る処もないのであるから、其儘これ迄やりかゝった通りをやり続けつゝ、船の新嘉坡に着くのを待兼ね、急ぎ上陸して日本の領事館を訪ひ、領事に会ふて船中にてありし事実を述べ、少く共本人の意志に逆らひ、余儀なくも然ういふ生活を営ませられて居る婦人を救護せられんことを求めたが、更に要領を得なかった。左に掲ぐるは其節、領事への参考にもと、予め船中にて認めて置た書類の謄本である。
一、明治三十七年五月十七日、香港より新嘉坡行の日本醜業婦二十八人、四人の男子と一人の婦人とに伴はれ、仏国船ポリネシエン号に乗込み来れり。
一、彼等の中多く悪漢無頼の徒に欺かれて、日本を去りたる者あり。今も如何にかして故国に帰り、正業に就きたき熱望を有しながら、然も悪漢無頼の徒の手中に陥りて為すべき所を知らざる者あるは、明確なる事実なり。
一、豊後の者にて姫野カツといふ婦人あり。二十歳の少婦なり。門司に滞在中、或男子より小倉に行かんことを誘はれ、之に従ひしに、其の儘石炭船に乗せられ、六昼夜絶食の後香港に上げられたり。而して心ならずも醜業を強ひられつゝあり。如何なる苦労難儀をも辞せず、帰国して正業に就かんことを熱望し、我等の一人に嘆願せり。
一、長崎県篠原上総七十番地八木シナヨといふ者あり、十八歳の少女なり。父は海軍大機関士を勤めたりしが、三年前拍子、兄三人は皆海軍の機関士たり。一人は軍艦八雲に、一人は出雲にありといふ。母より思はぬ先に嫁すべきことを命ぜられ、逃れて神戸に赴く。こゝにて或男子より好き奉公先に周旋せんとて船に乗せられ、其儘香港に連れ来らる。母に詫びて帰国し、正径の生涯を送らんことを熱望す。路用金の如きは、兄にさへ訴へなば送らるべしと信ずと言へり。
一、作州勝間田の者にて服部クマといふ者あり。二十歳也。神戸にて奉公中、佐世保に給料を多く払ふ奉公先ありとて、或男子の其兄と共に来り勧誘するに会し、之に従ふて乗船す。荷物と荷物の間に潜ませられ、数日間食物を給せられず、苦悶を極めたる後、香港にて上げられたり。心より醜業を厭ひ、正業に就かんことを熱望す。
一、松本竹子なる者あり。長崎県上町の者也。高等小学三年級迄卒へたりといふ。亦欺かれて今日に至りたる事情を訴へ、我等の一人に聖書を買はんことを求め、之を与へしに熱心繙読しつゝあり、正業に帰らんことを熱望す。
一、同時に彼等の大部分は、浴衣に細紐のしらだき風体にて、終日船中を徘徊し、下賤なる乗客と戯れ、時としては、裸体にて衆中に出づる者さへあり。印度の紳士にて、絹物貿易に従事するテラスダス氏の語る所によれば、五月十八日午前二時に氏は臥床に在りて寝返りせしに、同じ船室にて、一日本婦人が独逸人なる一乗客の寝台に入り居たるを見たりと。
一、乗客の一人、ドイツ人ウィルヘルム、トレンデル氏は曰ふ、日本の領事は宜しく、此の如き婦人等の上陸の際之を取調べて、其事実、他人に誘拐せられ、心ならずも此の如き有様にある者は、直ちに帰国の手続をなし得さすべきものなりと。
一、又英人、エー、ロニック氏は曰ふ、君等若し事を領事館に訴へんんい、若し必要ならば、余は喜び同行し、逐一余が目撃したる此不都合極まる事態を訴ふべしと。
 明治三十七年五月二十日 ポリネシエン号にて

私は今に至る迄、其時出会ふたる婦人達の、気の毒なる身の上を、どうしても忘るることが出来ない。

○大連婦人ホーム
其翌明治三十八年、日露戦役の漸く終を告げんとする頃から、満洲大連を経て段々奥へ奥へと入り込む日本醜業婦が引きも切らず、中にはひどい誘拐の事実等も甚だ多い様子を、見るに見兼ねて、当時青年会の慰問部に居られた、今の廓清会理事益富政助氏其他の有志が、満洲婦人救済会といふものを起し、彼等の幾人かを救済して、最初の間は救世軍の東京婦人ホームに送り届けて居られたが、余り遠くて不便利故、後には大連にて一軒の家を手に入れ、そこに然ういふ婦人を収容し出されたのが本で、終に一箇の婦人ホームが出来た。後其婦人ホームは之を救世軍に引渡され、爾来八九年間救世軍の手にて経営し、今日迄に計七百人余りの不幸なる婦人達を救護して来たのであるが、救済を受けたる婦人達の身の上に就ては、言ふに言はれぬ程悲惨なるものも少なからず、若しさういふ細かい話を始めたものなら、唯それ丈でも一冊の大きな書物となる位である。併し今はさう沢山なことを述べて居る場合でないから、唯其中の二つ三つ丈を左に紹介することゝ致さう。

本年春頃悪漢の手に誘拐せられて大連西通の某料理店に連込まれし姉妹ありき。生れは山口県吉敷郡平川村の者にて姉は十九歳、妹は十七歳の娘盛り、好き良人を迎へて幸福に暮すべき身の、哀れにも満洲風に誘ひ出され、奉公する気で来て見れば鬼住む宿の恐しき事のみにて、来た其夜より客を取れと強ひられ、厭と言へば打ち叩かれて、姉妹相抱いては泣き悲み居たるが、夜毎日毎の勤め愈々辛く、斯くては命も危かるべしと故郷の空のみ打眺めて、身の不幸を嘆き居たる結果、到底浮む瀬の有るまじければ、寧そ一思いに死なんものと、姉が泣いて言へば、妹も同意し、姉様に別れては生き存へる甲斐も無しと、両人窃に諜し合せて或夜家人の隙を窺ひ、跣足の儘飛出して彼方此方と死場所を探した末、漸く大桟橋に辿り付きて、今しも死なんと用意し居る処を折よく通行の人が認め、危ふく二人を取押へて能々不心得を諭したる上に、先づ婦人ホームに連れ来り、同所にて旅費を調へ、妹は故郷に帰りしが姉は面目なしとて当地に留まり、慈恵病院の看護人としていと神妙に勤め居たるも、此女よくよくの不運と見え、間もなく病死したりといふ。(満洲日々)

これは誘拐せられたる娘等が、悲嘆の余り姉妹相抱いて、投身するのを救はれたといふ物語である。

○娘を誘拐せられて発狂す
こゝに又其可愛い娘を誘拐せられた為め、発狂したる哀れな母親の物語がある。
本年二月、鉄嶺門外料理店住吉館事角伊三郎方へ誘拐されたる女ありけり。長崎県高来軍上総村の者にて、十九歳といふ花耻かしき姿を無惨なる、色魔の犠牲となり、泣く泣く勤め居たる折柄、国元にては母親が娘の安否をのみ思ひ暮して何うして居るやらと心配の矢先へ、不図娘が角伊三郎の手により更に満洲へ売渡されると聞き、驚く事一方ならず、そんな事をされては一大事なりとて、十二歳になる子と、九歳の子とを携へ、遥々大連に渡航して汽車にて鉄嶺に辿り行き、漸く娘に逢ひて事情を聞けば恐ろしき勤めを泣いて暮して居ると判り。母親は殊の外立腹して伊三郎に娘取戻の相談をなしたるも、根が畜生同様の根性なれば、容易く渡して呉れる筈は無く、其上親子を虐待して犬馬同様の取扱ひを為すにぞ、母親は女気の心も心ならず、果は精神に異状を来したる矢先き、九歳になる子が病気に罹りて呻き苦み居るに拘らず、薬一服呑ますでも無ければ却って厄介者だと罵り散らされ、碌に手当もなす能はざる為め、哀れやその子は死亡したり。さらぬだに心を痛め居たる母親は、娘の境遇と、己が身の上と、子供の死亡とに心益々乱れた果は、全くの発狂気となりて、あらぬことのみ口走るにぞ、此事遂に領事の耳に入り、伊三郎は呼出されていたく叱られ、親子三人は領事の手にて始めて人間世界に戻るを得たるが、漸く大連迄帰り来りしものの、帰国するさへ旅費なき有様に、是又婦人ホームの救ふ処となり、事情を聞けば哀れなる話と受持士官山田氏夫妻が甚く同情して、此の悲惨なる物語を社会の人に訴へ同情を求めたる処、世には仏もあるものなり、我も我もと義捐金を送りてその額七十円近くに上り、安心せし為めか母親の病気も全快し、親子三人が手を合せての喜び、幾度か嬉し泣きの涙を溢していそいそ本国に帰り行きしといふ。(満洲日々)

○少女の誘拐者
こゝに又数人の娘を誘拐し損ふて捕へられたる人鬼の物語がある。此ういふ人間の事も紹介して置く方が可いかとも思ひ、左に掲載することにしたのである。

昨日入港の商船大義丸の三等客、愛知県愛知郡下の一色村内藤キン(五十六歳)が同村木村末太郎長女イト(十七歳)同村森定吉長女サイ(二十歳)同村犬飼半三郎長女ハル(十五歳)の三人を拉れて上陸せんとせしを、現場に臨検し居りたる水上派出所の桃井、吉田の両巡査が、例の警察眼を以て如何にも怪しき奴と目星を付け、直ちに水上派出所に引致したる事は昨紙に逸早く報導したる所なるが、其後取調べたる所、全くの誘拐犯たる事判明するに至れり。而も其顛末は頗る込み入りたる事実あるを以て、茲に之を詳報すれば。名古屋市は熱田町字中瀬に雇人口入業の看板を表に掛け居れる野田常次郎と云ふは、口入は名のみにて、実は誘拐専門の悪漢なるのみならず、広く海外各地の同類と気脈を通じ、是れまで其地方の婦人を誘拐しては、海外に送り出したる事数知れず。今回内藤キンが前記三人の小娘を誘拐したるも、全く此男の指金に依るものなるが、偖此のキンの素性と云ふは、一色村の百姓にて、数年前より麦稈細工の営業を始め、村内は勿論近村の小娘を自宅に集めて麦稈編みをさせ居れるものにして、小娘を説き付けるには至極好き関係を持ち居るを知りたる前記の常次郎は、奇貨措くべしと、予てキンに対し婦女誘拐の事を利を以て誘ひたる所、キンは既に六十近き老婆にて片足は棺桶に突き込んで居る年輩なるに拘らず、却々死に欲が強く、つい利の為めに迷はされ、常次郎の同類となり、自分方の工場の婦女を甘く欺きては、常次郎の手を経て満洲より西比利亜掛けて誘拐し来りたるもの、これ迄にも甚だ多く、今回の被誘拐者イト、外二名も此手に乗りたるものなり。
 前記三人の小娘は、本年始め頃よりキン方の麦稈細工に雇はれたるものなるが、固より女の仕事の事とて、一日に僅か十銭か、十五銭しか儲からぬより、外の好き儲け口もなきかと思ふ矢先き。廿日程前の事なりしがキンは三人に向ひ、「今度満洲長春の手堅き商家にて、下女が三人要るので雇入に来て居るものがある。月給は向ふ口で十円呉れるとの事だが、行くものないかしら」と話しをしたるに、此三人は騙されたとは知らう筈はなく、つい其話しに乗り気になり、親にも相談して愈々必要なる種々の書類を調へて、去る十三日大阪出帆の大義丸に乗り込み、老婆キンに拉れられて大連に渡来する事とはなりたり。偖て船は去十五日門司を出帆したりしに、キンは此れにてもう大丈夫これから徐々口説に取掛らんと、三人に向ひ。「お前達は国では堅い商家の下女奉公と云ったが、実はさうではなくて、長春に行けば酌婦にするのだ。酌婦となれば、淫売は勿論せねばならぬ。かう始めて聞いたらお前達は驚くだらうが、もう此処まで乗り出して来れば仕方がない。嫌なれば直ぐ此処で前借を返せ、さもなくば、之から私の言ふ事に従ふか」と。死地に臨んだ小兎と知って、狼にも劣らぬ残忍の嚇し文句を浴せ掛られたれども、旅の空とて依頼りにする人も無き小娘三人は、何の分別も立たず、つい渋々ながら老婆の言に従ふ事になりたるを、キンは又々三人に向ひ、大連上陸の際に於ける警察の取調に対しては、何処までも「酌婦となります」と答弁すべしと迄に抜目なく教へたり、水上署にては前記の如く四人の者を船中より引致したる後、小原部長は直ちに取調べに着手したる所、此三人の女は、長春城内三東街料理店内藤ヤス方にて酌婦として拉れ行くものにて、当分大連の磐城町菓子商白木庄太郎、信濃町第三楼民澤一知、若狭町徳泰号犬飼観二の、三軒の内に宿りますとの曖昧の返事をなせり。仍て更に娘の方を取調べしに、前記の如く三人は充分に仕込まれ居る事とて、飽まで酌婦となると申立つるに依り、書類を調べ見れば、総ての手続の完全にして、之には警官も手の付け様なく持て余しの体なり。話頭一転、本月四日入港の大義丸にて渡来したる同郡一色村の西川エツ(十七歳)と云ふ美人は、矢張右の悪婆キン方の麦稈細工の雇人なりしが、キンの勧めに依り前記常次郎の手許を潜り、熱田町冨澤町石田ヒサ(三十五歳)の為めに拉れられ、市内監部通春日洋行へ下女奉公する約束にて来たりしが、話しと事とは全く異り。ヒサの為めに統合街食道楽濱の家に百円にて売り飛ばされ、卑しき酌婦となりたりしが。忽ち子宮病に罹り、業務に堪へぬ所より、どうぞして国へ帰らんと思ふ矢先き。一昨日大義丸の入港すると聞きて、自分の乗り来りしも同じ大義丸なれば、船長に頼めば内地に帰れぬ事もあるまいと、そっと同家を脱け出して桟橋に至り、大義丸に其旨頼み込みたりしに、船員は夫れは水上派出所に行くが宜しいとの事に、直ちに同所に至って泣く泣く保護方を願ひ出でたり。西川エツの水上派出所に保護方を願出でたる際は、丁度イト、サイ、ハルの三人取調べ中なりしが、軈てエツが三人と顔見合すれば何れも同村の朋輩にて、而もキン方にて同じく麦稈細工をなし居りしものなれば。エツも三人も驚き一方ならず、「どうしてこんな処へ来たのか。」「お前はどうして此処に」と、知らぬ外国で朋輩に逢ひし為め、嬉しさ極まって四人は抱き合ひつゝ、どっと其場に泣き伏したり。然るに此時突然悪婆キンが「私が居るから泣く事はいらぬ」と云ふ声にエツは、不図心付いて其辺を見廻せば、直ぐ傍に自分の元の雇主キンの来て居るのに二度吃驚し、何が何やら夢の様にてさっぱり解らず、能く心を静めて其事情を聞いて見れば、前記の始末に又驚きて、エツは更に三人のものに対し、自分の辛き目に遇ひし事を物語りたる後、「決して酌婦などには死んでもなるものでない」と言ひ聞かされ。「今迄酌婦になる」と頑張りし三人も始めて其事情を知り、泣いて警官に対し其真実を物語り、保護を申出でたり。此愁嘆の場を目の当りに見せられし立会の警官は、之に対し頗る同情の涙をそゝがれしが、此時遉がの悪婆キンも自分の前非を悔たるものか。「実は長春迄此三人を拉れて行けば沢山の金も貰へるが、これ限り内地へ帰れば旅費も借りて来た事ゆゑ夫れ丈は支払はねばならぬ。さりとてこうなった上は目的地へ拉れて行けず、全く困りますのは妾だ」と申立てたる由なるが、天罰覿面、実に好い気味と云ふべく、由って四人は直ちに保護して婦人ホームへ入れ、キンは誘拐犯嫌疑者として目下拘留中なりと。(遼東新報)
これに似たやうな少女誘拐の事実は、毎度私共の見聞する所である。

○三等舩室の説教
私が去年の春、大阪商船会社の汽船天草丸にて、大連にいった時のことである。既に玄界灘に乗出して後、事務長が私にむかひ、一等二等の船客の希望であるから、一場の講話をして呉れまいかといふ依頼である故。喜んで之を承諾すると同時に、「併し私は寧ろ三等客に行って話をしたいのですが」といふと。事務長は怪み、「それは何ういふわけですか」と問ふ故。「実は此うして見て居ると、どうも三等客の中に、誘拐せられて、満洲に行くのではないかと思はれる婦人がありますから。出来ることならば今の内に、少し注意をしてやりたいのですが」と答へると。「宜しうございます。それでは今夜、別に三等客の為にも御説教を願ふ様なことに計ひませう」といふて、事務長は迅速に其準備をしてくれた。そこで其夜三等船室に行って、乗客の為に暫く宗教上の話をなしたる後。「時に皆さん、人間の身の上には、何時どういふ思はぬ災難が、ふりかゝることがないとも限らぬものですから。諸君が満洲に上陸の後万一、不幸にして何か自分で自分を持て余す様なことに出あはれたら、大連ではこれこれの処に設けてある、救世軍の支部へ相談にお出でなさい。必ず及ぶだけの御相談相手にはなって上げます筈ですから」と、いふ様なことを、嚙んで含める如くに話したのであった。処が案の錠、其翌々日即ち船が大連に着いた次の日、一人の少女が突然其地の警察署に飛び込み、「どうか私を救世軍にやって下さい」と願ひ出た。其わけをたづねると、此れは備前岡山の者にて、まだ十六歳の少女であるが堅気な家に奉公をする約束にて、他に二人の年長の婦人と一緒に、連れて来られて見ると。堅気な奉公といふは真赤な偽り、直ぐに大連市外の小崗子といふ支那人町の遊女屋に連れ込まれ、醜業を強ひられるので堪り兼ね。其前日船の中で聞いて居った其救世軍にやってくれる様にと、警察署に願ひ出たものであることが分った。警察署では直ぐに其願を許し、私が未だ其地に留って居る間に、少女は早速婦人ホームに引渡され、其保護を受くることゝなったのである。(381頁まで)

