強制連行

日本軍が占領地で行なった強制労働


「軍事極秘」印
富参第三八二五号
治安旬報十二月一日―十日
一 近時物資の逼迫と共に労力米穀の供出を繞り軍政末端と原住民の軋轢激化の傾向にあり。特に之等事象は僻地に多く発生しありて該地区への啓蒙宣伝対策に万遺憾なきを期しつヽあり。(1枚目)

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レファレンスコードC14110751300(1枚目)
防衛省防衛研究所>陸軍一般史料>南西>マレー・ジャワ>爪哇憲兵隊電報受発簿 昭19年

ダバオ」向人夫強制輸送ニ関スル件報告
昭和十九年四月二十四日 「カリガラ」警備隊長 中間大尉
首題の件別紙の通報告す
追而本報告は師団には報告済なるに付為念

ダバオ」向人夫強制輸送ニ関スル件報告
一、全般の経過
(1)昭和十九年三月二十日陸軍嘱託比嘉一雄「カリガラ」警備隊に来り「ダバオ」向人夫に関し左記の如く述べ且民衆大会を開き人夫の件に関し宣撫し帰還せり

左記
(イ).「ダバオ」向人夫を「カリガラ」に於て約一千名の募集するに方り、警備隊長の責任に於てなす事を参謀長に許可を得たり。
(ロ).人夫賃銀は一日三円程度にして衣食住共供与し諸種の待遇は上なり。
(ハ).募集期日は四月十日にして、四月五日迄に決定し置かれ度、又輸送は北川参謀に依頼し自動貨車による予定

(2)警備隊長中間大尉は二十日比嘉嘱託より話し済みの町長に四月五日迄に人員を決定すべきを約したり。四月五日調査の結果僅かに十五名を得たるのみなり。一千名に対する十五名は其懸隔余りに大なるを以て大に町長を督励し隣組に割当てる等の手段により所定の人夫得たき旨を述べたり。

(3)四月九日歩兵第二十連隊長より左の電話を受信せり。
「『ダバオ』向人夫十五日頃輸送するに付同日迄に準備され度「カリガラ」に於ける確実なる人夫数を報告すべし
同日渡経理部出張す
尚「バルゴ」警備隊長にを(?)伝へられ度」
右電話に対する返電左の如し。
「(イ)「ダバオ」向人夫数 「カリガラ」約五十名程度
              「バル語」目下不明なるも数名程度
(ロ)警備隊長強硬に斡旋の結果右の人夫を得たるものにして強制的に強要する権利なく困却しあり」

(4)四月十六日となるも何等音沙汰なく人夫の件如何と思案しありたるも四月十九日突然再び比嘉嘱託「カリガラ」警備隊を訪問し左の如く約束し「タクロバン」に帰還せり。
「(イ)四月二十二日又は二十三日約一千名収容可能なる輸送船を「カリガラ」に廻航するを以て同日迄に準備され度
(ロ)人夫は強制的手段にあらざれば募集不能なるに付強制するも可なりと参謀部の認可を得たり

(5)二十一日一八・〇〇中間大尉は大隊長に対し左の如く報告せり。
明二十二日又は明後二十三日「ダバオ」向人夫少くも五百名以上を「カリガラ」より輸送するに方り一斉に急襲的に土民を乗船せしむべきに付御承知相成度。

(6)四月二十二日一一〇〇輸送船「カリガラ」に入港続いて比嘉嘱託は「バス」二輌○○「トラック」二輌を以て「カリガラ」に到着、本日の輸送に関し協力を依頼せり。
中間大尉は四月十九日の約束に従ひ代理町長に命じ一三・〇〇より民衆大会を開催すべく命じたるも、集合せざるを以て兵を派遣し民衆大会の実施さる旨を告知し一五・〇〇約五百名の男集合せり。仍て労働に耐へざる者、役人教師等を除き、約三百五十名を選定したり。之等三百五十名に対し「ダバオ」向人夫として約一年間日給三円程度、衣食住は供与され、其他の娯楽等良好なるを以て十分安心して日本軍に協力すべき旨を述べて概ね納得せしめ一六〇〇乗船開始二〇〇〇乗船完了せり。
一方比嘉嘱託は「バルゴ」「トンガ」「ハロ」より約三十名を募集し来り二二・〇〇乗船し二三日〇・五〇〇〔ママ〕出港せり。

二、爾后採りたる処置手段
(1)代理町長に対し
本日の人夫は日本軍に積極的に協力して貰ひたき為のものにして今迄「カリガラ」の住民の協力は認められず。仍て強制的に実施せるものなり
彼等は彼等に述べし如く人夫として一年間良好なる待遇の下に於て働き、帰る時は必ず多くの金銭を持参するものなれば安心して家族は生業に励むべしと諭し概ね納得せしむ。

(2)大隊長に対する報告(二十二日 二〇〇〇)
(イ)「ダバオ」向人夫約四〇〇名一五・〇〇強制的に集合せしめ二〇〇〇乗船完了せり。「バルゴ」より約一〇〇名計五〇〇名なり。
本夜輸送船は出港する予定
(ロ)人夫募集后の民心の動向を監視す。
註「カリガラ」より約四〇〇名とは比嘉嘱託の募集せる三十名を含む。
以上

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レファレンスコードC13071860200
防衛省防衛研究所>陸軍一般史料>比島>防衛>第3機関銃隊報告綴 昭和19年

「極秘」印
労務動員及充足計画
第一 方針
各州(市)は左の要領に基き万全の施策を講じ以て其の割当てられたる労務者は必ず之が全数供出を期すべし

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レファレンスコードC14060660200(1枚目)
防衛省防衛研究所>陸軍一般史料>南西>軍政>馬来各州(市)長官会議関係 関係書類綴 昭和19.3

別冊第二
馬来軍政の概要(素案)
史実部

三、労務
軍政初期に於ける馬来の労務は護謨園休止の為過剰なりしが軍政の進展と共に産業殊に重要国防資源の供出、自給自足諸施策の強行となり労務に不足を告ぐるに至れり。昭和十八年七月頃より泰緬甸鉄道工事を促進する必要に依り馬来より十万の労務者を供出することを指示せられたり。当時十万を出すことは邦人進出商社の着手したる重要国防資源の供出事業よりも引き抜かざるべからざる状態にして重ねての供出命令により強制的に供出したるに民心把握の上に於ては頗る遺憾の状態を発生せり。其のあとクラ地境鉄道の布設も馬来の苦力を以てすべしとの指令あり。之に供出したる人員二万人なり。次で馬来義勇軍義勇隊の編成を命ぜられたるも既に十数万の青年を供出し(?)戦前に於ては毎年昭南に三万人の労務者を南支より移入したることも杜絶したる状況に於て爪哇の如く大舞台を編成することは不可能の状態なりき。
(註)
1、泰緬鉄道、クラ地境の鉄道工事は泰人を使用することを巧妙に計画し実施すること
2、馬来の十倍の人口を有する爪哇人を計画的に使用すること
を方面軍、総軍に於て計画せざるべからざりしなり。其の場当りの指示は軍政諸施策を毒すること多きを猛省せざるべからず。

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レファレンスコードC14060782800・C14060783200
防衛省防衛研究所>陸軍一般史料>南西>軍政>南方作戦に伴う占領地行政の概要 昭和21.5

三、労務
軍政初期に於けるマライの労務はゴム園休止の為過剰なりしが戦局の進展は作戦準備に多大の労力を急襲せられ又産業殊に重要資源の供出、自給自足等の諸施策実行の為の労務に不足を告ぐるに至れり。昭和十八年七月頃より泰、緬甸鉄道工事を促進する為マライより約十万の労務者を供出することヽなり為に重要資源の開発に要する労力を割愛せり。又一般に他地域に出稼労務は現地人の希望せざる所にして民心把握の上に於ては頗る遺憾の状態を発生せり。其の後クラ地境鉄道の敷設の為約二万人の労力供出命令ありて更に労力不足を告げたり。次でマライ義勇軍義勇隊の編成を命ぜられたるも其の要求を充足することは不可能の状態なりき。

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レファレンスコードC14060754500
件名標題(日本語) 別冊其の2 マライ軍政の概要/3、労務 4、財政、経済
階層 防衛省防衛研究所>陸軍一般史料>南西>軍政>南方作戦に伴う占領地行政の概要 昭和21.7

「極秘」印
昭和十九年度軍政施策に関する指示
昭和十九年一月
南方軍総司令部

二 治安の確保に就て
敵の反攻企図に基く宣伝謀略等は益々積極執拗化するのみならず物資の不足、物価の昂騰、労働力の強制供出等に基く生活不安は今後愈々加重すべく又敵側の謀略行為に依り民心離反、治安悪化の虞大なり。故に治安確保に関しては万全の対策を講ぜざるべからず。・・・

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レファレンスコードC14060762600・C14060763000
件名標題(日本語) 1.軍政施策に関する指示/2 治安の確保に就て
階層 防衛省防衛研究所>陸軍一般史料>南西>軍政>南方軍政関係資料 その1 昭和19年度

「軍事極秘」印
総務部長会同研究懇談事項
昭和十九年三月
爪哇軍政監部

労務充足対策
(一)充足対策
(1)緊急且大量の労務需要に対処する為昨年第一回中央参議院の答申に基き各州に労務協会を設置し宣伝、労務者の募集、詮衡斡旋、残置家族の援護に当らしむ。
(2)昨年十月十八年度下半期労務動員計画を樹立し各州毎に州内、州外、島外供出責任数を定め労務者の状況に応じ各責任数に対応する予備登録をなさしむ。
(3)「ジャワ」医事奉公会を協力せしめ労務動員の対象たる予備登録者の検査並に巡回診療を実施し健康管理方策を講(?)ず。

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レファレンスコードC14060768600(18枚目)
件名標題(日本語) 4.総務部長会同研究懇談事項 昭和19年3月
階層 防衛省防衛研究所>陸軍一般史料>南西>軍政>南方軍政関係資料 その3 昭和19年度

南総経交第 号 一九・二・一五 南方軍経理部
インフレーション対策 
Ⅱ 生活必需物資の増産
五、労務者の動員配置
(四)衣類、日用雑貨の自給は今後共努力するものにして、自給
当地区食糧自給の為に必要とせらるる二十万人の労務者(米の供出所要量十万瓲・・・耕作に必要なる労務者)を獲得することは尋常の手段を以ては不可能なり。故に戦争の言段階に於ける緊急業務を指定して右以外の業務に従事しある成人男子は速に転業せしむるを要するものなり。・・・第八項の生活必需物資の配給統制を利用し、数ヶ月の猶予期間内に所定の緊急事業へ転業せざるものは其の家族に対して配給を停止するの強行手段に訴ふるを適当とす。・・・警察力による監察を要すること勿論なり。(17~19枚目)



ミャンマーの「建設奉仕隊」(9枚目)https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C14060713200?IS_KEY_S1=%E5%8A%B4%E5%8B%99%E8%80%85%E3%80%80%E4%BE%9B%E5%87%BA&IS_KIND=MetaSummary&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=InD&男子の従業職種を制限し幼年者女子を以てする新労務者の獲得(10枚目)https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C14060768700?IS_KIND=MetaSummary&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=InD&IS_KEY_S1=%E5%8A%B4%E5%8B%99%E8%80%85&IS_LGC_S2=AND&IS_TAG_S2=InD&IS_KEY_S2=&IS_LGC_S3=AND&IS_TAG_S3=InD&IS_KEY_S3=&IS_LGC_S4=AND&IS_TAG_S4=InD&IS_KEY_S4=&IS_LGC_S5=AND&IS_TAG_S5=InD&IS_KEY_S5=&IS_LGC_S20=AND&IS_TAG_S20=InD&IS_KEY_S20=&IS_LGC_S21=AND&IS_TAG_S21=InD&IS_KEY_S21=&IS_LGC_S22=AND&IS_TAG_S22=InD&IS_KEY_S22=&IS_LGC_S23=AND&IS_TAG_S23=InD&IS_KEY_S23=&IS_LGC_S24=AND&IS_TAG_S24=InD&IS_KEY_S24=&IS_TAG_S25=InD&IS_KEY_S25=&IS_LGC_S26=AND&IS_LGC_S32=AND&IS_TAG_S32=d4&IS_LGC_S7=AND&IS_TAG_S7=ddc&IS_LGC_S6=AND&IS_TAG_S6=ddt&IS_LGC_S14=AND&IS_TAG_S14=d9&IS_LGC_S15=AND&IS_TAG_S15=d6&IS_TAG_S19=d11&IS_LGC_S19=AND&IS_LGC_S12=AND&IS_TAG_S12=iFo&IS_KEY_S12=&


朝鮮半島での労務動員はただの「徴用」、というウソ

50数年前の文書において外務省は、朝鮮半島における「徴用」は1944年9月からとしている。
外務省「在日朝鮮人の渡来および引揚げに関する経緯、とくに、戦時中の徴用労務者について」(記事資料 昭和34年7月11日/ 昭和35年2月外務省発表集第10号より抜粋)

元来国民徴用令は朝鮮人(当時はもちろん日本国民であつた)のみに限らず、日本国民全般を対象としたものであり、日本内地ではすでに1939年7月に施行されたが、朝鮮への適用は、できる限り差し控え、ようやく1944年9月に至つて、はじめて、朝鮮から内地へ送り出される労務者について実施された。

かくていわゆる朝鮮人徴用労務者が導入されたのは1944年9月から1945年3月(1945年3月以後は関釜間の通常運航が杜絶したためその導入は事実上困難となつた)までの短期間であつた。
https://www.sanae.gr.jp/column_details415.html
これのことか
厚生省発動第二〇五号
半島人労務者の移入に関する件
決戦下生産増強上労務者の増員確保の緊要なるに鑑み半島人労務者の移入の促進を図るの要あり仍て別紙半島人労務者の移入に関する件を提出す
右閣議を請ふ
昭和十九年八月七日
厚生大臣 広瀬久忠
内務大臣 大達茂雄
内閣総理大臣 小磯国昭殿

半島人労務者の移入に関する件
一 移入労務者に付新規徴用を実施すること
 右に伴ひ要すれば国民徴用令を改正すること
二 新規被徴用者に付援護の徹底を期すること
 尚其の他の移入労務者に付ても新規被徴用者に●(?)じ援護を実施すること

アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp 
レファレンスコードA03010212100

つまり以下の強制連行は、1944年9月以前であり、つまり「徴用」ではない。
(資料1)
住友鉱業の「半島人移入雇用に関する件」(1939年9月22日
1.募集事務―――総督府に於いては左記事由に基づき内地移住につき積極的援助をなす
イ.労務者動員計画遂行に協力すること
ロ.本年度南鮮一体の旱魃による救済のため 従って募集は募集取締規則に基づく各社の募集従事者による募集と言うことになつて居るが実務は前記事由により朝鮮官権によって各道各郡各面に於いて強制供出する手筈になつて居る、即ち警察に於て割当数を必ず集める之を各社の募集従事者が詮衡(選考のこと)することになって居る
(朴慶植編「戦時強制連行・労務管理政策」①、P298~299)
http://www10.ocn.ne.jp/~war/kyousei.htm 

(資料2)
北海道炭礦汽船株式会社の霊光郡送出責任者が釜山の駐在員に宛てた1944年5月31日付書簡のなかで、直接の体験ではないが、霊光郡において「集合日指定時間内に120名割当に対し参集せる者36名よりなく(之れも面にて強制的に連行せるもの)」、このため「郡庁職員9名警察署高等経済係員及面職員を総動員、寝込みを襲ひ或は田畑に稼動中の者を有無を言はせず連行する等相当無理なる方法を講し」て動員対象者を確保した事件があったことを伝えていた。

(資料3)
復命書
嘱託 小暮泰用 
依命小職最近の朝鮮民情動向並邑面行政の状況調査の為朝鮮へ出張したる処調査状況別紙添付の通りに有之 右及復命候也
昭和十九年七月三十一日
管理局長竹内德治殿

京城に於ける有志懇談会席上に於て朝鮮人有志の希望する所の要点を記述することにする、尚出席者は左の通りである。・・・
右記各有志から席上希望として述べられた要点の内主なる項目のみを挙ぐれば
(ヘ)今後朝鮮より供出する労務者は従来の如き募集又は官の強制斡旋方法を改め指名徴用制を速かに実施すること 
・・・

七、朝鮮内に於ける労務規制の状況並に学校報国隊の活動状況如何
(イ)、朝鮮に於ける労務動員の方式
凡そ徴用、官斡旋、勤労報国隊、出動隊の如き四つの方式がある。
(ハ)、動員の実情
徴用は別として其の他如何なる方法に依るも出動は全く拉致同様な状態である。其れは若し事前に於て之を知らせば皆逃亡するからである、そこで夜襲、誘出、其の他各種の方策を講じて人質的掠奪拉致の事例が多くなるのである、
アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp 
レファレンスコードB02031286700

(資料4)
思想対策係「半島人問題」という文書(水野直樹編『戦時期植民地統治資料』第七巻、柏書房、一九九八年、に所収、原本は法政大学大原社会問題研究所所蔵の協調会文書)にはこの点をより明確に示す記述がある。
この文書は、協調会に設置された「思想対策研究会」のなかで行った警察や企業関係者からの意見聴取をまとめたものと考えられ、成立は一九四四年八月頃と見られる 。
この文書で注目されるのは、石炭統制会勤労部長の言葉と考えられる次のような文言が記載されていることである。
 すなわち「朝鮮に於ける募集状況を見るに、曽ては野良で仕事最中の者を集め、或は寝込みを襲ふて連れて来る様な例も中にはあって其の誤れるや甚しい。計画的に募集の準備をして供出することが切に要望される所以である」というものである。

朝鮮半島における労務動員は3段階あったとされるが、そのいずれも強制があったことになる。
山口は、日本政府の労務動員計画を3段階に分け、①39年1月からの「募集形式」②42年からの「官斡旋方式」③44年9月からの「徴用令方式」があったとし、その最初の募集の段階から、行政・警察当局による強力な勧誘があった。したがって「募集とは言っても実態は強制連行」であると主張している[26][27]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E5%BC%B7%E5%88%B6%E9%80%A3%E8%A1%8C

39年1月からの「募集形式」 →強制資料あり(資料1)
42年からの「官斡旋方式」  →強制資料あり(資料3) 
44年9月からの「徴用令方式」 →これが「徴用」もちろん強制


日本政府としては、この3段階の労務動員のうち最終段階である「徴用」だけをとりあげて、つまり国民に徴用の部分だけを見せて、合法だったと主張しているようだ。
世界遺産登録 外務省「当時は合法」と強制労働の違法性を否定 「情報センター」への韓国関与は明言せず 産経新聞 7月6日(月)10時48分配信

政府は昭和14年に国民徴用令を制定し、勤労動員を実施。当初は朝鮮半島出身者は除外されたが、戦況悪化に伴う労働力不足から19年9月以降は適用された。政府は、徴用は国内法の下で合法的に労働が行われたとの認識で、この問題をめぐり、政府見解や公式文書などに「強制」の文言が記述された前例はない。 水嶋参事官は「意思に反して日本に連れて来られた方もいたことは否定できないが、合法だった。違法な形で強制労働を行ったことを意味するものではない」と説明した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150706-00000533-san-kr

「forced to work」は「誰が見ても『強制労働』」 世界遺産で外交敗北、安倍首相ツイッターは「炎上」状態 J-CASTニュース 7月6日(月)19時24分配信

7月6日午前の記者会見で、菅義偉官房長官は、 「強制労働ではまったくない旨、岸田大臣から明確に述べている」 と述べるにとどめ、午後の会見では、 「(国民総動員法に基づいて定められた)国民徴用令に基づく朝鮮半島出身者の徴用が行われたことを記述したということ。強制労働を意味するものではないということを、かねてより申し上げている」 と述べた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150706-00000006-jct-soci&p=1

菅氏「朝鮮半島出身者の徴用は強制労働でない」 7月6日 20時27分

これに関連し、菅官房長官は午後の記者会見で「1944年9月から1945年8月の終戦までの間に、国民徴用令に基づいて、朝鮮半島出身者の徴用が行われた。これはいわゆる強制労働を意味するものでは全くないというのが、政府の従来どおりの見解だ」と述べました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150706/k10010141251000.html
確かにそれはウソではないかもしれない。ウソではないかもしれないが、しかし「徴用とは別に、あるいは徴用以前から、強制連行があった」という都合の悪い事実を隠していることになる。