○排日思想の裏面(387頁~)
・・・いつぞや井上胤文といふ人が布哇に於ける日本人を論じて、排日問題の裏面に及ばれるのを聞き、今更の様に慙愧に堪へられなかったことがある。
それからまた、も一つは醜業婦である。尤も外国の女と云へども醜業を営まぬではない。けれども何れも自国人を相手にして居るに反し、日本の女は金さへ貰へばどこの国人でもかまはない。且又数に於ても第一位にある。ホノルヽより少しはなれたイブリと云ふ土地では、日本の醜業婦が三百人住んで居て、五百人までは、いつでも供給する事が出来ると云って居る。外人醜業婦は居ると云っても実に僅少なもので、三百人五百人と供給する事の出来るのは、独り吾々の姉妹のみである。殊にペイデイ(月給日)になると、どこから来るものか、沢山の醜業婦がやって来る。彼等は今日は、どこそこのペイデイだ、明日は彼のキャンプのペイデイだから、と云ったやうに、月給日をつけ込んで醜業を営みに来る。まことに我が同胞は、あらゆる耻を外国にさらして居るのである。(388~390頁)

○海外発展の将来(391頁~)
故大久保眞次郎氏が、久々にて米国から帰朝せられた時にも、これと似た様な話を聞かされたのである。即ちオグランを中心とする方数十哩の処に、日本人は五六百人しか居ないにも拘らず、それ丈の日本人を相手にする宿屋の数が十三軒、玉突が十三軒、料理屋、銘酒店等が六七件、外に多数の醜業婦、博徒あり。恰かも日本の労働者は、酒と、女と、遊び場とがなければ、一日もやって行けぬものかの感想を与へ、然ういふ事が排日思想を助長して居るのは如何にも残念で堪らないと、いふのであった。(392頁まで)

私共は此際有らゆる手段方法を用ゐ、官民共に協力して、在外の我が日本醜業婦を救護し、如何にもして我が日本を、世界第一の醜業婦輸出国たる汚名と事実とより脱れ出でしめねばならぬ。(410・411頁)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1748928/189

井上雅二「南洋」1915年 ※大正4年

第八 南洋に於ける日本人
(二)小説以上の話題に富める娘子軍
 此等南洋に於ける日本人は、その先発隊が、所謂島原、天草の娘子軍であったことは、人の熟知する処である。娘子軍の状況は、優に一巻の書ともなるのであるが、彼等が故郷を出でて北するものは、北清、満洲、西伯利亜に出で、その南するものは、上海、香港を経て、新嘉坡に至り、此処で身の振り方を定める。そして遙かに蘭領印度、濠洲、印度、或は阿非利加の果までも往くのである。
 古老に聞くに、新嘉坡に足を印したる日本娘子軍の第一人はおヤスといふ美人であった。彼は初めから醜業婦人として渡航したのでなかった、彼女が風濤万里を物ともせず、遥々見も知らぬ別天地に来た時には、未だ一人の日本男子を見なかった。おヤスは即ち緑の黒髪を、根元より切り落し、ボーイに変装して、外人のホテルに住み込み、その愛嬌と忠勤とは、いたく旅客や主人の愛する処となった。その中、多少の貯へも出来て、事情にも通ずるに至りし折、二三の日本密航婦の来りて例の醜業を営み、非常の成功を収むるを見、彼女も遂にその群に投じたと伝へられてゐる。
 是等先駆者の新嘉坡に渡来したのは、明治三四年頃の事であるといふ。さうする中、十四五年頃には、五六十人の醜業婦を数ふるに至り、二十年頃には男女の在留者百名以上に上った。かく邦人の在留稍々多数となるに至ったから、政府で領事館を開いたのが明治二十二年であった。
 娘子軍の数はその後益々多く、その活動もいよいよ範囲を広めた。そこで、それ等の中には、成功者といふべきものも出来て来た。英領北ボルネオのサンダカンなる木下クニ女の如きその一人である。彼女は新嘉坡のおヤス女と同じく、此の地の草別で、三十年前、英領北ボルネオ会社の創設当時に、二十八歳の折に渡航し来り、五十六歳の今日まで、此のサンダカンに居住し、数千百の有髯男子を助け、在留邦人にして、此の老侠女の世話にならぬものはない。
 予は昨年、此の老女について、北ボルネオ三十年来の出来事を聞き、且つ彼女の一事業として、サンダカン背後の山上に設けたる日本人墓地を見舞った。墓地には、見苦しからぬ読経所も設けてある。彼女は勿論、此の地に骨を埋むるつもりで、その用意として、既に立派なる石碑を、遥々日本の内地より取り寄せて建てゝゐた。
 ラヴアンのおフナ女も、此の地方に在留すること二十年、最早五十余の老婆であるが、土地第一の富豪たる支那人の正妻として、矢張り、多数の日本人を世話してゐる。その他一々挙げられぬけれど、是等娘子軍の成功者の中には、真に小説以上の話題を有するものが少くない。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953249/47

済軒学人「浦潮斯徳事情」大正4年 ※1915年

第十七章 浦潮斯徳以外本邦人の在留する主なる市府(144頁~)
第一節 ニコリスク市(沿海州)
在留本邦人は左の如し。
職業    戸数  人口
貸席業   八   男一三  女五〇  計六三
支那人妾  -   -    女一三  計一三
計     九一  男一四四 女一六五 計三〇九

第二節 イマン市(沿海州)
職業    戸数  人口
支那人妾  -   -    女七   計七
計     九   男一四  女一六  計三〇

第三節 ハヾロフスク市(沿海州)
職業    戸数  人口
貸席業   一〇  男一六  女二一一  計二二七
外国人妾  -   -    女三〇   計三〇
計     一二九 男二九八 女四〇四  計七〇二

第四節 ゼーヤ、プリスタニ(黒龍州)
職業    戸数  人口
貸席業   一   男二   女一一   計一三
外国人妾  -   -    女一九   計一九
計     一三  男一二  女五〇   計六二

第四節 ゼーヤ、プリスタニ(黒龍州)
職業    戸数  人口
貸席業   一   男二   女一一   計一三
外国人妾  -   -    女一九   計一九
計     一三  男一二  女五〇   計六二

第五節 ブラゴウエシチエンスク市(黒龍州)
職業    戸数  人口
外国人妾  -   -    女二八   計二八
貸席業   四   男七   女五七   計六四
料理業   三   男六   女三    計九
計     一〇二 男一九二 女二〇〇  計三九二

第六節 チタ市(ザバイカル州)
職業    戸数  人口
私娼妓   -   -    女六    計六
支那人妾  -   -    女一〇   計一〇
計     一〇二 男一九二 女二〇〇  計三九二

第七節 ネルチンスク市(ザバイカル州)
職業    戸数  人口
貸席業   一   男一   女一    計二
娼妓    -   -    女十    計七
外国人妾  -   -    女二    計二
計     四   男四   女一三   計一七

第九節 ウエルフネ、ウージンスク市(ザバイカル州)
職業    戸数  人口
貸席業   一   男二   女一〇   計一二
計     一〇  男一六  女一九   計三五

第十八章 浦潮斯徳在留日本人の状態 
第二節 浦潮在留本邦人の職業、人口及戸数
職業    戸数  人口
料理店   三   男五   女三    計八
貸席業   六二  男三〇  女四五   計七五
芸妓    一二  -    女一二   計一二
娼妓    -   -    女三二三  計三二三
外国人妾  -   -    女六〇   計六〇
 

戦前日本人の海外売春(1)

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戦前日本人の海外売春(3)
戦前の日本・植民地朝鮮の公娼関連統計
従軍慰安婦資料集(3)戦前公娼制の実態


国民新聞 1912.7.12-1912.7.14(明治45) 
太平洋岸に於ける日本人 (一〜三) 
(意外の発展也) 
六月二十八日 志賀重昂 (一) 

謹啓小生義過般来カリフォルニアを巡遊致居候処、同地方に於る日本人の発展否実力は実以て意外千万と申すの外なく、意外、意外、唯「意外」の二字の外に形容すべき好辞無之候 小生は淡白に申上候、当初はカリフォルニア所在の日本人を極めて安買い致居り例に依りて例の如く官庁側(総領事館)と在留民とは喧嘩致居るなるべく、各種の邦字新聞は相互に喧嘩致居るなるべく、日本醜業婦は到る処跋扈致居るなるべく賭博は公開同様なるべく、邦諺の「旅の恥は掻き捨て」は遺憾なく発揮致居ることなるべし抔予想致し、此予想を以て上陸し此予想を以て巡遊致候、然るに官庁側と在流民とは相親睦して公私共に打解け居り偶々総領事庁員の管内を巡回する際には期せずして歓迎会を催し、邦字新聞は邦人の休戚に関する問題に会えば協議に協議を尽し一斉に筆鋒を揃えて紙上に意見を発表する所などは往年に於ける東京の新聞同盟の当時を回想せしめ、日本醜業婦は日本人会と邦字新聞紙との制裁に依りて桑港(サンフランシスコ)に於てすら三軒までに減じ(邦字新聞紙の醜業婦征伐を初めし頃は三十六軒あり)、ロースアンジェルス市(地位及び長足の繁栄に於てカリフォルニアの福岡市)日本人会にては邦人が醜業婦将た賭博業者を発見する毎に米国官憲に警告し、此程も十名の賭博業者あることを警告し依て以て米国官憲は件の十名を市外に放逐し、両来米国官憲の日本人会を視ること重く、日本人は自から風紀を廓清するものなりとて大に信頼を加えたる抔、何れも小生当初の予想と全然反対致居候

・・・フレスノはカリフォルニアの中部に位する市街にて、北の桑港、南のロースアンジェルス市と共に日本人会には各々日本人風紀の廓清に鋭意せし結果、賭博業者将た醜業婦には此のフレスノに投じ来り、フレスノは頃年来日本人風紀の紊乱せること北米太平洋岸第一と称えられ候処、基督教牧師北沢なる人フレスノに来住し同胞の風紀廓清を以て自ら任じ、其の多年の努力に依り賭博業者将た醜業婦を大半駆逐し、日本及び米国官憲共に喜こび居り候処、賭博場に出入し将た醜業婦を妻とせる面々等は北沢に反抗し、復讎の機会を待ち居れる折柄
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大阪毎日新聞 1912.7.21-1912.8.19(明治45) 
京元線の踏査 (一〜十三) 皐天生

三防は元山を距る十五里渓谷の僻地なるが此附近工事の根拠地として既に工事関係者入込みつつあれば請負者労働者目的の商人娘子軍等早や入り来りて約五十人の内地人あり朝鮮家屋は悉く機敏なる内地人の買収する所となり不廉なる家賃を貪り憲兵出張所長の奥村某其の発頭人なりと元山の内地人中貸家の建築に着手せるものあり此地より漸く元山の勢力範囲となる
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帝国新聞 1912.8.14(大正1) 
渡米日本人職業 

一昨年度に於ける日本人の渡米者は二千百九十八人帰国せる者五千二十四人布哇に渡航せし者千五百二十七人帰国したる者二千三百五十五人にして昨年度は渡米者四千二百八十二人帰国者五千八百六十九人布哇渡航者二千五百五十九人帰国者二千四百六十四人なるが其渡航地に於て就きたる職業は俳優二十七、僧侶二十一、官吏二十八、教師二十四、事務員百九農業家九十五、商人二百九十一、料理店及ホテル主六十八、無職婦人二千四百、理髪人二十二、大工十九、裁縫師十三、労働者二百八人を始めしと其の他なるが右の内四十三年度の渡米非労働者は千八百九十三人にして帰国者二千八百十七人渡布者二百三十五人にして帰国者八百十人而して同年度に於ける労働者は渡米者七百五人帰国者二千二百七人、渡布者千二百九十二人、帰国者千五百四十五人昨四十四年度に於ける非労働者は渡米者三千五百五十人、帰国者二千九百三十八人、渡布者四百十九人、帰国者八百七十五人、労働者は渡米せし七百三十二人、帰還せし者二千九百三十一人、布哇に渡航せし者千七百四十人、帰還せし者千五百八十九人なり尚手職婦人中には醜業婦其大部分を占め居るものと見るべし
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大阪毎日新聞 1912.8.19-1912.10.3(大正1) 
護謨山見物 (一〜十一) 
馬来半嶋廻り 
黒宋公

セランゴール会社を去りレンガム停車場にて林燈と分れ火車にて独りカランに向う、沿道護謨林蒼々の間を過ぎて薄暮カランに達し丘上のレスト、ハウスに入り、夜街頭を散歩し邦人写真店を過ぎりて邦人旅店川原に憩い主人と語る、主人は「在住十四年カランに於ける邦人の開祖なるも今に於て邦人商賈の来るものなく独り例の娘子軍の軒を連ねて醜骸を馬来(マライ)クロンボの群に曝すあり、之より此コーラ、セランゴール、南スイテンハム港、至る処に醜業婦の在住するあるのみ」と云えり


・・・午後一時イボーに下車し同胞八名に迎えられて金田旅館に入り原田(寅)氏所有の自動車にて郊外十七哩なるトロノ錫鉱会社を見る、・・・夕刻帰舎此地在留同胞三百名に近きも多くは例の娘子軍にして正業者は指を屈するに足らず、護謨の栽培をなせるもの市川、村谷、原田、山田等数名ありと
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福岡日日新聞 1912.8.28(大正1)
ゼーアの邦人

露領黒竜州唯一の金山所在地たるゼーア(浦塩の北方十五日程)より二十四日帰朝せる本邦人の談に拠れば同地はゼーア川の沿岸にしてブラゴウェーンチェンスク其他への往復は黒竜江川蒸気の便に頼るも露暦十月十日より翌年五月五日までの結氷期間は橇にて通行することを要すゼーア市の現在戸数は千四百戸許りにして金鉱採掘の為め入込める露人、支那人、朝鮮人併せて約千五百人あり、又日本人は百名許りにして内商店を有するもの九戸即ち医師、写真業、時計商、金銀細工職、理髪職、飲食店、貸座敷業各一戸及洗濯業二戸なり、貸座敷に置くべき娼妓の数は十名を限られあるを以て何れも繁昌を極め五百円以上の貯金を有せざるものなく且つ其年齢の均しく三十歳以上なるも奇観とす、外に日本婦人にして馬賊其他支那朝鮮人の配偶者となり、又は醜業婦たるもの約六十名あり需要品は主として哈爾賓より輸入さるるに付驚くべき高価にして即ち精米一布度四円六七十銭、醤油一樽(一斗入)七円といえる時価なり、・・・(敦賀通信二十五日発)
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神戸新聞 1912.10.22-1912.10.23(大正1) 
比律賓の独立運動 (上・下)

台湾島が我が領有に帰してから、邦人のこの地に渡るもの非常に多く、此の為めに米国は日本移民制限法を設けた位であった。現今は二千人内外もあるが多くは、労働者或は醜業婦、資力ある事業家は極めて少数である。
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大阪毎日新聞 1912.12.13-1912.12.16(大正1) 
吉林瞥見 (上・中・下) 
在奉天 鬼仏堂

在留日本人
吉林は北緯四十三度四十七分東経百二十六度五十三分、緯度は北海道旭川と同じきため気候も似たり、夏季は酷暑なきも十一月より三月に至る冬季は寒気甚しく、最低摂氏零下四十二度に至る、然も風景母国に似かよいて邦人も亦住心地よきところとす、現今住民二百三十六名、常に三百に達せず交通の便開けて既に料理屋魚屋の長春より視察に至るあり、旅館亦増設の計画ありという、明春に至らば急速に増加を見んかという、住民の大半は婦女子にして、婦女子の多くは支那人相手の売笑婦なるに至りては先進国の顔色なし、近頃日清雑種児生るるもの多し国性爺鄭成功を学んで起たんとするものありや否や
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00477771&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA


神戸又新日報 1913.2.9-1913.5.4(大正2) 
爪哇 (一〜七八)
(熱帯の日本) 
(燦爛たる黄金時代)
(思出多き旧都) 
南洋生

爪哇の都会と港とを日本に対照して見ると、バタヴィアは東京、タンジョン、ブリオク港は横浜、スマラン港に名古屋、スラバヤ港は大阪と神戸を合せたもので、スラバヤは内地商業の中心たると共に亦外国貿易の中心と為って居る、従って人口も爪哇の都市の中では一番多くバタヴィアよりも繁華だ、併し純粋の商業港で首府でない所から都市の設備や町の体裁はバタヴィアには及ばない、商業地だけあって日本人も亦此港に一番多数居住して居る、三井物産の支店もある京都の稲垣合名会社の支店もある、是等が最も有力なもので其他十余軒もあるが主として雑貨店、売薬店、写真屋、理髪店等で爪哇(ジャワ)で曲りなりにも成功する商売は是等に限るのだ、此外に成功する職業は女郎屋だが娼妓の数は百人内外に達し正業の人間よりも醜業婦の方が却て多い、又此スラバヤは爪哇東部の砂糖の集散地と為って居るから台湾の糖業者の往来するものが多く現に予等と前後して台湾の砂糖会社の重役や技師が四五人も出入りして居た、日本の社外船の砂糖積取に来るのは主として此港で日本とは最も密接な関係を持って居る
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神戸又新日報 1913.4.7-1913.4.11(大正2) 
米国の日本人迫害 (一〜五) 
[社説]