ちなみに外務省は冒頭の文書で、徴用以外の官斡旋などは「募集に応じて自由契約」だと主張している。つまり強制性は無かったと主張している。
 1939年末現在日本内地に居住していた朝鮮人の総数は約100万人であつたが、1945年終戦直前にはその数は約200万人に達していた。 そして、この間に増加した約100万人のうち、約70万人は自から内地に職を求めてきた個別渡航と出生による自然増加によるのであり、残りの30万人の大部分は工鉱業、土木事業等による募集に応じて自由契約にもとづき内地に渡来したものであり、国民徴用令により導入されたいわゆる徴用労務者の数はごく少部分である。 しかしてかれらに対しては、当時、所定の賃金等が支払われている。
https://www.sanae.gr.jp/column_details415.html

一般人外国人は官斡旋などの単語は知らないだろう、ましてその強制実態を知るはずもない、と高をくくっているのだろうか。
 

あとテレビで人気の八代英輝弁護士も、徴用の話はしているようだが、徴用以外に強制動員があったことをどう考えるんだろうか。
八代英輝弁護士が世界遺産登録をめぐる韓国の主張に猛反論
2015年7月6日 22時0分 トピックニュース

さらに八代氏は、日本側が「被害者を記憶にとどめるため」の情報センターの設置を検討すると発表したことについて「なぜ日本が徴用工の韓国のために情報センターを自分たちの費用で作らなければならないのか」と違和感を示した。 その理由について八代氏は、強制労働では対価は発生しないが「徴用」の問題では日本国民も動員されており、賃金の払いの合意もあったと説明し、韓国から「Forced Laberとされるいわれはない」「今回の件、地元は大喜びかもしれませんが、手放しでは喜べないなという後味の悪いものになってしまいましたね」と厳しく非難した。
http://news.livedoor.com/article/detail/10316665/

前衆議院議員の山田宏さんもそう。なぜみんな「徴用」の話だけするんだろうか。官斡旋を知らないんだろうか。
前衆議院議員 山田宏 ‏@yamazogaikuzo

慰安婦も英語では「forced」と表現されることほとんどで、これを韓国は「強制連行」「性奴隷」とさらに言い換えていった。そもそも「徴用」は、戦時一時期、全ての日本国民に一定の給与の支払いの下での勤労を法制化したもの。日本人であれば、その意思に関わらず法には従うのが当然のこと
276 リツイート 78 お気に入り 17:02 - 2015年7月5日
https://twitter.com/yamazogaikuzo/status/617846155121004545
 
その他、「徴用」の話だけする人たち。
世界遺産登録 民主、河野談話と混同させる意図? 安倍首相「強制労働を意味しない」と否定 産経新聞 7月10日(金)13時31分配信

安倍晋三首相は10日午前の衆院平和安全法制特別委員会で、世界文化遺産への登録が決まった「明治日本の産業革命遺産」をめぐり、韓国側が一部施設で働いていた朝鮮半島出身者への「強制労働」と主張していることについて「強制労働を意味しない」と否定した。 首相は、世界遺産委員会における日本政府が述べた「forced to work(働かされた)」の意味について「対象者の意思に反して徴用されたこともあったという意味だ」と語り、戦時中に国民徴用令によって行われた朝鮮半島出身者の徴用が国際法上の強制労働には当たらないと主張した。民主党の細野豪志政調会長の質問に答えた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150710-00000537-san-pol

次世代の党・和田政宗議員
2015年07月08日 16:08
どうした日本外交

”強制労働”は事実に反する 世界遺産登録にあたり、我が国が「force to work」という用語で強制労働があたかもあったかのような誤解を与えてしまったことは、してはならない譲歩を政府がしたわけで、このようなことは断じて許せない。 政府は「強制労働を意味しない」と言うが、国際社会はどう見るか。韓国の宣伝工作もある。 徴用工は、”意に反して”徴用された人もいるが、労働の対価として給与が十分に払われており、強制労働には全くあたらない。 このような交渉を政府がなぜ行ったのか、来週外務省より聴き取りを行う予定だが、このようなことが二度と無いよう、また現状を打開するために徹底的に追及しなくてはならない。
http://blogos.com/article/121410/

自民党・佐藤正久議員
2015年05月08日 19:47
【明治の産業革命世界遺産、韓国の登録反対運動】

また、本遺産群は1850年代から1910年の約50年の日本の産業革命施設だ。一方、朝鮮半島から日本に徴用工が派遣されたのは1944年の9月から45年の3月までの7ヶ月のみ。違う年代の事象を取り上げて世界遺産の価値を否定するのは適切出ない。
http://blogos.com/article/111817/

前議員・中山成彬氏

中山なりあき‏@nakayamanariaki 世界遺産登録問題は説明文に朝鮮人の徴用の記述を載せることで折り合ったようだが、慰安婦の大半が日本女性だったのと同じで、強制でもない。又、朝鮮人が徴用工として働いたのは終戦間際のほんの一時期で遺産の対象期間ではない。ごねると必ず譲歩する日本と見透かされた日本、悪い癖をつけたものだ。
16:45 - 2015年6月24日
https://twitter.com/nakayamanariaki/status/613613960793686016

小林よしのり氏
2015年07月06日 13:19
世界遺産と歴史認識、どっちが大事?

「徴用工」は朝鮮人だけではない。当時は台湾も朝鮮も日本だったから、台湾人も朝鮮人も日本人もみんな徴用されたのだ。
http://blogos.com/article/120902/

三橋貴明氏

続 大失態 2015-07-11 08:13:23
徴用とは、戦争中に、中央政府が国民(あるいは、占領地住民)を法律に基づき動員し、兵役を含まない一般業務に就かせることになります。ついでに書いておくと、「徴税」は中央政府や地方自治体に税金を徴収されることです。 大東亜戦争期、国民が徴用として一般業務に就くことは、法律に基づく義務だったのです。「強制、強制」言うならば、徴税にしても「国家に強制的に税金を徴収されている!」という話になってしまいます。それでも、国民の義務であるから、税金を払うのです。
しかも、朝鮮半島の日本国民は44年9月まで徴用を免除され、さらに徴用が始まっても女性は免除されました。本土の日本国民は、女性も含めて徴用の任に就いていたのです。同じ日本国民でありながら、朝鮮半島の国民は優遇されていたのでございます。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12049077181.html


古田博司氏

2015.7.9 05:00
【正論】 世界遺産でゴネた強制性の意味 筑波大学大学院教授・古田博司
「慰安婦」「徴用工」も「強制性」を剥奪されれば、ただの同化日本人にすぎない。朝日新聞が「従軍慰安婦」の誤報を認めたことで「強制性」の大半は剥奪された。残るは「徴用工」で、韓国は必死に挑んでくることだろう。
http://www.sankei.com/column/news/150709/clm1507090001-n3.html


西村幸祐氏

@kohyu1952 そもそも「強制労働」という概念がおかしい。韓国はつい先日までは「強制徴用」という言葉を使っていた。日本人全員に義務付けられた戦時徴用に過ぎないのに。日本メディアの韓国の言葉をそのまま流用し続ける主体性の無さに呆れます。滑稽な「強制徴用」を「」なしで使うとは! @makotoban
 22:54 - 2015年7月4日https://twitter.com/kohyu1952/status/617330686735679488

官僚作家・林雄介氏

@yukehaya 朝鮮人の徴用はやってる。ただし、厚生保険に事業者が強制加入させられてるけど。朝鮮からの徴用者用に厚生保険の法改正して、徴用でも保険の対象にしてる。出稼ぎと徴用がごっちゃになって、強制連行されて、強制労働させられた話に変わるよ。徴用は給料払ってるから。
23:58 - 2015年7月5日
https://twitter.com/yukehaya/status/617709204212592645

【熱血弁護士 堀内恭彦の一筆両断】「世界遺産」狂騒曲 損なわれた国益
産経新聞 7月9日(木)7時55分配信
戦争時の労働力不足を補う「徴用」は、諸外国でも行われていたことであり、給料も払われていました。韓国側が言うような「強制労働」という事実は確認されていません。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150709-00000011-san-l40 

戦時下植民地朝鮮の実情を記した報告書全文

公文書や当局者ら発言に見る朝鮮人労務者「強制」証言で引用した文書だが、非常に興味深いので全文書き起こしてみた。内務省嘱託小暮泰用が内務省管理局長に提出したもの。こういう報告書を出してこの人は大丈夫だったんだろうか。
復命書
嘱託 小暮泰用 
依命小職最近の朝鮮民情動向並邑面行政の状況調査の為朝鮮へ出張したる処調査状況別紙添付の通りに有之 右及復命候也
昭和十九年七月三十一日
管理局長竹内德治殿

目次
一、戦時下朝鮮に於ける民心の趨勢 殊に知識階級の動向に関する忌憚なき意見
二、都市及農村に於ける食糧事情
三、今次在勤文官加俸令改正の官界並に民間に及したる影響
四、第一線行政の事情 殊に府、邑、面に於ける行政浸透の現状如何
五、私立専門学校等整備の知識階級に及したる影響
六、内地移住労務者送出家庭の実情
七、朝鮮内に於ける労務規制の状況並に学校報国隊の活動状況如何

一、戦時下朝鮮に於ける民心の趨勢 殊に知識階級の動向に関する忌憚なき意見
  戦時下朝鮮に於ける民心の趨勢は大体平穏と見るべきものであって、往時大正八年当時と異なり独立を夢る(ママ)者なく官民共に等しく皇国臣民として内地人と協力して克服せんとする傾向にあり、知識階級と雖も同様にして確固たる自主独立の成算なく寧(むし)ろ米英に依存する独立は今の現状より必ずしも良きものと断じ難く結局日本人として内地人と一致団結して時局を克服せんとする傾向にあり。
  而(しか)して大いなる戦ひに直面して朝鮮に在る二千五百万の同朋は聖なる皇民として斉して立って一億の一環として戦ひを闘ひつつある、満州事変以来「内鮮一体」と云ふ言葉が言はれてから既に十年の歳月が過ぎたのであるが、今やさうした言葉が不必要な程彼等の戦ひは大きな熱情と真摯な努力とに依って其の生活の裡(うち)に行はれて居る。
  そうして愈々(いよいよ)創氏制も実施され、徴兵制も実施され、学徒の動員も実施された、剣を持ち銃を執って内地人と共に苛烈なる第一戦にも立ち名誉ある皇民として生き抜く姿は内地も朝鮮も殊更な区別をする要もない程のものである。
  大東亜戦争を勝ち抜き大いなる皇恩を八紘に光被させる為には、然し其の戦ひは容易なものではない、そして其の戦ひが容易なものではない丈(だけ)に第一線と云はず銃後と云はず其の二つのものは異なった二つのものではなく苦に充ち生命を賭して戦ふ困苦でなければならない、之れが現実に於ける朝鮮の実状である。
  此の現状は言葉だけではない、彼等は皇民としての生活に深く徹する其の姿が今は男と云はず女と云はず老いたるも若きも唯ひたむきに突き進む唯一の道であるものと認識しつつある現状である、そうして此の現状は形の上からのみでなく精神的な内容に迄到達しつつ比(たぐ)ひなき日本的生活の中に於て、戦ふ為に大東亜戦争を勝ち抜くために彼等は先づ生活と戦って居る、古い朝鮮式生活様式を捨てて新なる生活の形が激しい勢で日本化されて行くのであった、そして生活の錬成と云ふことが今日の朝鮮人男女老幼に課せられた大きな命題となって居る、
  以上が今日の朝鮮民心動向の一般的観察であらう、然し他方これとは正反対に悲観的な見方もある様である、即(すなわ)ち所謂(いわゆる)思想的な人々は警察関係の方面に多く抱かれて居る見方である、更に一部の知識階級にして民族思想運動に興味を持つ人々がそれである。
  兎に角(とにかく)朝鮮に於ける民心の動向、思想界の傾向が最近特に大東亜戦争後激しい変り方を見せて居ることは事実であって、私が今回朝鮮に出張して調査した個人的考へからこれを結論として端的に言ふならば朝鮮の思想傾向は一般に大衆的には非常に良くなって居る。
  然し以上述べた様に多少悲観的傾向のあることも事実である、故に私は今回現地に於て各層階級人と直接会ひ語った資料と対象して楽観論と悲観論と云ふ二つの分野に於て見た儘(まま)、聞いた儘の事実を纏(まと)めて復命することにする、先づ楽観論に就て最も変遷の激しい傾向としては朝鮮に於ける宗教界の革新激変であり、民族主義者並に共産主義者達の転向激増と質的向上であり、更に教化運動の勃興状態である。
  それは内外周知の如く朝鮮に於ける従来の宗教団体として最も有力なものは基督教と天道教であった、之等(これら)の宗教団体は在来宗教的色彩よりも政治的色彩をより多く持って居た、即ち基督教特に長老教派と天道教は恰(あた)かも朝鮮に於ける民族独立運動の中核体を為して居ったが、今や之等が大きな転換を示して居ることである、全鮮に於て五十万以上の教徒を占め、而(しか)も質的に最も不良であった長老会教徒は、昭和十一年迄は神社不参拝運動を起し漸次其の運動は全鮮に波及したが、昭和十六年大東亜戦争が勃発し無敵皇軍の赫々(かっかく)たる大勝利が展開されると同時に十七年の新春を迎へ全鮮総会に於て革新的な発足をなすべく国民的な声明を発し、従来誤ってきた彼等の内部規定をば改正し直にこれを実践に移さんが為に、日本的な革新要項二十数項目を発表したのである。
  又天道教は朝鮮に於ける類似宗教団体として最も有力なるものであって、一時信徒百万を占むる大きな勢力を有して大正八年遂に独立万歳事件を主唱したのであったが、これも国家的に日本的な宗教に向上せしめんが為に教義を改正し日本的革新を行ひ、今や朝鮮の連盟運動に順応して各々長老、天道の如き国民連盟を組織し全鮮からの各代表者が悉(ことごと)く参加して等しく皇国臣民として国旗に敬礼し、皇国臣民の誓詞を斉誦し万歳を唱へ、神宮にも挙って参拝するといふ誠に感激的な状景を展開してゐる現状である。
 次ぎに転向者の激増と質的向上のことであるが、大東亜戦争後に於ける朝鮮人主義者の転向者は数に於て増加し質に於ても相当向上した傾向を示してゐる、従来は多くの転向者中には単に打算的表面だけの人もあって実際に於ては仲々旧態を脱(ママ)け切れない者も相当あったのである、然るに最近に於ては朝鮮人の将来は日本人になり切らねば救はれる道は更にないと云ふ確固たる信念に生きる真実の転向者が続々として増加し今や相当数に達して居る現状である。
  而して内地と朝鮮との一帯は歴史的に必然的に規定された宿命であるが故に、世界に其の比類を見ざる皇道精神を研究することに依って日本精神に生き、日本の国体に徹し、日常語に国語を常用しなければならないと云ふ画期的な思想方向が決定され、斯(か)くする事に依って初めて朝鮮人は推進するのであると彼等多くの転向者は考へて居る、然らずして若(も)しも仮想された内鮮一体論に逃悔して居るならば必ず数年ならずして馬脚を現はし其の時こそは朝鮮人が永遠に日本から見放される時であると迄に彼等転向者達の考へは徹底して来た傾向を示して居る。
  これと同時に彼等の内面的な革新と共に多くの真面目な実践運動が民間に於て自発的に展開発進しつつある、即ち各地に於ける教化運動の勃興である、これも朝鮮の思想界と民心が良くなりつつある証左と私は思ふのである、現在全鮮各地に八紘寮、大和塾、皇道会、学生塾、錬成道場の如き日本精神を基調にして集る教化運動団体が相当多く勃興して居る。
  故に朝鮮の思想界と民心の趨勢に就ては上述の如き極端なる悲観論も無いではないが、然し以上の如く一般大衆は何と云っても光輝ある皇道街道を前進して居るのであって、大体に於て、それは非常に良くなって来たと云ふ結論を下しても間違ひではなく、又今後指導当局としても更に研究調査の上適当な方法を以て押し切って行かねばならないと思ふのである。
  次に悲観論であるが、時局に伴ふ多少の苦痛其の他種々の不満の為に民心の一部が漸次悪化しつつあると云ふ見方もあり得るし、亦(また)斯(かく)の如き傾向も事実もある、即ち大東亜戦争の長期化に伴って種々思想上悪波紋、精神の弛緩等に依り彼等の中には、特に知識階級並に有産層の一部と民族主義者の中には反戦、反官的な厭世傾向もあり、早く事変が終れば良い等と考へてゐる人もある。
  更に最近の戦況を悲観し日本の将来、統制経済の将来と云ふものに対して相当流言蜚語(りゅうげんひご)が出て来ている地方もある、即ち統制経済に伴って起る影響、例へば物価が高くて困るとか、物資の欠乏、物資の自給の不円滑、配給制度の不公平と云ふ様な私生活上の苦しみ、又食糧対策が旨く行かぬと云ふ様な不平不満のあることは事実である。
  特に地方の大地主や都会地の富豪階級の人々の中には日本の新体制、統制経済の強化方針は共産理論の実現ではないか、統制と云ふ名前を借りて実際は共産理論を実践するのではないかと云ふ一種の疑惑と恐怖を抱いてゐる人も相当にある様であり、又似而非(えせ)なる転向者達は蘇連(ソ連)によく似て来てゐるのではないか、故に共産理論は最も正しいのであると云ふ風に懐疑的に考へて居る人々も相当に多くなったことは事実である。
  斯の如く考へて居る彼等は漸次日本の国力を疑ひ、或は朝鮮人は第一次世界大戦の時に印度が英国に騙された様に、日本政府に騙されて居るのではないか、或は重慶政府が声明した様に日本は長期戦に依って経済的に思想的に行き詰るのではないかと云ふ様な全く愚しい考へ方を抱いて居る人も最近各地に相当多く増加して来たことも事実である。
  更に民族主義者の一部には内鮮一体への誤解も相当ある様に見ゆる節もある、例へば国語の奨励を以て朝鮮語の否認だと云ふ誤解もあり、諺文(おんもん)新聞を統制した事に付ても之れは朝鮮文化の破壊であると考へて居る向(むき)もある。之れは過般京城に於て開催された各界代表者懇談会の席上に於ても暗に関心を有する向もあったのである、特に今後決戦の遅速利鈍に依って彼等の思想も相当変化があるものと思はれる、左に参考の為京城に於ける有志懇談会席上に於て朝鮮人有志の希望する所の要点を記述することにする、尚出席者は左の通りである。
日時 昭和十九年六月十七日午後五時
場所 京城府 白雲荘
出席者 荒木民政課長
      小暮嘱託
      坂手属
      毎日新報編集局長 鄭寅翼
       〃  社会部長 洪鐘仁
      毎日新報社会次長 金村承燾
      人文社代表 石田耕造
      京城拓殖経済専門学校教授兼生徒監 玉岡?珍
      宗教家 李重宰
      京城弁護士会副会長 姜柄順
      実業家 李晟煥
右記各有志から席上希望として述べられた要点の内主なる項目のみを挙ぐれば

(イ)内地朝鮮間の人事の交流を最も頻繁ならしめ伝統的と見るべき一種特殊なる朝鮮的官僚気分を速かに改め、上意下達、下意上通を徹底せしむること

(ロ)末端政治の強化、即ち邑、面長の人物選定並に邑面職員の増員と素質向上を図ること、之れには先づ待遇方法を講ずること

(ハ)労務管理の改善、指導員の再錬成配置

(ニ)朝鮮奨学会を改造すること、特に官僚化、取締化の如きことを改め専ら指導教化に努めること

(ホ)内地に於ける朝鮮人労務者の多い所には各班に実力ある朝鮮人班長又は寮長を速かに配置すること

(ヘ)今後朝鮮より供出する労務者は従来の如き募集又は官の強制斡旋方法を改め指名徴用制を速かに実施すること

(ト)今後朝鮮及朝鮮人問題の結論に付て吾人の希望とする所は総合的に云へば理屈より情と涙を以て解決して貰いたい

(チ)対朝鮮人問題に付て、其の善悪を問はず概括的に評論することは大に警戒すること、当局が余り監視し過ぎることを改め或る程度朝鮮人を信頼し朝鮮人に責任を持たせること

(リ)配給制度の公平を図ること

(ヌ)朝鮮には内地と異なる前官待遇と云ふ特殊のブロックがある、即ち高官高位の退職者に全鮮各地の特殊機関の実権を与へて居ることである、之れが朝鮮統治の癌となる場合が極めて多い、これを速かに改革すること

(ル)内鮮一体の完成は内鮮無差別の完成に始まる故に内地延長として朝鮮人にも参政権を与へよ

(ヲ)併合当時は貴族並に上流階級を相手に朝鮮統治を行ひ、次ぎは第二次的に公職者を相手にして政治を行って来たが、然し之れは今の時勢には既に遅し、今後は青年並に大衆を相手とする根本政策を樹立せよ