蓋し米国官憲が近時写真結婚は醜業婦を入国せしむるの弊ありとして之が結婚婦人の上陸に峻酷なる干渉然り殆ど禁止的に近き取締を実施するに至りたるは前記理由に基くものにして又日本人を米国より放逐せんとする政策に外ならず人道に反することの甚だしき此取締法の如きは稀なり 
思うに所謂写真結婚に託して醜業婦を輸入する狡猾徒輩のいるは事実にして現に一旦上陸したる後ち事実の発覚して日本に送還されたるものも絶無と謂うを得ず此点に関しては吾輩も甚だ遺憾とする所なり然れども是等不正渡米婦は百中の二三に過ぎず斯る例外の事実を楯として一般結婚婦の入国をも遮ぎらんとするは不理不法の極と謂うべし
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日本新聞 1913.4.19-1913.5.6(大正2) 加州の日本人 (一〜十二)

(十一) 布市、亜市に於ける発展 
葡萄の産地 
フレスノ市(布市)は茫漠として海の如きサンオーキン平野の中心、桑港とロスアンゼルスとの中間に当る処で今より八十年前既に其発達の端緒を開いたが十二三年前までは人口尚一万余に過ぎなかった然るに附近一帯の葡萄園の発達すると共に近時急速なる発達を遂げて今や人口三万五千を有するに至り葡萄酒、干葡萄、ブランデー等の製造が非常に盛になった 

風紀の紊乱
目下日本人の市内に定住する者は凡そ五百あって尚市の附近に散在する者が略ぼ二千内外あるが毎年葡萄採集の期節になれば数千の日本人が各地から集まって来るから日本人社会の発展も亦大に見る可きものがある併し此地の日本人界に於ては支那賭博が盛に行われて醜業婦の数も亦夥しく物価の高い事は他に比類なく人心の不統一にして風紀の紊乱せる事は各地在留の日本人社会中第一と目せられる
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国民新聞 1913.6.1(大正2) 
比島に於ける日本人労働者 
木尾散人

最近に調査に依れば最も多きは大工にして九百八十三名なり然れども其の多数は一夜大工にして比島にては鋸と鑿を用うれば大工と称せらる故に大工の資格を備えたるは其の約二割に過ぎざるべし次は醜業婦にして六百人内百四十人はマニラに在住し他は多く兵営の置かれたる地方に散在す次は農業労働者にして四百人を数う(次は漁夫にして二百七十二人其の過半数はマニラに在住しマニラの鮮魚は多く日本人の手に依りて供給せらる)此の外雑貨商店員ボーイガラス其他の職工写真師理髪師裁縫師按摩植木職等あり
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大阪毎日新聞 1913.6.26-1913.6.27(大正2) 
赤道直下の日本村 ([正]・続) 
(淀に便乗して) 
五月七日ドボー島にて 黒時雨

[(正)] 
五月四日モロッコ群島南部の首府アンボンを発しバンダ海を東航すること四百余浬、六日新ギニヤの西南なるアロー群島中のドボーに着く、ドボーは掌大の土地で人口は附近の島嶼を合せて二三千、中で日本人は五百名内外を数え皆ドボーの碇泊地に集まって居る、陸に上りて散策するに邦人軒を列ね雑貨商二戸、醜業者七八戸、飲食店、下宿屋、玉突屋等四十戸位もあり、軍艦淀の入港するや衆狂喜して各軒頭に日章旗を翻し旁午して歓迎に斡旋する程、宛として小日本村の観を呈して居る 本島は元と僻遠の無人郷に過ぎざりしもの、今を去る二十年前西濠洲ブルーム在住の英人クラーク此附近に真珠採取業を創めんため十二隻のダイバー、ボートを携えて渡来したのが開発の嚆矢で、当時クラークに随伴して十四五名の邦人潜水夫が来島した是れ邦人の魁である濠洲就中木曜島に潜水夫たりし邦人は此島の有望なるを伝聞し相率いて渡来するに至り日露戦役の前後より其数を増加し明治三十八年三月には同胞共済の目的を以て同仁会なる邦人共同の団体(当時の在住者二十余名)を設け四十一年一月之を日本人倶楽部と改称し部費として階級男女によりて年額六盾乃至二盾を徴し以て同胞の親和と共済の費に充つることとし、既に一建物を新設して居る、部費の年収千四五百盾、基本金も五六百盾は出来し居り、建設費には約二千五百盾を投じて居る 斯くて今日では約五百の日本人が此一小島に住し其中約四百名は潜水夫であって、此島附近に於て真珠貝採取の特許権を有せるセレベス貿易会社に雇われ採取業に従事し、他の百名は之れにより衣食せる商人乃至醜業者である、夫婦者二十余組、小児十四五名既に学齢に達せる児童数名あり、蘭領印度諸島に於て邦人の最も多く且つ日本村の形を成して居る場所と云えば先ず此地を指さねばならぬ・・・

(続) 
彼等の多くは和歌山県人にして斯業に従事する既に二十余年に及ぶものあり、仕事が仕事丈けに人気も荒く酒を被りて殺傷することも少からず、昨春も致死事件あり爾来官憲より一切酒類の売買を禁ぜられたと聞く、現在潜水夫は皆海上に遊弋し陸上に在るもの、其家族及商人を合せて百名に過ぎざるも、五月二十日を過ぐれば彼等は悉く此地に引挙げ贏ち得たる黄金を一擲するので、此を吸収せん為め南洋各地に散在する娘子軍は続々此季節を目懸けて蝟集する、現に三十名許りの醜業婦が集まって居る、前年迄は七八十名も来集せしが禁酒令の下りしと貸倒れ多きを恐れてか来集者漸次減少すとの事である余は不幸にして期に先だちて此地に至り潜水夫陸上生活の状況を目撃することが出来ないが、之を在留者に質し彼等の放浪生活を想像して同情に堪えない、
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時事新報 1913.7.4(大正2)
南洋地方の遺利
農業は労少くして利多し
錫椰子等確実の事業あり
(森林商店大嶋支配人談)

南洋ポル子(※ネ)オ島サラワク州は英領に非ず純然たる独立国にして・・・日本人の現に移住せる者約五十名を算し其半数は所謂娘子軍なれども
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中外商業新報 1913.7.16(大正2) 
売薬南洋に発展す 

省資本にて到処成功 
売薬の輸出先 本邦売薬の海外輸出は年を遂うて益々盛大に趣むきつつあり重なる輸出先きは支那、印度支那、印度及び南洋諸島並びに布哇、米国等なるが布哇及び米国に輸出するは唯だ在留本邦人に供給するのみなるも其の他は何れも其の国土着の住民を顧客とし最とも輸出額多く将来有望なるは仏領印度支那、サイアム、馬来(マライ)半島を始めジャワ、スマトラ其他の南洋諸島にして之等諸地方に於ける本邦売薬商人の数は精確に之れを知る能わざれども恐らく幾千を以て算す可し 

土人に信用 
売薬商人は何れも堂々たる風采をなし一見医師の如く一二名の土人を伴いて各地方を行商せるがジャワ島其他未開地各部落の酋長等本邦売薬商人に対しては無料宿泊その他の便宜を与えて頗ぶる歓待し居れり之等商人は簡単なる診察機械を携帯して土人患者の求めに応じ病症を診断して売薬を与う 

重要の原因 
何故に斯く本邦売薬商人が南洋未開地の到る処に往来せりやというに啻に南洋といわす凡そ海外未開地に於ける本邦人移住の先駆者は婦女子にして之等は大抵醜業に従事する者なるが彼等醜業婦の親方と称する者が多くは雑貨及び売薬商を兼営せる為めにて之等醜業婦との関係上婦人薬及び花柳病薬の売行最も夥しく毒掃丸の如きは盛に輸出さるる由 

馬来人と結婚
本邦人の醜業婦中馬来人と結婚して売薬商を営む者なども有り斯く南洋未開地に於ける本邦人活躍の第一着者は売薬商人なるが故に本邦売薬は殆ど至らぬ隈なく土人の間に売れ行きつつあるが近来は利に敏き支配人が贋造の本邦売薬を各地方に行商する外独乙人が本邦品に類似の売薬を製造して盛に支那地方殊に南洋方面に販路を広げつつあれば本邦売薬商人に取っては不意に強敵が現われたる訳にて独乙製の売薬は本邦製よりも優良なれば将来最も恐る可き競争者なる可し
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東京日日新聞 1913.8.6-1913.9.26(大正2) 
樺太島 (一〜三十二) 
旭東生

娘子軍は開拓の先駆となるので此方面は樺太も頗る盛んなようだがシカシ現住本邦人約三万五千の内約二万は男子で女は頗る不足して居るそうな、本邦人既に然り露人や其他の異人種では女子の不足に閉口して居るのでこれがために人種の滅亡を招くことになる。・・・
シカシ便利な散娼制度、芸妓と娼妓と兼帯の美人が散在して其処此処に陣取って居る、無論集娼制度もあるがこれは余り発展しないこと当然である、約束したように臭い物に蓋をする吾妻コートが冬の流行でお高祖頭巾に好ましくない御面相を包んで雪の夜路を辿る所は何れを見ても美人ばかり、白い雪と黒いコートが能く調和されて影長く月光を浴びて行く冬の情趣は別世界の観があるが彼等は極めて無事泰平なもので「内地へ帰りたくはないか」と聞けば「樺太の方が呑気で宜しい」と来る、これは宿屋の女中や下婢なども同様で彼等に取っては樺太は実に呑気な所と見える、さりながら娘子軍は開発の急先鋒である、総じて体格の好い此娘子軍あるがために拓殖上に寄与する所は少くない、何れ植民地は同様だが特に樺太に於て散娼制度を開放して居るのは要領を得て居る。
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読売新聞 1913.8.11-1913.10.5(大正2) 
南洋の大勢 
錦城生

緬甸は仏教国なり、蘭貢に、「マンダレー」に、「タイミヨウ」に、到る所壮大なる仏寺あり、皆尖塔形を成し、称して「バゴク」と云う、塔中仏像の立つもの坐するものあれど、多くは●石、黄銅の涅槃像にして、又涅槃の掛物をも吊す、新嘉坡にて販売する蘭貢(ラングーン)の写真中にも、日本醜業婦十数名が、束髪にて珠数を爪繰り乍ら涅槃像に礼拝するの景あるを見る、・・・

(第六)英国政府は外国の国事犯者を保護す、是れ康有為孫逸仙等の新嘉坡に隠匿しし所以とす。(第七)英国政府は支那人の博奕を官許す、支那人は「ヂョホール」に二箇所の賭博場を有し、半島の支那人にて隠密に博奕を行うものなし、又政府は日本の貸座敷に厚し、貸座敷の主人たるは尽く女将にして、決して男子の営業を許さず、而して其の女将を好遇するや、女将を相手として警察或は裁判所に訴えれば、如何に道理のあればとて、必ず敗訴たらざるなし、然れども女将には良人情夫を有するを許さず、若し是あること露顕せんには、直に多額の罰金を科せられて、国外に放逐せらる、猶お英国の官憲は、日本の醜業婦にも親切にして、毎年幾回か召喚し、其の主婦の待遇如何を質し、若し自由廃業を希望すれば、何時にても釈放すべきを諭す。

・・・元来馬来(マライ)半島の日本人は、十中の六まで賤業の婦人にして、今日に於ても猶を千七八百人も存在すべく、其の新嘉坡に於る日本人の男子の数が、女子に超過するに至りしは、昨年以来のことにして、即ち正業者が賤業者に代るの徴候なるが如し、二十年前までの上海と十年前までの香港にても、日本人は大抵洋妾醜業婦の部類に属し、婦人の数の男子より多かりしもの、正業者の入て賤業者に代るに及び、其の比例は漸く顛倒し来り、今や上海の日本人一万人にて香港の日本人は一千人に達し、賤業者は真に参々として其の所在さえ不明なるに至れり、馬来半島の形勢も亦之に似るあらんとす、

・・・独り真正に日本移民を歓迎するもの、唯此の英領北「ボルネオ」あるのみ、北「ボルネオ」会社の倫敦本店は、日本人の農業には如何なる便宜をも借し、日本人の漁業には如何なる権利をも与うべきを決議し、従って「サンダカン」や「ジエセルトン」に渡来する日本人は、其の醜業に関係する男女たるに拘らず、待遇するに淑女紳士の礼を以てするに至る、・・・

「チモール」島と「ニュー、ギニア」島の間に「アロー」島あり 、其の「ドボ」港は真珠採取の本場として、日本人の採取夫千数百名に達す、為に日本の醜業婦も三四百名に至り、其の一人東京にて高等女学校を卒業ししもの、先年書を雑誌「文芸倶楽部」に寄せ、以て天涯万里なる浮川竹の苦辛を訴えしが、筆鋒活動却て楽観の紙上に現われしこと不審なりき。
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福岡日日新聞 1913.8.16-1913.8.19(大正2)
朝鮮視察談 (一〜三)
大阪毎日社長 本山彦一氏

只今警察制度の中枢になって居るのは福岡県出身の明石中将で此人が憲兵司令長官で警察権の全部を握って居る其他福岡県出身の人は官吏にも実業家にも沢山名望を有して居る一面料理屋でも芸妓にも福岡県出身のものが多く成功者が沢山出来て居る。
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大阪毎日新聞 1913.9.22-1913.10.2 (大正2)
南洋より (一〜五)
黒時雨 新嘉坡

▲有望なアンボン
南部の首府アンボンは和蘭東印度会社が総督を駐箚せしめた所で、往時は蘭領東印度の政治的中心であったから土人中には白人と雑婚せるもの多く其多数者は基督教に帰依して居る現在の人口は約九千で欧洲人が九百、支那人六百、亜剌比亜(アラビア)人三百、日本人は雑貨商一、旅館二、写真業二、其他醜業婦を合せて五六十名ある
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大阪毎日新聞 1913.10.4-1913.10.14(大正2) 
英領北ボルネオ (一〜五) 
黒時雨

本州の人口は二十万八千(一昨年度統計)土人大部分を占め居るも多くは中部の山奥に棲息して産業と何等の交渉を有しない其の他蘭領各島嶼及スールー群島より転入せし土人約一万一千、馬来半島よりせるもの千六百人、欧米人僅に三百五十五人、何れも官吏会社員である、支那人は約三万中堅の階級を形作り本島の産業界に大なる貢献を為しつつありて実に馬来人の邦と云うよりは寧ろ支那の国たる奇観がある日本人の数は二百四十六人内正業に従事するものはコーコ椰ネ栽培業ニ、売薬商一、雑貨商ニ、麪麭焼一、理髪師七、労働者二十八、従僕四十五、他は醜業婦六十九である
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東京日日新聞 1913.11.16-1913.11.21(大正2) 
見た儘の南洋 (一〜五) 
在馬来半島 藤田天民

若し英華交戦して支那人全部引揚とでも出掛けたら(万々なけれど)新嘉坡首め半島の繁昌な諸港は、再び往時の寒村に化するだろう、土着の馬来人は無智な上に回教の信者で蓄財の念が少しもない、其日の衣食を給し得ば足るという者ども、人夫にさえ適せぬ種族、何の事業も経営する能力を有せぬ、日本人はドウかと顧みると、例の醜業婦が先駆となって数十年来在留者追々増殖したけれども、能く運命を開拓した者が果して幾人あるか、

(四) 名物の醜業婦(上)
高い処では喜摩拉椰(ヒマラヤ)の山腹、広い処で西比利(シベリア)の原野、日本醜業婦が到らぬ地はない、けれどもジヤパニース、ムスメの名が世界に轟き、新刊英語字典の中に載せらるるまでに至ったのは、欧亜の通路、世界の公道たる南洋諸港に陣取って黒白の人種、万国の族客を相手に公々然醜業を営むからであろう、彼女等は和漢洋折衷、那処にも類のない一種異様の服装(猿芝居のお姫さま)をなし、筆太に番号を記した楼下に椅子を列べ、英語馬来語打交ぜて行人を呼ぶさま奇異とも醜怪とも形容する□がない、私娼密売なら左ほど目立つまいけれど是はレジスタードと云い、ライセンストと云い、官許の公娼、しかも最も繁華な街□に開業しているのだから堪まらない、一夜五弗ショート、タイムニ弗という相場、支那人が常得意、白皙人にも商えば印度馬来人にも売る、原産地は九州方面、長崎天草が本場、バッテンでなければ幅がきかぬ、近年密航取締□行とあって、補充途絶え、老婆ばかりかと思の外、いずれも妙齢の女子、十五六歳と見ゆる者も少くないとの事、是はチョット不思議なようで不思議にあらずだ、香港行新嘉坡行と云えば、旅行券も必要、其筋の注目も厳しいが、支那行と称すれば、余り六ケしくない、(上海にも漢□にも日本茶館閉鎖以来醜業婦なし)であるから堂々と上海行の切符を買い郵船会社の欧洲行メールに乗込み揚子江の下流か□淞あたりで我敵は本能寺と出掛け、船賃を継続せば那処へでも自由である、現に先頃の郵船にも七八名の女客は確にソレと見えたが果して新嘉坡に着くと忽ち買手が現れ其中の二女一名六七百円に売買調談、四十ばかりの引率婆が十円札百余□帯に□んで帰□したと云う、□品はビーナン、コーラ、□ボー、其他の方面の紹介者に売渡されたであろう、□船諸港の水上署は□□がない、殊に門司警察なんと警部巡査七八名も剣□を緊握しながら、船内限なく捜査を行うが炭庫水槽さては暗□船底に隠れて密航するのは古手な方法、今では最も合法的手段を取り、警察官がノースの尖を掠て平然たるもの此種の密航婦、ではない公航婦も大抵皆欺かれて父母の国を去るので、羅漢相手の辛い勤め、サン泣いて暮すだろう、救済せではと義侠心を動かす日本人士も多いが、其内情に立入るとナンナン、島原五島あたりあらくれ漁夫の女子、年中ふるぼけた紺の筒袖と麦飯で成育した者ども、神経の敏鈍を較べたら、羊豚に勝るだけの程度、羞恥の念など微塵もなく、ドンナ艱難に遭うも無感覚、南洋へは何にしに来たかと問えば憚る所もなく「オンドは○○バ売りに来たダイ」と答えるだから身代金はスッカリ輸出商が着服し、己は六七百円の借金を背負わされても平気な顔、翌日から紅粉を抹し華麗な衣服をきて稼高は叩き分け相応に贅沢も出来る、郷里の姉妹友だちに比すれば、生計の程度、雲泥の相違、彼女等に取って最も得意な境遇、辛い処が有難くて堪まらない、救世軍の救済など入らざるお世話、却て迫害と認られるだろう、流石に英国統治の下にある植民地、自由□業は勝手次第、一たぴ警察署に出で其旨を届けると幾分の借金があっても即時許可され、次の便船で日本へ送還される、駈落も十分な便宜があ□、船の出帆間際に乗込んで仕舞えば、蘭領諸島は勿論香港でも非律賓でも思うままに行かれるであるから寝巻と借金とを楼主へ置土産としてサヨナラを喰わす者も全くないではない、が是は至って少い、到る処開業は出来る、前借も出来る、戸籍だ父母の承諾だ、就業の事由だ、身元の調査だとかいうような面倒もなく、頂天立地、頗る自由であるけれども、彼女等は存外正直で楼主に迷惑をかけるに忍びずという処から、海外漂浪の無頼漢に勧誘されても容易に応じない相な

(五) 名物の醜業婦(下)
また日本ムスメが軒を連ぬる西洋支那の同業者と競争して優勝の地位に立つのは一の特色があるからである、洋娼は概ね皆欧亜の港々を押廻した下等のスレツカラシ、其手腕極て辛辣網にかかった客があれば、法外高価な酒を強ゆる果は懐中に手を差込んで有るだけの貨幣を取上げるポケットを空虚にするまではイツカナ放免せぬ、戸外には骨格の逞しい印度人が請願巡査然と立番して、グズグズいう客は腕力で突き出すポリスに訴えても笑って取合わぬ、支那娼婦は柔和な代りに枕捜しを遣る癖がある、左なくとも信用は置けぬ、日本ムスメは独り此点だけ安心だ、如何に酔払って前後不覚な客でも、よく介抱して携帯品はチャンと保管する、三十弗五十弗入れた財布を投出したまま眠っても、十仙一個も紛失しない、盗む意がないのか、夫れとも盗む術を知らぬのか、おあづけの菓子はカメも喰わぬと一般、習慣性をなしたものであろう、是は日本ムスメの専売として、ドランカードの珍重する所だと聞く、此等幾千のムスメにも自ら現役の年限があって、満期が来ると新陳代謝する、其予備後備は何となるか、ウント貯金して故郷に錦を飾る者は千百の一、十中八九は多少親元へ送金するのが関の山、追々贅沢に慣れ、柄にない三十円五十円の□珍を腰に纏う、何年稼いでも金は残らぬ、其中容貌の人並なのは在留邦人の妻となるラシヤメンは上等の部、多数は支那人馬来人に連添いチャンチャンや褐色児を産む、実に哀れなものである、蘭領諸島の僻□な村落にも日本ムスメは散在し、盛んに稼いでいるので、日本の行商は思わぬ便宜を得る、数年前までは田舎のムスメ或いは楼主(女主人)が邦人を恋しがり、行商を款待するのみか、情夫として養うなどの事実もあった、近頃は呉服化粧品を仕入れて醜業婦あてに行商する者が俄に増加し、競争の結果利益逓減し、今では収支償わぬまでに至ったと云うはなし、先頃瓜哇蘇答羅蘭領一帯の諸島では日本醜業婦の営業を禁止し、去八月末までに廃業せよとの厳命を下した、数千のムスメが職業を失って狼狽したのは勿論、今後日本の雑貨輸出に対する一大打撃であろうと観察する者もある、醜業禁止その動機が那返に在るかは知れぬが、多年免許して居たのを今遽に取消したのであるから、是□日本人排斥の一端を考察せなければならぬ、此事ばかりは体面上抗議もなるまい、常に国権伸張を呼号する論客も外務省当局に迫って、蘭政府の反省を要求せよとは主張しまい、けれども是は蘭政庁の方針を示すもの、何れの方面にも嫌忌と圧迫の意が顕露するのであるから、当局にも其積りで遣って貰わねばならぬ、□□が□らず□□に入った、営業を禁止められたムスメたちは今後ドウなるだろう、既に一部は瓜哇から引揚げて半島に来ったそうだが、新嘉坡でも彼□でも近頃此業メッキリ衰色を呈し、□んど供給が□要の外に溢れる状態であるから、迚も蘭領放逐の同業者を包容□る事はできない蘭領の□で□□□□□は田舎に居る者は其まま留まって私□に□□る事もあるらしい、又此を好機会として土人□□支那人の客筋に□□異種の新家庭を作る者もあろう、男子には職を失ってマゴツキ歩く者もあれど、何にせよ植民地のことで、□女□□を告げているから、苟くも目鼻さえ□全についてあれば、美醜老少どんなものでも□口はある、衣食には困らぬ、であるから今回蘭領官□□退□□れても、スゴスゴ帰国する者はなかろうという、□洋で□業の繁昌する処は濠洲寄りの諸島中にも真珠採取場である、木□島及び其附近の採□場には一年万金を海底から探採するダイヴア□が□を以て□える、乗組員はタッタ七八名、潜水夫の熟練な者は一年二千弗の収入は確なもの其多くは紀州辺の出稼人、命がけの仕事を遣っているのだから、取るだけヒツ使う、日本ムスメも其余沢を蒙って、一ヶ月の□高五六百弗に達する者は珍らしくない、其他の地方は大抵百弗から百五十弗見当、新嘉坡あたりでは一ヶ月百五十弗以上稼いだ者には楼主から懸賞を与える制度□□てているそうだ、全体の数は何人いるか知らぬ□れど、今五千人と仮定し、最低度の稼高一□千弗とすれば、合計五百万弗に上る、此金額がスッカリ内地へ送金されるなら祖国一大都府の市税を免除するに足るだけあるが、彼女等は前後の思慮なく浪費して仕舞い、父母の元へ送るのは十分の一もあるまい、縦令百万弗の貨幣が此途に依って流入するとしても国家経済の上には九牛の一□である、之が為めに帝国の品位に関することは浅からぬ、しかし密航の取締を厳にし、無理に海外醜業婦を撲滅した処で何にもならない、吉原が世界に轟いた日本名物の一である限り、南□諸島の出稼何かある、頑固な政治家、固□な学者が口に筆に世界無比の国体を叫び、徳義万国に□□□と□んでも、□□□□の日本□□の□□を目□し□は□□が□念ながら□□の念を起すまいと思われ□ 
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神戸又新日報 1913.12.8-1913.12.9(大正2)
日満連絡貨物 (一・二)
明年一月一日開始
[日露貨物連絡輸送問題 (其六)]

此等輸出品は果して露人の使用するか或は日本人の使用するものなるやと吟味すれば其多数は邦人の使用に属するらしく然かも邦人賤業婦の多数に由りて消費せられしものの如し

大阪朝日新聞 1914.2.18(大正3)
青島と日本人

五六年前迄は青島に於ける日本人の勢力全く娘子軍に帰し彼等を中心として雑貨店あり裁縫店あり写真店あり菓子店ありと云う有様なりしが青島の発展と共に日本人の発展も著るしく今や我同胞の経営せる会社銀行の支店多数設置せられしより中心勢力は漸く娘子軍を離れ茲に真面目なる日本人発展の一新時期を画したり而して最近に於ける日本人の来往者を見るに従前とは全く流入の傾向を異にせり即ち娘子軍全盛時代は其の本場たる天草島原より上海経由し来る順序にて所謂上海より北進し来りしが今日に至りては専ら大連より南進し来るもの多く芸妓、実業家、雑貨屋、呉服屋、職人又は無職業者と云わず総て然り従って我同胞の使用する日本商品も亦大連を仲継として南進し来る趨勢を示したり然れども神戸より社外船によりて日本人及び日用品の来ることは従来と異ることなし
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北海タイムス 1914.11.16-1914.11.18(大正3) 
比律賓(フィリピン)事情 (一・二・完) 
在麻尼拉(マニラ)市 楚水生

当市に在住する日本人七百名の内半数は醜業婦であると聞いて足下も恐らく一驚を喫することであろう而して此の醜業婦の日本人間に勢力のある事は実に非常なもので日本人は彼等を呼ぶに姉さんなる尊称を以てするこれは尤も一般の在留日本人低級な者の比較的多いのによるのだろうが兎に角此の姉さんの勢力は侮ることが出来ない而して彼等の収入はと云えば一人一ヶ月五百円から八百円迄あると云うことだ嘘の様な話だが事実である 当市のガリテニア街と云うのは実に此の日本人の遊郭で堂々と営業して居る一夜の遊興料一人十五円日本に比較すれば随分高いが相応に繁盛するから面白い彼等の収入は斯く莫大であるから其の贅沢は一通りではない衣装装飾は言う迄もなく仏国の本場から専門の婦人を雇入れて化粧をし一寸外へ出るにも一時間三円の馬車若くは五円の貸自動車を駆り意気揚々たる者である此等の女は何処から来ているかと云うとおもに九州で一度香港、新嘉坡、ボル子ヲ等を経て来た者多く比律賓全島何れの都邑にも此の日本醜業婦を見ない処はないされば外人は日本婦人さえ見れば皆此の醜業婦と見做してしまう日本の威信に関る事今更喋々する迄もない然らば其の他の日本人の状態はと云うに情けない哉あんまり振って居る者はない 

(二) 日本人の状況(続) 
醜業婦の幅を利かしている事は前に云った通り他の日本人はと云えば・・・
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京都日出新聞 1915.2.11-1915.2.12(大正4) 
海外邦人の分布 (上・下)

芸酌婦即わち所謂醜業婦なるものの世界各地に散在せるものを集むる時は此れ亦八千三人に達せる有様なるが此れが分布如何を見るに関東州の千二百八十一人新嘉坡(シンガポール)の千三百四人其重なるものなり
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中央新聞 1915.4.6-1915.4.10(大正4) 
邦人の海外発展 (一〜五)

本邦婦人の第一の活動舞台は新嘉坡(シンガポール)で男子が二千二百六十八人に対し女は二千八百九十八人程いる。之に亜ぐのが浦潮斯徳(ウラジオストク)で男子千九百三十三人に対し女子は二千十二人いる。此外在留婦人が男子より遥かに多い土地は哈爾賓(ハルピン)で在留婦人千四百三十七次が香港の七百八十六芝罘の四百九十印度カルカッタの三百五十六孟買(ムンバイ)の百五十六仏領柴棍(サイゴン)の百三十等である。唯だ恥しいのは是等の在留婦人の約半数が所謂娘子軍であると云うことである。

福岡日日新聞 1915.4.11-1915.4.15(大正4) 
南洋発展策 (一〜五) 
農学博士 玉利喜造氏 (一) 

鹿児島高等農林学校長玉利喜造氏は十数年来勃々として南洋発展策の研究を続けつつありしが今回日独蘭戦の結果南洋諸島が我軍の手に軍事□占領せらるるや氏は其筋の命を受け本年二月下旬同地に出張し馬来(マライ)半島マーシャル群島、卑南等を親しく踏査し此程帰任せるが其談に曰く 近来南洋々々というて大分南洋熱が昂くなった其発展の途に就ては今後種々講究もし計画もする積である将来南洋に於ける邦人発展の余地夫れも十分ある事を私は信ずる而し其れが実際能く行わるるか否かというのは全く今後渡航して行く人の種類に依ることは勿論である、処で是まで南洋方面に出掛けて行く人は多く醜業婦関係の人或は唯一攫千金を夢みた人のみで懐いて居るのは野心ばかり是に伴う技術或は方法というものは持ってゆかない、で中には非常な堅固な決心の下に渡航する人もないではないが是等の人の決意も最初の程はなかなか堅いが忽ちにして徒食浮浪の悪風に犯されて仕舞う、●し幸に此悪い空気に染まない人は到底是れでは見込がないというので直に帰って仕舞う、這ういう風では到底発展が望めるものではない、随って未だ南洋に於ける邦人の発展としては見るに足るものが尠い、裏面に於ける醜業婦の発展是は著しいものがあるが夫れは別ものとして……
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東京朝日新聞 1915.4.13-1915.4.17(大正4) 
欧洲戦乱と我貿易 (一〜五)

因に支那向として如何なる品目が歓迎せらるるやとは従来当業者の等しく頭を悩ましたる問題なるが近来に至り色沢や友禅模様の如何よりも寧ろ強靭を喜ぶの風潮追々判然したれば此方面の発展亦必ずや期して待つべし只東洋、印度行きのものが土人相手にあらずして在留醜業婦目当という一事だけは聊か心細からざるにあらず
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大阪朝日新聞 1915.5.4(大正4) 
南洋と行商 
在新嘉坡 柳田生

如上の始末なので少し資本のある者は七十乃至百円の薬を仕入れて近くは半島スマトラ遠くはボルネ、オセレベス方面に島から島へ村から村へ部落から部落へとさすらうのであるそうして四箇月か半歳か廻り廻って幾多の困苦を経た後五六十円の貯金が出来れば上々吉々少しいきそこなって病気になったり売行が悪かったりすれば所持品を売払って命からがら新嘉坡に逃げ帰って来る者もあるそして其間の困難が一通りでない重い荷を担いで暑い道をてくてくと歩くは勿論夜は汚い土人家屋に丸木を並べた床の上に腰や背骨の痛いのを我慢して南京虫と蚊軍の絶間なき猛襲を受けながら冷たい否暑苦しい夢をむすばねばならぬ時によると日暮れて道を失い曠茫たる荒野に凄い程冴え渡る月影を踏んで猛獣怪鳥の叫びを聞きながら部落を探し廻ると云う嘘の様な事実もある無論一寸した村には必ず同胞娘子軍の居城があって三四年前迄は懐しい日本人と云うので到る処歓待してくれ数日の苦闘を慰するに十分であったそうだが何が扨無教育無頼の徒の事とて直に娘さんを騙し込んでドロンを極め恩を仇で返す事が度重なるので近頃は薬屋と言えば鼻もひっかけぬ女将が多いとの事だ
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台湾日日新報(新聞) 1914.5.12-1914.6.9(大正3) 
南洋と台湾 (一〜一八) 
株式会社南亜公司常務取締役 井上雅ニ述

前陳のドボー島はニューギニヤの南、濠太利の附近に横われる一小島であるが、同島の真珠採取業を経営するものは英国人之に使用する潜水夫は過半日本人で、其数五六百名に及んで居る。其処へ行って見ると宛然小日本村が建設されて居る。無論醜業婦も●を連ねて居るが普通の商舗もある。
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時事新報 1914.12.5-1915.3.30(大正3) 
蘭領南洋 (一〜三十三・三十五・三十七・三十八)

古き日蘭両国人の関係は此処に繹ぬるを止め明治以後我が国人の此の群島に渡来せる以来の事跡を見れば記者は喟然として長大息せざるを得ぬ当初渠等の此処に来れるは決して正業の為めではなかったせ界の劣等種族たる此の群島の土人にすら笑を売る小婦と是等の輔助者たるピンプ(情夫又は親方の義普通兄さんなる尊称を小婦等より受け居れり)とであった売薬行商者の入込めるは日清戦役後である売笑婦ピンプ、売薬行商者是等が土人との接触に於て幾多の醜行悪事の行われたかは絮説するの必要はない
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時事新報 1915.6.19-1915.7.27(大正4) 
日本対支那 (一〜二十九) 
安岡生