(ワ)御世辞を使ふ者のみを登用する制度を改め本当の人物を選び出すこと


二、都市及農村に於ける食糧事情
  朝鮮に於ける都市及農村の食糧事情は相当深刻のものあり、其の実例として朝鮮に旅行する時汽車の窓より望むるも沿線の林野に於ける松木の皮を剥ぎたるもの相当見受くることがあるが沿線にあらざる深山には尚多く近き将来に於て朝鮮の松木は或は枯死するのではないかと憂慮する人達も相当多い様である、併合以来故寺内総督を始め歴代総督は朝鮮の山林行政に相当力瘤(ちからこぶ)を入れたる結果最近に至りては朝鮮の林相も稍(やや・ようやく)良好になって来たが昨今の食糧事情に依る此の現象は実に憂慮に堪へざるものあり。
  農村人及地方有志の忌憚なき意見を調査して見ると、従来大体に於て朝鮮は食糧の自給自足不能に非ざるに拘らず斯(かか)る現象を呈するは行政当局の其の措置宜しきを得ざるに基因する所多しと非難する地方もある、即ち配給、供出機構の不完全は勿論のこと、先づ其の衝に当るものの情実又は実情を知らざる盲目的行政の結果なりと彼等は非難して居る。
  私が今回実地に於て調査して見た所から考へて端的に云ふと、朝鮮の食糧事情は都市に於ては配給の面が、農村に於ては供出の面が問題の全部を浮彫してゐると言っても過言ではないと思ふ。
  勿論(もちろん)当局の食糧行政の行方としては供出量は生産高に依って決定されることにはなって居る、即ち生産高より農家人口の一人当り一日何がしの消費引当量を農家保有量として爾余(じよ)を供出量と定めこれを農家に供出を命ずることとしてゐる。
  然るに今日朝鮮に於ける農業生産統計たるや大体に於てそれは前年農村振興時代の柱纂なる統計数字を基準として居るものにして衆目の見る所凡(およ)そそれは常に過大見積であると云ふ事に一致して居る、而(しか)も斯る過大なる生産統計の下に於て尚個々農家の収穫高を決定する上に於ても相当の努力が払はれて居るに拘らず多くは無意識的に稀には意識的に凹凸を生ずる場合が相当に多いことも事実である。
(この段落の上部欄外に記入有。「部分的には兎も角、全般としては首肯し難し大正末年頃■々七八百万石の移出ありし時代を(?)如何に説明するか」)
  斯る基礎に於て個々の農家の具体的供出量が定められる、そうして此の供出令は文字通り至上命令とされ供出の完遂は勧奨よりも強圧強権を加へて強ひられる場合が極めて多い状態である。
  而も朝鮮の農民は純朴従順であって、そこには涙ぐましい数数の実話実情も多い、或は明日の糧まで供出せる者あり或は彼等の何よりも大切なる農牛や家屋や家財道具等を売払って闇買をしてまでも自己の供出割当数量を完遂せる者も居る、従って部落に於て勢力のある者、即ち所謂有力者其の他富豪権力者を除いては出来以外の時に於ける農村の食糧事情は殆んど窮迫の状態にある。従って農業者にして尚朝飯夕粥は良い方で多くは糊口に苦しみ自己の生産物は全部供出に献げ自分は大豆、小豆の葉や草根木皮にて辛じて延命し顔は腫れ上り正に生不如死(生は死に如かず。生きるより死んだ方がまし)の惨状を呈し空腹の為め働く事も出来ず寝て居る者も尠(すくな)くない状態である。
  斯の如き朝鮮農村の食糧事情よりして農民は食糧は生産しても自らは喰へない故に農村には増産意欲どころか寧ろ厭農思想が相当濃厚であり生産物を隠匿せんとする傾向が強くなって来た。
  そこで供出督励者は農家や農家の周囲を捜索し炊事時に不意打的に踏み込み炊事釜や食物を検査し果ては面、駐在所等に呼出して迅(ママ)問する等全く朝鮮でなくては見ることの出来ない奇異なる現象を彼所此所(かしこここ)に露出して居る、宜しく今後は農民に食糧を保護し産業戦士として所遇するのが急務であり之が結局増産の最も有力な途(みち)である様に思はれる。
  一方翻って都市の食糧事情を見るに都市には殆んど完全に近い配給制度が実施され一人当り一合四勺乃至二合三勺の配給を大体に於て順調に受け満腹の程は期待し得ざるも一応不安はない状態に在る、一般に都市人は配給量の僅少なるが故に四六時中空腹感を訴へながらも尚定った量を殆んど正確に配給を受けて居るのは農民にして一日一合程度も糧穀を喰へないのに比べて見る時は都市人は幸福と言はざるを得ない、農民の倉には糧穀はなくとも都市の食堂には猶何かの食物の備がある実状であって、此の点内地とは正反対の現象と言はざるを得ない。
  而も都市人の中でも財力に余裕があり時局認識の足らざる薄志の徒は法網を潜って闇にて白米並に其の他の食糧品を買入れ(朝鮮に於ける白米一斗の闇価は六十円前後なり)自己の食生活を充実して居る者も相当に居る、同じ闇買にしても農民は自己の供出責任完遂の為にやり、都市人は自己の満腹の為にやる、之れも朝鮮ならでは見られざる誠に奇異なる対照である。
  要するに朝鮮の食糧事情は都市方面の非農家は殆んど正確に近い所定量の配給を受けながら尚空腹を訴へ、農村人は自ら食糧を生産し乍(なが)ら猶出来秋以外の時に於ては概して自家の食糧にも窮迫して居る実状である。
  斯くて都市と謂はず農村と謂はず互に顔を合はせれば食物の話で都鄙の話題は殆んど食物に関するもののみであって全く食にかけては紳士も匹夫もない有様である、ここに「民は食を以て天となす」「衣食足って礼儀を知る」と云ふ古訓が如実に物語って居る。
  扨(さ)て以上の如き朝鮮の食糧事情の窮乏の原因は何んであるか、又之れを如何にして是正するかに付て考へて見るに従来の耕地面積並に生産に関する統計は不正確であるにも拘らず未だ之れを以て基礎としてゐること、次ぎは反当収穫の見積等が実情に副(そ)はざる場合が多いこと、又農家の消費食糧の量を過少に規制したること、更に最近数年間凶作続きであったこと等であらうと思はれる。
  而して農家に於ける食糧の供出は叙上の弊に依って供出数量過多に失し中には全生産量を之れに充てても尚足らないものさへある、而も供出数量は確保すべきであるとの見地より無理に近い督励を加へる為に農家は供出後翌日より殆んど食糧なき状態であり而も配給は必ずしも其の翌日より支給せられない為殊に細農の困窮は甚だしい、又春窮期に於ける還元制の特配を受けるにしても其の量極めて少なく一日一人当一合未満の場合が多い、故に此の際思ひ切って統計を先づ是正すると共に農家一日消費食糧を少くとも一人当四合以上とし、実情に依って農家の食糧を控除したる後、残余を全部供出せしむる様にするか、又は生産食料一切を全面的に買上げ翌日より農家非農家の区別なく一定量の配給を行ふか、何方(どちら)でも急速に朝鮮の食糧事情の窮迫を救はなければならぬものと思ふ。
  それから少し話が横道の様に考へるが朝鮮に於ける食糧問題解決に対し最も密接なる関係を有する問題の一つとして昭和十九年度朝鮮米穀生産責任数量決定額に付てこれを検討して見ると即ち今年度の食糧生産責任量は
  米      二千六百万石
  麦      一千六十三万石
  其他雑穀 九百三十万石
  合計    四千五百九十三万石
となってゐるが一体此の数量は如何なる方法に依って算出決定されたものか専門家でない私が僅か三週間位の短時日の調査では其の正否を今直(ただち)に確言することは出来ないが先づ其の中の米二千六百万に付て考へて見ると前古未曾有の大豊作と言はれた昭和十二年の米作数字を除いては朝鮮の米作生産史上未だ其の前例のない数字である。
  即ち昭和十四年の千四百万石と云ふ大凶作以後に於ける朝鮮の米生産高を調査してみるに同十五年の二千百万石、同十六年の二千四百万石、同十七年の千五百万石、同十八年の千八百万石であって其の五ケ年間の平均収穫高は千八百四十万石となって居る、此の理由は近年朝鮮の気候は連続的旱魃の多い関係もあり更に鮮内の労働力も漸次減少し、又化学肥料の不足等が其の原因であるものと思はれる。
  然らば昭和十九年即ち今年度の米作は果して朝鮮の農業生産の隘路が解消されて居るかと云ふに決してそうではない、戦局の進展に従ひ今年度より実施される徴兵制に伴ひ併せて農村青壮年の戦闘再配置等があり、更に国内科学工業の拡充に因り農業肥料生産の減縮は必然であると想像するに於ては例へ此の儘天候が順調になっても二千六百万石と云ふ米収穫は容易なことではないと考へられる、即ち過去五ケ年間の平均収穫量千八百四十万石に比すれば七百六十万石の増加であるから約四割に該当する数量が増加されたのである。
  もっと詳しく言へば過去五ケ年間に平均収穫量十石の農家とすれば四割増の十四石がその生産責任量となった訳である、天候の変調如何に拘らず同一条件の下に四割増産と云ふことは朝鮮農家としては甚しき過重の負担と言はざるを得ないのである、故に速かに此の数字に再検討をするか、又は現下時局に鑑み此の二千六百万石と云ふ数字が絶対的に国家が要請する量であれば鮮内科(ママ)学肥料不足の対策として自給肥料の増産、適期施肥、施肥方法の適正化等に関する根本策の確立、そうして三百万戸以上の農家と十万戸以上の地主と数万の指導者が打って一丸となって人生最高の努力を傾注する様仕向けなければならないことと信ずるのである。

三、今次在勤文官加俸令改正の官界並に民間に及したる影響
  此の問題に付て朝鮮人官吏及民間人に就て調査して見ると大略左の如き現状である。
  即ち朝鮮人官吏に対する加俸支給に付ては

イ、内鮮一体の理念を具現したるものにして寧ろ其の遅きに失したる憾あるも一層の責任感と明朗性を与へたりとなす者

ロ、戦局の推移に鑑み尖鋭化しつつある朝鮮民心を緩和せんとすることを企したる懐柔政策なりと為す者

ハ、官界に於ける内鮮人の全面的無差別化は優秀なる内地人の渡鮮を阻害し内地人側に於ける人的貧困を来(きた)すべしと為す者

  等の見方ありて(イ)の観点に立つものは当然なりと為すが故に(ロ)の見地に在るものは政策なりと見るが故に本制度の実施は朝鮮統治上画期的恩典なるにも拘らず大なる感銘を与へざりしが如し、殊に瞠目すべきは該制度が一部上層官吏にのみ其の恩典に浴せしめたる点にして或は島国根性的にして大国としての雅量に欠くるものなりとし、或は上に厚く下に薄きは親心に反するものなりと為し、甚しきに至っては之等上層指導階級を懐柔することに依って之等を一般民衆の宣撫に利用せんとするものなりと断ずるものさへある。
  他方一般下級官吏は現下の如き物価高に比し著しく薄給にして殺人的の生活難なるに拘らず之を黙過しあるは当局の企図に他意あるべしとなし真剣に之が穽鑿(せんさく)討議を敢へて試みる者もある。
  要するに本制度は朝鮮民衆に内鮮一体の理念を制度的に実証具現せるものとして受入れられ朝鮮人官吏をして真の帝国官吏としての自覚を喚起せしめその責任の重大なるを感ぜしむるに多大なる貢献を為したるも之を一部の上層官吏の範囲に止めたるに基因する疑惑感は否定し得べからざるものありと謂ふべし。
  更に此の問題に付て朝鮮人民間有力者の忌憚なき意見を調査して見るに、従来朝鮮人官吏には加俸を支給すべからざるものなることを理論的に説き永年朝鮮人の深刻なる反対心理を抑制し来りたるに拘らず突然まったく同一率の加俸を支給することとなったことに対しては先づ驚きたるは朝鮮人官吏自身であったであらう。
  而してその支給が一般的に非ずして一部分に過ぎざる故に其の恩典に浴せざる階級の不平甚しく此の点は憂慮に堪へざるものありと見へる、即ち生活に余裕なき判任官以下に支給せず比較的生活の安定を得たる高等官にのみ加俸を支給する結果高等官自身も心中疑心を抱くであらうと論ずる人が多い、其の理由としては即ち戦後朝鮮人の高等官の数を減ずるは必然なりとして内心疑なき能はず、又反面判任官以下の不平相当深刻なる地方もあるが此の点は相当注目を要する問題と思ふ、事実として内地人と朝鮮人とが絶対平等となるの理なきにも拘らず斯る同率の加俸を突然支給するは近き将来に於て内地人側より不平又は反対運動起るべく、之を収拾することも困難であらうが更に一面朝鮮人の判任官以下に迄速かに加俸を普及することが出来ないとすれば之れ亦相当困難なる問題を惹起すべく結局今次の加俸の支給は技術的に見て拙劣なるものなりと彼等は考へて居る。

四、第一線行政の事情 殊に府、邑、面に於ける行政浸透の現状如何
  決戦下外地に於ける第一線行政の実情の神髄を調査することに付ては上司の内命もあり且又私自身の職柄多大の関心を以て可なり多方面の人々に会って語ったこともあったが先づ南鮮と西鮮地方に於ては少々悲観したこともあった、それは或る地方の有力者の話を聴くと、其の答へに曰く今日朝鮮の第一線行政は全く行詰りたる状態にして誠に寒心に堪へざるものありと言ったことである、其の理由に曰く、朝鮮には昭和十六年頃より、これには「韓国以上」と云ふ合言葉が民間に流行したと云ふ、原因は社会情勢の急変と官紀の廃頽により一般大衆の苦しみが増加し、遂に斯る言葉が流行する様になったが、先づ旧韓国時代には一部富豪のみが苦しみたるに過ぎずして一般大衆は寧ろ今日の如き苦しみを体験したることがなかったが今日の現状は富豪よりも一般大衆がもっと苦しむ様になったと云ふことである、然し斯の如き不評判の原因は結局戦局の進展に伴ひいろいろと複雑な責任の負荷が多くなった為めであり、又此の複雑性の内容を彼等が理解し消化し得ないからであるものと思ふ、即ち上意下達、下意上通が円滑になってないからである。
  事実朝鮮の第一線行政の実情は四年前に比し相当複雑となって来て居る、戦局殊に大東亜戦争後に於ける戦局の進展に伴ひ朝鮮には各種の栄誉と責務が新に負荷されて来て居ることは事実である、今其の主なるもののみを挙ぐるも
  イ、食糧を主とし其の他数十種に及ぶ農林畜産物の供出
  ロ、貯金及献金乃至献納
  ハ、労務の供出
  二、志願兵より徴兵制度
  ホ、特別鉱工物増産
  ヘ、義務教育実施と教育整備
  等にして之等の施策は殆んど其の結果に於て達成せられざるものなきは其の都度当局者に依って半島官民の努力と協力に対する感謝の言葉を以て言明された通りである、即ち外形と結果に於ては上部の意図は殆んど第一線末端機関に滲透し従って第一線の官公吏亦聖戦完遂に奮闘しつつあるのが其の現状であるものと見るのが普通であらう。
  然らば之を以て直ちに朝鮮の第一線行政の実情は満足すべき状態であるかと云ふに決してそうではない、問題は其の結果に至る迄の過程と方法乃至は政治技術の如何にあるものと思ふ、此の点に関する限りは上部の意図は凡そ末端下部に滲透し居らないのが今日の実情であるものと思考す、為に総督政治に対する予期せざる疑惑、不平不満の生ずること尠(すくな)しと見るのが正しい調査資料と思はれる、故に斯の如き原因を一日も速かに除去することこそ朝鮮統治をして本然の姿に戻し明朗性あらしむる最大急務なり(ママ)信ずるのである。
  其の原因の主なるもののみを挙ぐれば

イ、郡守に至る迄の不滲透の原因  
  本府に於ては地方第一線の実情に通暁せず総合的認識を欠く者が自己の分野にのみ跼躅して余りにも理論的にのみ精微なる立案を為したるものが道に於ては其の多くが本府よりも素質低下なる属僚の手に依り之を咀嚼することなく其の儘移牒せられ郡に集中されるのである、(而も本府の企画者の中には実際的経験及識見の乏しき者多く道の属僚中には亦知的に低下なる者多し)

ロ、郡より邑面に至る間に於ける不滲透 
  郡邑面職員の知的不足と素質低下等に加ふるに弱馬駄重的に事務は之に集中輻輳する結果、重点事務たると否とに拘らず平等に無関心となり研究工夫は殆んどなく、且つ亦邑面財政の涸渇は之等諸優遇方策を只名目上のものたらしむる事になり一種の疲労感嫌悪感さへ抱き会議及上級官庁の監励出張に依り強調せらるる施策方法に関してのみ而も其の結果特に最終的結果・・・・例へば食糧増産供出に就て謂(い)へば播種面積拡張、耕種法の改善等は之を多く報告の上に於てのみ達成し其の虚偽の報告に基いて割当てられたる供出の達成にのみ全力を注ぎ為に民衆をして当局の施策の真義、重大性等を認識せしむることなく民衆に対して義と涙なきは固(もと)より無理強制暴竹(食糧供出に於ける殴打、家宅捜索、呼出拷問労務供出に於ける不意打的人質的拉致等)乃至稀には傷害致死事件等の発生を見る如き不祥事件すらある。  斯くて供出は時に掠奪性を帯び志願報国は強制となり寄付は徴収なる場合が多いと謂ふ。

ハ、邑面より民衆に至る間の不滲透 
  邑、面殊に面は第一線に於て一般民衆との中間に立って本府の企図する一切の施策を担当実践する重要なる末端行政機関であるが其の下に知識極めて低級にして国語も理解せず極めて不自然なる朝鮮語を以て記されたる公文通牒を受領し素朴なる思惟の下に活動する区長があり、此の区長に至り一切の理論的行政施策は褪色され殆んど其の政治意義を消失するに至るものと思はれる。

  然れば之等の弊害を如何にして取除くか、其の是正の方策として主なるものを挙ぐれば

イ、道の属官級に知的素質の優秀なる朝鮮人青年を多く増員すること

ロ、府、邑、面の職員の水準を高むる意味に於て中等程度の地方行政講習所の如き錬成教育を一層普及すること(現在の邑面職員の九割は小学程度)

ハ、区長の待遇を一層改善強化し優秀なる人物を配置すること

二、本府及道の職員は質的向上を計り量的には之を減少することとし郡、邑、面殊に面職員の増員を断行すること

  等であるが、要するに以上の如く朝鮮の行政は其の実施過程に逸脱する不正確なる方法と政治技術の足らざる所から本然の姿より逸脱する場合多く為に民衆に上層部の意図以上の又は意図せざる重き負担を負はせ一般民衆の認識並に能力が官の要請に追ひつかぬ事になり依って民衆をして疑惑感、時には反感をすら抱かしむる場合が極めて多い、然し兎に角表面から見れば朝鮮の地方行政の第一線は皮相的に其の結果の点に於てのみは相当滲透せるものと謂ふべし。

五、私立専門学校等整備の知識階級に及したる影響
  決戦下教育非常措置に依り朝鮮に於ける私立専門学校等の整備を行ひたることに付て朝鮮人知識階級人等の意嚮を調査して見ると彼等曰く、此の措置は朝鮮人の知識階級を絶望的境地に追込み朝鮮人社会に於ける教育事業熱を奪ひ去ったと云ふ、蓋(けだ)しそれは今日迄朝鮮に於ける私立専門学校が朝鮮人知識階級に対して演じた役割機能の全面消滅を意味するからである、一般的調査資料としては此の整備問題に対する朝鮮人特に教育家及知識階級層に於ては極めて不評判であり彼等の中には朝鮮の教育政策を疑ふ様になって来た人々も相当増加して居る。
  各方面に於ける影響も極めて多種多様ではあるが今其の重なるもののみを挙ぐれば大略左の通りである。

(イ)、朝鮮の過去に於ては私立専門学校には比較的素質の優秀ならざる者及官公立学校に進学するを好まざる者、思想的に不穏なる者(此とて内地の私大に比すれば問題にならぬ程素朴なものではあるが)等が進学したと云ふ傾向があった、既に内地の文科系統私大への進学の途が塞がれた今日之等の学徒は近代文化の殿堂から閉出を喰ったと考へる者もあり、此の事情は理工科系統学校拡充により専門学校生徒募集総数に於て千二百名の増加を見たとしても進学希望数に照らして官公立専門学校の入学許可率に於ける内鮮の差別を徹底的に撤廃しない限り少しも緩和されることはないであらうと考へる者も相当多い様である。