醜業婦
殊に支那人の我を軽蔑する原因として指摘すべきものは例の醜業婦なり固より倚門売笑は何れの国にも之あり若しも之を理由として其国民を軽蔑するとせば世界を通じて軽蔑す可からざるの国民あるなし否な最も多く醜業婦を出すの国は却て世界第一流の文明国を以て自ら任ずる欧洲諸国なりとすれば我国より他国に出稼する醜業婦多しとて我国民は深く之を苦痛とするを要せざる可し然れども眼界狭き支那人は其西洋より来れる者割合に少くして我国より来れる者余りに多きを視て其多寡の差を生じたる原因が一は距離の遠近、往来の難易に存し、一は西洋の醜業婦が日本醜業婦と競争し難き事情に存するを知らずして直に日本を目するに醜業婦の特産国を以てし日本人は貧乏なるに加えて淫猥無恥なる国民為りと誤想するものの如し而して支那に於ける西洋醜業婦は我国に於けると同じく身の程をも顧みずして高く自ら標置し主として西洋人を嫖客と為し容易く支那人を迎えざるに反し日本醜業婦の多くは千客万来、相手を択ばざるのみか(芸妓は例外なり)土地によりては日本人の為めに唾棄せられて支那人のみを嫖客とする者なきに非ず此輩は醜業婦中の最劣等なるものにして其醜状惨状観るに忍びざるものあり之を理由としての支那人の悪評に対しては我国人も恐らくば弁解の辞なかるべし
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東京日日新聞 1915.6.25-1915.6.26(大正4) 
満蒙経営論 (上・下) 
法学博士 岡松参太郎氏談

又満鉄沿線にも開拓すべき事業あれども之亦振るわず満鉄会社及之に附随する経営を除いたならば醜業婦や雑貨商の徒の入込むに過ぎない
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時事新報 1915.12.14-1915.12.22(大正4) 
大博後の排日如何 (一〜[七]) 
十一月十九日桑港発 河上清 

(一) 
博覧会の結果如何 
長かりし博覧会の会期も剰ます処僅に二週日とはなりぬ日米親善、排日緩和を第一の目的としたる日本の参同は果して予期の効果を収めたるや否や前触れの大袈裟なりし日本庭園も「来て見れば左ほどでも無し富士の山」の感なき能はず同じく予告の大なりし「ジャパン、ビウテフル」の日本町も「ヂャパン、セームフル」と悪口さるるほど醜悪なるは猶お忍ぶべしとして之が経営の責任ある協賛会社の財政困難にして大博閉会の頃には大破綻を来すべきの虞あり其他日本有数の工業家と称する出品者の中には種々の奸策を弄して脱税を企てたる無恥漢あり移民局に書を送りて都踊一行は多く醜業婦なる事を密告したるものあり其田種々の方面に於て日本人の醜態を現わしたるは吾人の深く遺憾とする処なり
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時事新報 1916.1.15-1916.1.17(大正5) 
青島指定地建築問題 (上・下) 
在青島 特派員 

(上) 一、到る処絃歌湧く 
青島に於ける一般人の入市許可さるるや真先に入込める者の多くは利権屋と醜業婦なりき、就中醜業婦と称すべき芸酌婦は一時青島在留邦人一万三四千に対し一千百余名の多きを数えたり、当時軍政当局に於ても戦後多忙の際一時に押掛けたる是等の人々に対し夫々適処に住所又は営業所を構えしむるは到底不可能なりしを以て唯他日機会を見て整理するの方針を取り当時は彼等の希望し指定せる場所に許可を与えたり、左れば独逸時代には大商店軒を並べたる大通りに之等の営業者跋扈し白昼白堊の三層楼より絃歌湧き硝子越しに友禅の舞姿艶めかしきを見ること屡々にして日本人の生活状態を知らざる在留外人及支那人をして異様の感を為さしめたり、単に外人及支那人をして異様の感を懐かしめたるのみならず戦後の秩序日に恢復するに連れ心ある日本人をして顰蹙せしめたり去る五月大谷軍司令官の任に当地に莅むや斯る状態が邦人発展の将来に多大の悪影響あるを思い直に之が整理の方針を立て時の高級参謀山田大佐の献策を容れ之等芸酌婦を置き若くは之に依って営業する総ての者を一定地域内に収容するに決せり 
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満州日日新聞 1916.1.29-1916.2.19(大正5)
山東経営大観 (一〜十五)
天南生 (一)

戦後の青島は如何なる状態なるか山東の経営は如何に日本人の手に行われつつあるか、・・・
一、市街の整理風紀の維持如何
旧独逸市街は一戸平均家賃七十円、最高二百五十円前後の堂々たる家屋のみにして、大鮑島の支那式家屋も猶お三十円を下らざれば、我薄資者の一戸を数戸に仕切りて雑然と店舗を開き、若くは支那家屋にても陋隘のものを借受け雑居の有様不快の感を懐かざるを得ず、殊に遊廓青楼同然の酒楼旧独逸市街にも散居し、脂粉の売笑婦闊歩し居る事は、風紀上慨すべき事なりとす、吉村青島軍政署長は英断を以て青島第三区に彼等の位置を指定し、建物会社と交渉して移転すべき家屋を建築せしめんとす、為めに幾多の廃業者を出すも、余は賛成に吝ならざるなり。 要するに我日本人の発展には斯くの如き好ましからざる裏面も亦少なからず、余は独り軍当局のみならず、青島人士が真摯奮励此等の情弊害毒を一掃せん事を切望す。

台湾日日新報(新聞) 1916.3.16-1960.3.25(大正5) 
浮田領事南洋談 (一〜五) 
南洋協会講演

只今蘭領東印度に居ります日本人の総数は昨年六月頃の調べで約三千人ある、此日本人が何時頃から蘭領に来始めたかと云うと今を去ること二三十年前頃から漸く来始めた、それが一番始めでございましょう、其時分に来ましたのは重に醜業婦でございます、醜業婦が即ち日本人の先駆者と云っても誤りがないのであります、次ぎましては売薬行商等でございます、醜業婦、売薬行商と云うものが蘭領東印度に来た初めでありまして、それ等が段々発展致しまして斯く今の蘭領東印度方面に於ける日本人が段々と開らけかけて来たような訳で、現今爪哇に数軒の店がある、其他『スマトラ』方面にも数軒ある、是れ等の店の中には元と行商をして居た人だの又は醜業婦を輸入してやって居った先生等が居るのであります、醜業を廃して商売に移り、行商を止して店を持つ、彼等も醜業が元来の目的ではなくして向上進歩して今の雑貨商や何かになって来たのでありますから、之を従前に比しますれば一人の発展ではございますが、併し只今の南洋と云うものは最早醜業婦時代行商時代と云うものは既に去りまして是から着実なる商人及び其他栽培業者の如き者来りて事業を営むの必要を感ずる時代になって今までの人ばかりに専ら任せて置くことは出来ぬ時代になって居ります 現在蘭領東印度に居ります三千の在留民を島別で申しますと爪哇にちょっと八百人ばかり居ります、『スマトラ』に九百人、『ボルネオ』に三百人、『セレベス』に百二十五人、それから『アロ』と云う所に真珠貝の採取をやって居ります、即ちもぐりであります、其真珠を採取する業に就いて居る者が三百五十人、多い時で四百人ばかり居ります総てで三千人ばかりの人数が居りますが、『スマトラ』に居ります所の九百人と申しますと頭数では決して少くありませぬが、其九百人の中の四五百人と云うものは醜業婦醜業婦は今は少いのでありますが西洋人に附いて居ります所謂洋妾に属する者でありまして、此の部類に属するものは前述三千の中にも大分多数を占めて居ります、其他は売薬行商であるとか、或は洗濯屋も煎餅屋もあると云うような風で、蘭領東印度に居ります和蘭人の外の外国人中日本人が一番多いのでありますが、勢力に於ては何等今の処では認むべきものはないのであります、僅に『スラバヤ』に三井物産会社の出張所がありますとか昨年五月から台湾銀行の出張所が出来ましたと云うような所が大きな所で其他『スラバヤ』『スマラン』『バタビヤ』に二三の雑貨商『スマトラ』に於きましては『メダン』に渋谷商会『バダン』に東洋商会、或は大谷商店と云うようなもの、『マカザ』に稲垣商会とか、川原商会と云うものがありますが要するに只今の所では格別日本人の勢力として認むべき所はない、是から益々発展しなければならぬと云う場合になって居ります、又発展すべき見込も充分あるのであります、斯の如く日本人が蘭領東印度に来初めましたのは明治聖代に於きまして今を去る三十年前後が元でそれも醜業婦や行商に依って開らかれたと云う様な有様でありますが翻って日蘭両国の交通の上から見ますとつつと昔のことはいざ知らず三四百年前に於ける日本人は只今の如き意気地なき状態ではなかったのであります、此事に就きまして序ながら私が爪哇に参って居ります中に僅な書類の中で知り得た所をちょっと御話したいと思います
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神戸又新日報 1916.3.27(大正5)
写真結婚問題
桑港 鷹城生

其後の趨勢
昨年日本より桑港(サンフランシスコ)に到着せる邦人は総数五千四百四十七人にして内 男 三、二〇〇人 女 二、二四七人 となり此の二千人の女子中写真結婚者実に八百二十三人なりしは果して利か弊が一考すべきものあり而して此五千有余人中二十七人は上陸を許可せられざりしものにして其理由は・・・

其排斥理由
さればバーネット氏の如き下院に対し写真結婚禁止といえる条項を移民法案中に加えんとし其理由とし斯の如く簡単に結ばれたる結婚式は直に離れ得るものとし又醜業婦の名を之に藉るものなりと解するに至れるも強に無理ならざるべし
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大阪朝日新聞 1916.4.10(大正5)
台湾の過古現在将来 
特派員 瓢斉生

絶海の孤島に向って最初の発展を試みた日本人は八幡船であって、日本人の威力はまだ西班牙人も、葡萄牙人も手だに触れない台湾や南洋諸島にのびていたのを、徳川の鎖国政策に台なしにして了った、漸く今日に至って南へ南への声をきくとは確に矛盾した歴史というべきであろう、当年昂がった武力の焔は、今や醜業婦の横行によって、取返しのつかない不名誉で帳消しにされているのである。
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満州日日新聞 1916.6.9-1916.6.23(大正5)
貔子窩瞥見録 (一〜九)
津上蒼洋

旅館と料理店 同地の旅館は常盤及一山の二軒あり。一山旅館は殆ど其体を為さざるも常盤旅館は土地柄相当に第一流なり。大連方面其他よりの旅客は悉く同旅館に集り、又時々居留有志の会合等に使用せらる。料理店は周防屋、薩州軒、喜楽、田浦屋の四軒あり。之に収容する娘子軍は芸妓三名、酌婦十五六名あり。何れも小岡子の第二流以下にして敢て問題とならざるも貔子窩に於ける彼等はアレでも別嬪にてヤンヤと珍宝がらるるは流石に女ならでは夜の明けぬ国民なり。彼等に就て『如斯片田舎に稼業をなし面白きことありや』と問えば客種悪しく娼業繁昌せざるまでも経費の掛らぬ為め結局収入多く却って身体は気楽なりと答う。お客こそ好い面の皮なり。夫れ然り而して前記の如き劣嬪多き中に周防屋に梅吉、喜楽に小円なる二美人?あり滞在中余等一行の為めに旅館に傭われて朝夕給仕の任に当る。聞く処に依れば之ぞ貔子窩に於ける一流の美人にて旅館より選抜されらるものなりと。茲に特に一言の提灯をブラ下げ置くもの也(完)

大阪毎日新聞 1916.6.24-1916.6.27(大正5) 
南洋に於ける日本品 (一〜三) 
バタビヤにて 岩藤生

蘭領印度総体に於ける日本人の数は僅に二千五百に過ぎず而も其半数は醜業婦なるに於て日本商の如何に勢力微弱なるかを察するに足らん
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大阪毎日新聞 1916.7.18-1916.7.19(大正5)
第二松花江まで (上・下)
[日露協約の締結 其三十三]
陶頼昭にて 鬼仏堂

沿線中嘱目せられて居るは窰門にて支那人の間には張家湾として知られて居る停車場の附近を窰門と名付けて、それより軌条を隔てて数町、張家湾の部落あり逸早くこの地に着眼せしは支那人にして、既に基礎も出来て居る、露国側最近の調査によれば支那人一千十二名、露人三百四十五名にして、営業数の如きも昨年は七十五と称せられしを、本年に至っては一躍百二十九の多きに至った位で、目下彼等支那人等は東清鉄道に向け附属地内の土地租借を請願しつつあるもの二百二十一件に達して王某の如き一個人の名義にて穀物、塩、石炭等の集散場及び汕房建設の名目にて土地の貸下を願出でたる位にて、東清鉄道会社にても近々広大なる地区を設定して一般希望者に対し永久貸下げをなさんと計画中の由である支那人や露国人の発展に対しては、邦人の勢力は未だ論ずるに足らざるは申す迄もない汽車の中から見るとこの村の中程に日光に照されて見ゆるトタン屋根の数棟あり、之即ち日本人の集団である、七十歳に近き某翁がこの部落の邦人中の顔利であると聞いた、此処は二三年前から邦人の数が殖えて来たので、戸数は二十五戸その内の四戸が料理業で、二十名は例の醜業婦である
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大阪毎日新聞 1916.7.25-1916.7.30(大正5) 
南洋開発の好時機 (一〜六) 
岩藤生

欧人移住者蘭領印度全体に於て約七万人と称す而して爪哇にあるもの五万外領にあるもの二万人支那人に至っては七十万を越え其外領にあるもの二十万に達す而して本邦人の蘭領にあるもの僅に三千二百而も其過半は例の醜業婦にして真に産業に従事せるものに至っては僅々千四五百人に過ぎず
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新愛知 1916.8.27-1916.9.3(大正5) 
緩急車 浦塩斯徳(ウラジオストク)瞥見 (一〜七) 
悠々生

試みに、最近の調査に係る浦塩在留本邦人の職業と、其職業に配分されたる各人口を見よ。蓋し思い半に過ぐるものがあろう。詳言すれば、在留邦人約二千名の内、最も多きものが娼妓であり、之が三百二十三名、之に外国人の妾六十名、芸妓十二名を加うれば、其数三百九十四名即ち総人口の約二割に達するのである。此統計によって見ても、我日本人が浦塩に於て、如何に腰を使うことによって儲けつつあるかを察するに足るではないか。
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新愛知 1916.8.28-1916.8.30(大正5) 
隠されたる南洋の宝庫 (一〜三) 
本紙九千号記念講演会に於る久留島武彦氏演

今日南支南洋のマニラ、新嘉坡(シンガポール)、ボルネオ、蘭貢(ラングーン)、セレベス其他へ、天草の女が六千人も往って居る
、之には男が伴って居らぬ、実に思うようにならぬ、それで日本は三百年以前には猛者の国として恐れられて居たが、今は嬉しい優しい懐しい乙女の国として到る処で持囃されて居る、此持囃されて居る婦人は醜業婦、其手から年々五万円乃至二十万円の金を送って来る、之も外資輸入と云えば云えるが、金よりも名誉に関る国の迷惑である、斯る女すら五万円乃至二十万円の金を送る、少し優秀なる人が往ったならば、何百万円と云う金を送る事の出来ぬ筈はない、然らば如何に切込む余地があるか之を極く掻摘んで申上たいと思う
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大阪毎日新聞 1916.10.18-1916.12.31(大正5) 
蘭領印度 (一〜二十一) 
法学博士 市村光恵

(十七) スラカルタ 
六時二十三分ジョクジャ駅を出て汽車は北方遥にメラビ噴火山の峻峰を望みながら東北に馳せる、此辺土壌最も肥沃沿道殆ど皆砂糖畠か煙草畠である、八時五十分汽車はソロ(スラカルタの別名)の停車場に着いた、此所も爪哇(ジャワ)の独立国の首都である、停車場から市街迄は少し隔たって居る、馬車に乗ってホテルスリーアに向う、途中看護服の如き白衣を着けた束髪の日本婦人が二人馬車に乗ってスレ違うた、後から聞けば蘭人の洋妾であるとの事だ、一体日本の婦人は羅紗牝としては西洋人の間に非常に評判がよい、善く働いて倹約で貞節であるとは余が屡々白人から聞いた讃辞である、中には日本人の商館に出て来て妾の周旋を頼む者がある相である、而して日本人を妾にして居る白人は大抵日本人贔屓である、スマトラのメダン当りには沢山此種の洋妾が居ると聞いた、日本人は自己の品性を衒うが為に往々醜業婦や洋妾を痛罵する者があるが彼等にも亦存在の理由がある余は寧ろ彼等に同情する
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京都日出新聞 1916.11.16-1916.11.20(大正5) 
蘭領爪哇事情 (一〜五) 
京都大学教授市村光恵氏講演

千九百五年の統計に依れば爪哇(ジャワ)に於ける日本人は二千余人に過ぎざるも今は余程増加して居る、殊に例の醜業婦の追々減少して着実なる者の増加しつつあるは喜ぶべき現象なり
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大阪毎日新聞 1917.2.15-1917.3.8(大正6) 
西部ボルネオ探検 (一〜十三・十五〜二十) 
多田 恵一

是は敢てボルネオのみに止まったことではないが、特に邦人が多大の信頼を得つつある未開のボルネオに渡航せんと欲する人々は須らく日本人の品位ということに深く注意せねばならぬ。今日彼の醜業婦の如きは表面蘭領東印度諸島から放逐されて居るから日本人としての価値も一段高くなったのは争うべからざることだが、今尚醜業婦全盛時代の余焔がないとはいえぬ。
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京城日報 1917.3.31(大正6)
満洲人口分布
唯遺憾とする所は南満洲に於ける邦人の男女比例は男百に対し女八十七を示すに拘らず北満にありては女百に対し男四十を示し北満に於ける邦人発展の原動力が所謂娘子軍に在る事なりとす

満州日日新聞 1917.5.23(大正6)
出生率増加
在満邦人十万五千人

男百に対する女の割合は領事館管内の長春一一八、三遼陽一一四、七を筆頭に奉天領事館管内の七七、七を最少とし州外にありては四平街九五五開原九四、五なるは娘子軍の比較的多数を占むる為めなるべく其他州内外共大□八五乃至八六の処にあり

満州日日新聞 1917.6.29-1917.6.30(大正6) 
新領土と布教 (上・下) 
文学博士 村上専精氏談

醜業婦が先駆
惟うに植民事業の如きは之を外国の事例に徴するときは先ず宗教家の献身的活躍に俟つものが多いのであるが我邦の新領土に対する遣り方は此反対であって内地に於てさえ余り感心の出来ない人々殊に最も厭うべき処の醜業婦の如きが神聖なる国の発展の先駆を努めるに至っては到底此の事業の成績不良たるを免れないも道理である新領土の風儀を乱し道徳を破壊するが如きものが先ず移住して然る後徳育智育を司る教育家が之に追従するようでは真の同化ということは得て望むべからずであるという事を断言して憚らない
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新愛知 1917.7.24-1917.7.28(大正6)
満洲から西伯利へ (一・二・三・四・五)
六月二十五日チタ市発 旭水生

満洲里駅の人口
四月二十五日夜半海拉爾車站を発したる郵便列車は翌二十六日午前十一時前満洲里駅に着す、同地は人も知る如く東清鉄道西端駅、露、支、蒙各国境地点にして、各国税関所在地たり・・・

在留邦人の状態
在留邦人二百余名中の約半数は売笑婦及之に関係を有する者なるも而も一方に日本病院、東洋医院、久保医院等邦人経営の病院ありて・・・

センナャの花街 
余の投宿センナャ街は俗に下町と称し、チタ河畔埋立地一帯の総称にして、チタ市特別の花柳街なり、露支人の耳にはセンチャ街と云うだに弁財天の在す極楽園を直覚す、昼夜の遊客絡駅絶えざる色街にして、露人、ポーランド人、ワリヤーク人、オロチョン人、蒙古雑種の露人及日本娘の錫を粋を蒐めたる佳人揃い、日露娼家軒を接して『戦雲何処に横わる、政争那辺にかある?』と全然軍国の何たるを知らざる、淫風盛んにして、此処ばかりは不景気知らずの大繁昌、就中日本娼家二十二戸、シベリヤ遠征の紅褌隊員無慮八十九十名、多くは九州出身の猛者揃いならざるはなし 

自ら淫売屋と称す
当地在留邦人にして此種の営業に従事せざる者極めて稀なり、比較的成功者と称すべき人士中尚お此営業を兼営するもの尠しとせず、去れば爾余の少資本家何もシベリヤに流浪多年、洗濯屋賭博師、床や、コックなどの成上り多く、概して内地の正当なる学校教育を経たるものなく、勿論紳士紳商と称すべきものなし故に言語、作法自から内地人と其趣きを異にし、一種独特のシベリヤ式風俗を成せり、彼等は此の種の営業を称して「淫売屋」ち称して意とせず是れ決して他人が呼ぶにあらずして自己亦遜称の意にもあらず、自他平気に「淫売屋々々」と称して怪まず、而して面白きは、高木某外二戸の経営する同業家は之を「女郎屋」と称え他の二十戸ばかりは総て淫売屋と称す、蓋し「女郎屋」は一戸四名以上の売笑婦を収容する権もあるも他は三名以下に限り、若しそれ以上の人員を置かんとせば三名につき一個宛の出入口を設けざるべからず、故に一家四名以上を置ける家は同じ一戸にして出入口二箇所を有し居れり、彼等を称して淫売屋とは称する次第なりと 

出獄人が上等客 
海外遠征の紅褌隊は何処も同じ、九州は天草若しくは島原、佐賀あたりの猛者揃いなるは世人の洽く知る所なるが、当地も其例に洩れず多くは天草、茂木、佐賀、島原出身者多きが如し、そして奇なるは他所に見られぬ年増女の多きことにして、花羞かしき乙女子は蓋し指を屈する程に過ず然も老幼に拘らず其収入は概して七八留より二十留に上る、而して彼等は何れも露西亜式の派手なる洋装をなし露語を囀り見るも恐ろしげなる加薩克兵又は職工、小商人、農夫を対手とせり、殊に近来革命の恩典に浴して放免せられたる出獄人など一時盛んに来遊したれば「監獄人」と云えば花柳界に一時歓迎せらるるの奇観を呈したり、夫れも其筈、彼等は多年シベリヤ流謫の身、殊に獄中異性に接する機会なかりしより、多年在監中の工銭を所持し、之を一夜の豪遊に一擲して悔ず、概して金離れよかりしより、笑君連は何れもこの種の客人を歓迎したるなり
 
醜業組合の現状 
一戸多きは十数名、少きも両三名を下らざるチタ市センナャ美人街に於る我君子国の紅褌隊は最も優勢にして、一昼夜少きも五六名、多きは二十余名の色餓饑を征服しつつあるは驚嘆に値す、而して是等娼家は同業組合を組織し、現に何某之が組長たり、彼等は年久しく露国の圧制治下に弱い商売を営み居れる事とて、露国官憲の如何なる理不尽なる命令にも惟々として服従し来り、自家の主張すべき当然の権利さえ之を放棄して無智なる下級官吏の圧迫にすら萎縮し居れり、彼等は何等結束して向上的発展の方策を講ずることなく、暇さえあれば賭博に耽り居るとは慨嘆に堪えず、特に当業家に必要なる検黴衛生の機関すら之を有せず、自他共に甚大なる損害を醸成しつつあり、併し、個人間の交際は極めて親密にして近隣相助け、旅行者の来るあれば相当の待遇を与え、貧窮者あれば各戸醵金して之を救助し、吉凶禍福互に同情を以て共済補給するの美風あるはセメテもの取柄なり
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福岡日日新聞 1917.8.3(大正6)
日露為替断絶
長崎市場の影響
[露国の為替禁止 (九)]

露国が留貨幣の流出を防ぎ国内の財政整理の為曩に外国為替禁止令発布以来在浦塩本邦銀行は勿論是まで同国と取引ありし銀行の被れる影響は甚大にして同国との為替関係は全然杜絶され従って取引も全く行うを得ず自然的無取引の状態に陥りたり長崎市は従来露国との関係深く個人又は銀行取引共相当の金額を有せし事なれど今は同国との直取引は皆無にて僅に例の娘子軍が便船毎に若干宛送金し来る位なりしが是れ又右の禁止令の為一時は浦塩(ウラジオストク)より哈爾賓(ハルピン)へ廻送し更に当市取引銀行へ送付したる事なれど哈爾賓も露国の勢力圏内にある事とて最早其方法を執る能わず全く本邦との金融は杜絶の有様なれば十八銀行及横浜正金長崎支店の如き既に為替関係を休止し居れり
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満州日日新聞 1918.1.1(大正7) 
対支経済策と支那の現状 
法学博士 田中穂積

海外に居る人は常に此心を以て本国と其国との疎隔を軟らげる様に心がけねばならぬ殊に支那に於ける日本人は最も此に注意すべき筈なるに一向其事なく多くは戦勝者の戦敗者に対する態度を革めず然も海外にある日本人の多くは醜業婦ならざれば無頼の徒にして其品性の下劣にして素行の修まらざる支那人の顰蹙する所である、
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大阪朝日新聞 1918.2.22-1918.2.24(大正7) 
山東民政問題 (上・中・下) 
上海特派員 美土路昌一

人種別の偉観
翻って今試みに大正六年八月一日守備軍調査の青島人口職業別を一見するに、日本人総計一万五千八百三人中不生産的なる家族(八、八四二)を除除きて、他の重なる人員を挙ぐれば、残り六千九百六十一人中、特種婦=芸妓、酌婦、仲居(七六七)、軍人将校(三二七)、文官(七八零)、官衙傭人(七三五)、労働者(七五四)、料理職(一〇七)、貿易仲買(二八八)、雑貨商(二四二)、古物商(一〇四)、請負業(一五四)等は其重なるものである。青島占領せられて既に約四歳、今や此●爾猫額に均しき七里四方の租借地は官吏と醜業婦とを以て半を充たしつつある。又偉観なりと云うべし。
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福岡日日新聞 1918.3.3(大正7) 
新嘉坡(シンガポール)と邦人 

蘭船オヒール号にて新嘉坡より長崎に上陸し二月二十八日神戸に向える青木二郎氏の談に曰く 新嘉坡に於ける邦人の発展は目覚しきものあり一時醜業婦の貯金を以て□を造り各種事業の資金に融通し居たるものが最近にては三井三菱久原鈴木正金台銀の各大商店櫛比して活発なる営業を試み近く大阪商船は南洋南米航路を開き山下汽船も又た南洋に飛躍する由にて其の発展も確かに外人の目を惹くに足る
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大阪新報 1918.4.1(大正7) 
印度貿易 

当地大沢商会の印度視察員の印度より帰来し最近の同地事情を語る所を聞くに左の如し・・・
尚現今に於て邦人の印度に在住する者は孟買(ムンバイ)に三百人、カルカッタに二百人約五百余人と聞きたるが之等の半数は醜業婦の類にて商業に従事する者は僅かに其十分の一に過ぎず
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台湾日日新報(新聞) 1918.5.5-1918.5.9(大正7) 
台湾と南方発展 (一〜四) 
於拓殖講演会 折田台湾総督府副官講演

今日我民族此方面に活動せるもの未だ寥たる状態に在りて而も国辱を念とせざる娘子軍の横行や粗製濫造の商品を輸出して我貿易上の不信用を顧慮せざる奸商や或は浮浪無頼の邦人が一等国民を楯として各処に蛮行を演じて恥とせざるに比較して洵に慨歎に堪ぬ次第であります

中外商業新報 1918.5.28-1918.6.20(大正7) 
最近視察せる南洋経済状態 (一〜二十) 
大阪商船近海課長 上谷続氏談

日本人の発展プレートインデアンペニーシュア半島の物資を研究する前にマレーストテースに就て一言せん、新嘉坡を中心としての日本人の発展は大戦開始以来著しきものあり千九百十六年に本邦会社中同地に支店を有せしは三井、台湾銀行、乙峰等に過ぎざりしが其後今春迄に山下汽船、増田屋、鈴木三菱等何れも支店を新設し其活躍目覚しきものあり一昨年租借せる十万噎は開墾され完全なる護謨(ゴム)園となり本邦在住人の多くはゴム栽培に従事し居れり往年同地領事館は本邦醜業婦発展奨励を以て方針とせるかの如き観ありしに近年に至り其方針は一変して真面目なる移民の斡旋奨励に尽瘁しつつあるは喜ぶべき現象というべし、
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時事新報 1918.8.15(大正7) 
東露経済近況 各国人の活動 
邦人発展好機

東露の同胞
其数約四千五百人に達し其内醜業婦第一位にあり其他写真洗濯理髪時計直し大工等の諸業最も多く貿易商の如き僅か六十に足らず然るに今や我同胞は過激派の圧迫に依り帰国するもの或は浦潮哈爾賓等に集まり目下在留せる邦人は極めて少数にして武市に於ける虐殺浦市に於ける強盗難の如き状態頗る不安なるものあり
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東京朝日新聞 1918.11.25-1918.11.26(大正7) 
比島より (上・下) 
香港にて 孤嘯生

今回突如布達せられたる国民軍陣営(クラウディオのキャムプ)を距る周囲七哩以内の地には遊郭の存立を禁ぜるが如きも亦其発露に外ならず、マニラ市東北に位せるサンパロクのガアデニアは今日迄一画を限り土人日本人等の紅灯を黙許し土人百七十八名と日本醜業婦百四名女将十七名にて盛んに肉の切売を為さしめたるものなるが去る十八日市長ルクバンと市警察部長ホーマンは遂に彼等の退去を命じ全く其自由を拘束する事となれり此の如きは由来民主思想の旺盛なる比島に殆ど稀□の高圧手段と称せられ之れが為め邦人醜業者の騒動困難は殆ど名状すべからざる光景に陥りたるのみに止まらず、此一画を中心とせるマニラ市在留の邦商中頗る密接の経済関係を有するものありて彼等の驚愕又度を失せり、無尽講醜業者各自と女将と貸借関係、家財什器の整理等何等手を染むるの暇なく、郵船香取丸を初めとし東洋汽船コレヤ丸、商船チカゴ丸、エンサン号、シベリヤ丸等マニラより対岸支那並に日本に航海する便船毎に数十名宛退去せしめたり此間或は人身の自由を束縛せりとか若くは此内帰るに家なき憐れむべき遊女十一名を迎え各各妻とも為さんとてハアビアスコルバスに基く訴訟を提起せる物好き抔現れたるも十月二十八日マニラ第一審裁判所に於て移民法に依り追放を命ずる事と解釈せらるるに及んで彼等折角必死の運動も全然水泡に帰し了んぬ、邦人醜業者中退去する事を得ざる実際の事情あるもの病気中のもの無籍日本人抔を合せ約二十名見当尚残留するのみにて這次の一撃は邦人醜業者を一掃し尽くせり相原副領事は奔命に疲れ盛に目を廻す程活動し遊女の怨霊に取附かれ西斑牙迄も悩みたる筐なるに一部邦人中には領事が相当準備の期間を比島官憲の対し保留せざりしは不都合なりとて批難の声を高めつつあり相原副領事に対し誠に気の毒の至りに堪えずマニラ有力の邦人団体たる商工会にては寧ろ傍観的態度を取る外なしと決議したるが兎に角比島政府の果断は推賞に値するものと云わざるべからず土人醜業者全部を比島内の最も女の少き南比タバオに送り夫夫良縁を求めしむべく出航せしめたる手段甚だ周到なりと評せざるべからずダバオ行き土人醜業者に対しては移民法抔何等七面倒の関係あるべきにあらざるを以て法曹界の一問題となり裁判所に出訴し本人等の自由意思を尊重しダバオ行きを決行したりしや宜しく一応法律上の手続を経、当人等の承諾を得ざるべからずとの議論行われ且当市新聞雑誌中には此等醜業者にして果して良縁を得るとするも定めて良母賢妻となり得べきや将来の国民出産の上に如何なる程度迄歓迎すべきや抔皮肉交りに野次れるものなきにあらず予てダバオ日本人会より排斥を蒙りたる南比ダバオ方面の邦人醜業者団も多分此一事業に懲り足元の明るき内に引揚げ夫夫本国帰還の事に落着するに至るべきかと観察せらる。
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大阪朝日新聞 1919.1.24-1919.2.2(大正8)
露人に交わる道 (一・二・[三〜十])
鈴木於莵平

(一)
西伯利は我隣境にして、其距るや僅に一衣帯水のみ、而も彼我貿易の振わざる実に慨嘆に堪えないのである。抑も西伯利(シベリア)に於る日露両国民の接触は端を明治十年頃に発し九州島原辺の漁夫労働者醜業婦連の移住に始まり、追々他職業者の渡航を誘致するに至りて浦潮市街漸く邦人の営業者を見るに至ったのである。
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大阪朝日新聞 1919.2.3(大正8)
我が不評の因
哈爾賓(ハルピン) 牛木生

西伯利(シベリア)に一歩踏み入れた日本人は男も女も醜業婦であれ、洗濯屋であれ、床屋であれ、医者であれ、悉く是れ軍事探偵か間諜か、何れにしても露国を窺い露国を覘うの徒にして種々の迫害を受けた。
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台湾日日新報(新聞) 1919.2.5-1919.2.9(大正8) 
南洋に於ける企業上の注意 (一〜五)
(先ず自力を養え) 
南亜公司専務取締役 井上雅二述

併し人を海外に植えると云うことは吾等の年来の主張である、従来南洋に於ける日本人は醜業婦が主であったが、今日は有力なる資本家や実業家が資本を投ずることになって、醜業婦の影は漸々薄くなり、日本人の地位が漸次高まりつつある、
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台湾新聞 1919.2.10-1919.2.13(大正8)
西濠洲の潜水業 (一〜四)
新嘉坡通信

最近西濠洲(オーストラリア)ブルームから百余名の邦人が国帰りの為当地へ寄港した白人の濠洲と言われ黄金の雨降る濠洲と称えられつつある裏面に如何に邦人が活動しつつ有るか・・・
潜夫生活の裏面と云うと如何にも大事件がひそんで居る様だが事実は只海上生活をして居る人々として女にあこがれ金廻りの良い濠洲では更に大賭博が行われるに過ぎない勿論白人の濠洲として一切の有色人種の侵入をふせぎつつ有れば男に対する女の比が到底新嘉坡の様な平衡に近い物じゃないとは言う迄も無くブルームに在住する所謂娘子軍は総数十四五名然も此の十四五名中最も若いと云われるのが四十歳以上古いのになると六十歳を越えるのが六七人居ると云うんだから金の為にふくれ切って居る彼等の精神が寧ろ気の毒になって来るんだ 女郎料理屋の繁昌期はブルームに於ける是等の下等娯楽場も繁昌するのは彼の地がブルームタイムの二三月を陸上で送るからである二月を皮切りに十一月迄ためた金が十二月の休業期に入ると全く出漁が無くなって今迄の海上無趣味生活は下宿屋の仰臥となるんだ此処で古人が言った事は間違いなく「小人閑居して不善をなす」を実現する第一に突撃する所は女郎屋次が賭博場料理屋の順であるが何と言っても千人に近い荒くれ男に十四五人の女では到底需要に応じ切れないで少しでも申込みを遅れ様者なれば縦令三千ドルが五千の金を積んでも女は見向きもしないのだ