(ロ)、従来朝鮮に於ては私立専門学校が朝鮮文化の維持培養上に於て大きな役割を演じたことは何人も否定出来ない事実である、既に早くも朝鮮語の教授及使用が全面的に禁止されたる今日に於て私立専門学校等が整備されたるは今後朝鮮文化の最も有力なる維持培養の担当者を失ったと云ふのである、尤(もっと)も朝鮮文化が全部朝鮮文で記され、朝鮮語で語られるのみでないにして今日迄の朝鮮文化の有方はそうであったのであり、又現在も尚全朝鮮人中国語を解する者が僅か一割五分に過ぎない状態に於ては尚更のことであると云ふ。

(ハ)、元来朝鮮人社会には官公立教育機関の不足と相俟(あいま)って教育事業熱は相当に旺盛であった、例へ貧者と雖(いえど)も且又相当吝嗇家でも事子弟の教育に関するときは多額の寄付を為し小学校の教育に於てすら最近は克(よ)く内地人の数倍に匹敵する種々の負担に甘んじて堪へて来てゐる実情であり知らざる者の悩みを詳に歴史的に社会的に経験せる彼等としては当然なことと思ふであらう、殊に知識階級に於て私立教育事業熱又は教育事業助成熱は最近一層旺盛となって来たが之等は此度の私立専門学校等の整備を目睹して捨鉢的気持になり一切の私学事業への希望を捨てた観があって、正に朝鮮人の経営する教育機関を奪ひ去った感を与へたと同様な状態である。

(ニ)、従来朝鮮の私立専門学校の教授の多くは外国留学又は内地留学生が其の大半を占めて居た、其教授陣は所謂朝鮮人知識階級の最高水準にあったことは否めない事実である。而して立派な皇国臣民としての最高の教育を受け其れ丈の実力を有し乍らも官公立の大学専門学校の教授となることを許されなかった為に朝鮮人学者にとっては之等私立専門学校の教授たることが一生聖なる学研の途に精進し象牙の塔に籠る唯一の途であり且つ学者としての生活戦線でもあったのである、故に一面之等朝鮮人教授陣の総退却は其の多くが生活に余裕なき朝鮮人子弟に対して学者的生活の門戸を完封したものと彼等は考へて居る。

(ホ)、最後に朝鮮に於ける女子専門学校の場合に就て調査して見るに近年知識階級の配偶者を養成提供すると共に一方余りに先端的な空虚な虚栄心(現在朝鮮人の文化程度を見て)を朝鮮人大衆に植え付け一部の識者並に大衆から白眼視された私立女子専門学校を整備した事は善悪相半ばすると云はれて居る、蓋しその整理方針に於て政治的技術の足らざること並に内地の其れに比し余りに酷に失したと云ふ点及び教授陣の総退却とは男子専門学校の場合に準じて之も相当悪影響を及ぼして居る様である。


六、内地移住労務者送出家庭の実情
  従来朝鮮に於ける労務資源は一般に豊富低廉と云はれてきたが支那事変が始って以来朝鮮の大陸前進兵站基地としての重要性が非常に高まり各種の重要産業が急激に勃興し朝鮮自体に対する労務事情も急激に変り従って内地向の労務供出の需給調整に相当困難を生じて来たのである、更に朝鮮労務者の内地移住は単に労力問題にとどまらず内鮮一体と云ふ見地からして大きな政治問題とも見られるのである。
  然し戦争に勝つ為には斯の如き多少困難な事情にあっても国家の至上命令に依って無理にでも内地へ送り出さなければならない今日である、然らば無理を押して内地へ送出された朝鮮人労務者の残留家庭の実情は果して如何であらうか、一言を以て之れを云ふならば実に惨?(さんたん)目に余るものがあると云っても過言ではない。
  蓋し朝鮮人労務者の内地送出の実情に当っての人質的掠奪的拉致等が朝鮮民情に及ぼす悪影響もさること乍ら送出即ち彼等の家計収入の停止を意味する場合が極めて多い様である、其の詳細なる統計は明かではないが最近の一例を挙げて其の間の実情を考察するに次の様である。
  大邱府の斡旋に係る山口県下冲宇部炭鉱労務者九百六十七人に就て調査して見ると一人平均月七十六円二十六銭の内稼働先の諸支出月平均六十二円五十八銭を控除し残額十三円六十八銭が毎月一人当りの純収入にして謂はば之れが家族の生活費用に充てらるべきものである。
  斯の如く一人当りの月収入は極めて僅少にして何人も現下の如き物価高の時に之にて残留家族が生活出来るとは考へられない事実であり、更に次の様なことに依って一層激化されるのである。

(イ)、右の純収入の中から若干労務者自身の私的支出があること

(ロ)、内地に於ける稼先地元の貯蓄目標達成と逃亡防止策としての貯金の半強制的実施及払出の事実上の禁止等があって到底右金額の送金は不可能であること

(ハ)、平均額が右の通りであって個別的には多寡の凹凸があり中には病気等の為赤字収入の者もあること、而も収入の多い者と雖も其れは問題にならない程の極めて僅少な送金額であること

以上の如くにして彼等としては此の労務送出は家計収入の停止となるのであり況(いわん)や作業中不具廃疾となりて帰還せる場合に於ては其の家庭にとっては更に一家の破滅ともなるのである。
  然し之等の事情に対する異論もある様である、即ち労務援護や労務協会のことや残留家族殊に婦人の積極的活動に依る収入の確保等があるではないかと云ふのが其れであるが、然し朝鮮の労務援護に就て云へば左の如き二つの方法があるであらう、其の一つは隣保相助を挙ぐるであらうが、之れも朝鮮の農民と労働者の大衆は未だ斯る良風美俗の実践者たる為には余りにも貧困過ぎる現状であり、其の二は労務協会の援護であるが之れも労務者一人当り五円を財源とする本会の実情は之の予算も現実的には宴会其の他の費用に充てられて居る現状である。
  更に残留家族殊に婦女子の労働はどうであるかに就て調査して見るに、朝鮮の都市に於ての一家支柱たりし男子に残留婦女子が代替し得ることの出来ないことは固よりであるが農村に於ても土壌の瘠薄性と耕種法殊に農具の未発達、高率の小作料、旱水害、其の他各種夫役等の増加の多い今日に於ては全家族総動員して労務に従事し以て漸く家計を維持したる農民が戸主又は長男等の働き手を送出したる後婦女子の労働をして其の損失を補償代替更に進んでは家計の好転を図り得ないことは明白な事実であって、此の点自然的条件に恵まれ耕種法其の他営農の発達したる内地農村と同一に考へることは出来ないのである、況や朝鮮農村の婦女子は其の九割以上が殆んど無教育であり青少年は徴兵実施と其れに伴ふ各種の錬成其の他の行事の為に実際的には働手たる意義を大いに減殺されて居るのである。
  斯して送出後の家計は如何なる形に於ても補はれない場合が多い、以上を要するに送出は彼等家計収入の停止となり作業契約期間の更新等に依り長期に亘るときは破滅を招来する者が極めて多いのである、音信不通、突然なる死因不明の死亡電報等に至ては其の家族に対して言ふ言葉を知らない程気の毒な状態である、然し彼等残留家族は家計と生活に苦しみ乍ら一日も早く帰還することを待ちあぐんで居る状態である、私が今回旅行中慶北義城邑中里洞金本奎東(二十三才)なるものが昭和十八年七月一日北海道へ官の斡旋に依り渡航した家庭を直接訪問して調査したるに、最初官の斡旋の時は北海道松前郡大沼村荒谷谷瀨崎組に於て本俸九十五円、手当を加へ合計月収百三十円となる見込みとの契約にて北海道より迎へに来た内地人労務管理人に引率され渡航したる後既に一年近くになっても送金もなければ音信もない家に残された今年六十三才の老母一人が病気と生活難に因り殆んど瀕死の状態に陥って居る実情を目撃した、斯の如き実情は此の義城のみならず西鮮、北鮮地方に極めて多く、之等送出家庭に於ける残留家族の援護は緊急を要すべき問題と思はれる。
  其の中にも軍方面の徴用者の中には克く家庭との通信、送金等があって残留家族にありても比較的安心し生活上にも左程(さほど)不便を感ぜざるも、特に一般炭鉱並に其の他会社等の関係に在りては右の如く送出後殆んど音信を断ち尚家庭より通信するも返信なく半年乃至一年を経るも仕送金無きものもありて其の残留家族特に老父母や病妻等は生不如死の如き悲惨な状態であるのみならず其の安否すら案じつつ不安感を有する者極めて多く、此の如きは当事者の家庭現状にのみ限らず今後朝鮮から労務者送出上大なる影響を与ふるものとして憂慮に堪へないのである。
  又仮りに朝鮮農村に於ける男子勢力に代って婦女子勤労へと一層強化するにしても今日の朝鮮婦女子の特殊立場を没却して只盲目的に働かす事ばかりは大いに警戒しなければならぬと思ふ、即ち人口増強上重要使命を持つ婦人の保健問題又は内地婦女子と異なって殆んど無教育である彼女達が良く働ける様に仕向ける特殊施設と対策がなければならぬ、例へば共同炊事、託児所、保健婦設置、食糧特配等は特に緊急を要する条件であらう。
  朝鮮農村の婦人殊に南朝鮮地方の農村婦人は勤労、増産意欲に乏しく、又家事と育児だけでも力一杯であって実際問題として増産への勤労提供の余裕もない実情である、ここに先づ問題となるのは農家の生活改善であり勤労増産の意欲を旺盛ならしめ容易に増産勤労部門へ挺身出来る様其の環境を作り上げることが大切であらう。
  第一に増産勤労婦人隣組隊の如きものを組織して生活の共同化を期し家庭生活も勤労作業も此の共同化された組織と精神に於てなさねばならぬと思ふ、そして託児所を設け又保健婦を成る可(べ)く多く嘱託し農村妊婦の保護、育児の輔導等に努めて行けば或は朝鮮婦人も容易に労働に親しみ得るであらうと思はれる。
  之れには従来と異なった相当しっかりした指導者を多く必要とするが、更に託児所、保健婦、共同炊事、食糧の特配等の指導者を得ることが最も大切であるものと思ふ、然し今日の朝鮮農村の現状として農村自体では到底そう云ふ適当な人を得ることは不可能であらう、ここで此の問題に対して真剣に考へさせられることは中等以上の教育を受けた都会の女性達が華やかに飾って喫茶店から映画館へと空虚な生活を送る嘆はしい現実である。此の女性等の胸中に果して国を想ひ非常時局を認識して勝つ為の仕事に尊い汗を注ぐ誠があるかと云ふ問題である、然し全然ないのではないが多くの場合生活の環境がしからしめたのであると思ふ。
  故に此の際思ひ切った積極的錬成対策を樹立して此等の女性を総動員してせめて農繁期の数ケ月丈でも農村に住込ませ、保健婦として託児所の保姆として奉仕せしめれば真に婦人労働力の完全なる活用が可能であるものと思はれる、之れは金肥を何百叺使ふ以上の実質的効果があるものと思はれる、之れがせめて朝鮮婦女子の勤労強化指導の一策ともなるであらうと信ずるのである。

七、朝鮮内に於ける労務規制の状況並に学校報国隊の活動状況如何
  従来朝鮮内に於ては労務給源が比較的豊富であった為に支那事変勃発後も当初は何ら総合的計画なく労務動員は必要に応じて其の都度行はれた、所が其の後動員の度数と員数が各種階級を通じて激増されるに従って略(ほぼ)大東亜戦争勃発頃より本格的労務規則が行はれる様になったのである。
  而して今日に於ては既に労務動員は最早略頭打の状態に近づき種々なる問題を露出しつつあり動員の成績は概して予期の成果を納め得ない状態にある、今其の重なる点を挙ぐれば次の様である。

(イ)、朝鮮に於ける労務動員の方式
  凡(およ)そ徴用、官斡旋、勤労報国隊、出動隊の如き四つの方式がある。
  徴用は今日迄の所極めて特別なる場合は別問題として現員徴用(之も最近の事例に属す)以外は行はれなかった、然し乍ら今後は徴用の方法を大いに強化活用する必要に迫られ且つ其れが予期される事態に立到ったのである。官斡旋は従来報国隊と共に最も多く採用された方式であって朝鮮内に於ける労務動員は大体此の方法に依って為されたのである。
  又出動隊は多く地元に於ける土木工事例へば増米用の溜池工事等への参加の様な場合に採られつつある方式である、然し乍ら動員を受くる民衆にとっては徴用と官斡旋時には出動隊も報国隊も全く同様に解されて居る状態である。

(ロ)、労務給源
  朝鮮内の労務給源は既に頭打の状態にあると云ふのが実情であらうと思はれる。
  今尚余裕があると見る向も相当にあるが然し之れは頭数のみを見、人は男女共に内地人男女と同等の能力を有するものと云ふ前提の下に立ってゐる見解である、端的には労銀の想外の昂騰が其の一つの証拠であり又朝鮮人の婦女子は潜勢力としては存在するが現実の家計収入をもたらすべき労働力としては一般に評価し得ない実状にある、斯の如く観じて来るときは朝鮮内の労務給源は非常に逼迫を告げてゐると云ふべきである。
  絶対的頭数の上から見て朝鮮の労務給源が今尚豊富であると云ふ見解から更に男子を動員することは可能であるが、然る時は婦女子のみが残ることとなり朝鮮の特殊事情から其の実質的労働力は実に薄弱なものとなるから此の点深く実態の観察調査が必要であるものと思はれる。
一例を見ると慶北安東郡の如きは総人口十七万人の内農業労務者が六万人、一般労務者に登録されたのが九千九百二十九人となって居る、此の一般労務者約一万人からは既に昭和十四年以降内地へ供出したもの六千四百二十六人、北鮮地方へ略八百人合計八千人近く既に送出したのであるから残有の労働力としては極めて僅少となって居るにも拘らず今年更に残留労務者数よりも多く内地送出を命ぜられてある為め第一線に於ける当局者及農村に於ては食糧増産上多大なる影響を及ぼすものとして憂慮しある状態である。

(ハ)、動員の実情
  徴用は別として其の他如何なる方法に依るも出動は全く拉致同様な状態である。
  其れは若し事前に於て之を知らせば皆逃亡するからである、そこで夜襲、誘出、其の他各種の方策を講じて人質的掠奪拉致の事例が多くなるのである、何故に事前に知らせれば彼等は逃亡するか、要するにそこには彼らを精神的に惹付ける何物もなかったことから生ずるものと思はれる、内鮮を通じて労務管理の拙悪極まることは往々にして彼等の身心を破壊することのみならず残留家族の生活困難乃至破滅が屡々(しばしば)あったからである。
  殊に西北朝鮮地方の労務管理は全く御話にならない程惨酷である、故に彼等は寧ろ軍関係の事業に徴用されるのを希望する程である。
  斯くて朝鮮内の労務規制は全く予期の成績を挙げてゐない、如何にして円満に出動させるか、如何にして逃亡を防止するかが朝鮮内に於ける労務規制の焦点となってゐる現状である。

(二)、労銀
  朝鮮の労働力も右の様に愈々(いよいよ)逼迫してゐる為如何なる事業も請負人に労働者を官公署が斡旋するのでなければ到底事業遂行は不可能である、故に個人が自由契約に依り四苦八苦して労働者を雇入れることになると全く驚く程想外の高賃銀を要求されるのである。
  反之(これにはんして)官公署の事業は予算其の他の関係にて右の如き高い賃銀は支払へない、そこで多くは部落連盟に請負でやらせる、故に朝鮮の部落民は官の事業には殆んど夫役(強制奉仕)の心構にて参加すると云ふ実情である。

(ホ)、学校報国隊の活動状況
  朝鮮も最近は勤労教育の強調に伴ひ学校報国隊の活動は文字通り予期以上の成績を挙げてゐるが然しそこには簡単に看過し得ない種々な問題が惹起してゐることも事実である、即ち

1.上司又は一般に対する見物式の出動で実蹟の挙らざるものあること

2.学校に依って勤労の時間、程度に於て著しき差別のあること

3.児童生徒の個々人の身心の状態を無視し一率に過重なる勤労を課し全く心身疲労し切って親達の憂慮惻々なるものあること。

  一般に朝鮮の地方農村には勤労過重なる場合が多く極端■■になれば三食とも草根木皮の粥腹である為体錬の時間にすら貧(?)血率(ママ)倒する頑是ない子供が勇々しくも鍬や鎌を手にし文字通り身を粉にして勤労に従事しつつあるのを目睹し一掬の涙なきを得ない実情である。
  朝鮮の労務規制の現状と学徒報国隊の活動状況は大略以上の如くであって端的に云へば悲観すべき点極めて多く此れを如何にして今後是正し円滑化させるかに付て考へて見るに労務管理の根本的革新が先決問題であることは云ふ迄もない、上欄にも少し述べてあるが如く一体朝鮮には戦争に必要な物資も豊富であり労働力も過剰する程にあったので、之れを戦力化するか否かは一にかかって勤労管理の善否にあったのである、其れが労務管理の根本対策が足らなかった為に今日早や行詰りを示す悲観的状態に至ったことは誠に残念と言はざるを得ないのである。
  朝鮮の労務者をして真に日本人としての所謂玉砕的勤労をなさしむる為には従来の如き形式観念的勤労管理を捨て先づ日本人としての国体思想の自覚、戦争精神の興揚、特に彼等に対する後顧に亘る幾多の指導的条件が必要である、即ち朝鮮の労務管理は思想管理、生活管理に迄及ぼさなければ万全を期することは不可能であるものと思ふ。
  朝鮮に於ける従来の労務管理が如何であったかに就ては其の現実の状況を要点だけ上欄に略述してあるが、今之れを詳細にするには相当長文にもなるし、又最早内外周知のことに属する故に、茲(ここ)に更めて蛇足を付するを避けるのであるが、然し矛盾してゐる二つの要点丈を指摘して速に改善したいのである。
  第一は未だ朝鮮にはあらゆる部門に亘り資本利潤の確保と其の増進を図る目的の下に行はれて居ること
  第二は自由主義者乃至はマルクス理論を肯定しかねない即反資本主義的インテリ―に依って組織せられて居ることの多いとである、そうして此の二つの精神要点は必然的に相矛盾し、朝鮮の労務管理担当者は此の矛盾の中に苦悩しつつあることである。
  そこへ最近特に大東亜戦争勃発以後急に湧発された国体主義的大勢の前に朝鮮人は官民上下殆んど戸惑ひしつつそれぞれ異った思想と考へ方を内包しつつ表面的に形の上では兎に角大勢に順応して来た様に見えることも事実であるが然し本当のことを云ふと勢ひ朝鮮人の国体観念戦争挺身は多く形式的ならざるを得ないのであり、従って幾多の内在的困難を生じて来て居る。
  更に最近に至り非職業労務、即ち徴用、学徒、女子挺身隊の如きものが混入され朝鮮に於ける労務管理は其の困難性を益々加重して来た感がする。
  要するに朝鮮に於ける労務管理問題の根本対策としては先づ今迄の様な官の斡旋とか一般募集の如き方法をやめて所謂皇国的制度を強化し国民皆兵としての指導精神の下に日本的給与、国体的勤労管理に戻らなければならない、即ち徴用をもっと強化し一応等しく赤子としての報告性所謂同一の資格と同一の重要性に、家族主義を融合したる絶対標準の保証を原則とし、之れに内鮮間に於ける特殊事情や勤労者個人の歴史的地位、能力、知識、技術、勤怠、労務量等を加算条件とすることである、要するに原則としては全家族を養ひ、各員をして各々其の性能に応じて尽忠報国を為し得る迄の向上を為さしめ得ることの絶対保証を速に実践しなければならないと思はれる。
  以上を以て簡単乍ら上司より内命を受けた調査事項の復命を終ることにする。
 以上
アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
【レファレンスコードB02031286700 


公文書や当局者ら発言に見る朝鮮人労務者「強制」

「復命書」とは出張報告書である。内務省嘱託小暮泰用が内務省管理局長に提出したもの。
復命書
嘱託 小暮泰用 
依命小職最近の朝鮮民情動向並邑面行政の状況調査の為朝鮮へ出張したる処調査状況別紙添付の通りに有之 右及復命候也
昭和十九年七月三十一日
管理局長竹内德治殿

目次
一、戦時下朝鮮に於ける民心の趨勢 殊に知識階級の動向に関する忌憚なき意見
二、都市及農村に於ける食糧事情
三、今次在勤文官加俸令改正の官界並に民間に及したる影響
四、第一線行政の事情 殊に府、邑、面に於ける行政浸透の現状如何
五、私立専門学校等整備の知識階級に及したる影響
六、内地移住労務者送出家庭の実情
七、朝鮮内に於ける労務規制の状況並に学校報国隊の活動状況如何