大阪毎日新聞 1919.2.22-1919.2.28(大正8) 
講和問題 (一〜六) 及び国際連盟問題 
法学博士 千賀鶴太郎

是は北米合衆国を始め濠洲及び加奈陀に直接関係を有する事であって、従来彼等が東洋人種に対して行いつつある行動は断じて之を改めしめねばならぬ、彼等は弁じて曰く日本人は衣食住の点に於て我等と相違の点が多い、故に平等の待遇を与うることは出来ぬと、又曰く日本人は労働組合に加入せず又醜業婦を輸入し来ること多しと、其他種々の口実を設けて現に邦人排斥に努むるのであるが而も此等は全然遁辞に過ぎないのである、何となれば斯る事柄は彼地の法律上の規定により警察の力を以て十分に強制し得る性質のものであって、日本人を排斥する正当の理由とはなり得ないからである、
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新愛知 1919.4.13(大正8)
西伯利研究の必要
英米国の西伯利に対する発奮努力を熟慮せよ

西伯利(シベリア)から帰った邦人は斉しく戦前における邦人の西伯利に有せし勢力と、現在のそれとは全く雲泥の差があって、西伯利各地に於ける邦人の発展努力は、真に驚く可きものがあると喜んで居る。然しながら既に米国人が黒竜江上に星章旗を泛べ、幾多の鉱山には着着として工場を建設し、其天然資源に向って、大々的の計画を為し居ると。僅に日本人が出征□隊□駐屯地に、或は雑貨商を営み、或は旅館を経営し、或は売笑婦を働かせつつあるが如き、其経営振□区々末節たるとを比較すれば、真に汗顔に堪えざるものがあるでは無いか。
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京城日報 1919.4.27-1919.4.29(大正8) 
東亜の同人種地帯 (一〜三・□) 
東部西伯利朝鮮及満蒙日本各民族の同人種なるを提唱す 
不合理なる朝鮮の民族自決運動 
東京帝大講師 鳥居竜蔵氏談

最近は哈爾賓(ハルピン)のことも日本人に分って来たが戦前は殆んど知る人とては無かったのである。学者政治家より寧ろ醜業婦の方がよく知っていたようである、
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大阪毎日新聞 1919.5.8(大正8)
南洋講演
大阪商品陳列所にて東郷、木村両氏

大阪商品陳列所にては七日午後七時より事務館に於て実業家教育者の為に南洋の風俗習慣貿易事業等に関する講演会を開催し貴族院議員東郷男、木村新嘉坡陳列館長の講演ありたり木村氏は語る 
新嘉坡は南洋方面の中心市場であって陳列所事業の前途にも面白味があるが今日の処マレー群島蘭領印度の事情位を知り得るだけである故に近く他の方面にも人を派出する考えである而して南洋方面の真相を知らない当時は土人の購買力が非常に低いものであると想像して居たが実際は之に反し購買力も高く又上等の品物を望むので一驚した而して戦前迄彼地の輸入は英蘭独商品多く日本品の如き皆無と云う有様で唯醜業をこととする日本娘子軍が跋扈して居たに過ぎぬ然るに戦争開始と共に蘭独品の輸入杜絶した為め俄に日本品の需要増加し最近に於ては戦前の約十倍となり三億円に達したけれど尚全貿易額より見れば一割である
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万朝報 1919.6.7(大正8) 
床屋洗濯屋の日本人

海外に於ける邦人中には今日迄商人として成功を収めた者が甚だ少い、従米の貿易は多く外人の手に依りて取扱われ、其後邦人自ら直取引を為すに至りても、海外に大なる商店を有する者は極めて稀であった、三井、大倉等の出張店は海外の主なる都市に必ず設置せられて在る、其他の商店と云えば唯日本品の雑貨商あるのみで、多数の日本人が在住する所には種々の商店もあるが、多くは同胞を顧客とするに過ぎぬ、普通に外人を顧客とする日本人の営業で、最も多く海外に存在して居るものは床屋及び洗濯屋である、米国の各地に於て然り、西比利(シベリア)に於ても同様である、床屋洗濯屋等は敢て賤むべき職業ではないのであるが、其以外の職業に従事する者が甚だ乏しい為に日本人といえば女は悉く醜業婦、男は悉く床屋或は洗濯屋である様に考えられて居る
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大阪朝日新聞 1919.7.6(大正8)
浦潮支那人の排日傾向
浦潮 中山貞雄

浦潮(ウラジオストク)在留支那人は従来積極的に排日の行動を執った事は無かった、只過去に於て一度支那人の日本娘子軍に対する非買同盟が行われた事があったが其原因は日本娼妓の或る不法行為に原因したとか云う話であった。

台湾日日新報(新聞) 1919.9.4-1919.9.6 (大正8)
日蘭通商と日本船 (上・中・下) 
バタビヤ三井支店長 菊地泰(寄)

日蘭貿易の現状に就ては、総督府あたりに大分通が居られるので、廻らぬ筆を以って説明するにも当らないが、欧洲大戦前日本から爪哇への輸入額と戦時昨年又は一昨年のそれとを比較して見ると、約八倍に膨張して居る事丈を概念して置く蘭領印度在留邦人約二千人で、其内には旧来の娘子軍も含まれて居るのだが、近年の渡航邦人は余程高等な階級に増加を見つつある事は何よりも嬉しい、
我がバタビヤの日本人会なども、一昨年の春は会員八十名に過ぎなかったが現在は二百名に上り而も其内容が会社銀行商店員等の増加に基くものであるから、従来の醜業婦や南洋ゴロの増加とは全く意味か違うのである

神戸新聞 1919.10.16(大正8) 
婦人労働問題 
社会経済組織の改善

彼の海外に殆ど到らぬ隈なきまで分布せられつつ我国辱を忌憚なく曝露しつつある醜業婦問題の如きも婦人労働問題に□連を有するものというべし、海外に醜業婦の絶えざる所以のものは畢竟現今の社会制度及経済組織の欠陥が偶々此方面に曝露されたるに過ぎざるものと見るを得べし、最も天草島原女の如き、殆ど歴史的習慣的伝統的に海外出稼の醜業婦をなす土地もあれど、是とてその歴史的習慣的伝統的の因由に溯って研究すれば、天草の地が宗教的に早くより海外と交通し、外国人に接触するにおいて甚だき異常を感ぜざる結果、終に惰性を生ずるに至り、惰性の赴く所国辱的観念の刺戟を弱からしめたるに過ざる事を観取し得べく、畢竟生活の真実に発せるものというを得べし、如何となれば元来天草の地たる天然の資源頗る貧弱にして正義を得るに難く、自然女子の如き何等資本を要せずして生活をなし且金を儲け得る海外醜業婦を選ぶに至れるものというべく、その歴史的伝統的に弱められたる道徳観に依りて吾人が感ずるほど彼等は此醜業婦の選定を罪悪なりと思惟せざるに因る。
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大阪朝日新聞 1919.12.9(大正8)
朝鮮動揺の誘因
斉藤総督談

斉藤朝鮮総督は過般来の朝鮮騒擾事件に関し所感並に統治方針に就き左の如く語れり(京城電報) 朝鮮騒擾の裏面に基督教宣教師の宣伝あることは明かなる事実で、その最も悪性なるは京城セプランス医学校のスコフィルドという男で、私は朝鮮に着任前東京で会った、水野総監も会って居るが極めて猛烈な意見を吐き、その思想は常に朝鮮人を扶けて日本政府に反抗せしめようと図り、私に対しても日本政府は、芸娼妓の如き醜業婦を以て朝鮮の植民政策として居るが、その実況は実に酸鼻の光景を呈して居る、その方面の救済はどうするなどと云い、
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大阪毎日新聞 1920.1.3-1920.1.8(大正9) 予算問答 

高木氏
外務省は在外日本国民に対して如何なる程度まで調査し居れるや呂運亨問題も此事実調査によりて邦人たるか否か決定せらるるなり又新嘉坡(シンガポール)に於ける醜業婦二千人を帰還せしめたる理由如何
埴原次官
在外人の調査に関しては領事裁判権を有する土地に於ては之を調査せるも其他の土地においては別に調査機関を設けず又醜業婦送還に就ては田中通商局長説明すべし 田中通商局長
醜業婦全部を送還したるにあらず又原因は同市当局の要求並に在留邦人の意嚮本人の意思などによるものにして圧迫して帰還せしめたるものにあらず 高木氏
醜業婦送還の主唱者は山崎領事なりというが一官吏の意思によって軽々に帰国を命ずるは実に軽率の行為たり次に商務官の設置に関し登用人物の種類及び資格試験如何何故之を外務省所管とし農商務所管とせざりしや
田中局長
商務官登用は従来官吏登用の例外として専ら人材採用の意思あり又外務省管轄としたるも腕を揮うに差支を生ぜしむるが如き事万なからしむる事を期す
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大阪朝日新聞 1920.2.11-1920.2.13(大正9) 
排日を助長する所以 (上・中・下) 
写真結婚禁止に就て 法学博士 
末広重雄

然らば、排日派は何故に写真結婚婦人の入国に反対するか。排日派中の有力者の一人たる米国移民総監キヤミネチーが、理由として揚言する所に依れば、 
(一)道徳上の理由 
写真結婚は其の名の示す如く、写真を以て見合いをなすに止まり、双方相識り相思うのでなく、唯官憲に居出るだけで成立する婚姻であるから、米国国法の精神に反するものである。しかのみならず、写真結婚婦入中、渡米後或は夫と不和を主じ竟に破鏡折簪の悲劇を演じた揚句の果てが、醜業婦に堕落し、米国の淳風良俗を傷くること甚だしいものがある。

神戸又新日報 1920.4.4-1920.4.21(大正9) 
欧航記 (一〜十) 
三月十日新嘉坡(シンガポール)着前日熱田丸にて 本多一太郎

小生前遊当時には邦人の当地に在留するもの約二千其多くは御承知の通り醜業婦及其嬪夫並に彼等に附随せる職業に従事するものにして真に正業に携わるものは十指を屈するに足らず・・・予ては我娘子軍が当地そ其根拠地としてシャム、安南ジャワスマトラを始めとし馬来(マライ)半島の虎伏す山奥、鰐棲む南洋諸島の果に至る迄殆ど秋風の枯草を吹くが如くに跳梁横行せし事も今は過去の事実に属し近年漸く滅亡の機に達し彼南(ペナン)に於ては既に数ヶ月以前全部廃滅し、馬尼拉(マニラ)亦然り新嘉坡(シンガポール)に於ても近く二ヶ月の後には滅亡し終らんとす元来彼等は我民族の海外発展の先駆として称せられたる事もあれども続いて其地に我正業起って漸次其勢力を増加するや彼等は反比例に勢を失い滅亡するを常とせり即ち或意味に於て彼等の滅亡は我商権の確立する事ともなり候


台湾日日新報(新聞) 1920.6.27(大正9) 
圧迫を受けんとしつつある比律賓(フィリピン)の麻栽培 
邦人の栽培者六十四会社 
栽培地面積約二万甲歩

タバオには現在約五千人の邦人が居住して居るが、例の醜業婦も隠然勢力を有って居る、彼等は邦人が多数入込むと同時に遠征して来て今ではタバオから一寸離れた処に一団をなして居る、醜業婦が入込まぬ前迄は邦人は何の事業をなすにも非常に尊敬されて居たものだが醜業婦が入込んでからは邦人を侮蔑する様になった、ソレで在留邦人一同協議の上日本人としての体面を保つべく醜業婦追払いを官憲に掛合った、然るに官憲は日本の醜業婦を追払うとタバオの町が寂れるからと云うので追払いもせず放任して居るが、中々繁昌して居る云々 
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大阪朝日新聞1921.1.17(大正10)
海外には五十万人
国勢調査の投網を地球の上にパッと蔽せた結果

キリスタンの島原さては長崎辺から椰子の花咲く南洋へ出稼ぎしている女達や、排斥々々で遂いまくられる亜米利加辺の移住民の男達夫がどれ程ある事やら、
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北海タイムス 1921.5.7-1921.5.16(大正10) 
薩哈嗹(サハリン)感想記 (一〜三・五〜九・完)  
特派員 鈴木敏三

本年四月十日現在亜港(アレクサンドロフスク・サハリンスキー港)所在人口を挙ぐれば(軍人軍属除く) 邦人一、九六六露人一三、八七朝鮮人六〇四支那人一八六合計四、一四三 にして其後解氷航海安全季に入りて邦人の渡航と相俟ち所在邦人は益々逓増しつつある事予想に難くない、之等の邦人は主として吾軍占領後の経営に要する各般 設備の為入込みし労働者及其労働者並に一般在住民、物資供給を目的とする所謂雑貨商と其関係者大部分にして何れも刹那的掻っ浚い主義、商略を持す者に満ち苟くも相当の調査と用意を有する薩哈嗹富源開発を主眼とする実業家に乏しい尚吾西比利亜(シベリア)撤兵と同時に多斉方面より標泊せる所謂天草女の一団を主とする賤業婦百三二名(中露人五)も包含されているが右表に於て露人、固定に対し邦人の激増は着目すべき現象である
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福岡日日新聞 1921.9.7(大正10)

目覚しく南洋に発展して行く邦人 信用も亦増加した


横浜漁油株式会社南洋支配人藤野規矩氏はセレベスを根拠地として広くコプラ雑貨等の南洋貿易を経営していたが六日商船桃園丸にて門司着帰来した氏の談に曰く

・・・ 和蘭人の日本人に対する感情は同方面に於ける本邦人の先駆者が醜業婦や無頼漢等であったので多大の誤解を受て居たが後漸次着実の事業家が渡来するようになったので信用を恢復向上して現在では和蘭領沿岸警備に当って居る仮装軍艦にも特に便乗を許し便利を計って呉れる程に好感を持つようになって来て居る
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満州日日新聞 1921.11.5(大正10) 
海に陸に驚嘆すべき満州通信事業の発達 
過去十五年間に於ける努力の結晶 
関東庁逓信局長 杉野耕三郎氏(談)

抑吾関東州の通信事業は明治三十九年九月一日都督府が始政するに際し開始されたものであるが尤も、それ迄は日露間の兵火闌わであって満洲全線には野戦郵便局があった。それは三十七年十月末のことである始めて遼東守備軍が金州に置かれた際、軍事郵便が開始されて間もなく大連に移転したがその頃は軍事のみならず我在留民に対しても通信の便宜を与えて居た然しその頃兵火の巷を冒して敢て彷徨するものもなくそれはホンの数人例の醜業婦どもであった。


読売新聞 1921.11.25(大正10)
実行不可能の満蒙移民

今日在外の本邦人総数六十万の中、支那本土、満洲、及び西伯利(シベリア)に在留する者は大約二十六万で、即ち四割五分を占めて居るが、内二十万有余までは南満洲各地で、支那本土、西伯利、北満洲、蒙古の居留本邦人は六万に足らず、即ち在外本邦人総数の一割を出でない。南満洲にありても、鉄道の従業及び労働者、諸会社員、諸商買、賎業者、其の他直接間に満鉄と消長を共にするものを除けば、狭義の移民に属する労働者、殊に農業労働者の如きは何程もない。北満洲、蒙古、西伯利に至りては尚更である。
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満州日日新聞 1922.3.8(大正11)
山東の将来と邦人 
軍隊や官衙の力を頼み過ぎる

山東や満洲や西伯利(シベリア)への移植民は兔角軍隊や官衙の力を頼み過ぎる傾きがある。最前線に立つものは、例の娘子軍、質屋、売薬商、洗濯業者 高利貸の徒で、軍隊が道を開いて奥れるのを待って、始めて資本家、事業家、其他のものが後に続いて出かけ、中には軍隊の御用だけを目的に出懸けるものもあり、随って火事泥を働らくものもあり、そうして只貪り取る事ばかり考えて居るという有様では、日本国民の海外発展なるものに余り誇り得べき所はないのである。
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中外商業新報 1922.5.15(大正11)
満州の例に倣う南洋領事会議
(外務省通商局発表)

第二、在南洋邦人保護取締に関する問題で教育施設、病院施設、日本人会、醜業婦問題其他本邦人取締に関する諸問題の研究
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京城日報 1923.2.13-1923.3.6(大正12) 
南北満洲産業状態 (一〜十三) 
渡辺農務課長視察談

亦最近出来た産業公司の如きも冷蔵会社の手先となって白音太拉の奥地開魯、林西までも貿易に行って居るが非常な好成績で彼等蒙古人は大に日本人を歓迎して居る、それは何故かと云うに将来なれば先ず開拓地には売薬人が這入り続いて醜業婦が行くと云う状態であったが此の地は前記の如く貿易の為めに行くのであり且其人々は立派な会社の人で相当に外国語学校を卒業したとか其他相当の学力を有する人々が出掛けるので非常に諒解が早いので自然彼等も崇拝すると云った傾向があるため遂に今日の如く歓迎を受ける事となったものらしいのである
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中外商業新報 1923.6.24-1923.6.28(大正12)
予をして率直に露国の立場を語らしめよ (一〜五)
アドルフ・ヨッフェ