一、戦時下朝鮮に於ける民心の趨勢 殊に知識階級の動向に関する忌憚なき意見
・・・兎に角朝鮮に於ける民心の動向、思想界の傾向が最近特に大東亜戦争後激しい変り方を見せて居ることは事実であって、私が今回朝鮮に出張して調査した個人的考へからこれを結論として端的に言ふならば朝鮮の思想傾向は一般に大衆的には非常に良くなって居る。然し以上述べた様に多少悲観的傾向のあることも事実である、故に私は今回現地に於て各層階級人と直接会ひ語った資料と対象して楽観論と悲観論と云ふ二つの分野に於て見た儘、聞いた儘の事実を纏めて復命することにする、・・・左に参考の為京城に於ける有志懇談会席上に於て朝鮮人有志の希望する所の要点を記述することにする、尚出席者は左の通りである。
日時 昭和十九年六月十七日午後五時
場所 京城府 白雲荘
出席者 荒木民政課長
      小暮嘱託
      坂手属
      毎日新報編集局長 鄭寅翼
         〃 社会部長 洪鐘仁
      毎日新報社社会次長 金村承燾
      人文社代表 石田耕造
      京城拓殖経済専門学校教授兼生徒監 玉岡璿珍
      宗教家 李重宰
      京城弁護士会副会長 姜柄順
      実業家 李晟煥
右記各有志から席上希望として述べられた要点の内主なる項目のみを挙ぐれば
(ヘ)今後朝鮮より供出する労務者は従来の如き募集又は官の強制斡旋方法を改め指名徴用制を速かに実施すること

六、内地移住労務者送出家庭の実情
 従来朝鮮に於ける労務資源は一般に豊富低廉と云はれてきたが支那事変が始って以来朝鮮の大陸全身兵站基地としての重要性が非常に高まり各種の重要産業が急激に勃興し朝鮮事態に対する労務事情も急激に変り従って内地向の労務供出の需給調整に相当困難を生じて来たのである、更に朝鮮労務者の内地移住は単に労力問題にとどまらず内鮮一体と云ふ見地からして大きな政治問題とも見られるのである。
 然し戦争に勝つ為には斯の如き多少困難な事情にあっても国家の至上命令に依って無理にでも内地へ送り出さなければならない今日である、然らば無理を押して内地へ送出された朝鮮人労務者の残留家庭の実情は果して如何であらうか、一言を以て之れを云ふならば実に惨儋(さんたん)目に余るものがあると云っても過言ではない。
 蓋(けだ)し朝鮮人労務者の内地送出の実情に当っての人質的掠奪的拉致等が朝鮮民情に及ぼす悪影響もさること乍ら送出即ち彼等の家計収入の停止を意味する場合が極めて多い様である、其の詳細なる統計は明かではないが最近の一例を挙げて其の間の実情を考察するに次の様である・・・

七、朝鮮内に於ける労務規制の状況並に学校報国隊の活動状況如何
 従来朝鮮内に於ては労務給源が比較的豊富であった為に支那事変勃発後も当初は何ら総合的計画なく労務動員は必要に応じて其の都度行はれた、所が其の後動員の度数と員数が各種階級を通じて激増されるに従って略大東亜戦争勃発頃より本格的労務規則が行はれる様になったのである。
 而して今日に於ては既に労務動員は最早略頭打の状態に近づき種々なる問題を露出しつつあり動員の成績は概して予期の声価を納め得ない状態にある、今其の重なる点を挙ぐれば次の様である。
(イ)、朝鮮に於ける労務動員の方式
凡そ徴用、官斡旋、勤労報国隊、出動隊の如き四つの方式がある。
徴用は今日迄の所極めて特別なる場合は別問題として現員徴用(之も最近の事例に属す)以外は行はれなかった、然し乍ら今後は徴用の方法を大いに強化活用する必要に迫られ且つ其れが予期される事態に立到ったのである。
官斡旋は従来報国隊と共に最も多く採用された方式であって朝鮮内に於ける労務動員は大体此の方法に依って為されたのである。
又出動隊は多く地元に於ける土木工事例へば増米用の溜池工事等への参加の様な場合に採られつつある方式である、然し乍ら動員を受くる民衆にとっては徴用と官斡旋時には出動隊も報国隊も全く同様に解されて居る状態である。
(ハ)、動員の実情
徴用は別として其の他如何なる方法に依るも出動は全く拉致同様な状態である
其れは若し事前に於て之を知らせば皆逃亡するからである、そこで夜襲、誘出、其の他各種の方策を講じて人質的掠奪拉致の事例が多くなるのである、何故に事前に知らせれば彼等は逃亡するか、要するにそこには彼らを精神的に惹付ける何物もなかったことから生ずるものと思はれる、内鮮を通じて労務管理の拙悪極まることは往々にして彼等の身心を破壊することのみならず残留家族の生活困難乃至破滅が屡々(しばしば)あったからである。
アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
【レファレンスコードB02031286700
労務者強制労務者強制2労務者強制3
国民徴用令の朝鮮半島への適用は1944年9月だというが、どうやらそれ以前から強制の実態があったらしいことになる。しかし「強制斡旋」とはうまい表現で、本音と建前がこの4文字に凝縮されておりつまり図らずも絶妙な日本文化要約となっている。外国人に日本文化を紹介する際はこの一語で用が足りるのではないか。 


別の資料
[文献名] 座談会 朝鮮労務の決戦寄与力
[収録雑誌] 大陸東洋経済 [作成年月日] 1943 年 12 月 1 日 ただし座談会開催は 1943 年 11 月 9 日
[原本所蔵機関] 東京大学経済学部図書館など
[復刻等] 2001 年に龍渓書舎から復刻。
[注] 読みやすさを考慮し、一部、仮名遣い、漢字を改めている。

座談会 朝鮮労務の決戦寄与力
十一月九日・於京城
出席者(五十音順)
日窒総務課長 池田饒
朝鮮総督府農産課技師 石井辰美
朝鮮無煙炭労務主任 今里新蔵
東拓農業課長 庄田眞次郎
朝鮮総督府労務課事務官 田原実
鐘紡厚生課朝鮮出張所長 別役雄久馬
小林鉱業企画室勤務 松本重業
朝鮮土建協会理事 森武彦
朝鮮総督府文書課長 山名酒喜男
本社側 小倉支局長

募集機構の不備
記者
そうすると今まで労務の供出はどういう方法でやっておられましたか
田原
従来の工場、鉱山の労務の充足状況を見ると、その九割までが自然流入で、あ との一割弱が斡旋だとか紹介所の紹介によっています。ところが今日では形勢一変して、募集は困難です。そこで官の力-官斡旋で充足の部面が、非常に殖えています。 ところでこの官斡旋の仕方ですが、朝鮮の職業紹介所は各道に一カ所ぐらいしかなく組織も陣容も極めて貧弱ですから、一般行政機関たる府、郡、島を第一線機関として労務者の取りまとめをやっていますが、この取りまとめがひじょうに窮屈なので仕方なく半強制的にやっています。そのため輸送途中に逃げたり、せっかく山に伴われていっても逃走したり、あるいは紛議を起こすなどと、いう例が非常に多くなって困ります。しかし、それかといって徴用も今すぐにはできない事情にありますので、半強制的な供出は今後もなお強化してゆかなければなるまいと思っています

記者
現在はブローカーのような者が募集しているわけですね。
田原
いや最初は各工場の担当者が集めたが、それがうまくゆかなくなって官斡旋に した。ところが官斡旋になると石炭山に働こうというものは殆どない。そこで愛国心にう ったえるためいろいろと行政上の措置をこうじましたが、第一線では頭数だけ揃えればい いというので不適当な者を多く加えるという弊害が多くなってきました。そこでこれもいかん。やはり自分の方から出ていって、本当に働きたいという者を集めたい。がそれには募集手続きがうるさい、この手続を止めてくれぬかということになったので、募集手続きは要らんが、しかし、勝手に募集はさせない。官の斡旋という形にして、特別斡旋制度というものを作り、今年の春から実施しています。

問題は量よりも質

私のほうの土建状況から現在の需給状況を申し上げますと、全鮮で土建に使っておる労働者は日に二十五万人から三十万人が最大ではないかと思う。平均してだいたい二十万人ぐらいですが、この労務者をどういう風にして集めておるかと申しますと、いわゆる閑散人夫として、業者の手持で始終連れて歩く土建専門の人夫、これが現在五万そこそこです。それから工事を起こす現場の近くから集まってくる地方民がまず三万そこそこ、合わせてだいたい八万位は得られます。そこであとの十二万はどうなるかというと、これは全部官の御斡旋によるものです。つまり総督府に御斡旋願うのがだいたい四万人から五万人、道内で斡旋していただく勤労隊が約八万人、合わせて十二、三万人です。 先程徴用というお話もありましたが、私の方で官に斡旋して戴いている十二、三万人は 殆ど徴用に近い行政上の強力な勧誘で出ております。もしこれがうまく行けば、必ずしも徴用をせんでも、このほうがよいようです。

池田
私の方の頭痛の種は必要なだけの数が得られないのと、移動が非常に多いことです。去年などは入ってきた労務者が、年内にほとんど全て出て行ったという有様です。 これは官斡旋で来た者が大部分ですが、縁故募集で来ましたのは歩留りがよく、半分位止まります。結局労働意思のない者を頭数だけ無理に集めて来ても無駄という感じがします。 あまりに移動が激しいので、現在ではちょっと匙を投げたというか、出る者は追わず(笑 い声)という形になっておりますが、何とかしてこれを止める事ができたら能率もぐっと挙がるでしょう。
http://www.sumquick.com/tonomura/data02/120723_02.pdf

おまけ
宇垣一成が朝鮮総督を務めた時代(1927年-1936年)に政策顧問を勤め、同時に韓国統監府の機関紙である京城日報社の社長も勤めた鎌田澤一郎は著書『朝鮮新話』1950年において、南次郎が朝鮮総督であった時代(1936年-1942年)の労務者の強制的な徴募方法について、
 
もつともひどいのは労務の徴用である。戦争が次第に苛烈になるに従って、朝鮮にも志願兵制度が敷かれる一方、労務徴用者の割当が相当厳しくなつて来た。納得の上で応募させてゐたのでは、その予定数に仲々達しない。そこで郡とか面(村)とかの労務係が深夜や早暁、突如男手のある家の寝込みを襲ひ、或ひは田畑で働いてゐる最中に、トラックを廻して何げなくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭鉱へ送り込み、その責を果たすといふ乱暴なことをした。但(ただ)総督がそれまで強行せよと命じたわけではないが、上司の鼻息を窺ふ朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやつてのけたのである。
 
と証言している[61][62]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E5%BC%B7%E5%88%B6%E9%80%A3%E8%A1%8C

朝鮮公論1944年10月号

■国家興亡戦と勤労動員 松本誠
従来は、機密保持の関係上広告募集の出来ない、国の行ふ総動員業務の工場事業場に限り徴用を行ひ、民間の工場事業場に対しては、官の斡旋に依って労務を充足して来たのであるが・・・労務事情が逼迫して来たのと、朝鮮では、労務の官斡旋に多少の行過があり、弊害の虞もあったので九月から従来の官斡旋を徴用に振替へ正規の手続を以て行ふこととなったのである。・・・巷間伝ふる所に依れば朝鮮民衆中徴用を忌避する傾向ありとのことであるが・・・(筆者前金連会長)(11-13頁)
https://dl.ndl.go.jp/pid/11187229/1/9

■座談会「労務動員の現況と其の対策」
日笠博雄(朝鮮総督府労務課長)「官斡旋に関しては事実上の出動を已むを得ざる場合は或程度強制して重点方面に労務動員をしてをったのでありますが、これに関しては従来弊害が多少見受けられました。これは何故かといふと、産業戦士として戦力増強、物資の生産に当る者を、一種の斡旋に依って自ら希望した形を取るやうな姿であったことは、国家的に必要な労務動員に出て貰ふといふ要請と、自己の意思に依って出て行くといふ所に相克があった為に、問題が多かったのであります。それで徴用を急速にやらうといふ方針を決定して、今年の一月から現員徴用といふことを受入れ態勢の準備として、重要鉱山、工場、事業場に行って来たのであります。(52頁)
https://dl.ndl.go.jp/pid/11187229/1/30

「極秘」印
一四 労務事情
(一)朝鮮
支那事変勃発依頼朝鮮は豊富なる地下資源水力電源等の好立地条件に恵まれ各種重点産業並に之が付帯産業の発展著しく随って之に伴ふ労務需要も亦逐年飛躍的に増加を見るに至れり。即ち鮮内に於ける国民動員計画上の一般労務者新規需要数は毎年度約三十万人(昭和十九年度二十四万人)に上り其の内減耗補充要員を除くも毎年約十五万人乃至約十八万人(昭和十九年度は十六万四千人)の増加を見つつあり。他面国民動員計画に基き昭和十四年度以降内地、樺太、南洋群島等に対し送出したる労務者数は昭和十九年度末迄に既に六十三万、軍要員として送出したる者昭和十九年九月末迄の累計九万に垂んとし之等大量の青壮年層の動員に因り従来豊富を誇れる鮮内労働事情も最近著しく変化し労務需給の調整は相当困難なる段階に達しつつあり。斯かる情勢に鑑み国民徴用令の全面的発動を実施するの方針を決し単に工場のみならず鉱山に対しても徴用を行ふこととし現員徴用に付ては昭和十九年二月八日を第一回とし爾来十一月末日現在に至る迄の其の数一四四ヶ所約十六万人に達せり。又新規徴用に付ては従来軍要員のみに付発動し来り其の数昭和十九年末現在に於て四万一千人に達せるが、昭和十九年八月以降民間に対しても之を行ふこととなり十月末現在に於て約一万人の徴用を実施したる外内地への労務者送出に付ても原則として徴用に依り之を行ふこととし十月末現在に於て其の数約四万人に達せり。尚右の外勤労報国隊の強化、学徒並に女子労務の積極的活用等諸般の対策を講じ以て鮮内外の二面的供出と重要物資生産の増強とに遺憾なからしむべく施策の万全を期しつゝあり。

参考 昭和十四年度以降の労務者計画移入数
計画実情
昭和14年度85,000人38,700人
昭和15年度88,80054,944
昭和16年度81,00050,322
昭和17年度130,000126,060
昭和18年度125,000133,050
昭和19年度320,000206152(十二月末現在)

計画移入労務者の就業先は炭坑及土建業を主とするも鉄鋼業其の他重要工業への配置も増加しつつあり。単身渡来期限二ヶ年を原則とせるも内地の労務事情に鑑み之が期間延長の奨励指導を加へ来れるが特に昭和二十年度に於ては輸送事情の逼迫に因り新規移入に多きを期待し得ざるを以て定着の指導を一層強化せざるを得ざる状況に在り。

(二)台湾
(省略)
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/B02031291700(5・6画像目)



植民地朝鮮での「志願兵」「女子挺身隊」以外の公的募集・動員


復命書
嘱託 小暮泰用 
依命小職最近の朝鮮民情動向並邑面行政の状況調査の為朝鮮へ出張したる処調査状況別紙添付の通りに有之右及復命候也
昭和十九年七月三十一日
管理局長竹内德治殿

七、朝鮮内に於ける労務規制の状況並に学校報国隊の活動状況如何
  従来朝鮮内に於ては労務給源が比較的豊富であった為に支那事変勃発後も当初は何ら総合的計画なく労務動員は必要に応じて其の都度行はれた、所が其の後動員の度数と員数が各種階級を通じて激増されるに従って略大東亜戦争勃発頃より本格的労務規則が行はれる様になったのである。
  而して今日に於ては既に労務動員は最早略頭打の状態に近づき種々なる問題を露出しつつあり動員の成績は概して予期の成果を納め得ない状態にある、今其の重なる点を挙ぐれば次の様である。

(イ)、朝鮮に於ける労務動員の方式
凡そ徴用、官斡旋、勤労報国隊、出動隊の如き四つの方式がある
徴用は今日迄の所極めて特別なる場合は別問題として現員徴用(之も最近の事例に属す)以外は行はれなかった、然し乍ら今後は徴用の方法を大いに強化活用する必要に迫られ且つ其れが予期される事態に立到ったのである。
官斡旋は従来報国隊と共に最も多く採用された方式であって朝鮮内に於ける労務動員は大体此の方法に依って為されたのである。
又出動隊は多く地元に於ける土木工事例へば増米用の溜池工事等への参加の様な場合に採られつつある方式である、然し乍ら動員を受くる民衆にとっては徴用と官斡旋時には出動隊も報国隊も全く同様に解されて居る状態である
 アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/
【レファレンスコードB02031286700 

以下も当時の朝鮮で募集・動員が行われた例だが、これらが朝鮮人を対象としていたか、それとも朝鮮在住の日本人を対象としていたかが不明である。

白取道博 「満州建設勤労奉仕隊」に関する基礎的考察」北大教育学部紀要 2000年3月
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/29621/1/80_P277-295.pdf
p292「第1表 『満州建設勤労奉仕隊』編成形態の推移」で1939~41年度に「朝鮮隊、朝鮮班」


 川瀬俊治「『紀元二千六百年祝典』と在日朝鮮人」天理大学人権問題研究室紀要第9号、2006年 65ページ~
https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/2469/JNK000904.pdf
 1940年11月10日の「紀元二千六百年祝典」は、『古事記』「日本書紀』の伝承上の人物である神武天皇即位から数えて2600年にあたるとして行われた政府主催の奉祝行事であり空前の国家イベントであった。 
 神武天皇をまつる奈良県高市郡畝傍町(現橿原市)の橿原神宮ではその記念事業の一環として神宮境域と外苑の拡張整備事業が行われたが、日本各地のほか朝鮮、台湾、満州国、関東州などからも勤労動員して、1938年6月8日から1939年11月26日までの507日間作業を続け事業を進めた。建国奉仕隊と名づけられたこの勤労奉仕隊は507日間で約120万人が勤労奉仕した。・・・
 建国奉仕隊と朝鮮人の関わりでは、いくつか特徴をあげることができる。
(ⅲ)朝鮮からの動員では朝鮮人生徒・学生の勤労奉仕が顕著であった。・・・(p65)
 さて文頭で挙げた4項目のうち(ⅲ)の朝鮮人生徒・学生の動員についてである。朝鮮本土では「皇国臣民」化を促進する「改正朝鮮教育令」公布後の国家的事業であったことと関係が深い。
 朝鮮では朝鮮総督府は1939年6月、学校正科として中等学校の男女、専門大学校10万余名動員を打ち出す。 第一陣が同年7月1日から始まった朝鮮神宮奉賛殿広場の拡張工事であ った
 20人を代表団とした建国奉仕隊はその一年前から始まっており、先鞭役を担ったともいえる。また派遣の時期とほぼ同時期に京畿道中等学校が1万余名の生徒を動員して勤労報国隊を結成する方針が伝えられてもいた。(p71・72)

また同論文の注では、
 (49)判明している朝鮮からの建国奉仕隊は1938年6月8日の青年代表団のほか記すと 以下のとおり。但し、統計は民族別ではなく地域別のため以下の35団体に日本人が含まれている団体もある。今後、団体別に検証することが課題でもある。▼1938年=①7月 27日、28日=開城府青年団20人(27日)、26人(28日 )②8月5日=仁川神社参拝奉仕隊10人③12月1日=朝鮮「各府郡」の青年24人▼1939年=④2月9日、10日=国民精神総動員専売連盟各46人⑤2月10日=朝鮮総督府鉄道局22人⑥3月3日=朝鮮煙草小売組合67人⑦ 3月4回、5日=朝鮮煙草小売組合62人(4日 )、69人(5日)⑧3月18日=慶尚北道巡査教習中の青年32人⑨4月1日=鎮南浦公立高校生64人⑩4月18日=朝鮮釜山公立高女86人⑪4月21日、22日、23日=朝鮮清州1中各100人⑫4月29日=慶尚南道東莱公立中学85人⑬5月9日、10日=朝鮮清州商業各55人⑭5月10日=晋州農業学校 60人⑮5月13日木浦高等女学校104人⑯6月6日=木浦府公立商業学校5年生84人⑰6月8日=朝鮮師範 (人数不明 )⑱6月10日=晋州公立農業学校55人⑲6月10 日=平壌公立商業学校 46人⑳6月14 日=光州西中学生80人㉑6月18日=仁川自治会25人㉒6 月18日=仁川商店60人㉓6月22日=忠州煙草耕作組合27人㉔6月22日、23日=京畿公立中学各92人㉕7月25日=平安北道金融組合職員21人㉖9月9日=平壌公立第2中学142人㉗9月22日=馬公山商業学校57人㉘ 9月22日=忠清南道御景立商業学校40人㉙9月30日=礼山公立農業学校生徒36人㉚10月2日=全州公立高女110人㉛10月6日=清川公立農業学校四九人㉜10月10日=朝鮮裡里高女35人㉝10月12日=金海公立農業学校35人㉞10月19日=平安北道教員視察団㉟11月15日=全鮮恩報国聯盟聯合50人。この中で学生、教員など学校関係は、⑨、⑩、⑪、⑫、⑬、⑭、⑮、⑯、⑰、⑱、⑲、⑳、㉔、㉖、㉗、㉘、㉙、㉚、㉛、㉜、㉝、㉞の22 団体になる。詳 しくは前掲拙稿「『紀元二千六百年祝典』と朝鮮人建国奉仕 隊 」。(p75)
 
【研究資料】植民地朝鮮の女学校・高等女学校といけ花・茶の湯・礼儀作法
―植民地台湾との相互参照を加えて―小林善帆
http://202.231.40.34/jpub/pdf/js/IN4707.pdf
二 朝鮮人を対象とした公立の女学校・高等女学校 
1京畿公立高等女学校(現京畿女子高等学校、ソウル)
⑴沿革
一九〇八(明治三二)年四月純宗勅命により官立漢城高等女学校設置、初代校長魚允迪。一九一一(明治四四)年八月、朝鮮教育令公布により官立京城女子高等普通学校に改称、三年制。一九一三(大正二)年四月、第二代校長太田秀雄就任、一九一九 (大正八)年第三代校長長田富作就任。一九二二(大正一一)年第二次朝鮮教育令公布により「国語を常用セサル者ニ普通教育ヲ為ス学校」として京城公立女子高等普通学校と改称、四年制となる。一九二五(大正一四)年、第四代校長高本千鷹就任。一九三八(昭和一三)年四月、第三次朝鮮教育令による高等女学校の一本化として京畿公立高等女学校と改称。一九四一(昭和一六)年四月、第五代校長に朝鮮人朴寛洙・日本名琴川寛が就任。生徒はすべて朝鮮人であり、朝鮮人女子が通う伝統校として知られた。
 
表 1 京畿公立高等女学校(京城公立女子高等普通学校)写真帖一覧
1938年(昭13) 
「皇国臣民ノ誓詞」(昭和12年10月6日愛国日初斉唱)、校舎と白松寮、割烹・理科室、編み物、裁縫、観能会(創立記念日)、雛祭り会(講堂・生徒琴演奏三面)、田植え・稲刈り(勤労体験)、スポーツ、昌慶苑スケート、皇軍献納の尽忠憤努志製作ほか、愛国子女団発団式(昭和12年12月18日)、南京陥落の快報、「内地」修学旅行(宮島・伊勢 神宮・李王家)、昌慶苑の一日と朝鮮神宮参拝、謝恩会洋服
1940年(昭15)
皇国臣民ノ誓詞、校舎と白松寮、奉安殿落成式、南京陥落の快報、愛国子女団発団式、出征勇士を送る、勤労報国作業、田植え・稲刈り、割烹会、校友会(技能部・茶の湯)、皇国臣民誓詞之柱、昌慶苑、「内地」修学旅行(橿原神宮建国奉仕隊作業・伊勢神宮・李王家)
1941年(昭16)
皇国臣民ノ誓詞、校舎と白松寮、奉安殿落成式、特設防護団、体育大会、勤労作業、割烹会、校友会、茶の湯・生花(盛花)、昌慶苑・秘苑、 「内地」修学旅行(橿原神宮・伊勢神宮)、韓国人・日本人名


2釜山港公立高等女学校(現、慶南女子高等学校、釜山)
⑴沿革
一九二七(昭和二)年四月、釜山公立女子高等普通学校開校、四年制。一九二九(昭和四)年、釜山府水晶町五五八番地に新校 舎落成につき移転。一九三一(昭和六)年三月第一回卒業式、卒業生四二名であった。一九三八(昭和一三)年四月、第三次朝鮮教育令公布に伴い釜山港高等女学校と改称、生徒はすべて朝鮮人であった。朝鮮人を対象とした公立の高等女学校としては、京畿公立高等女学校、平壌公立西門高等女学校に次ぐ設置であった。
 
表 2 釜山港公立高等女学校(釜山公立女子高等普通学校)写真帖一覧
1939年(昭14)
奉安殿・大麻殿の写真が巻頭、以後同様、教師軍服、寄宿舎、作法 教室初出(「その一」洋室で紅茶・「その二」和室で煎茶)、菊花栽培、部活動(テニス・卓球・競技・バスケットほか)、「内地」修学旅行 (李王家)、慰問袋、勤労報国隊
1940年(昭和15)
名簿・ほとんどが韓国名、紀元 2600 年記念碑「八紘一宇」が以後巻頭写真に加わる、寄宿舎漬物など、作法教室・和・洋、「内地」修学 旅行(橿原神宮建国奉仕隊作業・明治神宮)
1941年(昭和16)
日本名が多くなる、勤労奉仕作業、珠算、女子青年団結成式、部活 (テニス・卓球・水泳・バスケ・バレー・陸上競技)、「内地」旅行、遠 足
1942年(昭17)
ほぼ日本名、紀元2602年明記される、薙刀、「勤労報国隊」(稲刈り・ 土運びなど)、菊花栽培、「内地」修学旅行、和室作法室

京城日報 1941.9.23(昭和16)
国民皆労座談会 (一~六)

出席者
朝鮮連盟総長 川岸文三郎氏 
同 総務部長 烏川 喬源氏 
同 宣伝部長 御手洗辰雄氏 
朝鮮軍参謀大佐 山之内二郎氏 
総督府労務課長 林 勝寿氏 
城大教授 森谷 克己氏 
鐘紡京城工場長 片岡 勉氏 
社会思想家 青山覚鐘氏 
(旧名李覚●) 
三千里社長 白山 青樹氏 
(旧名金東●) 
淑明女専教授 豊川淑宰女史 
京城友の会 花山芳子女史 


林労務課長 
御指名によりまして朝鮮における国民皆労運動の趣旨および勤労報国隊の要旨について申上げてみたい、・・・
従って半島二千四百万民衆が真に国運を隆昌に導く原動力、推進力として一斉に起上る、ということが朝鮮に於る国民皆労運動の趣旨であります・・・

この運動を起す場合においていろいろな実践の方法が考えられるのではありますが、その一つとして、国民勤労報国隊の結成について簡単に申上げますと以上申上げました趣旨から老幼不具廃疾者その他特殊な者を除きまして一人もブラブラ遊んでいる者のないように、不労者、有閑者または無職者を朝鮮から一掃するという目的のために勤労報国隊の結成をお願い致したいと思うのであります 
この勤労報国隊はドイツでやっておりますような労働奉仕というような考え方も多分にはいっておりますが、その狙い所は一定年齢層、すなわち大体十四歳以上四十歳までの男子、十四歳から二十五歳までの未婚の女子につきまして一年間を通じ約三十日未満の間は本業のほかに国家、公共団体、その他政府の指定する重要事業に働いて頂く、そうして自分の仕事のほかに余分に国家奉仕をして頂くという趣旨であります、そうしてこれが結成については府邑面連盟、学校連盟、その他特殊連盟というような総力連盟の単位を通じて結成して頂きたいと思います

林労務課長
従来朝鮮で道路の修理そのほかに賦役という制度があったことは御承知の通りでありますがこの賦役と勤労報国隊との根本的な相違は前者は労働の強制でありかつまた賦役に出る人が極めて特定な限られた人、すなわち一部の下層階級の人であったのであります。しかし勤労報国隊の狙いどころはあくまでも自発的、積極的な愛国運動であって民衆から真に盛り上がった愛国精神に基づいて国家的、公共的方面の仕事に労力を提供して戴くのであります。従って勤労運動は単に賦役で狙っておるような単純な肉体的な労働ばかりでなく精神的な労務をも意味するのであって、肉体的精神的なあらゆる自己の技能を通じて国家に奉仕して貰うのであります 

【慰安婦】米報告書について誤解を招く産経報道

その記事
2014.11.27 05:10
米政府の慰安婦問題調査で「奴隷化」の証拠発見されず…日本側の主張の強力な後押しに

米政府がクリントン、ブッシュ両政権下で8年かけて実施したドイツと日本の戦争犯罪の大規模な再調査で、日本の慰安婦にかかわる戦争犯罪や「女性の組織的な奴隷化」の主張を裏づける米側の政府・軍の文書は一点も発見されなかったことが明らかとなった。戦時の米軍は慰安婦制度を日本国内の売春制度の単なる延長とみていたという。調査結果は、日本側の慰安婦問題での主張の強力な補強になることも期待される。

米政府の調査結果は「ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班(IWG)米国議会あて最終報告」として、2007年4月にまとめられた。米側で提起されることはほとんどなかったが、慰安婦問題の分析を進める米国人ジャーナリスト、マイケル・ヨン氏とその調査班と産経新聞の取材により、慰安婦問題に関する調査結果部分の全容が確認された。

調査対象となった未公開や秘密の公式文書は計850万ページ。そのうち14万2千ページが日本の戦争犯罪にかかわる文書だった。

日本に関する文書の点検基準の一つとして「いわゆる慰安婦プログラム=日本軍統治地域女性の性的目的のための組織的奴隷化」にかかわる文書の発見と報告が指示されていた。だが、報告では日本の官憲による捕虜虐待や民間人殺傷の代表例が数十件列記されたが、慰安婦関連は皆無だった。

報告の序文でIWG委員長代行のスティーブン・ガーフィンケル氏は、慰安婦問題で戦争犯罪の裏づけがなかったことを「失望」と表明。調査を促した在米中国系組織「世界抗日戦争史実維護連合会」の名をあげ「こうした結果になったことは残念だ」と記した。

IWGは米専門家6人による日本部分の追加論文も発表した。論文は慰安婦問題について(1)戦争中、米軍は日本の慰安婦制度を国内で合法だった売春制の延長だとみていた(2)その結果、米軍は慰安婦制度の実態への理解や注意に欠け、特に調査もせず、関連文書が存在しないこととなった-と指摘した。

ヨン氏は「これだけの規模の調査で何も出てこないことは『20万人の女性を強制連行して性的奴隷にした』という主張が虚構であることを証明した。日本側は調査を材料に、米議会の対日非難決議や国連のクマラスワミ報告などの撤回を求めるべきだ」と語った。(ワシントン駐在客員特派員・古森義久)


【ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班(IWG)】 
クリントン政権時代に成立した「1998年ナチス戦争犯罪開示法」と「2000年日本帝国政府開示法」に基づき、第2次大戦での日独両国の戦争犯罪の情報開示を徹底させる目的で00年に始まった調査。国防総省、国務省、中央情報局(CIA)、連邦捜査局(FBI)などに未公開の公式文書を点検し戦争犯罪に関する資料の公開を指示した。


ではどこが誤解を招くのか。以下3つ挙げる。


【誤解1】調査対象・調査範囲
 
「文書は一点も発見されなかった」とあるが、記事に「調査対象となった未公開や秘密の公式文書は…」とある通り、公開済み文書は調査対象外である。「最終報告」にはこうある。
The IWG uncovered and released few Asian theatre records because few such U.S. records remained classified. Unclassified records were not under IWG jurisdiction.(Prefaceのxiiページ)
http://www.archives.gov/iwg/reports/final-report-2007.pdf
〔訳〕IWGはアジア戦域の記録をほとんど発見・発表しなかったが、そのような米国の記録で機密扱いのままの物がほとんど無いためである。機密でない記録はIWGの管轄ではなかった

The Disclosure Acts required the IWG to locate classified Nazi and Japanese war criminal and war-crimes related records held by the United States, recommend the declassification of these records, and make them available to the public (with specific exceptions). (p26・27)
〔訳〕開示法がIWGに求めたのは、ナチと日本の戦犯そして戦争犯罪に関して米国が保有する機密記録を突き止め、それらの記録の機密解除を(各省庁に)勧告し、それらの記録を公衆が利用できるようにすることであった(特定の例外を除く)。

つまりIWG調査は「米国内の」「機密文書」が対象であり、つまりその範囲では"ほとんど"無かった、ということでしかない。しかし産経記事を読むと、あたかも公開済・既知の文書も含めて、全文書資料を探しても一つも存在しないかのように読めてしまう。もしそう読んでしまう人がいればそれは誤解である。


では公開済・既知の文書、あるいは米国外の文書を含めればどうかというと、たとえば”テキサス親父”トニー・マラーノ氏が紹介して最近有名になった(が実は90年代から知られている)1944年作成米軍文書がある。これは慰安婦と業者の証言をまとめたものだが、慰安婦は騙されて連れてこられたと書いてある。
PREFACE
This report is based on the information obtained from the interrogation of twenty Korean "comfort girls" and two Japanese civilians captured around the tenth of August, 1944 in the mopping up operations after the fall of Myitkyin a in Burma.

RECRUITING;
Early in May of 1942 Japanese agents arrived in Korea for the purpose of enlisting Korean girls for "comfort service" in newly conquered Japanese territories in Southeast Asia. The nature of this "service" was not specified but it was assumed to be work connected with visiting the wounded in hospitals, rolling bandages, and generally making the soldiers happy. The inducement used by these agents was plenty of money, an opportunity to pay off the family debts, easy work, and the prospect of a new life in a new land, Singapore. On the basis of these false representations many girls enlisted for overseas duty and were rewarded with an advance of a few hundred yen.

 
〔訳〕
序文(※訳原文は「はじめに」) 
この報告は、1944年8月10日ごろ、ビルマのミッチナ陥落後の掃討作戦において捕らえられた20名の朝鮮人「慰安婦」と2名の日本の民間人に対する尋問から得た情報に基づくものである。・・・

募集(※訳原文は「徴集」)
1942年5月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性を徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地シンガポールにおける新生活という将来性であった。このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2、3百円の前渡金を受け取った。https://web.archive.org/web/20140331185137/http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n185650



「第4野戦飛行場設定隊 陣中日誌」9月1日の項に「五、当地にも半島人の慰安所の開設を見、本日より開業さる」(アジア歴史資料センターhttps://www.jacar.go.jp/ レファレンスコードC16120239600(1画像目)

第4野戦飛行場設定隊は当時ミャンマーにあった


騙して外国へ連れて行くのは誘拐罪である。 
判例 
戦前、中国・上海の海軍慰安所で「従軍慰安婦」として働かせる目的で、日本から女性をだまして連れて行った日本人慰安所経営者らが、 国外移送目的の誘拐を禁じた旧刑法226条の「国外移送、国外誘拐罪」(現在の国外移送目的略取・誘拐罪)で1937(昭和12)年、大審院 (現在の最高裁)で有罪の確定判決を受けていた。〈中略〉「国外移送誘拐被告事件」と題されたこの判例によると、事件の概要は、 上海で軍人相手に女性に売春をさせていた業者が、32年の上海事変で駐屯する海軍軍人の増加に伴い、「海軍指定慰安所」の名称のもとに 営業の拡張を計画。知人と「醜業(売春)を秘し、女給か女中として雇うように欺まんし(*1)、移送することを謀議」し、知人の妻らに手伝わせ、 長崎から15人の日本人女性を上海へ送った。
http://d.hatena.ne.jp/s_kotake/00010101

(予審判事の尋問に)被害女性らは「上海に行きたるところ同所は海軍軍人相手に専ら売淫をなす所なりし故欺かれたる事が判り悲しくなり」「逃げ帰るにしても旅費無かりし故仕方なく醜業に従事した」などと証言している。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1218742442


(*1)この様な騙し方が可能だったのは、当時は「慰安所」「慰安婦」という単語が一般人には理解出来なかったからである。従軍慰安婦資料集(2)募集・契約他の「当時『慰安所=売春宿』という意味用法は一般的ではない。女性が騙された原因」の項を参照。この事件では、被害者女性だけでなく業者自身も「慰安所」の意味が分からなかったようで、他の業者から説明されて初めて「海軍慰安所が客取り売淫を為さしむる所なる事を知りたり」などと供述している。


ちなみに別の米軍文書では、朝鮮半島では軍が業者を募り許可と便宜を与えていたと記されている。
ATIS Research Reports No. 120 Amenities in the Japanese Armed Force, Nov. 15, 1945,

b. BURMA 
A prisoner of war, a civilian brothel owner captured with his wife and twenty army prostitutes near WAINGMAW on 10 August, 1944 stated:

“Prisoner of war, his wife and sister-in-law had made some money as restaurant keepers in KEIJO, KOREA, but their trade declining. They looked for an opportunity to make more money and applied to Army Headquarters in KEIJO for permission to take “comfort girls” from KOREA to BURMA. According to prisoner of war, the suggestion originated from Army Headquarters and was passed to a number of similar Japfanese ‘business men’ in KOREA.

“Prisoner of war purchased 22 Korean girls, paying their families from 300 to 1000 yen according to the personality, looks, and age of the girl. These 22 girls were of ages from 19 to 31. They became the sole property of prisoner of war and the Army made no profit from them. Headquarters, Korean Army gave him a letter addressed to all military headquarters of the Japanese Army, requesting them to furnish any assistance he might require, ransport, rations, medical attention, etc.

“Leaving his sister-in-law to carry on the restaurant, prisoners of war and his wife, with their 22 girls, embarked at FUSAN on 10 July 1942 in a group of 703 girls, all Korean, and some 90 Japanese men and women, all of them of the same base sort as himself. They sailed on a 4000 ton passenger ship in a convoy of seven ships. Free passage tickets were provided by Army headquarters, but prisoner of war paid for all meals during the voyage. They called at FORMOSA, where 22 other girls bound for SINGAPORE were taken on board, and at SINGAPORE they transferred to another ship, arriving at RANGOON on 20 August 1942.

訳〕
連合軍通訳翻訳部(ATIS)調査報告第120号 日本軍における各種アメニティー 1945年11月5日

b. ビルマ
捕虜、1944年8月10日ワイモウ付近で、その妻および従軍売春婦20名とともに捕獲された売春宿経営(民間人)の供述

捕虜、その妻、および義理の姉妹は、朝鮮の京城にて食堂経営者としてそれなりに稼いでいたが、客足は減ってきていた。彼らはより多く稼ぐ機会を得ようと、京城の陸軍司令部に応募して、「慰安婦」を京城からビルマへ連れて行く許可を求めた。捕虜によると(応募して許可を求めるようにという)示唆は、もともと陸軍司令部から出たもので、同じような多数の日本人「業者」にもそれは伝えられていた。

捕虜は朝鮮人女性22名を買った、女性の性格、容姿、年齢に応じて300~1000円を彼女の家族に支払った。これら22名の女性の年齢は19~31歳であった。女性たちはこの捕虜の占有財産となり、陸軍は彼女たちから儲けを得なかった。朝鮮の日本軍司令部は、(経由地)全ての陸軍司令部に宛てた書簡を捕虜に与え、移送、食糧、医療など、捕虜が必要とした場合の援助は全て提供するよう要請した

食堂を続けるために義理の姉妹を残して、捕虜とその妻は22名の女性を連れ、全員が朝鮮人からなる女性703名、および全員が捕虜と同じ類の者たちからなる日本人男女およそ90名の団体の一員として、1942年7月11日に釜山を出航した。7隻からなる船団の中で、一行は4000トンの旅客船に乗って航行した。陸軍司令部からは無料乗船券が提供されたが、航海中の食事は捕虜が全額支払った。台湾に寄港した際、シンガポールへ向かう女性22名が新たに乗船した。その後シンガポールに寄港した際に、一行は別の船に乗り換え、1942年8月20日にラングーンに到着した。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=5973321&id=69159819



またテキサス親父紹介文書と同じ1944年、米軍新聞の記事で朝鮮出身慰安婦は「婦人部隊」の名目で募集されたと証言している。過去エントリ「慰安婦と挺身隊の混同、というウソ。混同ではない。」から再掲する。
最初に紹介したいのは、ワシントンのナショナルアーカイブに保存されている「ラウンドアップ」というビルマにいた米軍兵士の間で読まれていた新聞である。・・・

「ラウンドアップ」のタイトルは、「日本の慰安婦」(原文:"JAP COMFORT GIRLS")で、ウォルター・ランドルという記者によって執筆された。・・・ 

インタビューをもとにまとめられたこの記事によると、慰安婦達の年齢は、24歳から27歳で、捕虜となるまでの経緯は以下のようであった。

1942年の4月初め、日本の官憲が朝鮮の平壌近くの村に来た。彼らは、ポスターを貼ったり大会を開くなどして、シンガポールの後方基地勤務で基地内の世話をしたり病院の手伝いをする挺身隊(原文では"WAC"organizations)の募集を始めた(*1)。4人はどうしてもお金が必要だったのでそれに応じたという。ある女の子は、父親が農民で、ひざを怪我してしまったので、応募の際に貰った1,500円(米ドルで12ドル:原文)で、治療代を工面したという。そのような形で集められた18人の女の子の集団は、同年6月にいよいよ朝鮮から南へと出港することとなった。道すがら彼女たちは、日本の大勝利と南方で新しく生まれようとしている共栄圏についての話をたくさん聞かされた。しかし、船が約束のシンガポールに立ち寄っただけで、そのまま通過してしまってからは心配な気持ちが広がり始めた。ビルマのラングーンから北へと向かう列車に積み込まれたときには、もはや逃れられないと運命を悟ったという。