日本守備隊休戦条約を無視す
(ハ)尼港駐在日本守備隊よりも遥に優勢なりしパルチザンは、市街を占領したる為め日本守備隊は尼港要塞に隠れざるを得ざりき、パルチザン再三再四軍使を遣わし、日本軍と談判を遂げんとしたるに日本軍は此の軍使を殺害したり 去れど遂に「バルチザン」と日本守備隊との交渉成るに至り、休戦協約書を作り之が交換を行えり、該協約書に由りて日本守備隊は、其閉ぢ籠りし要塞より出づるの権利を得たり休戦条約を結びし後パルチザン等は其不規律の為か、或は余り日本軍に信用を置き過ぎたる為か、更に自ら警備する所無かりき。此機に乗じ要塞を出でたる日本守備隊は休戦条約を無視し、パルチザン襲撃を開始せり、此襲撃には尼港(ニコラエフスク)に在りし非戦闘員等も加わり窓口よりパルチザンを射撃したり(醜業婦の如きも之に加わりたりと云う)惨憺たる激戦の後パルチザンは勝利を得た、彼等は憤慨の余り尼港の日本部落を侵撃し、家屋を掠奪し、日本民を虐殺せり
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東京朝日新聞 1924.4.5(大正13)
国際貸借の話 (上・下)
国際財話

第五は移民送金である。たとえば亜米利加への出稼ぎに行って国元へなす送金又は生きながらの地獄そのままの生活をなす売笑婦が異国から国元への送金の如き、何れも日本からは相手国に対する受取勘定となるものである
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大阪毎日新聞 1924.5.7-1924.5.13(大正13) 
高率関税で阻害された対仏領印度貿易 (一〜六) 
総督の来朝で条約改訂迫る

戦争前に於て仏領印度支那に在留した本邦人は約三百名あったがその大半は賤業婦を以て占め、商業に従事するもの少なく経済上の勢力としては我国は実に微々として振わなかった。

大阪朝日新聞 1924.5.25 (大正13)
最近の朝鮮
諸般施設の改善整備により其の進歩隔世の感あり

西伯利あたりの様子によると、西伯利に於ける移住の先駆となったものは例の九州一角の〇〇婦であって其後から裁縫師、時計屋、理髪屋というような者がついて行って居る、其又遥か後から軍人、資本家が行って居る様なわけで精神家などは殆んど行って居らぬ様な状態である、
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東京朝日新聞 1924.6.17-1924.6.18(大正13)
国際商品としての護謨の話 (上・下)
国際財話

而も本邦人が南洋の護謨(ゴム)栽培事業に着手したのは、一九〇七年頃のことであって、当時は所謂娘子軍並に之に寄生した不逞漢の跋扈した時代であった

中外商業新報 1924.7.15-1924.7.17(大正13) 
露支の真中に置れた日本商品 (上・中・下) 
ハルピンにて 清沢生

今はロシア人約十五万五千支那人十八万五千人に対して日本人は約三千人に過ぎず、それも会社員が半分、醜業婦芸者等が六七百人で、残る一千人程が土着の人々、その内で大通りでロシア人を対手に商売しているのは海村という商店一つあるに過ぎない。
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大阪毎日新聞 1924.9.27(大正13) 日
露交渉は至難な状態に在る 
東京の訓電の早きを望むとカラハン氏嘆じて語る

浦塩(ウラジオストク)居留民
日露交渉の解決を切望 日本軍撤退後に於ける浦塩在留邦人は絶えず移動して居るため的確な調査が出来ず果して何人在住して居るか不明であったが二十六日朝敦賀入港の嘉義丸で帰来した船客の談によると今度日本居留民会が調査した九月一日現在の浦塩在留邦人は戸数二百十八戸、男三百九十二名、女二百六十五名、合計六百五十七人で職業別にすれば商人が一番多く四十九人、之に次ぎ漁業者九人、各種職人九人、会社銀行員及び通訳各七人でその他は大同小異で職業は理髪、製靴、時計、洗濯、完公吏、運送業、料理業、新聞通信員、裁縫師等で特殊のものでは医師二名、歯科医一名、僧侶一名である、又在住の女は殆ど家族であるがその中に看護婦三人、産婆一人の外芸妓三人、遊芸師匠二人、仲居十人と更に以前のようなことはないが世界の何処にでも跋扈して居る醜業婦が三十人程居ることは注目すべきことである、次に在留民が非常に遺憾に思って居るのは無職者が二十二人程あることで更に行方不明者が男七人、女七人計十四人と在監者が二人あることである、
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台湾日日新報(新聞) 1926.7.20-1926.7.24(大正15)
日本と東印度との関係由来と現状 (一〜五)

(二) 日清日露戦役後国威発揚貿易大に進展 南洋倉庫専務 半田治三郎氏談
然し多少ながらも日本と東印度の貿易は続けられ明治二十九年の日清戦争後日本の強国である事が世界的に認められ明治三十年九月に新たに和蘭と結ばれた通商航海条約によって邦人は欧洲人と同一な待遇を受ける事になったその以前は支那人やアラビヤ人と同様の取扱を受けていた我練習艦隊の東印度に寄港したのも同年であってそれ以来我貿易の統計表にも東印度欄が設けられたが貿易は勿論微々たるものであった当時在留邦人の大部分は例の娘子軍と之に相手する小売商人で直接貿易なる者は皆無であった
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中外商業新報 1927.4.11(昭和2)
長江沿岸に於ける在留邦人の分布
今回の引揚が如何に打撃か
亜細亜局の調査

なお海外発展には附もののような芸娼妓酌婦等の如き賤業婦も御多聞に洩れず此処では可成り兆梁を擅にし、三百二十九人という数字を示しているが、以上の総ての数字は言うまでもなく領事館に申告されたもののみに依る算定であるから、成都の奥、西蔵(チベット)との国境近くにある遠隔地には多少申告洩れの者があるものと思われる、

台湾日日新報(新聞) 1928.6.4-1928.6.10(昭和3) 
日本人と蘭領印度の農業鉱業 
南洋倉庫専務取締役 半田治三郎氏

欧洲戦争以来日本と東印度との関係は密接になって貿易関係に就ても明治六年頃は僅かに三百万円位であったのが現在は一億数千万円に上り約三十倍の尨大なる増加を示している、ところが貿易関係は異数な膨張であるが日本人の在住民の数からいうと、明治時代の三千六百人が現在は四千人であって殆んど数字の上に於て増加を見ない、尤も内容から云えば発展の著しいものがある明治六年ごろの三千六百人の三分の二は所謂帝国海外発展の急先鋒であった娘子軍とそれに附随した連中で占めていたが、現在ではそれぞれ真面目な商業なり農業に精進している方であって娘子軍の団体は僅にスマトラの一隅に巣喰っている位である、
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台湾日日新報(新聞) 1928.8.7-1928.8.21(昭和3) 
最近の南洋事情 
華南銀行副総理 有田勉三郎氏談

日本の海外発展の道程は皆様良く御承知の通りであって、甚だ憚り多い事でありますが、所謂娘子軍が常に先駆を為してこれに続いて売薬其他の行商人が行き其跡から雑貨商が日本商品の販路開拓に任じ、最後に一流大手筋の会社商店が店舗を開設する順序となっている、
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満州日日新聞 1928.8.15-1928.9.1(昭和3) 
真夏の松花江下り (1〜13) 
秋山生

ハルビンの矢倉に住んでいたおせいさんというは不幸な女であった彼女は矢倉に女中奉公中昨年の結氷期前に遂に島原、天草の女等が一度は辿る運命の道を踏まねばならなかった、最後の便船で彼女は満洲里から姉の瀕死の病気を見舞うため三姓へ急ぐ女と共にハルビンを出発した、其途中船は馬賊のために襲撃され数名の支那人は重軽傷を負うて斃れるものもあったがおせいさんは懐中物も略奪されず無事三姓に到着したのであった、道伴れの女は全部金子を強奪されたが彼女には少しも手をかけなかったのである、これは実に不思議の運命であった−と井川さんは説明した、三姓に住む三十余名の日本女の半面にこうした幾多の物語が秘められているのだ、十余年日本の土を踏まぬ彼女の運命!其れは涙なくては聞かれぬことであろう!
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満州日日新聞 1929.2.26-1929.3.3 (昭和4) 
満洲に於ける庶民金融の現勢 
大連 高橋徳夫述

植民地で儲かる仕事は「金貸と女郎屋」とは卑近な言葉だが一種力強い箴言となって一般に認識されて居る。
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台湾日日新報(新聞) 1929.6.16-1929.6.27(昭和4) 
南洋で有望な産業諸々相 日本の投資一億余 
志摩生

世界大戦以前の南洋は、真珠採収が非常な盛況を呈したものだ所謂海底に瓊璃を探ぐるもので、裸一貫の海国男児が彼の骨格逞ましい真黒な身体を、一日海中に浸けると何十金という大金が其衣嚢へ転がり入る。ここが日本男児である。其勇敢なる、其大胆なるには外人も眼を円くして驚いたものだ一時はドボやロンボックや、アルマエラの辺りをかけて数千の真珠漁り邦人が群集したものだ、而して一日の報償を懐ろにして塒に戻る彼等は直ぐ其足で異った或方面を漁りに廻るそこで娘子軍も殖えて行く、彼女等は其繊腕に襟をかけて明日とも知らぬ命の持主の海の人々を操縦するそれはそれは盛なものであったのだ 

六 
それが一九一四年の世界大戦となって、さる贅沢品の輸出はばったり止まることとなり、図らずも出来た昨日の日本町も、今日は本来の絶海の孤島となって了った。漁夫等も逃げて帰れば娘子軍も逃げて帰る。其娘軍の中には随分尤物もあったようだ。私が爪哇の××邦人旅館で見た千代ちゃんというのも其一人であったが一寸ここ台湾辺では見られない優品であった。アノ声で盛んに蜥蜴‐否海蛇を喰ったのだろう。
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大阪時事新報 1931.5.26-1931.6.26(昭和6) 
アフリカ踏破の旅 
荘司茂樹

遠く二十年の昔、既にこのアフリカの小島に日本人が根を下していた、例の天草の娘子軍だった、現存している四人の彼女等の話を案内人に聞かされた余は、日本人の面汚しと罵る前に、二昔以前に暗黒の此地へ、はるばる印度洋を越えて遠征しなければならなかった彼女等を思い返し、寄る年波を異郷に送り返して、故国に憧れる哀話を、偲んでは暗然とせざるを得なかった。
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時事新報 1931.6.29-1931.7.14 (昭和6)
椰子の葉蔭恋し南洋の旅

サイパンの電灯は十一時半には消えてしまう。電力が不足しているからである。斯て南国は静かに深更に入る。この一面に対して又植民地に附ものの見悪い他の一面がある。げびた傾斜の色巷からは単調なおきなわ蛇味線の音がするだらしない女たちが三四人、客待ち顔に立っている
此の小さいガラパンに遊女屋の多いには全くあきれた。
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満州日報 1932.7.25-1932.7.29(昭和7) 
満洲国の手に帰した呼海鉄道を往く 
ハルビンにて 神蔵特派員発

▲…北満を支配するもの…▲
〇団幹部及び実戦の勇士から懇切な説明を受けて充分状況を聴いた吾々は二十一日朝帰途についた、連日の雨はまだ小止みなく降り続いている、比較的高地である海倫附近は夏とはいいながら夏服では寒い位である、娯楽機関のないこの奥地に駐屯する兵士の無聊さを気の毒に思った、然し皇軍の威力に依って沿線は全く安定したので勇敢な女軍は続々入り込み綏化、呼蘭、海倫には数日前からそれぞれ十数名の娘子軍が近く営業開始の準備中だという、綏化には文化の魁けたるカフェーさえも開店され環境とは馬鹿にかけ離れた「酒は涙か」のレコードが旅行者を喫驚させた、
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神戸又新日報 1932.11.12-1932.11.19(昭和7) 
世界の宝庫ブラジル 
行け一家挙って 
佐藤新吉氏談

今日海外に在る女性にも男性に劣らぬ勇敢さと円満なる性質を発揮してよく男性の事業を援け蔭ながら国家民族の発展に貢献している事実は決して少くないのである、然るに一方又吾国の体□を汚しつつある娘子軍も少くないのであるからこの際婦人の猛者によって海外事情を極め以て我国の婦人が男子と伴って海外に進出し人類の平和と幸福の増進に又優秀なる民族の繁栄の招来に努められる様に一大覚醒を三千万の婦人に渇望するものである(おわり)


報知新聞 1933.8.10-1933.8.19(昭和8) 
日満の新動脈を廻って (A〜I)

鮮満行旅客激増鮮海丸は三二〇〇トンの貨客船、定員一等十二名、二等二十七名、三等二百二名に対して船客は私を加えて五十一名、ついでに職業別に見ると無職十四、学生八、商人八、料理業六、建築業六などさすがに東北、北海道の人が多い、今年の一月から七月までの新潟経由による満鮮向旅客は四百三十二名、昨年にくらべてザッと七倍、満鮮の新興気分がうかがわれる、婦人客も多い、以前は芸妓、酌婦などの娘子軍に限られたが、昨今は家族の呼び寄せが多くなったそうだ、
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大阪毎日新聞 1933.9.4(昭和8) 
緊張の国境へ大アムール河を溯る 
思いきや此僻遠に邦人女子十四名日章旗を仰いでただ感泣 
紅葉織りなす両岸の美観 
駐満海軍部参謀佐々木少佐(談)

黒河から上流では恐らく日本人の影は見られまいと思っていた私らの想像は見事裏切られた、この僻遠の地に十四名もの日本人がいたのだ、それはみな女であった 
ここに二名、金山鎮七名、旺哈達一名、鴎浦一名、漠河三名いずれも四十歳から六十五歳の人人で彼女らは数十年来このあたりに住んでいて今は満州国人の妻になっている、ここでは重病の床について余命幾許もないという哀れな一日本婦人がいた、そのことを聞いた私達は艦からその茅屋を訪ねて行った、日本海軍の将校である旨を告げ何処へ行くのにも離したことのない日章旗を出して見せると病床からからだを起したその女は敬しく日の丸の旗に合掌した 
「明治の天子様がお亡くなりになった年に満州に来てとうとうこんな奥地にまで流れて参りました」の言葉が涙とともに辛うじて語られた、彼女も気の毒な同胞の一人である、去るに臨んで金一封を見舞いのしるしに与えて来た、砂金の街にいる七名の日本人は多数の村民にまじって艦の着く岸に出迎えてくれた、艦上高く、翻る日章旗を遠く見た時彼女らのある者は手をあげ、ある者は飛び上り互に手をとり合って感泣したそうである、満州国の最北端この僻遠の地にも大和なでしこの花が咲く、彼女らは今も故国を忘れていない郷里を後にこの奥地に入ってから二十年、この日本国旗を拝んだのは幾年ぶりのことだろう、私達はその七名の彼女らとその子供を艦の食堂に招いて食事をともにしながら四方八方の話をした、彼女らの日本語は最早、奇妙な語調に変化している、天草、島原地方の人が大部分だった、その半生の運命を聞くことは彼女らの心中を察して差控えたが私達が漠河の奥地を究めて帰って来た時には即製の日の丸の旗をふりなから意気揚々江岸に出迎えていた 
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満州日報 1933.9.30-1933.10.3(昭和8)
黒竜江上流を観る (上)
スンガリーよりアムールへ
駐満海軍部司令部海軍一等水兵 坂津芳一手記

黒竜江沿岸に住居して居る日本人は黒河上陸奥地にも十余名点在して居る大部分は女で天草、島原の出身が多い、彼等の前身は察すれば解ることである、現在彼等は満洲国人の妻となって無事に其の日を送って居る、中には子供まであるものも居た、私達が行った時船の高い所に掲げてあった大きな日章旗を遠くから眺めて懐しい祖国の情にうたれ自然に涙が出たと云って居た
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大阪朝日新聞 1933.10.17(昭和8) 
珊瑚礁望む桟橋に山なす『お国の産物』! 
椰子林の邦人小学校 
第二世も算盤稽古 
ボルネオ、セレベスの記

ここの日本人会長で三十年も内地に帰らないという門教丸氏の言葉によれば、サンダカンの日本人は全部失敗したことになる、西にシンガポール、東にサンダカンと娘子軍の陣営として知られたこの地に、日本人がどっと押かけたのは大正七、八年の好況時代だった、
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大阪毎日新聞 1933.10.18(昭和8) 
三十余年ぶり大阪に来てモダン女浦島は驚く 
担う誉れは、サラワク王国の蔵相夫人パネル仲子さん歌舞伎座へ

仲子さんの白百合のような姿は南島の椰子の葉かげに娘子軍のみを見なれた英国人たちにどんなに美しく映ったことか!!俄然、当時サラワク汽船会社支配人だったエドワード・パネル氏から求婚されて正式に結婚、いまはすでにドリイ(一七)というお嬢さんとチャーレス(一五)という息子をもち、この二児は王様のお気に入って寵愛をうけ南海の王国に親日の雰囲気をつくりだしつつ新らしき躍進日本の新精神を南十字星座の下の王国に生かしている
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