傍線部原文
 They said that early in the spring of 1942 Japanese political officers arrived in their home village, Pingyang, Korea. With propaganda posters and speeches the Japs began a recruitment campaign for "WAC" organizations which they said were to be sent to Singapore to do noncombatant work in rear areas - running rest camps for Japanese troops, entertaining and helping in hospitals.
https://web.archive.org/web/20081007214748/http://home.comcast.net/~cbi-theater-5/roundup/roundup113044.html

(*1)WACとはWomen's Army Corps(陸軍婦人部隊)という、当時米軍に存在した組織の略称と考えられる。米国陸軍軍事史センターのサイトによると

Over 150,000 American women served in the Women's Army Corps (WAC) during World War 11〔ママ〕.
http://www.history.army.mil/brochures/wac/wac.htm 
〔訳〕第二次大戦の間、15万人超の米国女性が陸軍婦人部隊(WAC)で勤務した。

傍線部では"WAC"organizationsを「挺身隊」としているが、慰安婦が聞き取りで実際にどういう表現を用いたかは分からない。WACと英訳されるようなものは、当時の日本では挺身隊の他に報国隊、奉仕隊などがあるだろう。慰安婦はそれらの単語を使ったか或いは類似の表現を行い、それを通訳を介して米軍紙記者が「WAC」と書いたわけである。


これもやはり誘拐事例であり、また同時に「慰安婦=挺身隊」という韓国側の認識が生じた原因と考えられる。韓国側は「混同」しているのではない。実際にそうやって「騙された」のである。


あるいは東京裁判判決文という勿論公開済みの資料にはこうある。
極東国際軍事裁判所 判決
B部 第八章 通例の戦争犯罪(残虐行為)(159枚目)

桂林を占領している間、日本軍は強姦と掠奪のようなあらゆる種類の残虐行為を犯した。工場を設立するという口実で、かれらは女工を募集した。こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した。(183枚目)

アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/
【レファレンスコード】A08071307600
桂林2桂林

英文
During the period of Japanese occupation of Kweilin, they committed all kinds of atrocities such as rape and plunder. They recruited women labour on the pretext of establishing factories. They forced the women thus recruited into prostitution with Japanese troops.(185枚目)
【レファレンスコード】A08071272300
桂林英文


あるいは有名なインドネシアの白馬事件(スマラン事件)について、米国外にはこのような資料がある。
「軍強制」詳細開示 / 慰安婦記録で公文書館 /河野談話から20年
2013/10/07 

法務省によると、資料名は「BC級(オランダ裁判関係)バタビア裁判・第106号事件」。 ・・・

計約530枚で、法務省がこれらを要約したものが談話作成の際に集められた資料の一つとなった。原資料は99年に同省から公文書館に移管され、神戸市の市民団体の請求に対し、9月下旬に開示した。

元陸軍中将の判決文などによると、戦時中の44年、ジャワ島スマラン州に収容されていたオランダ人女性を、日本軍将校が命じて州内4カ所の慰安所に連行し、脅して売春させた。

判決文には将校らの証言として「州警察の長に、遊女屋用の女をキャンプで選出するよう依頼した」「婦女は○○ (将校の名)の要請により州の役人が連れ出した」「女たちは遊女屋に入るまで、どういう仕事をするのか聞かされていなかった」と記載されている。

(能崎)中将が帰国後の66年、石川県庁で行われた聞き取り調査の記録によると、中将は「連合軍の取り調べとなると、婦人たちもあることないこと並べたて、日本軍部を悪口する」と戦犯法廷に反論する一方、「(慰安婦となる)承諾書を取る際も若干の人々に多少の強制があった」と述べた。

http://www.47news.jp/47topics/e/246352.php


あるいはオランダ政府は1990年代、白馬事件他について政府所蔵文書を調査し報告書を作成している。これも米国外の資料である。以下「『慰安婦』強制連行―史料 オランダ軍法会議資料×ルポ 私は“日本鬼子”の子」(株式会社金曜日)より抜粋。
『旧オランダ領東印度におけるオランダ人女性に対する売春強制』
外務大臣よりオランダ国会下院議長宛の書簡
デンハーグ 一九九四年一月二四日

私の同僚の厚生・文化大臣にも代わって、オランダ各所の古文書館に所蔵されてある売春強制に関する資料の調査が最近完了しましたので、ここにその調査結果をまとめたものを貴殿にお送り申し上げます。・・・

この書簡の写しは、この報告書を添えて、常任外務委員会並びに常任厚生・文化委員会の書記にも届けます。

さらに、この報告のことは日本政府当局にも通知致しますことをここに申し添えます。

外務大臣 P・H・コーイマンス
(p212・213) 

日本占領下オランダ領東印度におけるオランダ人女性に対する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書調査報告

序論並びに要約
一九九三年八月、外務大臣と厚生・文化大臣は日本占領下オランダ領東印度におけるオランダ人女性に対する強制売春に関する調査を指示した。この調査が指示されたのは、政府公文書保管所に保管されている文書の包括的な目録、並びに情報源を詳しく明示したうえでの分析結果の要約の必要性が痛感されたからであった。(p214)

この調査目的のために、オランダ領東印度での戦犯・利敵協力者に関する調査、起訴、裁判を担当した所轄政府機関によって作成された公文書を対象として調査は進められた。・・・これらの文書は主として証人、被害者、容疑者などに関する陳述書や戦犯ならびに利敵協力者を裁く任にあたったバタビアの臨時軍法会議における数件の判決文(それに関連した文書も含めて)から成る。(p215)

調査結果によれば、オランダ領東印度各地の娼楼にヨーロッパ人女性を送り込むために日本占領軍が実力行使をした事例が数例あった。娼楼で働いたニ〇〇人~三〇〇人のヨーロッパ人女性のうち約六五人は売春を強制されたことが絶対に確実である。以下は調査によって明らかになった事実の概要である。(p216)

●マゲラン
強制売春のもっとも悪名高い事例はマゲランとスマランにおけるヨーロッパ人女性への軍娼楼への連行である。・・・四四年一月二八日、残りの十三人の女性(四人の未婚の少女を含む)はマゲランに連れていかれ、そこで乱暴に検査され、強姦され、売春婦として働くことを強制された。(p228・229)

●スマラン(※白馬事件)
・・・このようにして少なくとも三六人の女性が集められたが、そのうち少なくともニ四人―すなわちハルマヘラ、アンバワラ第六、ならびにアンバワラ第九から連れて行かれた女性たちが、スマランの軍娼楼で売春婦として強制的に働かされた。彼女たちは乱暴に検査され、強姦され、殴られ、そして強制的に日本人の男の相手をさせられた。二人の若い女性は逃げ出そうとしたが、警官につかまり、娼楼に帰された。そのうちの一人は自殺未遂をした。また一人は気が狂った風を装って、精神病院に監禁された。また、一人はスマランの病院で妊娠中絶の処置を受けた。(p230)



このように、公開済み・既知の資料、また米国外の資料には、慰安婦が性奴隷であったことが記されている。IWG報告書はあくまで「米国内の」「未公開文書・機密文書には」ほとんど無かった、と言っているに過ぎない。



【誤解2】「文書は一つも無かった」
 
産経記事では「文書は一点も発見されなかった」とある。これは明白な間違いと言ってよい。記事にも出てくる「追加論文」にはこういう記述がある。
New OSS Documents Relating to “Comfort Women”

There is very little in the new OSS records relating to forced prostitution, with the exception of a few documents that report the kidnapping of women and girls. These include a translation of a 1943 Chinese newspaper describing the Japanese occupation in Singapore that reports Japanese forces had taken four hundred Chinese women. However, one newly released document, a postwar interrogation report of a Japanese officer in Indochina, contains a brief mention that Japanese soldiers may have threatened local women if they did not agree to become prostitutes for Japanese staff officers.(69ページ)


〔訳〕
“慰安婦”に関するOSS(*1)の新しい文書

成人女性及び少女の誘拐を報告するいくつかの文書を例外として、強制売春に関する戦略情報局の新しい記録はほとんど無い。それらは日本のシンガポール占領を描写し日本軍が400人の中国女性を捕まえたと報じる1943年の中国語の新聞の翻訳が含まれる。(ほとんど無いとはいえ)しかし、ある新しく公開された文書、これは戦後にインドシナの日本軍将校を尋問した報告書であるが、そこには日本軍参謀将校のための売春婦となることに同意しなかった場合、日本兵が現地の女性を脅したかもしれないという短い陳述が含まれている。



(*1)OSS Office of Strategic Services 戦略情報局

 

この箇所については今年3月に韓国・聯合ニュースが報じている。
IWGが2006年に発行した「日本戦犯研究報告書」(Researching Japanese War Crimes)によると、約4年間行われた同調査は慰安婦と関連した多くの資料を発見することはできなかったが、植民地における女性と少女の拉致(強制連行)を告発する一部文書を見つけ出した。

日本がシンガポールで400人余りの中国女性を拉致したという1943年の中国メディアの報道や、インドシナで活動していた旧日本軍の将校が現地女性に慰安婦活動をするよう威嚇したという発言内容が含まれていると研究報告書は伝えた。

http://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2014/03/24/0400000000AJP20140324002600882.HTML

そもそも誤解(1)で引用した通り、報告書原文は「The IWG uncovered and released few Asian theatre records」である。”few”つまり殆んど無いということであり、一つも無いという意味ではない。なぜ産経・古森氏は「一点も発見されなかった」と書いたのだろうか。



【誤解3】「米軍は合法な売春と見ていた」をめぐって
 
産経記事にはこうある。
 IWGは米専門家6人による日本部分の追加論文も発表した。論文は慰安婦問題について(1)戦争中、米軍は日本の慰安婦制度を国内で合法だった売春制の延長だとみていた(2)その結果、米軍は慰安婦制度の実態への理解や注意に欠け、特に調査もせず、関連文書が存在しないこととなった-と指摘した。

これを読むと「当時の米軍が十分調査したうえで慰安婦制度を合法だと結論付けた、そしてその後は調査せず関心も持たなかった」と読む人もいるかもしれない。しかし「追加論文」を見ると、IWGは「最初から充分な注意が向けられなかった、最初から理解が不十分だったため合法としてしまった」と言っているようである。
Immediately after the war, American attention focused on the Japanese responsible for the Pearl Harbor attack, those involved in mistreatment of U.S. prisoners of war,and Japanese military and civilian officials implicated in war crimes, including rape(especially of Filipina women) or forced prostitution of Caucasian women. There was also knowledge of the Imperial Japanese Army’s field brothel system, as shown in scattered reports declassified during the 1960s. However, the scope of the brothel network(particularly in China) and the Japanese Army’s official sponsorship of the system were not well understood. Licensed prostitution was legal in prewar Japan, and Allied officials viewed the small part of the overseas system they uncovered as an extension of homeland practices. Prosecuting Japanese soldiers for rape, a notorious crime everywhere the army set foot, took precedence over investigating the circumstances of “comfort women,”who were seen as professional prostitutes, not as unwilling victims coerced into brothels by employees of the Japanese military. For instance, a significant document that linked the Japanese government with the military field brothel system, “Amenities in the Japanese Armed Forces,” was translated in November 1945 by ATIS and declassified in the 1960s.(※19) Although available to the public for years, it received little attention unntil the “comfortwomen” issue focused attention on these wrongdoings in the 1990s.(15ページ)
〔訳〕戦後すぐ、米国の注意は日本の真珠湾攻撃や、米人捕虜への虐待、また強姦(特にフィリピン女性に対する)や白人女性への売春強制を含む戦争犯罪に関与した日本の軍・行政当局者に焦点が当てられていた。同様に、1960年代に機密解除された散発の報告書に見られるとおり、日本帝国軍の戦地売春宿制度についても知識があった。しかしながら、売春宿組織(特に中国における)の規模や、日本軍によるその制度の公的な主催については十分に理解されなかった。免許制の売春は戦前日本では合法であり、連合国当局者は彼らが発見した日本国外の制度の少々の部分について、国内における営業の延長と見なした。日本兵を強姦というあらゆる場所で行なわれた悪名高い犯罪で訴追することが、“慰安婦”の状況を調査することより優先され、彼女たちは日本軍の従業員によって売春宿に強制的に入れられた不本意な犠牲者ではなく、職業売春婦としてとらえられた。例えば、日本政府を軍の戦地売春制度と関連付けた重要な文書である“Amenities in the Japanese Armed Forces,”は1945年11月にATIS(Allied Translator and Interpreter Section 連合国翻訳通訳部)によって(証言が?)翻訳され、1960年代に機密解除された。長年にわたり一般公開されていたにも拘らず、1990年代に“慰安婦”問題がその悪事で注目を集めるまで、その文書はほとんど注目されなかった。
産経記事だけを読んで「当時の米軍は慰安婦制度を合法と見ていた!IWG報告書にそう書いてある!」と声高に叫ぶ人がいるとしたら、それは大きな誤解である。IWGは当時の米軍の認識は不十分だったと否定的に見ているのである。

というわけで今回の産経記事は3点で大きな誤解を招くおそれがある。というかツイッターなどを見ると、実際に大きな誤解を招いている。世間に誤解が流布する典型事例と言っていいだろう。

ちなみにこの記事を書いた産経・古森氏は先月も慰安婦問題で誤解を招く記事を書いている。朝日新聞が「強制連行」を「強制売春」にすり替えた、という誤解参照。



【2015.2.28追記】
IWG報告書に関するねじ曲げともいえる誤解が熱心に続いているが、また新たな誤解も生じているようだ。

【誤解4】「IWG調査は中国系の何とか団体がやらせた」
その例
歴史認識――正論に基づく堂々とした反論を!
2015.02.25
文/幸福実現党・千葉県本部副代表 古川裕三

※IWG報告書…中国系反日団体「抗日連合会」の働きかけにより、米国が07年4月にまとめた「ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班(IWG)」による議会報告書のこと。850万ページのうち14万2千ページが日本の戦争犯罪に関する文書だが、日本の慰安婦に関する戦争犯罪を裏付ける文書は全く発見されなかった。


日本がサンドバッグから脱するとき
『Voice』 2015年3月号
ケント・ギルバート(米カリフォルニア州弁護士・タレント)

いまだに「強制連行された慰安婦が性奴隷にされた」と言い張るような人たちは、IWGThe Nazi War Crimes and Japanese Imperial Government Records Interagency Working Group)の報告書を読めばいい。間違ってはならないのは、IWGの調査はけっして合衆国政府の意向で行なわれたものではなく、米国の抗日華人ロビー団体による圧力のもとに実施されたということです。要するに、日本のアラ探しをするために反日中国人が焚き付けて調査を敢行したのです。日本の戦争犯罪資料を調べるために、米国納税者の約3000万ドルを費やし、移民局やFBI、CIAなど、全米の省庁を巻き込む大調査となりました。

http://ironna.jp/article/958

これらを読むとIWG調査は「反日団体」の働きかけで始まったかのようだが、そうではない。「最終報告」ではIWGの目的をこう述べている。
One of the IWG’s aims was to uncover documentation that would shed light on the extent to which the U.S. Government had knowingly used and protected war criminals for intelligence purposes. Increasing public concern over the U.S. Government’s involvement with WWII Nazi war criminals, combined with growing interest in several related issues such as looted assets, Japanese war crimes, and Nazi war criminals who had become U.S. citizens, reached critical mass in the late 1990s, resulting in passage of the Disclosure Acts. (p11)
http://www.archives.gov/iwg/reports/final-report-2007.pdf
〔訳〕IWGの目的の一つは、米国政府が諜報目的で戦犯をそうと知りつつ使用し保護した範囲に光を当てる文書をあばくことであった。米国政府が第二次大戦のナチ戦犯と関係を有していたことに対する国民の関心の高まりは、(ナチによる)略奪資産や日本の戦争犯罪、そして米国市民となったナチ戦犯のような幾つかの問題への関心の高まりと相まって、1990年代末に臨界に達し、開示法の可決として結実した。

またIWG委員長で国立公文書館長のAllen Weinstein氏は「最終報告」冒頭でこう述べている。
The IWG has now successfully completed the work mandated by the Nazi War Crimes Disclosure Act(P.L.105-246)and the Japanese Imperial Government Disclosure Act(P.L.106-567). Over 8.5 million pages of records related to Japanese and Nazi war crimes have been identified among Federal Government records and opend to the pubric,including certain types of records never before released, such as CIA operational files. The groundbreaking release of these records in no way threatens the nation's security. Rather,it has enhanced public confidence in government transparency.
http://www.archives.gov/iwg/reports/final-report-2007.pdf(5枚目)
〔訳〕IWGはナチ戦争犯罪情報公開法と日本帝国政府開示法により命じられた作業を首尾よく完遂した。CIAの作戦文書のような従来決して公開されなかった類の記録も含め、日本とナチの戦争犯罪に関する850万ページ超の記録が連邦政府の記録の中から確認され、一般公開された。これらの記録の画期的な公開は、国家の安全を少しも脅かすものではない。むしろ、政府の透明性に対する公衆の信頼を強化したのである。

これらの記述を見る限り、どうも反日団体どうこうと関係なく、アメリカ国内の動機で2つの開示法が制定され、それに基づきIWGが設置され調査を行ったようである。IWG調査は1999年にナチ関連分野で始まり、2000年から日本も調査対象となった。
 On January 11, 1999, in accordance with the Nazi War Crimes Disclosure Act (PL 105-246), President Clinton established the Nazi War Criminal Records Interagency Working Group (IWG). ・・・
 On May 23, 2000 Dr. Michael Kurtz, Chair of the Nazi War Criminal Records Interagency Working Group (IWG), announced that the IWG will take steps toward the declassification of records related to Japanese war crimes in the second phase of implementation of the Nazi War Crime Disclosure Act of 1998.

Legal Authorities:

・Public Law 105-246, the Nazi War Crimes Disclosure Act, was signed by President Clinton on October 8, 1998. In accordance with the Act, by Executive Order 13110, the President established the Nazi War Criminal Records Interagency Working Group to locate, inventory, recommend for declassification, and make available to the public all classified Nazi war criminal records, subject to certain specified exceptions.

・In May, 1999, NARA's Office of General Counsel prepared a preliminary analysis of privacy issues related to the Nazi War Crimes Disclosure as guidance to agencies declassifying Nazi war criminal records.

・On October 27, 1999, the IWG submitted its interim report, Implementation of the Nazi War Crimes Disclosure Act. Report to Congress, October 1999.

・On December 6, 2000, as part of the Intelligence Authorization Act for 2001, Congress extended the IWG's life to December 2004 through passage of the Japanese Imperial Government Disclosure Act, P. L. 106-567. This law changed the IWG's name to the Nazi War Crimes and Japanese Imperial Government Records Interagency Working Group and formally recognized the declassification of U. S. Government records related to Japanese war crimes as part of the IWG's mission.

http://www.archives.gov/iwg/about/

〔訳〕
  1999年1月11日、ナチ戦争犯罪情報公開法に従い、クリントン大統領はナチ戦争犯罪記録の省庁間作業班(IWG)を設置した。・・・
  2000年5月23日、IWG委員長のMichael Kurtz博士(*1)は、IWGが1998年ナチ戦争犯罪情報公開法を履行する第二段階において日本の戦争犯罪に関する記録の機密解除に向けて歩みを進めると発表した

法的権限

・1998年10月8日、クリントン大統領がナチ戦争犯罪情報公開法に署名した。その法律に従い、大統領は大統領令13110(*2)により、ナチ戦争犯罪人の記録に関する省庁間作業班を設置した。目的は、一定の特定の例外という条件付で、ナチ戦争犯罪人についての全ての機密記録を突き止め、目録を作成し、機密解除を勧告し、公衆が利用できるようにすること。

・1999年5月、米国立公文書館の法律顧問室は、ナチの戦争犯罪記録を各省庁が機密解除するための手引として、ナチ戦争犯罪情報公開法に付随するプライバシーの問題のための事前分析を作成した。

・1999年10月27日、IWGは中間報告「ナチ戦争犯罪情報公開法履行についての議会報告書1999年10月」を提出した。

2000年12月6日、2001年情報機関授権法の一部として、議会は日本帝国政府開示法を可決しIWG活動期限を2004年12月に延長した。この法律でIWGの名称はナチ戦争犯罪と日本帝国政府の記録に関する省庁間作業班となり、IWGの任務の一部として日本の戦争犯罪に関する政府文書を機密解除することが正式に認められた



(*1)Michael Kurtz (Acting Chair, 1999-2000), NARA(Prefaceのviページ)
Acting Chair 委員長代行 NARA 米国立公文書館
http://www.archives.gov/iwg/reports/final-report-2007.pdf

(*2)大統領令13110は1999年1月11日署名
Executive Order 13110 of January 11, 1999
http://www.gpo.gov/fdsys/pkg/FR-1999-01-14/pdf/99-980.pdf


On February 22, 1999, Samuel Berger, Assistant to the President for National Security Affairs, directed agencies to begin implementing the Nazi War Crimes Disclosure Act.・・・ 

In his December 5, 2000, memorandum, Berger directed agencies to locate records held by the U.S. Government relating to war crimes committed by agents of the Government of Japan during the period 1931–45, although the records themselves could have been created later. The IWG advised agencies to give particular attention to locating any records related to topics of great interest to the public and to historians, particularly materials related to

・Japanese treatment of prisoners of war and civilian internees, including any materials related to forced or slave labor;

・persecution of and atrocities against civilian populations;

・development and use of chemical and biological warfare agents, especially the work of General Ishii, medical experimentation on humans, and Unit 731;

・the so-called “comfort women” program—the Japanese systematic enslavement of women of subject populations for sexual purposes; and

・the U.S. Government decision after the war not to prosecute the Emperor and certain war criminals.(p27)

〔訳〕1999年2月22日、国家安全保障問題担当の大統領補佐官 サミュエル・バーガーは、ナチ戦争犯罪情報公開法の実行を開始するよう各省庁に指示をした。・・・
  2000年12月5日の覚書でバーガー補佐官は、1931-1945年の間に日本政府の配下によってなされた戦争犯罪に関して米政府が所有する記録を探し突き止めるよう各省庁に指示した。IWGは、公衆または歴史家にとって大きな関心事である以下の分野に関連するどんな記録でも探し突き止めるよう、各省庁に特に注意を払うことを助言した

・捕虜兵士または民間人収容者についての日本側の扱い。強制労働もしくは奴隷労働に関するいかなる資料をも含めて

・一般市民に対する迫害と残虐行為

・化学生物兵器の開発と使用、特に石井中将の業務、人体に対する医学実験、そして731部隊

いわゆる“慰安婦”計画―従属民(族)の女性に対する性的な目的での日本側の組織的な奴隷化、そして

・天皇やいくらかの戦犯を訴追しないという戦後の米政府の決定



そして「IWG委員長代行のスティーブン・ガーフィンケル氏」が反日団体とやらと接触を持ったのは、「最終報告」によると2001年のようである。以下その団体との接触に言及した箇所を長めに抜粋してみるが、これを読んで「反日団体が調査をやらせた」という解釈が出てくるだろうか。
Whatever our successes, any enterprise as ambitious and untested as the one undertaken by the IWG is certain to have its disappointments. Among the disappointed will be those who had hoped for a voluminous release of U.S. records relating to Japanese war crimes. My understanding of the depth of feeling surrounding this issue changed dramatically in 2001, when I spoke to a meeting of the Global Alliance for Preserving the History of World War II in Asia. The Global Alliance is a federation of organizations and individuals from many different countries who share a single goal:to tell the world about the horrors that took place in Asia in conjunction with the occupation forces of the  Japanese Imperial Government. Until my conversations during that meeting with many committed individuals from the United States, Canada,China, Korea, the Philippines, Japan, and elsewhere, I did not fully appreciate the concern of millions of survivors and their families, friends, and associates that this story is virtually untold. Many people around the world had hoped that the IWG would unearth records that would help them document Japanese atrocities.

To these people, I state unequivocally that the IWG was diligent and thorough in its search for relevant records about war crimes in Asia. The IWG uncovered and released few Asian theatre records because few such U.S. records remained classified. Unclassified records were not under IWG jurisdiction.To address any concerns that may arise relating to the dearth of documents released under the JIGDA, we refer readers to publications that document the capture, exploitation, and return of Japanese records from World War II.

NARA archivists attest that the real problem with Japanese documents from World War II is not that they are few in number, but that they are largelyunderused by researchers. To encourage the full review of these records, the IWG published Researching Japanese War Crimes: Introductory Essays.With this volume, we hope to expose the interested public to the breadth of previously declassified or unclassified records within the National Archives that bear on these subjects and that remain to be fully exploited by scholars, journalists, and other researchers.(略)(Prefaceのxii・xiiiページ)
http://www.archives.gov/iwg/reports/final-report-2007.pdf

〔訳〕我々がどれほどのことを成し遂げたにしても、IWGが担当したような意欲的かつ未だかつてない企ては、必ず失望をももたらすものだ。失望した人の中には、日本の戦争犯罪に関する米国の記録の膨大な量の発表を望んでいた人たちがいるだろう。この問題を巡る人々の思いの深さについての私の理解は、2001年、アジアで世界抗日戦争史実維護連合会の会合で話をした時に、劇的に変化した。世界連合会は、多様な国から来て一つの目標―日本帝国政府の占領軍に関連してアジアで起きた恐怖を世界に知らせる―を共有している団体個人の連合体だ。その会合で米国、カナダ、中国、韓国、フィリピン、日本、その他いろんな地域から集まり協力しあっている個人たちと会話するまで、私は生存者やその家族、友人、仲間たち数百万人がもつ、この(日本軍がやったことについての)物語がほとんど語られないことへの懸念を十分に評価していなかった。世界中の多くの人々が、日本軍の蛮行を証明するのに役立つ記録をIWGが発掘することを望んだ。

これらの人々に対して、私は明確に述べておくが、IWGはアジアにおける戦争犯罪についての関連記録の調査において勤勉かつ徹底的であった。IWGはアジア戦域の記録をほとんど発見・発表しなかったが、そのような米国の記録で機密扱いのままの物がほとんど無いためである。機密でない記録はIWGの管轄ではなかった。日本帝国政府開示法の下で公開された記録が少ないことで生じるかもしれないあらゆる懸念に対処するために、我々は読者に、第二次大戦の日本に関する記録からの収集、発見、報告を採録した発行物を提供する。

米国立公文書館の専門家たちは、第二次大戦の日本の記録についての本当の問題点は、それが数において少数であることではなく、大部分が調査者らに活用されていない状態であることだと証言する。これらの記録の十全な吟味を促すために、IWGは「Researching Japanese War Crimes: Introductory Essays」を発行した。この冊子で、我々はこの問題に関心のある一般国民が、これらのテーマに関連しかつ学者、ジャーナリストやその他調査者によりまだ充分に活用されないでいる、国立公文書館に存在する過去に機密解除されたあるいは機密指定されていない幅広い文書に触れることを希望する。(略)



※Steven Garfinkel (Acting Chair, 2000-2006), NARA(Prefaceのviページ)
Acting Chair 委員長代行   NARA 米国立公文書館
http://www.archives.gov/iwg/reports/final-report-2007.pdf

さて、以上から時系列は
1998年 10月 ナチ戦争犯罪情報公開法成立

1999年   1月 クリントン大統領が大統領令署名、IWG設置。当時の名称「ナチ戦争犯罪記録の省庁間作業班」
  2月 バーガー大統領補佐官が各省庁に公開法の実行指示
  5月 国立公文書館法律顧問室が機密解除手引作成
10月 IWGが中間報告

2000年 5月 IWGが日本に関する文書の機密解除に向けて活動を開始すると発表 
12月 大統領補佐官が日本の戦争犯罪に関する文書の調査を各省庁に指示。
日本帝国政府開示法成立。IWGの名称が「ナチ戦争犯罪と日本帝国政府の記録に関する省庁間作業班」に変更。IWGが5つの重点調査項目を各省庁に提示。うち一つが慰安婦。

2001年 IWG委員長代行が何とか団体と接触
 
 
ここまで見てくると、IWG報告書を「『抗日連合会』の働きかけにより、米国が07年4月にまとめた」と言うのは正確ではないと言えそうだ。IWG委員長代行が抗日連合会と接触する前からIWG調査は始まっていたし、また日本関係文書の機密解除に向けた動きも始まっていたのである。そもそもIWG調査が反日団体の要請なら、なぜナチについての立法・調査を最初にやるのだろうか。日本だけでいいだろう。


むしろIWG報告書は、その何とか団体とは別の、あるとても有名な団体のロビー活動を挙げている。
The Simon Wiesenthal Center lobbied Attorney General Janet Reno and the Pentagon for the release of U.S. documents concerning amnesties granted to Japanese war criminals, including amnesties granted to supervisors of Japan’s biological and chemical warfare program in exchange for the data obtained from experiments conducted on humans in the infamous Unit 731, Japan’s biological warfare unit. (p21)
http://www.archives.gov/iwg/reports/final-report-2007.pdf 
〔訳〕サイモン・ウィーゼンタール・センターは、悪名高い生物戦部隊731部隊の人体実験で得られたデータと引き換えに日本の生物化学戦計画の監督者たちに与えられた恩赦に関する記録を公開するように、ジャネット・レノ司法長官にロビー活動を行った。



(参考1)
以下繰返される誤解記事について指摘していく。

【河村直哉の国論】
慰安婦強制連行は虚構…米国人ジャーナリスト「韓国は中国の操り人形」 中国オウンゴール、米公文書に証拠なし
2015.1.30 15:00

ヨン氏は2007年にまとめられた「ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班(IWG)米国議会あて最終報告」など、さまざまな資料を調査。IWGは2000年に始まり(*1)、アメリカ各省庁の文書850万ページが対象になった。調査するよう働きかけたのは、在米の反日的な中国系組織「世界抗日戦争史実維護連合会」(*2)。ところが慰安婦の「奴隷化」を裏付けるような文書は一つも見つからなかった(*)

http://www.sankei.com/west/news/150130/wst1501300008-n1.html
(*1)IWG調査は1999年開始
(*2)誤解4
(*3)誤解1、誤解2

世界初・独占インタビュー アメリカ人ジャーナリストが徹底検証 「慰安婦『強制連行』はつくり話だ」 - 戦後70年日本の誇りを取り戻そう
2014.12.24
アメリカ人ジャーナリストが徹底検証
「慰安婦『強制連行』はつくり話だ」

アメリカで、「慰安婦の強制連行はウソだ」と結論づけるジャーナリストが現われ、注目を浴びている。今回本誌は、そのマイケル・ヨン氏に独占取材。世界で初めてのロングインタビューを紹介する。

(編集部 中原一隆)

だが、政府を挙げて取り組んだこの調査でも、日本軍が慰安婦を強制連行したことを示す証拠は何一つ見つけられなかった(*1)。ヨン氏によると、このレポートの存在は、米国内でも知られてこなかったという。

(*1)誤解2

【痛快!テキサス親父】マイケル・ヨン氏が慰安婦問題の真実を告発 韓国の主張は裏目に出るのでは… (1/2ページ)
2015.02.13

作業班の調査対象となったのは、米陸軍やOSS(戦略諜報局)、CIA(中央情報局)、FBI(連邦捜査局)などの未公開や秘密の公式文書で計850万ページ。この中に、日本の慰安婦にかかわる戦争犯罪や、韓国側が強弁する「女性の組織的な奴隷化」を裏づける文書は、何と1点も発見されなかったんだ(*1)

(*1)誤解2

「慰安婦“強制連行説”は論理的でない。朝日の記事などは歴史修正主義」米国人ジャーナリスト マイケル・ヨン氏に聞く
2015.2.23 11:30

【用語解説】IWG報告書 米国が2007年4月まで8年間かけてまとめた「ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班(IWG)」による議会報告書。国防総省、国務省、中央情報局(CIA)、連邦捜査局(FBI)などの未公開の公式文書を点検したもので調査対象の文書は計850万ページに及ぶ。そのうち14万2千ページが日本の戦争犯罪に関わる文書だったが、日本の慰安婦に関する戦争犯罪や「女性の組織的奴隷化」の主張を裏付ける文書は発見されなかった(*1)

(*1)誤解2

<特別対談>慰安婦問題はフィクションだ
2015年01月23日 公開
マイケル・ヨン(ジャーナリスト)×古森義久(産経新聞ワシントン駐在客員特派員)
《『Voice』2015年2月号より》

2007年に公表されたIWG(ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班)のアメリカ議会宛て最終報告に明記されているように、7年近くかけて約3000万ドルをつぎ込んだ調査の結果、「慰安婦問題の犯罪性や性的奴隷化の証拠はどこにもない」旨がアメリカ議会にも提出されています(*1)。「日本軍が20万人のアジア女性を強制連行して性的奴隷にした」という主張はまったく根も葉もない幻だったのです。

http://shuchi.php.co.jp/article/2172
(*1)誤解1、誤解2

井本省吾氏のブログ「鎌倉橋残日録 ~ 井本省吾のOB記者日誌」2014年12月29日の記事

米国政府の各関連省庁や軍部が7年がかりで大規模な調査したもので、
狙いは「日本軍の慰安婦に関する戦争犯罪や女性の組織的な奴隷化に関連する文書」の発掘にあった。
だが、それを裏づける政府や軍の文書は1つも発見されなかった(*1)ことが明らかになったのだ。

調査は日本の戦争犯罪に関する14万ページもの米側公式記録を7年がかりでしらみつぶしに調べる大掛かりなものだったという。
だが、14万ページの中に、慰安婦問題に関する犯罪性や強制性に触れた資料は1点もなかった(*2)

それなら、きちんと発表するのがスジだと思うが、調査を担当した米幹部は日本の性奴隷の証拠を探すのが目的だったので、結果に「失望」したと表明しており、発表には消極的だった様子がうかがえる。
(*1)誤解1
(*2)誤解1



(参考2)
IWG報告書の「3. Background of the Acts(開示法の背景)」 から「Japan Under Scrutiny(注視される日本)」の全文と訳。

Japan Under Scrutiny
Public interest in Japanese war crimes arose intermittently in the postwar period  as the stories of victims received public notice as a result of historical and popular studies and media attention. Books such as the late Sheldon Harris’ 1994 Factories of Death: Japanese Biological Warfare 1932-1945 and the American Cover-up and the late Iris Chang’s 1997 best seller, Rape of Nanking, helped give the subject visibility. The The earliest groups to receive attention were American POWs and civilian internees who made claims under the War Claims Act after its passage in 1948. However, mistreated POWs, sex slaves (the so-called “comfort women”), civilian internees, and forced laborers remained dissatisfied with the extent of compensation—if any—for their suffering. Even more of an irritant to these groups, however, has been the failure of the Japanese Government to apologize fully for its wartime behavior with regard to acts of cruelty such as harsh forced labor, conditions aboard the POW transports known as “hell ships,” and the criminal brutality of the Bataan Death March. Victims have repeatedly called for redress, citing as precedent settlements in the late 1990s between victims of Nazi looting and the German Government and Swiss banks.

In the 1990s, no fewer than 16 measures dealing with Japanese war crimes were inttroduced〔ママ〕 in the Congress in attempts to secure some sort of redress for victims. For instance, in 1997 a joint resolution was introduced in Congress that expressed a number of groups’ frustration with the stance of the United States and Japanese governments with respect to Japanese accountability for war crimes committed by Imperial Japan. House Concurrent Resolution 126 sought to express the sense of Congress concerning war crimes committed by the Japanese military during World War II. After listing particular offenses, characterized as “atrocious crimes against humanity,” the resolution called on Japan to

(1) formally issue a clear and unambiguous apology for the atrocious war crimes committed by the Japanese military during World War II; and

(2) immediately pay reparations to the victims of those crimes, including United States military and civilian prisoners of war, people of Guam who were subjected to violence and imprisonment, survivors of the “Rape of Nanjing” from December, 1937, until February, 1938, and the women who were forced into sexual slavery and known by the Japanese military as “comfort women.”

Although not passed, the resolution recognized the longstanding frustration of victims and registered dissatisfaction with the Government’s position that American lawsuits against Japan and Japanese companies over war crimes were precluded by the 1951 Peace Treaty between the United States and Japan, despite side agreements providing Americans with treatment comparable to that of compensated victims in other countries. The movement to call Japan to account stemmed in part from dissatisfaction with perceived postwar leniency toward Japan and Japanese war criminals, a leniency that was part of the effort to get that country  firmly in the American camp during the Cold War. 

By February 2000, more than a dozen class-action lawsuits had been filed in the United States against Japanese corporations by former Allied prisoners of war, civilian internees, and Asian slave laborers. Additional suits were filed and in preparation for Japanese courts seeking redress for “comfort women,” slave laborers, and other victims of Japanese crimes, all of whom demanded a Japanese apology and compensation from Japanese courts. The Simon Wiesenthal Center lobbied Attorney General Janet Reno and the Pentagon for the release of U.S.documents concerning amnesties granted to Japanese war criminals, including amnesties granted to supervisors of Japan’s biological and chemical warfare program in exchange for the data obtained from experiments conducted on humans in the infamous Unit 731, Japan’s biological warfare unit. (p20・21)


〔訳〕
注視される日本
戦後、歴史分野で人気のある研究やメディアによる注目の結果、被害者の物語が公衆の耳目を集めるようになり、日本の戦争犯罪への一般の関心は断続的に高まった。故シェルダン・ハリスの1994年刊行「死の工場 日本の生物兵器1932-1945と米国による隠蔽」や故アイリス・チャンの1997年のベストセラー「レイプ・オブ・南京」のような本は、このテーマが人々の視界に入ることを助けた。人々の関心を引いた最初期の対象は、1948年戦争請求法の成立後に要求を行った米国人捕虜と民間人抑留者であった。しかし、虐待された捕虜や性奴隷(いわゆる“慰安婦”)、民間人抑留者、そして強制労働者たちは、彼らの苦痛に対する補償-もしあったとしても-の程度に不満なままだった。しかしこれらの人々をより一層刺激したのは、過酷な強制労働や、“ヘル・シップ”として知られる捕虜輸送の船上の状態、バターン死の行進の犯罪的な野蛮さ、といった戦時中の振舞いを充分に謝罪することについての日本政府の怠慢だった。被害者たちは、1990年代末のナチ略奪の被害者とドイツ政府、スイス銀行の間での先例となる調停を引用し、繰返し補償を求めた。

1990年代に、犠牲者への何らかの補償を獲得する試みとして、日本の戦争犯罪を扱う16もの法案が議会に提出された。例えば1997年には、日本帝国政府によりなされた戦争犯罪についての日本の責任に関する米国と日本の政府の姿勢に対して、多くの人々に不満があることを表明する両院合同決議案が議会に提出された。両院一致決議案126は、第二次大戦中の日本軍によりなされた戦争犯罪に関して議会の認識を表明しようとした。“人道に対する凶悪犯罪”とみなされる個々の犯罪を列挙したあとで、この決議案が日本に対し要求したのは、

(1) 第二次大戦中に日本軍により為された凶悪な戦争犯罪に対する、明確で曖昧さの無い謝罪を公式に行うこと

(2)それらの犯罪の被害者に対し、早急に賠償を支払うこと。米軍や民間人の捕虜、暴力と拘禁をこうむったグアムの人々、1937年12月から1938年2月にかけての“レイプ・オブ・南京”の生存者、そして日本軍では“慰安婦”として知られていた性奴隷状態を強いられた女性達を含めて。

可決されなかったけれども、この決議案は被害者たちの長年の不満を認知するものであったし、また戦争犯罪に関して日本国と日本企業に対して米国内で訴訟を起こすことが、1951年の日米間の平和条約により、補償を受けた他国の被害者と同等の扱いを米国人に与える付帯決議(*1)にも拘らず、(訴訟が)不可能とされた、とする米国政府の姿勢への不満を表明するものだった。日本が責任を取ることを求めるこれらの動きは、ある部分は日本国と日本の戦犯への戦後の寛大さ、冷戦期にその国(日本)を米国陣営に確実に入れておくための努力の一部としての寛大さ、について知覚したことに伴う不満に由来する。

2000年2月までに、日本企業に対する12を超える集団訴訟が、元連合国の捕虜、民間人抑留者、そしてアジアの奴隷労働者によって米国内で起こされた。更なる訴訟が、“慰安婦”、奴隷労働者、そして日本の犯罪の他の犠牲者たちにより、日本の法廷で起こされそして準備中であったが、彼らはみな日本の謝罪と賠償を司法の場に求めた。サイモン・ウィーゼンタール・センターは、悪名高い生物戦部隊731部隊の人体実験で得られたデータと引き換えに日本の生物化学戦計画の監督者たちに与えられた恩赦に関する記録を公開するように、ジャネット・レノ司法長官にロビー活動を行った。


(*1)そういう決議があったとは知らない。こちらの誤訳か。
 



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